MEMO

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何十年前のことだが、大学時代に、元最高裁判事のOBに原稿の執筆をお願いした。このかれは判決のことか、何か新しい学説でも書いてくるのかとおもっていたら、旅行で見学した香港の裁判所について書いてきた。なぜ香港裁判所を知ることが大切なのかとさっぱり分からなかった。総会にきた本人にきくこともできなかった。しかし本質的に大切なことを書いたのだろうとわたしに言う英米法の教授がいた。その教授は長谷川如是閑の制度的思考を重んじる伝統を強調していた。現在あの原稿の大切さがやっとわかってきた。香港はイギリスの植民地だったとはいえ、ある自由があったのではないか。香港の若者は長年のうらみがあるという。選挙の自由を要求する街頭で、中国に裁判が存在しないとデモで必死に訴えていることは意味があるのだ


フクロウ猫かく語りき。ホホー、「バベルの塔」の崩壊によって物で書かれたものは消滅したあと、言語は石版に書かれるニャ。だがモーゼが十戒を記した石版を叩き壊したとき、ふたたび言語の破片は世界に散ったニャ。百科全書の時代は思考と言語に共通なものは、紙である。そこで百科全書は世界から独立しているところから世界を記すのではなく、それ自身が世界をもっていたというか、ホホー。アジアも「バベルの塔」もその崩壊も起きたニャ。宋の時代の朱子学における宇宙論的思想の言語が鎌倉時代にはいってくる。江戸時代に本居宣長において漢字の書記言語が民族語に写像される。しかしそれはうまくいかない。だけれど古代における話し言葉の世界に遡ることによって、ナショナリズムが誕生してくる。本当に民族同士がお互いに何を喋っているのかがわからなくなってくる。

中国はいわば大きな他者として漢字をもっていたのだけれど、漢字を音声化していることによって帝国である根拠を失ったいることに気がついていない。普遍主義は崩壊したままなのか。わからない。しかし中国は子安先生の『漢字論』を読むとき、朱子学脱構築して新しく普遍主義を再構成した『仁斎論語』を知るだろう。ホーホー



五反田の新しくできたチェーン店の喫茶店に、装飾として、数百冊の洋書の古本が飾られている。1970年代にでた本が多いようだ。ケニス・クラークの西洋美術史を概観した『文明』があるじゃないか。と、その隣に、『中国文明史』があった。ドイツ語の英訳らしい。’文明’という言葉に違和感をもつが、70年代はヨーロッパの’後進性‘が客観的に論じられている。その上で、あえて、ヨーロッパの文明を中国にうつしてみようというのであるとわたしは理解した。すると、宋の時代は中国のルネッサンスに対応することになる。方法としてこういう写像が成り立つのは、世界史的視点においてみえることを語る場合であろう。朱子をトマスアクイナスとくらべることができよう。さてヨーロッパー中国の間の写像だけによっては必ずしもうまくいかない観察も考えておかなければならない。おそらくそれは多様性の空間で問題となってくる観察だからである。東アジア漢字文化圏朱子学についていうと、朝鮮や日本やベトナムにおいて普遍主義を再構成した思考の自立的展開が存在した。わたしが知るのは江戸時代の言説空間だけれど、たとえば伊藤仁斎のような思想を、たんに起源にある中国の思想(朱子学)を間違って理解した仕方としてみなすことはできない。本物と偽物というふうにみてしまったら、<一>の「文明論」になってしまう。世界史構造としての「帝国に構造」が成り立つのはこういう虚である<一>の「文明論」による。それは実ではない。多様性の空間で問題となってくる観察も方法としてはじめて思考可能なものであると理解できるようになると、啓蒙主義の多元性という見方から、カントと伊藤仁斎の間に思想史のリゾーム的<線>を引くことだってできるのである


