津田左右吉はどのように「明治維新」を語ったか。「第一章  『王政復古』の維新  津田宗吉『明治憲法の成立まで』を読む」 子安宣邦氏著「『維新』的近代の幻想」(作品社)より

津田左右吉はどのように「明治維新」を語ったか


「第一章  『王政復古』の維新  津田左右吉『明治憲法の成立まで』を読む」

子安宣邦氏著「『維新』的近代の幻想」(作品社)より


 

「いわゆる王政復古または維新が、その実少なくとも半ばは、皇室をも国民をも欺瞞する彼等(イワクラ・オオクボら)の辞柄であり、かかる欺瞞の態度を彼等が明治時代までもちつづけてきた証跡が見える。」

 

さて、津田左右吉が「王政復古」と呼ぶものはなんであろうか。子安氏はつぎのように説明する。「『王政復古』とは『明治維新』という近代世界に向けての日本の変革を方向づけ、性格づけていった重要な政変である。」「薩長両藩の討幕派という武力的政治集団による政権奪取の政変であった。それゆえこの政変を歴史家は『王政復古クーデター』ともいうのである。」

政権奪取者は、便利なスローガンともいうべき神話を利用して、その神話としての「明治維新」を自らに都合よく政治的に現実化した。

「『王政復古』が武力討幕派によるクーデターであるならば、『王政復古』とはその政権奪取の政変を正当化し、慶喜ら公議政体派を政治的にも屈服させる政治的理念的な標語だということになる。たしかに神武創業という神話的古代への回帰をいう『王政復古』とは、この政権奪取者たちにとって理念的にも、また現実的にも最も望ましい政治標語であったであろう。なぜなら『王政復古』という神話的理念の政治的現実化は、すべて政権奪取者の恣意に任せられることになるからである。」

政権奪取者が行った神話としての「明治維新」の政治的現実化が、それを「王政復古」として覆い隠し、われわれが近代化の別のあり方を考えることを不可能にしてしまう。はたして、「王政復古」という呼ばれることになった「明治維新」は近代日本の「正しい」始まりなのか、という脱神話的問題提起がここでなされているのである

私は子安氏の講義を聴き、神宮外苑聖徳記念絵画館を見学したが、そこに掲げられた饒舌な説明の言葉に沈黙させられた。「明治維新に始まる近代国家日本の形成過程が明治天皇の聖なる事績として絵画化され、「壁画」群として展示されている」。日本人が希望をもって、これら「壁画」群を観るために集まる未来とはどういう未来だろうか。「壁画」群に、公=国家を超える天というものはみえない。薩長を中心とした「私」としての有力な封建的権力である連合反幕の運動が表象するものは、「明治維新」が「王政復古」であるという言説である。一方、武力的権力奪取(クーデター)に先行するかたちで、横井小楠の「天地公共の道理」において説かれたような、西欧と対等で自立した普遍性に依拠する別の言説が幕末に存在していたことが、次章にて論じられる。

子安氏は、「明治日本の帝国的国家形成を『王政復古』=『天皇親政』という歴史的理念の実現史として描き出す」「壁画」郡を、「『王政復古』と題されたスキャンダラスなクーデター的事件の始まりというべき場面の図」と分析している。

この「事件性を島田墨仙は岩倉具視の野卑な権謀家的風貌の上に表しているように私は思われる。その岩倉に正面して座する山内容堂の端然たる姿に画家はむしろこの歴史的事態における正しさを写し出しているようだ。」そして、「津田の明治維新をめぐる諸論によってはじめて、『王政復古』が武力討幕派の策謀によるクーデターであったことを、そしてこの事件が日本近代国家史の上に重大な刻印を強力に捺していったことを知ったのである。」つまり、津田にこのことを教えられるまで、子安氏は「王政復古」を「明治維新」と等置して疑うことはなかった、というのである。

「『維新』的近代の幻想」では、聖徳記念絵画館に端を発した、いわば、イメージの「王政復古」批判から、国史教科書の「王政復古」批判へと議論は展開され、昭和戦争時の国史教科書「初等科国史 下」(昭和十八年三月発行)の「明治の維新」章の「王政復古」についての記述が取り上げられる。そして、「この『国史』教科書は、聖徳記念絵画館とともに、『王政復古』=『天皇親政』的史観が昭和日本の制作物であることを告げている」ことを説き、「だが明治維新による日本の近代国家形成を『王政復古』=『天皇親政』的理念の実現と見るような史観は、一九四五年の皇国日本の敗北とともにはたして消滅したのだろうか。」という問いをわれわれに突きつけるのである。

