MEMO

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17世紀といえば「危機の17世紀」。この「危機の17世紀」にヨーロッパは外部へ出た。実はアジアも外部へ出た。その17世紀半ばからヨーロッパでは芸術批評が一般の人々に読まれることがはじまった。それまでは特権的な階級だけが読んだ。これは偶然だろうか?これについて、子安先生から大きな宿題を与えられてしまった。素読だけれど一年かけて芸術理論の歴史を読んだ。『仁斎学講義』(ぺりかん社)に書いてあった通りだ。ヨーロッパもアジアも外に出なければ、天を見ることができなかったのだ。21世紀のわれわれは「危機の17世紀」に依拠して生きているのだけれど、「危機の17世紀」は19世紀に帰ることによって隠蔽されてしまっている。だけれど内部に帰る必要がないのだ、そのことは1970年代と80年代に明らかになって来た


推敲中

1950年代迄に映画はそのあるゆる可能性を尽くしたといわれる。映画は失敗したまま完成してしまったというか、とにかく、映画に未来はなかった。映画は、トーキーの時代に忘却されてしまった過去の映画を読み解いていく映画の痕跡を拾い集めるだけである。例えば『野生の少年』(トリフォー、1969)のように。ここからはじめて、分節化された映像のなかに、それをつくる人間の姿ー物語のなかに分節化されないーが投射されたのである。それまで映画は視野としての映像しかもっていなかった。21世紀に映画が消滅し切ったとしても、1950年代から、スクリーンは自らを見ている投射をもっていたから、他者からの問いが成り立たつことができた。その問いとは、存在しないものが存在しているのではないかという倫理的なものである。この問いは、映画が存在していた時代には不可能であったことは説明の必要もないだろう。





『江戸思想史講義』(子安先生著)の中国語訳


「本は世界のイマージュなのではない。本は世界とともにリゾームになる。」(D&G) これは、もし世界が帝国を意味しているとすればどういうことが言えるだろうか?世界は、言語支配者の帝国の中心は、自己の思考(朱子学コスモロジー)にもとづく言語マイノリティーの周辺の非思考へ行くとき、帝国としての本はそこに他者をみるだろう(17世紀江戸思想)。また今度は、本は、帝国としての本は、世界のすべてを包摂しているにもかかわらず決して十分ではないと感じられるとき、世界は外部へ行くのである、他者をみるために。宗教マイノリティーとの関係、隣国との関係を帝国の中の他者として考えはじめることだってあり得る


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<イギリスの料理>は権威に質問しない社会のイメージだし、映画『戦艦ポチョムキン』は腐肉のイメージを以って<われわれは真実に値しないのか>という曖昧な観念を明確にした


昔は冤罪を国家犯罪と呼んでいた。検察の正義感の暴走が国家犯罪の原因か?否。彼等は事実が無くとも、「犯人が必ずいる」という国民の期待に応えるのだ。裁判官の責任が大きい。


小泉と安倍の場合のように、国民の圧倒的人気をもって首相に選ばれれば必ず間違いをおかすが、少なくとも田中角栄は日中国交回復を実現させたアジア主義の政治家の一人だった


フリッツ・ラング『M』(1931)は誤解されてきた。ナチズムとして描かれているのは、ベルリンの連続殺人犯ではなくて、犯人を包囲していく警察とブルジョワの協力、そして今でいう自粛警察の側である


何でもかんでも喋る「パレーシア」の民主制を揺るがしかねない問題があるらしいが、何かこれは、知識人ではなくて政治的責任をとらなくていい文化人になりたい人が多いことも関係するのかしら?知識人は宗教について語るときは宗教から距離をとる。たとえば儒家知識人は原始儒教の祖先崇拝を否定しないが、自らを孔子とか聖人に同一化することはなかったのである。本を読む仲間の間で、思想(史)のことを議論しているのに、宗教の中から何でもかんでも話しはじめちゃう熱心な人が痛いよなあ



歓喜の歌(喜びの歌)An die Freude」


Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium. Wir betreten feuertrunken, Himmlische, dein Heiligtum!

