MEMO

ポストモダンヘーゲル感染のワクチンだったはずだがどうもワクチンが足りていないようである。ヘーゲルとはなにか?ヘーゲルの言語は近代を体系的に示した。その言語の全体の表象が成り立つ為には、言語が「精神」(Geist、Spirit)として書かれる姿をー『百科全書』とは違うやり方でー思い浮かべなければならない。問題は、「精神」とは前近代的な他者であるときに、近代は自己の中でその内部に沿ってそれが否定する他者を見ることができるかに存する。これは、全体構造が齎らした不可能性を解決しようとして、再びその全体構造に依拠しようとするような他者なき同一的反復の悪夢である。ワクチンが必要だ。


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アジアの身体のイメージ

東洋医学が)ツボというものを見つけ出すのに、そこに何の理論も解剖学的観察もあったわけではない、手さぐりで、いろんな体験、試行錯誤を経ながら、人間は長い時間をかけて見つけ出して来たという一事です。この事実は、ふしぎに私を感動させ、勇気のようなものをあたえる。

小田実『二つの世の中』73年


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先月から20年ぶりに自由が丘にある整体道場に行っている。自由が丘の道場は、九段下道場の環境と違って、お洒落な小道沿いの建物にある。親しみがあるというか。今日は先生から、「頸椎2番と背中の端をおさえていると息があさい」と指摘された。ふむ、ふみ。「(息があさいから)物の見方も目先のことしかかんがえられない」。ズキン、たしかに、鋭い...「首と肩と頭でかんがえるよりも、丹田(へその下指4本)を中心に身体全体から考えること」のたいせつさをいわれた。おそるべし、整体道場


「マクロレベル」を言わざるを得なくなったか。若者は考えてみて。不均衡の構造は、需要を考えず供給だけで全体を考える経済政策、つまり部分対象なのに全体とする言説から生じる


表象représentation の傍らにかならず反コスモスanti-cosmos の痕跡である外部があるー本の存在、言語の存在、イマージュの存在、思想史


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ändere nicht ‬

‪damit alles anders ist ‬


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‪マスクの詩


宇宙と通信できた顔の下にあった仮面が

顔の上で顔を顕にするマスクとなっている

戦争が増殖中ー令和2年+2600年


高橋源一郎教育勅語の原文(「朕は」)で読む恐怖感を口語訳によって取りのぞいて、まさか、親しんでもらいたいとでも思っているのでしょうか?「はい、天皇です。よろしく」という口語訳などせずにそのままにしておいたほうが消滅していくはず



「芦部先生は教科書で国家法人説に触れて、「君主主権か国民主権かという近代憲法が直面した本質的問題を回避しようとした」と説明しています。要するに中途半端な理論だと言っているのですが、」。この部分を読んで、吉野作造民本主義などのように、国民主権なき民主主義を考えることはできませんが、なるほど芦部はこの点が大切だったのですね。しかしながら宮沢説を見直すことは、8月革命説(丸山真男の説でもあった)と、天皇機関説の意義を理解することで、象徴行為論をいう危険な清宮説が影響力をもっている現在、それを批判する見方をもつために大切だと思います。再び天皇に象徴制を過剰に超える行為をみとめてしまえば、国民主権が危ういことは憲法が警告しています。事実、古代から、天皇が観る見方の枠のなかで世の中を考えてきたのが日本知識人ではないかと思わざるを得ないところがあります。長谷部はなにが言いたいのかよくわからなくなるのは、「自分自身の良識」で考えようというときです。それは天皇の御大心(おおみこころ)となってしまう危険があるでしょう(自由意思と自分自身の良識を奪っていくもの、それが構造というものです)。そんなことを言うのでなくて、このひとは、このひとの主張からもっとはっきりと、「日本人で憲法を書こう」と言わないとわからない。もしそうならば、そのとき、憲法前文はヨーロッパの全体主義軍国主義を問題にしているけれど、これが天皇ファシズムを問題にしているとは読めないので、全体主義軍国主義が一致することになった歴史を前文に書くべきではないかというのはわたしの意見です。戦前の天皇<祀る神=祀られる神として>憲法に書いていない権力ー国家祭祀を主宰する権力ーをもつのですが、わたしが心配しているのは、軍国主義と方向を同じくしていったこの天皇ファシズムをもっと問題にしなければいけない大事なときに、ヨーロッパのファシズムのことを語って終わりにしてはいけないということです。GHQの占領期間が短かったために戦前のファシストを撲滅できませんでした。戦前そのままの主張を以って極右翼の政治家が復活した日本の戦争責任なき戦後を語らなければいけないのに、いつの間にか、ドイツの戦争責任を果たした戦後だけを語っているのですね。日中戦争をまだ日華事変と言っているようなことも含めて侵略の戦争犯罪を裁かなかった日本に再び台頭してきた極右翼を、戦争犯罪を裁いたドイツに現れてきた極右翼と同一視しているのが大変気になります。「極右翼」という言い方でおなじものを指示していると勘違いしていないでしょうか。すると、こちらで起きていることはあちらでも起きているというような錯誤が起きてしまいます。心配しています


