MEMO

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「漢字は借り物である」か?「漢字は借り物である」のナショナルな物の見方は、漢字はいつまでわれわれのものではないという。漢字から侵略されたのであって、それ以前に固有の言語があったという。しかしそうだろうか?漢字の受容から1000年を経て、漢字は漢字仮名混淆文の成立とともにわれわれのものとなった。江戸時代に言説が豊かに存在したのはこのためである。江戸時代の前まで天皇・貴族・寺社が独占していた学問をわれわれは自立的に考えることができるようになったのである。「アジアの知識革命」は“危機”の17世紀に起きる。言説<漢字は借り物である>とは異なる物の見方を考えることが必要だ。言説<漢字は借り物ではない>で表象されるのは不可避の他者である。不可避の他者に漢字という名を付与する。そうして漢字の名において不可避の他者性の存在を名指すのである。「漢字論」は言語支配者の中国からの議論を十分に共有するとき、理念的に、これを21世紀の日本文化と考えていいのではあるまいか。新しく?、対抗西欧の近代に日本文化を発見する反復はいつまで続くのだろうか?歴史が送り返す悪夢から目覚めるために、対抗西欧の仮装をやめることにしよう


古典主義時代における「言説」の基本的任務は、<物に名を付与し、この名において物の存在を名ざす>ことである。ーフーコ『言葉と物』


La tâche fondement du <discours> classique,c’est d’attribuer un nom au chose, et ce nom de nommer leur être. ーFoucault


失ったときは失うことができる。それに代わるものをさがす必要がない。東京五輪の復興幻想を失ったのに、聖火リレーが何かの意味をさがそうとして滑る記号として浮遊しちゃっている


マンボウでも止めれないのか?聖火リレー愛国主義なるものの幻想には果てしがない


今日、戦争の目的は革命であり、戦争を正統化できる唯一の大義名分は自由という革命的主張であるというのは、ほとんど当然のこととなっている。したがって、人類が絶滅しない限りは、予見できる未来に残るのは戦争でなく革命であるというのは確かであろう。ーハンナ•アーレント[革命について』序章戦争と革命


京都に来て1970年代の吉川幸次郎講演集を読む。<外国人は規則に従う(従え)>と<わが民族は自由な思考の主体である>という帝国のオリエンタリズム的視点の分割をおもう。古学が見上げる<偽物>として、中国文学が見下される<本物>として、再構成されているような..。吉川の語りに帝国主義の視線はないが、だけれどオリエンタリズムの構造は保たれている


孔子は人間でありますが、実は神のような性質をもっていると考えられた」(吉川幸次郎、”神様のいる文明といない文明“)。ポストモダン孔子には違和感を感じる近代的言説である。


「うたかたと瓦礫」ー平成天皇の即位と譲位という平成の時代に起きた災害で表象される生きにくさ。しかしもっと、平成天皇の被災地での祀りがほかでもない政治的な災害だったーその代償として政治について益々自由に喋れなくなってきたーという点がしっかりと認識されていればアートからの異議申し立てに意味があったと思ったのだけれど


物の見方と思うが、吉川幸次郎は自分が半分は中国人という。すると半分がフランス人か。中国人とフランス人が「鬼神」論をどう考えるかよりも日本人がどう考えてきたか知りたい


宣長の古学と篤胤の神学。後期水戸学の言説は国家を制作するために孔子のような聖人を神さまとして要請したのかもしれない。理念的には神は平等を実現する人のなかに表象される至高者。問題は、王政復古の言説である。生者の権力すべて、死者を主宰する権力も、天皇に集中させてしまった。軍国主義全体主義は同じ方向をもって、アジア2000万の命を奪うことになってしまった


「言説(ディスクール)discoursは、文あるいは言表の連鎖としてまとまった内容をもつ言語表現の意味であるが、ギリシャ語の「ロゴス」logosに由来する語であり、直接的、直観的な表現ではなしに、概念作用と論理的判断をへた秩序のある表現というニュアンスを帯びていることに注意すべきであろう。」(『言葉と物』事項索引より)ロゴスに関していうと、ロゴスと表象は一緒にあるが、思考の優先順位として、ロゴスがはじめにある。ただしロゴスは、近代的に、いいかえれば、ヘーゲル的に、表象を排除するものではないのではないか。プラトンのご研究からそういう指摘をなさっている方の投稿文を昨夜読んだ。わたしの関心が、ギリシャ語の「ロゴス」logosに由来すると言われる」言説(ディスクール)においてもおなじことがいえるのではないかということ。言説と表象は、生と死は一緒にあるように、ともにある。言説は表象を排除しない。ただ、思考の順番として言説の文から考える。そしてあとで表象されるものをかんがえてみるのである。『言葉と物』のフーコが構成すえう言説はそうなっているのかすべての文についてたしかめてみたい。根気よくやってみようかなとおもう


未知の他者と出会うために、今迄は脱出する出口を一生懸命かんがえてきたのだけれど、隅々まで立ち入り禁止のようなこの時代は入り口をかんがえなければならなくなったようだ


東京五輪の根本の問題は、これからは五輪を5000億円規模にして貧しい国にも開催の機会を与える平等の理念を踏みにじった近代日本的傲慢さにあるのではないだろうか


17世紀といえば、世界システム論が語る「危機の17世紀」。17世紀にヨーロッパは外部へ出た。ヨーロッパでは芸術批評が一般の人々に読まれることがはじまったのは17世紀半ばからである。それまでは芸術批評は特権的階級だけが読んだ。17世紀にアジアも外部へ出た。豊臣秀吉の対外進出は明帝国の崩壊の原因となったといわれる。


現在イスラエルにおける軍事の圧倒的優位は米国に支えられているが、百年後は同じではない。ユダヤが大切にする教育で貢献せよ。そうすればイスラムに生かしてもらえるかもしれない


ダブリンに引っ越したとき、殆ど知らなかったYeatsの詩集を近所のコンビニで1000円ぐらいで買った


述而不作、信而好古

「述べて作らず、信じて古えを好む」


A transmitter and not a maker, trusting in and loving antiquity


「述」は祖述。「信」は、イ+言。人間が外に立っている。言葉と向き合う姿。「信」は依拠。

伝染病のこの時代、空間的に、日本脱出が難しくなった。時間的に、「古え」に脱出する。まだ権力はコントロールできない過去のテクストをどう読むか自由である


‪1990年代後半にダブリンに引っ越して1週間後に、「モロイ」のひとり芝居をテンプルバーでみた。ベケットBecketの小説を読むのは拷問みたいに身体が痛くなってくるときがあるが、小鳥が存在する外部に世界の中心を構成している


強気だったり弱気になったり... ネオリベ主催の東京五輪のギャンブル化


「嗟、天我を喪ぼせり」(『論語』)は顔回という学問の継承者を失った孔子の嘆きか、あるいは顔回と共にもう政治に関われなくなったと嘆いたか?書経的世界の「民名」は失われた「天命」の回復なのか?言語の表象的機能の古学から、『朱子語類』との関係において、「十六世紀以来忘れられていたあの生のままの存在(エートル)へとさかのぼった」のか?19世紀の復古主義における反言説的な政治神学的なものついて考える..


