なぜ近代は古代を必要とするのか?

‪「クーオク万歳三唱」


‪「クーオク万歳三唱」という文が『フィネガンズウェイク』にあった。「quoi? quoi? quoi ?」と万歳するカモメのマーク王はいったい何を万歳するのかさっぱり分からぬとジョイスは嘲笑った。ここでジョイスアイルランド独立運動の起源的古代ゲールのことを考えたかもしれない。問題は、近代は永久革命の自身を称えるときは、どうしてかくも古代の姿における自身に万歳するのか?どうしても起源を必要とするこのことはアイルランドだけに起きたのではない。フランス革命の起源的ローマもあったし、明治維新の起源的古代もあった。‬そこで近代は古代の姿における自身に万歳したのだ。だが近代の革命と古代における自身の姿は全然類似していないというのにあたかも類似している、というか、同一であるという言説がとられる。奇妙なことに、近代は古代を考えることによってこれをたたえ、同時にこの同一性に反発して批判する否定的差異をもつのである。多分ここにはベンヤミン- ボードレール的テーマがある。世界は名もなき物質で満たされている(ベケット)。われわれは名づけられない知覚できぬ未知なものを見たり聞いたりする。名づけることは反復にほかならない。それは父の反復の危険がある。他方で、類似の思考が侵入してくると、何が本物でなにが射影なのかわからなくなるとき、アンチ・オイデプス的あるいはリゾーム的な差異化のチャンス(porous)があるのではないだろうか。‪前に言われた事を繰り返して言われる事も実は常に初めて言われるのだし、初めて言われる事も既に前に言われたことである。‬ 最後に古代と言ってもね、それは17世紀が制作した古代なのだから