‪「彼ら」は、”金払ったんだから何かものを見せてもらおうか?”としかアートの展示にたいして考えることができないと三浦さんは仰るようにみえます。ところで三浦さんは「彼ら」に入っていない言い方ですが、「彼ら」の代表選手でしょう?三浦さんの言っていることは、文化についてならばあてはまるのかもしれません。文化はものを国民に呈示するのです。ものに教育もはいるでしょう。ただ教育の「教」の字は鞭があるので注意する必要があります。さてアートの場合は本来的には、表現する者は彼がイデア界でみた究極の完成されたものをおもいだすだけで、直観できても、ものそれ自身を示すことができません。わたしの理解では、ただその投射を構成的に呈示できるだけです。身体のとらわれた有限な世界においては、そこに何も存在しない可能性だってあります。ここでダブリンの映画館を思い出すのですが、上映中にフィルムが切れてしまって、何も上映されないままに1時間でも2時間でも放置されることが時々起きましたがー職員が来て「おまえなんでここにいるんだ、邪魔だぞ」と叱られることもありますーそんなときでもですね、何も写っていないスクリーンは不条理な思考を与えてくれます(笑)たとえ彼方から此方に写像できなくともですね、他者は卑近にー自分の周りにー置かなければならない不可避の存在です。そうでなければ言語は成立しない、というか、トータルに世界と関わる言語は存在することできないことでしょう。



‪Les langues sont avec le monde dans un rapport d’analogie plus que de signification, ou plutôt leur valeur de signe et leur fonction de redoublement se superposent : elles disent le ciel et la terre dont elles sont l’images: elles reproduisent dans leur architecture la plus matérielle La Croix dont elle annoncent l’avènement ー cet avènement qui à son tour  s’établit par l’Ecriture et la Parole.‬

‪Il y a une fonction symbolique dans le langage; mais depuis le désastre de Babel il ne faut plus la chercher ーà de rares exceptions prèsーdans les mots eux-mêmes, mais bien dans l’existence même du langage, dans son rapport total à la totalité du monde, dans l’entrecroisement de son espace avec les lieux et les figures du cosmos. ‬

‪De là forme du projet encyclopédique, tel qu’il apparit à la fin du 16ème siècle ou dans les primières annéses du siècle suivant ; non pas refléter ce qu’on sait dans l’élément neutre du langage ー l’usage de l’alphabet comme ordre encyclopédique arbitre, mais efficace, n’apparaître  que dans la seconde moitié du 17 ème siècleー、mais reconstituer par l’enchaînement des mots et par leur disposition dans l’espace l’ordre même du monde.‬

‪ーFoucault ‬


‪諸言語(ラング)は世界に対して、意味作用の関係にあるという以上に、類比するものとしての関係にある。というよwはむしろ、言語の記号としての価値と二重化する(=模写する)機能とが重なりあっていると言うべきかもしれない。言語(ラング)は空や大地を語ると同時に、それらの模造である。‬

‪諸言語(ラング)は、そのもっとも物質的な構成様式によって、みずからがその到来を予告している十字架ーこの到来こそまた聖書という<書物>と神の<言葉>によって確証されているのだがーを模写しているのだ。言語(ランガージュ)のうちにはひとつの象徴機能がある。けれども、バベルの塔の災厄以降、ー僅かな例外を除いてー、もはやそれを語そのもののうちに求めてはならぬ。それは、言語の実在そのもののうちに、言語と世界全体との全体的な関係のうちに、求めなければならない。‬

‪十六世紀末、あるいは十七世紀初頭に現れたような百科辞典的企ての形態は、まさにそこから由来する。‬

‪それは、人の知ることを言語という中性的な場に反映しようとするのではなくー百科事典における恣意的だが効果的な配列順序としてのアルファベットの使用は、十七世紀後半にならなければ見られないー空間における語の連鎖と配置によって、世界の秩序そのものを再構成しようとするのである。‬


ー フーコ『言葉と物』 物で書かれたもの


 Le nomade a un territoire, il suit des trajets coutumiers, il va d'un point à un autre, il n'ignore pas les points (point d'eau, d'habitation, d'assemblée, etc.). Mais la question, c'est ce qui est principe ou seulement conséquence dans la vie nomade. ー Gilles Deleuze et Félix Guattari


