MEMO

香港のデモは香港のデモ以上の意味をもっている。2014年のひまわり学生運動と雨傘運動。民主アジアのあり方を考えようと呼びかけているものではないか

安倍チャンネル化しているこの国のメディアは、香港デモを「暴徒化した」と簡単に伝えてしまうまでに常に権力の側から見る見方しかなくなった自分の姿が見えなくなっているのでは?

グローバル資本主義大国主義から距離をもって自立するという、天下の公をめざす民主アジアのカレンダーは、西暦2019年、向日葵運動五年、雨傘運動五年を告げる。この際、時代遅れのナショナリズムを重ね合わせた時代錯誤の令和の名はこっそり安倍首相のもとに返して、わたしはこの三つでいこう

‪どうして、デモクラシーをもとめる市民の蜂起をかくも簡単に「暴徒化」と指示してしまうのか?意味不明である。それとも、「暴徒化」とは、マルクス主義をゼロにしてしまう「暴徒化」のことで、理性そのものを否定するほど何もかもゼロとなってしまわないかという「暴徒化」とかんがえているのか?だが寧ろ逆ではないか。「暴徒化」と指示する隅々まで監視する統合のあり方こそが、思考の柔軟性を与える理性自身を否定しているからである。暴力はゆるされない。暴力が正当化される場合は、言論によっては覆させない絶対の権威に抵抗するときに限ってのことだ。これにたいする権力の行使は21世紀の全体主義をなすものとおもう。‬日本だけがやっている意味不明な「暴徒化」の指示にこだわることは新しい全体主義の部分を構成する超越化と言わざるをえない

『真面目が肝心』はアイルランドで最初に見た芝居でした。3、4回は観ましたかね。ワイルドのことだから「アーネスト」に反語的意味があるのに、『真面目が肝心』の「真面目」は「真面目」であるかぎりオチないということですね。だからこそダブリンに来ていた演劇研究者たちはアイルランド公演のオチのない『真面目が肝心』の「アーネスト」にびっくりしていたのでしょうが、わたしは一緒に観劇した彼らがびっくりしているのでびっくりしました(笑) 。どうも、イギリス人が期待する形で「アイルランド人」を演じるという意味で「真面目」なふりをしてはアイルランド人は駄目なんだ、大英帝国から自立できないのだというナショナルアイデンティティの問題意識がアイルランドからワイルドをどうみるかという視点の変化とともに、芝居の解釈を再構成していたようです。しかしこれはポストコロニアルの研究がなかった人たちにはついていけなかったのかもしれません、「アーネスト」はアイルランドの名前だとしたら....ワイルドは「真面目が肝心」という教訓を語ることを2流、3流と軽蔑していましたが、だからこそ言説「真面目が肝心」のなかでそれとは別の見方をつくりだすために、「真面目が肝心」が要請されるということです、これは、反復することによって破壊していく、アイロニーでしょう。

‪今日人間の観念、有限性の観念を超えることがいわれる。人間の有限性としての観念は、『論語』をヒューマニズム的に解釈するようなオリエンタル学の言説と結びついている。そうならば、オリエンタル学の真理を語る言説も終わるべきなのだ。17世紀が注目されるのは国家がなかった時代だから。ナショナリズムのようなものは異常とされたから、天下の公と人についてよく考えることができたのではないか。今日ならばそれは民主アジアと市民である(結局は外部からの思考が成り立たなくなる一国民主主義の「市民社会」ではなくて)。17世紀の思想は有限性を超えるのは「学び」によってであると考えた。「学」とは何か?それは自発性にかかわることとおもうが、まだわたしははっきりわかっていない。‬考えだすとねむれない...

‪「近代の超克」について考えていたら、なーんかワールドカップのことをかんがえてしまった。アイルランドのサッカーは負けた姿がカッコいいと評判である。それは勝ち負けの基準からの超越?。政治的に、永久に行われる被支配者の反抗を表象させるからではないか。スポーツというのは映画のように自己に都合よく世界を変える視線を以って成り立つ。この視線においては、ナショナルチームのメンバーがイギリスで活躍している殆どアイルランドと無関係な選手から成り立っていることは問題とはならない。敢えて外部の敗者を世界の中心として構成することによってポストコロニアル世界からの脱出を試みるしたたかさもあるのだが、スポーツと一体となっているナショナリズムに絡みとられると袋小路である‬...