歓喜よ、美しき天来の霊感よ、エーリュシオンの娘子よ、われらは火のごとく酔いしれ、至高なる者よ、なんじが聖所に入りゆく」


‪慶応三年のヘボン和英語林集成」初版から二十年間で約15000語増加した。その殆どは(国産の)漢語だった。物の見方がネイティブ化していくと、その中あって別の物の見方をするのが大変難しくなる。漢字文化圏のアジアの近世から日本の近代を解体できなくなる‬。

国産の漢語については、例外なく、‪日本近代の成功をもたらしたものとして‬称賛されるのだけれど、敢えて言うと、失敗だったのではなかったか。そう考える根拠は、100%過去を捨てきった日本だけに抵抗が起きてこない現在を考えると明らかになってくる。もっとも国産の漢語がなければ、翻訳による近現代演劇も、近代批判をはじめた『言葉と物』も読めないのだから、決して単純に「過去へ帰れ』と言おうとしているのではないよ。ただ、江戸時代よりも遥かに差別を生み出した明治維新の近代なのに、それが推進した<一国>民主主義と自立的一言語の体制(『国語』)が失敗だったと考えてもよさそうなのに考えることが出来ない理由は、これを国産の漢語だけによって考えようとしているからではないか。


自民党政治家が’#検察庁法改正案に抗議します’は「考えていない」と言ったが、対抗メディアのおかげでこの人は生まれてはじめて「考える」ことの意味を考えたようにみえます



渡辺一民氏は、フーコ『言葉と物』第十章「人文諸科学」を読むときは、他の学者と違って、本の最初の頁、ベラスケスの絵とその分析の言葉を絶えず思い浮かべながら読んでいるとわたしに言った。そういう風に読むのは僕だけだよと。この違いはなにをもたらすのか?現在第十章を再び読みながら考える。


「かくて画家の至上の視線は、ひとめぐりすることによって、その絵を規定する潜在的な三角形を得るのである。つまり、その頂点ー可視的な唯一の点ーに芸術家の眼、底辺の一方にモデルのいる不可視の場所、他方に、裏がえしにされた画布のうえにきっと素描されているに違いない形象がある、そのような三角形をだ。(Foucault LES MOTS ET LES CHOSES)


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1758年分類学の父リンネは、ヒトを以下のような形態的特徴に基いて新種として記載した。

1. 直立した時に、頭の重心は両足の間に収まる。
2. 骨格は、直立二足歩行を支えられるしくみになっている。
3. 前足(手)の付け根は体の両側にある。
4. 後ろ足は前足よりも長く、かかとがある。
5. 体の表面の毛は薄く、ほとんどの皮膚は裸出する。

こうして私たちヒトは、動物界脊索動物門哺乳綱サル目ヒト科ヒト属サピエンス種という分類階級が与えられた。

同様に形態的な分類から、私たちは、ヒト科の中ではチンパンジー属がもっとも、次いでゴリラ属が近縁であり、オランウータン属はかなり縁が遠いとされた。近年では、DNAの塩基配列に基づいて系統分類を行うことが普通になったが、その結果、動植物においては形態による系統分類とDNA系統分類が大きくはずれてないことが判明した。


‪ウイルスの問題を考えるときは<いかに\しなければならない>を語る。また不景気の問題を考えるときは、(非常事態宣言の解除時期をめぐって)<正しい\正しくない>を語る。そして言語の問題を考えるときは(安倍の理念なき政治を語ることについて)<意味がある\意味がない>を語っている。ウイルスと不景気とナショナリズム、この知の三角形を考えるための思考の共通の平面はなにか?


‪ ‪鎖国とは何であったのか?

鎖国ほど評判の悪いものはない。ここでわたしは、鎖国とは何であったのかかんがえてこれを擁護しようとしれいるのは何故だろうか?21世紀に、世界資本主義の分割である帝国の時代に、‪市場至上主義の新自由主義的経済秩序から自立した‬鎖国の人類史的意味を考え直してみようというのである。

欧米の資本主義的生産と交易圏の拡大要求が軍事力を以って東アジアに達し、中国を侵犯しはじめた近代に鎖国がとられた。徳川時代鎖国は本当にそれほど鎖国だったのか?たしかにキリスト教を禁じた。しかし徳川的近世の民は、外部からの文化の接触によって豊かに成長していく文化を理解していたからこそ、東アジアの朱子学の普遍を積極的に学んだ。その結果、普遍の中心へ行っているとおもっていたが、それとは正反対の方向、多様性の方向へ行っていた。では普遍をもとめる知は再びどこに現れるのか?西欧に普遍があるならばむしろそれを受け入れるために国を開く準備をしていたのではなかったか(横井小楠)。子安先生の北京講演で、方法概念としてのもう一つの「近代日本」が問題提起された。近代主義が語る世界史にたいして、もうひとつの日本の近代(徳川的近世)からは、統一政権の成立、全国的交易・流通網の成立、民間教育の普及、都市と都市的生活圏・文化圏の成立のあり方を理念的に見渡すことができる。‬