ジョイス文学は消滅したゲール語について考える。ゲール語は絶滅させられたのか?否、民の英語を使う生活上の要求の中で捨てられたのだ。ジョイス文学は、絶滅させられたと想定したうえで構築されるアイデンティティの国民文学とは全然違う。新しい文学はあらわれるときは、文学は死に切った過去を発明する所に「生まれ変わる」ようにみえる。しかし単純ではない。問題は、アジアの形而上学にとって死者はなくならないように、“自分で決めた亡命”を行ったジョイスが同時に亡命させた「アイルランド」の死んだ言語はなくならないからである。『フィネガンズウエイク』のどの文も異界をもっている(開かれた海に合流する「河」として表象される)。現存する50ヶ国語の言語を利用して作られる見えるものと、消滅した見えないないものとが互いに近くあることをジョイスの言語(「宇宙の劇場)」は思わせる、見えるものとみえないものとが互いに近くあることを思わせる、死者が卑近な生者に生まれ変わる世界の原神話。しかし世界の原神話はそれほど迷路ではないように思う。ジョイス文学が繰り返しとらわれているようにみえる、同じ世界に生者(目にみえるもの)と死者(目に見えないもの)が共存していると考えてみたら、言語的存在である人間の意味に関してどんなことが言えるだろうか。たとえば生者と死者が共存する世界で考えられてくる「連続性」は、外部の思考において成り立つものである。それは生者は自分たちしかいないと彼らの奢る世界で考えられているような「連続性」とは違うのだろうな。(実数と虚数で構成される空間での微分は実数空間の微分と随分と違うよねと書いては専門家に怒られるだろうけれど) 生者と死者の共存する世界は、何と無意味な生者の驕った世界の連続性に包摂されていることか。国家神道から、戦争で殺された300万人あるいは2000万人を切り離そうとしているではないか!


l’amour est le comble de l’esprit

et l’amour du prochain est un acte



だれが言っていた言葉だったか忘れてしまったが、愛は精神の高さである。愛は高さをもっているからといって愛は遠くにあるということではない。至上なものは卑近にあるからである。この関係は言語との関係においてこそ問題となる。言語とは共通の記憶を負おうとする象徴である。他者を常に自分のまわりに置く行いによってでなければ、どうしてこのトータルに世界とかかわる言語が成り立つというのだろうか?


結局吉本隆明天皇原発を批判できなかったじゃないですか。彼の思想と関係ないとして議論されないが、もし彼の思想の中心を為すものだとしたら一体それはなにでしょうか?


Finally, where abstract individuality appears in its highest freedom and independence, in its totality, there it follows that the being which is swerved away from, is all being; for this I s reason, the gods swerve away from the world, do not bother with it and live outside it. These  gods of Epicurus have often,  been ridiculed , these gods who , like human being, dwell in the intermundia( spaces between the worlds), have no body but a quasi-body, no blood but quasi- blood, and content to abide in blissful peace, lend no ear to any supplication, are unconcerned with us and the world, are honored because of their beauty, their majesty and their superior nature, and not for any gain.

- Marx


最後に小津安二郎の映画『東京物語』(1953)に触れて終章を閉じたい。小津映画の場面設定での堅固な硬直性と深い空間性はべラスケスに通じるものがあるのではないだろうか。たとえば、東京に出た老父婦が長男の家で一族と再会する一シーンでは、ローアングルで人間的に登場人物たちがとらえられ、床と柱、天井、障子などの縦横の線による幾何学的構成のなかに人物群は放射線状に配されており、上からは電灯の傘が吊るされている。これらは<ラス・メニーナス>の空間やその構成を彷彿とさせる。しかし、共通するのはそうした堅固な構築性に止まらない。小津映画のテーマの普遍性は、べラスケス絵画に、平凡な日常に潜む非凡なる尊厳に相通じるものがあるのではなかろうか。特別な悲劇やドラマがないまま、淡々と流れゆく日々の生活に秘められた人間(凡人)の厳粛さこそ、小津映画の、そしてべラスケス絵画の神髄である。