「なぜ日本政府は東京五輪を中止しないのか」。彼方は契約と財産権がある。此方は鎖国する権利がある。自らを排除するものを全面的に受け入れることができぬ鎖国はわれわれの伝統だ


ハリウッド映画の女優は叫ぶ。イギリスで最初に叫んだひとはいつだれかわかっている。共同体の堺で見知らぬ者に出会ったら皆に知らせるために叫ばなければいけないという掟ができた


アイルランドでは「元気ですか?」と挨拶されたとき「元気です、あなたは?」と答えなければいけない。これは、村の1キロ先の隣人の生存を確認しに出かけた飢餓の時代から始まった


「Cloch」のほうはもう忘れてしまった。いまこのビデオを再生できないし。何とか覚えていることを書くと、彫刻家が主人公で、荒野の石を前に、いつまでも仕事にとりかからない。なんかいつまでもタルコフスキーの宇宙飛行士のように自然のなかをウロウロしている(アイルランドの芸術家から聞いたことがあるが、彼らはロシアの芸術家にちかいものを感じている。) 

石が叫ぶ、「俺を外に出してくれ!」と


「言語に起源がある」は他者(=言語)を外に追い遣る。「言語に起源がない」は他者を国語に内部化して他者を内に閉じ込める。起源に沈黙する反言説(=文学)が他者との関係をもつ


「漢字は借り物である」は他者を外に追い遣る。「漢字は借り物ではない」は漢字の日本語の内部化によって他者を内に閉じる。また「漢字=エクリチュール」は他者との関係が無くなる


アイルランドが支援したパレスチナ人達は音楽を4年間勉強した後に一時帰国。ダブリンに戻って来れないらしい。死んでしまう。紛争地域を「どっちもどっち」と言う人は一人もいない


「発足後最低」というけど、「コロナ対応評価せず64%」なのに、まだ「内閣支持32.2%」もあるのはどうして?関係を断ち切ることができない。内閣支持率とは日本的情緒率


TOKYO KO


溝口雄三の中国を方法とする世界は、『朱子語類』の読みと共に位相空間の中国化から成るが、溝口が思考したことより思考しなかったことー『鬼神論』の言説ーが重要である


Only 1% of Japan is fully vaccinated against COVID-19. Is it ready for the Olympics?


「仏教の中国化」(華厳思想)とか「儒教の日本化」(古学)を考えたが、『朱子語類』と共に「位相空間の中国化」(溝口雄三の中国を方法とする世界)を問題とする必要がでてきた


「中国を方法とする世界とは、中国を構成要素の一つとする、言いかえればヨーロッパをも構成要素の一つとした多元的な世界である」(溝口雄三1989)


メディア論は、アイルランドを物語るハリウッド映画が発明した言説「アイルランド人は祖母を守る」を分析する。IRAが選挙宣伝文に利用したとき人々はそれを伝統であると錯認した


アイデンティティの政治は時代遅れか。主体無くしてファシズムと闘えるのか。だがファシズムでないものをファシズムと呼んでいないか?われわれと共にあるのは文学の思考の柔軟性


対英闘争では敵を殆ど殺さなかったのに内戦で互いを殺しあった歴史がアイルランド人は痛い。映画『マイケル•コリンズ』がラストに語る「銃の政治が終わった」は嘘のナレーション


彼方は何を考える?香港の学生達は曖昧な観念。中国共産党に対する明確なイメージをもつ。此方は自己否定の解体に曖昧な観念はない。でも自民党を拒む明確なイメージをもたない


「俺たちは豚小屋のブタだ」

自由なのに、いきなり、だれも部屋から出れなくなった。だれも帰らない。内部に絡みとられるブルジョワ社会。日本近代の部屋も出れなくなっっている(『皆殺しの天使』)


ゴダールがもっているのは、入院中に彼が発明した「オーディオ・カメラ」


わたしの一番好きな映画。アンヌ= マリー・ ミエヴィルの力がなければ間違いなく完成しなかった作品。フェミニズムのグループはもっと彼女の役割を明確にすべきだと要求している。『カルメンという名の女』(1982)は、病院の花壇にいるゴダール自身の姿から始まった。ビゼーのオペラは口笛だけ。寧ろ映画はベートーベンの音楽で成り立っている。銀行襲撃の場面で男女が出逢うが、彼らのこの絡みあいは彫刻を表象させる。そして二つの直進的系列。音楽の系列を為すベートーベン弦楽四重奏曲9番、10番、14番、15番、16番と、自然の系列を為す夜明けの波たち。彫刻的なものを映画と呼んでいるようだ。


不均衡のままに成立する安定もあれば、見よ!均衡のままに成立している不安定を。映画『カルメンという名の女』は光と闇とが均衡している。映画の中にゴダール監督自身がいる。人々はゴダールと共に明るく照らされる自らの場所を見る。ゴダールは彷徨っていて、視線を画面の端の隠れている闇へと誘う。均衡のままに成立している不安定さ、これがリルケの美とおなじものを形成するとわたしはおもう。


A Sports Event Shouldn’t Be a Superspreader. Cancel the Olympics.


古事記』の漢字を「借り物である」と考える必要がない。漢字を自分たちのものして思考できるようになった後に、「借り物である\ではない」をめぐる言説を議論しているだけ


『ケルズの書』のラテン語は「借り物である」と考える必要がない。文字の装飾は、ラテン語を自分たちのものにして思考できるようになったという意味で言語の存在をたたえたのだ


アイルランドで一番衝撃を受けたことは、歴史的な巡礼地ツアーで無名のひとの墓標を読み上げていたことであった。コスモロジーがあり、解体されてはならないエクリチュールがあった


参加国の数からいうと、サッカーのワールドカップのポストコロニアリズム世界の方が、金持ち国の社交クラブ<五輪>の近代よりも「普遍性」がある


MEMO


17世紀以降、世界は、人間は、どう変わったのか。人間が世界を考えることが始まった。つまり世界は有限な人間の知にもとづいて語られることになった。有限なものは無限なものを認識できるか?これに答える理念性の言説の成り立ちとともに、思考可能なものが近代において再構成されたのである。だけれど、思想史にとって、常に問題となってくるのは、思考可能なものが語らない思考不可能なものを語ることについてである。このとき、根源的錯認を語ったデカルトは重要であるようにおもわれる。