戦後の日本人にとって「明治維新」とは何であったのか。子安氏によると、大学紛争は「近代の政治・社会制度的な遺物としてある大学の学問的制度的体系を解体的」に批判した。そして、生じた問題とは、「原理主義的性格を持った闘争」に導かれた学生たちの解体的批判が、内部抗争と暴力と自滅の末受けることとなる制圧ののちに起きた「合理的経営体であることを要求する大学改革」の結果、大学が持つべき抵抗する知という内部の力をも失わせてしまったのではなかったか、ということである。「明治維新150年」を迎えた現在、「明治維新」に始まる「この近代」そのものを問うことがない日本近代史家のような歴史家たちによって、ジャーナリズムとアカデミズムは「明治維新」を「蝶蝶と」語っているだけであるという。ネットに、「明治維新、万歳」の声もないが、「書店を賑わす明治維新関係書」は、この50年で大学の知の発する言説の質が変容したことを物語っていると言わざるを得ない、という。

津田左右吉によると、江戸時代は事実上の象徴天皇制だったという(徳川幕府が政治権力をもち、京都の天皇は文化権力をもっていた)。天皇が政治権力をもつのは王政復古というクーデターの明治維新からである。幕末に至って、「誤った勤王論が一世を風靡し、その結果、いわゆる王政復古が行われて、皇室を政治の世界にひき下ろし、天皇親政というが如き実現不可能な状態を外観上成立させ、したがってそれがために天皇と政府とを混同させ、そうしてかえって皇室と民衆とを隔離させるに至った」。子安氏は、「津田の反討幕派的維新観が党派的な非難をこえた根底的な批判を『王政復古』的明治専制政府と国政に向けてなされていることを知る」という。さらに、「昭和の天皇ファシズムによる軍事的国家の成立を『王政復古』維新と無縁ではないと考える」子安氏は、「津田の維新をめぐる論考を大きな助けとして『明治維新一五〇年』を読み直したいと思っている。」という。つまり、昭和十年代の全体主義に帰結した「明治維新150年」の読み直しは、必然として、津田左右吉の「ラディカルモダニズム」の読み直しを必要とするのである。津田の思想が示唆する「もう一つの近代」に、現在の政治の行き詰まりを打破する論拠が存在するのである。

 

こうして、「『維新』的近代の幻想」は、思想史の自己像を示しているのであるが、フーコーは 「言葉と物」の書き出しにおいて思想史の肖像画について考えている。

「つまり、すでにしばしば彼(注、ベラスケス作の「侍女の間」の画家、つまり、言説を書く主体)の眼がたどってきた、そして疑いもなくただちにふたたびとるであろう方向 、いいかえれば、そのうえに、もはや決して消されないであろうひとつの肖像(注、王と画家自身との関係)がおそらくはずっと以前から、そしてこれからも描かれつづけ、描かれたままであるにちがいない、不動の画布の方向のことだ。」(「言葉と物」)

 

津田左右吉永久革命的 な「ラディカルモダニズム」と和辻哲郎の国体的な「祀られる神は祀る神である」という思想は、思想史的言説を形成する双極をなす。知の考古学からみると、二つは対立する物の見方であるが、音声中心主義の論理平面からみると互いに補完し合い、言説の、言説上に構成される思想史の自己像の差異なのである。つまり、津田の「ラディカルモダニズム」と和辻の「国体論」とは、生と死における関係のように二項対立的に対立している。これらを脱構築するためには、思想史を言語平面に配置しなければならない。そうして、子安氏においては、江戸思想と後期水戸学において展開した制作論の視点から始まり思想史を読み直すことが要請された。そこで、明治維新の近代は、対抗西欧の近代とともに、荻生徂徠命名制作論の祭祀国家の近代として、言説的に再構成される。また、開かれた文化である漢字文化圏の近代としてのアジアが、方法的に読み直されるのである。