わたしは専門家ではないが、間違っているかもしれないが、イスラム哲学とユダヤ哲学において来たるべきスピノザの思想は十分に準備されていたようにみえる。『エチカ』でやったことは、神や属性や人間の自由意思の否定についての言説を公理論的に再構成することだった。ラテン語で書いた理由は一の神の構造にこだわりがあったからだろう。ヤハウェ(יהוה)またはアラー (الله, Allāh) が、あるいはデウス(Deus)として語られることになっても、一である神の構造そのものが彼をとらえることに変わらない。だが公理論的再構成によって一にたいする関係が多様化するその結果、スピノザは彼の前に誰も言わなかったことをはじめて語り出したのであるー多元主義に向かって。多分商人出身のスピノザを助けたオランダの知のネットワークがそういう多元的なものだったのではないか。


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Kojèveたちが取り組んだヘーゲル。フランシスフクヤマも読んだとおもわれるフランス語訳も面白い


‪La nécessité de l’expérience, pour la conscience, que la chose, de par la déterminité justement qui constitue son essence et son être, aille au gouffre se trouver brièvement considère de la sort selon le concept simple. La chose est posée comme être pour soi, ou comme négation absolute de tout être-autre; par conséquent négation absolue ne rapportant qu’à soi; mais la négation de rapportant à soi est sursumer de soi-même, ou( le fait) d’avoir son essence dans un autre.‬

‪ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel‬


‪「物がその本質と自立性を成り立たせる、まさにその性質によって破滅していく、という経験は、意識にとって避けがたいものだが、その必然性の単純な道筋を辿ると以下のようになる。物が自立しているというのは、他との関係をすべて完全に否定して、自分だけと関係することだが、自己と関係するこの否定の作用が、物を破壊するような、言いかえれば、他のものを本質的に認めるような力をうみだす。」ーヘーゲル精神現象学』Phänomenologie des Geistes (長谷川宏訳)‬



‪フランス語訳も面白い


Mais l’esprit devient ob-jet, car il est ce mouvement de devenir à soi un autre, i.e. ob-jet de son Soi, et de sursumer cet être-autre. ‬

ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel


‪「精神が対象となるのは、精神が、自分の外に出て、自分が自己(意識)に見つめられる対象となり、さらに、この外的な存在を破棄するような、そういう運動だからである。」ーヘーゲル精神現象学』Phänomenologie des Geistes (長谷川宏訳)‬


‪意識と自己意識と欲望と真理に高められた自己確信との関係をかんがえる


Diese Unmittelbarkeit ist aber selbst absolute Vermittlung, sie ist nur als Aufheben des selbständingen Gegenstandes, oder sie ist Begierde. Die Befriedigung der Begierde ist zwar die Réflexion des Selbstbewußtseyns in such selbst, oder die zur Wahrheit gewordente Gewißheit. ‬

ーHegel, Phänomenologie des Geistes ‬


‪This “immediacy”, however, is itself absolute médiation; it exists only as supersession of the independent object(I.e., as desire). The satisfaction of this desire is indeed the reflection of Self-Consciousness onto itselfーa Certainty-which-has-becomes-Truth     ーHegel’s Phenomenology of Spirit ‬


‪Mais cette immédiateté est elle-même médiation absolue, elle n’est que comme sursumer de l’on-jet ‬

‪autostant, ou elle est désir. La satisfaction du désir est certes la réflexion de l’autoconscience dans soi-même, ou la certitude par parvenue à la vérité.‬


ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel‬



長谷川訳:

この直接の存在は無限の媒介を経て生じたものであって、自立した対象をなきものにする働きなしには成り立たない、という点で、それは欲望する存在である。そして、欲望の充足をもって自己意識は自分のうちへと還えり、自己確信は真理へと高められる。


‪Es ist ein Selbstbewußtseyn für ein Selbstbewußtseyn... ーHiemit ist schon der Begriff des Geistes für uns vorhanden. War für das Bewußtseyn weiter wird, ist die Erfahrung , was der Geist ist, diese absolute Substantz, welch in der vollkommenten Freheit und Selbständigkeit ihres Gegensatzes, nemlich verschiedener für sich seyender Selbstbewußtseyn, die Einheit derselben ist; Ich, das Wir, und Wir , das Ich ist  ‬


‪ーHegel, Phänomenologie des Geistes ‬


‪• 自己意識と自己意識が対峙している。...そこにはすでに「精神」というものの構図があらわれている。以下で展開される意識の経験は、世界の絶対的な本体たる精神がどんなものか、それをあきらかにしてくれるものである。それは、独立に存在するさまざまな自己意識が、完全な自由と自立性をもって対立しつつ、そこに統一が成り立つような経験であり「われ」が「われわれ」であり、「われわれ」が「われ」であるような経験である。ー ヘーゲル精神現象学長谷川宏訳本‬


