MEMO

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内閣支持率とテレビのクイズ番組はおなじナショナリズム?国民からの質問に「あなたに答える必要がありません」と狡猾に答えてきた庶民のクイズ回答者に国民が総理の王冠を与えた


BBCは純然な資本主義に駆け込む野蛮なイギリス人を啓蒙する役割を自覚していて、今日もベートーベンを流している。叩き上げ自助の国も啓蒙サウンドが必要だ


私の大学時代はまだ国際法イコール憲法だったので、恥ずかしいが努力も足りず国際法のイメージをもてなかった。現在あの法の支配の英国が国際法違反の疑いが言われているので勉強中


Former British prime ministers Tony Blair and John Major on Sunday said the United Kingdom must drop a “shocking” plan to pass legislation that breaks its divorce treaty with the European Union, in a breach of international law. ーThe Irish Times


Fintan O'Toole: English nationalism is too naive to know its own limits


21世紀のナショナリズムは己の限界をわきまえない。国際法違反を推し進める。北アイルランドを「ブレグジット(英国の欧州連合離脱)の犠牲」にしていると非難されても仕方ない


米連邦最高裁で史上2人目のリベラルの女性判事が亡くなったのは残念だとあちらではニュースになる。こちらは西洋鬘被っているであろう日本最高裁の判事が誰なのかだれも知らない


アジアは経済はどんどん進むが、何故言論の自由が進まないのか?どんな国でも資本を蓄積した後に資本主義が成立するが、正しい始まりが論理的に先行しないかぎり市民は成立しない


神話は人間を天へ飛翔させる。蝋の翼が溶けて落下した。古事記的には、神の世界の支配権は地上のそれと交換可能なことを物語る?人間を卑俗な地に突き落とすのはリアリズムの近代


中世は、トリスタンのように遠くからきたのに卑近なことをよく知っている「あの世からきた近くの人」が物語られる。平田篤胤の仙境異聞とか生まれ変わりの話もそういうものである


ブルームは「あの世からきた近くの人」かもしれないが、近代の‘キュクロープス’のナショナリストに影響力をもたない。ヨーロッパにおける国内亡命者としてのユダヤ人として生きる


7割は現在が何を言っても通じぬ乱世であることを示す数字だ。日本文学に故郷喪失者としての亡命の視点があったか?世界文学としての『論語』は国内亡命者の知識人を書いている


7年8カ月とはなにか?これを問うことがカウンターウエイトだが、われわれが知っている知識で考えることを諦めなければいけないだろう。その知識はあちらが支配しているのだから


表象の外部化の問題から逃げてはならない。表象とは思い浮かべること、思考において他のものと交換すること。ラディカルモダニズムは表象を純粋に絶対他者化して表象を不可能にする


後期水戸学の重要性は祭祀国家の哲学ではなくて制度論的思考にある。近代の国「家」のなかにそれとは異なる屋根や壁や床を取り払った家を作る、これが別の近代を考える制度論的思考


『「維新」的近代の幻想』とはなにか?日本近代150年の歴史を問い直すこの本は、外部の思考を失って閉じた内部的幻想にとらわれたわれわれにおいて語ることを不可能にしてしまっている「維新」的近代を語ることを可能にしている課題をもっているとわたしは理解しています。明治維新という日本近代の限界から自らを語ろうとするその瞬間に、その限界は炸裂してしまっています。再び語ることができることと語ることができないことの距離、原初的分割に連れ戻されてしまうのです。はたして、”明治維新”は近代日本の”正しい”始まりなのか?、と、子安宣邦先生は開かれた外部の思考を以って市民大学の講座『明治維新の近代』で問うてきたのであります


7年8カ月とはなにか?これを問うことがカウンターウエイトだが、われわれが知っている知識で考えることを諦めなければいけないだろう。その知識はあちらが支配しているのだから。明治維新という日本近代の限界から日本近代の限界を語ろうとしるまさにその瞬間に、その限界は炸裂してしまっている。再び語ることができることと語ることができないことの分割に連れ戻される。子安宣邦氏の『「維新」的近代の幻想』から、日本近代150年の歴史を問い直す思考がはじまる。




人はすんでいる家の何処が悪いのかと何時も考えているだけではなくて、隣人や路の人のことも時々でも心配する。国の家となるとかくも日本の他の民主主義に無関心にさせてしまうのか


市民大学の講座『明治維新の近代』において議論された荻生徂徠と会沢正志について書いていたら、竹内好の「近代の超克」のことを考えている。アジアにおける「近代の超克」は「維持」を主張した学者的活動家達を無視して語れるだろか?例の有名な京都学派世界史的視点は植民地主義の克服をそれを乗り越える伝統に委ねる考えだとしたら、それは西欧にある視点を再び語っていただけに過ぎない。だから帝国日本は西欧と同一なのである。竹内好の「近代の超克」の場合は、最高の原理がある西欧を包み返すほどのロゴスを再構成する為には、アンチコスモスとしての伝統(伝統を為す顔の輪郭が崩れている)が必要である。生者と死者の思想的分割、死に場所がなくなってくる近世の江戸時代に議論されはじめた鬼神論について考えなければならない。そうしてこそ、「維新」を語ることができる様になる。これはほんとうの意味で差異である。しかし問題となってくるのは、「王政復古」という可視的なものを発展させた形で、現人神について「祀る神は祀られる神である」とヴィジュアルに呈示される神話的偶像である。これは、アジアにおける「近代の超克」を語る言説的にものと独立している。結局この独立している可視的なものに縛られるために、明治維新もそしてアジアにおける「近代の超克」も語ることを不可能にしてしまったのではあるまいか


イギリスにいたときは便利なので英語を喋っていただけで英国人であるとおもうことがなかったし、現在は手段として日本語を喋っているだけで、日本人であるとおもったことがないよ。わたしは自分がヨーロッパ人とも日本人ともおもわないが、アルファベットの文化もアジアにおける漢字文化も尊敬している


アイルランドの対英闘争の活動家達は大英帝国が作った一望監視の監獄にいれられるのは「独立」後である。共和主義の国家哲学はあったが、どんな国家を作るかの制度論が足りなかった


フーコの知の考古学からは、対立する重商主義重農主義は同じ地層にある。この意味を、21世紀において考えると、ネオリベのマネーの政治が価値を形成しているという錯認が起きる


アベの都合よく「富」が「株価」に表象される新・新「重商主義」に、スガは「農家出身」の新「重農主義」で対抗するの?記号「自助的叩き上げ」は無意味な記号であるだけによく滑る


1、「ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だ」(イ・ヨンスク)。子安宣邦氏は不可避の他者として漢字の意味をとらえる。しかしラディカル・モダニズムは知識人が依拠してきた漢字の存在にネガテイヴなイメージをもつ(津田左右吉)。



2、比べると、津田左右吉によると、江戸時代は事実上の象徴天皇制だった(徳川幕府が政治権力をもち、京都の天皇は文化権力をもっていた。) 天皇が政治権力をもつのは王政復古というクーデターの明治維新からである


3、さて知識人の漢字エクリチュールへの依拠を批判した、従って総体として知識人を全否定したラディカルモダニズムだけが皇国史観を批判できた。この津田左右吉のような普遍主義か普遍主義でないか曖昧な位置と機能は近代主義からはみえない。


漢字に表象できるのは岡倉天心の多元的<一>としてのアジア。漢字に対する本居宣長津田左右吉の立ち位置を批判してこそ、漢字に表象できるようになるのは、言語的存在である人間が人間として成り立つところの不可避の他者である。このことが多様的漢字受容世界ではないかと私はおもう。そしてラディカルモダニズムはこの表象を不可能にしていくだけではないか



明治が作った漢字がなければこの文を書けません。というか一行も文を書けません。では明治の漢字は明治維新とともに成功したのかと考えると、明治維新の近代は江戸の理想を失敗したとおもっています。精神的従属も差別も一層大きくなりました。安倍政権からいわれる明治に帰れとする現在は一国語主義のもとで歴史修正主義ナショナリズムが拡大していますし、また聖人が命名制作した嘗てのように自然を言語として尊敬しなければとても地球環境をまもれるものではありません。日本が原発をやめれないのは自然を書かれた言語として尊敬していないからだとおもいます。永久革命的にオリジナルに自己自身を作り出す精神、語る言葉のラディカルモダニズムは絶えず開発しなければいけないのです。

性急に乱暴に書いてしまいましたが、原初的テクストの言語が消滅したあとに、ヨーロッパは17世紀に普遍言語の再建を行います。近代の諸言語(ラング)はラテン語も含めて、文法性によって再構成されていくというのが私の認識です。アジアにおいても同様の独自の言語の研究があります。森のなかに木というものが存在していると思います。私の関心は、アジアの存在を考えるためには、木から思い浮かべることができるのか、森から思い浮かべるほうがよいが実は木から思い浮かべているのではないかという問題です


人は空間と時間を必要とする。人は定住しなければならない。名を与える。書く。国家を制作する。思考が可能となる。移動し続けては不可能だ。明治とは何か?明治という名を与えることによって国家を制作した。思考が可能となった。だが国家がなかった江戸において国家的なものが制作されるし思考もしていた。命名制作論を考えていた。命名制作論は、名づける制度論的行為をどうみるかの見方を考える江戸時代の言説であって、名づけることを書経的世界を翻訳によって現在に再構成する自らとして正当化する契機をもっているというか。たとえば「天祖」と名付けることの意味は何か



聖人が命名制作した嘗てのように自然を言語として尊敬しなければとても地球環境をまもれるものではありません。日本が原発をやめれないのは自然を書かれた言語ー書記言語ーとしてとらえる信をもっていないからだとおもいます


渡辺一民氏は若いときから生意気だったらしい。軍人から「貴様は何を勉強している?」ときかれたときは、仏文を仏教と勘違いしたこの軍人に、フランス文学を勉強しているとただしたために、「生意気だ!」と軍人から顔が変形するかとおもうぐらい殴られたという。「日本人」にはフーコを理解できないと言った渡辺氏。これほど生意気な言葉もないだろう。氏に、どういうことですかと聞けない。現在もし生きていたら、フーコならば明治維新の近代をどう読み解いたのですか?と質問したかったのだけれど。多分、かつての怒った軍人のように、日本人がひとつの視点しかもたないでやってきた出発点を問題にするのかしら?

