MEMO

f:id:owlcato:20200428012715j:plain


ソクラテス。それにしても何故死罪だったのか、さっぱり分らない。ゴダール曰く、ソクラテスロッセリーニとそっくりだったと。つまり、ソクラテスロッセリーニも、どんな立場の誰とも対話したので公から危険人物にされてしまったのだろうと。なるほど本当に難しいものだ。人に近づくな、自粛せよといわれるパンデミックの時代でもなかったのに...


記憶するために、また未来の人びとに警告を与えるために、役に立たない令和をやめて、コロナ元年にしたらどうでしょうか。百年後はコロナ百年、千年後はコロナ千年と

民主主義が成り立っているからウイルス対策がダメだというのなら、逆に、ウイルス対策が上手くいくのは民主主義が成り立っていないから?すると、ドイツは民主主義が成り立っていないんだ!?論理は負けないとおもっている論客達は、民主主義も成り立っていないしウイルス対策も上手くいってないと疑う反証の精神(懐疑の精神)が眠りこけているようにみえるのだけれど

Tout le problème est de savoir quel est le rapport, ou le non-rapport, entre l’extériorité événementielle pure et le champ des images, où vient presque toujours se perdre, dans une représentation sans pensée, la puissance latente de événement, le sens encore non révélé de la révolte. ー Alain Badiou‬

ゴダールの『JLG/自画像 』(autoportrait decémbre 1995) 

「この的確で無頓着な場所では、見るものと見られるものとがたがいに入れかわる。どちらの視線も安定してはいない。というよりむしろ、画面を垂直につらぬくいずれともつかぬ視線の奇跡のなかで、主体と客体、鑑賞者とモデルは永遠にその役割を換え続けていく...」(フーコ 『言葉と物』渡辺一民訳)
en ce lieu précis, mais indifférent, le regardant et le regardé s'échangent sans cease.  Nil regard n'est stable, ou plutôt dans le sillon neutre du regard qui transperce la toile á la perpendiculaire, le sujet et l'objet, le spectateur et le modèle inversant leur rôle á l'infini. (Foucault)

「そうして絵の左端で裏がえしにされている大きな画布は、第二の機能を果たすこととなる。つまり執拗に画面を見せようとはしないそれは、視線の関係が読みとられることも、決定的に確立されることも、ともに妨げるからである」
(フーコ 『言葉と物』)
Et la grand toile retournée á l'extrême gauche du tableau exerce lá seconde fonction ; obstinément invisible, elle empêche que soit jamais repérable ni définitivement établi le rapport des regards. (Foucault)‬

‪AUTOPORTRAIT. < on m’avait demandé Godard par Godard, mais je préfère JLG/JLG. C’est un autoportrait et en principe, ça ne peut être fait au cinéma. C’est quelque chose de propre à la peinture. Je voulais essayer de comprendre ce que signifie pour moi faire un autoportrait, voir jusqu’où je pouvais aller dans le cinéma et jusqu’où le cinéma pouvait m’accepter. C’est l’idée de l’art assez classique qui dit que l’œuvre est importante que l’homme. C’est ce qu’on avait appelé “ la politique des auteurs” et qui a été mal comprise. Le mot qui comptait c’était la politique et pas l’auteur lui-même. Picaso se posait aussi beaucoup cette question :  jusqu’où puis-je aller dans la peinture.? Quand ils en avaient marre de peindre des paysages, il ne restait plus aux peinture qu’ à se peindre eux-mêmes. Le cinéma étant un peu autre chose, ne pouvant pas se faire seul, on peut toujours montrer ce qu’il y a autour de cette solitude. J’ai toujours pensé que le cinéma était un instrument de pensée. (...) Je suis heureux aussi dans la conception mais je le suis plus dans la cherche que dans l’accomplissement des choses. (...) j’ai essayé de faire un film qui ressemble aux livres que j’ai pu lire dans mon adolescence, ceux de Blanchot, de Battaile. Je me souviens par exemple de L’Experience intérieur. À l’époque, je suivais les cours d’Henri Agel, il avait passé Terre sans pain de Buñuel et je lui avais dit : “ C’est une bouleversante expérience intérieure de l’Histoire.” Voilà, le cinéma est là pour faire de le métaphysique. C’est d’ailleurs ce qu’il fait mais on ne le voit pas alors ceux qui en font ne le disent pas. Le cinéma est quelque chose d’extrêmement physique de par son invention mécanique. C’est fait pour s’évader, et s’évader c’est de la métaphysique. ‬‪ーGodard ‬1985

「ほかにいい人がいない」からで、安倍を支持するのをもういい加減にしてくれる?お見合いじゃないんだから!