‪• Self-Consciousness exists for-a-Self-Consciousnesses ...With this the concept of Spirit is already before us. What still remains for consciousness is the Experience of what Spirit isーSpirit, this absolute substance, which in the completed freedom and independence of its opposite, namely disparate self-consciousness existing-for/self constitutes their unity: The I that is a We, and the We that is an I. ‬

‪ーHegel’s Phenomenology of Spirit ‬


‪• Il y a une autoconscience pour une autoconscience...Du coup est déjà présent-là pour nous le concept de l’esprit. Ce qui pour conscience advient en sus est l’expérience de ce qu’est l’esprit, cette substance absolute qui, dans la liberté parfaite et autostance de son opposition, savoir des autoconscience diverses étant pour soi, est l’unité de ces mêmes [autoconscience]; Je qui [est] nous , et nous qui est Je. ‬

‪ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel‬



ジョイスの「自分で決めた亡命」だったのに「父息子」になったとガッカリするな。「ヨーロッパでレンズ豆のポタージュ」の無分節化を経て、本質なき分節「父息子」に成ったのだから


‪He even ran away with hunself and became a farsoonerite, saying he would far sooner muddle through the hash of lentils in Europe than meddle with Ireland’s split little pea. ‬

‪ーJames Joyce, Finnegans Wake ‬


‪あいつはアイルランドのけちな割れ豆を我慢するよりヨーロッパでレンズ豆のポタージュをこねまわしている方がまだしもだと言って女と逃げ出し、父息子となった。(宮田恭子訳、2004 集英社)


 フーコ『言葉と物』、この一冊のなかには何冊つまっているのか?華厳教じゃないけど、無限だ、少なくとも1000冊以上だ。見つめてくる本の真ん中に鏡があり、本の傍らに無がある


ゴダール『映画史』の中の映画を数える。フーコ『言葉と物』を構成する本達のように無限だ。見つめてくる本にしたのは真ん中にある顔とその傍らに存在する無を創造したかったから


江戸思想史は朱子批判の言説を作ることによって漢字を数えられる無限にした。漢字はヘーゲルが言う意味でまさに自立した物である。それは自ら二重化し破滅して他と関わるようになる


本は、根強く信じられているように、世界のイマージュなのではない。本は世界とともにリゾームになる。本と世界との非平行的進化というものがあるのだ。本は世界の脱領土化を確かなものにする。けれども世界は本の再領土化を行ない、今度はその本がそれ自体として世界の中でみずからを脱領土化する…。ーD=G


人々は、大がかりな調教の体制ともいうべきものを作り上げたのだ。市民は自分自身を調教し、それにふさわしい個人の種類を作り出したのである。ある種の市民的自由主義が制度の次元で可能となるためには、私がミクロの権力と呼んでいる次元で[警察や司法などによって]個人をさらに厳重に包囲することが必要になった。規律というのは、民主主義のコインの裏側なのだ。(フーコ)


seq1 口の中にマドレーヌをころがす話者、冗長性、無意志の回想のブラック・ホール。どうやって彼はそこから脱け出せるだろうか。結局これは脱出すべきもの、逃れるべきものなのだ。――(中)p49

seq2 プルーストはそのことをよく知っていた。彼を注釈する者たちにはもう理解できないことだが。しかし、そこから彼は芸術によって脱け出すだろう、ひたすら芸術によって。――(中)p49


フィリップ・グラスがドラキュラ映画を利用した作品がある。「ドラキュラ映画は沢山あるけれど、どうしてこれを選んだのですか?」というダブリンの聴衆の質問に答えてた。ドラキュラは棺桶のなかで杭をうたれて死ぬが、「ドラキュラが死んだかどうかあんまりはっきりしないところが気にいっている」と


東京五輪を<中止>ではなく、<永久延期>にしてください。東京五輪にきまったのは問題があったが、FTだけ違うことを言った。外国メディア記者達が放射能汚染の状況を監視できると


「だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在(エートル)だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。」(フーコ『言葉と物』、第九章’人間とその分身’、言語の回帰より。渡辺一民訳)


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親鸞は最初に、善か悪かがそれ自体が何であるかではなく、正義論を誰が語っているのかを問うた知識人だ。念仏では民を救済できないでいる己のあり方と依拠する言語の存在をみる


「我々はウイルスとの戦争状態にある」(マクロン)。「目に見えない敵」との戦争では隙間なく人間は人口に還元される。ネオリベの何でもかんでも金がものをいう市民社会と両立する