こういうのは芸能人の橋下が無思想に要領よくうまく解説してくれると思いますが(爆) 、これは法の思想の根本にかかわる非常に難しい問題です。これは大変な議論になってしまうので、教科書的なことについてなら実定法理解の落ちこぼれのわたしのような者でも一言二言、言えます(言えるかもしれません)。古典的には、つまりリベラル的には、原則は法は行為を罰して人を罰せず、です。だから構成要件の賭博行為が犯罪を構成するというふうに教科書に書いてあります。古典的には、構成要件に該当する違法性の疑いのある行為が犯罪を成立させる可能性があるとかんがえていいとおもいます(もちろん学説の争いがあり)。その構成要件を読む限り、単純賭博より常習賭博のほうを重く罰しているのは(前者は2年、後者は3年)、法が人格性を裁こうしていることの現れですね。これについても学説の争いがあり(といっても、常習性のある人と賭博したときの常習性の共犯性の成立の範囲が問題にされるだけ)。思考の順序として、構成要件的には、違法性の疑いのある行為のなかに、責任要素である人格的要素を含ませているのは引っかかりますね。カントの道徳論を知っているひとは引っかかるのですが、犯罪「者」から社会を防衛しようと考える刑事政策というか政策しか関心のない人は引っかかってきません。古典的には、検察官が悪人かどうかは判断してはいけないのですが、実務に影響力のある刑法学説のなかには、行為の存在論的構造を重視して、悪人であるか、生い立ち遡って悪人になったことに責任があるかなどを問題にしますね(汗)。最後に、”程度の問題”というのはその通りで、構成要件に該当する違法性の疑いのある行為だとしても、可罰的違法性があるかどうかによります。


大島渚『絞首刑』の中で描かれていたように検察官というのはもっとも国家のイメージを体現していたが、現在は安倍の国家のカジノ化に奉仕する市場資本主義のイメージになってきたね


機関説と申しまするは、国家をそれ自身に目的を有する恒久的の団体、一つの法人と観念いたしまして、天皇は法人たる国家の元首たる地位にありまし、天皇憲法に従って行わせられまする行為カ、即ち国家の行為たる効カを生ずるということを言い現わすものであります。(演説「一身上の弁明」)


政治の問題は操作とコントロールの問題だからどうしてもそれについてばかり話すことになる。否、政治が芸術と市民エシィクスとセックスと想像力と一体としてあると語るのは誰か!?


資本論』を語ってごらんなさい。しかし『資本論』を語ったところで何一つ語ったことにはならない。繰り返して読んだこだわりを語るだけだ。これではわれわれは笑うしかない‬


資本論』を語って御覧なさい。しかし語ったところで何一つ語ったことにはならない。繰り返して読むこだわりー自己同一の全体主義ーのほかは。これではわれわれは笑うしかない‬

無とか空は、過去の日本映画の存在を思い浮かばせる起源なき廃墟のイメージの傍らにある反コスモスである。コスモス=ロゴスを見上げることなく終わりまでここに佇んでいたい


推敲中

アイルランドにいたときに宮田氏が柳瀬訳の問題を検討して新しい訳をはじめました。宮田訳の魅力は、柳瀬氏が読む経験を重んじるとしたら、見る経験を重んじているようにわたしはおもいます。また『ユリシーズ』の中国語訳がでた時代ですね。何年か前にFWの中国語訳もでたらしいです。1980年代に翻訳が充実してある意味ではじめて本が活発に語られることになったのですが、結局は、「読めないUnreadable」というのがこの本について最初に言っておかなければいけないということになりました。「我読まれず、ゆえに我あり」と自己主張しているような天下無敵の本です。しかし読めずとも、世界中の言語に翻訳されている翻訳を通して、すこしづつ理解されてくる本ではないだろうかと。そうだとしたら、FWはまだ完成されていない本ではないかというようなことがいわれています。常に新しい言語による翻訳を必要としています。翻訳が翻訳されるべきものを少しづつ完成させているというのか、翻訳が先行している、何という世界でしょうかね


What true feeling for their hayair with what strawing voice of false jiccup

ーFinnegans Wake

偽のしゃっくり藁声で干し草髪を撫でるときがサイコー

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FOCAULT LES MOTS ET LES CHOSES

まさにブランショの言う通りで、イメージの傍らに無が佇んでいる...

