MEMO

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麻生は自明のこととして、「一つの民族」と言っているけれど、そもそも「民族」の語は百年前に出てきた‪近代の新しい概念。それ以前はどうだったのだろうか?言葉がなかったのだからそれが意味しているものを考えることができなかった。‬


‪• 明治に出たもので、これは1912年発行のもの。ヨーロッパの後期啓蒙(とくにイギリス功利主義)の影響を受けながら朱子学的に訳をつくっている。‬ (子安氏の配布資料)


井上哲次郎の訳語をみると、Nationality には、「民族」という言葉が出てこないことがわかる。‬Nature をどう理解するかが近代概念で問題となるが、たとえば、Law of nature は、「性法」とも訳されている。朱子学的な性理学の影響をたしかめてみることができる。‬ 「必然」という語も、朱子学的に(または脱朱子学的に)訳語が作られたことばの一つで、調べてみると、Necessity は「必至」、「必然」。井上哲次郎たちは、17世紀の伊藤仁斎の「童子問」(「天有必然之理、人有自取之道」)に依っていた。


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江戸時代は政治的自由はゼロだったが、思想論争は現在より活発だった。現在日本はそこそこの自由があるからかえって隅々まで議論がない。不平等は「前近代」よりも広がっているのに


天皇に人権がないことが問題なのか?解釈改憲的に、天皇の(象徴性を超える)大御心の象徴行為と交換に、国民主権を奪われようとしているわれわれは彼の人権を心配するというの!?


社会学ボット

【従属理論】周辺地域から中心地域への余剰流出という搾取関係に注目し、支配と従属の点から発展途上国を分析する理論。中心―周辺の二極構造理論という性格をもつ。世界システム論へ発展した。


和辻が物語る「日本の神々」の特徴に「限定せられない」あり方を読み出すが、だけれど神々における大御心の連続性は「限定される」ものである。「現人神」である「天皇」は「無の場所」であるとはいえないとおもう。‪わかっていることだが、常に、和辻は饒舌に語るが、西田は沈黙する、というか、和辻について語ることができるが西田を読むと語れなくなるのである‬..。だが敢えて語るとしたら、なにを語るのか?一般概念として限定せられないとはどういうことなのか?宣長からは、中国の神(シン)の相違としての神(カミ)の多元主義の概念が現れる。これは「無の場所」と西田が呼ぶものではない。一般概念の限定があるからである。また同様に、西欧の一神教的神の相違として再構成された和辻の「日本の神々」も「無の場所」ではないようだ。連続的な<一>かつ<多>における一般概念の限定があるからである。西田がいう一般概念として限定せられないとは、同一性と相違性の見方を棄てるものなのか?「無の場所」といわれるものは結局、無からの自己差異化なのだろうか? 西田についてまだよくわかっていないなあ...しかし和辻からみえてきそうなものがある



映画は、映画として成り立つためには、われわれの視線を、われわれの自己の欲望に適う世界と交換する(置き換える)。われわれとは身分的帰属を失った都市の大衆のことで その世界は、スターリズムなのかファシズムだったのか。否、夢の工場、ハリウッドだった?この百年間にだれでもなかったわれわれはなにを見たのか?なにも。20世紀としての映画を考えようとしても、21世紀からはその映画も忘却されて存在しない。思考を、思考における白紙の本のようなスクリーンに、死に装束に、一行づつ書き綴るだけだ...


もう明治維新が作った日本なんか無くなってもいいじゃないですか。荻生徂徠はわれわれは「東夷」だと言っていますし、今年から東夷の国になりましょう。「東夷」とは何でしょうか?『仁斎論語塾』(子安宣邦氏)で江戸時代の読みで『朱子語類』を読んでいます。朱子のコスモスロジーでは、天から物(人と物)に理が同一的平等に与えられていました。でも経験的に言って人間同士の間、人間と動物の間に相違があるようです。何故でしょうか?そこで朱子は説明します。理との関係において、人間は完全だが、(人間に似ている故に動物のなかで最も)霊性が高い猿は不完全です。朱子の知において‬透明性が記号を貫くのですが、だけれどまったく不透明な外部のものがいる、それが夷狄なんです。東西南北に夷狄がいますが、当時中国にとっては北夷が問題でした。面白いのは、孔子は道徳が廃れたとき東の海を筏で渡ろうと考えていたのですね、つまり「東夷」の国への亡命。いま風にいうと、「東夷」は中心に絡みとられないという意味で外部の思考です。幕末の尊皇攘夷は日本が中国でシナが夷狄だと言っていましたが、これが底無し互酬的ヘイトスピーチナショナリズムの原因です。むしろわれわれは地球とアジアを拠り所にする「東夷」の市民であることを選択します


