MEMO

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他者が存在するという意識が構成するシンメトリーを失っているあり方を表現している作品だけに、全体に覆われずにいる部分と部分の間の僅かな空隙もない現実がみえてしまった。逃げ場が無い..

Que veut dire Levinas par < interstices> ?



‪‪三木清の「死に切った過去」も、フーコの「起源なき起源」も、<人間の経験>のなかでみることができなくなって、何とか再び新しく<言語の経験>のなかでみる必要のあるときから、外の思考といわれるものがはじまるのだろう‬か



まず第一に、エロティシズムは、人間の性欲が禁止によって制限されており、そしてエロティシズムの領域が、この禁止に対する違犯の領域であるという意味で、動物の性欲とは異なるものであります。エロティシズムの欲望は、禁止に打ち勝つ欲望なのです。それは人間を人間自身に対立させます。ーバタイユ


「ひとびとが貨幣を貨幣として受け入れることを拒否し、先を争って貨幣から遁走している状態である。それは、恐慌とは逆に、何らかの理由で、世の多くのひとびとが貨幣よりも商品を欲してしまうことによってひきおこされる。」


岩井克人氏は何を考えていたのだろうか。マルクス資本論』から、ネオリベの経済学でなくては説明できないハイパーインフレーションを、説明してみせた。岩井氏によって経済的不均衡論の言説が『資本論』を説明しはじめたのである。『資本論』を説明するとはなにか?ここで、「貨幣」「商品」をそれぞれ、「目に見えない神」「目に見える神」とおきかえてみると、言説における神学的な思弁がみえてくる。すると、これはなにを意味するのか?岩井氏はハイパーインフレーションだけでなく、ハイパーインフレーションの言説の問題を考えていたのではなかったか。現在ネオリベの問題はハイパーインフレーションを理解しても、彼らの思考がその内部に絡みとられているハイパーインフレーションの言説を批判的に相対化していないようにみえる。ネオリベの国家の計画するユートピアの単一視点に対する批判は、再び市場へのユートピアの単一視点ーピケティー的な政治の介入を許さないーにとってかわられたのである


日本古代史は中国文明史と呼ぶべきではないかという意見もあって、五経博士にちょっと関心がある。五経博士は、中国古代の官職の一つ。前漢時代、太常の属官に置かれた。儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官であった(wiki

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」

(明仁天皇 2001年)


‪‪‪中国哲学インド哲学を勉強する学生が少ないと若い中国哲学の研究者から聞いた。と書くわたしもアジアの哲学をほとんど知らないでやってきた。ほんとうにそれでいいのかと思いながら彼の話を聞いた。インド哲学といえば、ダブリンの近所の哲学語学塾みたいな所で一カ月だけ勉強したときに手に入れたサンスクリット語で書かれた入門ウパニシャッドの解説本をもってかえってきている。サンスクリット語起源と推定されるゲール語がたくさんあることを知った。中国哲学の再構成はインド哲学との出会いによって起きたと考えられている。朱子学は東アジアを代表する哲学として確立した。朱子学は究極のもの=ロゴスを覚醒する存在論であるが、17世紀徳川日本の時代に天の思想に帰る古学派によって朱子哲学が脱構築されていった。その意味はなにか?これは京都から起きたアジアにおける知識革命を為すものであった。20世紀ポストモダン孔子という読みは翻訳を通じて、現在中国の関心を呼んでいる。21世紀の東京で行われた、17世紀の朱子語類鬼神論の読みは鬼神論を超える。鬼神論のディスクールはアジアからヘーゲルとフーコが発見されていくかのようである。ヘーゲル精神現象学』に言及する「人間の分身」(第9章)のなかの‘起源の後退’を読んで12世紀だけれど鬼神論の弟子たちの考え方について考えている。‘物で書かれたもの’を分析している「世界の散文」は成る程、「命名=制作」論か。子安宣邦氏のもとで朱子を読んできたが、これと平行して、市民大学講座で、アジアにおけるグローバルデモクラシーの展望がないまま国家祭祀が事実上復活してしまったという危機感をもって明治維新の近代を相対化する批判的視点を学んでいる。‬



