MEMO


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母音もまた孤立させられて、慣用によって忘れられていた太古の名詞の秘密をあかすだろう。Aは所有(持つavoir)、Eは実在(existence)、Iは力(puissance)、Oは驚き(まるく見開いた眼)、Uは湿気(humidité)したがって体液(humeur)をあらわす。

ーフーコ『言葉と物』、Court de Gébelin 1816 に言及した一文)


 ‪今朝BBCで女性がナショナリズムと日本文化のミソジニーに憤慨していた。天皇は飾り物でなくなった。天皇の本質は変わらないならば、この権力に人間性を読むことは不可能だ


近代の国家の時代の計画し過ぎた官僚と後期近代の何でもかんでもカネがものをいう市場の時代の何もしない官僚。両者は求められることが互いに正反対だが、共に「優秀」なんだろうが、責任を取らないことと、官僚養成機関の東大法学部が民主主義を教えるはずがないことはまったく変わっていないと思われ


政治家と官僚がバカになったと嘆くのはどうして?権力に支配されている市民が賢くなるチャンスじゃないか、喜ぶべし!ネットは3.11以降の対抗メディアとしての出発をもった。ANAを支持したり神戸大教授が利用するネットは言論の自由をはかる尺度だとおもう


「不快」?寧ろ小池は反省して。国際社会にデビューするイスラム国から奪ったオリンピック開催で、国際的犯罪と言われても仕方ありません。ロンドンは奪うつもりはないです。勿論安倍みたいに情報操作を行ってはいません。この大変なときに東京はロンドンの申し出に感謝の言葉を口にしなっくちゃですね


プラトンイデア説の要点は、経験的現実を原型として先に置くことである。だが、”作家“の理論(ないし構造)は原映画(アーキーフィルム)などでは全然なう。(...)だが、反プラトン的議論の根底には、映画そのものを見るという「生きられた体験」を少なからず遠ざけるようなどんな説明に対しても、しばしば敵意が見られる。しかし明らかに...映画と批評とのあいだに、またテクストとメタ=テクストのあいだに距離を、ギャップを含んでいなければならない。‬

‪ーピーター・ウオーレン『映画における記号と意味』(1976岩本憲司訳)‬


プラトン大好きの国、アイルランドに8年間もいたので、恥ずかしながら、ピーター・ウオーレンのよい読者ではないのでござるが、今日彼の一文を拾い読みしたら、何かはじめて、4年間いたロンドンの批判知ー現象学批判ーがわかってきたとおもわれ


1、“エコノミスト誌“がグローバル・デモクラシーの危機”Global  democracy is in in decline として民主主義指数をはかる4つの分類をしている(日本はflawed democracyである。) 火星から地球の民主主義の状況を眺めているような感じでいて、一国民主主義を自明とした近代主義の視界ではないだろうかとおもう。

2、なるほど、flawed democracies とAuthoritarian regimesと指示された二つの領域が互いに惹きつけ合うように隣接しているのがわかる。(互いに、一方の民主化が他方の民主化の条件であるという可能性も考えられる。)ただ“エコノミスト誌”によるこのようなこの分類は言語の問題を最も重要な問題であるとは考えていない。言語の問題を考えていないようでは世界の半分しかみていないと言わざるを得ない。

3、他方で、「グローバル・デモクラシー」と子安宣邦氏が命名した見方では、言語の問題を考えることが重要である。自立的一言語(国語)主義と一国民主主義が後期近代のナショナリズムを形成していて多元主義ー平等を実現するーを妨げている。「グローバル・デモクラシー」は、ネオリベグローバル資本主義に抵抗する理念であるが、21世紀の問題は、新しい普遍主義の模索が極右翼によって非常に悪い形で行われることである。またヨーロッパの一部の国々も日本と同様にflawed democracyだが、ヨーロッパはナチスを裁いている。考えなければならない決定的な点は、日本の歴史修正主義の極右翼が戦前の形をとってあらわれていることである。



