MEMO

f:id:owlcato:20200610102131j:plain


f:id:owlcato:20200610091535j:plain


f:id:owlcato:20200610091607j:plain



ジョイスユリシーズ』の書き出しの言葉はStatelyで、最後の言葉はYes。この本はSで始まりSで終わる。Sを以って、終わりとはじまりとが繋がっているようにジョイスは書いた。これはアイルランドのことしか書いていないこの本が自己完結しているという印象を与える。問題は、トリエステ-チューリッヒーパリと書き記した最後の署名である。ジョイスアイルランドから出て7年間のあいだ色々な都市に転々と移りながら『ユリシーズ』を完成させていったことがわかる。アイルランドで書いた本ではないとはいえ、アイルランドを書き尽くした本である点を考えると、『ユリシーズ』の最後の署名にダブリンがはいっていないのはいかにも奇妙ではないか。なぜだろうか?精神分析かあるいは構造の知に委ねるべき表現の問題か?誰もわからない。多分ジョイス自身も。最後の署名は本を閉じるように自らを閉じている


子安宣邦氏の仕事が中国に受け入れられている理由として、中国におけるポストモダン思想の受容という背景があるようである。ポストモダン思想の用語を使うと、『朱子語類』が『四書』の読み方を変革して漢字文化圏のコスモスロジーを成立させたコード化であるとしたら、徂徠と宣長、篤胤と後期水戸学派は超コード化。中江兆民は脱コード化といえるだろうか。子安宣邦氏『漢字論』は、ポストモダン孔子漢字文化圏の占拠という意味で脱コード化による再領土化になるのではないかとわたしはかんがえている。「不可避の他者」という副題が必然だったのは、「それは他者を待ち、他者に開かれた言語への期待とともに増していった意味」だからである。


Artist who make "fragments "

ホホー、未来を思い出す部屋に、

求めあう表の世界と裏の世界があったニャ、

そこでは失うために失うことができた


十代のときから何か好きだったプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」を現代バレーがどう構成するかを恵比寿の映画館で観てよかったな


ナチスは好んで農民の格好をしたがったし都会のユダヤ人はお洒落だった。農民が勝利する「サウンドオブミュージック」が人気があるのは無意識にファシストを応援しているからだとジジェクは聴衆に語った


「真実を言う人」それ自体は、それにこだわると、どんどん意味の幅が狭くなっていって、ついに、正直者は嘘つきが「私は嘘を言う」かぎりにおいてしか正直者でしかないということになる。変なの、だけれど人間の何かを教える。


現在に繋がらぬ消滅した先住民を分かった上で祖先とするヨーロッパからすると、アメリカは異常らしい(インディオは先祖ではない)。この差は何かと時々考えてみるのだけれど..



推敲中

Against the re-operation

by takashi honda


Let's put end to the no-ending

By civil interference

Against the re-operation, the manufactured consensus.

Poem ought neither to be so obedient a subject 

As to be just a friendly people

Nor should poem try to be an insular self-centeredness, 

The Tower of Babel. 

The alternatives are not 

The private ownership in Hiragana symbol

Or the public authority in Kanji character and the alapahabet. 

Even if the Tower of Bable isn't going to reach the blue heaven,

It is only collapsing to the pot of blood;being scattered and lost 

Let's be late with that joyful floating cloud <s> 

People really don't need any more an Imperial map, but...

Without passing through indignation and hatred,

A genuine absolute democracy is impossible.

Without absolute democracy,

The street will never drink an absolute love.

Without poem, 

How the street can become writing


現在に繋がらぬ消滅した先住民を分かった上で祖先とするヨーロッパからすると、アメリカは異常らしい。インディオは先祖ではない。この問題をどう考えたらいいのかと、ロンドにやってきた義理の叔父さんに聞いた。分析哲学は別として まだ評価も定まらなかったウィットゲンシュタイン(後期)を初めて日本に紹介して、言語を哲学の中心に置くことの大切さを言った人である。だけれどこのときは、彼はこの話題には関心があまりなくて、かわりに、カントの英訳は改良されてきたが、そのせいで現在アメリカの学生はドイツ語を読めなくなってきたこと、ギリシャの古典を原文で読むことの大切さを喋った。いま思い出すと、これは彼の答えだったのだろう。たしかにその通りで、アメリカはアメリカであるためには起源についての幻想などにかかわるべきではない。だけれどこれは反権力的ではない。起源に言及するのは、起源なき廃墟に繋がる無数の入り口をつくるためである。そうして国家と対等でそれから自立している言語の故郷に帰って行く。これがわたしが現代アイルランド演劇から学んだことなのだけれど。


