MEMO


起源なき廃墟


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討論なき都知事選でなにを失ったのか?


「もし自由になんらかの意味があるとするならば、それは相手が聞きたがらないことを相手に告げる権利をさすのである。」(ジョージ・オーウェル、出版の自由ー『動物農場』序文)


極右翼のヘイトスピーチにNoといえない人物を600 万人が支持しました。歴史修正主義の信者は1000万人。もっとヤバイのは、この数を異常だとまだ気がつかない人たちの数




カントは表象の限界をいい、存在論形而上学にとってかわる理念性の批判をうちたてたい。ヘーゲルは経験的なものに形而上学を復帰させたい。理念を精神的なものとして思弁的に再構成できないだろうか。このように一見してカントの思想とヘーゲルの思想は全然違うようにみえるが、この両者は知の考古学からみると同じ地層に属する。両者は補いあうもつれた差異なのだ。思想を考えることがずっと難しかったのは表象の限界を超えて不可視なものを見るからだ。しかしひとつの精神は意識が奪回する経験的なもののうちに思考するために、表象と、表象の限界-裏側の見えない外部のもの-との間に交わらぬ平行性を保つことができるのだろうか?不可能だ...


表象「東京ファースト」が言っている言説とはこういうトートロジーで出来上がっている。「日本人は日本人自身である」なぜなら「日本はこの道しかない」からだ


Awful  

In the Japan, the image ‘Tokyo First ‘ say; this is what Japanese do at the first’ because’ We are on our own’


In the US, white people can’t imagine black people who are just like them ?



Tokyo’s First Female Governor Sails to Re-Election Even as Virus Cases Rise


漢字において呼び捨ては軽蔑を意味している。「安倍」と呼び捨てる私はヘイトスピーチする自分を自覚している。ヘイトスピーチに反対するが、「安倍さん」と言うつもりは全然ない


「漢字は借り物である」という言説がある。オリジナルなことを考えるためには音声化された言語(ラング)がもとめられている。「借り物」は「karimono かりもの」としょう。だが「かりもの」の裏側に漢字が存在する外部がある。そこで私達は意味を知る。ここに漢字文化の他者性がある。漢字と仮名の歴史こそはわれわれをつくっている。漢字を借り物と考える必要がないとおもう。ちなみに、英語の場合は古代ギリシャ語やラテン語を正確に指示できるのは特権知識人だけなのである


講座後のワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨの喫茶店☕️トーク丸山真男の時代は、平田篤胤を擁護することは反デモクラシーを告白することだった。いまでもそう考えるひとがネット世界にいることはいて私も非難されたことがあったが、篤胤についての研究が進んで、現在はもうそういう時代ではなくなった。平田篤胤における平等の理想をもって一時政府に入ったリアル平田派は追放されて大学を創った左翼だったのではあるまいか?島崎藤村『夜明け前』は平田派について書いている。一方、政教分離で政府の中にいなかったが、明治維新の不平等体制に迎合した自称平田派は、平田篤胤とは無関係で、国家祭祀の視点を考えない限りみえてこないが、この連中が国家神道の言説の生産を通じて問題を起こしたのではなかったか。


「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」?虚だ。私ならば、「トンネルを抜けるとどこまでも出口が無かった」。そこでアイルランドのイエーツの詩の言葉とともにわれわれはある


M・ロビンソン大統領は自身がアイルランドのみならず世界中の全アイルランド移民を代表すると考えた。人々よここに来たれという共和主義運動は非同盟中立の先駆だが、南アイルランド政府にとって大きすぎる。そんな意味で、島崎藤村『夜明け前』を読むと、明治政府にとって、西欧を超える政教一致による絶対平等を目指す平田派も大きすぎたか...


推敲中

「 安倍首相から財界要人まで」「安倍晋三の参禅以来、禅寺に関心が集まっている」「心をリセット」「中曽根元首相が参弾」。正直、新聞の「分析」以上の思いれである。なぜ、朝日新聞が、このような上流階級的の反近代、反民主をかくも権威的に称えるのだろうか。やはり保守同志ということなのか?ああ、毛沢東主義の保守的言説よ。中国共産党の公式イデオローグの反民主的言説にすら夢をみるまでに、天安門事件民主化運動を抑圧するまでに、閉じてしまったか?