‪「クロソウスキーにおいては分身の、模造の外在性の、<自我(moi)>の演劇的かつ錯乱的な多数化の体験とともに」(フーコ『外の思考』豊崎光一訳)。クロソウスキーウィットゲンシュタイン論理哲学論考』を訳しているのはどうしてか?もちろんわたしに答えはない。言えることは、映像と批評とのあいだにギャップを含んでいなければならない。テクストとメタテクストとのあいだに距離があるべきだ。だがそれだけだと世界の半分しかみていないから(したがって透明となっているから)、再び新しく(はじめて?)映像を見る。テクストに帰るのである。つまり世界の半分しかみていない構造を解体するとはこういうことではないか‬


したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値…というものは、一つの背理…のように思われる(K・マルクス


ダブリンでリアル・カトリックという言葉をきいた。自発性を失った既存の枠組みより広い範囲で人々に生存の意味を与えるものにリアルの接頭辞をつけるが、FWのジョイスの原初の神話に向かう脱構築性にリアル・カトリックの精神を読むことに、近代の知識人は警戒する。どうもリアル平田篤胤もあるらしい


1)性愛はあまりにも多様な生成変化を結びつける。それはいわばn個の性であり、一貫した戦争機械であり、恋愛はそこを横切っていく。(…)重要なのは、恋愛自体が奇妙な、そして、ほとんど恐怖をいだかせるほどの力をもつ戦争機械たりうるということだ。


安倍の政治ではもうやっていけなくなったかんじである。政治は、だれが倒れないで一番タフなのかを競うゲームになってきた。言葉の崩壊のほうもおそろしい


古典は、何でもかんでも金がものをいう社会に対するネガティブなイメージをしっかりもっているんだな

Quid faciant lēgēs ubi sōla pecūnia regnat? 金だけが世の中を支配するとき、法律に何ができるというのだ?(ペトローニウス「サテュリコン」)



‪La nature juxtapose les différence et les lie de force ; la réflexion découvre les ressemblances, les analyse et les développe. ーFoucault ‬


自然は相異なるものをならべて否応なくつなぎあわせ、反省は類似を発見し分析し発展させる。

ーフーコ『言葉と物』より、第四章「語ること」、指示


‪近代の日本人の宿命は、西欧とその西欧を日本人としてどう理解するかという二重化の囚われにある。東洋美術といわれる物の見方にその二重化があらわれるのかもしれない。そうして世界の半分しかみないことになるとしたらどうしてか?フーコがいうように「自然は相異なるものをならべて否応なくつなぎあわせ、反省は類似を発見し分析し発展させる。」つまり近代においては東洋美術は西欧の類似に整理されるだけだろう。結局西欧の普遍しかなくなる。たとえば中国美術の見方では西欧の中に構造化されてしまう。そこから世界の半分しかみていないことが起きる。だからこそ岡倉がアジアという方法をつくったのではなかったか。それは自明に繋いでいく中を解体しいく外の思考。ポストモダンは岡倉を見いだしたとおもう。ついでだが岡倉のアジアという方法は西田の無の場所に先行している


1973年にトイレットペーパー騒動があったが、またパニック?この50年間進歩がなかった。というか、戦前と何も変わっていないのかも。渡辺一民安倍晋三は戦前について何も知らないと憤慨していた。凄い勢いでパーと広がるらしい。そのうち、「貴様フランス文学を読んでいるのか、生意気だ!」と殴ってくる軍人が現れてくるよ。知においても、近代批判なんかダメだと言っているのだから、そうすると、この立場は、昭和十年代ファシズムに帰結した明治維新の近代をたたえる安倍と同じということになる


1、保守伝統は鎖国というネガティヴなイメージがある。徳川日本は西欧列強の植民地化・従属化を避けるために鎖国した。また中国文明からも自立する必要もあった。保守伝統は普遍主義(朱子学)だ。民族主義を異常だと考えた。横井小楠は侵略に対する国防さえ整えれば、開国して万国の普遍に委ねようと主張した。