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推敲中

読んだときは、「アンチ・オィデプスー分裂症と資本主義」も読めるようになるのではないかと期待したものだった。この本はそれ自体として読むに値するとおもう。これを読んだとき、時間の意味を考えた。そして時間の「構造」ー時間そのものの分裂ーを理解して驚いた。単純化を恐れずにいうと、分裂は多元主義である。時間が、憲法と同様に、<われわれ>の拠り所となるのは、われわれの<あいだ>に分裂を生産するからではないか。


西欧は、マルチカルチュアリズムの到来にあって、普遍主義の規律を他者に強いることを躊躇った。「グラトモロジー」のデリダは、反植民地主義を言えば足りたルソー主義とマルクス主義を痛烈に非難。同様に、サルトルだけでなくレヴィ=ストロースも、「本来性」に定位する、音声中心主義的起源の普遍主義と告発された


バザンやゴダールたちの観察がすごいのは、遠近法という物の見方を倫理的にとらえてみる方法なんだね。美術史は倫理的な視点はない。そうすると、これを徹底して、映画史における物の見方だけれど、映画はカラーではじまってもよかったが白黒において現れたのは、映画というのは死に対する倫理的感覚をもっていたからだというように物語られる。


20年まえのトリエステに旅したときのことですけど、夜のアドリア海の雷鳴なき稲妻を眺めていたら、海のトリトンのナイフの輝きを思い出しまして、アニメよ、ありがとうと呟きました。たしかにおっしゃるように、テレビではないのですけど、赤塚さんの漫画は貧しくて差別されている子どもたちを主人公にしていたのを思い出します(「おそ松くん」?) 好きでないですが、イタリアで受けている「タイガーマスク」の孤児院とかは差別された世界ですよね。あと、幽霊が新聞配達する漫画を描いていた人の「僕は十円」」。昇華というのでしょうか、彼らから生まれてくる想像世界の大きさに圧倒されることも(海のトリトンもそうかもしれませんでした)。私がいたアイルランドのようにみんなが貧しくあった時代なので自分を惨めに感じていてもそれほどではないのですが、イギリスのように貧富の格差があるとめちゃくちゃ自分を惨めに感じ続けるんです。日本の話ですが、たまに流れてくる現在のアニメを見るのですが、惨め感を非常に巧みに表現できるんだなと感心します。豊かさが前提となっている、欲望の偶像に届かない距離を心理的に描けます。世界中にある差別にどんどんそこに繋がっていくというポストコロニアルワールドの大きな普遍主義を表現していくのは難しいでしょうね。ちょっとうまく書けていませんが、そういう違いを思います。しかし現在も、どうしたのか、学校に行かないのかしらという心配子供って道端にいますよね..


マリー・アントワネットの処刑はフランス革命軍国主義を思わずにはいられない。閔妃を集団レイプした殺害事件は長州藩テロリズムが行った明治維新の性格を考えさせる


20年前トリエステに旅したときのことですけど、アドリア海の雷鳴なき稲妻を眺めていたら、海のトリトンのナイフの輝きを思い出しまして、アニメよ、ありがとうと呟きました


コロナの経験からは国を越えた次元で取り組むことの大切な意義を学んだのではなかったのでしょうか?もう一国中心主義とネオリベではやっていけません。発想の大転換が必要。しかし都知事選は時代遅れの東京ファーストvs.時代遅れのネオリベ的東京集中主義


子安先生のおかげで、早稲とその周辺で、市民大学講座を私は9年間参加させていただきました。この間に、『仁斎学講義』、『日本人は中国をどう語ってきたか』、『歎異抄の近代』、『「大正」を読み直す: 幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』、『帝国か民主か: 中国と東アジア問題』、『仁斎論語』が出ました。また韓国では『漢字論』の訳が出ましたし、中国では『江戸思想史講義』をはじめ先生のお仕事の数冊の翻訳がコレクションとして出版されました。大変な時期ですが、講座「明治維新の近代」の出版が待ち望まれます。また早稲田から、先生のおかげで、ひまわり運動が起きた台湾に行きましたし、岡倉天心本居宣長の地を訪ねる思想史遠足にも行きました。早稲田とその周辺の9年間は、私たちは市民という立場で自発的に考えることの意味を考えることになった意義深い9年間でした。また私にとっては反原発デモや反安倍戦争法(共謀罪)デモの現場の意味を考えるために必要な場所でした。このときに行われた小田実を語る講演会は重要でした。まだまだ学ぶことが多いですが、先生のもとで、これからも考えていく続けるつもりです。ご好意に甘えて申し訳ありませんが、今後はどうぞ「仁斎論語塾」の飯田橋でよろしくお願いします。