国境閉鎖しない英国と日本。英国はリスクのある集団免疫に対する反対があり人命を重んじる方法に議論がある。日本は国家主義だけ、オリンピックの安倍政権と自民党のことしかない


‪1、マルクス主義は言説である。終わりから始まると物語る言説である。他方で近代経済学は始まりから終わりに向かっていると語る言説といえよう。マルクス主義近代経済学、この両者の言説は互いに補いあう構造をなしている。問題は、構造に絡みとられたら最後、世界の半分のことしか喋れなくなる点だ。どうすべきか?ドラキュラ映画を見よう。ドラキュラ映画のなかで棺桶の中で杭をうたれてもドラキュラが終わったかどうか不透明なのもある。始まりも終わりもない。そこでわたしは残りの世界の半分を喋ることができるようになったのか?わからない。多分難しいだろう。だけれど少なくともこのことを喋っている。‬


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‪「金利ゼロって何よ?」と取り付け騒動を心配したらしい母から電話。流動性について喋ったが、後で何十年ぶりにはさみ✂️の形をしたIS曲線とLM 曲線をメモ用紙にかいていた


夜中にポチポチとゲーム感覚で投資して、好きな本を読まなくなったひとが多いのではないかとおもうのですが、コロナのせいで現在大変みたいです。ブラックマンデーのときはどうだったかを思い出しています。とはいえ、株など持っていなかったので無関係といえば無関係でした。「現在わたしたちは株をもつようになってプチブルジョア化したので非常に打ちひしがれている...あなたはアナーキストだから興奮しているかもしれないけれど」と隣人から言われて、嫌なことを言うなあ、アナーキーストじゃないし、そうだとしても興奮なんかしないですよ。わたしは本を読んでいますから、コロナになった気持ちをうたった詩を書くぐらいですね(マスクの詩も書いてます。)「本は世界とともにリゾームになる。」というポストモダンの言葉を考えます。「リゾーム」は大袈裟なことではないことに気がついてきました。距離をもつために何とか思想性を保つ、それだけでいいのですから。だけれど書いた言葉に思想がはいっていることは滅多にありません...



「本は世界とともにリゾームになる。」というポストモダンの言葉を考えます。「リゾーム」は大袈裟なことではないことに気がついてきました。距離をもつために何とか思想性を保つ、それだけでいいのですから。だけれど書いた言葉に思想がはいっていることは滅多にありません...。多分近代の思想が自分自身のなかに閉じこもることによって、近代の後の思想があらわれるのでしょう。


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デカメロン』はボッカチォが1348~53年の間に書いた物語集で、『十日物語』とも言われる。ペストの流行から逃れてある邸宅にひきこもったフィレンツェの10人の男女が10日間にわたり、1夜にそれぞれが1話ずつ退屈しのぎの話をする形式をとっている。面白いとおもうのは、黒死病ルネッサンスへの影響が文学作品を通じて理解されることである。


「さて、神の子の降誕から歳月が千三百四十八年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に恐ろしい悪疫が流行しました。それは天体の影響に因るものか、或いは私どもの悪行のために神の正しい怒りが人間の上に罰として下されたものか、いずれにせよ、事の起こりは数年前東方諸国に始まって、無数の聖霊を滅ぼした後、休止することなく、次から次へと蔓延して、禍いなことには、西方の国へも伝染してきたものでございました。

 それに対しては、あらゆる人間の知恵や見通しも役立たず、そのために指命された役人たちが町から多くの汚物を掃除したり、すべての病人の町に入るのを禁止したり、保健のため各種の予防法が講じられたりいたしましても、或いは、信心ぶかい人たちが恭々しく幾度も神に祈りを捧げても、行列を作ったり何かして、いろいろ手段が尽くされても、少しも役に立たず、上述の春も初めごろになりますと、この疫病は不思議な徴候で恐ろしく猖獗になってきました。」

<ボッカチオ『デカメロン』野上素一訳 岩波文庫 第1冊 p.55-56>


ボカッチョの「デカメロン」に匹敵するような、文学や死生観まで昇華したものが日本にはあったのか?このことを考える上でわたしは、『歎異抄』が有名だが『教行信書』が重要であることを講座「『歎異抄』の近代」(子安先生)によって知った。

‪12世紀の相次ぐ戦乱・飢饉・疫病を前にして、「呪術的」な仏教・神道陰陽道は無力だった。そこで登場したのが法然親鸞日蓮・一遍などの「鎌倉新仏教」。親鸞は‬、実在したならばの話で書くと、最初に、善か悪かがそれ自体が何であるかではなく、正義論を誰が語っているのかを問うた知識人だ。念仏では民を救済できないでいる己のあり方と依拠する言語の存在をみたのである。