何もかも母国語にして飲み込む字幕はナショナリズムの化物かもしれず、それは支配する欲望に関係している?私は字幕を殆ど読まないので大抵映画の筋(ロゴス)を理解していない


洋画は日本語の字幕を読まないが、ただし邦画のときは必ず外国語の字幕を読む。母国語の声に囚われてうっかり感動してしまったら映像を失う。英語は字幕を読む為に勉強した


写真リアリズムの成立と共に絵画は、客体の側にある客体化されぬ根底を描く。「女給」では精神が死としての鏡から、「あなたが考えることを知っている」と此方を見るとき、わたしの理解だが知の考古学からいうと形而上学の表層が届いている。

写真リアリズムの成立と共に絵画は、客体の側にある客体化されぬ根底を描く。「女給」では精神が死としての鏡から、「あなたが考えることを知っている」と此方を見る。形而上学の表層が届く


 ‪ ‪’ あなたは外部からきた、それから私のなかであなたは支配した、愛によって、そしてあなたをうけいれた’ (補い合う縺れる差異、思考としてのウイルス的形態の情報、言語)


‪マンガ日本の古典(中央公論社)の『古事記』(2020)のあとがきで、石ノ森章太郎さんは『古事記』を「幼少のみぎりから慣れ親しんできた、タノシイ昔話の世界」と書いている。この人は敗戦のときは七歳だった。漫画を読んだのは、『古事記』の「天の岩戸」が「サイボーグ009」の漫画でどのように絵で描かれるのかという好奇心からである。太陽神である天照大御神が隠れ、世界が暗闇に包まれた岩戸隠れの伝説の舞台。「八百万神、天の安の河原に神集ひ集ひて」と記されていて、これについて本居宣長は「八百万は、数の多き至極を云り」という。「思金神」(面白い名!)の案で、八尺鏡を作らせ、常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。『古事記』を岩波で読むと、どうしても漢字の存在感に圧倒されることになるが、漫画を読んでいる限りにおいては、数が自分自身で数を増やしていく仕掛けのようなものを思い浮かべてしまった。中心なき?自己差異化する差異体系の生成的賑わいというか...。さて和辻は「祀る神は祀られる神である」と解釈してみせた‪(講座『明治維新の近代』(子安))‬。たしかに、何かこの解釈は令和の従属させてくる風景ー天皇統合性に向かって象徴性を過剰に超える思考の構造ーを理解させてくれる。問題は、ひとつの原理に包摂する近代主義とともに成立したこの構造をどうやって解体するか?ひとつの原理に包摂されない思考の平面(多様性)を語ること、国家と対等で国家からの<自立的私>を以って語ること、外部の思考を書くこと、起源の廃墟を書く\描くこと。そのためには言語を集中させること(江戸思想だけでなく『朱子語類』‬のエクリチュールも役にたつ)。だけれどこうしたことに挑むポストモダンの思考に場を与える雑誌も本も現在まったくなくなったイヤな現実なんだ


「自粛」という言葉はお上の言うことをききすぎるなと仄めかす。回復すべき活動のことを考えるし、議論できないしデーターもないが、これから感染で苦しむ人達のこともかんがえる



推敲中

現代思想」連載「中国論を読む」をおまとめになった本です。毎週土曜日に早稲田大学小教室にて昭和思想史研究会が主宰した講義は、「われわれは中国をどう論じたか」という、子安先生らしい問題意識で展開して行きました。子安先生による、中国学(溝口)批判は、仁斎の朱子学批判とパラレルと思いました。もし私の発見が正しければ、今日の中国論を批判的にとらえるような、江戸朱子学には豊かな「対話」があったことは驚きです。われわれはどう中国を論じたかはという問いかけは、同時に、これは、われわれはどう他者を語ってきたか、と同じ問いかけです