箱根オフィーリアの小鳥のさえずりのように喋る態度に吃驚しない人はいない。衆人、憤慨し呆れる。市民生活の流れをとめる阿呆かと思えば真実を口にしてそれが鋭かったりする



‪L’unité d’une langue est d’abord politique. Il n’y pas de langue-mère, mais prise de pouvoir par une langue dominante, qui tantôt avance sur un large front, et tantôt s’abat simultanément sur des centres divers. ーD=G‬


「言葉の統一性とは、何よりもまず政治的なものだ。母語などというものはなく、支配的な言語が権力を奪取して、広く全面を占め、また同時にさまざまな中心を襲うだけだ」D=G


「魚に食べられてしまえばいいのに」。規範も規則も体系も。魚が存在する外部を世界の中心にする人文諸科学によって、自由に喋らせてくれ、沈黙を強いる構造にたいして

f:id:owlcato:20200613063343j:plain


第三世界の近代国家の歴史よりも古い大学は「壁」として表象されることがあるのは、その国に属しているが部分を為していないから。中にはいるといつの間に大学周辺の外に出てしまう


シェークスピアは女性蔑視の表現があり英国のパブリックスクールでは教えないが、ジョイスを読む。アイルランドの学校はシェークスピアを教えるが、ジョイスはヤバイのでダメダメ


私は底無しの日本のダメさに絶望する近代主義者ではない。永久革命の彼らのようには絶望しない。権利のない社会に反対するゆえに、語る政治的自由が無くなる香港の消滅の危機に絶望している


理念のない政治は政治的風景を極端にせまくしていく。と同時に、そこでは権利のない社会が出来上がってくるだけでなく、権利のない社会に反対できなくなる


アイリッシュがつくった映画の詩の呟きのような小作品があった。よく思い出せないけれど荒地だった。おれを石のなかからまだ外に出してくれないのかと石が彫刻家に話しかける..


アイルランドプラトン的な詩人達=彫刻家達が石からきいた呟き(「いつ私を外に出してくれるのか」)は、石が自然の表象から出してくれと告げているようだ。何も変えるな、全てが変わる為にと石の塊は言いたい。何にしても、永久革命的に、石を削ったりすれば必ず奥から何かが現れる筈だと考える近代主義者を嘲笑う


‪甲骨文は亀の甲羅や牛や鹿の骨のに刻まれた漢字の原初形態。聖人的詩人=‬彫刻家が石からきいた呟き(「いつ私を外に出してくれるのか」)じゃないの?‬

f:id:owlcato:20200615125311j:plain


オスカー・ワイルドはこういいました。アイルランド人は自分自身について完全なものを書く必要があると。何故でしょうか?アナーキストだったからです。


オスカー・ワイルドはこういいました。アイルランド人は自分自身について完全なものを書く必要があると。帝国オリエンタリズムが表象する“アイルランド人”が不完全であることを示してこそ自立できるからです。国家と対等で国家からの自立的私のあり方を書くこと。そうしてワイルドの精神を継承したジョイスは宇宙を構成する密度を以ってダブリンの一日を書くことになります。それを書くために「自分で決めた亡命」を行ったのでした。その本は『ユリシーズ』と名づけられます。‪ 「自分で決めた亡命」という自己規定は過剰な感じがします。国内に仕事口がないアイリッシュは英語教師という日雇いアルバイトトをさがしに大陸に行くのですから。ジョージ・オーウエルは亡命者について語ったことは「自分で決めた亡命」にあてはまるかもしれません。「故国を捨てた人間はどうしても根が浅くなる。画家に比べると、いや詩人と比べても、小説家の場合、亡命は大きな損失になる。ふつうに働いて暮らす日常生活との接触を絶たれて、街頭とか喫茶店、教会、売春宿、アトリエなどに視野が限られてしまうからである。」ジョイスの過剰な語り口からは彼の自信の無さが露呈してしまうようです。しかしサイードが注目していますがアドルノが言っていたように、亡命者というのは全体を見渡すことができるのです。亡命者の表をみるだけでなく裏からもみる視野から隠れるものは存在しないかのようです。これは特権のようなもの