ワクチンも足りないが、怒りも全然足りない


近代の成立は虚構なくしてはあり得ないが、ヨーロッパは行き過ぎた虚構性(例. ホロコースト)を否定している。トランプの時代の「ファンファジー•ランド」(アメリカ)は過剰な虚構性を拒まないという。比べると、近代主義者からみるち、近代日本は虚構性が足りない。理念性が重んじられない。理念と無関係である肉体の真実に絡み取られる。たとえば、五輪は隅々まで理念的虚構性なのに、肉体の真実そのものであるという錯認のもとで、東京五輪をやめられない。こういう風に考えることは間違ってはいない。しかしもし虚構性/理念性は西欧におけるものと考えてしまうとしたら、それは近代のオリエンタリズムだろう。もっとこれから考えていきたいとおもうのは、ポストモダンのアジアにおける虚構性/理念性とはなにかである。戦前のアジア主義日中戦争によって破綻した。この反省に立って、方法としてアジアをグローバル•デモクラシーのあり方とともに考えてみることは意味があるだろうとわたしは考える。方法として思考する外部の思考を力の場Force fielと名づけることには反対しない


西欧と異質な日本的なものは力の場Force fieldであるとポジティブに語る人に聞きたいが、柳田邦男的な個を消去するような共同体の村に本当に生きたいと思うのだろうか


フーコの「ドンキホーテ」の分析は有名だが、ほかに、Madというのは、一度も会ってないその人をよく知っているし、逆にずっと会った人を全く知らないのである。Madの間違いは偶然による。詩人も間違える点でおなじだが、過去から大きな世界を初めて現出させることができる。これは必然のような世界である。ここで考えてみる。多分聖人を天皇とした復古主義はMadではなく詩人だった。過去を所有したい復古主義にとって、問題は、過去がラディカルに測り知れないほど大きすぎることにあった。この大きさは荻生徂徠宣長における言説空間において構成されているのだけれど。「王政復古」や「対抗西欧の近代」が囲いこむことができない。


箱根オフィーリアと呼んでいる母がいて、きょうはmadの日である


近代日本は古学からしか生まれなかった。復古主義は過去を所有し植民地化したかった。だが無根拠な過去はラディカルすぎる。復古主義は王政復古でも対抗西欧の近代でもありえない


日本国家は精神分析して貰う必要がある。かくも五輪開催にこだわるのは何故?無意識に、まだ対抗西欧的に、西欧を支える彼らの過去を植民地化する欲望の近代に絡み取られている?


2022北京五輪のことを考える。マルクス・ガブリエルが言うように、中国に人権のことを言っても耳を貸さないだろう。ヨーロッパは何もできないと彼は言う。これについてチョムスキーアメリカは何もできないとはっきりと語っている。しかしガブリエルは日本は漢字が読めるのだから中国と対話できるはずだと指摘する。だから中国を孤立させずに中国と対話できるのは日本だという。これについては、漢字支配者である中国は、漢字マイノリティの日本が漢字を自分たちのものにして思考できるようになったこと、そして中国論の言説を展開できたことに関心をもっているようにみえる。たしかに、対話の可能性はある。

ガブリエルは漢の時代に注目しているようだ。漢字の「漢」は、「漢」の「漢」である。帝国の支配を正当化してきたものこそは漢字なのである。しかし現代もそうであるか?ここに根源的錯認があると言わざるを得ない。現代中国の漢字はどんどん音声化しているからだ。つまりそれは一国家の国語(母国語)となっている。アジアの国々にとって、問題となってきたのは、アジアにおける帝国の支配ではなく、アジアにおける一国支配なのだ。

中国との対話が重要だとマルクス・ガブリエルが言う。中国を孤立化させるなと。ポストモダン中国が自らのアイデンティティを置く宋の時代の思想を研究して議論できることが大切となってきたのだ。

あらためてアジアとはなにかおもう。アジアは漢字文化圏であり、祖先祭礼のコスモスロジーをもっている。もうひとつ、破綻した対抗西欧の近代(=日本)をもった。アジアは国家祭祀を止めることを書いた憲法をもっている。逆に、漢字文化圏における国家祭祀を禁じた祖先祭礼のコスモスロジーをアジアとわたしは呼ぶのである。


貴族は奪う。言説「バッハ会長はぼったくり男爵」で表象されるのはこれだ。しかし産業革命の敗者である貴族は農民と同じような発想をもっている事実にオスカー・ワイルドは驚いた


中国との対話が重要だとマルクス・ガブリエルが言う。中国を孤立化させるなと。ポストモダン中国が自らのアイデンティティを置く宋の時代の思想を研究して議論できることが大切


四年前から言っているのだけれど、日本主催の東京五輪は、イスラム国の国際デビューを奪った国際犯罪の疑いがあるという声がまだない


神のいない文明と神のいる文明との交差?


人は死んだ後に魂は上へ魄は下へ行くというふうに鬼神の言説は自然哲学化される。ここから、自然は鬼神であるということになる。顔は鬼神であると。文字が無かった時代の洞窟のなかに描かれた絵は抽象性をもつ。イメージが独立すると、物で書かれたものは何の言説であったかがわからなくなる。文字があらわれると文字がどんどん抽象化していくが、絵は線の抽象性を失っていく。クレーで再び絵は抽象化していく


憲法改正の不可欠な条件として、「全有権者過半数」を手続き的要件としてもたなければ意味がないでしょう。自民党の集票マシーンに委ねることはできません


二十世紀思想を代表するハイデッガーとハンナ•アーレント。『存在と時間』は死の意味を、『人間の条件』は出世の意味を考えた。出世としての移民を受け入れる多文化主義世界市民


なぜ、公害大企業への異議申立ては場所を必要としたのか?なぜ哲学は人々と話す場所を必要とするのか?場所とは情報の流通に全て置き換えてはならない知性をもつ倫理的なものだから


東京五輪は、間違ったグローバリズムー世界市場に流通するもの、増えるもの、経済活動の加速が善だーの発想。もっと人々が持続的に共存できるグローバル•デモクラシーの哲学が必要


生物学的危機を民主主義によっては克服できるとおもっていない世論は、ファシズムでもできなかったような二人以上の社会的距離を厳密にコントロールする憲法崩壊へ駆け込み始めた?


思考は知性のあるものから充実するのではないか。現在はウイルスという知性なきものだけを考えさせられていて、売れる本がよい本というような似非統計的世界観が爆発的に増殖した


デュラスとゴダールの映画は現代アートの方向と一致している。言説的なものと可視的なのものは互いに独立している。どちらがどちらに依存しているのではない<と>的関係の探求


夜は監視カメラよりも街灯を増やした方が犯罪防止効果があるという。言説「全員を監視するカメラで安全である」は可視的なものとは独立している。権力が包囲してくるだけなのに


『監獄の誕生』のなかでフーコが分析している、一望監視方式監獄がある。簡単な権力仕掛けで全体をコントロールできる鎧戸も見ることができる。一望監視方式の天窓は大英帝国の「善」のシンボルらしい。しかしこんな場所では冬は凍え死んでしまう。実際に多くの囚人が死んだらしい。包囲してくる可視的なものは、言説的なもの(刑法は何の罪を犯したらどのくらいの罰で払うか示すような価格表という解釈をめぐる言説)とは独立している。たとえば、言説「全員を監視するカメラのおかげで安全である」は可視的なものとは独立している。効率よく権力が包囲してくるだけなのに