子安宣邦著「日本人はどう中国を語ってきたか」(2012、青土社


天安門広場事件から簒奪された「事件性」を取りもどすこと、今日神話的に内側に絡み取られてしまった言説から、批評にもとづくリアルな歴史を取り戻すために、子安宣邦氏は、本書「日本人はどう中国を論じたか」を書いたのではないだろうか。「日本人はどう中国を論じてきたか」という問いとは、なによりも、「われわれはどう他者を語ってきたか」という開かれた問題提起と等価ではないかと私は考える。

ところで神話的な語りというのは、対象を対象の内部から対象に即してみる<語り>に立脚する。本書のなかで日本における中国学の視野を分析している箇所が大変示唆的である。そこで、中国学が、いかに中国を中国の内部から中国に即してみる言説として自ら完成していくのかという知の歴史が、説得力をもって描き出されている。たとえば、日本における中国学の内部で、「内なる天皇」に対応するが如き「内なる中国」というオリエンタリズム的幻想が誕生していくプロセスがよく理解できた。驚いたことは、今日中国のアカデミズムが、この最近の日本の中国学を取り込んでいるというのだ。

なぜ今日日本の知識人たちが、命を脅かされている2010年ノーベル平和賞受賞者劉暁波をはっきりと支援できないのか?オリエンタリズム的言説と知識人のあり方、この両者は、「日本人が中国をどう論じてきたか」において、互いに切り離せない関係にあるだろう。本書を読み終えたとき、なぜ日本の知識人たちが命を脅かされている劉暁波を見捨てるのかその理由の核心が、それまでこの問題を無知であったこの私にも非常によく理解することができたのであった。

現代の中国を語るとき、「官僚制資本主義」を語る視点が欠かせない。端的に「官僚制資本主義」とは、<アジア的原始共同体>と<専制政治>から成る体制として定義できるが、神話的な語りは、この両者が、孫文毛沢東によって、あたかもすでに克服されて終わったかのように語ってきた。いつでもわれわれが生きている現在の姿というのは、神話的な語りによって、過去との連続性に位置づけられるものだ。中国も然り。しかし神話が終わったところから、天安門広場の占拠が始まったのである。天安門事件広場での抗議は、連続性の夢からわれわれを覚醒させようとしたのである。つまり、現実には、<アジア的原始共同体>と<専制政治>は解決済みのものではなかったことを一人ひとりが自発的に世界に知らせようとしたのだ。そして、これこそが、事件性と呼ぶに値する、批評性と関係した言論活動にほかならない。

言論の場で子安氏が繰り返し訴えてきたように、事件性とは、小さな人間の声が、大きな人間を糾す<喋る>民主主義の語りのことである。この点に関して、<かれら>の官僚的資本主義の問題といえ、<われわれ>の原発問題といえ、構造が齎したの問題の解決を、再びそれを推進した政治的経済的文化権力的一体的構造に委ねることは不可能であるしまた倫理的にも許されないものだ。こうして、「日本人はどう中国を論じたか」という問いとは、なによりも、「われわれはどう他者を語ってきたか」「われわれは依拠すべき他者との関係をどのようにつくっていくかと」いう開かれた問題提起として、与えられてくるのである。



以下、子安宣邦「日本人は中国をどう語ってきたか」のあとがきより


私の「中国論を読む」ことの動機をめぐってさらにいえば、現在なお中国の獄中にいる2010年のノーベル平和賞の受賞者劉暁波の支援の問題があった。劉暁波に対する私たちの支援は日本ではまったく孤立している。日本の既存の中国研究者で劉を批判するものは数多くいても、彼を支援しようとするものは殆どいないということは、私にとって驚きであり、考え込まされる事態であった。なぜなのか。この懐疑が私を戦後日本における中国観の見直しに向かわせたのである。さらにいえば、現代において全く批判的、思想的機能も意味をも失ったかのような日本のアジア主義、あるいは中国主義というアジア・中国への<肩入れ>とはいったい何であったのか、という問いもまた私に「中国論を読む」ことを促した理由でもあった。



