フーコはいかに「言説」を語ったか

‪フーコはいかに「言説」を語ったか(No.1)‬


‪16世紀の言語(ランガージュ)は、自己にたいして、たえざる注釈という立場をとっていた。ところでこの注釈は、何らかの言語(ランガージュ)がそこにあるー何らかの言語(ランガージュ)が、それを語らせようとして用いられる言説(ディスクール)に先だって沈黙のうちに実在するーという条件ではじめておこなわれるものにほかならない。注釈を加えるにはテクストの絶対的先在が必要なのだ。逆にまた、世界が標識ち語とのからみあいだとすれば、注釈という形態をとらずにどうしてそれについて語れるだろうか?ところが古典主義時代以降、言語(ランガージュ)は、表象の内部、表象のなかに空洞を設ける表象それ自体の二重化のうちに展開される。爾後、第一義的<テクスト>は消滅し、それとともに、自らの無言の存在(エートル)を物のなかに刻みつけていた語の尽きることのない基盤全体も消滅する。表象だけが残り、それを顕現する言語記号(シーニュ・ヴェルベル)のなかにくりひろげられ、そのことによって<言説>(ディスクール)となるのである。‬

‪ー 『言葉と物』第四章 語ること‬