『監獄の誕生』のなかでフーコが分析している、一望監視方式監獄がある。簡単な権力仕掛けで全体をコントロールできる鎧戸も見ることができる。一望監視方式の天窓は大英帝国の「善」のシンボルらしい。しかしこんな場所では冬は凍え死んでしまう。実際に多くの囚人が死んだらしい。包囲してくる可視的なものは、言説的なもの(刑法は何の罪を犯したらどのくらいの罰で払うか示すような価格表という解釈をめぐる言説)とは独立している。たとえば、言説「全員を監視するカメラのおかげで安全である」は可視的なものとは独立している。効率よく権力が包囲してくるだけなのに


Women and Hollywood 


Marie Magdalene “Marlene” Dietrich was born in Berlin in 1901. Dietrich began her career as a vaudeville performer in Weimar Germany. She moved to Hollywood and eventually became a revered film actress, “bisexual sex symbol, willful camp icon, [and] paragon of feminine glamour” — “comfortable in top hat and tails, ballgown, or gorilla suit.” But the actress did not forget about what was happening back home in Germany; Dietrich became involved in the fight against fascism during WWII. She “used her likeness to fundraise for Jewish refugees escaping Nazi Germany and performed on USO tours, earning her the Metal of Freedom and Légion d’honneur by the French government,” the press release details. Dietrich died in 1992 at the age of 90.


By Rachel Montpelier


近代は伝統的なヒエラルキーを軽蔑した調子で「前近代」と呼ぶけれど...


‪「つまり、近代の転倒は、一つの包括的原理がなければいかなる秩序も不可能であるから、人間のすべての活動力には人間の同一かつ中心的な第一義的関心が支配しているにちがいないと仮定している点で、伝統的なヒエラルキーと同じである。‬」


‪The modern reversal shares with the traditional hierarchy the assumption that the same central human preoccupation must prevail in all activities of men, since without one comprehensive principle no order could be established.  ‬

‪ーHannah Arendt ‘ The human condition ‘‬


フクロウ猫はかく語りきー


理(形而上学)において考えられるものは、気(形而下)において根拠を与えることができない。そうでないと、形而上学が成り立たなくなる。同様に、死において考えられるものは、生において根拠づけられ得ない。そうでないと、死を考えるために生から考えることが、死を解体してしまう危険がある。

そう理解したうえで、性理論と理気論の成立と共にある鬼神の言説にしたがって、近代国家を確立した19世紀は生者の間に祭祀共同体を制作したが、21世紀は、2000万人を殺戮した戦前の国家祭祀との連続性を断ち切ってアジアとの関係を制作することが課題であるとわたしはおもう。


知識人の近代は自分の国を選ぶ。日本知識人のように土地に執着したりしない。マルクスの妻イェニーについてだけど、亡命先のロンドンには死に場所が無いと感じたと私は思うのだよ


知識人達の無神論ではないが唯物論である批判精神はドイツ観念論の英国化だろうか。英国に長くいればわかるものか?否、イギリス人になってしまっては見えなくなるものかもしれない


ポルトガルとスペインの迫害からアムステルダムに逃げたユダヤ人でユダヤ教に戻ることがなかった人達は宗教をもたなかった。ヨーロッパが知らなかった無神論の歴史の始まりである


相手に民主化を求めるときは先ず自分を民主化しなければなあ。もっと一緒にやりましょうと。しかし相手に民主化を求めるときに、こちらが非民主化してどうするつもりなのだろうか?


マルクスの妻イェニーを不安にさせたのは、だれも判読できない文字ではない。彼女だけは夫マルクスの原稿を読めた。エンゲルスのために読めるようにした。マルクスの言語は古代帝国的である。それに対して、エンゲルスの書き方はターナーの絵あるいはバルザック文学みたいに平面上に何でも間でも貼り付けるように書いた。ではイェニーが何をしたのかとイギリスのフェミニズム演劇は問うた。アイルランドのマックギネスは問うた。わたしも彼に感化されてイェニーの戯曲を書いてみた。もう少しでイェニーの入り口に入りそうなのに、しかしいつも遠ざかる。イェニーはエクリチュール的媒介である。多分『資本論』のエンゲルス化が起きた。しかしイェニーにとって彼女を不安にした大きな他者は何だったのか?問われるべきなのは他者の名である。マルクスでもエンゲルスでもない。


東京五輪は、国家権力の集中を正当化する契機としての復興した日本のシンボルでなければいけなかったのですが、政財官マが推進する東京五輪そのものが災害になる危険がでてきました


・「礼」とはヘーゲルの客観的精神Der objektiven Geistのこと。


(Wikiより。「客観的精神はヘーゲルによって提唱された概念であり、主観的精神と絶対的精神の中間に存在する精神とされた。この段階というものは人間の精神の成長の過程にあり、自由となった精神が外的には法律として表れ、内的には道徳として表れ、これらが統一されることで人倫となるということであった」)


•帝国は古代的世界の「礼」が支えることが果たして可能なのか?『世界史の構造』の柄谷と中国のイデオローグがいうようには..


朱子の鬼神論の言説は漢字文化圏コスモロジーである。鬼神論の言説で表象されるものは絶対無限と絶対平等を語る。絶対無限と絶対平等をアジアと名づける。そして精神は鬼神として理解できるとすると、アジアにおける共同体について何が言えるだろうか?


•誰も語らなかったポストモダンの国家は権力の集中を解体することが要請されるー外にたいしても内にたいしても


... mais celle qui la supporte et se conserve dans elle qui est la vie de l’esprit. Il ne gagne sa vérité qu’en tant qu’il se trouve lui-même dans le déchirement absolu.

死に耐え、死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。(ヘーゲル精神現象学』Hegel, Phänomenologie des Geistes 長谷川宏訳)


Mais l’esprit devient on-jet, car il est ce mouvement de devenir à soi un autre, i.e. ob-jet de son Soi, et de sursumer cet être-autre. 

が、精神が対象となるのは、精神が、自分の外に出て、自分が自己(意識)に見つめられる対象となり、さらに、この外なる存在を破棄するような、そういう運¥動だからである。(ヘーゲル精神現象学』Hegel, Phänomenologie des Geistes 長谷川宏訳)


「意見がない」と言うことが意見を形成しているように、「政治的に中立」は政治的な態度である


ゴダール『新ドイツ零年』(1991年製作)という映画が日本で公開された年が1993年12月25日。このとき、映画館で蓮見重彦が映画を解説した。政治について滅多に口にしないが、近衛内閣と比較しながら、細川護熙にたいして警戒の言葉を語っていたので驚いた。大きな政治の変化を予言していた。わたしの関心は思想である。近衛内閣の初期は三木清がいたが、段々と思想の幅がなくなってくる。遂に思想の幅がゼロになる。蓮見の危機感にしたがって敢えて30年代と90年代を比べてみる。2001年に出た柄谷行人トランスクリティーク カントとマルクス』は、カントを論じたのはよかったが、日本知識人だけがやるという意味でファシズム的と言わざるを得ないようなマルクス資本論』の読みへの拘りを示した態度に不安を感じないわけではなかった。知識人であることをやめたという発言には大いに不安だった。しかしその意味が本当にわかってきたのは、十年後の『世界史の構造』(それに続く『帝国の構造』)においてであった。アジアは帝国か民主かを考えている。しかし日本の知識人だけが十分にこの問題意識をもっていない。遅れてしまっている


思想史をやる者は中に入りすぎてはいけない。だから散歩でも京都御所の門を潜るのは不安だった。桜の美しさに心を奪われたときの後悔といったら..