柳田先生は体壁の構造を朱子学的に考えようとしていたこともあって、十代と二十代のときはイメージをもっていた。先生はもともと西洋哲学(サルトル)に関心があったので、構造主義の影響もあって、言葉が成り立つところの身体的表現の構造を考えていた。ある日わたしが読もうとしていたフーコ『言葉と物』に興味をもって読まれていた。ここできちんと説明できないが、少し紹介すると、例えば、言葉が百科全書的に整理されてくる身体の態勢(秋)が成り立つために、単純に拡大していく物の見方に必要な身体の態勢ー>懐疑的な物の見方に必要な身体の態勢ー>言葉初めありきに必要な身体の態勢(カント的?冬)ー>無限に遠くへいく静寂に必要な身体の態勢ー>全体と部分の調和がとれない身体の態勢(春)ー>原子的にいく分類するのに必要な身体の態勢(近代科学的?ニーチェ的?)ー> 言葉を必要としない打ち壊していくために必要な身体の態勢(マルクス的?夏)ー>過去へいく物の見方に必要な身体の態勢(プルースト的?)というように順番を考えておられた。残念なことにその柳田先生はアイルランド滞在中に亡くなられてしまった。‪演劇と同様に、身体の態勢がいかに言葉にとって大切であるかは学んだ。再び朱子学についてだが、朱子学の思想をほんとうに考えるようになったのはこの十年の間のことで、これは自分の健康のためではなく、アジアにおける思想史の捉え直しのため、議論するため


f:id:owlcato:20200617023445j:plain



パリのシューレアリストやチューリッヒの芸術家はアナーキストジョイスのような外国語の文法の勉強は屈辱的抑圧に思う。植民地国の芸術家は同化主義と闘う為に戦略的に受け入れる


What is Asia ?

1603 - 1868

f:id:owlcato:20200617083719j:plain


言説<漢字論>の平面


(漢字を語る言説文は子安宣邦氏『漢字論』に示されたものを参考にした)

f:id:owlcato:20200617213851j:plain




フーコ曰く、「ドンキホーテはその平原を際限なく巡歴するのだが、決して相違性の明確な国境を越えることも、同一性の核心に達することもない。彼は彼自身記号に似ている」。尾崎行雄は「明治末から昭和の敗戦に至る日本の足取りを考えると、どういうわけだかつい『ドン・キホーテ』の物語」を連想する


明治以降に成立した日本語=国語からそれ以前に存在した漢字・漢文を正当化する日本語=国語の言説は、明治は江戸時代とその漢字・漢文の実現を失敗したとは考えない。それが復古主義


いきなり現れた大きすぎる他者というか、中国の圧倒的存在感のもとに、「東アジア共同体」構想がまだ存続しているのか、存続しても中国における「東アジア共同体」構想となっているのかわからないが、「近代の超克」への問いは消えてしまったわけではなくて、中国は正確に理解できるかは別として、「近代の超克」への関心が高まっているらしいんだね。子安先生はインタビューを受けている。反響をもってネットで読まれているという。「なにを超克する」のか(「明治維新の近代」を?)を問うこと、そしてアジアにおける反戦平和のために、「誰のために超克する」のかをもっと彼らとともに考えることが可能だし大切であるとおもう


ポストモダン孔子の正体は?マリリン・モンロー毛沢東が結婚した道なき全体国家から逃げて筏に乗りて東夷の国にきてフクロウ猫になった...