2、さてこの時期に隣国にヘイトスピーチすることほど危険なことはないのに、問題を起こしているのは、アジアに共感をもっている保守伝統ではない。かつての社会党アジア主義だった。日中国交回復をすすめた。再び現在問題を起こすのは、他ならぬ、ヨーロッパと米国にしか共感をもたないナショナリストである。

3、ナショナリストの中には、ラディカルに近代的なものが存在する。ここで誰々がそうだというのではなく、あくまで理念的に言うのであるが、ナショナリストは自立的<一言語>(国語)主義なので「漢文」(明治以前の)が不要だ。書記言語の前に遡る古代に日本があるとする<一国>民主主義の近代主義者である



1973年にトイレットペーパー騒動があったが、またパニック?この50年間進歩がなかった。というか、戦前と何も変わっていないのかも。渡辺一民安倍晋三は戦前について何も知らないと憤慨していた。凄い勢いでパーと広がるらしい。そのうち、「貴様フランス文学を読んでいるのか、生意気だ!」と殴ってくる軍人が現れてくるよ。知においても、近代批判なんかダメだと言っているのだから、そうすると、この立場は、昭和十年代ファシズムに帰結した明治維新の近代をたたえる安倍と同じということになる


アレッサンドロ・フランチェスコ・トンマーゾ・アントニオ・マンゾーニ (Alessandro Francesco Tommaso Antonio Manzoni


Wikiより 「1823年『ロマン主義について』を書き、新しい流派の説を詳しく展開しているが、その要旨は神話と古典への盲従を排し、修辞法則を否定し、それに対して「意図としては有益であること、主題としては真実であること、方法としてはおもしろさ」を追求するべきである、というものだった。さらにイタリア語の統一という問題について多くの論文を書いて、イタリア語の中のトスカーナ性を擁護し、名作『いいなづけ』によってトスカーナ語を基本とする近代イタリア標準語をいちおう完成させたといえる。」


推敲中


『フィネガンズ・ウエイク』とはなにか?その全体像を公式的に言ってしまうのは躊躇いを感じるが、「第一部 両親の書」は貴族の世界が表現されていると私はおもっている。「第ニ部 息子たちの書」では僧侶の世界がえがかれるのだ。貴族の世界が体現する戦争の原因となる報復の互酬性が終わり、僧侶の世界におけるものとしての天における超越性が始まるのだ。だけれどこの超越者は大き過ぎるのだ。そうして、必然として、「第三部 人びとの書」では民衆の世界が呼び出されることになる。貴族における従属物としてあった王と民衆とが台頭したのは、貴族同士の争いが招いた彼ら自身の没落によってである。王と民衆が直に結びつく。王は『ユリシーズ』ではブルームがその役割を演じたし、父の時代のパネルの後のジョイス自身であることをみると、それは文学的王(チャンピオン)としての市民である。「第三部」において人間全体の視点と人間の内部的視点を切り離せない。ジョイスにおいて問題となってくるのは、人はどこからきてどこへいくのかと未来を思い出すことによって語り得ないものを語るという一線を超えた過剰に古代的な祭政一致的国家の理念像が呼び出される復古主義の政治をいかに解体するかである。「自己で決めた亡命」の戦略もそれほど勝ち目はないが、ジョイスは外部的位置を以て、国家と時代と対等な世界を書こうとしたことは確かである。ジョイスの文学的世界はstóry-tèll-erが要請される。‪stóry-tèll-erが語りかける、人類的河として表象されるordinary people も要請されている。‬stóry-tèll-erは、宇宙に散在する隙間を厳密にコントロールするこだわりを嘲笑う、人間世界と等価の物語素を構成できる。とりあえずその場で手に入る古くて汚いものを利用すればいいが、物語に再び孤立する人が出てこないように気配りするアマチュア精神が要請される‬ということだろう


マスクという記号が広げる「全員」が増殖している。その「全員」によって感染が弱まってきたと安心しているけど減っていないでしょう?要請によって自由の制限を行う権力も大満足


