MEMO


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20世紀における存在は戦争における叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体の表象で成り立っていた。存在は死を投射した。絶対の過去が死だった。そして死から存在それ自身を投射する。死に切った過去から問われた存在はずっと死に装束だった。背後から突き刺してきた投射の矢が精神だと気がつかなかった



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ポストコロニアリズムの教科書の序文を読むと、現在イギリスではimperialismが帝国主義という意味をもたないと書いてある。「一生懸命屋さん」という意味でしか理解されないという。たしかに、「植民地主義者め!」という非難の言葉はない。宗主国の真似をする現地住民は自分たちでは歴史を作ろうとしない「怠け者」としてステレオタイプ的に表象される。明治維新の近代という反復する歴史の悪夢から目覚めたいのだけれど、「怠け者」とされてしまう


英国は去った。EUは中でコミュニケーションをするために英語で喋り続けるのだろうか?英語を母国語とする国がないのに。長期的にいって英語の衰退がはじまるのかという見方もある



生というこの不可解な謎、偶然、暗号、バベルの不和、……ーボルヘス


Πλάτων 

『国家』をギリシャ史に照らせば、プラトンが哲学者に要求している「転換」がホメロス的世界秩序の転倒に等しいことがすぐわかるだろう。プラトンの場合、「洞窟」に位置しているのは、ホメロスのハデスの場合のような死後の生活ではなく、地上における普通の生活である。ハンナ・アーレント「人間の条件」41

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近代世界をかわして偉大な過去へ行く?英国ラディカル・ナショナリズムの派手な国際的実験のインチキ。北アイルランドスコットランドが意思に反してEUから引き抜かれることに


思考も揺れる。われわれはどういう時代に生きているのか知りたい。後期近代は1960-1970年からはじまった。1980年代はどういうものだったのか。現在NATOはもうあんまり意味なくなったようだし、大島渚じゃないんだけど、出ていくイギリスのかわりに、死刑制度を廃止した日本をEUに入れてもらえないだろうかと頭の中でちょっとかんがえたりしたとき、1980年代にやっておくべきことがあったのだ、日本とヨーロッパとの差がつきすぎてしまった。EUモデルの東アジア共同体の意義深い構想もあることはあったが、英国のラディカルナショナリズムがもたらしたネガティブなEU像のもとでは、もはや無理だろう。この国は戦前の祭祀国家を否定したあり方でなんとかやっていくしかないとおもうのである。500年間の歴史の視点を以ってもっと勉強しなくちゃ


ポストモダンは知識人の不可能性をいうが近代批判をやめない。日本における知識人否定のラディカルモダニズムとは理念性なき理念性なのかー本居宣長津田左右吉、90年代柄谷行人


The election result is so sensational that it is easy to miss what is at the heart of it: a desire for normality. Like the American military spokesman in Vietnam who explained that they had destroyed a village in order to save it, voters have destroyed the familiar political system in an attempt to make it ordinary. They have confronted the two great anomalies of Irish politics: the half-in/half-out status of Sinn Féin and the duopoly of the Civil War parties. They have decided to get rid of both of them. ーFintan O'Toole


推敲中

‪「人類皆平等」の近代は、フランス革命から始まったことは確かだ。だけれどナポレオンの共和主義の反対に行くことになる方向を、あのベートベンですら、見抜くことができなかったエピソードを読むと、何が「人類皆平等」であるかの判断は簡単ではないのである。第一次大戦後のワイマール体制は「人類皆平等」の方向を打ちだしていた。だがこの体制から、ヒトラーという「人類皆平等」のラジカルな否定があらわれてきた。この混乱はどう説明できるのか?この混乱はフランス革命が百年間を以って行ったデモクラシーをドイツが僅か十数年間という縮約して実現しなければならなかったその無理から生じたのではなかったか、そういう説もある。この問題は、ほかならない、アジアの問題である。ヨーロッパはルネサンスから500年かけてデモクラシーの近代を獲得したが、アジアはそれを百年とか二十年でやろうというのだから、このような大変な圧縮のなかで、どういうことが起きるのだろうか?「人類皆平等」の民主主義を全体主義とかんがえたり、また全体主義を「人類皆平等」の民主主義とかんがえたりするという転倒が起きるかもしれない。東アジアは二十年ぐらいで民主化を行うが、比べると、日本は150年の期間があった。しかし昨年のことを考えると、民主化運動のリーダーを「人類皆平等」の否定者の烙印をはってはいなかっただろうかという危機感すらないではないか。これが東アジアのデモクラシーを先行した"150年間"の達成なのか?ここから、戦後の民主主義は本当にそれほど「人類皆平等」なのだろうかとどうしても考えることになる。大正デモクラシーというのは戦争さえなければ順調に完成するはずだった、だから戦後はこの<純粋>大正デモクラシーから再びはじめれば宜しいと楽観的に考えているとき、帝国主義の議会こそが戦争(日中戦争)を準備したかもしれないということは疑われることがない。こういうことをかんがえながら、「人類皆平等」の近代はなんだろうかと思ってしまう。果たして、「人類皆平等」は不要な観念だろうか?ベートベンの後期のピアノソナタをききながらおもう。そうはおもわない。理念としてもたなければやっていけなくなるだろう、と