f:id:owlcato:20200618091405j:plain



岡倉天心は、横浜に育ったらしい。太平洋の方向を見ていたに違いない。岡倉天心は、大人になって風貌が中国人になったりインド人になった。もしかしたら太平洋の方向に、中国とインドを見たかもしれない。もちろんそうだと言い切れないが、そうかんがえたらどんなことがいえるだろうか?この列島に、様々な文化の痕跡が流れ着いてきた、文明博物館という意味で「アジアはひとつ」。これほど、一つの原理に包摂されない多様性の方向をはっきり言い表した言葉はない。


「天」といえば、『四書』の「天」。ほかに、「天理」(朱子)、「天命」「天下」(仁斎)、「天の大徳」(徂徠)、「天祖」(後期水戸学)の「天」がある。ちなみに宣長は「天」を’アメ’と読んだので意味がわからなかった(そりゃそうだ)。明治は福沢が「天」に言及しているのは有名である。冗談みたいな話と思われるかもしれないが、岡倉天心の「天」はどうだろうか?これもやはり「天」の思想性をもっているのではないか。セザンヌの自然=西欧だが、ダビンチに遡ると、天=自然だった。さて岡倉の「天」は、ひとつの原理に包摂されない多様性という意味で、スピノザの「自然」と比べてみたくなるよね


まだ変な絵を書いていない...

この変な文を描いているからだ


チャーチル銅像ね。情報局は収容所の存在を知っていたので知っていたと言われるが、政府は英国に亡命したユダヤ人を追い返し拷問もしていた事実に彼が関心を示した様子がない


Heaven would shock the earth


推敲中

この絵をみたのは中学生のときで、たしかデパートの展示室でみた。なんの距離もなく、セザンヌにおける内部の中に立っているあの感覚。ここにおいて自分の感覚が方向づけられてしまったものだから、この内部から、正直言うと、別のものの見方を以てその自分の感覚をみることが長い間難しかった。ウィットゲンシュタインの表象批判を徹底的にやるロンドンに行くまでは、ポストモダニズムの解体的な批評精神なんかはそう簡単に受け入れることができなかったのだ...


‪海外で失敗した恥ずかしいことは決して忘れない。お手伝いしたスタジオにきたジャン=クロード・カリエールの物凄く重厚な雰囲気に圧倒されて何も喋れなかった自分を情け無く思って後悔していただけに、彼がその年のクリスマスのテレビで喋った大切な言葉を昨日のことのようによく覚えている。クリスマスの日にこそ、別のものを以って年末を祝う他の国が存在することも考えて、とフランス人に語った。カリエールは時々日本に来て大島渚を見舞いにきたようだ。日本の宗教の歴史をその問題を含めてよく理解していた。今日小田実のこの言葉も非常に大事だと思う‬。

「ごった返しの人ごみのなかを、日の丸をかかげて歩く一団の少年たちがいる。鉢巻をして、日の丸―いや、そうくだけて言うまい。日章旗を先頭にかかげて歩く。威風堂々―と言おうか、お正月は日本人のものだと言わんばかりに一団の歩き方、すこぶる武ばっている。」『人間みなチョボチョボや』1985



‪In praise of ‘Riders to the Sea’ (J. M. Synge)‬


アラン島の断崖に立つと、海そのものが死者だとわかる。なんて近いのだろうか、詩人にとって海というのは


ジョン・ミリントン・シングについては、アイルランドはシングの影響力を封じるために岩だらけの島に監禁していると例の調子で辛辣なことをジョイスは言っている。シングは所謂アイルランドの支配層エリートの生まれで、若いときは音楽の世界に入ったのは、まあ常套手段だが、落ちこぼれるための近道だったらしい。言語(ゲール語)の取り組みを比べると、イェイツはロマン主義的だが、シングはリアルなんだね。この違いをとらえることは大切だが、違いにこだわりすぎていけない。リアリズムと神話をもって考えていくこと。リアリズムと神話をもって考えていくこと。リアリズムでもないし神話でもないものを考えること。言語を集中させること、そこではもはや人間は存在しないが、あえて人間を表象すること。ジョイスの文学って、そうでしょう(文学はこちらの文がリアリズムと指示したりあちらの文が神話と指示したりすることはないでしょう。) 2020年の日本の若い人とならばこのことを一緒に考えられるかもしれないとおもう。ネオリベ自由主義での勝ち組ブルジョワのリアリズムが自らに対してどんな危機感をもっているかなんてどうでもいいことでだし、また彼らに対して行う天皇抑止論の説教もわれわれに関係ないことである。そもそもヘイトスピーチナショナリズムの神話ではやっていけないこともわれわれは知っている。


