西田幾多郎『哲学の根本問題』を読む


ポストモダンにおける差異の肯定も、モダンにおける差異の否定(つまり否定の差異)も、「哲学の根本問題」の思考において、分節化されることが無いのよね、このことが西田において理解されていないというか、もちろん理解しているのだろうが、読者に対してあえて全然問題にしない戦略をとるー わたしの理解の限界を超えるのでなければ。せっかく複雑で透明でない<他者>を、なぜ、単純で透明な<我と汝>にしてしまうのか?この「哲学の根本問題」を問題にすることこそが「哲学の根本問題」である。

‪ところで表現の自由をいうのなら、世の中にポストモダンの思想史を書くスペースがなくなったというこの問題を考えてみる必要があるかもしれない。そもそもポストモダンにおける「脱近代」の「脱」は破壊の「反」の意に理解されたところから間違えたんじゃないか。破壊の反近代と言っても、それが対抗する近代は永久革命をもっているから、おなじ否定の差異化と言わざるをえない。諸言語のナショナリズム、これは、16世紀の第一次的パロールの絶対性の喪失(近代におけるバベルの災厄)がもたらした混乱である。「脱近代」は、否定の差異化をおしすすめていく音声中心主義のラジカルモダニズム脱構築する。ヨーロッパでもアジアでも、どこでも、差異を肯定していくエクリチュール的運動の思想史的事件性が問われているのだけれど。しかし現在は、差異の肯定の脱近代は否定の差異の近代によって包摂されてしまったといようとする時代なのだろうか、すでに言われたことをはじめて語るように..


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