戦前の知識人だったら劉暁波をどう考えたのか?戦後は民主主義が脆弱なので無関心なのか。否。一国民主主義と国語の近代とたの劉暁波への無関心は両立しているのではないか


‪戦前は国民主権なき民主主義だった。さて「もし」という前提だけれど、もし戦前における国民主権なき民主主義の知識人だったら劉暁波をどう考えたのだろうか?知識人達は、デモクラシーが明治維新が規定した政府の中に留まるとは考えなかったので、対象へ接近する構成に差異はあるとしても(社会主義者から伝統保守アジア主義まで)、他者・劉暁波との関係を自分たちの問題として考えたのではないか?では戦後は主権はみとめられたが民主主義が脆弱なので劉暁波に無関心でいるのだろうか?むしろ、一国民主主義と自立的一言語主義の近代と劉暁波への無関心は両立しているのではないかと考えるようになってきた。それだけではない。言説の権力の問題がある。子安宣邦氏の中国問題の講座に参加し『日本人は中国をどう語ってきたか』を読んで考えなければならなくなったのは、言説が形成する権力の問題についてである。竹内の「方法としてのアジア」を、「公」の正当性を強調する溝口の「方法としての中国」に書き換える言説があったし、また独自の「帝国論」の柄谷の「資本論の読みへのこだわり」によって「資本論の読み方」をアジア知識人達に教える言説(中国共産党は資本主義を正す「礼」である)がある。ポストモダンモダニズム化によって自らの批評の政治性を消去してしまった(隠蔽した?)中国左派(毛沢東主義を支持する立場)による言説の展開もある。そして天安門広場前の事件をネオリベの「私」の非政治的活動とみなす視点(日本の一部の中国研究者)の言説がある。全部これらは物の見方における構造を形成している。そうして他者の名・劉暁波が、構造論的な平衡の只中に侵入できないままになっている‬現在の日本の閉塞が起きているとわたしは考えるのだけれど。閉塞は閉塞に気がつかなくとも起きてくる。きっとだから閉塞といわれるのである


表通りの乱君の政治が失敗しています。何を言っても無駄だという孤立感がどんどん広がっています。家で本を読むのは避難です。この本たちがコロナ終焉後、以前よりもっと多くの人々を、裏道に、心を開いてくれる小劇場や音楽に連れて行くとき、もっと自由に喋らせてくれという言葉を語り始めるかもしれません


香港はどうなってしまうのでしょうか?わかりません。しかしたしかなことは、日本語を喋る香港の民主化活動家たちはこれから成熟していってアジアの政治家になっていくでしょう


津田左右吉は1916年以降の普遍主義かそうでないのかはっきりしない。思想家の間違いは凡庸にみえない。そもそもどんな人間も彼の思考がおかす間違いには思考に値する意味がある


世の中の10%しか知らないくせに大多数を代弁していると身体感覚がなくなってくるのではないか。だから怪物の身体を所有できる見世物小屋を必要する。自分たちと同じように10%で世の中をわかっちゃっているその身体は痩せていなければならないがただし太ももは痩せ過ぎてはいけないとか色々注文がおおい


『言葉と物』第九章で再びベラスケス絵画における表象が現れるー異形なものの介入。17世紀に天を仰ぎ見る孔子の立ち姿が再び現れるときには表象の傍らにアンチコスモスが存在した


‪イエーツはトンネルを抜けると出口がない共同体を描いた。動く映像を拒んだ。時間を止めたから。私も形を崩していかなければならなかった。改めて見ると海辺と波を描いていた‬


「イケメンクラスタ」とでも呼んでくれたらいいのに。どうしてマスコミは「舞台クラスタ」と呼ぶのかしら?こんなときですから舞台パッシングが起きないとはいえません


横井湖南


三代の際、道行候時は君よりは臣を戒め、臣よりは君を儆め、君臣互いに其の非心を正し、夫より万事の政に押し及ぼし、朝廷の間欽哉戒哉念哉懋哉都兪吁咨の声のみ有レ之候。是唯朝廷の間のみにて無レ之父子兄弟夫婦の間互いに善を勧め過を救ひ、天下政事の得失にも及び候は是又講学の道一家閏門の内に行れ候。上如レ此講学行れ其勢下に移り、国天下を挙げて人々家々に講学被レ行、比屋可レ封に相成候。(「学校問答書」)