昔株屋の新聞と言われていた日本経済新聞に、一行も読めない故に世の不安を煽っていた「やさしい経済学教室」が存在感があった。Fbは「やさしい思想史教室」が必要な時ではないか


朱子語類


岡倉天心の講座に出た和辻と大川と九鬼は感動した。和辻はヨーロッパに行ったときは当時のヨーロッパの学問と対等にやっていくことができたが、漢文を読めなくなった世代であったという。これはなにを意味するのだろうか。わたし自身について言えば、漢文の詩は李白とか簡単なものを学校で習って読んだ。夏目漱石草枕』の漢文を読んだが、漢文を書いたことは全く無かった。これがはじめて書いた漢文。「泊」という字が好きである。アジアから、上から下へ、右から左へと読む漢字の文が急速に無くなっている。新聞と国語の教科書ぐらいか。漢文訓読とは、漢文の語順構成を維持しながら、訓点を付して日本語の文体に置き換えて読解すること。アジアの国はそれぞれの漢文の読み方があったが、アジアの知識人は日本の知識人のように読んだものをいちいち文として書いたりしなかった。日本の場合、書いた文が段々元の漢文に戻らなくなってきたらしい。これが日本語の歴史であるという。思考するために、大いなる他者から与えられた漢字を自分たちのものにしていった歴史なのだろう


インドネシアの人々が新聞をインドネシア語と中国語の両方で読めることに関心していた(fbのインドネシ中国系の方が十数年前に嘆いていたが、若者がオーストラリアの支援もあって英語を一生懸命勉強していて中国語を読めなくなっているらしい。)田中角栄の日中国交回復のときに北京に関税の取り決めのために行った父は、体制が違う中国との関係はトータルに50年間もつだろうが、問題となってくるのはそれからだろうと言っていた。それは当時の官僚たちに共有された認識だったのだろうか。思えば、来年の2022年がその50年後にあたる。


季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ能く人しに事うることあたわず、焉んぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」([論語』先進第十一)は、フランス語訳ではこうなっていた。「鬼神」は、les esprits et les dieux である。これは朱子たち宋学の概念で、”精神”と読める。子安先生の言説によると、鬼神はドイツ語Geist 、英語Spirit に対応する。鬼神を“お化け”fantômeとか”強い神”(戦争中に使われた)と読むとわからなくなる。

さて鬼神を朱子的に精神として読むと、非常に思弁的な文である。わたしの勝手な理解だが、生はリアリズム的同一性とかconsistencyならば、死は同一性の否定、inconsistencyである。生と死、この両者は形而上学において互いに切り離せない。論理的先行するのは生であると先生は言う。先ず生を考えなさい、その後に死を考えなさい、と。この鬼神論の言説で表象されるものは他者との関係である。よければ、共同体と名づけてもいい。

たしかに、死における無矛盾性は、生のなかでそれに沿って否定項として考え得るとすると、それは何か違うのである。生と死を一緒に考える仕方で、死を内部化•構造化してしまうと、死が解体されてしまうのではないか。新しい時代の精神を迎える共同体は精神が解体されていれば成り立たない。


フーコ『言葉と物』を読むために、渡辺一民氏にとってシモーヌ・ヴェイユがなぜ大切なのかわからなかったが、サルトルに顕著な「無神論」の近代がもつ問題を朱子理解の近代のなかで考えることができるかもしれないと思っている。

「円と直線との接点(タンジェント)。それは高次の秩序が低次の秩序の中に、無限に小さいものとなって姿をあらわしているということである。キリストは、人類と神との接点である」ーシモーヌ・ヴェイユ

(ヴェイユの言説についてわたしの勝手な理解では、無限に小さなもの=他者が解体されてしまう。だから他者は接点において要請されるのだ)


憲法記念日は、憲法をそのままにして改憲せずに、その代わりに、憲法が禁じた公式参拝国家神道軍国主義を復活させる解釈改憲を推進した日本国家の現在の問題を考える日だと思う


Question .なぜ大新聞は「五輪は中止せよ」と明確に書かないのか

Answer. 朝日新聞日本経済新聞毎日新聞、読売新聞は「オフィシャルパートナー」


過去の映画を語るのは失われた時を求めている。過去の欠片は欠片で、一つに集められない。だけど失われた時は「失われたもの」が無い。自己の力が及ぶ徴が至る所にある

 過去の映画を語るのは失われた時を求めている。過去の欠片は欠片で、一つに集められない。だけど失われた時は「失われたもの」が無い。自己の力が及ぶ徴が至る所にある

 孔子は「いま」できることを対人的に実践的に語った思想家だった。だが晩年に十年単位で考えたのはなぜか。彼の時代も現在のように何を言っても通じない乱世だったからではないか


ベケットは小説を書くときは先ずフランス語で書いてそれを英語に自分で翻訳した。これは何を意味するか?ベケットは自分自身を翻訳したのだろう。他者の言語の存在が自分自身である


鑑真木彫像を見て『天平の甍』をおもいだした。仏教の中国化。漢字の文の成立と共にあった思考可能性。日本で鑑真が翻訳される。同時に、鑑真は自らを翻訳していると考えてみる


映画論は、エクリチュール論がエクリチュールだけを論じてはならないように、映画だけを語ってはいけない。映画の成立とともに大いなる他者との関係が論じられる必要がある。


東京五輪の学童(小中学生)80万人の動員?これは戦争責任をとっていない国の極右翼を都知事した罰なのか?自民党支配に対してファッショ的人物しか出てこないというこの国の問題


「私たちは “捨て駒” ではない」


#看護師の五輪派遣は困ります


2009年はロンドンに開催されたG20に抗議してイギリス中央銀行広場前を4000人で占拠した年だった。自発的にあつまった人々は最初はみんなシニカルだった。しかしもうやっていけなくなったのだからもっと怒らなければいけないとかんがえていた。アメリカにおける「オキュパイウォールストリート」は二年後である。政治の現場に立つときは思考するためイメージが必要である。しかし思考が成り立つまえにイメージは消えていってしまうという問題がある。アラン・バディウはこれを考える。ゴダール映画はアラン・バディウとの対話をもつことは必然である。


<百科全書=円環知>はみずからを出産する。概念の受胎〔概念化〕は自己-受精なのだ(デリダ『散種』)


16世紀のフランスの知識人はむさぼるように知識をもとめたという。知識はラブレーによって食べ物に喩えられている。ガルガンチュワは大食いの巨人で、フランスじゅうの食べ物をむさぼったために、国に食べ物が無くなってしまった


はじめにロゴスありき。言語的存在である人間は存在の意味を考える


言説「議論は自由だが解決を与えてはならない」で表象されるものは距離である。距離を理と名づける。理の領域は空の領域の傍らにあるが、遠くから理と空を見ると直に隣接すると思う


アベ政治を許さない」と言っていたマジョリティだけれど、どうしてアベ歴史修正主義を許しているの?


