漢字論

‪漢字は他の文化を盗む為に必要だったと考えてみる。盗んだ痕跡は残る。寧ろ神話に他の声が介入してくるように漢字で盗まなければならなかった。ナショナリストが漢字に依拠できるオリジナリティーがないと嘆くときは、映画を観て「英国の空は美しい」と言う人と似ている。色の美しさはフィルム感度が作るのに‬。映画館で見ていたのだから、投射の働き(思考方法)を考えなければいいのであって、そうではなくて、英国の空(思考実体)をたたえるのはなんと愚かだろうか。‪漢字とそれを自分のものとしてもとうとして読む仮名で構成されるエクリチュールこそが投射ではないか。



‪西欧近代しかないとする支配的見方はどこで成り立つのだろうか?それはアジアは独自の言語学がないとするヨーロッパの言説をアジアが受け入れることによっても成り立つ。サイードが指摘したように、支配的見方のなかでそれと異なる見方をするためにはアジア人達が行った言語の分析を学んで、それが文化論的にどういう展開をもったかを知ること。例えば漢字論の言説のリゾーム的運動をアジア主義(竹内)とともに理念的に考えていく必要があるのではないか‬と思う。先週の講座で子安先生は9月以降の予定を話されたとき、津田左右吉が漢字をネガティヴにみていたがそれについてもかんがえたいという。‪



漢字論の言説のイメージは自らの内部におけるものにみいだせるかどうか?そのイメージが、コピー(漢字は借り物である)とかオリジナル(漢字は起源がある)とかいう言説の中からその内部に向かっていくとき、こだわりを以って内部が思考実体(「国語)となってしまうところで、イメージは「不可避の他者」がみる外部の視点-思考方法-を失なう危険あり