国際関係の交渉に慣れていた幕府に任せたほうがうまくいったか?それは無理だ、薩長がやるしかなかったとかなんとか。西郷隆盛勝海舟の壁画を見たときのことを思い出す。二人が対立しているように見える。しかし絵は隠蔽しようとしても、この二人が同じ地層のなかに存在していることを顕にしてしまう。

助け合うこの両者によって確立した物の見方の中に嵌まり込む。その中からそれとは別の見方をもとうとしない結果、現在は明治維新が確立したこの道しかないと教える安倍政権を受け入れてしまう。正しい「始まり」と子安氏が呼ぶものの不可能に、明治維新の日付に、別のあり方を思考することをやめる「日本人」が誕生したのである。「日本人」にはフーコを理解できないのは、言説とフーコが呼ぶものを理解できていないからである。明治維新の近代がどう語られてきたかを思考の柔軟性を以って理解すれば、イデオロギーに包摂されない言説の空間における解体と再構築の反復がみえてくるのではないだろうか?


親がいなかったので何が正しいか全て本を読んで実践してきたと言うダブリン孤児院で育った知識人は私と会ったとき、helloというデリダ的挨拶をした。自言語が他言語に挨拶した


構造主義は重大な革命だった。構造主義があってはじめて、全世界が従来よりもはるかに理性的になったのだから。[D=G(中)p156]


自衛隊は国外で何をしているのか?その姿が水平方向で見えなくなったが、宇宙でも米軍と一体化している?垂直方向でも見えないが、軍国主義と格差が推し進める経済徴兵はそこにある


古代ギリシャ哲学寸劇


妻(嗚咽)「どうしてよ?あなたのような善人がどうして罰せられなければならないの!?」

ソクラテス「では、罰せられるならばわたしが悪人だったらそのほうがおまえは幸せなのか?」

妻(号泣)「このひとはまたそんなことを言って..」


デモクラシーの”非西洋的起源”はピンと来ないな。デモクラシーという最高の原理をもつ西欧を包み返す多様的漢字受容世界という方法的なアジア主義の思想を考えた方が自由に喋れる


なぜ木を切るのが好きな人がこんなに多いのか、やっとわかったそれは、すぐに結果を知る事ができる行為だからだとアインシュタインは語る。他者との論争は誠実さや真摯を伴なわなければ木を切る行為と同じ、言葉のスラム化だ。思想史も、思想家一人の木を切るよりも、500年間の思想家達の森を歩くのだ


鈴木雅之をたたえよう



横井小楠をたたえよう



石田梅岩をたたえよう


ロゴスを語ること、それは語られる世界より遥かに大きい。ロゴスと共に、同一の広がりをもつ世界の半分と沈黙する残りの半分との分割はいつの時代から起きたのか問い始めるからだ

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Ce qui les distingue, c'est que le rapport intérieur au nombre constitue dans le cas d'une majorité un ensemble, fini ou infini, mais toujours dénombrable, tandis que la minorité se définit comme ensemble non dénombrable, quel que soit le nombre de ses  éléments. Ce qui caractérise l'indénombrable, ce n'est ni l'ensemble ni les éléments; c'est plutôt la connexion,le <et>, qui se produit entre les  éléments , et qui n'appartient à aucun des deux, qui leur échappe et constitue une ligne de fuite,

(MP, p587)


支配言語はマジョリティーから数えられる言語を構成する。支配言語が無関心なマイナー言語は線的<と>である、数えることができない言語に成る。これこそは多様的言語受容世界だ


『言葉と物』で最も知られている言葉が「表象」である。しかし理解されなかった。多分「表象」でフーコが意味している内容が同じでないことによるのかも。事項索引を読むときだ


フーコの「表象」を考える(1)


「だが実際には、「重商主義」が富と貨幣のあいだに設けたのは、おおかれ漠然とした同一性ではなく、貨幣を富を表象し分析するための道具となし、逆に富を貨幣に表象される内容とする、熟慮された連接関係だったのである。」(『言葉と物』、交換すること、重商主義)

En fait, ce n’est pas une identité, plus ou moins confuse, que le <mercantilisme> instaure entre les unes et les autres, mais une articulation réfléchie qui fait de la monnaie l’instrument de représentation et d’analyse des richesses, et fait, en retour, des richesses le contenu représenté par la monnaie. ーFoucault p.186


フーコの「表象」を考える(1)補足


< La monnaie n’emprunte point sa valeur de la matière dont elle est composée, mais bien de la forme qui est l’image ou la marque du Prince.>

c’est parce que l’or est monnaie qu’il est précieux. Non pas l’inverse. De coup le rapport si étroitement fixé au 16e siècle est retourné: la monnaie ( et jusqu’au métal dont elle est faite) reçoit sa valeur de sa pure fonction de signe. ーFoucault


「貨幣が価値あるものとされるのは、その材料となる物資のゆえではなく、君主の象徴または標識であるその形態ゆえである。」金が貴重なのはそれが貨幣だからで、その逆ではない。このことによって、16世紀においてかくも厳密に定められていた関係は転倒され、貨幣は(そしてその材料となる金属み)その純然たる記号(シーニュ)としての機能からその価値を受けとることとなる。」(『言葉と物』、交換すること、重商主義)


フーコの「表象」を考える(2)


「表象作用において、記号(シーニュ)がその表象しているものを思考のまえに呼びもどす力をもたなければならないのと同様に、貨幣は、つねにその所有者の手に、先刻それと交換されたものを引きもどす力をみつ」(フーコ『言葉と物』第六章四担保と価格 交換すること)

La monnaie peut toujours ramener entre les mains de son propriétaires ce qui vient d’être échangé contre elle, tout comme, dans représentation, un signe doît pouvoir ramner à la pensée ce qu’il représente. ーFoucault


時代的文脈を無視した「殉死」の表象によって帝国日本が成り立つ『こころ』は深い内面を記述できる近代文学の勝利であるが、それは植民地をもたない国の近代文学はゼロだと告げる


推敲中

ドゥルーズによれば、マイノリティに成ることは、非可算集合に成ることである。仮に、反原発デモは可算集合としたならば、このデモから構成し得るネットが書く言語は、非可算集合である。見えないメタレベルの高みから、なにが真の<市民的介入>であり、なにが嘘の<市民的介入>であるか批判していく。例えば、「ユリシーズ」の主人公といえば、「35歳の白人の男性で首都の住人」と分解したらダメ、どの要素もマジョリティを記述する可算集合。マイノリティは非可算集合。仮にデモは可算集合ならば、デモから構成できるネットによる言語は非可算集合。見えないメタレベルの高みから、シングルイッシュを批判す


‪Art, says Gilles Deleuze, gives form topercepts and affects. Philosophy, however, must depart from the latter to arrive at the concept ー this is its arid destination ー no matter how traumatic the point from which its research departs, or a construction is undertaken. ‬

‪ー Alain Badiou "Infinite thought"‬


スゲー、雷だなあ!

こいつはね、神様の足音で、

天界でゼウスが女神たちと、

その・・・

雨はその快楽の滴ってことさ


 中江兆民はphilosopheを「理学」と訳す。漢文の伝統は抵抗の拠点だ。実際に幕末の知識人的活動家の流れを汲む自由民権運動は漢文的思考に頼っていた。「本当は大したことがない」のは「哲学」と指示した井上哲次郎。翻訳において朱子学の語彙を利用してきたくせに、philosopheに関しては、「哲学」と読んだら何のことかわからなくさせる武装解除である


• 後期水戸学の言説は朱子学的言説に線を引くことができるが、それほど統一性あるイメージなのか?儒家的アマテラスが投射される。それは明治維新の近代を準備したが、近代ではない。

儒家的に投射されるアマテラスは、幕末の知識人的活動家にとって、国の形を視ることによって、天下に視たことを自由に喋るアジアにおけるギリシャの思考とフランス革命だったのか



他者は構造化された(囲い込まれた)知に包摂されてしまう。ここでは言及されていないが、「神道」も解釈のなかに存在している。‪最近の国家神道の定義を非常に狭くして戦争との関係を否定する物の見方が確立しつつあるという。軍国主義全体主義の一致を齎した国家神道の「幻想」によって他者ー2000万人のアジア人ーが殺された事実を言うのは市民である。‬


明治と大正と昭和


講座『大正を読み直す』が終わったときは、講座で取り扱わなかったが、昭和ファシズムのことを常に念頭に置いていたから、美濃部達吉のつぎの言葉を考えていた。「機関説と申しまするは、国家をそれ自身に目的を有する恒久的の団体、一つの法人と観念いたしまして、天皇は法人たる国家の元首たる地位にありまし、天皇憲法に従って行わせられまする行為カ、即ち国家の行為たる効カを生ずるということを言い現わすものであります。」(演説「一身上の弁明」)

講座『明治維新の近代』が終わってみると、この講座と並行して、『朱子語類』を読んできたので、そこでヘーゲルの精神について考えまた宗教的神性についてその透明化された言説も考えることもあったので、彼の本は読んだこともなかったが、南原繁のつぎの言葉がだんだん気になってきた。

「およそ国家の問題は、根本において全文化と内的統一を有する世界観の問題であり、したがって、究極において宗教的神性の問題と関係することなくしては理解し得られないというのが、著者の確信である。」(『国家と宗教』)

国家と宗教に関係を打ち立てることに失敗したファシズムと戦争を経験した知識人が、国家と宗教に関係を打ち立てるために、同一化の従属に抗う精神の変革がもとめられた?宗教的神性の問題を考えなければならないと考えたのは理解できる。多分宗教的神性といわれるものはどの時代にも貫く。しかし一人でなければ考えられない宗教的神性の問題は知として共有できないのではないか。ただ、国家と宗教に関係を打ち立てるためには、どんな時代にも現れてくる構造の問題を明らかにする必要があることを考えさせる。構造の問題としてならば共有できる知だ。さて和辻哲郎は、ファシズムと戦争に関係なくいつの時代にもあらわれる構造の問題を考えていた。構造主義を先取りして、憲法が書かない天皇の死を支配する権力を構造として考えることができたのではあるまいか。憲法が書かない権力を明らかにしないかぎり、憲法を作り直しても再びおなじ問題がおきることを敗戦の前から知っていたようだ。反復するおなじ構造が支配するだけだからだ。何もかえるな、そうしてすべてがかわる、この構造を日本人は住処にすればいいと。しかしそれではファシズムと戦争の経験がなくなってしまうとおもう。