自己否定の観念をもつが、香港の若者のように精神的従属を強いる社会へのネガテイヴなイメージを明確にもたぬ読者に、天皇を否定しない構造主義者が書いた共同幻想論を与えてやれ


Go to キャンペーンの政権は自ら生活できなくなってきて助けを必要とするもっと広範囲の人々の存在をみえているか?マスコミが沈黙するならば対抗メディアのSNSが批判する


他者の名が構造論的な平衡の只中に侵入できないままになっている‬現在の閉塞。寧ろ見えないものを見ようとしない現在のそこそこの自由を閉塞としない魔法の絨毯は精神的従属である



講座『明治維新の近代』で「きけわだつみの声」を取り上げたときだったと思うが、ウロウロウヨウヨしてはいった居酒屋でのワイワイガヤガヤで、大岡昇平の『レイテ戦記』の話題が出た。

「雨滴といっしょに、山蛭が落ちて来た。耳の中、瞼など、人間の粘膜に取りつき、乏しい血を吸って太る。朝眼をさまして兵士たちは、目の前に蛭が縄のれんのようにぶらさがっているのに気がついたりした。」(29 カンギポット)

『レイテ戦記』は、『万葉集』をマッチョ化したリアリズムの観察。植民地なき明治維新の近代の帰結がゼロだと証言すればいいのに、天皇の死者を祀る視線と日本知識人の視線が重なり合うことによって全体性を回復した文学の勝利を書き記している。大岡昇平は『野火』を書いたのだけれど..

われわれは戦後文学から罪悪感を学んだ。戦前の文学は罪悪感はない(プチブルの小市民的後悔の念を描いているだけだ)。大岡昇平は『野火』を書いたのだけれど..国家祭祀の鎮魂歌はいらない


推敲中

映像と言葉の均衡が大切とおもいます。映像は多いが、それと自己との関係について語る言葉が少なくないでしょうか?あまりに映像に依ると直に、「大したことではない。世の中には他にもっと悲惨なことがある」という例のテレビの消費的心理に陥り、そのうち事件も忘却していきます。難しい課題でも、ネットは、戦争を構成していく(繰り返されてきた) この依存症的な忘却構造を断っていく方向に沿ってできる限り努力していかないと、既存のマスコミの対抗的メディアとしての独自な役割を発揮できなくなる。逆にいうと、映像と言葉の均衡こそ大きな力かもしれず、ここにチャンスあり!


『日本書記』冒頭の書き出しを読んでいたら平田篤胤のことを考えはじめていた。彼は西欧の神学を知っていたみたいだ。しかし影響を受けたかどうかはわからない。中立的に、宇宙の法則を支配する神は遠く、これに接近するのにどれだけの時間がかかるのか?神はこちらを見えないだろう。これでは救われない。問題は神がこちらを見るためには距離をいかに縮めるか?だけれど距離を取り払っても、もし国家が所有する神々しいひとつの入り口では、嫌なhierarchyができてしまうにきまっている。国家のために敵を殺したものは祀られる。だが殺された住民の弔いの場もないとしたら、そんなひとつの入り口は国家そのものじゃないかしら?死後は再び隅々まで差別されるようなこんな所をもう住処としたくないね。平田篤胤が考えたように、霊の行方のために生者の卑近に沢山の入り口があったほうがいいよな。彼はそういう多数性としての距離を抽象的に考えようとした。これはガリレオが距離を考えたように、知識人にとって特別なことではない。今風に言うと、死を分裂化させる。多様性の方向性をもつ左翼の平田派が出てくる。てだけれど救われなければいけないという救済を重視すぎるとどうも知識人はうまく考えられないのかもしれない。平田派を名乗る、多様性を重んじない似非平田派が出てくることになる