‪推敲中

ゴダール『中国女』(La Chinoise 1967)に文化大革命の政治的災害はない。ブルジョワ学生のマオイズムの部屋で起きる偶像破壊は別の偶像を呼び出すのではないかという危ない感じがする。ブルジョワから生まれたイデオロギーを拒否した後に、「明確な映像に曖昧な言葉をぶつけよ」というような美学的原理の包摂の復活がくる‬ように


 ‪ゴダールの天と地の間を語る形而上学においては、天から平等に物にロゴスが与えられる。「映像」も「言葉」もロゴスをもっている。だけれど「明確な映像と曖昧な言葉」(『中国女』1967)といわれる。ここでは映像そのものと言葉そのものとの関係について考えられているとしよう。すると、映像(明確な秩序)は完全な同一性で、言葉(曖昧な秩序)が不完全な同一性とされているのはどうしてなのか?平等ではないではないか。同一性と相違性のフレームにおさまらない、意味作用をもった不透明な外部の思考が存在すると考えようとしているからではないか?‬それは映画と呼ばれる...

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 投射は二つある。<自然から人への投射>と<人から自然への投射>である。前者は国家的祭祀の方向をもち、後者は帝国のコスモスポリタンの方向をもつといえるのではないか。

「公式的な,中国の,国家的祭祀は,世界のいたるところと同じく,ただ共同体の関心にのみ奉仕し,祖先の祭祀は氏族の関心に奉仕した。純 粋に個人的な関心は,両種の祭祀に無関係であった。偉大な自然精霊を ますます非人格化し,これらの精霊の祭祀を官職的儀式に還元し, この 儀式のなかのあらゆる感動的要素を抜き取り,ついにはこの儀式をたん なる社会的な因襲と同一視するやり方は,―ーすべてこれらは高貴な教 育を受けた知識人階層のしわざであったが一民衆の典型的な宗教的要求を全く無視していた。」(マックスウエーバ『儒教道教』木全徳雄訳, 1971年,創文社)


‪ 常のこととして、和辻は饒舌に語るが、西田は沈黙する。というか、和辻について語ることができるが、西田を読むと語れなくなるのはどうしてなのか?和辻が物語る「日本の神々」の限定せられないあり方は、西田幾多郎からの影響もあるのだろうか?「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない」と西田は語っていた。和辻は「日本の神々」の特徴に「限定せられない」あり方を読み出すが、だけれど彼がみとめる神々における大御心の連続性は「限定される」ものである。この意味において、「現人神」である「天皇」は「無の場所」であるとはいえないとおもう。ところで一般概念として限定せられないとはどういうことなのか?宣長からは、中国の神(シン)の相違としての神(カミ)の多元主義の概念が現れる。これは「無の場所」と西田が呼ぶものではない。一般概念の限定があるようにみえる。また同様に、西欧の一神教的神の相違として再構成された和辻の「日本の神々」も「無の場所」ではないようだ。連続的な<一>かつ<多>における一般概念の限定があると言わざるをえない。結局西田がいう一般概念として限定せられないとは、同一性と相違性の見方を棄てるものなのか?すると、「無の場所」といわれるものは、無からの自己差異化なのだろうか? わたしは西田についてまだよくわかっていない。しかし和辻からみえてきそうなものがある。何にしても、無からの自己差異化を読む思想史が意味をもつためには、それは天皇ファシズムをささえた国家祭祀を止めた無からの出発をかならず考えたものでなければならないだろうとおもう‬


記憶の中では、茂った所で姿が見えなかった、飼育係が抱かせてくれた、動かない、地球のリズム。オーストラリアはショックだろう。コアラこそ自分(東夷)にとっての外部である


<戦争に勝てば問題は解決する。文学は負けない>(昭和日本ロマン主義)+<大衆がやれ>(吉本隆明)+<戦争を終わらせるために戦争せよ>(三島由紀夫)= 0


何をしているか、何を言っているか。そして二つのあいだ、内容と表現のあいだにはまだ地層には見えなかった新しい関係が確立される。つまり言表または表現は非身体的変形を表わし、この非身体的変形は、このようなもの(特性)として、身体または内容に帰属するのである。――D=G(下)p305