講座『大正を読み直す』が終わったときは、講座で取り扱わなかったが、昭和ファシズムのことを常に念頭に置いていたから、美濃部達吉のつぎの言葉を考えていた。「機関説と申しまするは、国家をそれ自身に目的を有する恒久的の団体、一つの法人と観念いたしまして、天皇は法人たる国家の元首たる地位にありまし、天皇憲法に従って行わせられまする行為カ、即ち国家の行為たる効カを生ずるということを言い現わすものであります。」(演説「一身上の弁明」)

講座『明治維新の近代』が終わってみると、この講座と並行して、『朱子語類』を読んできたので、そこでヘーゲルの精神について考えまた宗教的神性についてその透明化された言説も考えることもあったので、彼の本は読んだこともなかったが、南原繁のつぎの言葉がだんだん気になってきた。

「およそ国家の問題は、根本において全文化と内的統一を有する世界観の問題であり、したがって、究極において宗教的神性の問題と関係することなくしては理解し得られないというのが、著者の確信である。」(『国家と宗教』)

国家と宗教に関係を打ち立てることに失敗したファシズムと戦争を経験した知識人が、国家と宗教に関係を打ち立てるために、同一化の従属に抗う精神の変革がもとめられた?宗教的神性の問題を考えなければならないと考えたのは理解できる。多分宗教的神性といわれるものはどの時代にも貫く。しかし一人でなければ考えられない宗教的神性の問題は知として共有できないのではないか。ただ、国家と宗教に関係を打ち立てるためには、どんな時代にも現れてくる構造の問題を明らかにする必要があることを考えさせる。構造の問題としてならば共有できる知だ。さて和辻哲郎は、ファシズムと戦争に関係なくいつの時代にもあらわれる構造の問題を考えていた。構造主義を先取りして、憲法が書かない天皇の死を支配する権力を構造として考えることができたのではあるまいか。憲法が書かない権力を明らかにしないかぎり、憲法を作り直しても再びおなじ問題がおきることを敗戦の前からはっきり知っていたようだ。明治と大正、そして昭前期と昭和後期まで思想的影響力をもつ和辻というひとは何だろうかとおもう..


・はじめてWar shrine 戦争神社の語をみたときはアメリカはよくわかっていることに驚き揺らされた。同じくらい、戦争は国家悪であると問うた大熊信行の思想に揺れる


•日記を読んで敵兵の家族を思うノモハンの日本兵の心を一生懸命追いかけても、読み解ける公の世界は私の世界に存在しない。「きけわだつみのこえ」の知識人が書いて初めて経験を理解できた


 「近代の超克」論とはなにか?わたしはまだはっきりとわかっていないが、間違いをおそれずに今日の感覚で言うと、グローバルな近代をローカルにおいて批判するアジアへの共感を前提に、日本人は二つの他者ー見上げる西欧の他者と見下げるアジアの他者ーが必要だったのではあるまいか。中国の民主化なしで、正しい「始まり」をもたぬ日本の民主化は進まない。と同時に、日本が自らの民主化を進める努力を行わなければ中国に民主化を要求できるものではない。現在の問題は、中国に民主化がないから日本の民主化は進まないこと、また正しい「始まり」をもたぬ日本が民主化を進める努力を行わないから、中国に民主化を要求できない点である。日中戦争を認識していないという意味においてまだ戦争責任をとらず、歴史修正主義の国が言うことにだれが耳をかすだろうか?両国において経済と開発はどんどん進んでいくが、政治的に自由に喋ることができるようになっていかぬままである


• 昨日は子安先生が平田篤胤について書かれていた。先生は敗戦の年に留まることを決めた方だと思う。そうしてこそ昭和は昭和自身を書く自画像に現れる中国を語るという大きな仕事だ


論理と解釈の関係はいかに?論理にとって意味があることとは形式化を徹底する他者である(柄谷氏)。解釈にとって意味があることとは方法的思考に依拠する他者である(子安氏)


• 思考の肖像画から人間の肖像画へ、再び新しく思考の肖像画へ。思考が表象の表象へいくとき、だが外部の思考を失って、反復の構造に絡みとられると、「祀る神は祀られる神である」のように語られてきた和辻の言説が時間を超えて成り立つようにみえてくるのではないか?そこで国家は語ることも語られることもなくなるのか?21世紀の新しい祭祀国家?百年後の人々は現在のわれわれをどう語るのだろうか?「令和」になって、天皇を利用する安倍政権の国家は語らないし、天皇抑止論の左翼においては国家はどういうあり方でやっていくか語られることもなくなったようだ。一緒に、外で、自由に喋らせてくれという言葉もなくなった。実は誰にも責任がない狡猾なやり方でわれわれは立ち退きされたのではあるまいか..そうではないと思いたい


表象の外部化の問題から逃げてはならない。言説「中国化する日本」は中国を外部化しているのは、嘗て言説「心の中の天皇」は天皇について語らなくさせていた場合と同じではないか(天皇ファシズムはアジア2000万人の命を奪うことになった国家祭祀のあり方にあったことが十分にとらえられていない)。敗戦後から、中国をどうみるか語ることを通して昭和が自己を語るあり方が成り立っていた。ラディカルモダニズムの<一国>民主主義と自立的一言語主義(国語)の言説が語ることが不可能な中国の実体を発明していくというか。ボードリヤールが分析するように、商品・モノとおなじように国家もシミュラークルで読み解かれる。日本も中国も実体としては存在しない。国家は解釈に定位するから、「日本」をみる見方、「中国」をみる見方しかない。つまりラディカルモダニズムの<一国>民主主義と自立的一言語主義(国語)が「中国」をみる見方を作ってきたこと。日中戦争の隠蔽も見方をつくった。作ると言ってもそれは人々が正しくみる見方から盗んでいるのである。剰余価値の分析が表象に適用できないかだろうか?


英語は分節化に非常に適した言語で大胆に省略できますね、これについてええ加減なことを書いて恐縮ですが、日本語では分節化できないのは英語と比べて簡単には省略できないからでしょうか?それでも漢字によって思考は世界を分節化できるが、漢字を読むために発展した仮名ではそれが中々できないようにみえます。ですから、『論語』の現代語訳はどんどんひらがなが多くなってきたのはどうも... 時枝誠記によると日本語の主語は漢字ですが、文が考えるためには主語は漢字でなければならないのではないかと今朝かんがえてみました。さてこの考えを勝手に押し進めてみますと、何かを指示するためには、文による形式を以って指示する必要があるわけですが、本居宣長がやったように「神」(シン)をカミと読んでしまったら何を指示しているのか分からなくなってしまいます。宣長が書いたように、「カミの意はわからない」という文も非常に抽象的に考えていることはたしかです。抽象的でなければ宣長の言語における多元主義の思考が成り立たないでしょう


『言葉と物』は10章で構成されている。第8章において表象の限界が論じられたあとで、第9章で第1章に戻る。人間は消滅したはずなのに、人間の表象について再び語られる。これは何か?多分人間が映っているのだけれど、「鏡の奥に映っているのはだれか、知らないふりをしなければならないし、その反映に反映そのものの実在とすれすれのところで問いかけなければならないわけである」 。多分、第9章と第10章は鏡なのだ。鏡の奥にほんとうに人間が映っているのか?第9章と第10章からは別の読み方をしなければならないが、多くの読者はこの入り口で疲れてしまっている、と、渡辺先生は嘆いた(先生は、序文と第1章、第8章、第9章、第10章を訳した)。第9章と一番大事な第10章は読まれていない。第9章と第10章における鏡とは多分、言語の集中なのだ。だから思想を考えるときに文学を考えることは大事で、思想は思想、文学は文学という形で言葉を拡散させてはいけない(する必要もない)

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古代は幅広い知識と広い見方をもっていた。津田左右吉が『万葉集』は貴族が書いた知識だと言う通りかも。昭和十年代の『万葉集』のロマン主義を読む国家において古代はホームレス


古代というのは幅広い知識と広い見方をもっていると思うの。youtubeアイルランドの崖の絵をロマンチックに見せる古代ケルト語講座は古代から立ち退きされたような気持ちに


大坂なおみさんがしているお位牌のようなマスクね、文が無くて、死者の名が直接に与えられているのは、違和感をまったく感じない


朱子語類』を読む。魔術師が記した四書五経=暗号=自然数を読み解くと皇帝が出てきた。互酬の貴族世界が終わり帝国の知識人的官僚が誕生した。王政復古の明治維新が完成させた


「フランスには「最高裁判所(Cour suprême)」と呼ばれるものがなくて、Cour de cassation(破棄院)、Conseil d'État(国務院)、Conseil constitutionnel(憲法評議会)の三つが司法の最高審級に当たるとされるわよ。」(ふつごぽん「フランス語の豆知識」より)

• テキトーなことを書くけれど、歴史的にみると、アメリカは彼らの代表がいないにもかかわらず植民地税を立法化するイギリス議会に対する不信感があった(アメリカ独立戦争が起きた)。これは最高裁判所は議会を抑制するあり方を規定していると言われる。比べると、フランスの場合は、行政に王権に対する不信感も存在から(フランス革命が起きる)、行政権にたいする抑制のあり方を構成する。この差異は権力分立の理解にかかわることである。如何なる名の裁判所においても、何が法であるかを発見することは裁判所の固有の権限であるが、フランスにおける憲法判断は通常裁判所が行わないが、所謂原告の当事者性(case and controversy )を判断する必要なく、何が法であるかを直に行政に言い渡すことができる。米国の場合は何裁判所はが司法権かを自己定義する。そこで司法権司法権として成り立つとはどういうことかをめぐる抽象的な議論が展開される。憲法判断回避の原則は、憲法をどう理解するかの憲法理論であるが、これは言語は認識としての言語なのか言語遂行的なあり方なのか権力の内部で議論される。しかしこれは日本に輸入されると、中国朱子学の朝鮮受容の場合に起きたような「純化」が起きてくる結果、非常に思弁的理解になった可能性がある。裁判所における救済の役割の意義が見失われ、結果的には最高裁判所憲法判断をやめてしまったと言われても仕方ない有様である。厄介なのは、80年代以降の法学部出身の政治家(事実上はマックスウエーバーがいうような官僚的合理支配)は体系的知識として米国憲法としての憲法を教えられているということで、社会民主主義の視点を以って憲法を活かすことを知らない。日本のエリートは近世は中国に行って普遍主義を学んで帰ってきたように、現在は米国に行って普遍主義を学んで帰ってくるのである。こういう普遍主義はいわば大きな普遍である。だけれど、グローバルな歴史と地域的な歴史があるように、大きな普遍と(確立した大きな普遍主義のなかでそれとは別の見方をする)小さな普遍が存在するのではないか?普遍主義は一つではなくて複数ある


