MEMO

「戦後の日本は物質的に豊かになったが、代わりに失ったものがある」という言説に対してなみを言うか?たしかに失いました。朝鮮戦争ベトナム戦争によって物質的に豊かになったという、他国の不幸を犠牲にしてしか豊かになれなかった恥ずべき記憶を失いました。イラク戦争のときは、「盲目的にアメリカが破壊したあと、日本が建築して金儲けする」と海外で言われたものですが、繰り返しています。またおもうことは、「失った」という言葉の気持ち悪さですね。失うことそれ自身を失ったというか、失ったという言葉から失ったという意味を失っているのではないですか。もっぱらインパクトのある近過ぎることだけをみるから失っている物の見方に気がつくことがないというか、自身への反省をこめて書くことですが、ソーシャルネットワークの時代、だれもかれもあまりに近いことだけを語るというのでは。「応仁の乱」から語るのもいいし、ここから自分関心のことを語って恐縮ですが、世界史的に言って、17世紀以降、もっと遡ると12世紀からですが、この五百年間は注釈の古典主義と意味作用の近代といえるのですけれど、この場合は『論語』でもなんでもいいのですが、言葉が溢れ出すことになる、原初的な第一義的パロールの絶対性を失ったことのトータルな意味を考えてみたいです。危機の17世紀といわれる500年前のことを考えるためには近代の文化的枠組みに属していないようにみえる16世紀を考える必要がありますが、あえて最近の事件を関連づける(あるいは関連づけられない)物の見方を考えてみることができだろうかとおもっています。そうでなければ、150年前のことを繰り返すだけで、結局は安倍政権の物の見方を反復するだけになってしまいます。



‪We will say that non-contradiction is the unnameable of mathematical.‬

Alain Badiou


‪Or la poésie est ce qui fouille dans le langage pour le contraindre à nommer ce qu’antérieurement il n’arrivait pas à nommer. 

ー Alain Badiou, Éloge des mathématiques‬


わたしは国語が嫌いでしたが、どうも国語の先生も国語を馬鹿にしていたように感じられました。これは国語問題です。わたしが愛していたものは多分「文学機械」というものでした。『古事記』も『万葉集』も、文字と音節を発明的にモンタージュした「文学機械」。近代になって、ヨーロッパに圧倒される形で、明治の自然主義みたいに理念をもつ孤独の力である機械もあるし、大正から昭和に行く日本浪漫主義みたいに勿体ぶっているだけで理念を失っている膿んだ機械もあります。精神といわれるものも「文学機械」が故障を起こして出来上がってきた解体。精神の編集とは、ほかならない、解体の編集、ここに表現の問題があります。だからこそたたえようではありませんかとおもうのです。


[p・o・e・m] x [t・h・e・a・t・r・e] 


It is this secret language, different in the case of each artists, which submerges their works in a great solitude. 

Jean Cocteau


It begins with table

It could be a chair 

It could be shoes 

But my word always returns  

To this broken mirrors 

A tranquillity of decomposition  

Wandering  

Around  

My land,

My image. 

I can be anywhere in it 

And still not be of it


‪1986年からは、アパートの隣人が韓国の留学生たちだったこともあって深夜まで彼らと議論する毎日となった。その内容を色々思い出してきた...‬


アイルランド政府は教会の子供の性的虐待の補償に取り組んできた。一応終わりにするらしい。議論があるところだが、当時の政府はお金が無くて教会に頼らなければ教育を維持できなかったといわれる。私が暮らしていたときは、「ケルトの虎」と呼ばれる好景気だった(このときはじめてアメリカからアイルランド人が帰ってきた)から、’貧しさ’を想像するしかなかった。メディア研究の教授が教えてくれたが、思い出すことが禁じられた「恥ずべき」記憶に、1950年代のアイルランドは自らを韓国と同一視していたという事実がある。だがこの隠蔽された記憶は彼らがつくる映画に反復的に現れるという。アイルランド人は自然をみるときイギリス人のようには’ロマンテイック’に’ありのままに’みることができないのは、自然は仮面を被っているからである。無意識において自然は核爆発を起こしている




L’intuition est la jouissance de la différence. ーDeleuze

差異を差異化すること、これは、近代を批判する理念としての多元主義がいわれた60年代から成り立ってくる言説である。言説批判的に、このように仕方で直観を語ったのはドウルーズが初めてだった。それは事件だったのであり、彼を、思想を深化させたという意味でベルグソン主義に還元してはならない。


方向性の変化が他とのトータルな影響を以って起きてくる言説というのは、形而上学のなかで考えられるものではなくて、自然学において考えるべきものなんじゃないかな。「連続的なものは不可分なものから成ることはできず、常に可分的である」という見方に行き着いたような気がする。知識が足りないのだけれど。差異の運動、新しく反復する力のことを考える