コロナ対策費を比べると、中韓は兆単位、シンガポール、香港、台湾は数千億単位。日本はたったの120余億円。休業補償とか、中止を言うならばきちんと補償しなければいけないのに。お金がオリンピックにフィックスされてしまったので、必要とされているところにまわらない。ロンドン・オリンピックの問題もそこにあった


「現場」を離れて書斎のなかでばかり考えていると、世界はすべてお見通しになって、自分がとてつもなくえらぶつであるように思えて来ることがあるにちがいない。『人間みなチョボチョボや』1985


「非-資本主義的な文化」とはなんだろうか?まだわたしはわからないけどね。資本主義は人間の成立とともに17世紀近代から始まる。「非-資本主義的な文化」は、アジアで展開した、17世紀の道徳学、18世紀の制作学、国学、19世紀の神学、政治神学、20世紀の倫理学政治学、そしてグローバル資本主義が成立するなかで‬「非-資本主義的な文化」を考えはじめた後期近代である21世紀の思想史、そうしたセリー(系列)ではないだろうか


「世界が、資本主義に特有のこの西欧的な「権力」形態を越えねばならない。今や、非-資本主義的な文化は、西欧文明の圏外にしか生まれまい。西欧は、西欧文明は、西欧の「知」は、資本主義の鉄の腕によって屈服させられている。我々は、非-資本主義的な文明を創出するには、疲弊し尽くしている。」フーコ



フーコー『言葉と物ー人文科学の考古学』の新装版、書店が書いた宣伝文を読む。 「1966年に発売され人々を魅了してきた思想書」とある。信頼できる翻訳である。日本では広がらなかったのか一考の価値がある。「外来思想」(苦笑)の常のこととして土着化の問題ではなく、純化の問題があるかもしれない。フランス現代思想の幻想が純粋ポスト構造主義の幻想をうむというか。また成熟する前に、ナショナリズムの言説にやっつけられれてしまった。後期近代の近代主義ナショナリズムとの関係には警戒しなければならないと思っていいる。だけれどまだK.Oではない。まだ「ふーこのポストこうぞうしゅぎ」に非らず。時々反権力の側から、ポストモダンの見方を非難する批評の言葉を読む。「じゃあ、あなたは、昭和10年ファシズムを帰結した明治維新の近代を信じている安倍晋三と同じなの?」と質問したいのだけれど、どうなの?


‪亡命のこというときは、気がつかないのだが、永久革命的に定住する端っこをもちたいからではあるまいかとおもう。永久革命といえば、ネオリベの市場至上主義は永久革命的であるといえよう。だれも市場が約束している永久革命の成就する日まで生きてはいない。他方で、折衷という真ん中は、なんだろうか、ノマド的であるから動かずとも常に動く国内亡命を構成する。常に外へ脱出する作戦を考えている。ダブリンとロンドンから東京に来たのは東京から脱出を考えるためであると言ってもいい‬などと勝手に考えはじめたからいい気なものである。思い返すと若いときはどちらかというと原理主義的だったので現実迎合的にみえた折衷を憎んだのではなかっただろうか。現在はそれが近代という時代の折衷的なものだとわかってきた。知識ないわたしのようなものでも、何とか、江戸思想の展開を学んで方法としての折衷がもつラディカルな意味を理解しつつある(朱子学の普遍はそれを脱構築した古学の後に発展した)。


天保のフーコなら関心がある


見えない領域に憲法の法則は適用されずという境界線はヤバイ。見えない戦争ならば憲法は気にしなくてもいいと同じ危険性がないか。それ以上だ。対象の存在が問われない。憲法が精神の自由を規定する傍で、反論できぬ形で価値中立的に線を引かれて、精神が従う憲法の中の見えない絶対権力者が増殖する?