書くことも描くことも、平面の上において同一性も差異性もなくて曖昧な本質しかなければ、区別があるのか?「文字で描く」は正しくない。外部に逃げゆく文字で描くというべきだ


このヨーロッパ翻訳語の日本語ではなに言ってんだか話がみえないが、西田と和辻はカントが大好きなんだろうってことはわたしにもよくわかる


「我々の真の自己と考えられるものは人格的でなければならない、単に身体的と考えられるものは真の自己ではない。むろん、何らの身体的欲求なくして自己というものはない、人格というものすら広義に於ての身体性なくしては考えられない。(西田『私と汝』)


「おまえはだれだ?」

「無であります」  

カフカ日記1922年


Foucault 


Parce que nous ne voyons que cet embers, nous ne savons qui nous sommes, ni ce que nous faisons. Vus ou voyant ? ーFoucault

裏側しか見ないのであるから、自分が誰か、自分が何をしているのかわれわれは知らないからだ。いったい見られれているのだろうか?それとも見ているのだろうか?( フーコ 渡辺訳 )

 「裏側」とフーコが言っているのはこのベラスケスの絵のなかに描かれている画布の裏側のこと。王が立ち後に観客のわれわれが立つことになる同じ位置から、モデルたちは自分達が描かれている裏側を見ようとしても、(ここで順番が大切)、鏡を見てからその鏡から画布の方を見ると、裏側しか見えない。見えない限り、誰が誰であるか確定されていない。これは、同一性にたいして思考が揺れるなんと演劇的な配置であることか!問題は、現代にとってこの配置がもつ意味である。‪物事は表と裏でできているのだから、表だけでなく常に裏側も考えよ。と、‬どんな思考が成り立つのか?


https://www.instagram.com/p/BR5Y5EDhcLO/?igshid=1umzganrzkac3


啓蒙主義というのは初心者をあたたかく迎いれる。17世紀の京都の「古義堂」の前でうろうろしているお百姓さんを伊藤仁斎が中に招きいれたという話がある。外国には、わたしは何が正しいか正しくないかは本を読んで知ったと言ってくる知識人がいるんだよね。孤児院で育ったので両親がいなかった場合もあるが、これを外国人(半他者)に告げるのは啓蒙主義の伝統が生きていることをおもう。わたしもこの年になってなのだけれど、フーコの本を読んで正しいことを学びつつある。大袈裟なことではなくて、たとえばご飯を食べる前に手を洗うとか(まえは気まぐれで逆のこともよくあった)。これは衛生上の理由でそうするようになったのではなくて、順序を重んじる古典主義の思考を見倣ってのことである。‪‬最初に書かれたことが大切である。必然だから大切なのではない。17世紀に立ち返ったポストモダンの精神からいうと、偶然だから大切なのである。『言葉と物』の書き出しはこうである。


画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥を与えているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆をまだおろされていないのかもしれない。画筆をもつ腕は、パレットの方向、左にまげられている。いま彼は、画布と絵具との間で身動きしない。その馴れた手は視線に吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先とはがねのような視線とのあいだでは、光線がその立体的空間を解き放とうとしている。(渡辺一民訳)


Le peintre est légèrement en retrait du tableau. Il jette un coup d’œil sur modèle; peut-être s’agit-il d’ajouter une dernière touche, mais il se peut aussi que le premier trait encore n’ait pas été posé. Le bras qui tient le pinceau est replié sur la gauche, dans la direction de la palette; il est, pour un instant, immobile entre la toile et les couleurs. Cette main habile est suspendue au regard; et le regard, en retour, repose sur le geste arrêté. Entre la fine pointe du pinceau et l’acier du regard, le spectacle va libérer son volume. 