Finnegans Wake 

ジョイスユリシーズ』を読んだと言えるひとはいない。読むという意味が問われる『ユリシーズ』の理解は、神話というものをどう理解するかに関わってくる。アイルランドにおける『ユリシーズ』の読みは、ポスト構造主義による神話解読を批判する視点をもっている。それは植民地化された国の経験から構成されているが、ポストコロニアルとそれほど同じ視点ではない。「わからなくなったら声を出して読んだらよい」といわれる。正直これがわからない。50カ国語が混ざっている多言語の『フィネガンズ・ウェイク』をどうやって声を出して読めというのか?と、本を閉じ込めている自分を笑う。宇宙は笑いに満ちているということに気がついたときは、読むとは、学ぶと同様に、宇宙の隅々まで理解し尽くすという近代のあり方とその同一化にたいして隙間をつくる行いなんだろうとおもう



差異を差異化すること、これこそは、近代の普遍主義を批判する理念としての多元主義がいわれた60年代から成り立ってくる言説である。近代の普遍主義が一元的な原理主義に陥る危険をもつのに対して、理念としての多元主義はそのような原理主義を解体する差異化である。存在は一に還元されぬ多であるという意味で一的多として構成される。言説<一的多>は多様性の方向をもつ。それは、言説「帝国」のグローバル資本主義の分割を意味するような一の分割ではない。L’intuition est la jouissance de la différence. 言説批判的に、このように仕方で直観を語ったのはドウルーズーDeleuzeにおいて初めてだった。外部的に不可避の差異化が語られるというか、事件としての差異化が、ポスト構造主義によって語られていく。ニーチェの力の哲学も言説的に再構成されることになった。(だから彼を、思想を深化させたという意味でベルグソン主義の哲学者に整理還元してはならないのだと思う。)


世界システム」論 は、16-17世紀のヨーロッパ「世界システム」の成立から、 19世紀アイルランドのポテト飢饉、今日の欧米とアフリカの間に起きる武器と飢餓の交換を説明できる。21世紀はアジアの時代だというけれど、文明論的中国社会主義という名のグローバル資本主義はヨーロッパ「世界システム」である。現在起きている危機は、アジアの危機というよりは、グローバルデモクラシー「世界システム」を構築できないでいる危機である


胡散臭い西郷隆盛は江戸を攻撃しなかったのは殿様への裏切りだし、勝海舟も勝手に江戸を放火する根拠はどこに?京都から天皇を政治の舞台に連れてきた明治維新そのものがインチキ


ボリス・ジョンソン首相は「クラウン」と呼ばれていて、どうも在任期間の最も短い首相になるとみられています。北アイルランド問題を無視して、BrexitにおけるNo deal の主張に顕著な、<イギリスしかない>とする理念なき主張をやめようとしません。これに対して、イギリスの議会そのものを崩壊させる危険があるとEU議会は非常に心配していますね。<日本しかない>とする日本会議歴史修正主義者の首相が国会そのものを壊しているという声はまったくないようですが...


body without space and body with time


< p, o , e , m, t , h , e , a , t , r , e >


息を吹き入れられるとは、変わりゆくもの終わりに運ばれる始まりを受けいれること、変わりゆくもの始まりに運ばれる終わりをうけいれること。変わりゆくものしかないか。否、変わらぬものが存在したから運ばれたとおもう。先行する他者から息を吹き入れられること、非場所から投射される場所があること...


学問ー普遍主義の儒学ーは、武士は武士である為に要請された。武士は学問から、貴族・僧侶の文化に代わるものとして、制度論を築いた。ここから、荻生徂徠が近世に与えたのは、人間社会全体への視点を以って能動的に規定する外部性の意味である。それゆえに、「弁名」こそは徂徠学の中心的位置を占めるといわれる。徂徠の新しい言説は、再び幕府を含む東アジアを支えた朱子学的の本来性・純粋性の中心に赴くことはないだろう。



1、‪以前カントロヴィッツは<国王の身体>に関して注目すべき分析を行ったことがある。中世に形づくられた法律中心の神学にもとづいて二重の役割を与えられている身体、というわけである。というのは生きて死す一時的な要素のほかに、国王の身体は別の要素を保有するのであって、それこそは時を貫いて止どまり、その王国の身体的な、だが触知しがたい(神聖にして冒すべからず、でもある)支えとして保持されるからである。しかも、こうした二重性はもともとキリストにまつわるモデルと近いつながりがあったので、この二重性のまわりに組み立てられたのが、君主政治の図像学・政治理論であり、人間としての国王と王権の要請とを区別しつつ同時に双方を結び合わせる法律機構であり、戴冠式と葬儀と服従誓約式によって最高潮に達するすべての祭式である。その反対の極に、死刑囚の身体を置いてみようと考えたらどうだろう、その身体もやはり法律上の地位を持っている、それは儀式を営ませ、理論上の言説を生み出させる、がその目的は、君主の人格に割り振られていた<最大限の権力>に根拠を与えるためではなく、処罰に服す人々が押される烙印たる<最小限の権力>を記号体系化(コード)するためである。政治の場の最も暗い地域で、死刑囚は国王と対称的で逆の形象を描くのである。カントロヴィッツに敬意を表しつつ<死刑囚の最小限の身体>とでも名付けうるものを分析する必要があるにちがいない。‬


