MEMO

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目に見えない素材とリズムを以って他者を描く=書くピカソにおけるマネの‘草上の昼食’の解釈は、バベルの塔の崩壊の後の人間の文化において不可避なものを問うたと私は思う。文化を無意識の情動の上に築こうとするが、再びファシズムに絡みとられずに、情動から独立している概念ー外部の思考ーが必要とされる‬のではないか


Ulysses 

近代の植民地主義を考えるとき、ヨーロッパ自身も植民地化されたのである。英国の帝国主義アイルランドを植民地化した。近代を超える為に、植民地化されたアイルランドを書く倫理性は、同時に自身を植民地化したヨーロッパを書く倫理性である。これが『ユリシーズ』にダブリンの署名がない理由ではないか


Finnegans Wake 

ー And the duppy shot the shutter clup Perkodhuskurunbarggruauyagokgorlayorgromgremmitghundhurthrumathunaradidillifaititillibumullunukkunun



ホーホー、たまたま目の前に座っていた誰とか、並んでいた誰とかの輪郭、通り過ぎた誰とかのも重なっているのかもニャリ。疲れて文字を書く力もなくなってきた所で、絵というほどのものではないけれども、何とか、秩序づけられている仕方を明らかにすることによって秩序を崩していく認識の場の揺れる影みたいなものを描く/ 書くことができるか、ホー


L'art est la nostalgie de l'idéal. 

ー Andrej Tarkovski


表現の自由」からは、「日本人の国民の心を踏みつける」ものが見えるだけのこと。「心を踏みつける」かどうかは、作品をどう解釈するかによる。または解釈の解釈によること。解釈の自由がある。しかし「表現の自由」をみとめないと、政治家と文化人たちがいちいち指示する、生活の隅々まで侵入してくる「日本人の敵」「国民の敵」にヘイトスピーチしなければならなくなる。そうなっては、結局何も見ていなし、なにも語ってはいないのであるまいか。人間の自由をやめなければならない


<ラジカルなモダニズム> は何か?トータルに、全的否定的に、思想性なき広がっていく翼、豊穣さに宿るのか?


‪フーコ的に言うと、「バベルの塔」の崩壊(原初的な第一次的パロールの喪失)がはじまるのは17世紀からである。「表象」の時代がくると、原初的な書記言語の前に話されていた言葉が実在したと近代主義者の間から言われるようになる。これは原初的な書記言語の「透明化」である(「『古事記』は読まれ続けてきた」)。そうして超越的なものが声の中から構成されるとき、問題は、帝国主義の時代の政治支配者が、死者の世界を主宰する超越的なものに権力を集中することで、昭和十年代天皇ファシズムに帰結するような無責任体制を推進してしまうことにあった。しかし書記言語の消去を徹底を言うことによって、天皇ファシズムの否定を根本的に考えさせる批判性をもった「ラディカルなモダニズム」も存在した。われわれは「表象」の時代ではなく、「言説」の時代に生きていることをおもう



思想史教室にアジア主義の亡霊が徘徊している?失敗した近代日本の問題は中国の革命が解決するという。と、再びデリダアルトー論が気になってきた。近代演劇の問題の解決は政治にかかっている。問題はルソーだ。ルソーを読み解かなければならない。演劇の代理性を排したファシズムの記号(声)の透明性に解決をみるルソーの言説に、アルトーの書記言語としての身体が抵抗する...



After Godard, chapter one (a) all the histories  

denn ein Filmprojektor ist gezwungen sich an die Kamera zu erinnern 

und wenn das Kino nur eine Zerstreuungsindustrie is dann, Weil es zunächst der einzige Ort ist wo das Gedächtnis Sklave ist. 


北アイルランドとの国境線を不可視に保つこと(keeping the border invisible)によって紛争を避けている。境界線は地図に見えるだけ(内緒だが南アイルランドの地図では国境線は毎年数センチづつ北へあがっている)


‪‪‪イギリス人はイギリスを一つとみているからアイルランドを一つとみる。沖縄を無視して日本を一つとみている日本人が中国を一つとみるように。イギリス人がアイルランドナショナリストの見方をつくったが、しかし普通の人は地球上のどこかに貧困があればそこにアイルランドが存在すると考えるからアイルランドは単純に一つではあり得ないというか。一つだとしても、‪ポストコロ二アルな‬貧困の経験を利用して、一的多であると考えていこうというのである。沖縄、台湾、香港も、自らを囲まれていない海で繋がる一的多であるとして新しくやって行こうというのではあるまいか



あらゆる可能性の予見に責任をもたされたらクルマの運転ができなくなるというようなことがいわれたこの理屈をですね、原発の運転の場合にも適用していいものなのでしょうか?


