グローバル資本主義の問題をどう読むか ー子安氏と柄谷氏

‪西欧列強のアジア進出の時代に帝国(清朝)が植民地化されていく歴史の中で、日本近代国家が方向づけらて、明治維新から大正に確立した帝国主義が展開していくのは昭和の全体主義に向かってである。この歴史のことを考えるとき、「大正デモクラシーに帰れ」といっても、これは、グローバル資本主義帝国主義的言説に対する批判を為していないことがわかる。21世紀の帝国論は、グローバル資本主義がもたらす問題(貧富の格差)を解決するために理念化されるのだけれど、帝国を帝国主義に還元しない。柄谷氏の互酬性における高度な次元の止揚である社会主義の統整的理念をいう言説も、「帝国にかえれ」ということによって、カントから語りはじめたその画期的な視点を台無しにしてしまうと言わざるを得ない。帝国はグローバル資本主義の分割である。グローバル資本主義の分割においては、それぞれの帝国の内部にグローバル資本主義が成り立っているのだ。柄谷氏は世界史の構造と彼が読んでいるものに絡みとられる。柄谷氏の議論が意味をもつのは、構造がもたらす袋小路を解決するために再びその構造に依存できないという倫理的問題を考えることによってである。問題は、アジアにおいて要請される、国家の公を超える天下の公を自立的<私>がもつかどうかにかかっているのではないか。柄谷氏がここから語りはじめた画期的視点を最後まで貫くことができなかったカントだけではない、子安氏が読んだ17世紀の仁斎も、国家の公を超える天下の公の意義を考えた。ここで、実体化されたアジアあるいは実体化された江戸から現在を批判することが言われているのではない。子安氏がいう「方法としてのアジア」と「方法としての江戸」は、外部の思考を成り立たせる批判的視点である。「グローバルデモクラシー」(子安氏)の視野から、この方法論的概念をもっと深めたい。他者というのは明治維新の近代を批判するためにわれわれの思考を可能にしてくれる他者であるが、その他者はあたかも明治維新の近代の自画像をかくという問題を持ちはじめているかもしれない。