アイルランド人は自分たちがケルトの末裔だなんて知らない話だし、わたしの知るかぎり迷惑におもっている者が多い。メディア研究によると、EU加盟までアイルランドはヨーロッパに属することも知らなかったという。現在はタブーだが、映画「ブッチャー・ボーイ 」をみると何と50年代にコリアに同一化していたらしい。アイルランド映画と呼ばれるものは殆ど全部、ハリウッド映画が作ったアイルランドをテーマにした映画である。『ザ・デッド』はアメリカのスタジオのなかでダブリンの街を作ってしまったのだ。そのハリウッド映画からアイデンティティのイメージがつくられることがある。極右翼による政治的利用もあるほどだ。アイルランドは自らをヨーロッパと考えたか起源を考えるのはヨーロッパについての同一性の知を前提にした見方である。むしろ差異化してみよう。自由に喋らせてくれ。もし『ケルズの書』はアジアに属するとしたら、どんなことが言えるだろうか?知らないけれど、『東洋の理想』の岡倉天心ならば『ケルズの書』の存在を知っていただろう。『ケルズの書』は書記言語ではじめて考えた無限についての曖昧な観念を空間に投射して明確にした。その空間イメージを再び言語化したときに論理的順序と時間的順序の思考イメージが朱子において発見された、と、わたしは勝手に考えているのだけれど


自由に喋らせてくれと最初に言った人はフランス革命のとき監獄の中にいた。自由に喋らせてを自由に喋らせてと言った。ルネッサンス人のように秩序があるから正しいとは言わなかった


安倍晋三は辞任するだけで、敗北させられたわけではありません。つぎの首相は日本会議の路線を継承しろと要求していると報じられています。安倍というのは、保守政治家なのに異常というほど信念をもっていなくて、本居宣長的というか(笑)、いかなる理念を否定して、現在の天皇を自分のために利用できるだけ利用する政治でしたが、彼の応援団である日本会議は現在の天皇に全く期待していません。そのかわり、われわれはその内容を知らないのですが、解釈改憲的な軍国主義復活と国家神道復活(公式参拝)を以て21世紀の天皇教の政治を既に考えているといわれます。だれが首相なっても、安倍と日本会議の影響を受けるならば、安倍以外の国民全員が精神の従属という形で豚にされそうです。日本的情緒で彼を惜しむのではなくて、安倍晋三歴史修正主義の犯罪を明らかにして、自民党を終わらせなければなりません。原発体制継続。解釈改憲的な安倍戦争法の軍国主義復活と伊勢サミットにおける国家神道復活、歴史修正主義、新元号天皇利用の政治、アベチャンネル化の公共放送支配、そして市場のもとで搾取率100%を超えて無限大に行く可能性のある貧富の格差の解決を再び市場に委ねる日本ネオリベの確立。巻き返せるか、です


孤立する日本の問題から逃げてはいけない。イラク戦争の小泉とナショナリズムの安倍の歴史修正主義は対抗軸のアジア主義を消してしまった。7割は日本の方向がみえなくなった


7割は私は安倍晋三みたいになりたいとおもっているんだよ。トランプと習近平と外交するためにはあれぐらいバカでなければならないと勘違いする


安倍晋三における<思想性のない「柔らかさ」と政権にしがみつく「硬さ」>での偽均衡点は、思想性のある「柔らかさ」の方がより望ましいが、思想性なき「硬さ」よりはマシだというそこで安定してしまう結果、権力の集中を許し、また政党を選ぶ選択の幅が極端に狭くなっている不均衡の現在があるのではないか


ばらの騎士』RosenkavalierはR・シュトラウスの作曲したオペラ。今日東劇の映画オペラでみた。音楽の場面を確認してハプスブルク家帝国の終わりを読むことができた



ガリレオと教会の関係をどう理解するかはブレヒト演劇の決定的な解釈に関わることなので考えているのですが、ガリレオに地動説の観測データを与えていたのは教会でした。フーコによれば、教会は科学を以って世界を支配する野心をもっていたのではないかとのことです。「それでも地球は動いている」と言ったガリレオは、実は科学の権力を手に入れた教会に協力したとフーコはみています。


安倍政治とその継承者は「善」だからこれを批判することが「悪」らしいのです。それならば、「悪」にギネスビール三杯、「悪の帝国」に乾杯しましょう!『悪の華』も乾杯!それにしても、六割近くになったこの支持率をどう読むのかです。majorityは、固有の文化を喚起させる元号の決定に介入するように、制度を祭祀的に捉える安倍政治を支持していて、嘗ての自由民権運動のように制度を(社会)契約として考える立憲的なものを支持しないということでしょうか。それで「強い国家」を保てると考えるとしても、しかしそれではいつまでも一人ひとりがチョロイままでしょう。これは逆だとおもうのですね。わたしの考えでは、安倍がやるように無理にでも権力を集中して「強い国家」を保たなければそんな祭祀的な制度を成立させることができない無意味にもっと気がつくべきです


寸劇

フクロウネコミクス「ホー、ところでスガノミクスって自助のことですかニャ?」

自助スガ「あなたに答える必要がありません」


テニスをはじめたときヨネックスの緑のラケットでよかったなとちょっぴりおもう。悪いね、でもカップラーメンはもうあんまり食べる気がしないよ


「国民的」の帝国的な修辞は屑。夏目漱石の漢文の高さとアジア形而上学をもつ作品にだけ反時代性があった。北一輝に限られた非常に短い期間だけアジアを考えた思想性があったように


『世界史の構造』を読むと、歴史は「それ自体のために」戦争するというヘーゲルの見方である。「何かのために」と「それ自体のために」を同一化する無意味さが増殖していく


市民が「何かのために」つくる時代に、世界史の構造の柄谷行人が分からなくなるのは、歴史が「それ自体のために」効果様式(高度な互酬)を作ると教えてくるとき(無意識の構造?)


世界中が後期近代のネオリベグローバル資本主義に抵抗できなくなっているのに、イスラムが抵抗できているのは、彼らの近代化において伝統を残したからではないでしょうか。イスラムにとって、イスラム自らを他者化する西欧の近代化を全面的に受け入れることは限界があります。比べると、日本において今日まったく抵抗できなくなってきたのは、抵抗の拠点である伝統がゼロだからとおもいます。ご指摘のポイントについてですが、自ら植民地化することになったのは、吉田松陰テロリズムがもたらしたものだと考えてみたらどうかと思っています。明治維新はクーデターの出発点をもつのです。松陰の至誠という考えは、戦前の日本人を洗脳し尽くしたようですが、仁斎が言った祖述的「誠」の言説ではないのです。それは革命を表象した言説です。ここから松陰たちのクーデターの考え方はラディカルモダニズムの様態といえるものではないでしょうか。可能性として考えるのですけれど、もし吉田松陰からの影響力がなければ、薩長であれ水戸であれ下級武士の近代化は、幸徳秋水の殺害をもたらすことはなかったでしょう。


もし宇野と柄谷の『資本論」の価値形式論の読みに沿って富を捉える欲望(生活の必要)に依る階級闘争ならば、ネオリベの反階級闘争も市場の搾取の問題の解決を再び市場に委ねるという富を捉える欲望にとらわれている


リベラルのアイルランド人が法の支配を守るのなら英国を政府にしても構わないと発言したら、ナショナリストスコットランド人が猛烈に抗議した。関数開発者のインド人は冷静だった


漱石以降英国に行ったら失望しなければならぬ「個人主義」は政治的概念のそれ以上でもそれ以下でもないのに、「柔らかい」を指示して固有の文化をみるのはpointlessでは?


イギリスとかヨーロッパからみると、われわれの近代は西欧との調和ですが、とんでもないです。ヨーロッパ近代のあり方としてわれわれが存在するだけです。と、そう考えると、伝統をゼロにするほどの西欧化は植民地化とみなければならないのかもしれません。概念化できていませんが、21世紀にはいった現在のヨーロッパからみると、近代日本は自らを植民地化したとする見方にそれほど違和感はなく感じるとおもうのですね。


帝国は物理的に支配する帝国主義と違います。同様に、帝国と対となる植民地を考えることができないでしょうか。植民地は物理的に支配される植民地主義化とは別です。ややっこしいことを言って申し訳ないですが、何かこういう概念がないと、明治維新の近代を説明できないのではないかと考えています。


わたしもはっきりと分からずお答えになっているかわかりませんが、「民族」という語は井上哲次郎の翻訳ですが、これは大正に出てくるのですね。それまでは「民種」と言っていました。あくまでもこの意味において、明治に民族主義が見つからないのだと思います。しかしナショナリズムの言説はあります。このことを前提として、江戸時代は後期水戸学の「民族主義」の言説は異常と思われていたことはたしかのようです。


文字のなかった時代の洞窟に描かれた「手」の絵は非常に抽象的なんだね。文字が成立したあとは、言語が抽象的である。『聖書』とか『論語』という原初的テクストは抽象的である。イメージは抽象性を失う。「手」の他者性も、何かを持つイメージのなかに崩れてしまう。イメージは明確性の領域に囲まれてしまう。再び抽象的になるのはクレーにおいてからである。


丸山真男ほど絶対的権威ではないが、従わないと生けていけないし、その語る声を聞き過ぎると活動性を無限に譲渡せねばならない知とどう関わるか?我考える故に複数の戦略の間に在る


ポストモダンネオリベと言う人の意見を読むが誤読だ。ネオリベケインズ主義が後期近代のおなじ地層にあると言うだけだ。サッチャーリズムを推進したのは労働党だったのだしね


映像は思考にとって感化の大きな運動だが、十分に思考する前に消滅してしまう問題をプラトン的に考えることもできよう。敢えて終わったと考えてみよう。映画もそれが何であるか十分に知られずに百年で終わってしまったと。痕跡を残すだけだ(投射の痕跡)。だけれど、魂について「鬼神論」(『朱子語類』)のなかにおける朱子と弟子達の間で議論されていたように、映像は消滅しても時間がかかるとして意味のある思考を持続させるようとおもう。映画を物語る場合は、生きているあいだに弔うというか..変なの。問題は、それを一体どんな声で語ったらいいのか?わからないでいる