パゾリーニ監督『デカメロン』(1971)は、当時の画家を描いている。この画家を通じて、依拠する言語の存在をもとめる


パゾリーニ監督『デカメロン』(1971)は、当時の画家を描いている。この画家のイメージを通して、そこに、依拠する言語の存在をもとめるルネサンス知識人を表現したのではないかとおもう。『デカメロン』はダンテの『神曲』に対して「人間喜劇」とも呼ばれ,ヨーロッパ散文小説の範となったという。


いまこそこの映画を見るときではないでしょうか!手と愛・友情は別々にあったのではないことを思い出すために。かつて他者をたすけるときは手を差し伸べたものです。見ること、手で考えることが「意識の流れ」に先行した、’ヌーヴェルバーグ’と呼ばれる、映画のゆたかな身振りとジェスチャーは景色とともに存在しました。


知的直観というのは、自己がイデヤに合一することではない、又所謂主客合一ということでもない、自己が直に自己を見ることである、自己が自己の奥底を見ることである。(『一般者の自覚的体系』)


‪幼少時代の四年間はオーストラリアにいた。字はアイリッシュの大学生よりも上手い(爆)。七歳のときに言語化できない世界に来てしまった。もしもう少し年齢がうえだったらバイリンガルになって二つの言語の関係に関心をもったかもしれないが、そうではなかったので、この経験から、言語化できない世界と言語化できる世界との相互関係をかんがえつづけている。ソシュールとかレヴィストロースは面白いし、いまは荻生徂徠を読んでいる‬

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低予算オリンピックの理念はできるだけ多くの国に主宰の機会を与える。東京五輪の予算は7,000億だったはずなのに3兆円は約束違反だ。将来のオリンピックを世界から奪っている


トマスピケティ「新型コロナの危機は重大だが、社会変革のきっかけに」



映画版『21世紀の資本』は、共産主義体制が崩壊した東側諸国のそんな悲惨な光景から始まる。原作者のトマ・ピケティは学生時代に、そんな東側諸国を旅して、内側からその惨状を見たと映画で語る。

共産主義の欺瞞が白日のもとに晒され、資本主義が支持されることになりました。ただ、問題はそれが行き過ぎた資本主義の礼賛になってしまったことです」


「生きた精神」が生き続けなければならないのは「死んだ文字」の中においてである。そして「生きた精神」を死から救い出すことができるのは、それを進んで蘇らせようとする一つの生命と再び接触するときだけである。ーハンナ・アーレント『人間の条件』23


アイルランドのような貧しい国では、わたしの同僚が教えていた、日本語を履修していた、大学生は水泳の世界記録2位の保持者でしたが、自分のお金でギリシャへ行かなければならず、結局オリンピックに参加できませんでした。アイルランドより貧しい国なんかたくさんあるので、オリンピックは、ポストコロニアル世界で成り立っているワールドサッカーの参加国の数と比べると、それほど「普遍性」がない一部金持ち国クラブの大会だという評価があります


生きた言語と死んだ言語のせめぎあいー言語化できぬ世界と言語化できる世界にどんな関係が成り立つのか。原初的テクストの存在をゼロに還元する文献学的ニヒリズムの近代、言語の細分化と言語の拡散、そして多分音声中心主義のラディカル・モダニズムによっては思考できぬと考えた文献学者ニーチェは、言語が集中する哲学の場ー存在の意味を問うーに誘う


世界と違うことをやる「政権とともに危機に対する防衛ゲーム」の<自己責任>は国民が負うことになるだろう。本当にこれしかないのか、他にできることは無いのか?


為政者はもっぱらメダル世界の普遍の「遠い」所をみていて、もしウイルスに晒される民の「卑近」を十分に気にしていないようでは、たとえ国が偉くなっていくら威張っても、社会の基本‪ーたとえば人類知を学び共有する権利を保障するー‬が崩壊しないような防衛を構築できないとおもうのですけれど


‪もちろんヒューマニズムに反対しません。望ましいものです。ヨーロッパが五百年かけた構築したヒューマニズムをもっと充実させなければなりません。ただ、これについておもうことを書かせていただくと、わたしはアイルランドに住んでいたときは植民地化された国の過去を勉強しました。イギリスにおける帝国主義ヒューマニズムは両立していたことを知りました。もはや帝国主義の時代ではありませんが、現在は米国などの国際社会はヒューマニズムの名によって爆撃を正当化しています。さてピケティーがいうのは、経済政策に市民が介入する重要性のことであるというのがわたしの理解です。子安先生の講座でもアナール派の影響があると思われるピケティーを取り上げたことがあります。ヘーゲル左派の時代のマルクスについて言うと、人類知とその条件を共有する社会のあり方を強調していました。経済政策はそういう知を構成するでしょう(かつての経済政策はブルジョア知に留まっていました)。新しい普遍主義として模索されているグローバルデモクラシーとともに、ほんとうのヒューマニズムが成り立つと思います‬


Faut-il envoyer des athlètes Français aux de Tokyo ? 