18世紀はすごい。この強力な理屈に反論するためには... 「字音によりていへる字義は强たる事おほしなつむべからずまして此方の言を解するに文字の註ばかりを見て心得るは大なるひがこと也言の意と文字の意と相かなふやいなやを考て後に文字の義を考ふべしそれも言の意だにもあきらかならば文字は借物なれば深くいふべき事にもあらず」ー本居宣長『石上私淑言』

「漢字は借り物」だと繰り返すナショナリストはまるで表も裏もあると考えているようだ。漢字の裏側にかならず大和言葉がある。そこに大和民族の起源があると。だが驚くほどのことではないが、裏側も表と同じである。むしろ裏を表と言わねばならない。外部からみると、裏側に隠されているが明白に漢字があるという外部の思考が要請される。「漢字は借り物である」とはいえない。子安氏が指摘するように、あくまで、古代人の心を明らかにするために古言を知るというかぎりにおいて大和言葉があったとしたらどういうことが言えるかという方法上の想定しかできない。子安氏はいう。だからといって漢字を何か絶対者の如く考えようと言っているのではない。もし言語(漢字)支配者が日本におけるマイナーな表と裏を巡る漢字論の言説を理解したら面白いだろう。言語(漢字)支配者の中国が 17世紀徳川日本の漢字仮名による注釈のあり方に関心をもつとき何が起きるかと子安氏は語っていた。きっと新しい知が起きると思う。今週の土曜日の子安氏の講座が楽しみである。『朱子語類』の「鬼神論」の読みも、江戸時代の知識人たちがどう読んだかを考えながら行っている。

歴史をみると、軍国主義をともわずに全体主義が成り立つことがあるし、全体主義をともわない軍国主義が成りたつこともある。問題は軍国主義の方向と全体主義の方向とが一致したときである。なにが起きるかをキューブリック博士の異常な愛情」は教えているとおもう ‪

‪朝六時、ロビーにいるとお別れの挨拶にやってきたフランス猫 ‪「あなた、動物に好かれるでしょう?」‬ ‪「うん、どうしてかな」‬ ‪「隙がいっぱいあるからよ」‬ ‪(なにが言いたいんだ!)‬ ‪

‪旅に出ると、わたしのような者でも、日本を外側からみることができるチャンスがあるものなのでしょうか。戦後民主主義の言語の拡散に人間が現れた後に、言語が集中することになったと言ってもいいと思います。17世紀の仁斎論語、20世紀の日本ナショナリズム批判、12世紀朱子学鬼神論の読みがそういう言語の集中と思います。ヒューマニズムであれ近代の超克の「人民」であれ人間の近代が消失すると共に、間違いをおそれずに言うと、21世紀に、包摂できぬ言語の端に外部の思考が成立してきた可能性があるのです。今日民主アジアから投射されてきているイメージの事件とはなにでしょうか?イメージの力が消滅してしまう前に、明治維新の近代とは別の新しい普遍主義がそれを思考することができかということだと考えようとおもうのですがね ‪

‪画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描く処の主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家彼自身であるということになるのである。言語の場合においても同様で、「私が読んだ」といった時の「私」は、主体そのものではなく、主体の客体化されたものであり、「わたしが読んだ」という表現をなすものが主体となるのである。主体は「私」という語によって表現されているのでなく、若し主体の表現それ自体を知ろうとするならば、「わたしが読んだ」全体を主体的表現と考えなくてはならないのである。‬ ‪ー時枝誠記国語学原論』‬ ‪

‪詞が辞に転換するということは、表現性の転換でなければならないのである。上に述べた様に、非存在を概念的に表現した時は詞であり、非存在を認めることの表現が辞となるのである。詞より辞へは連続的に移るのではなく、客体の概念的表現が、主体の直接的表現に裏返ることによって辞が成立すると考えなければならない。詞としての転換は、何処までも包まれるものとしての領域を出ないが、詞が辞に転換することによって始めて包まれるものより包むものに転ずるのである。対応の原理とは、以上のごとき表に対する裏の関係をいうのである。‬ ‪ー時枝誠記国語学原論』より‬ ‪

‪巻かれたら巻き返せ、包まれるものより包むものに転じよ。このとき、包まれるものを否定しきったら、包むものしか存在しない。それでは何もかもゼロとなってしまう。たえず包まれるもの(近代)より包むものに転じることが大切ではないか。包むものとなるためには自ら最高のものになる自立的努力が必要とされる ‪