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推敲中; 砂浜に見えた何かの形が波によって消えてしまう。もうそこにないのに存在するかのようにそこにもう一度形を思い浮かべてみるが、反復はない。映画のスクリーンへの投射と類似している。時間は波。そして言語の集中のなかで、人間が存在しないのにあえて人間の存在を表象する、諸人文科学の平面への思考の投射もある(フーコの「人文科学」)。


『阿呆船』 のイメージとは狂気が土地のどこにも漂っているが決して土地の部分になることはない船である。これは分割のイメージであろう。フーコ『狂気の歴史』において分割はほんとうにそれほど分割だったのか?この本は鬼神論の言説と一緒に考えることができる。ロゴスは順序として内部を先に考えるだけで、外部はそれほど排除されていないところで、理性の傍らにアンチコスモスがある。他方で、近代の地層は理性がそれ自体のために境界線をひくように他を排除しきっている。近代の地層においてはリカードマルクスとが助けあう。両者は狂気を排除しきっている点ではそれほど違いがない。考古学的にみると、前の時代に支配的だった空間の思考に狂気が定位しているといえようか。時間の思考からは空間の思考も狂気も見えない。だけれど近代を確立したとされるデカルトのコギトの問いに繰り返し狂気が侵入することを防ぐことができない。反復する狂気の表象的姿が記される。ここから、『言葉と物』において消滅した人間の表象が第9章で現れたときは、理性の再構成をもとめるものではない。脱構築的に、再び確立した全体性のなかでそれとは異なる物の見方を考えるのである。後期近代に入って脱構築の思想が現れたが、終わろうとする近代の端からはじめて、近代とはそもそも脱構築的であることがみえてきたのである。

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 ‪上から下へ、底から天辺に、右から左へ。溝口健二はこの和漢混交文の構成を真似た編集を試みた。しかし所謂縦書きは全アジアから消滅するかも。日本新聞と国語教科書だけか‬


英語は分節化に非常に適した言語で大胆に省略できます。ええ加減なことを書きますが、日本語では分節化できないのは省略できないからかな?それでも漢字で分節化できるが漢字を読むために発展した仮名はできないようにみえます


‪何が終わったとする記念日なのでしょうか?「戦」が終わったというのならば、「戦」とは何だったのでしょうか?アジアで2000万人の命が犠牲になったことを考えるとき、ファシズム軍国主義が一緒の方向を向いた「普通の国」の正しい「始まり」をもたない歴史を考えない訳にはいきません‬。基本的には、<祀る国家は戦う国家である>と考えています。「普通の国」になれ、当たり前じゃないか、とこの国の政治家達はいいますが、「普通」の国に戻ってはいけないという誓いがあった明日はこの意味を考える日だとおもいます。「普通」の国だったときは50か国以上と戦争しました。戦後に49ヵ国と平和条約を結ぶ必要がありました。アメリカのマスコミから「戦争神社」と呼ばれる国家神道も復活させてはいけません。が、日本アカデミズムは国家神道の定義を非常に狭くして、(明治維新のときに神祇官を復活させた時期を以って国家神道の問題があったとする)、日中戦争と太平洋戦争の戦争と国家神道は無関係と解釈し始めたようです。しかしそうでしょうか。これでは「普通の国」が自身を正当化しているようなものです。‪’常に例外はある。だが偶発事に、思考に値すべき歴史の普遍はない’、と‬。これに対しては、アジアで2000万人の命が犠牲になったことを考えるとき、ファシズム軍国主義が一緒の方向を向いた歴史を偶発事と言ってしまっては倫理的に済まされないことを考えないわけにはいきません。


小泉進次郎環境相靖国神社を参拝💢


終戦記念日は、嘗て憲法に書かれなかった「祀る神は祀られる神」とする現人神の天皇ファシズム軍国主義で生じた戦争をやめるという戦いを終わらせる日になってはいないでしょうか


公式参拝した小泉純一郎は「おれの人権はどうしてくれる」と言い出したことが問題です(我慢すればいいことでしょう?)戦争で犠牲になった民間のひとたちのこともありますね。ご指摘のように、どんな宗教においても死者を選別して彼らの間にヒエラルキーを作るという考えをもっていないということを政治家は学ぶ必要があるのではないでしょうか、特に将来首相になる可能性がある人物はね。弔うならば千鳥ケ淵戦没者墓苑へいけばいいです。本当は、神道も色々あったとおもうのですが(わたしの記憶でも、子どものときは神社ごとに「違い」があったのですが、いまはどこもおなじ感じでどんどん画一化されてきたような)。本居宣長から展開した国家祭祀の近代を終わらせることができないでしょうか(法人化されたという話に矮小化されがちですがね)。靖国に関してはもはや遺族の方々が存在していないのだし、A級戦犯の遺骨はよりよく安置できる他の神社がいっぱいあるでしょう。

靖国神社としての日本人」という言説が「左翼」から出てきましたが、理解できません。国家祭祀の禁止を拠り所とした国家としてやっていくしかないでしょうと思います。そのためには、わたしは本居宣長の仕事の重要性を前提としていうのですが、本居宣長における国家神道の言説を多くの人達が知ることが大事です。現在の問題は、本居宣長から国家神道を切り離すので、結局国家祭祀としての国家神道の理解がないのです。しかしこの理解は戦前と戦後の憲法の理解とおなじくらい大切になってきたのではないでしょうか。



「およそ国家の問題は、根本において全文化と内的統一を有する世界観の問題であり、したがって、究極において宗教的神性の問題と関係することなくしては理解し得られないというのが、著者の確信である。」(南原繁『国家と宗教』)


わたしが知っていることは僅かですが、本居宣長国学ですが、死後世界に関しては無関心な儒者知識人とおなじで、ひとの死後は穢れた黄泉の国にいくしかなくて悲しむしかないと言うわけですね。小林秀雄と子安氏が論じているのですが、宣長は二つの墓があって、その一つは自然ゆたかな山奥にあるのですね。平田篤胤はこれを見て宣長の魂の行方の安心(あんじん)をもとめた本音を知ったとかんがえます。宣長国学は『古事記』をどう読むかの文献学ですが、平田は救済論をもった神学をはじめます。これは、詳しく知りませんが、これは慰霊といわれるものではないとおもいます。国家神道は神を心の外に出したのは宣長にはじまるようですが、もちろんこれは慰霊とは無関係です。


最後にまとめさせていただきますと、最初の問題意識に戻って、わたしが「国家祭祀」で理解しているのは、近代国家の他を排除することによって成り立つあり方です。戦争する国家は誰のために祀ることはありません。戦う国家は国家自身のために祀るのです。そこで統治権の上にある、祀る神が祀られる神である現人神の天皇と建物があり、ここに参拝しにくる民が結合して、国家祭祀が成り立つのです。これをやめることからやっていくしかないとおもうのですね。公式参拝の問題は戦前との連続性を回復してしまう危険があってそれで再びそのままおなじことが起きるわけではないが、国家と対等で自立的私を築けない精神的従属が起きてくることはたしか。これがわたしが靖国参拝をみる構成の仕方です。


中学校の元朝日新聞記者だった担任の先生から「敗戦記念日」として教わった。「太平洋戦争」という言い方は中国との15年の戦争が先行していたことを隠蔽することも問題だ


‪先生は新聞記者の時代に自民党タカ派の大臣に長谷川如是閑の言葉をぶつけた。「あなたの子供から戦場に送るつもりがあるのか」と。私はこの言葉を小泉進次郎にぶつけてやりたい


吉田松陰の長州的「誠」に心の中から洗脳されるひとはもういないだろうが、殺人テロリズムを過大評価してもね、それ以上でもそれ以下でもないんだよ


海賊版でしか聴けなかったカルロス・クライバーをガンガン聴けるようになった、YouTubeよ、ありがとうよ


日本は本当にそれほどスピーチがよわいのか?スピーチする力は普通にある。問題は、知らないひとのスピーチをきく力がないこと。アメリカ人は無名のオバマの話を一年間きいた


サッチャーの葬儀の時もイギリスのマジョリティーは同情していたが、BBCはその政治を厳しく批判していた。日本的情緒ごときものに包摂されるようなことは全く起きないのである


丸山真男は例外だったが、官僚養成機関(東京大学)は民主主義を教えない。国会は官僚マシーンに隙間なく囲い込まれた。合同野党は危機感をかんじる政治家達を自民党から引きぬけ




80年代から憲法は自らに正当性を与える古典主義的な魔法の絨毯へ行く。だが言論の権利を体系的に秩序づける古典主義のもつ同一性の見方に絡み取られたら喋れなくなるだろうに、リベラルの知はこの魔法の絨毯に包摂されていく。今日魔法の絨毯に乗る政治家は数に依存する愚民思想を非難するほどの高い憲法の概念をもっている。合同では自由に喋ることができないからである。しかし、自民党と、精神が自由に喋ることができなくなる自民党的な従属にたいする明確なネガテイヴなイメージをもっているだろうか?さて自由に喋らせてくれと求める差異性が現れるのは、過去の学生運動が起きたエリート大学はなくて、原発神話の抗議にきた周辺大学の学生達からだったことに注目していたのだけれどね


making history の訳は、グローバルな歴史と地域的な歴史、外部から大きな普遍と小さな普遍たちを読み直すという意味でならば、「歴史を書く」でもO.Kだと思う


「歴史は、現在と過去との対話である」とE・H・カーが言う前に、アジアでは「対話」するために朱子は過去を透明化した。民が拠る国家に責任をもつ自立的な官僚知識人が発明された


Heute vor 75 Jahren hat Japan bedingungslos kapituliert, aber Japaner bezeichnen den heutigen Tag als den Tag des Kriegsendes.75年前の今日、日本は無条件降伏した。しかし、日本人はこの日を終戦の日と呼ぶ。


表象の外部化の問題から逃げてはならない。言説「中国化する日本」は中国を外部化しているのは、嘗て言説「心の中の天皇」は天皇について語らなくさせていた場合と同じではないか