Le ministre de la Santé Olivier Véran répond "non"

東京五輪にフランスの選手を派遣してよいか」

フランスのヴェラン保健大臣「ノン(駄目だ)」


“The first task of the doctor is ... political: the struggle against disease must begin with a war against bad government." Man will be totally and definitively cured only if he is first liberated...”

Michel Foucault, The Birth of the Clinic: An Archaeology of Medical Perception


東京五輪にフランスの選手を派遣してよいか」の質問に、ヴェラン保健大臣は「ノン」。安全の問題だけではない。悪い政府との闘いによってまず解放がなければ一人も治っていない


トマス・ピケティ「新型コロナの危機は重大だが、社会変革の契機に」。安全の問題だけではない。経済政策に市民が介入する政治。悪い政府との闘いと解放がなければ誰も治らない


2)それゆえに、無意識の平面は超越性の平面にとどまり、精神分析家の存在とその解釈の必要性を保証し、正当化しなくてはならない。このような無意識の平面はモル状のレベルで知覚ー意識のシステムと対立するのみならず、そこに欲望が翻訳されなければならないところから、



3)しかし斜線はすでに横断線に、あるいは半対角線や自由直線に、また破線や角ばった線に、さらにまた曲線になるばかりか、常にこれらの中間に位置する。(…)これは起源をもたない線である。つねに絵の外で始まり、絵はこれをその中間地点でとらえるしかないからだ。


2)とすれば、線は一つの点から別の点に向かうのではなく。点と点のあいだを別の方向に疾走し、この新たな方向性によって点が識別不可能になる。線は斜線となり、垂直線と水平線から解放される


<芸術>は、ただ名目的なだけの、誤った概念だと思う。(…)絵画は顔ー風景の「問題」に組み込まれている。音楽は、それとはまったく違う問題に組み込まれているが、その問題がまさにリトルネロなのである。[中p295]


ホー、ナルシシズムは芸術に不可避ニャ。だけど日本近代の失敗は戦争が解決できる、大衆よ、必ず勝つ、蜂起せよという反知性主義へ行く自己否定ナルシストに非ず、梟猫の想像力は


「人の心が分からないのか」と非難しても、安倍は心の中のことは分からぬと開き直っているかもしれない。「人の道」を言ってただしても、道徳を反省する相手ではない。この男は法を守っているのかと問われているのに、何が法であるかを自分が発見しているという態度である。法を守る意思もないようだ。


恐慌の危機を深める貨幣飢餓のようなことが、安倍内閣支持率において起きているのは、欲望によることなのか?自分に不利なのはわかっているのに理性では止められない、欲望の暗い領域に惹かれる人間は、自己の生存手段にしがみつく動物の従属した姿である。他者なき孤立する身体の痛みに耐えられなくなったほどの欲望の果てに、欲望は欲望しなくなるのか。そこから、別のものを欲望するのか?欲望の生産にゆだねることがほんとうにできるのか、しかしドウルーズが言うようには...。ちくしょうめ、これだけはみてやろう


原発アンダーコントロールと世界に宣言して五輪誘致したりするのを自粛しなければいけなかったのですが、現代国家の安全システムはどんどん巨大化し監視の網み目を自粛といっている


日本<自己責任論>とは、おまえたちの行き詰まりはおまえたちの責任だが、おれたち(安倍とハシゲ)が行き詰まる日は一億総懺悔だ


橋川文三+ 吉本隆明+三島由紀夫= 0


法システムは古い処罰の機能の仕方のことで、中世から17-18世紀まで主調だった。規律システムは近代システムとも呼べるもので18世紀から主調となった。安全システムは現代のシステムであり、その問題設定が登場したのはかなり早いが、まさに今、これが主調となりつつある。

ー フーコ 安全・領土・人口-


どうしてこの文がここにあるのかわからない。『言葉と物』はこんなところに別のことを書いているような文が多い。フーコはどんどん書き足していったのではないかと渡辺氏が言っていたな。水平線と垂直線から解放された斜線みたいに、ここでこの文を書いているのはこの文から文を逃してやるためではないかとおもうこともある


アジアにおけるコスモポリタンとは何か?それをポストモダン的に、地域的に考える意味は何か?西欧(縦軸)とアジア(横軸)を逃してやる斜線としての岡倉の東洋とは何か?