推敲中

もう人間とはおさらばだ、妖精と共同生活しよう
とりあえず現在もっているものと
できそうなことをクレヨンで書き出してみた...
国際便で何ヶ国も彷徨う19箱の本たち、
マイナーなものづくり、地下茎のように
共通の部分が腐ったガラクタ学問、
そして思想史的遠足


推敲中
闇が光に、光が闇に生まれ変われるメタモルフォーゼか?この編集は、暗闇の卑近にあるのは光しかないというほどの無分節の世界の記憶を蘇らせるものであると考えてみたら、それによりどんなことが言えるか?人間は、スクリーンを背後にして語る自己を否定する観念によって(スクリーンに向きあうことになる)、平等に差異が差異としてあるような真の意味での多元世界に来るのではないか。これは形而上学の映画である。絶対的な<自分が語るのを-聞き-たい>ということである。(映画館の暗闇は自分がどういう階級であるかを隠してくれたとデユラスは少女時代を回想している。)

推敲中

人間の有限性という本来性の構成的言説に絡みとらわれないで、寧ろ万物の生成の道のラディカリズムに、ギリギリ理念的な内在性が思考されている。そして部屋の森にこそ、徴は至るところに。凡庸に新しい時代のオリジナルを鋳造する孤立から離れて、孤独の力に留まるー 目に見えないもの(夜の本)と目に見えるもの(昼の本)との間にあって‬

推敲中

ナンパの物語とお喋りを解説するほどつまらないことはないので、ウィキに要領よくまとめられているあらすじを引用しよう。「シャルロットとヴェロニックは、パリにアパルトマンをシェアする学生である。ふたりはリュクサンブール公園で待ち合わせをする。先に着いたシャルロットは、がまんできずに、パトリックという青年に求愛され、一杯飲まないかと誘われ、約束をする。シャルロットがいなくなったところでヴェロニックが着くと、おなじくパトリックが近づいてきて、おなじ会話をし、翌々日に約束をする。ふたりが部屋に戻ってくると、シャルロットもヴェロニックも、それぞれの「パトリック」のことを話す。次の日ふたりは、街で女性に親しくあいさつする青年(パトリック)を目撃し、パトリックがいつもだれに対してもおなじことをしていることがわかってしまう」。‬ ‪このナンパ劇からは、シャルロットとヴェロニックは本質的には同じもので、優先順位がちがうという見方もできるかもしれない。案外これは、深遠なロゴスのことにかかわるものかもしれない。生死を認識するとき生死は本質的に同じものであり、ただし認識の順番があるので、生を考えたあとに死を考えるという。なにか、八十年代からの天地の間を還相する映画のコスモロジーをおもうのである。‬

映画館の暗闇は自分がどういう階級であるかを隠してくれたとデユラスは少女時代を回想している。)‬


推敲中

映画のスクリーンは自らに時代精神を投射するように、80年代のゴダール時代精神を語るときどういう方向が正しいかという問題がある。70年代はブルジョワ的なものにたいする拒否の視点をもった。とくにゴダールにとって大問題だったのは、60年代の映像と音をたたえる態度が批判されたことである。九十年代以降のオートバイオグラフィー的な言葉の方向へ行くまえに、語りを可能とする媒介としての映像と音の自立的なあり方が検討された。映像と音はなにか?「カルメン」という名が与えられるまえに、それらは何だったのか?他から与えられた媒介ではなく、あるいはまた他から奪っていく媒介でもなく、倫理的に自己自身の媒介としていることによって、映像と音の存在についてもう文句を言わないこと。映画を愛するシネフィルはシネフィルの道がある。

ベートーベンは普遍というよりは、ベートーベンは普遍の統合する時代精神というほどのものではなく、統合することの無理をスクリーンの中で示す特殊の普遍ーたたえられたフランス革命の近代を批判的に相対化するーであろう。

推敲中
ここで調和とは新しい時代からの半-亡命のことである。ここで調和とは新しい時代からの半-亡命のことである。古い世界こそは、二人の間の対話を構成するシンメトリーと分割をもっていた。新しい世界を批判できる反時代的精神は、古い世界を完成させることに失敗したのだと訴える古い世界からする反時代的批判である。‬