今日の歌舞伎は役者達がみんな見てくれてという感じで頑張った。「義経千本桜」の猿之助は宇宙飛行士の様に空を飛んでいたのを覚えている。今日のフェミニンな甥の方が好きだな


毒虫アルトーの身体は獲物を捕らえる網の振動の部分である。かくも言葉はイメージより遅れたのは、言語として自身に介入するからだろう


芭蕉俳諧のネットワークによって「奥の細道」を旅したんだな...月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり


抗議が十万人を中々超えないこの国で、香港において抗議が量として単純に増えることへの驚きがあるでしょう。まだ若者たちの主張がはっきりとわからないので思想が注目されています


「令和」になって誰にも責任がない狡猾なやり方で、そうではないと思いたいが、われわれは立ち退きされたのではあるまいか、どこから?誰も喋っていないのはマスクのせいにできるさ



権力分立において裁判所・議会・政府は各々の権力で互いを互いに抑制する。単に司法権立法権・行政権が三者に割り当てられるのは権力分割。安倍体制は分立か分割ではなく権力集中


あのトランプと習近平に対抗するには安倍晋三ぐらい他者に無関心でないとだめだとこの男を支持してきたあなた、いつの間にか、安倍晋三の対象から安倍晋三自身になっていないか


日本は本当にそれほどスピーチがよわいのでしょうか?スピーチする力は普通にあるかもしれません。しかし問題は、知らないひとのスピーチをきく力がないこと。アメリカ人は無名のオバマの話を一年間きいたのです



フィネガンズ・ウェイク』も『朱子語類』も外部で出会う。他者に助けられて諸言語の内部にくるが、読む度に他者として読めないテクストが存在する外部の意味を敢えて問う旅もある


<彼(それ)>および<彼ら(それら)>という三人称の不定辞は、言語学の観点からいわれたような無規定性をいっさい含むことなく、言表をもはや言表行為の主体にではなく、条件としての集団的アレンジメントに関連づけるーーこれがわれわれの立場である。D=G[(中)p217]


映画の歴史にも、グローバルな歴史(ナチスドイツ、ソビエトとハリウッド)と地域的歴史(イタリア、日本、ヌーヴェルヴァーグ)がある。ゴダールがやったことは、大きな普遍と(確立した大きな普遍主義のなかでそれとは別の見方をする)小さな普遍が存在すること、普遍主義は一つではなくて複数あることを考えさせる『映画史』を作ったこと。マジョリティである大きな歴史から、マイナー言語としての小さな歴史を構成した。見える大きな歴史のなかでそれとは別の見えなかった歴史をどう見るかを考えようとするものである。小さな歴史である映画の歴史を見せる映画から、映画は運動のイメージから思考のイメージへ行く。大きな歴史も小さな歴史も全部、外部から来ている


‪白紙の本 25‬


‪Placing representation outside, which means placing the outside outside, Rousseau would like to make of the supplement of pressence, a pure and simple addition, a contingence;  thus wishing to elude what, in the interior of presence, calls for the substitute, and is constituted only in that appeal, and in its trace. ( Derrida )‬


文字のなかった時代の洞窟に描かれた「手」の線は非常に抽象的なんだね。文字が成立したあとは、言語が抽象的である。『聖書』とか『論語』という原初的テクストは抽象的である。イメージは抽象性を失う。線の他者性も、何かを持つイメージのなかに崩れてしまう。線は明確性の領域に囲まれてしまう。再び抽象的になるのはクレーにおいてからである‪と現代思想はいいはじめた‬


‪Le Maître dit ; < Quand le gouvernement repose sur des règlements et que l'ordre est assuré à force de châtiment s, le peuple se tient à carreau mais demeura sans la vergogne. Quand le gouvernement repose sur le vertu et que l'ordre est assuré par les rites, le peuple acquiert le sens de l'honneur et se soumet volontiers.> ( Confucius, Les Entretiens)‬


徒然草』より


 主ある家には、すゞろなる人、心のまゝに入り来る事なし*。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ*、けしからぬ形も現はるゝものなり。


 また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。


 虚空よく物を容る*。我等が心に念々のほしきまゝに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん*。心に主あらましかば、胸の中に、若干の事は入り来らざらまし*。


徒然草』(238段)は「紫の朱を奪うことを憎む」(「論語」)について言及している


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法人だからといって、靖国神社伊勢神宮国家神道として復活している事実を認識できていなければ、「宗教としての資本主義」のつぎは国家神道としての資本主義になるよ


地球が丸いのにスクリーンが四角なのはなぜだろうか

寺山修司


カメラは命題関数?レンズを通して対象を見るときは感覚において音が遮断される。これは非常に抽象的な何かを構成するらしい。命題関数を見るときには声なき書記言語を見ている?


『監獄の誕生』でフーコは分割を考えることへの関心を書いた。『言葉と物』は秩序を考えた。常に秩序に裏側があることも含めて。『監獄の誕生』においては死に場所のない近代を考える。これはわたしの理解であるけれど、魂は肉体を住処としていたように、生者に伝えたい死者の言葉(「言説的なもの」)は建物(「可視的なもの」)と共に在るが、監獄ですら建物はそれ程堅固でない。「言説的なもの」と「可視的なもの」は互いに独立しているからではないだろうか


荒俣宏はフーコを読んで博物学を知った。知の考古学的地層から博物学だけを独立させることができないのは、異空間の言説を妖怪だけの話にしてしまうことが許されないようにである?


フーコは近代演劇のあり方を「交換すること」で論じたのは、人間の成立が同一性と差異性から成る表象的網目に依るからである。自由に喋らせてくれという差異性。サドとフランス革命


資本主義は三角形なのはどうしてだろうか?戦争と開発と同化の三角形において成立しているのがわれわれの近代だからである。資本主義に都合よく、生命の内部(他者殺戮による自己保存)、労働の内部(限界なき開発)、言語の内部(国語という自立的一言語主義)に絡みとられているわれわれにとって、それにたいして、地球は丸いし、この地球を映し出すためにスクリーンが四角形であるのは要請されているのではないか。われわれは自身を考えるときに生物との同一性、物における等価性、言語の表象性を以って地球の全領域と関わるのでなければやっていけなくなってきた


市民が「何かのために」つくる時代に、世界史の構造の柄谷行人が分からなくなるのは、歴史が「それ自体のために」効果様式(高度な互酬)を作ると教えてくるとき(無意識の構造?)


ライプニッツ朱熹の「伏羲六十四卦方位図」の易・先天図に学ぶ‬。ライプニッツはフーコを読めば理解できる。朱子学の理解は12世紀に近い16世紀の書き下し文が助けてくれる


ポストモダンは近代の普遍主義を批判するとき、ライプニッツにおいて成立した普遍主義の分析からはじめた。ライプニッツに影響を与えるのが朱子学だったことは知られている。朱子学ライプニッツの理解に役に立つ筈なのだ。だからといって、現代中国語で読む中国哲学の専門家が近代主義的に解説する『朱子語類』は容易に理解できるものではない。これと一緒に、子安先生は朱子の12世紀より近い16世紀の注釈学が書き下した朱子を読むことをすすめている。その場合近世の注釈学を理解しようとすれば江戸思想史を参照する必要がある。近代における普遍主義の物の見方を確立したライプニッツ朱子を結びつけるのは、永久革命的な普遍主義を批判するポストモダンにおいてである。ノマドジーの理解が深まるかもしれないとおもっているけど‬?




「宗教としての資本主義」?


宗教からの自立が知識人が知識人であるゆえんですから、「資本主義としての宗教」について考えることは一応思想がはいっていることになっていますが、宗教が先行する形で、資本主義と宗教の順序をひっくり返すと、「宗教としての資本主義」に、何処にも思想がはいっていないようですが?あるいは人類学的に可能かもしれません。その場合でも、海外では「世界宗教」を授業で勉強する高校生ですら国家神道が宗教であると知っているのに、日本知識人は知らない感じがするのです。これが問題です。


日本ジャーナリズムとアカデミズムが黙殺した『日本人は中国をどう語ってきたか』(子安宣邦氏)を言説の意味を理解した読者が中国語翻訳で読み始めた。つぎに何が起きるのか?


イラク戦争以降原理主義が蔓延る英国でベストセラーになった’簡単に理解できる聖書’みたいなハウツー本に危機感をもった左翼リベラルに、ジジェクは聖書を読め、ユダヤが神をやっつける方法が書いてあるのだからと言った。これと同じ事態が、古事記解説本が書店の棚に溢れる日本で起きている。「三種の神器」はwikiの記述によると、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊邇邇芸命)に授けた三種類の宝器であるところの鏡と剣と玉(璽)とある。記号論を批判するポストモダンから考えると、「三種の神器」は物である。近代の見方では物から統治権の記号が離れているけれど、反近代(という近代)はこれと別の見方をする。記号が物と一緒にあるのだ。「三種の神器」が統治権である。「三種の神器」を持つものが統治権をもつ。『平家物語』で失われたと記されているこの語りも物である。だから、このことを踏まえたうえで、信教の自由と政教分離三権分立憲法を越える統治権を自己のものとして主張する復活国家神道に対しては、何を言うかである。日本国の支配者であった天皇からお預かりしたというが、よろしい、では『平家物語』で失われたと記されている「標」を見せろと要求したうえで自由に喋らせてくれと主張するのが古代において神(国家)をやっつけた方法‬と思われる。


ジジェクの言う通りにしたらファシズムになるかどうかは分からないが、精神的従属に正しく抗議する人である。その彼が中国におけるチベットの問題を語らない。完璧な思想は無い..