ゴダールは究極の美を求める厚みのありそうな探究を映画の表層的断片を通じて行うとき、ポストモダンに非らず、モダニズムではないかと分からなくなる。「われおもう」から「われあり」への移行に、「われ見る」が介入しなければならない。見えない<手で考える>というウィットゲンシュタインととともに



推敲中


始まりと終わりがあるという前提だが、『ユリシーズ』が書き始めるのはマーテル塔から。あの形は、『朱子語類』における思考の優先順位としての形而上学的円(理=大極)か?冗談で、6月16日まで読んでみるか ‪ 

重々しく、肉づきのいいバック・マリガンがシャボンの泡立つボウルを捧げて階段口からあらわれた。十字に重ねた鏡と剃刀が上に乗っかっている。はだけたままの黄色いガウンがおだやかな朝の風に乗っ、ふわりと後ろへとなびいた。彼はボウルを高くあげて唱えた。‬

‪ー Introibo ad alatare Dei <ワレ神ノ祭壇ニ行カン>‬

‪彼は立ち止まり、暗い螺旋階段を覗き込んで、荒っぽくわめき立てた。‬

‪ーあがって来い、キンチ!あがって来いったら、このべらんぼうなイエズス会士めが!‬

‪彼はいかめしげに歩みでて円形の砲座にあがった。くるりと向きなおり、三度、塔とまわりの土地と、目覚めかけた山々をおごそかに祝福した。それからステイーブン・デイーダラスを目にして、彼の方に身を乗り出し、喉をごろごろ鳴らし、頭を振り、たてつづけに空に十字を切った。不機嫌で眠そうなステイーブン・デイーダラスは階段の手すりに両腕をもたせて祝福を与えてくれる首振りのごろごろの馬面や、白樫のような色の木目の通った。明るい剃髪していない髪を冷たい目で見た。‬

‪バック・マリガンはちょっと鏡の下をのぞいて、またぴしゃりとボウルに蓋うぃした。‬

‪ー兵舎に戻れ!と彼はきびしい口調で言い渡した。‬

‪それから伝道師の声色でつけ加えた。‬

‪ーなんとなれば、ああ皆様方、これこそはまことの

クリステイーン様、肉体と血と槍傷ですぞ。ゆるやかな音楽うぃ、どうぞ。諸君、目をつむってください。ちょいとお待ちうぃ。この白血球どもが少々手間をかけておりましてな。みんな、静かに。‬(丸谷訳)


もし来年、五輪怪獣と出あって食われそうになったら、どうするかって?黒ビールを飲ませてだね、お土産に和牛商品券三枚わたして帰ってもらえ


A tale is born from an image, and the image extends and creates a network of meanings that are always equivocal.


—Italo Calvino


現在への己れの帰属を問うとは、ある教養やある伝統への己れの帰属を問うことではない。ただ単に一般的な人間の共同体への己れの帰属を問うことでもない。ある種の〈我々〉、即ち自らの現在性によって特徴付けられているような文化的な一総体へと関わるような〈我々〉への己れの帰属を問うことなのだ。ーフーコ


‪ユヴァル・ノア・ハラル氏「信頼とグローバルな団結抜きでは、新型コロナウイルスの大流行は止められないし、将来、この種の大流行に繰り返し見舞われる可能性が高い。だが、あらゆる危機は好機でもある。目下の大流行が、グローバルな不和によってもたらされた深刻な危機に人類が気づく助けとなることを願いたい。」‬

トマス・ピケティ氏「新型コロナの危機は重大だが、社会変革の契機に」

子安宣邦氏「グローバルデモクラシー」‬


‪・「自分が第一ミー・ファースト」がモットーの指導者に対して、人類の視点をもつ市民が介入する政治。悪い政府との闘いと解放がなければ誰も治らない‬


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‪適切に説明できる自信がありませんが、なんでこんな式を書いたかですよね(笑)。昔ロマン主義を解説している本にあった説明文とイラスト(下)に興味をもちました。0(ゼロ)の意味を説明すると、フランスのユートピア社会主義とイギリスの政治経済学とドイツ観念論、これらが、マルクスにとって、一体であった(線形的に)ということですね。‬これがヒントになって、勝手に、橋川文三+ 吉本隆明+三島由紀夫= 0 を書いてみました。

さて明治のロマン主義は世界のロマン主義のように理念的なのに、大正の日本ロマン主義は反知性的です。昭和の三島由紀夫も反知性的にみえます。正直いって三島由紀夫について何か論じる気持ちになれないですが、このことは、子安先生のご自宅で伺った話で、三島由紀夫橋川文三吉本隆明との関係においてとらえたら何か言えるかもしれないと理解しています。(「理解」したといっても酔っ払っていたので、間違っているかもしれませんが、大体こういうことです。)日本ロマン主義は、近代日本の失敗(明治維新の不完全)は戦争が解決すると主張していました。必ず戦争に勝てるというのですね。橋川も吉本も同じものをみていたようです。その場合、主体は、橋川は文学者、吉本は大衆と考えていたのですが、戦前における橋川と吉本の主張を、戦後に三島が主張することになるというわけです。‬凡庸な反復ですかね。

‪これが、橋川文三+ 吉本隆明+三島由紀夫= 0 で意味しようとした内容です。‬

‪付け加えていうと、橋川についていうと、廣松渉などの近代の超克では橋川が無視されます。(廣松は橋川を知らないのでしょう)。だから廣松の近代の超克論の分析はどこかで聞いたようなヨーロッパの世界史になってしまっています。竹内好をよく理解するためには、文学を論じる橋川は毒がありますが、失敗を隠さずに、これから明らかにしていかなければならない意味ある思想でしょう(「昭和維新論」がNHKで取り上げられていたようですか、これはどうですかね????)