‪リフィー川とは、世界は本とともにリゾームになる流れのこと。流れとは、こういう環境で言説が分節化されたと理解できないような知の次元における出来事‬


なぜマルクスは商品の分析から書きはじめたのか?それは商品世界は読むことができないからである。だからこそマルクスは商品を象形文字と考えてみた。どういうことが言えるか?『資本論』の価値形式論は、エクリチュールの媒介と共に成り立つ叙事詩的世界を書く。都市の無意識。商品達は自らを表現するために他を殺戮する。命懸けの飛躍とは声が死者達を祀る俯瞰ではないか。共産主義は弔う場所もなくなった亡霊として徘徊するだろう

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この方は一定期間ですけど十年前わたしのアイルランドについて書いたツイッターの投稿を時々読んでいました。ネットに対する関心をもっていたようです。グローバリズムにおける「サブカルチャー的な知性の台頭」を問題にしているようですけど、どういう切り口で語るのか知りません。若い人たちは知識人ではなく、文化人になりたがるー日本文化の他者性を考える方向に行かないーのは、責任をとらなくてもいいという、ここが問題だとおもうのですけど。笠井さんは小田実みたいにわかりやすく書く知識人が嫌いですし、そもそも知識人の意義もみとめていないとおもうのですね。彼は暴力革命をみているのでしょうが、「暴力革命」は正しくは「暴力暴力」と言うべきです。どんな革命も支配者が変わるだけ。そして革命である以上兄弟を殺戮する罪をともなう暴力を不可避的にもっていること。このことを前提に、わたし自身に対する自己批判も含めてわたしの世代のリベラルは革命がなければ日本は変わらないということを喋ってきたのですね。無血革命を念頭においているからですが、これは自己欺瞞的です。革命は必要がないのですから、リベラルは革命頼りにみえる見方をきっぱりやめて、外部の思考をもって日本文化の他者性を主張しながら、(開発と戦争と同化主義はどんどん進むのに)政治を喋る自由がない、権利のない社会に反対するラディカルリベラルになるべきだというのがわたしの考えです。ラディカルリベラルは、グローバリズムの国家中心主義の戻らなくてもいい時代だからこそ成り立つ「世界史的」立場ではないかとおもっています。


そうでしたか、さすが廣田さん、しっかり読まれていますね。「無限転向のラディカリズ」ですか、簡単ではないですね(爆)。わたしは戦争協力なき「転向」をみとめるので、これは悪くないかなとおもうのですがね、ズバリ、永久革命のラディカル・モダニズムを言いあらわした言葉ですね。小田は、戦後の平和主義者は戦前軍国主義者だったことを指摘して、自分みたいに根のない者は戦後も変わらないと言っていますね。笠井さんは多分大衆主義(大衆が知識人であるとする考え方)のわりには、大衆が読めない文を書くというか、それは構わないですけど、むしろ望ましいのですが(笑)、その点で、震災以降非常にラディカルになった小田実は、もともとツイッターの先駆けのような文を書いていたようですが、ウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤの知識人像をもちはじめて、非常に平易な文を書きはじめますね。彼は大学時代は古典ギリシャ語を勉強した大変なエリートですが、ギリシャというのは、好んで戦争をやっていたのはダメだが、ウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤしはじめたのがいいと。学のあるひとは、神話の想像力から演劇を経て哲学的知へ、と言うところを、小田は「ウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガ」と言うことができるのですね。

わたしは永久革命のラディカル・モダニズムを支持しません。『論語』は中には時代遅れのくだらないことを書いてありますが、それらを解釈されたその通りに受けとる必要がないわけですから、『論語』を読む「有限転向のラディカリズム」ぐらいの人間交際を尊ぶ思想的位置と機能がいいかなとわたしは自分でおもいます。最低限度、宗教の自由と家族の自由(独身の権利をみとめたうえで色々な形を平等に認めた家族。外国人との結婚。同性愛の結婚等々)を社会にまもっていくという考えにいきます