言語は外部に向かってコミュニケーションの主体になるためにある。つまり周辺諸国との関係の構築のために、又他の宗教の自由のためにあるとおもう。ところが帝国の言語はコミュニケーションの主体を情報の客体に置き換える支配の権力であった。情報とは選別と排除で成り立っている。近代国家の時代においては政治の独立に真っ直ぐ行く国家主義のもとに言語が権力化するという、一国民主主義の自立的一国言語(国語)の問題がある。隣人との関係また他の宗教の自由を書く普遍性が「借り物」であると物語る国家の中の普遍性しかなくなる。そこで、失敗した近代にたいして、対抗的に民衆史的観念が声の開かれた役割を強調するけれど、過剰に強調するとき、そのユートピア的言説によって、言語の他者性(近隣諸国との関係、他の宗教との関係)が再び奪われていくことが起きる‬。反近代も近代を構成している


19世紀に欧米の国家は奴隷黒人の売買をやめたけれど、第一次世界大戦まで民間会社が奴隷黒人を売買していた事実をロンドンのナイジェリア人に教えられて吃驚。自分の無知を恥じた


極右の街頭で外国人労働者を殴る連中が直にヨーロッパ議会選挙に出るなんてあり得ない。都知事選はどうなの?そもそも、ナチスの戦争責任が裁かれているヨーロッパに出てきた極右と、天皇ファシズムの戦争責任が裁かれていない日本における極右は同じ「極右」なのだろうか?同じ名で語られているけれど


‪ヨーロッパ近代の知からの自立の意義を理解できなければ、宣長が行った中国文明からの自立の意義も理解できないかもしれない。しかしほかでもない、宣長から、『古事記』という名の解釈的テクストの独立した存在が現れたのだ。これが日本近代である‬


築城の技術をもったノルマン人が戦争していた時代に、洗練された陶器が作られている宋では思想と文化が心性へ行く。しかしイギリスにあって中国にないのがマグナカルタである


商業はモノといっしょに知識をはこぶのだけれど、異文化体験をした形跡はまったくうかがえないらしい。そう言うのだからそうだろうが、グラマトロジー的に言うと、痕跡はかならずあらわれる、隠れているのではなくて... 「理」の字に書いてあるじゃないかと(笑)


朱熹が最初の任地として赴任した同安県は、泉州の町から西南西に60キロも地である。彼の理の哲学はこの地でムスリム接触した結果ではないかとする推測もある。話としてはおもしろいが、彼の文集や語録を見る限りでは、彼が異文化体験をした形跡はまったくうかがえない。...儒教がそもそも大陸の思想として生まれ、海に開けていなかったことが、華夷思想とあわせて、彼らの思考コードにイスラーム文明を取り入れさせなかった一因なのではなかろうか」(第九章庶民の生活 小島毅『中国思想と宗教の奔流』講談社より)


こうした人々は全体主義的な手口を奨励すると、いつかそれが自分のためではなく、自分に対して使われかねないということを理解していない。裁判抜きでファシストを収監するのが当たり前になってしまったら、そのプロセスはファシストだけでは終わらないかもしれない。

[ジョージ・オーウエル 出版の自由——『動物農場』序文]