精神的隷属の拒否。アジアの言論の自由をもとめる人々がオリンピックをどうみているかがわかる。

ミャンマー 競泳選手が東京五輪不参加を表明 軍への抗議の意志」(NHK)


差別をやめよ!


東京五輪出場選手のために医師・看護師500人派遣要請。東京五輪のために指定病院30箇所」


見ることができないブラックホールに影があるように、エクリチュールにたいする音声中心主義の言説のラディカルも影がある。無神論である


ダブリンで考えることになったリアル•カトリックポストモダン的言説はキリスト教は近代が解釈するほど無神論的ではないとしてジョイス文学を読み直す。また東京で学んでいるリアル朱子学ポストモダン的言説は朱子学は近代が解釈するほど無神論的ではないとして江戸古学の『論語』を読み直そうとしていくのだろうか


東京では観れなかった溝口と小津の映画は全部、海外で観た。映画館の外に出れば「日本的情緒」がないので、作家達の映画を批判的に考えることができた。だが外国が消滅してしまった


ジョイスユリシーズ』の始まりは「テーレマコス」挿話であるが、この挿話で始まる必然はない。また「ペーネロペー」挿話で終わるが、この挿話で終わる必然もないのである。どの挿話もアルケー(根源・始原)に非ず。ただ昼と夜が生と死のようになっているように、各挿話が自然哲学的に配置されている。昼は誰がなにを喋っているのがわかる。だが「キルケー」挿話を契機に、夜は誰が何を喋っているのか見えなくなっていく。『ユリシーズ』の終わりでは他者の魂の帰還が宇宙論的に物語られている。その語りは再び分節化されているが本質に支えらる事がばく深さもなく、表層的である


ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』は世界神話を探している。前者が昼の本、後者が夜の本で、自然哲学化されているが、人類としての祀られる共通の祖先は解体されていない


ジャン=クロード・カリエールは2月に亡くなったんだ。graveな存在だったが、パリで、母があなたが脚本を書いたルイス・ブニュエル『昼顔』が大好きだと告げた


スポーツ、スポーツ、スポーツ?オリンピックなんかやっている場合か!?

「コロナ禍 死にたいと思った」俳優や音楽家などの3割以上」(NHK)


祖先祭祀と自然哲学は両立しないか。近代は両立しないとする物の見方をとる。しかしポストモダンの見方は両立すると考えることができる。近代の永久革命原理主義によって、あるいは国家の同化主義と開発とによって、祖先祭祀が解体された共同体はどのように考えるのだろうか。祖先の精神を子孫の精神は受け継ぐことができなくなってしまったと考えるだろう。それは、読むことが不可能であるという理念性を含めて、読めなくなった本の「居場所」がなくなってわれわれは「死に場所」がなくなったと思うときとおなじものではないだろうか。そう考えてみる。すると何が言えるか?祖先祭祀の解体がおきると、宇宙のなかにもうひとつ別の宇宙があるというこのコスモロジーを思い描くことができなくなるのではあるまいか


吉川幸次郎は宋代の朱子と徳川日本の宣長を考えて、「神のいない文明」と「神のいる文明」について語ったようだ。「いない」とか「いる」とはどういうことなんだろうか?「神のいない」とはそれほど無神論的「存在しない」だったのか?近代では無神論はイコール唯物論である。その意味で、朱子唯物論的だったが、彼が無神論だったときめつけてはいないだろうか。他方で、宣長は文献的読みにおける神の存在をかんがえた。文献学的「存在する」である。だが宣長が読んだように神(シン)をカミと呼んではそれが何のことかわからなくなった。寧ろわからなくしたというべきか?これは解釈というか、言説によるものだったとかんがえるべきだろう。と、存在をめぐって、「いない」とか「いる」を考えるとはどういうことなんだろうか?


吉川幸次郎は「神のいない文明」と「神のいる文明」を語ったが、「いない」とはそれほど無神論だったか?「いる」も、神(シン)をカミと呼んではそれが何のことかわからなくなった


「鬼神」は「精神」という意味でとらえようとおもっています。ヘーゲル精神現象学の「精神」Geist ですね。あと、朱子唯物論的だと思うのですが(死後の魂も消滅すると考えた)、近代主義朱子無神論とみなす問題。無神論ではないような唯物論の意味をこれからわたしはかんがえようとしていますー朱子学近代主義から取り返すために、あるいは、過剰な物言いですが、21世紀の精神を考えるためにかもしれません。さて子安先生も「第一江戸思想史講座」は古学の朱子学批判を展開した脱構築でした。伊藤仁斎がどう朱子学を解体していくか考えました。「第ニ江戸思想史講座」では今度は、朱子学をポジティブにとらえてみようと先生はご説明なさっていました。今日はその意味がわかりはじめました。生死を昼夜として解釈するような鬼神論の自然哲学化は鬼神論を解体したととらえる近代主義(朱子学を解釈する)にたいして、子安先生は朱子学をポジティブにとらえています。鬼神論を自然哲学化することによって鬼神論を再構成しているのだという見方をきいたときは、「第ニ江戸思想史講座」における近代主義脱構築するあり方をかんがえました。「第ニ江戸思想史」は「第ニ脱構築」。今日の講座で脱構築のことを考えることになった、と、宇波先生の講座からいらっしゃった髭さんが指摘なさっていました。下は配布資料


カメラは命題論理としてある


“The historical fact is that cinema was constituted as such by becoming narrative, by presenting a story, and by rejecting its other possible directions. The approximation which follows is that, from that point, the sequences of images and even each image, a single shot, are assimilated to propositions or rather oral utterances [...].” 

Gilles Deleuze, Cinema 2: The Time-Image


「緊急宣言」は「五輪と無関係」だってさ、ホント?だれが最期までたおれないでいられるか、だれが一番タフなのか競う肉体政治になってきた?