安倍「あの、わたしはルイ16世と同じではない。民主的に選ばれたから」。その通り!独裁者はローマのネロ以来、選挙でしか出てこないのですから。ヒトラーも、そしてあなたも


捏造と改竄も問題ですが、錯誤も問題です。捏造と改竄は置き換えですが、錯誤は隠蔽的同一化です。第二世界大戦を太平洋戦争と同一化する問題のある錯誤があります。日中戦争という十年近く続いた戦争(満州事変を考慮すれば15年間)を隠蔽し続けています。アメリカとの4年間の戦争だけだったとするこの錯誤が、歴史修正主義(南京虐殺は無かったとか、日清戦争日露戦争侵略戦争ではなかった)といっしょに機能している現実に、戦後の日本人ってなにを認識しているのか?ということになります。この認識問題をついて考えるのですが、”本物”の戦後の民主主義から都合よく考えようとするから、所詮”偽物“の戦前の民主主義のもとで起きたひと続きのことを真剣に考えてみることがないのかもしれません。全体主義戦争は悲惨なことは悲惨だったが、偽の民主主義がもたらした偶然的事故だと。しかし日本民主主義は明治維新というクーデターから成り立ったのです。この民主主義が天皇に権力を集中させたまま帝国主義化して昭和十年代の全体主義戦争へ行くことは必然でしたでしょう


新聞記事(アイリッシュタイムズ1997)はアイルランドにやってきたアルトーについて書いたものです。メキシコから帰還してきたアルトーは、アイルランドへ行き、2週間滞在したここからフランスへ強制移送されました。わたしは彼がアラン島からダブリンにもどってきて拘束されることになった場所の近くに住んでいました。拘束されたときは、僅かなお金と劇作家で詩人のジョン・ミリントン・シングにあてた手紙しか持っていませんでした。それから聖パトリックに返すために持参してきた杖ですね(アムステルダムの骨董品市場で手に入れた?) 残念ながら、現在アイルランドはこの歴史を知るひとがほとんどいませんし、この事件から知的な影響を受けることはなかったようです。さてフランスで送られてきたこのアルトーを最初に診断したのは精神分析ラカンで、彼は芸術に深い理解がありましたが、「これはただの馬鹿じゃないか」と吐き捨てたことに、ガタリラカンの限界をみたようですね。ネグリによると、『アンチ・オイデプス』は「器官なき身体」のアルトーにおける単独性を語ることを課題としていましたが、『ミル・プラトー』は、関心がアルトーからマルチチュードスピノザへ移って、‘リゾーム’という語で語られることになった、融合状態(en fusion)のノマドのあり方ではなかったかということらしいです。フーコ『言葉と物』の殆ど最後で、バベルの災厄以降散逸した言語がどこにおいて集中することになったかを書くときに呼び出されたのはアルトーだったかもしれません。「アルトーにあっては、言説としては拒まれ、衝撃の造形的暴力のなかに奪回された言語(ランガージュ)は、叫び、拷問にかけられた身体、思考の物質性、肉体に送りかえされる。」‬


推敲中

l’analyse de Sartre dans la Critiquede la raison dialectique nous paraît profondément juste, d'après laquelle il n'y a pas spontanéité de classe, mais seulement de <groups en fusion>...Le véritable inconscient...est dans le désir de groupe, qui met en jeu l'ordre moléculaire des machines désirantes (Deleuze & Guatteri)



存在とはなにか?    


1、存在とはなにか?ドン・スコトゥスアルトーは、この石が分割不可能であること、この身体が分割などはできはしないことを主張した。存在の問題は、分割不可能性と関係している事を見抜いていた。同様に、スピノザ「エチカ」によると、自然たる神は分割できないゆえに、存在と関係していると考えた


2、ハイデガーは普遍主義を存在論的に攻撃したあげく、結局はネガティヴな瞑想に、君が代的「世界内存在」に後退した。しかし天皇主義的ゲットーの分割を破壊せずして存在の開示性などは成立するはずがない。普遍主義的な自然=神の内側で生成される多様性(差異)を抱きかかえる努力こそ存在なのだ!