東京地裁からの贈り物で今夜は東電は大パーティで盛り上がるのでしょうか

「東電旧経営陣3被告に無罪判決」


AWFUL 


Fukushima disaster: Nuclear executives found not guilty



原発問題を作り出した国家の自らに対する「無罪判決」については、復興幻想の内側のなかにおいて十分に報じられず議論されていないようであるが、この問題は外からはどうみえるのか


RHETORIC WORLD No.1 のお国の独立騒動


英国議会は、前例のないほど長く正常とはいえない休会にはいった。首相が、合意なき英国EU離脱をめぐって野党の質問を封じるために、女王を騙してその権力を利用した可能性も囁かれる。この件について最高裁が介入してきた。現在、休会の手続きが違憲かどうか審議中。ロンドンの三角形を為す行政・立法・司法の権力ゲームを、第4の権力であるBBCが伝える( BBCは野蛮なイギリス人を啓蒙する役割をもっている)。EUは、ナショナリズムを背景とした合意なき英国EU離脱をみとめて、北アイルランド国境の暴力の復活をゆるわけにはいかない。 

嗚呼、RHETORIC WORLD No.1 のお国の独立騒動、どうなるのか?ナショナリズムは、フランス革命の時代においては平等を実現する役割もあったが、ー 「みんな」「みんな」と言っているうちに「人類」を意味する可能性もあったがー、21世紀の現在はそんな役割をもっておらず、ただ他国とのあいだに憎しみの交換をもたらすものでしかない(憎悪の互酬性) 。人類における新しい普遍主義の探求は、EUからの差異化からでてくるのであり、EU離脱の「みんな」によるナショナリズム否定からはでてこないとわたしはかんがえている‬




ベラ・バラージュ『映画の理論』第五章 視覚的人間 (佐々木基一訳)‬ より‪


いまや映画は、文化にひとつの新しい転換をもたらそうとしている。少なくとも、文化に新しいニュアンスを与えようとしている。数百万の人間が、毎夜映画館の中に座って、言葉に頼ることなく、もっぱら目を通して、さまざまな事件や人物や感情や情緒に、いや思想にすら親しんでいる。(...)‬

言語学の研究は、言語の起源が表現動作のなかにあるということ、すなわち、人間が話しはじめるときには(ちょうど幼児がするように)舌や唇を、顔や手の筋肉と同じように動かすということを発見した。つまり、そのそもそもの目的は音を作ることにはなかったのだ。舌と唇の動きが、体のすべての表現動作と同じく、はじめは自然のジェスチャーであり、反射運動であった。その際、その動きから音が生まれるということは、最初から意図された付随現象ではなく、ただ後になって、実用的な目的のために利用されただけである。直接に目に見える精神は、こうして、間接に耳に聞こえる精神に変わった。このプロセスもなかでーあらゆる翻訳の場合と同じくー非常に多くのものが失われた。しかし表情豊かな動作、ジェスチャーこそ人類の土着の母国語なのだ。(...)‬

‪とはいえ、これを、言語文化のかわりに、ジェスチャーと表情の文化を置き換えようとするものだ、というふうに受けとめられては困る。両者は互いに取り換えることのできないものだ。合理的な概念文化、およびそれと結びついた科学の発展を抜きにして、社会の、したがって人間の進歩はありえない。現代社会の接着剤は、言葉と文字であって、こうした接着剤を見い出しえないところでは、どんな組織も、どんな計画不可能である。他方、人間の文化を、合理的な概念のかわりに、無意識の情動の上に築こうとする傾向が、どういう方向を辿るかは、ファシズムがはっきり示した通りである。(...)‬

‪新しく発展してきたこの表情とジェスチャーの言語は、人類を互いに親密に近づけるだろうか。それとも今以上に疎遠にするだろうか。バベルの塔を建てる際にも、それぞれ異なる多様な言語の背後、共通の諸概念があったのであり、だからこそ、他国の言語を学ぶことが可能なのである。ところで、文明化された世界のなかでは、いろいろの概念は慣習によって定められた表象内容をもっている。普遍的に通用する文法は、互いに切り離され、めいめいが勝手な方向を向いているブルジョア社会のもろもろの個人を結合するひとつの環であった。極度に主観主義的な文学でさえ、普遍的に通用する語彙を用いて書かれたので、誰も全く理解されないという孤独な運命を免れたのだ。‬


地球規模の汚染に責任ある国なのです。われわれはもっとパニックに陥ってもおかしくありません、小泉の息子が語る「セクシー」という科学と無関係なホラ話に異常な希望をもつよりは




L’écran, sans lequel il n’y aurait pas d’écriture, est aussi un procédé décrit dans l’écriture. Le procédé d’écriture est réfléchi dans l’écrit.

