思想史についてー思想史アマチュアが書きました

講座『大正を読み直す』のときに彼の名前をはじめて知ったとおもっていたが、そうではなかった。忘れていたが、思想の歴史に関心があったがどう勉強していいのかわからなかった学生時代に、津田左右吉の本を読めと父に言われた。そのときは何か彼をとらえている情緒的知を感じて非常に怖かったのを思い出した。『古寺巡礼』の和辻を読めと文化的にすすめてくる多分ヨーロッパに負けないと構えるこの言葉に躊躇いと後悔を感じないことはなかったが、比べると、津田を読めと言ってくるあの雰囲気は戦前からきた何かなのだろう。否、もしそうならばそれは戦後に隠蔽される何かであるはずだ。津田は戦後も考え方を変えていないということがあるのかもしれない。単純化を避けるべきだが、強いて言うと、和辻は思想の歴史を考えていたらという前提で言うと連続性があったというだろう。偶像を指差してそういうふりをするだろう。津田は彼の専門なのかわからないが思想の歴史に連続性をみとめないだろう。それを認めたら国家に対等でなくなっちゃうというか。しかしシナ文字が日本知識人の思考の発展を阻害したという観察は古代に遡って言われる。「シナ」消去の主張は一貫性がある。さてわたしは思想の歴史は現在もどう勉強していいのか分からずにいるアマチュアであるが、思想に歴史があるとか無いとかをわれわれが言うことにいかなる権利があるのかという問いに惹かれる。法の歴史に連続性は無いが、不連続であってはならない。これは論理的フィクションによる。思想の歴史はもっと複雑にみえるのは言語が関わるからだろうか、到底わたしのようなものに思想史に取り組むことなどは無理なこと。そのかわりに、映画の歴史ならわかるのではないかと思っていた。目に見えるものを対象にするからであるが、しかしこの見通しは甘かった。ヴィットゲンシュタインにおける盲人との対話において示されるように、人間の精神は、そもそも見ること自体を疑うところに来るからである。精神が見えないあり方をしているからかもしれない。映画史も思想史と同様に、見えないものとともに思考していく。結局思想の歴史が二重化しただけだったのではないかと自失茫然しているー此方では思想は見えないものであり、彼方にいっても映像は見えないものがある。絶えず精神は亡霊の如くこの二つの間に彷徨っている