鏡というのは鬼神の眼。鏡像を撃って自殺を図ったラホールの副領事の立ち姿を捉えようとカメラがゆっくりと煌めく闇へ向かって旋回する。と、外部からきこえてくるはずの彷徨う彼の叫び声が奥の部屋からきこえてくるではないか。映画は、内部を形成する崩壊の静けさ、だれが語るのかわからなくなったざわめき、狂った女乞食の歌声をインディア・ソングと名づけた。マルグリット・デュラス、はやすぎたポストコロニアリズムの作家といわれる場合がある


ロンドン時代のBBCは先ずどうしてビルマではなくミャンマーと呼ぶのかを解説する必要があった。東京でFbに投稿する友達のおかげでミャンマーを再び認識しつつある


テレビは国の圧力を避けて、No Commentの中立的表示を示せば、もっと聖火リレーの抗議の様子も、トリチウム汚染水の海洋放出の現場も映像を流すことが可能ではないか


ユリシーズ』はmirror in the shrineのマーテロー塔において始まる。西の端に立って鏡を見る。東ーアイルランドーを映し出した。私は東の端も見える


ジョイスの「自己で決めた亡命」はヨーロッパのなかの国内亡命みたいなものだったのではないか。亡命というのは確信がなければできない。しかしジョイスの場合は亡命にまったく確信がなかった。『ユリシーズ』冒頭のマーテロー塔を舞台としている書き出しは、パリに自由をもとめて亡命した前衛作家が集うカフェのコピーのようにとらえる考えがあるが、だけれどジョイスは前衛ではない。晩年まで外国語の文法を学び続けた作家だ(こんなことはシュルレアリスムの芸術家は屈辱に感じる。ヨーロッパ周辺の作家にとってはそうではない。) さてジョイスは文学のなかで言語の死を考えたたときは鬼神論的に考えたのかもしれない。簡単ではないけれど、そんな感じがする。彼は言語の死が起きたのは、アイルランド人自身が生活するために起きたと考えていた。死んだ言語は復活することはあり得ないのは死んだ文化の場合と同様である。死んだ言語を帰ってきた魂のようにかんがえて、土地における同一的なものにこだわるのは根源的錯認である。ジョイスにとっては、帝国主義者が領土をもとめて土地を奪えと主張するのも、反植民地主義者が祖国のために土地を取り返せと主張するのも、共同体の思考を土地に還元する同じ間違いであった。寧ろジョイスが問題にしたのは言語の共同体的<居場所>ではなかったのか。ジョイスが言語の死を鬼神的に考えた意味というのは、未知の他者のために書かれたが読めない言語の<居場所>を、自立的言語(国語)で読める<土地>に置き換えてしまう近代のあり方にたいする批判を構成する点にあった。読めない言語というのは、読めたとしても、読めないとする理念であるとおもうのだけれど。十年前のわたし自身の経験のことを書くと、ネオリベの時代の大阪府中之島図書館において見た伊藤仁斎『語孟字義』に<居場所>が無いとおもった。「宇宙第一」の書である本を見て気がついたーわれわれの死に場所がなくなっていたことを。


ユリシーズ』はmirror in the shrineとしてあるマーテロー塔において始まる。西の端に立って鏡を見る。東ーアイルランドーを映し出した。私は東の端も見える。


「鬼神」論は中国ではありふれている。しかし「鬼神」論について言説としてとらえる議論は中国ではまだ無いらしい(言説はフーコのポスト構造主義による。) 日本では、宋代の中国語を通じていた溝口雄三の『朱子語類』の翻訳で『鬼神論』を読めるが、現代中国語で読んだ読みの限界があって、どうしても生と死の関係についての近代的な物の見方がみえてしまう。さて子安先生のもとで『鬼神論』を(朱子の時代により近い)江戸思想家達の読みにしたがって読んできたが、ポストモダン孔子を深める方向でもっと朱子の鬼神論の言説についての考察を深める必要があるという。これは、溝口の現代中国論ー中国共産党のイデオローグと柄谷が規定されている帝国的な中国論ーに対して、別の中国論ー民主の中国論を形成する議論となるかもしれない。「鬼神論」は形而上学の枠組みのなかにであるけれど、アジアにおける共同体のあり方を理論化しようとしたからだ。そして大切なことは必ず中国が関心をもつだろうとわたしはおもっている。われわれは止まることができない。


「社会崩壊に近い」の「社会」も言説である。個人vs.社会という<反抗する個人>はリアリズム文学が発明した物の見方である。植民地化された国は社会がないので(産業革命が無くその形成を邪魔された)、アイルランド人はリアリズム文学をヨーロッパ人にようには読めない(ただしだれがアイルランド人かという問題がある)。リアリズムは世界少数派である。しかしどうしてもリアリズムを言いたいなくなってならば、リアリズムが啓蒙主義と同様に多様であることを考える必要がある。例えば江戸時代に、アムステルダムのリアリズム、中国のリアリズム、古学が発展させたリアリズムがある。近松のリアリズムが指摘されるが、明治の近代が過大評価したのではないのか。「人間交際」を「社会」と呼ぶ福沢諭吉のリアリズムもある。彼は1835年生まれで、1840年は藩校や寺小屋などが充実する教育のピークであった。


「鬼神」論は中国ではありふれている。しかし「鬼神」論について言説としてとらえる議論は中国ではまだ無いらしい(言説はフーコのポスト構造主義による。) 日本では、宋代の中国語を通じていた溝口雄三の『朱子語類』の翻訳で『鬼神論』を読めるが、現代中国語で読んだ読みの限界があって、どうしても生と死の関係についての近代的な物の見方がみえてしまう。さて子安先生のもとで『鬼神論』を(朱子の時代により近い)江戸思想家達の読みにしたがって読んできたが、ポストモダン孔子を深める方向でもっと朱子の鬼神論の言説についての考察を深める必要があるという。これは、溝口の現代中国論ー中国共産党のイデオローグと柄谷が規定されている帝国的な中国論ーに対して、別の中国論ー民主の中国論を形成する議論となるかもしれない。「鬼神論」は形而上学の枠組みのなかにであるけれど、アジアにおける共同体のあり方を理論化しようとしたからだ。そして大切なことは必ず中国が関心をもつだろうとわたしはおもっている。われわれは止まることができない。


1920年代の西欧留学中に時枝誠記は言語支配者の漢字漢語の影響という「国語の事実」に気がついたとき、言語の集中が起きる可能性があった。漢字を、「書く」という記載主体の表現機能において見るとき、「もはや漢字は言語主体の外部にあって借りる者と借りられる者といった関係でとらえられるものではない。」(子安氏『漢字論 不可避の他者』2003、第5章漢字と「国語の事実」」)。しかし30年代から40年代にかけて新国語学の成立とともに、時枝は帝国の植民地朝鮮で他者言語文字•漢字を内部化していくことになった。近代日本の国語学が推進した「大いなる他者の言語」の痕跡の消去の問題の解決を、再び国語学に委ねることは倫理的に不可能である。そうして開かれた多元主義の方向に時枝の学において言語の集中が十分に起きずに、したがって西欧普遍主義的人間の拡散が起きなかったのではないか


ヴィスコンテイーの『夏の嵐』。ブルックナーの7番は襞をゆっくり開く。街の運河。驟雨。一切の音が消えた空白の端からベニスの全体があらわれれくるーオペラ劇場


ほんとうならば訳文と注釈を示しておくのだけれど。中国人の先生たちは荻生徂徠の文を中国語として読めるが、伊藤仁斎のは読めないらしい。変な中国語らしい。わたしのようなものでも彼が書いた漢文を読むと、これは何だろうかとちょっとおもう。詩を書いちゃっているというような感じである、これは。仁斎は仁は愛であると言っているのだけれど、「混在のもの」とフーコが呼んだものをかんがえる