ー Derrida  La dissémination 



「外」は、今日われわれが心的なものと物理的なものと呼んでいるものの継ぎ目で始まるものではない。そうではなく、(…)外はすでに記憶の働きの内部に存在する(『散種』)

(デリダ)


ボリス・ジョンソン首相が女王権力を利用して行おうとした異常な長期間の国会休会に、イギリスの市民達は抗議の声をあげていた。今回最高裁違憲判決を出した。市民運動の抗議が意味をもったのである。比べると、日本では市民運動は必ず挫折してしまう。なぜか?それは、ヨーロッパとちがって、国が市民運動と協力しないからだ。明治の近代化が市民の力を抑えつけて国に逆らうなとする今日を制作したのである



公の場ならばあんな言葉の使い方はしないもんだよといくら正しても、そもそも「公」の意味を失ったネオリベの特権エリートのお兄さんだからなあ。わかっていても、あれは、公を国家を超えるものとは考えようとはしないのだろう。「三十年後」と言っているが、150年前をみているだけ。香港と台湾の自発的に街頭に出た若者の三十年後の成熟をおもうと、溜息しかでてこないね、大島渚が言う通りだったよ、出口なき酷い精神の抑圧で苦しむか自殺するしか残されていない不幸な国になった



le cinéma projetait et les hommes ont vu que le monde était lá un monde encore presque sans histoire mais un monde qui raconte 

ー Godard  histoire(s) du cinéma 


le monde était lá


映画の歴史でなければ投射できなかったものとは、映画が<映画をみる人間>を発明するとそれ以降、人間はスクリーンに先行するもの、その外部にあるものを思考の形式を以てしかみることができなくなったという歴史である。暗闇に形而上学が呟くー見る前に、投射されないものが投射されているとしようと

das Kino projizierte und die Menschen haben gesehen daß due Welt da war eine Welt noch fast ohne Geschichte aber eine Welt, die erzählt


日本会議の文化統制だ。歴史修正主義者・安倍首相主催の「桜を見る会」は文化の枠づけである。極右翼と文科大臣が、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじる」記号にドンキホーテ的突撃を行う



「程子曰く、人多く鬼神を信じて惑うなり。而して信ぜざる者は、また敬すること能わず。能く敬して、能く遠ざくを知と謂うべし」(朱子論語集注)』


‪唐から宗、元へと移る時代に、新しく朱子学宇宙論的言語が生まれる。文献的注釈学的言語は過去のものとなる。これによって、漢字文化圏における朝鮮と日本とベトナムから民族的なものを基底とした独自の思想が展開する。この歴史を前提に、子安先生の今日の講義では、果たして漢字言語を民族語に投射できるか、このことを考えた。例えば、本居宣長は「神」を日本語における「神」として考えたうえで、「シン」と読まず、「カミ」と読んだのである。このとき、「カミ」といわれるものの意味はなにか?学者の彼はわからないと正直にいう。それはそうだ。漢字という原初的書記言語に退場してもらったら、漢字でないものは、漢字によって思考できたものを考えることができなくなるものなのだろう。各民族語への言語の分散は、それぞれの民族が互いに何を喋っているかわからないように神から罰を受けた「バベルの塔」の崩壊(共通言語の喪失)を喚起する。最初のほうで、漢字言語を民族語に投射できるかと問うたが、漢字言語を民族語に投射することはできないというのが答えである。そのことによって、はじめて、世界全体と関わる言語の存在が表象されるものなのかもしれないが、民族語の言説は話し言葉のなかに定位するカミをみるのである。ここから宣長の言説が展開する。これは、ほかならない、ナショナリズムである。この問題を、先生と早稲田大学の学生と一緒の帰りの電車のなかで考えることになった。‬言語の成立のためには自己の周りに他者を必要とする、と、先生は語る。たしかに、伊藤仁斎が言うように、卑近にこそ至上なものが存在するのである。その意味で、漢字は不可避の他者である。あまりに遠くに他者(この場合は、漢字)を置いてはならないということをかんがえたのであった。



何十年前のことだが、大学時代に、元最高裁判事のOBに原稿の執筆をお願いした。このかれは判決のことか、何か新しい学説でも書いてくるのかとおもっていたら、旅行で見学した香港の裁判所について書いてきた。なぜ香港裁判所を知ることが大切なのかとさっぱり分からなかった。総会にきた本人にきくこともできなかった。しかし本質的に大切なことを書いたのだろうとわたしに言う英米法の教授がいた。その教授は長谷川如是閑の制度的思考を重んじる伝統を強調していた。現在あの原稿の大切さがやっとわかってきた。香港はイギリスの植民地だったとはいえ、ある自由があったのではないか。香港の若者は長年のうらみがあるという。街頭で、中国に裁判が存在しないとデモで必死に訴えている