‪吉本は、若い人が『共同幻想論』を読んだら、右翼思想家と考えるんじゃないでしょうかね。もっぱらこの構造主義的な(?)仕事が読まれるようです。吉本は最後まで、天皇を批判しないでしょう、文化人類学的に。吉本の影響下から、現在内田のような天皇抑止論の言説が出てくるのは偶然ではないでしょう。『最後の親鸞』(最後の吉本?)のような仕事は大変意味深い思想だとおもっています。‬

最後に三島。全共闘がノスタルジーにおもう三島ですが、これは自己否定のイメージ(大学解体)ばかりで、今日のネオリベをもたらした自民党のようになんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージをもっていません。影響を与えた当時のフランスの5月革命は、ちゃんとドリフェス事件に対する批判、なんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージももっていたのではないでしょうか。

フーコ『言葉と物』を翻訳した渡辺一民氏が、「大江と三島からよくやったと言われた。左翼と右翼からほめられちゃった」と言っていたので、この話から、三島はフーコのポスト構造主義に意義を理解していたのでしょう。しかし現在は三島の思想なきイメージ(のイメージ。金閣寺みたいですね)が流通しているだけにみえます


司法機構は誤ったことを有効と認めたり、偽りや嘘を作り出したり、命令によってか自発的な共謀によってか黙り込んだりすることがある。だがそれが少しずつ、日にちの経過と共に、証拠資料を辿りつつ、報告書や証言や手掛かりを通して「認知しえないもの」を作り出していくやり方は余り知られていない。ーフーコ


揺れる』(マリア・ミリサヴリエヴィッチ作)をみた。これはベルリンの壁の崩壊後の現代をえがいている戯曲である。この時代は、ネオリベポストモダン世界から生じてきた「自分が第一ミー・ファースト」がモットーの指導者達によって国どうしの境界がつくられている時代である。戯曲を読む。<わたしたち。誰でも。何人でも>というト書きは思考を揺さぶる事件だ。これは、戯曲のコスモス(ロゴス)が反ロゴス(わたしたち。誰でも。何人でも)を利用して自らをグローバルに再構成しようとしているとおもった。『揺れる』が呈示するカオスはなにか?‪『揺れる』は、なんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージをもっている。欲望の知覚し得ぬ極限に、隅々まで情報の客体となった身体の深まる孤立がもたらす痛さ(物理的な痛み)こそがカオスである。これにたいして、マリア・ミリサヴリエヴィッチと東京演劇アンサンブルの舞台はウイリアム・ブレイクの想像力を導入する。舞台をみる。想像力のもとに抱擁されているのは、私と私のなかの汝の下に、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体、何処にも属するがどこでも部分になることのない呟き続ける身体。演出家公家義徳氏の舞台は想像力の舞台からラディカルに問う。演劇は世界とともに、奪回した視線の肉体を以って、外の思考の領域へと逃げることが可能かと。そうして世界は根拠が与えられ、世界は突然、希望の無限の広がりを自分のものにしていくのではないかと想像できた。演劇から学ぶ。2020年という年に、『揺れる』の舞台をみることの意味をかんがえている。全世界が音楽、演劇、映画、美術館をたずねる能力を失ったので、それらの真の価値を真剣に考えはじめることになったことも事実である。演劇とはなにか?演劇とは、泣くこと、思いだすこと、笑うこと、考えること、学ぶこと、受け入れること、そして想像すること



国家にとって何がなんでもやりたかったオリンピックは内部の中心(本質)で、音楽、演劇、映画、美術館は外部である「不要不急」とされている。だけれど


ピカソ(1902)はどのようにグレコの作品(1607-1614)を解釈したか?これは、グレコピカソをスケッチした私の勝手な解釈の解釈によることなのだが、ピカソグレコにおける類似性のイメージを同一性と差異性のイメージにかえているようにみえる。グレコは外部を示している(稲妻が闇を裂いている世界が世界自身に巻かれている、と同時に、世界は巻き返す。)。ピカソにおいては二人(私と私のなかの汝?)が共通のもの(彼らが立っている場所)をもっている。抱擁されているのは、私と私のなかの汝の下に、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体ー何処にも属するがどこでも部分になることのないーかもしれない。



想像力とは、自国ファーストを呼びかけて戦争と開発と同化を押し進める指導者達に対する社会変革のモーメントを為すものと不可避なはないかと考えさせてくる


宇宙は根拠が与えられ、宇宙は突然、希望の無限の広がりを獲得した。

ボルヘス