 理念的カントの後に来るのは 物としての再構成を考えたヘーゲルマルクス。彼らにおいては再び労働と精神の表象的記号が物の一部をなした。思弁(労働と精神)の中に在る拘りと闇の中における即自の古代からの呟き。デリダが問題にした声の近代


ジェイムス・ジョイスです。彼が書いた英語について説明しようとすると大変ですね。まず日本の読者からは彼の母国語?とみなされているアイルランド語は事実上消滅してしまった言語で、19世紀後半からの20世紀においてゲール文芸復興運動のなかで規格化されたものとして復活するのですが、消滅した言語とそれが担う文化は決して蘇ることはないというトラウマがアイリッシュにあるようです。文字をもたなかった古代ケルト語の文章は読めないのです。読むことが不可能であるというのはジョイスの文学の最大のテーマですし、現代演劇のテーマになります。(12世紀の『朱子語類』を読むためには、17世紀の江戸時代の儒者の書き下し文と現代中国語の訳とが必要です。その場合、書記言語である文字があったから読める可能性があるというか。比べると、古代ケルト語はオガム文字やラテン語の文字に写されていますが、言葉を話す話者がいなくなってしまうと。YouTubeで古代ケルト語の勉強を興味深く教えていますが)アイルランドの英語は、ゲール語と16世紀のイギリス植民者が持ち込んだ英語と英国の地方言語のミックスから出来ています。演劇と文学の領域で発展したHiberno Englishの存在が知られています。しかしジョイスが書いた英語はスタンダード英語で、べケットと同じ英語ですね。と、ここまで書いてききて、何だ?標準英語なの?という感じでガッカリしますかね。しかし「ただの..」だから大切かも。最期に50数カ国語を使って書いた作品は有名ですが、一行も何語で書いたかがわかりませんが、しかし注釈と注釈の注釈を利用して一生懸命読めばやはり標準英語がベースになっていると思われます(意味を伝えたいのでしょう)。と、ここまで書いてきて、これでは何も説明していない気になってきました。ほんとうはここから説明を始めなければいけないのですが


雨月物語』を読むと死に場所のない近代を考える。魂は肉体を住処としていたように、生者に伝えたい死者の言葉は建物とともに在るが、建物はそれほど堅固だろうか(廃墟と化す)


政治学者は失望感から彼がファンである歌手を罵倒しただけで、その他大勢を罵倒したのではないし、何処にも寄生しているおまえなんかを罵倒していないのだから橋下は黙っていろ!


‪住民は生活に必要がなくなったからゲール語を捨てたと『ユリシーズ』のジョイスは考えていた。英語をみる見方を語っている。住処である言語は住処だがそれほど固定的で確実な建物にあらず


バーナードショーはジャンヌ・ダルクを書いたが、農民の彼女が複雑な言語環境にいたことを知りながらながらも、必ずしも諸言語の境界線にいたジャンヌ・ダルクを描いていたわけではなかった。彼女は何語を喋ったのかが舞台で問われることはない。しかしあえて問う。彼女は何語を喋ったのか?フランス語だろう。しかし英語、しかも英語しか喋れなかったとしたら?この可能性は非常に低いが全くゼロに在らず。変なことを言うようだけれど、仮にそうだと考えたら何が言えるか?英語でも存在は「フランス」の本質に先行するとかね。この思考は思考のためのもので、リアルではない?だけれどポストコロニアリズムの時代は、自立的一言語主義(国語)のほうを想定するほうがリアリティが低いのである。多分、フランス語も英語も存在しない。フランス語をみる見方、英語をみる見方しか存在しないのではないか。住民は生活に必要がなくなったらそれまでの言語(ゲール語)を捨てたと『ユリシーズ』のジョイスは考えていたようだが、これも英語を語っているよりは、英語をみる見方を語っていると考えられる。‪言語は住処だがそれほど固定的で確実な建物にあらず


香港の若者をみると、わたしは彼らの考えがそれほどはっきりわかるわけではないのですが、香港はイギリスの植民地でしたが、その植民地時代に限られたものでも何か自由があったのでしょうね、そうおもうところがあるわけです。そうだとして、その自由の感覚はもしかして香港の英米法の裁判制度と関係があるかもしれないとおもってこの厳しい事態を観察しています。ジョイスアイルランド語を読めたかという質問ですが、ダブリンの十人ぐらいの研究者にたずねると、思われているよりもアイルランド語ができたと答えてきました。マーティン・スコセッシはニューヨークでジョイスを読んでいたと聞いています。ジョンケージを頂点とする前衛のジョイスですね。アメリカだけでなく、『蜘蛛女のキス』のプイグとかの南米の作家たちに影響を与えるようです。80年代の充実した翻訳が世界的に読まれるようになって、関心はデリダ脱構築的読みに行きました。わたしが90年代後半にアイルランドに行ったときは、サイードとは別の、アイルランドの読みー神話的リアリズムーが課題となっていました。ジョイスは批判精神が旺盛で、(奪う)土地を求める帝国主義も、(奪われた)土地を求める反帝国主義ナショナリズムも、土地を求める限りにおいておなじだという痛烈な見方をします。こんなことはアイルランドで口にしたらいのちが危ないですがね(笑)。ジョイスは自分で決めた亡命をします。それは政治的な理由ではなくて、貧しいアイルランドに仕事がないからです。パリに集まった亡命知識人と作家とはちがって、ジョイスは大陸で英語を教える今日で言う日雇い労働者でした。ユリシーズ』はイタリアのトリエステで書かれました。研究者が知りたいのは、トリステにおける彼のユダヤ人の友達の友達がカフカの友人で、当時ジョイスカフカの原稿の一部でも読んだ可能性ですね。しかし中々はっきりとはわからないようです。ところでこの見方については、議論があるでしょうが、中国は保守派(左派)とリベラル(右派)との対立があると言われることについて考えます。両者とも台湾の独立をみとめないという点では一致しているのですね。現在は絶望的になってしまいましたが、リベラルに過大にそれほど期待していいかとかんがえたりします。われわれは中国から逃げてはいけません。もしジョイスが生きていたら、たぶん、言語支配者の中国とどういう関係をとるか、その戦略を考えるのではないでしょうか。言語支配者における正しい「始まり」は自国中心主義ではないような隣国との関係(それと隣国同士の関係)の普遍を確立することにありました。


もしジョイスが生きていたら言語支配者(漢字)の中国とどういう関係をとるかその戦略を考えたのではないか?言語支配者における正しい「始まり」は自国中心主義ではないような隣国との関係(それと隣国同士の関係)の普遍を確立することにあったと主張するかも


『監獄の誕生』でフーコは分割を考えることへの関心を書いた。『言葉と物』は秩序を考えた。常に秩序に裏側があることも含めて。『監獄の誕生』においては死に場所のない近代を考える。これはわたしの理解であるけれど、魂は肉体を住処としていたように、生者に伝えたい死者の言葉(「言説的なもの」)は建物(「可視的なもの」)と共に在るが、監獄ですら建物はそれ程堅固でない。「言説的なもの」と「可視的なもの」は独立しているからだ


日本ロマン主義ケルト万歳と同様に理念性がないのは、ブルジョワが彼らが滅ぼした貴族への同化だからか。そこに貴族が僧侶と共に権力としてもった圧倒的な知識のリアルが消される


昔は難しいことを難しく考えていたけれど、最近は難しく考えられなくなってきていて、難しいことがわかる。また、この人は理解する為には何の知識が必要なのか考える。これが簡単ではない


ギリシャ演劇を読むとわかることは、ギリシャの思考とは、視たことを自由に喋る精神だったとおもうのよね。この思考はギリシャ演劇を翻訳したルネッサンスにおいて復活する。映画の思考もギリシャの思考。演劇は解釈の秩序があるけれど(古典劇の時間の進行と共に認識の拡大が起きる構造による)、映画を見終わったあとのお喋りのどの視点も対等で権威はなくて民主的(映画においては時間の進行と認識の拡大は互いに独立している)


ケルトの文化を学問することは何の問題もない。学問を大いにやっていただきたい。ただ、言説「ヨーロッパの古層にケルトがある」の政治化にアイルランド知識人は危機感をもって警告していたことをわたしは知っている。台頭してきた極右翼を助ける可能性のあると心配される、ヨーロッパのアイデンティティを表象するケルトに文化の他者性はあるのか?文化を語るとき政治を切り離すことは倫理的に不可能だろうとおもう


日本ロマン主義ケルト万歳と同様に理念性がないのは、ブルジョワの彼らが滅ぼした貴族への同化だからか。そこに貴族が僧侶と共に権力としてもった圧倒的な知識のリアルが消される。日本ロマン主義から日本を取り除けば国家より大きな芸術になるし、ケルト万歳から万歳を除けばアイデンティティの表象に包摂されない宇宙の劇場にな


評価しない10%にいる私の見方は「みんな」を代表しているとはいえないが、安倍は右翼的に「みんな」と繰り返しただけで、決して「人類」と言うようにはならなかったね


方法として、EUヨーロッパをモデルにする「東アジア漢字文化圏」は、EUヨーロッパにたいする異議申し立てで難しくなったが、尚意義深い物の見方であるとおもう。問題は、「東アジア」は中国が命名した限りにおいて、中国としてのアジアのアイデンティティを表象する実体に陥る危険がどうしてもあること。わたしは漢字に文化の他者性はあると考える者である。今世紀にはいって、言語支配者の中国がマイナー言語(「日本語」)における漢字と漢字論に関心をもつようになってきたことにも注目している


ギリシャ演劇を読むとわかることは、ギリシャの思考とは、視たことを自由に喋ることだったとおもうのよね。この思考はギリシャ演劇を翻訳したルネッサンスにおいて復活する。映画の思考の基本はギリシャの思考。演劇はやはり解釈の秩序があるけれど(古典劇の時間の進行と共に認識の拡大が起きる構造による)、映画の場合は視たことを語るお喋りのどの視点も対等で権威はなくて民主的といえば民主的かも(現代映画においては時間の進行と認識の拡大は互いに独立しているから、認識のヒエラルキーが起きない)


冤罪は国家犯罪と呼ばれた。戦争の処刑を思わせる死刑制度は戦後直後には反対が多かった。国家犯罪はなくなったー冤罪は一切なくなり死刑も当然、ついでに戦争もなかったとされるのだろうか


今日スタバのテーブルにいたら久々に積分少女を見た。退屈しているこの子も大学にはいったら同級生もわからずオンライン講義かあ。週に一度、4、5人で通風性のある場所に集まって、集まるのは同じ学部学科である必要はなくて、何を視たか自由に喋るといいんだけどね。天下にむかって自由に喋ることが課題


オンライン講義でもいいが、週に一度は、4、5人で通気性のいい場所に集まって、同じ学部学科である必要はなくて、何を視たか自由に喋るといいよ。年齢差があった方が面白いか


フーコが分析した規律空間の大衆=聴講者の体制に戻ってもね。オンラインに丸投げせずに、多分古義堂での講義もそうだったが、寺子屋での師範と子供の一対一のあり方も試みては?