推敲中

「踊るときには、魂が先行する。人間が歩くときには、足のことを考えますか。誰も考える人はいない」(大野一雄

Romeo Castellucciが演出したダンテ「神曲」に大きな感銘を受けました。だけれど感想文が中々書けなかったのはなぜでしょうか?Romeo Castellucci の運動イメージの演出については、演劇を語る言葉よりも、寧ろ映画か、現代舞踏をみた言葉で書くべきだったのかもしれません。やっとそのことに気が付いてきました。「踊るときには、魂が先行する。人間が歩くときには、足のことを考えますか。誰も考える人はいない」(大野一雄) 。舞台のうえでは、身体の終わり、身体の消滅は、地面に倒れることを通じて表現されました。ここから、(身体から)分離した魂のリズムが多様化します。魂は動きの息の中で長く持続するのですが、やがて詩を語る息のなかで魂も消滅します。権力の網に絡みとられるまえに。そして魂は(人間と動物と植物と鉱物に共有される)言葉に依拠することになるということを示唆していたと思います。これは中世的世界観の再構成で、世界の中心に外部を置くという往復運動の哲学に触れたように思いました


知識人はヒーローのライオン丸か?


世界を考えるというのは曖昧な観念である。だからそれは世を救う明確なイメージによって補われている。例えば世を救うヒーロー・ライオン丸こそ知識人のイメージ。だけれど知識人は救おうとするときうまく考えられないのが現実である。ライオンぐらいの頭でしか考えられない。そうして親鸞悪人正機という変なことを言い出した(「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」)。平田篤胤の神学は救済論で不格好になった。現在をみると、柄谷行人は知の停滞を何とかしようとして廣松を叩いたときは良かったが、ネオリベの世を救おうとして帝国の構造を喋りはじめたのはヤバイ。清沢満之を勉強したときに知った名だが、知識人はストア派エピクテトスが言うように「力の及ぶ範囲」で頑張るのが宜しいかと。これはポストモダンのシニズムではない。何が世の中の疎外の原因なのか明らかにすることが知識人ができることだし彼の責任であるとジジェクがロンドンで語っていたよ


梅雨にしてはちょっと肌寒いね。こういう雨の日にあう素敵なジャズ音楽をラジオでやっている


分かる人が描く漫画においては分かっている人がやる翻訳のように凝集している。建築と人間の関係を表現できている漫画『源氏物語』では、俯瞰される宮殿の屋根が鏡の裏側のように見える


ヴェイユの「国」country は完全な愛の対象であるためには、渡辺一民ならば豊かさは人間にとって何かを問うこと、国家から自立した対象として構成される必要をいうのかな


マイケル・ジャクソンの時代は「白人と全く似ている黒人」が消滅し、オバマ大統領の登場で「白人」も消滅した。だが同一的本質の近代はどうしても差別を無くせない。寧ろ「前近代」と近代が蔑視している体制よりも差別は広がっている。これについては、他者への畏怖がないと差別が起きるから、これからは見た目の差異性が大切ではないかと問題提起する思想もある。方法として、一人ひとりがマイノリティーに成る、すなわち方法として怪物に成ることの意義が言われる(実体として怪物になるという意味ではない)。これは「前近代」とレッテル貼りされそうである。「前近代」が「近代」を批判する「知」のあり方をトータルに検討する必要があるだろう


 革命家だったがリベラルになった若い先生達がわたしに語る言説「日本は成功した社会主義」は、家の中で官僚が喋る「日本は成功した資本主義」と同じ地層にあると思った高校時代はもっと普遍的なロゴスを探究したが、小田実のエリートの「世直し」の論理は遠く、自分に関係がないと感じた。震災以降に書いたラディカルなものこそがロゴス


‪卑近に教授の知的環境があり友人と議論もする大学時代は一日で考えがガラリと変わる。恋人と本をさがして活動もしなければならない。家でいつまでもパソコンのなかの大学ではねえ