論理に「国語」、文学に「国語」をどうしてもくっつけなくてはならないのでしょうか、嗚呼、「国語」というイデオロギーの呪縛よ



どうして学者が関心をもたないのか?近代のわれわれからするとただのお飾りの本じゃないとなるわけだね。しかしなぜ飾るのかを考えてみよう。近代のテクストは言語が透明になっている(解釈し尽くすとき言語は透明になる)。それとは違って、『ケルトの書』はルネッサンスの本みたいに、言語が透明でなかったからこそ飾ることができるんだね。ジョイスは『ケルトの書』を見ながら『フィネガンズウェイク』を書いたらしい(ホントか?)。『ケルトの書』を言語の存在を象徴している本と考えていたにちがいないんだ。アイルランドのときは『ケルトの書』と『フィネガンズウェイク』を以って言語の存在の象徴のことを考えた。東京では17世紀が読んだ『朱子語類』が新しい読み方を構成しようとした四書の漢文から言語の存在を考えるようになったのだけれど


‪ロンドン時代にバービカンセンター で’future city’という建築の歴史を考える展示を見学した。建築は、デリダ脱構築によって、壁も階段も無ければ床も屋根も無いないものが成り立ってくる(写真左)。Daniel Libeskind (写真右)の場合は、言語の存在の象徴であるジョイスのテクストを貼り付けた建築である。バベルの塔の再建ではないか?‬

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「フランス現代思想」はアジアのなかの解体日本思想史が喋るのをきいているとフーコを思い出したらしいが、わたしは逆だ。フーコが喋るとアジアの解体日本思想史の像が来ていた


東京タワーを眺める。その下で、350年前、荻生徂徠は落語で語られるようには民への思いはなく、国家しか関心がない。徂徠は思想史を語り出した。聖人による命名制作論の成立とともに武士のアイデンティティが確立していくだろう。武士の活動家的知識人としてのあり方は幕末と明治維新を待たねばならないのである


日本知識人の他の国にない『資本論』への拘りは日本ファシズムかもしれない。「自由に読み、語れる言語環境」(内田樹)も天皇のおかげとは言わないでね、愛国心が読む『資本論』?


自分が不利になっていくのになぜ彼方側にいる独裁者に惹かれてしまうのか?世界の半分しかみていないからではないか。新聞も大学も?2011年から揺れはじめた。市民が世界に介入するしかない



‪私なんかは、ヨーロッパ翻訳言語である日本語で読んだスピノザの思想であるが、翻訳のために参照された朱子学のほうがどんどん気になってきた。昨日学んだことだが、なるほど、ヨーロッパ合理主義が危機に陥ると、隠されていたアジア的神秘主義が表にあらわれるらしい(井筒氏の仕事等々)。「天理」は普遍的公理だいうしね(横井小楠がこれを発展させたという。彼はヨーロッパ対日本の対立を超えたところで考えることができた)、だけれどこれは近代(明治)になって失われていく。さてここでは敢えて朱子の思想から、 普遍的公理によって考えたスピノザを考えてみよう。「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。」(畠中訳、『エチカ』岩波文庫) The object of the idea constituting the human mind is the body, or a certain mode of extension which actually exists, and nothing else. 仏訳も示すと、L’objet de l’idée constituant l’Esprit humain est le Corps, autrement dit une manière de l’Étendue précise et existant en acte, et rien d’autre ‬

‪身体は、厳密に言って、神を表現する属性そのものではない。「延長の様態」といわれている。延長とは何か?様態とは何か?これについては専門家の解説に委ねるとして、ここでは朱子学的に考えてみると、延長の様態とは、何か、同一性に対する差異性である、もっとはっきり言うと、同一性でも多様性でもないものと理解していいのではないか。ところでポストモダン的にいうと、神の世界の中で、身体を住処とするわれわれの周りに近くに存在するものといったら神ぐらいしかないことを考えると、結局われわれは神に属するとしても神の部分ではない(したがって神に支配されない。ただ人間に自由意思が存在するかどうかは別の話である。)何か、スピノザが身体と呼ぶものは、神の世界における外部の領域を成立させるようである。

‪最後についでに書くと、普遍主義者スピノザオランダ語よりもラテン語で考えたほうが楽だったといわれてきたが、普遍主義批判のポスト構造主義とポストコロニアリズムの時代は、実はポルトガル語スペイン語で考えたほうがうまくいくと訴えていたのではないかという有力な説がでてきた。議論のある所である。‬