お札に電話番号をメモするのはお守りの中を開けるような躊躇いがある。だが躊躇なく天の言語ー普遍言語ーを囲い込んで公の言語ー諸言語(日本語等々の国語)ーを登録して汚している


東京の大学で東京リベラルと一緒に国のリベラルと一線を画するのはいいのだけど、地方出身者と出会わずにオンライン講義だけだと、地方を差別している問題を考えられるのだろうか?


何というか、『惑星ソラリス』の宇宙船の他者と接触せずに脳のなかの記憶を物質化している空間になってくるのではないか


ギリシャの思考とは視たことを自由に喋ること。この思考はルネッサンスに復活する。そして博物学フランス革命は天下にむかって自由に喋らせてくれと求めた。これこそアジアの課題


儒家的に投射されるアマテラスは、幕末の知識人的活動家にとって、国の形を視ることによって、天下に視たことを自由に喋るアジアにおけるギリシャの思考とフランス革命だったのか


文献学的には『論語』に孔子の語った言葉は無い。だが解釈学的近代を脱構築するポストモダン的に、原初的テクストが存在すると受け入れた上で読む、僧侶でも軍人でもなく皇帝の立場でもないような、孔子の言語遂行的な言葉は何だろうか?日本人が考えてこなかった知識人の亡命のあり方を理解する必要もあるのではないか


映画でも描けないほどのこんな馬鹿なひとがなんで世界の最も権力のあるところにいるんだろうか?映画の側で描かなかったから現実界にいるのか。否、映画と現実世界は溶け合っている


ヒンデミットの音楽はゴダールの映画に使われる理由


「音楽が引き起こす反応は感情ではなくイメージ、即ち感情の記憶である。夢、記憶、音楽への反応…これら三つは同じもので出来ている。絵画、詩、彫刻、建築物…それらは音楽と対照的に、感情イメージを解き放たない。その代わり本物の感情に訴える。」(ヒンデミット『作曲の世界』)


後期水戸学の言説は朱子学的言説に線を引くことができるが、それほど統一性あるイメージだろうか?儒家的アマテラスが投射される。それは明治維新の近代を準備したが、近代ではない


朱子同一性と差異性を語る「古典主義」(フーコ『言葉と物」)だとすれば、伊藤仁斎のこの言葉を読むと、仁斎は人(人間)が中心を占める「古典主義」。一方は普遍主義であり、他方は普遍主義の脱構築的否定だが、考古学的にはこの二つは同じ地層にある。しかし近世の仁斎は注釈学を保ちながら「卑近」を言うとき、思弁的ではなくて、近代のカント批判学の有限性とパラレルである。仁斎の学問は表象の限界に直面しているようにみえる(性の概念をすててしまう)。もっと現在の経験を重んじるわれわれに近い地層に出ようとしている。外部から普遍主義をみる思想闘争は外部の思考である。だけれどアジアに普遍を断ち切って西欧の普遍だけに行く明治維新の近代からすると、この思想闘争を、この思想闘争を、連続性が絶たれた、封筒のように自らを折り重ねる思考の平面として放置するだけである


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‪「天下地より卑きは莫し。然れども人も踏む所地に非ずということ莫し。地を離れて能く立つこと無し。況や華嶽(かがく)を載せて重しとせず、河海を振(おさ)めて洩らさず、萬物(ばんぶつ)載するときは、即ち豈(あに)その卑きに居(お)るを以て之をかろんずべけずや。惟(これ)天も亦然り。人惟蒼蒼の天を知って、目前皆是天なることを知らず。天は地の外を包む。地は天の内に在り。地以上皆天なり。左右前後も亦皆天なり。人兩間(じんりょうかん)に囿(ゆう)して居る。豈遠しと謂うべけんや。」(伊藤仁斎童子問』)‬


寺山修司はちょっとなに言っているのか分かりませんが、死を観念化できる稀な世界思想性とはこういうものかもしれませんね。

「過去というのは「死の市」です。しかも完成品です。怒りによっては決して復元され得ないみごとな彫刻のようなものです」


『監獄の誕生』でフーコは分割を考えることへの関心を書いた。『言葉と物』は秩序を考えた。常に秩序に裏側があることも含めて。『監獄の誕生』においては死に場所のない近代を考える。魂は肉体を住処としていたように、生者に伝えたい死者の言葉は建物と共に在るが、監獄ですら建物はそれ程堅固でない。


「共生」という曖昧な観念。日本ネオリベは自粛的網目の包摂によっておなじままでコロナと共生しようとしているのだろうか?再び新しく、多孔性としての等価の交換(グローバルに繋がる活動性)の意義を考える。ここには、言語の存在をどう語るか、そして動植物の生物たちをどのように語るかの問題がある


英国発信の根拠ありそうな、富裕層階級が労働者階級を攻撃するネオリベ像の言説は、日本知識人が過剰に言うと、天皇の階級を超えた視点に依るべしの根拠なき話に嵌る危険がないの?


政府は国会の審議する権利を尊重すべきことは当然なのに、安倍政権は国会に審議を行わせないのは何の根拠があるのか!?

憲法53条は、衆参いずれか4分の1以上の議員から臨時国会の召集の要求があった場合、「内閣は、その召集を決定しなければならない」と定める。


なんか、起源なき廃墟をたたえる生き物たちが地球の表面を為す水のなかに溶け込んでいくように見えてしまった。かくも自然は連続しているし連続していなければならない。博物学は表象の記憶だとフーコは言う。それは言語と似ているといわれる。言語も表象を記憶する。そこで言語は自らの傍らに言語をみる見方を配置している。古典主義における言語は表象を介して記述するだけでなく自らのあり方を正当化しなければいけないのだった。

下は荒俣宏『大博物学時代』の頁より


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日本会議文化人の「日本人の心」は漢字文化の他者性も否定する。「靖国神社を戦争神社と言ってはばからない文化人もいます。彼らは日本人の心をもっているのでしょうか」百田尚樹


マスコミが戦争神社と名指す靖国神社への公式参拝憲法が問題とする<公の世界>に関わる。<公の世界>に、「日本人の心」という<私の世界>をさがしても無い。あってはならない


中世の神道家は朱子学を以って『日本書記』を読む解くコードにしていたほど漢文の中に立っていたのに、漢文を要らないと主張する百田尚樹は安倍と同じで伝統をもたない似非保守主義


長く生きることを諦めよと告げる大袈裟な死神の声が聞こえてくるけれど、これも五反田の「世の中は東さんが言う通りになっている」と話しあう信者を除いてエンターテイメントである


ボードリヤール:商品・モノをシミュラークル(指示対象である実在やオリジナル・コピーのない記号)概念で読み解き、生産の終焉と象徴交換を語り、さらに現実世界・主体の不在へと展開し、湾岸戦争など時事的なテーマをモノ・現実とリアリティの観点から論じた。著書『象徴交換と死』など」(哲学botより引用)

湾岸戦争は無い、イラン戦争は無いとボードリヤールをひいて発言するひとたちはシニカルすぎるとおもう。戦争は存在していたのだ。ただ国家が解釈のなかに存在しているように、その国家が行う戦争も解釈によっては、存在しないのである。例えば国民が解釈改憲を容認しているので、自衛隊が米軍とともにどんな軍事演習をやっていても、戦争は存在しない。そもそも自衛隊は軍隊ではないから戦争できないはずだ。しかし戦争しているならば、憲法違反の武力威嚇をしているのだから、これは「見えない戦争」である。戦争を止めるために、「見えない戦争」を可視化しなければならず、そのためにはどうするかである。


中学生のときは、「ポンタは漫画家になれ」と友達からよく言われたものです。しかし枠のなかに描くのがちょっと難しく感じられました。わたしの絵は余白に佇みたいのです。それから、風船のなかに文を閉じこめるのががどうも..。漫画とは何でしょうか?漫画についていい加減なことを書きますが、漫画というのは、漫画が論理的順序で成り立っている証拠に、下から上へと読んだら意味がわからないでしょう。先行する初めというものが只上にあるのが漫画の面白さですね。四コマ漫画も漢文も上と下の論理的順序があるのです。また漫画には時間的順序があって、初めにそれほどはっきりと認識できる状況が指示されていないが、どんどん読んでいくと知識が増えていく認識の発展は古典ギリシャ演劇(例. オイデプス王)を読む場合とおなじですね。わたしの欲望なんですが、漫画として表象されているものを、論理的順序と時間的順序から解放したいのです。そして、それを「これは何々である」という文を書きたいのです(いまその文を書いています)。表象の表象、だけれどこれでは、漫画にならないですかね。「これは漫画ではない」というのなら何が漫画なのか?(笑)


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ばらの騎士』RosenkavalierはR・シュトラウスの作曲したオペラ。今日東劇の映画オペラでみた。音楽の場面を確認してハプスブルク家帝国の終わりを読むことができた。安倍近代における「さくらの騎士」の軍国主義的「父」への唐突な帰還で、「女」も、「男」になった「女」も、「女」に戻った「女」も『ばらの騎士』において描かれた不幸を感じただけだ。安倍政治がこの道しかないと言ってきたこの八年間、外部的批判を失った日本人になんの感性の成長もなかった。テクノロジーと経済と開発はどんどん進むが、自由に政治を批判する権利がないままではないか。ポスト安倍首相候補のリストでも正面から安倍を批判したことがない人達ばかり


推敲中

五百年間のあいだに書かれた芸術理論の1000以上の文を読んでいくと、どの作品がどの文によって言及されているのかという関心がなくなった。言説から言葉を奪回できたアートは物で書かれたものとなるのか?物で書かれたものを読み解く言葉がない。書かれた言葉ならば注釈によって二重化するところを、物で書かれたものは沈黙している。と、それらがトータルに言語の実在と関わっていることに驚く‬。関わっているというのは、互いに独立しているということ



推敲中

ポストモダンヘーゲル感染のワクチンだったはずだがどうもワクチンが足りていないようである。ヘーゲルとはなにか?ヘーゲルの言語は近代を体系的に示した。その言語の全体の表象が成り立つ為には、言語が「精神」(Geist、Spirit)として書かれる姿をー『百科全書』とは違うやり方でー思い浮かべなければならない。問題は、「精神」とは前近代的な他者であるときに、近代は自己の中でその内部に沿ってそれが否定する他者を見ることができるかに存する。これは、全体構造が齎らした不可能性を解決しようとして、再びその全体構造に依拠しようとするような他者なき同一的反復の悪夢である。ワクチンが必要だ。