ー Foucault‬


安倍についてはボリスとそれほど違わないけど、英国では権力分立の融解はない。この国は“王政復古”という名のクーデターで天皇に全部の権力を集中させたのが出発だからな


マスコミは政治家の心のなかを追って、腹話術みたいな口調で「高い支持率があるから俺は平気だ」という。公職選挙法違反で買収した内閣総理大臣に対する支持率に意味があるの?


英国は去った。EUは中でコミュニケーションをするために英語で喋り続けるのだろうか?英語を母国語とする国がないのに。長期的にいって英語の衰退がはじまるのかという見方もある。しかし待って、アイルランド英語がある。アイルランドの経済はEUの生産の1パーセントでしかないが、アイルランド英語がこれから英国英語にかわってEUのために働こうとしているのである。要請されているが、それは可能だろうか。アイルランド英語とは、ゲール語(大英帝国の19世紀に絶滅言語となった)、16世紀シェークスピアの時代に遡る英語(地主となる植民者が持ちこんだ)、現代の英国地方の英語からなる。Hiberno  English という文学演劇界の英語もある(ジョイスやフリールは標準英語で書いたと考えるべきだろう)


西欧文明にとって異教徒であり、中華文明からは東夷であるわれわれは、国の内外に周辺をつくる天皇の祀る大御心に行くナショナリズムよりも、グローバルデモクラシーの異教徒かつ東夷である疎外によって可能となるような外部の思考が成り立つ多様な諸関係ー貧富の格差の解決を含めてーを思考できないか


‪1916年はロシア革命とダブリンのイースター蜂起の年。恐怖した英国王室はドイツ起源の名を隠蔽して政治から中立的距離をとる。英国国教会の守護者という立場に自らを限定した。英国の自由の歴史は民が王から権力を奪う歴史。比べると、津田左右吉によると、江戸時代は事実上の象徴天皇制だった(徳川幕府が政治権力をもち、京都の天皇は文化権力をもっていた。) 天皇が政治権力をもつのは王政復古というクーデターの明治維新から‬である


『ザ・デッドThe Dead』(『ダブリンの人々』)の雪の描写が有名だけれどこの国は雪は滅多に降らない。シベリア寒気とメキシコ暖気とが衝突して雨が降るのだと教えられる。雨雲は死者が傍にいるようにくっついてくる。雨にうたれた言葉が裂かれて解き放たれた何かは何か?視線が先行するのか、観念が先行するのか?


華厳経の名前は『大 方広仏華厳経』(mahA-vaipulya-buddha-avataMsaka-sUtra)



大拙の「日本的霊性」の緒言に次のような記述があります。『日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのです。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被(こうひ、光が広くゆきわたること)して来る所以を、最も大胆に最も明白に明らかにしているのは、 法然親鸞の他力思想である。』


「華厳教学の中心は、第4祖の澄観が立てた「四種法界」の世界観です。「四種法界」では、世界をまず人間が普段感じている事物の世界である「事法界」と、すべては「空」(実体がない)であるとする理の世界「理法界」の二つに分けます。そして、この二つが互いを邪魔することなく存在している状態を「理事無礙法界」、理が消え、事物のみがそこにある「事々無礙法界」とするのです。普通の人間から見れば、4つの世界はそれぞれ別々に存在しているように思います。しかし、実はすべての世界は一つであると華厳教学は説くのです。」



丸山真男は戦前講座派を再構成した。永久革命としての民主主義ーこれは命題をラディカルに分解してばらばらの素材としての要素(要素の要素)にする近代における音声中心主義の言語観をもつのではあるまいか。‪(だからといって、思考実体を解体する分子の運動における思考の方法としてのリゾームにいくほどではない)。‬後期近代の世界史の構造の柄谷行人もここに絡み取られてきたようにみえる(主人と奴隷、あるいは中心と周辺の弁証法、超越するコミュニスムという名のXという亡霊的理念の反復。これらはラディカルモダニズムによる分解ではなくて何だろうか?)。だが言語が言語となるのは語のうちにおいてなのか?言語が定位する言説を分解しては、世界の半分も見えないし抵抗もできないと考えたのが市民である