 ‪今日は自由が丘駅付近で喫茶店の中で変なおじさんがいるのを目撃した。テーブルのその隣で教科書を開いて試験勉強中の女子高生三人。突然、ひとりがプラトンイデア論の記述を読みあげた。聞いていた二人があやしんだ。「変だよ、話がみえないって」。「それ何?」。読みあげたのは興味があるからか?友達二人に答えた。「変でしょう、倫理だって...」。と、そのとき変なおじさんは、「お嬢さん、その通りですよ。諸言語(ラング)では見えないんです」と告げようとしたが、‪しかしこんなときだから黙って眉毛を動かして暗号をおくった。‬変なおじさんは私でした‬


もう自分たちが何をしているのかわからなくなっていると言わざるを得ない

東京五輪、延期後の競技日程を発表 開会式は7月23日」


表象「コロナと共生」はまさかね、都合よくコロナの時代にネオリベとの共生を同一化させようとしているのかしら?他国は発想の大転換しているというのに..


『日本書記』の歴史も『古事記』の神話も難しいが読ませようとしている。『源氏物語』の物語は公の世界に意味を伝える意図がない。前二者におけるオイディプス的父を殺戮している


植民地主義の成立とともに成立したのが近代文学ー「意識の流れ」であれ「神話的リアリズム」であれーからみると、帝国主義\帝国から離れた公の世界なき『フィネガンズ・ウェイク』の世界は迷宮であると軽蔑される(反対に、実験精神としてのモダニズムの極限とたたえられる)。公(=近代国家)に従属しない天から見ている、あるいは、天を仰ぎ見ていると読めることは、ファシズムの時代に書かれた本の意味が、1980年代における起源なき廃墟をいうポストモダンによってはじめて分かってきた。この本について先ず最初に言わなくてはならないことは、これは読めない本である。この言説を前提に、あえて構造主義の記号に行かずに、反時代的にニーチェがやったように、言語学的文献学的に言語とは何かを問うところに留まったとき、われわれは他との自立的交流が不可欠になってきた時代に、「あまりに人間的な...」排除的境界線をなす「われわれ自身」の表象とか「かれら」の表象から離れる外的条件が必要だったのではなかろうか


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戦争もしていない筈なのに世界報道自由度ランキングがどんどん低くなるし、男女平等ランキングも絶望的。いや待て、トップに来たものがある。『コロナ禍』のおかげで従順度世界一


カウントリーミュージックの方が北海道は小さいアメリカだと教えてくれた。東京の小劇場が開く空間は小さいヨーロッパかもね。欧米が探究している新しい普遍主義をつくれとおもう


たまたまそこに置いたのにそこになければならなくなったように只長く続いていたものを続ける。そんな偶然なものは消滅しても同じだ。不可避のものになっているかもしれないのに?



たまたまそこに置いたのにそこになければならなくなったように、「オリジナリテイー」のないものならば只長く続いていたものを続ける必要なし。これから成熟するかもしれないのに?


‪「たまたまそこに置いたのにそこになければならなくなったように只長く続いていたものを続ける。そんな偶然なものは消滅しても同じだ。不可避のものになっているかもしれないのに?」‬たとえば漢字の問題はこういう形の思考をとる。「たまたまそこに置いたのにそこになければならなくなったように、日本列島において只長く続いていた漢字を続ける。『シナ』から借りたそんな偶然なものは消滅しても同じだ。だけれど漢字は不可避のものになっているかもしれないというのに?」

(言説「商品が貨幣である」についても同じ議論があり得る。「たまたまそこに置いたのにそこになければならなくなったように、商品世界において只長く続いていた貨幣を続ける。外部との交換が始まる前まで元々商品世界になかったそんな偶然なものは消滅しても同じだ。だけれど貨幣は商品世界の成立にとって不可避のものになっているかもしれないというのに?)