こちらがこんなに良いと言われているし確かにあちらに行ったら酷いことになるだろうとわかっているのに、あちらに惹かれて行ってしまうのはどうしてなのか?まさに説明すべきことはこれではないか。こちらが良いとわかったうえで、希望をもってあちらに行ってしまう人々に向かってこちらがいかによいかの言葉を繰り返しても仕方ないだろう。芸術は表現の問題に取り組む。思考できない思考、他者の表現の問題である。芸術は本質なき分節化された世界ー脱構築される世界ーを表現する。問題は、他者を愛するからこそ、愛するにも関わらず、ナショナリズムの他者を殺戮する言説の内部に絡みとられてしまうようなことは、近代の前になかったのである。国家祭祀の近代として成り立った日本近代の問題をトータルにみなければ、靖国参拝しかないとする行進が終わらないのではないか。靖国神社としての日本人を発明する言説が、靖国神社から2000万の命を奪った国家神道を引き離そうとしている。


ゲンロンは「市民」を口にするのはいい。だが人類的立場を以って表現の自由を自分たちのものにすべき問題を外交問題にして中立化するのは反対。一人ひとりは国民N-1党に転落したようなお喋りでなく)、言論をもつならば、日本側の戦争犯罪を認めた上で慰安婦問題の生存者がいる間の早急な解決を考えるときだ


他者アジアとの関係のシンメトリーが存在しないかの如く考えても無駄な事で、一国二制度の限界というよりは、中国スターリズムの官僚資本主義ではやっていけないことが明らかになって習近平の近代が終わるときは、昭和ファシズムを齎らした明治維新の近代のノスタルジーも終わるだろう。問題となってくるのは、歴史修正主義に占領された一国民主主義のままで、自分たちでそれを終わらせることができるのかということ。



戦争体験は語られるのになぜ伝わらないのか?これほど大切な事が伝わらないのだから、例えば『古事記』が言われるようには連綿と語り続けられてきた筈がない。『万葉集』以前の語り伝えられた全てか殆どが消滅していたのではないかと思う。物語られるから伝わらないことだって起きる。もしそうだと考えるとしたらどういうことが言えるだろうか?起源が後退すればするほど声の力に頼ることになる、このことによって経験は永遠となると言われる言説も出てくるが、わからないな。この言説によって、全体性の正しいイメージが自らに見出されるとされるというか。経験はそれが住処とする書記言語と一体となって生きるあり方を伴うことがなければ書かれたものにならず声のなかで消滅し切ってしまうのではないだろうか。


靖国神社の問題は、死者のあいだにhierarchyを作り出す点ですね。靖国神社は近代の産物であるとする安丸の指摘のとおりだと思います。ただ、儒家神道と国家との関係は一直線上にあるとして説明してしまうのでは簡単すぎるかもしれません。活動的知識人たちを集めた後期水戸学の言説(国体の思想が政治神学的に構想される)が明治国家の構想をつくりだしましたが、明治維新後は、明治国家は平田篤胤の弟子たちの思想家たち(スピノザ的な汎神論を展開した人もいました)を政府から追放しました。「日本しかない」というような主張に顕著ですが、理念的なものを軽視する日本会議に結びつくのは、平田篤胤系ではなくて、国家神道の方向をつくる本居宣長系であると考えられます。国家神道は即ち国家祭祀。これらは明治国家が作り出した制度ですが、徳川幕藩体制も国家として考える必要があると考えています。すると、どういうことが言えるのか考えているところです。国家祭祀は国家を通じて近代が制作するというポイントが大切とおもいます。そう考えることによって、安丸が強調しているように、中世の仏教の平等思想に、近代を批判する視点があったという指摘が意味をもつように思います。近代は死者のあいだにhierarchyを作らない中世の理想を実現することに失敗したのです。


言説「憲法は本来的に国民を統合する」はどう読まれたか?どう読まれたかといってもこのわたしがどう読んだかをここに書くだけですけれど。憲法の力とは、国際協調主義を発明していくことにあり、また国際協調主義の理念性を市民が自分たちのものにすること、敢えて言うと、市民を国民から分裂させる力だと思います。無理に統合するから、解釈改憲による軍国主義が復活し、また国家神道が復活するのではないですか。野党が言い出した国民統合の言説に先行して野党による靖国神社の参拝がありました。戦後の靖国神社は法人であり国家神道の国家ではなくなったといってもですね、参拝する民とそれを受け入れる社(建造物)があれば、国家神道と等価なものが成り立つという傾聴すべき指摘があります。統合の言説に絡み取られた野党は、日本会議天皇の象徴性を超える天皇教が「日本しかない」と叫ぶナショナリズムによっていかなる国際協調主義とその理念性を否定してくる危険を批判できるのでしょうか?