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大岡昇平『野火』は「野火の煙が海草のように揺れながら、どこまでもどこまでも、無限に高く延びる」という。記号の「煙」は何を意味するのか。能記と所記のズレ。終わりなき不在における意味作用。その煙は「明治維新」だったのか?ならばその帰結は何か?その意味は何だったのか?小説の最後は、「天皇陛下様、ヘリコプター様、どうぞ助けに来てください」


演劇はどこにも存在するが、社会がどこにも存在しているとは限らない。社会対個人という視点をもってリアリズムが問う<反抗する個人>の視点は、フランスみたいに社会が存在した所でのみ成り立つ。アイルランドのように植民地化されてしまって社会が無いというのは、地球の多数派の経験である。社会が存在していないので、<反抗する個人>の「個人」が成り立っていない。国によって異なるが、独立を獲得してもその影響は大きいことは研究されている。ここで戦後イタリア映画とヌーヴェルバーグの影響を受けたアフリカ映画のことを考える。自主制作の映画のほうは社会の存在を自明とする言説にたいする闘いを得意としているのかもしれない。しかしである。後期近代のネオリベグローバル化によって、開発と戦争と同化主義によって、ヨーロッパからどんどん社会がなくなってきたではないか。新しい普遍主義、新しいロゴスを構成しようにも、極右翼の台頭によって非常に悪い形にならざるを得ないだろう。日本の現実についても説明する必要がない。もっと酷い(戦争責任の問題すら解決していないのだから)。だからこそ現代ドイツの戯曲『揺れる』の問いかけに意味かあるとおもうのである。「やだ、私たち、第三世界にいるわけじゃないのよ。違うよ、ベービー、第一世界だ」

自分が不利になっていくのになぜ彼方側に惹かれてしまうのか?世界の半分しかみていないからではないか。これが2011年から揺れはじめたのである。もうやっていけなくなった。市民が世界に介入するしかない


ポストコロニアリズムの教科書の序文を読むと、現在イギリスではimperialismが帝国主義という意味をもたないと書いてある。「一生懸命屋さん」という意味でしか理解されないという。たしかに、「植民地主義者め!という非難の言葉はない。宗主国の真似をする現地住民は自分たちでは歴史を作ろうとしない「怠け者」としてステレオタイプ的に表象される。歴史の悪夢から目覚めたいのだけれど、「怠け者」とされてしまう



推敲中

‪Le visage est présent dans son refus d'être contenu. Dans ce sens il ne saurait être compris,c'est-à-dire englobé. Ni vu , ni touché, ー car dans la sensation visuelle ou touché, l'identité du moi enveloppe l'altérité de l'objet qui précisément devient contenu. ( Levinas, visage et éthique )‬



 2009年にヨーロッパから移ってきた。東京で、ヨーロッパ対日本の対立を越えたところで考えることができないだろうかとおもった。渡辺一民氏から、‪アジア大好きの代表選手は竹内好で、ヨーロッパ大好きの代表選手が和辻哲郎だと教わったときは、ヨーロッパ対日本の対立を越えたところで考えようとした両者であるが、竹内はアジアから考えたのであり、和辻はヨーロッパから考えたというふうに私は理解していた。問題は、和辻が到達した功績は疑うことができないが、しかし現在では、とくに若い人たちの間では、和辻については天皇を中心とした人倫的国家共同体をいう彼の戦争との関わりが忘れられているらしい‬。子安先生が問題にしている「祀る神は祀られる神である」という和辻の言説のことを考えながらこれらの文を読むと私も非常に心配になってきた。ロンドンのユダヤ人たちが私に言っていた言葉を思い出す。「あまりに完全すぎる理論も危険な偶像なのだよ」、と。


建武中興の大きい運動を背景として生まれた『神皇正統記』は、尊皇思想の大きい道徳をなすと共に、また人倫的国家理想の伝統にとつても一つの巨大なモニュメントである」、「明白に公的な立場に立ち、日本国家の人倫的意義を闡明し ようと努めてゐる」(和辻)

 「三種の神器が神器たる所以は皇統の神聖なる伝統に存するのであつてこれらの徳に存するのではないが、しかし神器の表示する意義はまさに正直、慈悲、智慧の本源たることにほかならぬのである。従つて三種の神器は、天つ日嗣高御座の業の神聖な伝統と正直慈悲智慧による統治の伝統とを同時に指し示してゐる。さうしてこの正直慈悲智慧による統治とは、正義を実現するに私なき明浄心と仁愛と思慮判別とを以てするところの 道の支配と異つたものではあり得ない。」(和辻、『神皇正統記』にみられる「三種の神器」 をめぐる北畠親房 について)