江戸の儒者たちの関心は身体的儀礼ではなくもっぱら議論にあった。テクストを重んじる古学は、朱子学のひとつの原理に包摂する思弁性を拒んでいくうちに、朱子学脱構築的に解体してしまった。それは家族をどう理解するかの理解の仕方において理解できる。たとえばフェースブックを読むと、国別と人種別と性別に基づかない家族の多様な形があることがわかる。家族によって、敢えて表象的にこの言葉を使うのだけれど、人間が豊かになっていくのである。まあ、「仁」を豊かにするということ。これを考えるために、しかし心の形とか言い出すと、国の形でいわれる場合のように、本質が現象に現れるという本体と作用の関係に規定される教説的思弁に絡みとられてしまう。本体\作用の分割のもとで、「孝」は仁義礼智というひとつの原理に包摂される。「孝」は本体<仁義礼智>の作用であると。しかし日常の卑近をみると逆ではないか。儒者は再び朱子を読んで「孝」が仁を実現すると解釈したのである。この読み方から、江戸思想はひとつの原理に包摂されない多様性の方向をもっていたので、本体\作用の分割そのものをすてていくことになった。また江戸思想は同じ多様性の方向を以って、理と気の平行的関係を保った。理は只気のうえに佇むと(理の論理的先行性)。気が理のうちに解消されるというような理と気の関係を透明化することを否定した。

現在、江戸思想は、儒教が消滅しきった現在、言説をめぐって展開された論争を読み直す解体-思想史となった。この解体-思想史は多様性である。これと漢字文化の他者性とデモクラシー(現人神の復活を禁止した憲法)、この三本でやっていくしかなくなったとおもうのだけれど


要するに脱領土化、「私は方向を見失った……」(これは事物と思考と欲望をとらえる知覚であり、そこでは欲望と思考と事物が知覚全体を満たし、ついに知覚しえぬものが知覚される)。D=G


わたしは別意見。もちろんヘイトスピーチナショナリズムをはじめたのは安倍で、この問題をしっかり認識しなければいけません。日本はヘイトスピーチをやめるべきです。そうすれば安倍がアジアに仕掛けた互酬的ヘイトスピーチは終わるでしょう。次に考えることは、公にお互いに相手の体制を徹底的に批判しないので、議論してはならないとされているので、日本からヘイトスピーチが起きてくるのではないかという点です。議論すれば、第二次世界大戦は、太平洋戦争の4年間ではなく、事実上日中戦争を含めた15年間だったという相手の見方を日本人は知ることになるでしょう。

ヒトラーユダヤ人やジプシーや政府を批判した者を収容所で殺しておきながら、彼らは生き残れないとレッテル貼りした。ダーヴィニズムを社会に適用する過剰な言説に気をつけよう


     え  い い い

まだへんな  書 て な...

      を い い

このへんな文 描 て るから

      を


storyteller

f:id:owlcato:20200623121854j:plain


ホーホー、漢字は仮名の大地の何処にも属するがその部分とならないのは、漢字が先行するから。思想だって、後の時代の新しい思想の部分とならない權利をもっているニャリ


1648年はウエストファリア条約と清教徒革命の年。そう学校で教えられる。近代国家が作り出した学校で教えられる今日の感覚からすると、世界史はここから近代国家体制へ一直線で行く。しかしそうだろうか?そう単純ではない。ボイン川付近で、退位させられて1690年ウィリアム3世率いる英国・オランダ連合軍と、ジェームズ2世率いるアイルランド軍が戦った。つまりこのときはカトリックアイルランドカトリックのイギリス側で戦っていたのである。しかし彼らはプロテスタントのイギリスにとって反乱者とみなされる。昨日は体制側、どうしてこういうことになっちゃったのというかんじで今日は反乱分子である。この400年前から20世紀の内戦を考えよう。‪歴史を無視する21世紀の‬ブレグジットは思考停止


f:id:owlcato:20200625020844j:plain


 北アイルランド紛争に和解をもたらためにどうしたらいいのか?アイルランドにおけるサッカーのナショナルチームに向けた応援を芝居化した一人舞台をみたことがある。観客席の男は緑の旗と青の旗の両方をもっている。だけれど男はアイデンティティを前提にするかぎり、そのことによって、紛争当事国のどちらかの旗を決めて応援せざるを得ない。と、テロのニュースがはいってくる。テロを報復するテロのニュース。男はどうしたらいいのか、こんなはずじゃなかったと、まだ緑の旗をもつのか、再び青の旗だけを持つのか?不安と焦燥、無力感、応援できなくなってくる...


"You’re trying to leave yourself behind, but you can’t. The more you try to run away from yourself, the more you’ll have yourself with you." 

- F. Scott Fitzgerald, The Adjuster