元祖寸劇

安倍「立法府の長であるわたしは国会休会を決めました。」

野党「何を言っているんだ!?」

安倍「国会休憩です。つい言い間違えました。」


ハンカチでマスクつくったり、国滅ぶの川柳をつくったりする日本人の器用さに疎外感をかんじる。外国にすみたい


学問として、非協力的関係において合理性を追求する合理主義のもとでは必然として合理性が成り立たなくなるあり方を数学的に説明できた点はみとめるけれどね。数学は美しいんだけど。いつも思うことだが、安易に具体的事例に適用していないか?もし買い占めなければ、知らない他者にやっつけられてしまう、しかも最大限に、という前提がね。知らない者どうしの両者のあいだで買い占めないという協力が困難であるとしているのもなんだかな。言葉の世界に生きる現実があるのだしね。逆に、為政者の言葉に真がなくなって、信の構造がなくなると、数学で記されるこの通りのことが起きるのかもしれない。


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ハンカチでマスクつくったり、国滅ぶの川柳をつくったりする日本人の器用さに疎外感をかんじる。外国にすみたい


推敲中

対象の不在?

リアリズムによっては包摂されないし、

ロマン主義

純粋な外部的独立から得ることもない、

過剰としての空白、

そこに依拠する文学

わたしたちは

神話的リアリズム


推敲中


岡倉天心「東洋の理想」(1903)を読む


近代日本は戦前が二回ありました。第二次世界大戦の戦前と日露戦争の戦前です。だから「東洋の理想」は戦前に書かれた本、もっといえば、戦前において書かれる必要のあった本だったと考えることができるかもしれません。▼「東洋の理想」の範囲を説明した文を読むと、「(岡倉天心)氏は、インドにおける芸術発展の現実に見られる類縁は多く中国的なものである指摘すると同時に、このことの理由には、一つの共通の初期アジア芸術というものが存在したということをおそらく求められるべきものであると述べ、この共通の芸術は、そのもっとも遠い周辺の波跡を、ギリシャの浜辺、アイルランドの極西部、エトルリアフェニキア、エジプト、インド、および中国に、ひとしく残っているものであるといっています。」(マーガレット・Eノーブルによる解説)とあります。▼共通の初期アジア芸術の痕跡が「アイルランドの極西部」にも。兎に角、理念型として東洋が構成されているということが大事なのですね。▼岡倉の有名な言葉「アジアは一つである」でいわれる連続性とは、なにがホンモノでなにがニセモノといったことを排他的に選別して整理することになる理念の病とは関係がないと私は読みます。異なる時代ではありますが、あえていうと、今日のアーチストが開かれた世界にむかって語る口調で、平等になんでもかんでもわれわれの精神に繋がっている世界に生きるのだとする自身を代表する言葉とそれほど違わないのだろうとおもうのです。▼「思想史研究会」で岡倉天心の後継者としてかんがえてみようとされる大川周明の意味は何かと考えています。1928年の昭和ファシズムの形としての帝国主義国家としての日本、この日本のファシズムイデオロギーに転化していくことになりましたが、しかし大川は1921年においてはまだ第一次大戦後に成立したアジアの革新思想の一つだったこともまたみておかないとフェアーではないでしょう。大正期の大川に「右翼」の接頭語は必要ないという意見があります。▼アジア的主体を介して植民地主義のヨーロッパ近代の限界を乗り越えていくことを思想の問題とした大川は、岡倉天心から読んだものは、岡倉のアジアにたいする比類なき共感ではなかったか。岡倉の本をよむとき、今日の日本の決定的な問題が見えてこないでしょうか。それは、小泉元首相から始まりましたけれど、アジア性を完全に喪失した安倍晋三首相、あるいは自民党だけしかアジアのヴィジオンーただし時代遅れの無効なーを持っていないという矛盾である、と、子安氏は「大正を読む」の最終講義で訴えました。▼「美しい日本」をいうこの歴史修正主義者が原因をつくる<外>の民族紛争の恐怖、と同時に、拡大してきた<内>の経済的格差。内外のこの二重の搾取を受けるアジアの人々はどうしたらいいのかという問いかけが、偏狭な一国的ナショナリズムによって、隠蔽されてはいないでしょうか。集団的自衛権の2016年、岡倉天心が生きていたら戦前のわれわれにむかって何を言うだろうかと不安におもいながら今日は考えていました。