ー大高保二郎『べラスケスー宮廷のなかの革命者』

 le Destin ne peut vivre en honnête homme. Qui ne connaît les rites ne sait comment se tenir. Qui ne connaît les sens des mots ne peut connaître les hommes > (Analects)


 日本語千夜 小林


ニューヨークの美術館は本当に凄い。異論もない。だがあえて言うと、この美術館が依拠している、フランスのブルジョアが都市に創造した世界にたいして徹底的に否定してみせたボヘミアンの芸術家たちのアナーキーズを保っているかといえば、まだ何十の大富豪の寄付によって支えられている美術館は上流と中流に属するものである。比べると、ロンドンの現代美術館ははじめから労働者階級の博打金で支えられている。彼らはここに来ないが、来るときは、中流のような表象の芸術にたいする関心を乗り越えてやってくる。反表象のアートと出会う。パリの芸術家たちの反抗する精神もこういうものだったのじゃないかな。多分ドレフュス事件を契機に、ベルエポックと呼ばれた神話を拒否した


「国に帰れ」で罰金最大270万円。ニューヨーク市が新ガイドライン。そもそもニューヨークは国家(アメリカ)でないと指摘される。多分多分属しているが、部分にならないということか。これが証明しているのではないかしら。

ニューヨーク市では、雇用主や家主、ビジネスオーナーらがICE(移民税関捜査局)に通報すると脅かしたり、相手を侮辱的に「illegal alien」(不法入国者)と呼んだりすると、市の人権法違反として、最大で2万5,000ドル(約270万円)の罰金が科される。」



竹内の「近代の超克」が終わったとき、日本における構造主義の思想の受容がはじまる。反復は全くなかった。はたしてそうか?文革イスラム革命を契機に、思考実体(中国、イスラム)から思考形式(他者と外部の思考)へ行くのである



「構造はあらゆるものの支えとなり続ける。ただ一つだけ難しい点は、支えようとしている場所がすでに進行中であることだ。」(ケージ)

日本書紀』は中国知識人と韓国・朝鮮知識人と彼らに育てられた(遅れてきた)日本知識人が協力してできたものである。構造は彼らを支えた。問題は、漢字における三百年間のズレというか、音声の運動が生じていたことである。国家のアイデンティティの記録ーそれを国家のアイデンティティとして解釈する明治近代の語りも含めてーは、エクリチュールの統合できない差異の運動を隠蔽できない。


原発災害のときは自発性をもって街頭に出た市民と学生が一人一人が抗議を書いた。十万を超えるときに自民党にやっつけられてしまった。天皇が祈ってくれる?怒る人がいなくなった


深読みであると言われるだろうし、また論理飛躍の安易な適用と非難されても仕方ないのであるが、MEMOとして、鬼神論で読み解く『銀河鉄道の夜』を書き留めておこうと思う。『銀河鉄道の夜』の初版は1934年である。『銀河鉄道の夜』は、他者を殺戮していく「昭和10年代がはじまる夜」をどう見ていたのか。『銀河鉄道の夜』は近代批判の視点をもっているとおもう。『銀河鉄道の夜』に、沈没したタイタニック号の死んだ家族を描いた場面があるが、大変気になるこの場面をどう読み解くかについてわたしは何の考えもなかった。仮にこれを精神分析の近代をもって解釈しても、ジョバンニのオイデプス的夢と(過剰な理念を復活させようとする)父の欠如を読む近代が繰り返されるだけだろう。だけれどそうではなくて、子安先生の講義のテーマに深く関係すると思っているのだけれど、アジアの形而上学として共有された鬼神論から近代を批判する視点で読み解くことができるかもしれないと思い始めている。お母さんと子供が各々、魂(=気=神)と魄(精=鬼)に対応していると考えてみたらどんなことが言えるか?朱子の鬼神論の言説では、精神(= 魂+ 魄 )が活発に集まって物(と人)へと成るといわれる。ここでもっぱらジョバンニは亡霊を見ているだけだとする見方をとろうとしているのではない。ジョバンニはハムレットの場合と同様に、他者が自己を規定する生命と力の意味を再構成しているのではないだろうかと考え始めている。そうして他者の意味をすこしでも考えて、なんとか、他者を分散させてしまう自己同一性の<同一者>の見方にたいして距離をとるポスト構造主義的読みになる可能性のことをおもうのである。