井筒


<略>
 「果分可説」と空海が言う、その「果分」に対立するものは「因分」である。「因分」とは、すなわち、我々普通の人間の普通の経験的現実の世界。我々が通常「コトバ」とか「言語」とかいう語で意味するものは、「因分」のコトバであって、「果分」のコトバではない。両者は、同じくコトバであるにしても、それぞれ成立の場と機能のレベルとを異にする。「果分」的コトバの異次元性の事実については、もはや繰返し強調するにはおよぶまい。
 しかし、他面、「果分」と「因分」とが、全く別々に存立していて、両者の間に何のつながりもない、というわけでもない。「果分」のコトバは、たしかに異次元のコトバではあるけれども、それだからといって、普通の人間言語とは似て似つかぬ記号組織であるのではない。それどころか、普通の人間言語が、そこから自然に展開してくるような根源言語として、空海はそれを構想しているのだ。「果分」の絶対超越的領域に成立し、そこに働くコトバの異次元性を、空海は「法身説法」という世に有名なテーゼによって形象的に提示する。「法身説法」――大日如来そのものの語るコトバ。人間の語るコトバと根本的に違うものであろうことは想像するに難くない。ちょうど、大日如来が普通の人間とは全く次元を異にする存在であるように。
 しかし、それと同時に空海は、法身の語るコトバと人間の語るコトバとの内面的関連性を指摘することを忘れない。「コトバの根本は法身を源泉とする。この絶対的原点から流出し、展じ展じて遂に世流布のコトバ(世間一般に流通している普通の人間のコトバ)となるのだ」と『声字実相義』の一節で彼は言っている。つまり、我々が常識的にコトバと呼び、コトバとして日々使っているものも、根源まで遡ってみれば、大日如来真言であり、要するに、真言の世俗的展開形態にすぎない、というのだ。
 「果分」のコトバが、その異次元性にもかかわらず、「因分」のコトバの究極的原点であり、この意味で「因分」のコトバに直結しているとすれば、「果分」において絶対無条件的に成立する「存在はコトバである」という命題は、「因分」においても、たとえ条件的、類比的にではあれ、成立するであろうことが、当然、予測される。
 それでは、「存在はコトバである」というこの命題は、「因分」、すなわち人間の日常的言語の通用する領域において、どのようにして理論的に正当化され、根拠づけられるであろうか。それが当面の問題である。そして、この問題を解決するために、私はここに、意味分節理論を導入する。

「心の中の天皇」も「心の中の資本主義」も、永久革命近代主義が深く絶望している停滞の記号で、厄介なのは、希望を持つときは結局、資本主義を正す天皇主義になるのかな(溜息)

 空海紫式部と徂徠は天才である。空海は天才だという話がすこし理解できてきたが、曼陀羅についてまったく語ることもできない。空海の持って帰った曼陀羅も、ケルズの書も、9世紀とかのものだし、ケルズの書ならば一言二言言えるかもしれない。古代ヘブライ語に痕跡があるというバベルの言語の存在を表象する為には、ラテン語を利用して絶えず言語が書かれている姿を思い浮かべなければならない。イメージの傍らにアンチコスモスが存在するのかもしれないー新しいコスモスを再構成するために。そうして、間違いなくケルズの書は『フィネガンズ・ウェイク』のジョイスにおける宇宙の劇場の創造に役立った。だけれど普通の人々ordinary people にとって果たして意味があるのだろうか?顕現epiphanyという言葉を以て、まさに普通の人々が喋る言葉に完全なものがあらわれていると考える見方がある。これは、完全な言語がいかにも不完全でしかない言葉を住処としているというのだから面白いね。だが「顕現」の語はやはり宗教くさいちょっぴりヤバイ感じがする。とはいえ、言語の存在は自然(地球)と一体であるというほどの信をともなうことがなければ、言語が国語の同化主義によって破壊されるし、環境も開発からまもられないのである。だがもはや言語も存在しない、地球も存在しないとしたら。わたしは宗教がないのだけれど、公害運動の坐り込みのときも原発事故の抗議のときも、この信を言う外部がなければやっていけないと言いたかったと何か遅いがやっと分かってきた..「信」の字が外部性をあらわしているらしい。まだその場所がどこなのかわからないのだけれど


空海の持って帰った曼陀羅と、9世紀のケルズの書。一緒に論じられることが無いみたい。コスモスの再構成のために両者においてイメージの傍らにアンチコスモスが存在しているのに