言説とは何か?一番最初に叫んだ人を考えよ。彼以前に叫んだ人は存在したが、叫びが「境で見知らぬ人を見たら叫べ」という判断又は陳述としての価値をもたなければならない


‪昨日は、「昭和思想史研究会」(子安氏主宰)の懇親会にいらっしゃったある編集者から伺った話では、最近はルイ・アルチュセールの思想を知ってもハンナ・アーレントの思想を知ろうとしない。ハンナ・アーレントを読んでもルイ・アルチュセールを読まない。これが現在の知の問題だと指摘なさった。アルチュセールアーレントを読んでいても、この両者を関係づける理論をもっているかと問われると、正直わたしはもっていない。そんなわたしでも、『「大正」を読み直す: 幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店)と『帝国か民主か:中国と東アジア問題』(社会評論社)を読んでこの両者の関係をなんとか考えることができるかもしれないと思っている。前者はアーレントの見方をもっており、後者は直接の言及はないが暗黙の前提としてアルチュセールの見方をもっているとおもわれるからである。さてアルチュセールは『資本論』を読み直した。表象は正当化をもつ。そうして商品の交換価値の言説が再構成されることになった。表象は盗み即ち剰余価値である。思想から考えられたこの表象の理論を再び思想に適用できないだろうか。ハンナ・アーレントが「わたしはドイツ語を喋る」と語ったが、「ドイツ人」というのは「表象」とアルチュセールが呼ぶものではなかったか?柄谷氏の『世界史の構造』もまた表象である。グローバル資本主義の分割が「帝国」であると分析できたが、しかしそれを前提に『資本論』の読み方をアジアの知識人に教えるとき、そこに内部に絡みとられた一元主義の表象が機能していないだろうか?表象は市民の新しい経験をなす多元主義を搾取しているとしたら、『世界史の構造』(=『帝国の構造』)は多様体の一的多の思想とはいえないだろう。他者なき構造の見方に依存する限り、他者なき世界の半分しかみていなかった‬のである


小説『日の名残り』の召使いに王室とブルジョアへの全国民の従属が表象される。和辻のいう「全体意志の表現」に仕える召使いではいつまでも主権を自分のものにすることができない


ベラスケスの『ラス・メニーナス』は、ネットに投稿すると、「馬鹿な連中」と、人間の従属性を読み取って腹を立てる人がほんとうに多いことを知りました。だけれど主人よりも召使について考えるほうが面白いのは、たとえばモーツァルトフィガロとかですね。観察される関係が複雑になりますから。その点、ジョイスは没落していく中流に仕える召使を描写するのが上手いのです。中流の分身を表現しているようでいて、必ずしもそうではありません。たとえばThe dead は、議論がありますが、神の平等な視点を体現する形で召使いから書き出すという画期的な視点を指摘する読みもあります。要領よく説明できませんが、リアリズムに還元されない文学が語る、無の存在を利用していくロゴスの脱構築というか、反コスモスとコスモスというか

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Et comme si cette épreuve des formes de la finitude dans le language ne pouvait pas être supportée, ou comme si elle était insuffisante ( peut-être son insuffisance même était-elle s'est insupportable), c'est à l'intérieur de la folie qu'elle s'est manifesté- la figure de la finitude se donnant ainisi dans le language, (comme ce qui se dévoile), mais aussi avant lui, en deça, comme cette région informé, muette, insignifiant où le language peut se libérer. (Foucault)‬


二十代初めのときは、『存在と時間』が反コスモスで、『資本論』がコスモスと考えてより大きなロゴスへ行くつもりが、思考が足りず『資本論』への拘りはカオスになったと思われ


緊急事態条項は必要なのだろうか?法で対応できるのではないか。どうせ緊急事態条項を解釈改憲するだろう。自民党の御用伺いの学者たちがワイマール憲法解釈改憲しているからね


元祖寸劇

フクロウ猫「ホーオリンピックってニャ、これほどの「人混み」がほかにあるの?」

安倍晋三「意味のない質問だよ」


戦争機械とともに、そして遊牧生活において、数は数えられることをやめて<暗号>になる。そして<暗号>として数は「団体精神」を構成し、秘密と秘密をともなうもの(戦略、諜報活動、謀略、待ち伏せ、外交交渉、等々)を発明するのである。――(下)p89