もし「教育勅語」の’前近代’を批判しているつもりならば、「大学」という言葉をまだ使うことに違和感も疑問もない話は恥ずかしい



ヨーロッパで起きていることはアジアでも起きている。政治の思想は、経済の話に還元されてしまっていて、専らグローバル資本主義の成長を分析して、国のこともアジアのことも地球温暖化も問題にしないというような単純な話となってしまっている!?


朱子語類の鬼神論はおもしろかったなあ。アジアの形而上学を考えることになった。来月からは朱子の性理論をよみはじめるという。朱子から仁斎を考えることになるかもしれない。仁斎はなにを脱構築したか理解が深まるだろう。ほんとうに楽しみである。


ヨーロッパで起きていることはアジアでも起きている。政治を問う思想は、経済の話に還元されてしまっていて、そこで、専らグローバル資本主義の成長を分析して、国のこともアジアのことも地球温暖化も問題にしないというような単純な話ーハイパーナショナリズム如きものーになってしまっているけれど何も語っていない!?



子供のときは、‪母方の戦前大地主だった祖父と一緒に、テレビの国会中継ゴジラを見たものだ。「でかいネズミが暴れている、東京はどえらいことになっている」と言う。このパニックはどうも彼の農地改革の記憶の恐怖と結びついていた。恐怖というのは事実の裏づけがないようなそれなりに成り立っているロジックと両立するらしい


エクリチュールと絵画の魔法は、死者を生者のように見せかけて偽る白粉の魔法なのである」(デリダ『散種』)をさがそうとしたら見つからなかったが、スゴイ文をみつけた。訳す力がなくて申しわけないが、音声のなかで見えない漢字エクリチュールの存在を可視化しながら、大体この一文とおなじことを言っているとおもわれる。(デリダはどのページも同じことを書いている)。近代は、かつての生まれ変わり伝説にあるような感じで死者が生者の非常に近くに在るという見方を抑圧する。一元的同化主義と開発と戦争のときがそうである(靖国神社の近代が2000万人の命を奪ったことを忘れてはいけない)。わたしは平田篤胤の鬼神論について考えているが、ここでデリダマラルメとパウンドの詩について言及している。本来的にジョイスの文学FWのエッセンスもここに存すると思っている。もし異界のようなものがあるとしたら、どういうことが言えるか?魔法は異界に対して沢山の入り口を作ること。これによって抑圧を抑圧するというか。魔法という言葉に違和感があるならば、これを形而上学の思考としてよいのではないか。形而上学の思考は、言説「靖国神社としての日本人」などにからみとられて、靖国神社の近代がアジアの2000万人の命を奪った歴史を忘れてはいけない

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いずれにせよ、言語と物とが両者に共通とみなされた空間(「言語のうちにはひとつの象徴機能がある。けれどもバベルの災厄以降、もはやそれを語そのもののうちに求めてはならぬ」)で、この特権は(印刷術の出現、東方の写本のヨーロッパへの到来、音読や上演を目的とせず、それに規定されない文学の登場、伝統や教会の権威よりも宗教上の原典解釈が重視されたという事実ー、これらすべてはどれが原因でありどれが結果だとはいえぬにせよ、西欧において<書かれたもの>が占めるにいたった基本的な地位というものを証してくれる。これ以降言語は、書かれたものであることを第一義的性格とするようになる。声の音は、言語の一時的で心もとない翻訳にすぎない。神が世界のうちに残したのは書かれた言葉であり、アダムは最初の名を獣たちにあたえたとき、これらの可視的な無言の標識を読んだのに過ぎない。<律法>は人間の記憶ではなく、<石の板>にゆだねられた。真実の<言葉(パロール)>は、書物のなかにこそ求めなければならない。

フーコ『言葉と物』Les prose du monde