Storyteller


No.1

隣国を信頼して戦争しないという誓いはどうしたのですか?誓いを実現するためには全力で外交しなければいけないでしょう。ホホー、中々二人以上にならんのですけど、「ふくろう猫共和国」から、国交断絶のノリでワイワイいっているようならば「ホワイト日本」を除外することにきめましたニャ。なにか?


No.2

‪少女像といえば、二、三十分かんがえても芝居の感想の言葉が中々でてこなかったときに、静かに隣に座っていた人にちょっと意見をきいてみようと話かけたら、少女像だった‬...

「ファッシズム前夜というより当夜のようだ。ファッシズムは国民の敵を作り出す。恐ろしいことは国民の中にも敵を作り出すことだ。気付いたときにはもう物をいえなくなる。」という子安先生の証言を読んだ。

「国民の心」といわれるものの見方とは、安倍晋三とおなじものの見方のこと。これを踏みつけてこない芸術は意味がある芸術といえるだろうか?



No.3

ハンナ・アーレントは亡命中に私はドイツ語を喋るがドイツ人である必然はないと語ったという。問題は、日本語を喋るが日本人でなければならないのか?近代は、前近代である日本人に対する永久革命を行うことによってこの問題を解決できると考えているようが、ほんとうに前近代をゼロしてしまっていいの?明治維新の近代を批判的に相対化できる視点をもった大切な思想形成もあったのだし。近代の「真」の始まりとされる始まりも恣意的である。また革命である以上、権力をとる支配者が変わるだけではないだろうか。それよりは国内でもいいから-その場所がわからないが- 亡命した方がいいし、外部への脱出の方法を一生懸命かんがえるし、及び腰だがその外部から何とか逆らってやりたいとかんがえるのだけれどね。

近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象をコントロールできぬことをつねに怖れる。「日本人の国民の心」というずっと言われてきた言説を恰も初めて言われたように受け入れるとき、この外部への脱出の方法を一生懸命かんがえないかぎり、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっているというか。



No.4

‪「表現の不自由」と言われますが、わたしの考えでは、表現する自由はいくらでもあるようにおもいます。問題は、表現されているものをみる多様な見方がないことではないでしょうか。多様な見方がないと表現が成り立ちません。展示に反対するひとたちが少女像からは「反日」しか感じられないことは大変ショックです。ゴダールの言葉ですが<感化の大きな運動>がコミュニケーションにおいて大切だという意味で、わたしならば、「感化の不自由」展とすることでしょう。