『タクシードライバー』(1976) と 『キング・オブ・コメディ』(1982)

タクシードライバー』(1976)


『キング・オブ・コメディ』(1982)


どちらの作品も、マーティン・スコセッシ監督のStorytellerならではの映画ですね。ロバート・デ・ニーロが主演。ポール・シュレイダーが脚本を書いた『タクシードライバー』は、不眠症の人が時間を活用してタクシードライバーになって、中世の騎士みたいになるという話です。これは都会の孤独を描いていると思うのですが、比べると、『キングオブコメディ』のほうが孤独が深いのかもしれません。現在は孤独が深くなってきたので、『キングオブコメディ』の面白さも再発見されるようになってきたのではないでしょうか。『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルは、ギャングが商売している少女買春にたいしては、実際に連れ戻された被害者の少女を目撃して、かれの孤独が憤りになりました、あそこまで過剰になったのは驚きましたが。比べると、『キングオブコメディ』のルパート・パプキンは、事件を起こすまえに、決定的に何を見たのかがはっきりしません、わたしの印象ですが。彼は居酒屋でテレビに登場する自分の姿を見て一応満足気なのですが、これは映画のやや後追い的な説明であるように思います。対象が存在しないなかで自分の内部でストーリーをどんどん作っていく逸脱の面白さがあります。テレビに出たら兎に角問題は解決するのだという乗りなのですね。

タクシードライバー』のトラヴィスは本を読む都会人。事件を起こす前まで結構読んでいました。本を読むStorytellerと同じように、言葉にたいする信頼が、依拠できる天をまもろうとします。カタストロフイーの映画はマゾ的かつサデイズム的に展開します。戦争に勝てば問題は解決するのだと大衆に呼びかける三島的なところがあるように思いました。比べると、『キングオブコメディ』のルパートは、照明のなかに置かれて舞台にたつ彼の後ろ姿が印象的ですが、テレビを見るーテレビに見られる大衆。突き動かしてくる闇は、ファシズムの闇ほど暗くはなく、むしろ視聴率という名の最大多数の最大幸福の「明るさ」をもっています。だけれど伝達すればなんでもいいというわけではなく、discipline として、storyを語らなければいけません。『キングオブコメディ』はわれわれが生きている現実に根差しているような映画ですが、十分にこの映画の意味を分析した批評が出てくる前に、インターネットの時代がきてしまいましたかね。これから語ることを、かつて言われていたに関わらず、だれも言わなかったこととして、語ること、これが終わりなく解釈を解釈していくこの時代のstoryにたいする要請です。孤立しないためには受けいれるしかありませんが、何か人間の底なしの無根拠性のほうへの孤独が深まってきたと感じるのはわたしだけでしょうか?