ポストモダンに理念があるのか?後期近代にまだ思想があるのか?この問いに答えるために、反コスモスとコスモスの関係は弁証法的近代の対立であると考えることはできないという点から考えはじめたいとおもう。反コスモスはコスモスの対抗概念ーカオスーを意味しない。もし反コスモスをカオスと理解すると、カオスとコスモスの対立を語る構造主義の近代になってしまう。カオスというのは、反コスモスなきコスモスからみると、多様性が意味のない分裂ーカオスーにみえる。多様性を統合しなければならない。これは帝国主義の言説である。また今日の文化的ヘゲモニーの帝国の言説である。まそして今日復活している、国体は天皇を全体意志を表現しているのだから何も変わっていないという言説もそういうものである。他方で、反コスモスとコスモスの関係はこの関係から関係を消すことができないという意味でポスト構造主義的な多元主義である。デリダを読んだわれわれは、ハイデガーはこれを存在から存在を消去できないと表現したことを知っている。後期近代において別のあり方が問われるとき、脱構築的な、反コスモスとコスモスの関係が問われる。多様性を無理に統合する明治維新の近代に帰る必要がない。ポストモダン多元主義だから差別を容認するときめつけている意見を読むが、反コスモスというのは人間を平等な空集合と考える。まさにこの平等から絶えずコスモスがつくられるのであるー反コスモスとともに、ポストモダンに理念があるとすればここである。アジアから‪新しい普遍を‬考えることができるか


‪「不条理が、列挙された物の分られる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙をささえる<と>を崩壊させてしまう。」(フーコ『言葉と物』序 渡辺一民訳)‬

‪近代合理主義の行き詰まっている時代にこのフーコの一文がある。文中の「不条理」を<反コスモス>とおきかえてみる。「列挙された物の分られる場所」は<コスモス>である。そうして読み直すと、<コスモス>は<反コスモス>を利用して別のあり方を模索するということを言っているような一文であることがわかる。市民は、近代の批判的相対化とアジアにおける多元主義を自分たちのものにするためには、明治のヨーロッパ翻訳言語である日本語が”前近代”として軽蔑してきたアジアの言語で考えることが大切ではないだろうか。その意味で「漢字は不可避の他者」である。飯田橋RENGOの「仁斎論語塾」(子安宣邦氏主宰)ではポストモダン孔子と『朱子語類』を読んできたが、四月からは、江戸思想の文献を読みつつ、<反コスモス>と<コスモス>の関係を考えるために、西田幾多郎が影響を受けた中国の仏教である華厳経の思想も考えることになるようである‬。

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童子問』では、「人のほかに道なく、道のほかに人なし」=道とは高邁な哲学ではなく、普通の人の日常生活に流れている道理


" Le propre du langage est de reposer sur des mécanismes inconscients. Quand nous parlons nous ne sommes absolument pas conscients des lois que nous observons pour parler et même le linguiste qui fait la théorie de ces lois, n’en prend conscience que pour autant qu’il les expose dans des livres ou dans des cours. Mais pendant qu’il parle, elles sont exactement aussi inconscientes que pour n’importe lequel d’entre nous. "

- Claude Lévi-Strauss -


‪最初に撮った写真はこの斜めに崩れおちた建築物。結局これ以上の写真を撮れなかった。ここに十年以上すんだが追い出された。当時隣人のフランス人が写真にエネルギーが感じられると言ってくれたがその意味がわからなかった。斜めの世界において成立していた力を垂直方向につりあげたらそこでなにが起きるか見ようというのである‬ーそうして愚かものは音楽をつるしあげるということだろうか


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‪愚か者は類似しているものを同一のものとかんがえると隣人に説明したら、ジャムをパンにではなく皿にぬっているあんたが愚か者だと言われた。この年になって気がついたが、そういうことなんだな‬。付け加えると、似ているか似ていないかは問題ではない


近代英国の議会は全員が一斉に喋った。段々ルールが出来た。国会もヤジ飛ばしあいのこの原点に帰れ。そうすれば自ずから王様が処刑されることになるのだから。民主主義はその後



seq2 動かないことによって、移住しないことによって、一つの平滑空間を保持し、そこを立ち退かないことによって、新たにそれを獲得するためか死ぬときしかそこを立ち去らないことによって、彼らは遊牧民となるのだ。――(下)p263


