自立的私の思想

子安宣邦氏は北京大学講演を準備なさっているが、今日の講義のなかで、近代主義民主化永久革命であるというお話がでた。それはそれですごいものだとおもう。しかしこの時代はグローバル資本主義ナショナリズムの終わりにあるが、無関係に、近代主義をやっていくことに限界はないか、この点についてもっと議論があってもいいだろう。ポストモダンという70年代と80年代に近代主義批判が展開されたとき、国家から自立した人民people の方向をもって、国家と対等である自立的私を確立できるかという課題があった。近代を批判する思想、思想史をもつことがその条件だとおもっていた。脱近代の思想と思想史は文学論を通じて展開したことが重要で、国家は自己を正当化するために文学(例えば『万葉集』)をもつのだから、対抗できるものと考えていた。今日の講義で知ったことは、「それぞれの近代」を方法としてもたなければ、「世界史的な近代」に埋没してしまうこと、埋没してしまってはcogito ergo sum の近代を批判的に相対化する思想と思想史をもつこと、文学を読むことは難しいということ。だからわたしのようなものはもつこともよむことも全然できていない。何とか自立的に学ぶつもりも、ほんとうに学んでいるといえるのか?何も達成できないで終わるだろうが、これからもどうせほかのこともできないので、後悔せずに、video ergo sum でやってきて破産した半-自立的私の過程のなかでくたばろうとおもっている。