方法としてのオーストラリア

わたしは「きコクしじょ」らしいのだけれど、どうも「日本人」が見上げる他者ヨーロッパのフランス帰りの連中とちがうようだ。見下げる他者アジアとも違って、わたしが4年間いたのは見下げられる半ヨーロッパのオーストラリアである。この時代のオーストラリアは白豪主義を否定しまたアボリジニーの権利をみとめはじめた。「脱欧入亜」のマルチカルチュラリズムの時代である。しかしオーストラリアは対抗アイデンティティとしては弱かったので、「方法としてのオーストラリア」を築くまえに消滅してしまったかもしれない。アイルランドとイギリスへ行ってもわたしのオーストラリアは復興しなかった。だからということもあるのか、今は「方法としての江戸」「方法としてのアジア」に取り組んでいるような気がする。結局、言語が人生を命令してくるのだから、(逆ではあり得ない)、奴隷としてくたばるこのわたしがせいぜいできることといったら、方法としてある、言語のなかのX(映像)を避難所として見つけだすことではないかと思っている。シドニー時代の大家のユダヤ人女性に大切にされていたからということもあるかもしれないが、はっきりとわからないところである