建武中興の大きい運動を背景として生まれた『神皇正統記』は、尊皇思想の大きい道徳をなすと共に、また人倫的国家理想の伝統にとつても一つの巨大なモニュメントである」、「明白に公的な立場に立ち、日本国家の人倫的意義を闡明し ようと努めてゐる」(和辻)

 「三種の神器が神器たる所以は皇統の神聖なる伝統に存するのであつてこれらの徳に存するのではないが、しかし神器の表示する意義はまさに正直、慈悲、智慧の本源たることにほかならぬのである。従つて三種の神器は、天つ日嗣高御座の業の神聖な伝統と正直慈悲智慧による統治の伝統とを同時に指し示してゐる。さうしてこの正直慈悲智慧よる統治とは、正義を実現するに私なき明浄心と仁愛と思慮判別とを以てするところの 道の支配と異つたものではあり得ない。」(和辻、

神皇正統記』にみられる「三種の神器」 をめぐる北畠親房 について)


In the plane

Every continuous function from a closed disk to itself has at least one fixed point.


This can be generalized to an arbitrary finite dimension:


In Euclidean space

Every continuous function from a closed ball of a Euclidean space into itself has a fixed point. (Wiki)



I

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「死ねば黄泉の国に行くしかない。」(理念的儒学)の思考性を排しながら、救済の「安心」に限定されぬとする思考の思考性に、宣長における虚構を以って虚構性を貫く近代が際立つ


デリダは、パロールエクリチュールの関係を逆倒させて、パロールに対するエクリチュールの優位を主張し、パロールを程度の低いエクリチュールだといった。その根拠として、デリダは次のようなことを言う。パロールは音からなっているが、その音は発せられる先から消えてしまう。にもかかわらず我々は、発せられた言葉を有意味なものとして一体的に理解するのであって、無意味な音の連続としては理解しない。何故かというと、普通の考えでは、音が時間の中で持続するからだと思われそうなものだが、デリダはそうは考えずに、言葉に空間性があるからだと考える。空間性というのは、エクリチュールの属性である。何故ならエクリチュールは文字によって表記されるのであるし、その文字に空間性があるからだ。文字というものは、一定の空間を占有することを本質とするのである。」引地博信齋 閑 話
閑 WANDERING ROCKS

ジョイスユリシーズ』第十挿話’さまよう岩々’では英国の植民都市ダブリンを行き交う人々の様子が19の視点によって物語られる。第十挿話を総括するような馬車の総督の視点もある。支配者に誰も挨拶するが、注意すると一人も彼に挨拶していないことがわかる。記号‘さまよう岩々’をどう読み解くのか?空間を奪われてはならない視差のエクリチュールが、全体を祀る身振りを以ってする大御心の如きナレーションの近代ー植民地主義の声ーに抗う。これは、天皇ファシズムにおける戦争責任ー15年間の日中戦争ーが果たされないうちに、天皇が復活するという21世紀の日本の話ではないかと私は第十挿話’さまよう岩々’を再構成して考えはじめた...
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記号「彷徨う岩々」とは何か?孤児たちの抵抗?空間を奪われてはならない視差のエクリチュールが、全体を祀る身振りを以ってする大御心の如きナレーションの近代ー植民地主義の声ーに抗う


‪子安先生のもとで『朱子語類』を読んでいる。朱子は天が賦与する理の平等性と気による多様性を考えたのであるが、経験的にあらわれる差異についてなんとか説明しなければならない。弟子たちの質問に大変苦労している。多様性については、差異があるのは人と人との間だけではないようである。動物の間にもである(猿は人間に似ているが故に動物の中で霊性が最も高い)。この場合、文化人類学のように、中華文明における人と東の海の向こうにいる東夷との関係は、猿と他の動物との関係であるかのようであるとは考えなかったようである。東夷は理において完全である人でもなく猿でもない。東夷が成立するのは外部の思考においてあると言わざるを得ないという。なるほど荻生徂徠は人類の視点に立って、日本は東夷であると語ったのはそういう意味か。学ぶことが多い。‬『千の高原』のポスト構造主義からいうと、われわれは東夷である、だから内部に絡みとらわれてはならない。21世紀においては呉叡人さんがいう「台湾ナショナリズム」がそういう外部のあり方ではないかと考えはじめた...


Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)

レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。千の高原



Ecrire à n, n-I, écrire par slogans; Faites rhizomes et pas racine, ne plantez jamais! Ne semez pas, piquez! Ne soyez pas un ni multiple, soyez des multiplicities ! Faites la ligne et jamais le point ! La vitesse transforme le point en ligne ! Soyez rapide, même sur place! ligne de chance, ligne de hanche, ligne de fuite. ne suscitez pas un Géneral en vous ! Pas des idées justes, juste une idée (Godard). Ayez des idées courte. Faites des cartes, et pas des photos ni des dessins. Soyez la Panthère rose, et que vos amours encore soient comme la guêpe et l'orchidée, le chat et le babouin.

 Deleuze&Guattari


Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)

レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。千の高原



ユリシーズ』の最後の挿話におけるおそるべき独白。ベッドのモリーの最後の言葉は、Yes、Yes、Yesだった。しかしそこでほんとうはNo、No、Noと言っていたのではないだろうか?YesかNoかの対抗言説ではなくて、‪無意識の、中産階級の同化主義の近代から逃走したい宇宙の中心からの声。聴こえるか‬?


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社会対個人という視点をもってリアリズムが問う<反抗する個人>の正義は、フランスみたいに社会が存在した所でのみ成り立つ。アイルランドのように植民地化されてしまって社会が無いというのは、地球の多数派の経験である。演劇はどこにも存在するが、社会がどこにも存在しているとは限らない。社会が存在していないので<反抗する個人>が成り立っていない。たとえ国が独立してもその影響は大きい。戦後イタリア映画とヌーヴェルバーグの影響を受けたアフリカ映画。だけれど自主制作の映画のほうは、ヨーロッパ演劇のロゴス、社会の存在を自明とする言説にたいする闘いを得意としているのかもしれない。しかしである。後期近代のネオリベグローバル化によって、ヨーロッパからどんどん社会がなくなってきたではないか。日本の現実についても説明する必要がない。だからこそ現代ドイツの戯曲『揺れる』の問いかけに意味かある。「やだ、私たち、第三世界にいるわけじゃないのよ。違うよ、ベービー、第一世界だ」


イギリスはBrexitといわれるものに賛成して投票したことは事実なのだが、彼らは何を投票したのか本当に理解していたのだろうか?


内閣支持率世論調査も意味があるのは国民主権があるからで、天皇ファシズムの戦争責任ー15年間の日中戦争ーが果たされないうちに象徴行為の天皇が復活したら意味がなくなるよ


推敲中

言葉と物のコンパクトな世界 No. 11


本居宣長の仕事のユニークなのは、言語の存在と人間(共同体)の存在とを同時にあつかっているところにある、と、私のような素人でもそれなりになんとかわかります。ただ、この「同時」というのは、何でしょうか。宣長の場合は、一方で、漢字で書かれた古事記から「大和言葉」といわれるものをどう読みだすかの研究と思考(「神」(シン)をカミと読むのが宣長の読み)があり、他方で、他の文明(中国文明)から自立することをもとめた(思考に還元できない)書く行為があった、というのが私の理解です。しかし加藤周一のように、カントがともかくもその分割を示した、経験的なものと先験的なものを、あらかじめ、ひそかに混ぜ合わせてしまうと、「宣長問題」が生じてくるようにみえます。子安氏はその「宣長問題」について言及しています。加藤が「ハイデガー問題」との関連で「宣長問題」を行ったのは朝日新聞夕刊(1988年3月22日)掲載「夕陽妄語」の「宣長ハイデガー・ワルハイム」と題された文章においてです。加藤がいう「宣長問題」とは次のような「宣長における謎」を指しています。「今さらいうまでもなく、宣長の古代日本語研究が、その厳密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が、上田秋成もしたように、粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは、何故かということである」。これにたいしては、子安氏がそれは「加藤が作り上げている謎」とズバリ指摘しています。近代主義の顕著な先験性の思い上がりというか、日本思想史も「知の巨人」とたたえられた近代主義者と同じようにしか考えないという話がでました。


推敲中

Criticism or Praise? 

Bertrand Russell said;With subjectivism in philosophy ,anarchism in politics goes hand in hand. ("History of Western Philosophy")

Although I really hate a wait-and -see policy in Zen, I think no one has intellectually come closer to "Zen"'s spirituality than Russell. Wittgenstein, A TORTOISE, would break open its shell and come out.