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大学時代の労働法の教授はヘビースモーカーで、ゼミ開始の30分はタバコを示して、「君たち、タバコを認識するとはどういうことかね」と問うた。スパスパ吸っている教授に、カント的に説明しなければいけなかった。現在カントの文を読むと、読めないのであるが、カントは表象の時代の哲学者ではないことだけはわかる。表象の時代の哲学者ライプニッツにとって、思考の対象に記号を配して計算できるということが普遍であるが、カントならばこういうだろうか。そんなこと言っても、認識する有限な人間が介入しなければ意味がないと。諸能力の機能は人間に即して働く。近代的な調和がある。だけれどポストモダンの見方からすると、日本的近代を成立させる諸能力の機能が働かないことこそが「万事順調」なのである


INVESTIGATION OF THE QUESTION; WHETHER IN THE JUDGEMENT OF TASTE THE FEELING OF PRESURE PRECEDES THE JUDGING OF THE OBJECT OR THE LATTER PRECEDES THE FORMER


The powers of cognition that are set into play by this representation are hereby in a free play, since no determinate concept restricts them a to a particular rule of cognition. Thus the state of mind in this representation in a given must be that of a feeling of the free play of powers of representation in a given representation for a cognition in general. Now there belongs to a representation by which an object is given, in order for there to be cognition of it in general, imagination for the composition of manifold of intuition and understanding for the unity of the concept that unifies the representation. This state of a free play of the faculties of cognition with a representation through which an object is given must be able to be universally communicated, because cognition, as a determination of the object with which given representations (in whatever subject it may be) should agree, is the only kind of representation that is valid for everyone.(Kant)


ロンドン時代にパウンドの研究者であったラビの作家の講演をきいた。イスラエルはアジアであるという。だとすると、アジア人どうしで争わせる帝国主義は終わっていないということ?


明らかに反権力なのに、同化主義的言辞を弄する人になりたくない。他者との関係を構成すべき所に、共通なものがあるという包括的原理を前提にして異なるものを排除するのが同化主義


混在なものとしての神話的リアリズムは、神話<と>リアリズムを名づけることを防ぐ。混在的なポストモダン孔子も、国学的な神のいる江戸 <と> 朱子学的な神のいない江戸を名づけることを防ぐ


国学の神(カミ)のいる江戸は言説的に、神(シン)を解釈不可能として神を否定した。朱子学の神のいない江戸は、朱子学脱構築だが、<天= (聖人が名づけた)鬼神>を構成する


物  No.1


不条理が、列挙された物の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙をささえる<と>を崩壊させてしまう。ーフーコ『言葉と物』序(渡辺一民訳)

L’absurde ruine le et de l’énumération en frappant d’impossibilité le en où se répartiraient les choses énumères.ーFoucault 

Absurdity destroys the and of the enumeration by making impossible the in where the things enumerated would be divided up. ーFoucault


徳川光圀は『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。日本では『日本書紀』以下六国史など史書編年体で編纂されるのが常で、『史記』のような紀伝体(東アジアの歴史書の書式の一つ)の史書が編纂された先例はなかった。林羅山の死などが契機になったと考えられている。南朝正統論を唱えたのは、北畠親房の『神皇正統記』の影響を受けていたとかんがえられる。全体的に水戸学=大義名分論とする尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。


ガースは私腹を増やす悪代官のイメージ。宇都宮さんは選挙に出るならば、小池のサリーちゃんに対抗して、五輪中止を訴える水戸黄門のコスプレしたらいいと今朝ちょっぴりおもった


「どっちもどっち」と言う権利があるのは、ユダヤ商人とイスラム商人によって奴隷として売られたアフリカの人々だけである。柄谷的には、交換システムの外の話をするなだけれど


小学生の時は鑑賞の時間によく先生からほっぺをおしゃもじで叩かれた。「お前は何で寝ているんだ!」。鑑賞の効果アリで気持ちよくなったのだから褒めてくれと反論。2度めのピシャ


黒澤明は、ゴダールはもっと評価すべきだったとおもうと言っている。西欧の論理をもって展開する演劇的なものから距離をおいたヌーヴェルバーグからの黒澤の評価は非常に低くかった。『影武者』(1980)もいかにもという感じで評判がわるい。だが同化する操り人形的なものへの関心から、『影武者』を擁護するポストモダン的映画評もあった。少し説明すると、近代の前の共同体は人が死んだらバイバイと言っておしまいになるのではない。共同体は生者と死者が一つになっている見方をもっている。死んだ人に類似している生まれかわりが共同体において発見されるのである。平田篤胤の勝五郎的生まれかわりのテーマを読み取ることもできるかもしれない。朱子の生と死は二つの理があるわけではないとした思想のことも考える。ポストモダンは、『影武者』における有為転変に解放の視点ー反言説的な性と芸術の政治化ーを読みとるだろう


武士の滅びに同一化する(変な?)美学は黒澤明『影武者』に表現されていたが、祀りではない、弔いにおける許しあう美しい世界は能『敦盛』の謡曲に在るようだ


誠者,天之道也;誠之者,人之道也。

(そうでないとやっていけなくてヤバイねという話。誠は天の道なり、之を誠にするは人ひとの道なり。だよねー)

『中庸章句』


MEMO(李氏朝鮮儒学)


•李退渓の学問は徹底した内省を出発点としており、この立場から朱熹の学説を整理した。四端七情と理気との関係をめぐる奇大升との長年にわたる朝鮮儒学史上著名な論争でも、論理的整合性を重視する奇大升に対して、人間のあるべき道徳的な姿を求めて、理気の互発説(四端は理の発、七情は気の発)を主張して、さらに理自体の動静(運動性)を明言した。(ウィキより)

•奇大升は「最後まで四端と七情を分けるべきではないと主張し、一方の李滉は分けて考えるべきだという主張を曲げませんでした」。」(金教斌「韓国哲学の系譜』より)



孔子廟の意味は?

漢代以降の歴代王朝が儒教を重んじたことで、孔子は次第に「先聖」・「先師」として 広く崇められるようになりました。隋代には科挙が開始され、その後に続いた唐代以降に は、都および全国の学・廟で孔子を祀り定期的に祭祀する制度が整えられました。こうし て孔子は、歴代王朝によって祭祀される重要な対象のひとつ、そして各王朝を支える官僚 層の崇拝対象となりました。国の都や地方に設けられた学・廟で孔子を祀るという制度は 、朝鮮、日本、琉球ベトナムなどにも影響を与えました。台北孔子廟では毎年春と秋に 、様々な祭品を供え、「楽」(音楽)や「佾舞」(舞踊)を用いて孔子を祀る祭礼(3月 「春祭」/9月「釈奠」)が催されています。