‪ー フーコ『監獄の誕生』‬



どちらかの作品も、Storytellerならではの映画ですね。不眠症の人が時間を活用してタクシードライバーになって、中世の騎士みたいになるという話は、都会の孤独を描いていると思うのですが、比べると、キングオブコメディのほうが孤独のほうが深いのかもしれません。ネットの孤独?現在は孤独が深くなったので、キングオブコメディの面白さが再発見されるようになってきたのではないでしょうか。

ギャングの少女買春にたいしては、実際に連れ戻された被害者の少女を目撃して、かれの孤独が憤りになりました、あそこまで過剰になったのは驚きましたが。比べると、キングオブコメディは、事件を起こすまえに、何を見たのかがはっきりしないのですね、わたしの印象ですが。居酒屋でテレビに登場する自分の姿を見て一応満足気なのですが、これは映画のやや後追い的な説明であるように思います。対象が存在しないなかで自分の内部でストーリーをどんどん作っていく逸脱の面白さがあります。昔は戦争に勝てば問題は解決したが、戦後はテレビに出たら問題は解決するのか?

タクシードライバーは本を読む都会人。事件を起こす前まで結構読んでいました。本を読むStorytellerと同じように、言葉にたいする信頼が、依拠できる天を孤独にまもろうとします(カタストロフイー、マゾ的かつサデイズム的に展開します)。戦争に勝てば問題は解決するのだと大衆に呼びかける三島的なところがあるように思いました。批評を書いて面白いのはこちら(笑)。比べると、キングオブコメディはテレビを見る都会人。照明のなかに置かれて舞台にたつ彼の後ろ姿が印象的。ファシズムの闇に行くことがない視聴率という名の最大多数の最大幸福の「明るさ」。だけれど伝達すればなんでもいいというわけではなく、discipline として、storyを語らなければいけない、われわれが生きている現実に根差しているような映画ですが、十分にこの映画の意味を分析した批評が出てくる前に、インターネットの時代がきてしまいましたかね。これから語ることを、かつて言われていたに関わらず、だれも言わなかったこととして、語ること、これが終わりなく解釈を解釈していくこの時代のstoryにたいする要請ですね、孤立しないためには受けいれるしかありませんが孤独が深まるばかりです



未来を思い出す部屋の扉を開けると、その部屋は憲法メルトダウンしていただけではなかった、思想の言葉も...




酷い雨漏り、隣の部屋の床においていた

30冊の本が水浸しでページがぐちゃぐちゃ

扉を開けるまで、天空の本たちは

雨雲で自由に戯れていたのだから、

目覚めなければよかった...目覚めは死


一国民主主義に戻る必要がないグローバルデモクラシーの公共性(天下の公)が問われる時代に、絶望的に近代は自ら一国民主主義の全体性を構成する。グローバル資本主義の論理展開が中国スターリニズム(官僚資本主義)、後者は前者を意味づける(一国二制度)。現在、この世界支配からの脱出が抵抗を構成する



‪子音と母音の端は触れあうとき、一方の端は他方のはじまりとなっている、つまり運動は互いに無限に離れた場所にいるふくろうからねこへ伝わる‬


英国の「憲法メルトダウン」!?この表現は大袈裟ではない。民主主義と権力分立は民衆の王権との戦いによって成り立った点を理解していれば。次はなに?


ボリス・ジョンソンは、長州藩天皇に権力を集中して自分達が支配した政治に責任を取らなかったように、中立であるべき女王権力を利用している。国会を止めて、EUとの関係、北アイルランドとの関係の政治を無責任にやるつもりではないか。これが英国における危険な「憲法メルトダウン」の意味だと私は解する


ヘーゲルの言説<主人と奴隷の弁証法>に絡みとられて、それを展開する形で、永久奴隷としての永久革命を正当化する反権力の近代を深読みすべきではないとおもう。


ヘーゲルによる主人・奴隷の弁証法は、主人の権力が行使それ自体によって解消されるというメカニズムです。私が言いたいのはその逆で、権力はそれ自体の行使によって更に力を増すということなんです。権力が知らぬ間に消滅してしまうなんてことはありえません。」(フーコ『哲学者の回答』)



Si ces dispositions venaient à disparaître comme elles sont apparues, si par quelque événements dont nous pouvons tout au plus pressentir la possibilité, mais dont nous ne connaissons pour l'instant encore ni la forme ni la promesse, elles basculaient, comme le fit au tournant du dix-huit dix-huitième siècle le sol de la pensée classique, ー alors on ne peut bien parier que l'homme s'effacerait, comme  à la limite de la mer un visage de sable. ( Foucault) 


If those arrangements were to disappear as they appeared, if some event of which we can at the moment do no more than sense the possibility- without knowing either what its form will be or what it promise- were cause them to crumble, as the ground of Classical though did, at the end of the eighteenth century, then one can certainly wage that man would be erased, like a face drawn in sand at the age of the sea. ( Foucault)