推敲中

‪『ゴダールのマリア』(1984)は、アンヌ=マリー・ミエヴィルの短篇映画『マリアの本』とゴダールの長篇劇映画『こんにちは、マリア』(Je vous salue, Marie)の二部構成で成り立っている。『ゴダールのマリア』は言説を考える映画である。映像は、だれかが語った言葉ではなく、何が語られたのかとの繊細な関係をもつことによって、ある言説が言い出された意味の読みが成り立つという。映画の関心は、力ー異なるものどうし(映像と音と言葉)の関係ーの生産にある。この映画『マリア』は極右翼とフェミニズムの両方から非難された。前者はゴダールはアンチ・カトリックだとしてマリアの裸体像を公に晒した映像に反発し、後者はゴダールカトリック神秘主義に陥っているとして映画の女性の地位を貶める物語に抗議したのである。映画を読み解くだけでは不十分である。映画がもたらしたこの波紋からなにを読みとるか?世界は、映像がもつ言葉との繊細な関係を物語った言説としての映画を産み出し、またこれを否定したのである。一方に力ー異なるものどうしの関係ーの生産があり、他方に力を否定する抑圧が存在している。‬ ‬ 映画は誰々が語る主義と矛盾から切り離されている言説のスクリーンである以上、こう言わざるを得ない、映画が自らに投射する世界それ自身が無矛盾の映画である、と

英語を聴きとれる日本人がいないのは英語は言語だからだ。言語は差異を住処とする。差異の表象が成り立つ為には空間のイメージが必要である。空間は境界としてあった。国家はその後


身体感覚だけれど、京都の街を歩くとヤバイ感じがする。建築家ゲーリーが京都は枠作られると言っていた通りだ。東京は反権力の知があるが、これは死の感覚によるのだけれど、同じように枠作られていると感じてしまう自分は一人ぽっちと感じる。多分、国家の全体をみるフレームが天皇の死者を祀る見方に枠づけられているからではないだろうか

同じではないとおもいますが、言葉を通じて理解する事柄なので、微妙なところですね。「枠づける」がいつ、「枠作られる」となってしまうのか、そこに隠蔽があるのかとか、「枠作られる」のなかに「枠づける」の不透明な枠作られていない痕跡(外部)が必ずあるとおもいますし...

山々の輪郭は大変美しいです。文学にすんでいるような美しさというのでしょうか。またわたしは人のほうもおもしろいのです。京都に行きますと、運転手の方やお坊さんが「応仁の乱」まで遡るでしょう。あれはアイルランド人が800年前まで遡るこだわりと共通しています。東京中心主義に巻かれたくない歴史感覚というのでしょうか。詳しく書けませんが、アイルランドでは自分たちは北の地中海人という自負があります。内藤湖南を勉強して「応仁の乱」の意味がだいぶわかってきました。明治維新の近代は権門体制の復活(天皇と寺社と貴族の支配体制に、下級武士と軍人と官僚が加わった)と理解できますが、明治維新に帰れという安倍政権の東京も権門体制に反抗する「応仁の乱」が必要です。京都は伊藤仁斎の古義堂がありました。修学旅行のとき、バスガイドの人が堀川の散歩のときここを強調しました。お父さんが大事なだと言っていました。たしかに、ここを訪ねてこそ、17世記アジアの知識革命が見渡せます。
わからんことを投稿したかもしれませんが、子安先生の講座で大岡昇平を読んだことがあります、このときの議論をおもいだしました。大岡昇平は『野火』であんなにラディカルだったのに、『レイテ戦記』では何か死者の魂を救うつもりで戦闘に意味があったことを明らかにしたいと言ってこれを書くのですね。これは局所的な戦いをみてもダメで、全体をみないとわからないというのです。ある意味で国家祭祀の視野です。最近出てきた「天皇抑止論」とその反響のことも考えると、どうも何か、中国知識人と朝鮮知識人に育てられた日本知識人の古代から始まるのかもしれませんが、日本知識人の視点を規定する枠組みがみえちゃうのですね

