昭和の8月15日を考える

‪何が終わったとする記念日なのでしょうか?「戦」が終わったというのならば、「戦」とは何だったのでしょうか?アジアで2000万人の命が犠牲になったことを考えるとき、ファシズム軍国主義が一緒の方向を向いた「普通の国」の正しい「始まり」をもたない歴史を考えない訳にはいきません‬。基本的には、<祀る国家は戦う国家である>と考えています。「普通の国」になれ、当たり前じゃないか、とこの国の政治家達はいいますが、「普通」の国に戻ってはいけないという誓いがあった明日はこの意味を考える日だとおもいます。「普通」の国だったときは50か国以上と戦争しました。戦後に49ヵ国と平和条約を結ぶ必要がありました。アメリカのマスコミから「戦争神社」と呼ばれる国家神道も復活させてはいけません。が、日本アカデミズムは国家神道の定義を非常に狭くして、(明治維新のときに神祇官を復活させた時期を以って国家神道の問題があったとする)、日中戦争と太平洋戦争の戦争と国家神道は無関係と解釈し始めたようです。しかしそうでしょうか。これでは「普通の国」が自身を正当化しているようなものです。‪’常に例外はある。だが偶発事に、思考に値すべき歴史の普遍はない’、と‬。これに対しては、アジアで2000万人の命が犠牲になったことを考えるとき、ファシズム軍国主義が一緒の方向を向いた歴史を偶発事と言ってしまっては倫理的に済まされないことをどうしても考えるのですね。

終戦記念日は、嘗て憲法に書かれなかった「祀る神は祀られる神」とする現人神の天皇ファシズム軍国主義で生じた戦争をやめるという戦いを終わらせる日になってはいないでしょうか