大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。ーボルヘス


 それからもう一つ、書くことと言語表象」のことを申し上げておきたいです。先ほどもお話したように、近代言語学言語の本体は音である」と断言しているのですが、どうして人々は文字問題に強い関心を抱き、感情的になりやすいのでしょうか。 ある言語の全体」の表象が成り立つのは、その言語の書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だと思います。そういう意味において国字問題は、日本語をどのように表象し価値づけるかと深い関わりがあります。ーイ・ヨンスク


「ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だ」(イ・ヨンスク)。子安宣邦氏は不可避の他者として漢字の意味をとらえる。しかしラディカル・モダニズムは知識人が依拠してきた漢字の存在にネガテイヴなイメージをもつ(津田左右吉)。われわれは音声中心主義による革命をやめたら化石になってしまう。‪「神」をカミと読んだアジアのバベルの災厄をもたらす形で、‬過去の姿も絶えず発明しなければならない多元主義(本居宣長)。‪過去の言語の「書かれた」姿を真っ二つにして、‬デモクラシーを反近代の永久革命にしてしまう普遍主義(文化大革命)


アジアの問題は、ヨーロッパが五百年間かけてやった近代化を、僅か20年でやらなければならないとか、100年でやったとか(明治維新150年万歳!)、歪に圧縮された近代化の問題につきる。西欧列強の植民地化を避けるために知識人の普遍言語を否定したラディカルモダニズムの国家では、多元主義全体主義と考えたり、反対に、全体主義であるに多元主義であるとおもうことが繰り返し起きるのである。‪アジア共同体における言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができたときなのに、現在こそ、17世紀漢文エクリチュール多元主義を思い出すべき所に、透明な自立的一国言語主義(そしてそれを支える一国民主主義)のナショナリズムしかないとかんがえている‬


‪「真理とは、悟るもので、論ずることはできぬ」(ボルヘス)。ここで、「真理」はロゴスのことならばつまり理ならば論じることができるが、「悟る」は仏教と儒学を統一した朱子的な、したがって禅的なものなので「論じることはできぬ」というわけである。子安先生によると、儒学は道理である。道理をどう理解するかであるが、やはり先生が取り組んだ伊藤仁斎の思想を無視できないだろう。井筒俊彦氏の考えを参考にすると、道理はコスモスを構成する。他方で仏教は空とか無である。西田が影響された華厳経の思想に尽くされている。「大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい」(ボルヘス)。空とか無は反コスモスである。コスモスが反コスモスを利用していくと脱構築的なあり方を考えようとしている。だがどうしてフーコも読むのか。多分そこにヨーロッパのすべてのことが書かれているからである。これほどの本は強力なヨーロッパ翻訳言語である日本語を必要としたと言わざるを得ない。日本近代の学問のピークは和辻が活躍した1930年代であるといわれる(和辻の天皇論はすでに構造主義を先取りしていた)。1970年代から後期近代であるが、日本近代が終わった1960年代に『言葉と物』が現れたのは必然だった。『言葉と物』はボルヘスから書き始めた。日本近代が捨て去ったアジアの形而上学はこの本を超えるものとしてあるのは、日本語から自立したアジアの言語の全体の表象をもっているからだろう。少なくともヨーロッパの形而上学と対等である。いつでも誰でも参加できるテクストを読んで先生のもとで勉強している


ゴダール:


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‪ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができたときであるという。先ず表象が自己に記号を与える。記号は「書かれる」姿である。つぎにその「書かれる」すがたを思い浮かべるときに表象が成り立つ。後期近代は現代はセリー(系列)が問題となる。たとえば「映画史」に20世紀が住処としているともいわれる。もはや20世紀の大切な映画たちが投射されるスクリーンは存在しないのだけれど。映画の歴史の「全体」のセリー(系列)についていうと、セリー(系列)は自己に記号を与える(投射する)。記号は、思考の画布のような見えないスクリーンによって二重化されている「描かれる/書かれる」すがたである。いわゆる「モンタージュ」である。そしてゴダールにその「描かれる/描かれる」すがたを思い浮かべるときに、セリー(系列)が成り立つ。リア王‬God-Artという言説

存在すること、それは死に切った絶対の過去。20世紀における存在は戦争における叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体の表象で成り立っていた。存在は死を投射した。存在は死をみた。そして死から、存在それ自身を投射する。死に切った過去から問われているという意味において、存在はずっと死に装束だった。そしてだれも、背後からやってくる投射の矢が精神だとは気がつかなかった

暴力革命のことを言うけど、安倍がたたえている明治維新薩長なんかやったクーデター、もし戦犯の血が流れているおまえは現在もテロじゃないのといわれたらどうなの?