推敲中

「エレナとリシャールは、ロジェと行った同じ湖に、同じようにボートを漕ぎ出した。そこでリシャールはエレナを突き飛ばす。エレナは溺れかけるが、リシャールは腕を伸ばしてエレナの手をつかみ、エレナを救い出すのだった。‬ ‪」 エレナの精神的成熟のことがいわれる。ロジェ・レノックスはエレナの心の中の他者であると。言葉で説明されるとこのように整理されてしまうのだけれど、映像で見たかぎりにおいては、おぞましいアラン・ドロンは何らかの力で死体のまま蘇った怪物のようである。 それは人間の心の中の他者などではない。ロジェ・レノックスを殺したあと、エレナの精神がリシャールという名をもったこの死者から成り立っているではないか。わたしはこういうことも考える。エレナは過去のロジェ・レノックスの言葉を理解しようとして、彼の心の中の感覚世界を追っていったようにおもう。だけれどロジェ・レノックスは理解されることはないだろう。そうしてエレナは彼女の前に現れたリシャールの心を住処にしようとして屋敷を出るのである。しかし他者ロジェ・レノックスはリシャールの現在から構成されることは不可能である。愛の不可能性、それが「ヌーヴェルバーグ」のテーマだったではなかったか?


‪今年もゴダールの映画作品を囘想したが、『ヌーヴェルバーグ』(1990 Nouvelle Vague)についてきちんと書いていない。正直、誰もこの映画を語っていなかったようにおもう。
この映画について最初に言っておかなければいけないことは、これはスクリーンのような内在の平面を表現している映画だということだ。
アランドロンはかつてヌーヴェルバーグの敵だったこともあって、批判家たちに嫌われている。アランドロンがゾンビの如く言われるが、それですますことはできない。追い立てられて死に場所もなく、死んだら死んだでそれっきりでいいのだろうか?映画は記憶のこととしても、死者(忘却される映画自身も含めて)が生者の近くに存在しなければならないことを表現しているのである。「前近代」では類似者は常に生まれ変わりとして現れるように、ポストモダンの世界においては、スクリーンのような内在の平面の上では、生(別のあり方)も死(別のあり方)も縺れあった状態として同時にあり得る。
内在の平面は唯物論的である。ロラン・バルトマルクスの「決定する」という語の反復にウンザリしたが、エンゲルスはこの貧しいエクリチュールを借りて、何でもかんでも根本に物質があるとみる唯物論を抽象的に展開できた。死に切った過去は人間の意識が接近できない点で物質である。この内在の平面に互いに異質なものが配置される。(エンゲルス唯物論と共通のものをもっているのがペンローズだとおもうのだけれど)。

Fbの場で7冊を発表したことは、それらを考えなおすよい機会となったかもしれない。一方、持っていることが知られたら恥ずかしいから隠しておきたい本もある。これらの本のことも考えてあげなければフェアーではないだろう(変かな?) ハイデガーと共に、時間とは何かと考えるときには、一生かかっても接近できない距離を以って日常言語で考えなければいけないものを、臆病にも、物理や数学の方程式を解説した本を読んで時間についてわかろうとしている自分のなかの言語的支配の欲望が恥ずかしい。文学史が自然科学にもとづいて構想されるのは違和感があるし、同様に、思想史も公式化されてはならないということをおもう。構造主義が自らを科学でないとしたうえで、数学を利用することは全然問題はない(ポスト構造主義はそういう構造主義である)