3、大阪府朝鮮学校への補助金見送りを決めたが、このような、プロパガンダ的に捏造された<わたしたち>と<かれら>の間隙が天皇主義的ゲットーの分割をなすものだ。「存在とはなにか?」、この問いを常に政治の次元において生成させること、「アンチ・オイデプス」のエッセンスはこの一点に存する


4、今日一国で起きた事件は蜘蛛の巣の振動の如く瞬く間に世界に伝わる。アラブの春は反原発へ、シティーの集会はウォール・ストリートの占拠へ。現在民衆の反抗はナショナリズムに結びつくがそこにマイノリティーの権利が保存されなくてはならない。自然=神の内部に多様性が保存されなくてはならない


5、アメリカと日本は、ドゥルーズの本にとって、"祝福された聖地"となっている。パラノイアvsスキゾという視点は益々重要となってきたが、ただ病理学的症状に依拠したこの言葉遣いは誤解を招き皮相的な理解に陥る危険がある。直線的普遍的思考vsリゾーム遊牧民的思考、として捉え直すことが有効だとおもう


アナーキズムかタオイズムかに関わらず、七十年代毛沢東主義が本当にそれほど、八十年代天安門広場<占拠>が求めたように、官僚資本主義の克服を求めたかどうかが、九十年代において問われなければならなかった。これが無かった。知的な怠慢の代償は何だろうか。恐らく九十年代ポストモダニズム知識層の現在のあり方に関わる問題ではないだろうかと少しづつ気がつき始めた


Pourquoi l'Europe, pourquoi pas Chine? A propos de la navigation hauturière, Braudel demande; porquoi pas les navires chinois ou japonais, ou même musulmans ? Porquoi pas Sindbad le Marine? Ce n'est pas la technique qui manque, la machine technique. N'est-ce pas plutôt le désir qui reste pris dans les rêts de l'Etat despotique, tout investi dans la machine du despote

(Deleuze & Guatari; L'Anti-Oedipe)

いったいなぜヨーロッパであって、中国ではないのか。...欠けているのは技術ではないし、技術機械でもない。むしろ欠けているのは欲望であり、それは専制君主国家の網の中に捉われたままで、すべて専制君主機械の中に備給されたままではないのか                                                                                   


死を観念としてとらえること。この国の哲学者は観念としてとらえないから真に世界に通じる哲学になりえないと見抜いたのは、三木清であった。ところが思想が死を観念ではなく、社会的な身体的記憶としてとらえるかぎりそれは断つべき過去を持続させてしまう。(この意味で、戦後憲法天皇を象徴化というよりは観念として構成したとみるべきだ。戦前ファシズムとの連続性を切断している。)

この問題はわたしを、1980年代の思想空有に連れ戻す。近代の眼差しで社会的身体的記憶として死をとらえるのが、構造主義である。ドゥルーズはのパラノイアと呼んだ。そして構造主義パラノイアは、共同体の基底に「女の交換」を想定して、近親相姦の禁止を解釈することに成功した。これに対して、「アンチオィデプス」のスキゾ的注釈は、徹底的に、死を分裂化(観念化)する反撃にでた。絶対主義王制家族にある、近親相姦の禁止を破る過去を断ち切る欲望を対置していくー


「東アジア漢字圏の批評理論は可能か」(林少陽氏)という問題提起を知った。本を読んでいないので正確に理解していないけれど、これを読んだ子安氏の江戸思想史の新たな読みに結びつけようとなさるようにみえっる問題提起を読みながら、ヨーロッパアルファベット圏(ラテン文字圏?)の批評性の条件もちょっと考えてみた。音声中心主義のラディカルモダニズムで漢字よりも、(デリダが言う意味で)アルファベットが文のなかに存在するとはいえないのである。アルファベットの不在を問うことなく、それなのに存在していると錯視しているアルファベットで考えると思い込んでいる。アルファベットのもとに自分たちこそが普遍主義に定位しているとおもっているとしたらこれは何か?これと同様に、音声中心主義のラディカルモダニズムがもたらす漢字の不在を問うことなく、確固と存在してきたし存在していると錯視している漢字で考える批判性が可能だとおもっているゆえに、批評空間をもつ自分たちの文化に優越性があると主張する。帝国は帝国である所以は帝国が漢字文化圏であるからだが、帝国の中に漢字という他者が存在するのかと敢えて問う。漢字は存在することは存在するが、問題は漢字は不可避の他者なのかという点にある。では危機感をもって音声中心主義の認識はいつから起きたのか?清?もっと前の朱子の宋代から?荻生徂徠はどう考えたのか?すでにデリダのように考えていたのか。「東アジア漢字圏の批評理論は可能か」という問題提起に近づいてきたような...