‬ 突然の過労死で他界した友人の死のことがあるのだけれど、現在、死から問われている時間の意味について考えている。映画といえば銃とセックス。映画の歴史を回顧すると、映画は叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体によって死の表象で成り立っていた。だが死から、映画それ自身を問う映画はなかった。スクリーンはずっと、死に装束だったのに... だれもその投射が精神だとはおもわなかった
on porta le deuil de cette mise à mort‬ et c'est avec les couleurs du deuil avec le noir et avec le blanc que le cinématographe se mit à exister ‬ 
‪ ー Godard Histoire (s) du cinéma


推敲中
SERIE(S)
「国内亡命」は、エクリチュールの読み直しにすんでいる。一考の価値あり?解釈で壊さぬ、解釈しない読み直しは可能か?知と弱さがいる。至高性と卑近性の間で、結びつかないもの同士を近づける流れ、セリー(系)を作り出すことのほかに何もできないし一人でもこれをやるだろう


ゴダールの映画『イメージ・ブック』の前半は、ゴダールの『映画史』(Histoire(s) du cinéma)を発展させたもので成り立っているから、『映画史』をしっかり見て欲しいと願うものである。『映画史』は、1988年 - 1998年の間に断続的に製作および発表され1998年に完成した、ビデオ映画シリーズである。『映画史』とはラングロワとトリフォーへのオマージュであると言っていい。『映画史』はいかに目に見えないものを目に見えるものと関係づけるかという言説的構成をもっている。ラングロワとトリフォーの魂の気とは、それが散じ尽くす前に時間があるから、コミュニケーションをとることができると考えてみるのである。それによってどういうことが言えるか?『映画史』を形作っているのは、天地の間、すなわち目に見えないラングロワとトリフォーとゴダールの間に往来している感化の大きな運動である。『イメージ・ブック』では、目に見えない、ヨーロッパにとっての他者とのコミュニケーションのあり方が問われることになった。『イメージ・ブック』は、『映画史』のポール・ヴァレリーに言葉をひいた言葉を呼び出す。「かすかな声、おだやかな、か細い声で、大それた、重大な、驚くべきことが、深く、そして正しいことが語られる」と。この言葉に加えられる映像はただ一つである。映像はイスラムの女性とおもわれる人間の身振りとジェスチャーである。『イメージ・ブック』と『映画史』のナレーションは反時代的精神が吃る形而上学的ロゴスである。はじめにロゴスありき。垂直的に、ロゴスは感化の運動の上に泊まっている。ロゴスは言語的存在が自身が存在する宇宙論的な意味を問う。ロゴスは時間に先行する論理である。時間のイメージに先行する思考のイメージである。天との関係において世界に存在する諸々のものは水平的全体性(平等性)である。 ‪

真理とは、悟るもので、論ずることはできぬ。

舞台をみると観察できますが、多分映画のほうがもっと観察できるかな、身振りとそれによって示されるものとのギャップ。意味するものと意味されるものがかくも違うのに、両者の関係が成り立つのは一体何故なのか?たとえば叫びと恐怖は似ていません。境界付近で見知らぬ者を見たら叫ぶのは共同体の約束だったのか?そうだとすれば、一番最初に叫んだ人はだれだったか特定できる筈です。しかしそれにしても何故別の仕方で叫ばないのですか?経験からいってもっと自然に叫ばないのでしょうか?そもそも自然とは何か?こういうことを考えたのは近代からです。近代の力とは何でも考えてこれらを説明し尽くすことにあります。近代になって同一性と差異性が思考の中心を占めます。そこで恐怖は表象すること、言語化することが要請されます。叫んだだけでは野生児の叫びおなじで何の意味もなさず、少なくとも「わたしは恐怖を感じた」と語らなければいけません。意味をなさず、「わたしは恐怖を感じた」と語らなければいけません。かつての類似するもの同士の力は類似の想像力という形で背景に追いやられることになります。

暴力革命のことを言うけど、安倍がたたえている明治維新薩長なんかやったテロリズム、戦犯の血が流れているおまえは現在もテロじゃないのといわれたらどうなの?