推敲中

マルクス資本論」をシェークスピアを通して分析した、経済学者・岩井克人氏の「ベニスの商人の「資本論」」に到底及びませんが、最後の審判の日の「不均衡動学」というような切り口で、演劇というものを経済学批判の視点から読み解くことができないかというのがここでの私の目的。▼岩井「不均衡動学の理論」をホルヴァートを通して分析したいと思います。▼この「不均衡動学の理論」は、経済学の「学」に向けられた言説批判というか、「これは、まさに合理性というものの逆説にほかならない」という口調で「逆説」という言葉が氾濫しています。▼われわれに教えるその逆説は、効率性と安定性の二律背反に関わるものです。そして「市場経済とは、まさにその外部によってその内在的な不安定性から救われているのであるという逆説がここに存在している」と言われるのですが、この二律背反こそがネオリベ経済学に対するアカデミックな反論の視点をなします。▼つまり簡単にいえば、(マクロ経済学においては)効率がよくなればなるほど不安定性が増大するという関係がみられるということですね。
▼さて演劇ですが、ホルヴァートが「愚かしさのようなものほど、永遠性を感じさせるものはない」というとき、この「愚かしさ」とはなにかとかんがえるとき、それは、「外部性」の概念に関係しているのではないかとおもうのです。▼なぜ「最後の審判の日」アンナはトーマスフーデツをあれほどかばったのかという問題があります。これなんかは、外部性としての愚かさという切り口からとらえることができないだろうかと思うのですね。▼アンナはなんらかの意味での人間的な硬直性をもっていたように感じました。後期近代21世紀において極まる、効率の果てしない追求と怖るべき安定性の拡大、差別されていく精神の空洞化。これはすでに1930年代にさかのぼりますが、われわれの現代に必然的に直進していく体制にたいして、その外部に立とうとするアンナ。列車衝突事故に帰結しましたので、愚かにみえますが、それは事後的にいえることで、キスは、アベミックスのような市場至上主義の経済合理性の立場からみれば「非論理的」であるが、社会的な存在としての共同体の立場からみれば「一見したほど非論理的ではない」と私は考えます。▼時間を均質化していく機械仕掛けに進行する合理化と危機的な不均衡に巻き込まれていく人々。トーマス・フーデツに、アンナは人間性の意味を回復しようとしていわば経験知としてのキスというごとき言葉の光と闇を与えました。ホルヴァートは、近代にたいしてなんとか巻き返していこうとしたプロセスがあったことを、ほかならない、二人共同体を通して舞台で表現したのではなかっただろうか。




‪新しい物の見方が問われている。ポストコロナについて言われるようになった。このままネオリベの市場主義と同じことを続けたらやっていけなくなるのは明らかだ。ケインズ主義の見直しが起きているが、昔のケインズに戻れというような単純な話ではないだろう。岩井克人『不均衡動学』(1989)は、私の勉強不足でこれを完全には読めていないが、岩井によるケインズ『雇用・利子・貨幣の一般理論』の脱構築的読みを追いながら、合理性は合理性を貫くと合理性を保てなくなるというようなことを書いていたことは理解できたとおもう。簡単に整理すると、新古典派の思考可能な合理主義からみると、労働組合などの政治的存在は思考不可能な非合理であるが、もしそういうものがなければ、ネオリベの合理だけが存在するシナリオ通りにハイパーインフレが起きて経済そのものが成り立たなくなる。だから、<思考>と<思考にもとづく思考不可能なもの>、この両者はケインズにおいて互いに切り離されてはいないと。ここで岩井がやったことは、合理主義そのものの否定ではなく、近代における合理主義のあり方を問うものであった。『不均衡動学』は対立する経済学説の議論を検討することによって近代を問題にしたのである。だからここから、合理主義はひとつではないという新しい物の見方をかんがえてみることだって可能ではないか。たとえば新井白石の合理主義は近代であるが、伊藤仁斎の合理(「未(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らんや」の注釈)はこれとは違う近世のものである。また朱子学の合理主義と仁斎の合理は近世に属するが?両者は別のものである。啓蒙主義が多様であるように、合理主義も多様であると考える必要があるのだ。再び、ケインズ主義の見直しが起きているが、昔のケインズに戻れというような単純な話ではないだろう。ケインズ主義の問題は、それが確立してしまうとその言説的合理のなかでそれとは異なる多様性が排除されてしまったことにある。現代は世界資本主義の分割である帝国の時代であるが、近代が考えるようには、帝国のなかにひとつの合理主義があるのではない。他者が先行するのである。「帝国のなかに他者が存在する」とは多孔性の意味によって明らかになる言説ではないか‬

ヤバイ、憲法記念日をすっかり忘れていた。こんな時代だからこど、何か言わなくては、しかし令和の時代にいったい何を言うことが可能なのか?戦後確立できると考えた憲法制定権力と憲法訴訟という制度的認識、つまり国民主権司法権の独立を保障した三権分立のデモクラシーは、成り立つことがないことを、既に戦争中の天皇論ー「祀る神は祀られる神」の歴史なき構造の不変式ーには分かっていたのか(畜生!)左翼の「天皇抑止論」に顕著であるが、歴史的に、日本知識人というのは天皇(祀る神)に規定された視点の枠組みで国を俯瞰してきたのか。‪時代に対応する形で天皇制は色々なあり方でやってきたが、現在象徴制を過剰に超える象徴行為に直面しても、この構造に危機感もない。これからどうすればいいのか!?

 ‪