‪戦後憲法ほど国民統合の言説に顔を背けた言説もありませんが、丸山真男は例外的存在で、官僚養成機関である東京大学法学部が民主主義を教える筈もないことを考えさせます。憲法の力とはむしろ、国民を分裂させる力だと思います。無理に統合するから、解釈改憲による軍国主義が復活し、また国家神道が復活するのです。問題は、国会で安倍首相に芦部憲法学を教えてみせたと同時に憲法を代表している知をもつ自己の優越性を示したこの人は明治憲法の書かれない領域のなかで天皇の死者を主宰した権力を見えているかということ。国民統合の言説に先行して野党による靖国神社の参拝がありましたが、軍国主義と同じ方向を以って全体主義を呼び出したほどの無制限のこの権力が見えていたら年初の参拝はなかったでしょう。‬なにが言いたいかというと、戦後の靖国神社は法人であり国家神道の国家ではなくともですね、そこに参拝する民とそれを受け入れる社(建造物)があれば、国家神道と等価なものが成り立つということではないでしょうか。このことを考えるときでし、憲法の代わりに語る一体だれが靖国神社の下に憲法があるという日本会議の(隠している)主張を助けるのでしょうか。憲法を否定するひとたちとは限りません。国民の統合のつぎは、象徴性を超えた天皇教ー「日本しかない」と叫ぶナショナリズムと国際協調主義の理念性の否定ーでしょう。


そーなんですか、教養がないから、官僚、弁護士、政治家になるのかとおもっていました。わたしは人文主義しかないしだから教養って大切だと考えていますが、教養のあるひとの話をききたいとは思わないし、教養のないひとの話もききたくないのですが、これは、教養主義と、教養を重んじるが人格形成みたいな話にくっつけるなという教養主義批判、この両方から同時に、なんらかの影響を受けたことによるからだとおもってます。教養主義というと、明治の西田、大正の和辻哲郎をおもうのですね。和辻はアカデミーにデビューして哲学を教えるとき、かつて三木清から影響をうけたマルクス主義の出発を消してしまって、アリストテレスから語りはじめるのですね、これは大正教養主義の欺瞞かもしれないのです。日本知識人は和辻から漢文を読めなくなると言われます。このことの意味を考えないわけにはいきません。「倫理学」の語は中国の古典にあったとか、そういうことを平気で言ってしまうのですね(たしかにあることはあるが、文脈意味が全然違う)。わたしはアートを重んじるポストモダンですから、あまりに教養があることに警戒します。芸術というのは、教養主義的ではありません。若い和辻は九鬼といっしょに、たしか大川周明もいたのですが、岡倉天心の東大の講義に出ていました。岡倉天心が書いたものは、レトリック過剰で、反芸術的だおもうことがあります。それは確立された物の見方の中でそれとは異なる物の見方を作りたいとするところからくるのでしょうーだれも言わなかった「東洋」に依拠しようと語ろうとしたら教養主義に頼ってはうまくいかないというか...。現在は、文明を映像を編集するヴィジョンをもっていた和辻から影響を受けた形の世界文化遺産ブームですよね。しかしどうしてもあれは教養とは思えないんです。リベラルアーツでも古典でも教養を身につけるためにはヨーロッパ語を読めないと駄目でしょうが、ヨーロッパ語を読めない若者も漢文エクリチュールと注釈で中国の古典を読むことができます。しかし百田みたいなやつが国語から漢文を取り除けと言っていますね、小泉から始まる嫌アジアみたいな自民党的アジア観を製造しているように思います。中国の古典を読んでいたなら、ヨーロッパ古典と同じで一生かかりますから、ヘイトスピーチする時間がない筈ですよ(笑)


‪教科書もCMも安全ですと言っていたけれどみんなウソだったというソングが歌われていようですね。原発体制について考えさせるためにはいいことだとおもいます。 1980年代90年代のときでしたが、公害裁判の運動の現場に反原発運動のひとたちもきていたのですが、必ず原発災害が起きるし、起きるとしたら福島原発からだと当時はっきりと指摘できたひとたちがいました。具体的に予測されていた通りの事故が起きたわけですから、異議申し立てのひとたちが言ってたことは「ホント」だったという歌も歌える力をもつひとたちはぜひ歌ってほしいとおもいます。安全神話に対しては、持っている情報が限られているので全部ホントであることは難しいですが、意味のある異議申し立てが大切だとおもっています


漢籍(カラブミ)をもまじへよむべし、古書どもは、皆漢字漢文を借リて記され、殊に孝德天皇天智天皇の御世のころよりしてこなたは、萬ヅの事、かの國の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの國ぶみのやうをも、大抵はしらでは、ゆきとゞきがたき事多ければ也(うひ山ぶみ