‪ー After Godard Histoire (s) du cinéma ‬ ‪
on porta le deuil de cette mise à mort‬
‪et c'est avec les couleurs du deuil avec le noir et avec le blanc que le cinématographe se mit à exister ‬ ‪

trug man Trauer über diese Grablegung und mit den Trauerfarben mit Schwarz und Weiß begann die Existenz der Kinematographie ‬

‬嗚呼、突然の過労死で他界した友人の死。現在、死から問われている時間の意味を考えている。映画といえば銃とセックス。映画史を見ると、映画は叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体によって死の表象で成り立っていた。だが死から映画それ自身を問う映画はなかった。スクリーンはずっと死に装束だったのに... だれも、背後からやってくる投射の矢が精神だとはおもわなかった

米豪韓加から「救出」するために次々にやってくるらしい。日本会議が応援する安倍王朝に「感染」された民を救いにきてくれるのはいったいだれか...?

樹木は動詞「である(エートル)」を押しつけるが、リゾームは接続詞「と……と……と……」を生地としている。(…)どこへ行くのか、どこから出発するのか、結局のところ何が言いたいのか、といった問いは無用である。――(上)p60

ボクシングといえば、アメリカが最も得意とする映画分野。ボクシングはスムーズに対峙する二人が入れ替わるので映画的だといえる。チャップリンが確立したシステムは、主人公が非常に紳士なキャラなんだね。対戦相手と握手、他の皆んなと握手する。試合が始まると、彼は決してズルをしているのではなく、よく見ればわかるが、勇敢にたたかっている。面白いことにバレーみたいに舞う。チャップリンは休暇のときに愛する女性の幻覚をみる。これが凄い。チャップリンの前に誰もこんなことは考えつかなかった。『ユリシーズ』のブルームの幻覚の描写ー神話的介入でもあるーを喚起するのだけれどね、もしこの場面がなければ、レイジング・ブルやロッキーは無かっただろう。というか、ボクシングの場面に限らず、ハリウッド映画における叙事詩的場面がこのチャップリンのルールにしたがうことになる。リアリズムと神話の共存、19世紀オペラが既に20世紀映画に先行していたことをおもう

クルーズ船実験室化はオリンピックのことがいわれるが、そうであれば人権に配慮して下船させる筈だ。あれはオリンピックにあらず。残酷な<日本>おりんぴっくの生贄なんだよ


1970年代は専ら自己否定の観念で、今日の香港の若者と比べると、それほど社会のネガテイヴなイメージをもっていない。80年代は、70年代から始まった近代批判があったし、隣国で天安門広場事件もあった。だがやはり開発と戦争と同化主義で覆われる社会のネガテイヴなイメージをもってない。小泉の靖国公式参拝に抗議しなかった異常といわれても仕方ないその80年代が今日権力の中心を占めている。若者たちが社会のネガテイヴなイメージをもつのは2011年からではないか。この150年間に、自由に喋らせてくれという声がはじめてでてきたのである。再び曖昧な観念ー歴史修正主義ーに戻る必要がない。‪明治維新の近代の虚構を批判して‬明確なイメージをもつこと

推敲中

SERIE(S)

「国内亡命」は、エクリチュールの読み直しにすんでいる。一考の価値あり?解釈で壊さぬ、解釈しない読み直しは可能か?知と弱さがいる。至高性と卑近性の間で、結びつかないもの同士を近づける流れ、セリー(系)を作り出すことのほかに何もできないし一人でもこれをやるだろう


推敲中

‪Le Maître dit: <La vertu suprême est-elle vraiment inaccessible? Je désire la vertu suprême- et la vertu suprême est lá > Confucius, Les Entretiens ‬

‪「子曰く、仁遠からんや。我れ人を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。」‬ ‪「これ仁の甚だ近きをいうなり」(仁斎『論語古義』子安訳)。他者の立場に立って、人の惻隠の心との連関でとらえる仁がいわれる。仁斎の思想は道徳思想である。政治思想ではない。だけれど、飯田橋での講義の後でカフェの場で話題にあがったことだが、他者の視点と、人と我との隔てなき共通性の視点を切り離してはならないのは、政治思想の条件を為す?‬