書くこと 600-700

目覚めは死、絶えず夢を発明し続けなければいけない。純粋で無垢、野蛮な子供が、夢を発明する絶対権力と戯れる、それがロシア。レーニンのときは映画を制作したが、現在は戦争を?

リアリズム文学が描く中流階級の没落など知ったことではない。神話の神々が大地を闊歩する脱階級的視点へ行くも、その制作主体が貴族知識人であれば、階級的視点の隠蔽が必ずある

古事記』は7世紀後半に書かれた自己の存在を説明した序文がある。本文の書き出しは「天地初発之時」である。もし序文と本文とが一体不可分であると考えるとどういうことが言えるか?『古事記』自身が『古事記』の存在を証明する。もっと後に書かれた可能性もあるが、『古事記』の制作を語った他の文献はないのである。言語の集中が保たれいること、すなわち言語であるわたしは存在しているというその画期的な書き出しの意義が最後まで貫かれているならば、『古事記』の根底にひとつの民族が存在するという主体をめぐる言説(言語の拡散において生じるような)に絡み取られることも無いはずである。

フクロウ猫の黙示録

一国社会主義の完成態である帝国ロシアの皇帝は、帝國主義の根底にひとつの民族が存在する(ウクライナ人ロシア人は同じである)と言う。だからそれを戦争と呼ぶことはできない。国連も皇帝プーチンにしたがっているのは偶然ではないだろう。集団虐殺を止めるためには人類が消滅しても原発を攻撃するプーチンは、そのヒューマニズムとともに、スターリンと同じくらい人間的な人間らしい顔をしているからである。驚くべきことに、ロシアのウクライナ侵攻は理由があるとする安倍晋三と、知らないことは黙っていろと動揺する日本の反米だけを言っていればいいとするリベラルはプーチンのおかげで植民地主義の方向をもって互いに和解することになった


集団殺戮をやめさせるヒューマニズムは、原発を攻撃したつぎは、生物化学兵器か..アインシュタインは第四次世界大戦は投石だと言ったが、投げる人間が生き残っているのかしら?


ライプニッツの哲学はレンブラントが描いた、言説(学者的議論)というものを表象した絵を見ればわかってくるだろうか。力は差異化である。階段をあげっていくこの形而上学に、宇宙の鏡を包摂するためには「窓」はない。

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Poussanが描いた絵を見て、デカルトの哲学とは何かを考えることができるか?遠近法は西欧の原罪だと言われるが(ロシア思想?)、シンメトリーと類似性で構成される空間(延長)が観察する者(主観性)に、消失点から自立した明晰な思考を与えるーわれ見る、故にわれ存在する


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フェルメールの絵を見て、スピノザのすべてがひとつであると語る哲学とは何かを考えることができるか?最高のものを包むものは自身においてそれを超えるものをもっていなければいけない。そうして無限なものは部分において在る。全体は部分の近傍でジョイスの言語のように生成される

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デカルトライプニッツスピノザの哲学は、Poussan、レンブラントフェルメールの絵によって思い浮かべることができyぷ。サルトルの哲学はジャコメッティの彫刻で表される。自身の肖像画で表されるのはヘーゲルだけである。精神というのはこういう顔をしているらしい。


「精神」はSpirit、Geistである。朱子「鬼神論」の精神との対応をみると、陰陽二気論は生死についての自然の語られ方を作った。今度は死が自然に向かって自然の語られ方を作る。精神はこの語られ方に存する。悟性的理性が世界にもたらす矛盾的分裂を解決できるのは精神である。ポストカント的に、物としての理念が精神


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10 『言葉と物』の第九章で再びヴェラスケス『侍女達』が分析したフーコは、ニーチェマラルメの差異を語る。ここからいかにして第十章で「器官なき身体」のアルトーを呼び出すのか?

11 厭世的気分になると、漱石草枕』の文を思いだす。所詮は明治の国民が読める厭世感だけれど、知的に書いている


12 ラファエロアテナイの学堂(1509ー1510?) ラファエロは新プラトン主義の世界を表現したルネサンスの巨匠と言われる。学堂はギリシャ十字(縦横が等しい十字)の形の中にあり、キリスト教神学と非=キリスト教ギリシア哲学との調和を意図した。

プラトンが指を天に向けているのに対し、アリストテレスは手のひらで地を示している。これは、プラトンの普遍が天上界にある観念論的なイデア論の哲学に対し、アリストテレスの普遍と特殊が地上にある哲学の現実的なさまを象徴していると考えられる。ソクラテスは両者に背を向けていて、議論の数を数えている?イスラムから大きな影響があったにの関わらずイスラムの学者はイブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス)のひとりだけである。サイードは『オリエンタリズム』の中でこの問題について論じた。

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ラファエロアテナイの学堂」に描かれているこの気になるひとはディオゲネス中央の階段付近でだらしなく腰掛けている。ポリスの理念を否定し、貴方は何人なのかと聞かれると「自分はコスモポリーテス(世界市民)だ」と言い、史上初めてコスモポリタニズムという語を作った。

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13 「顕現」epiphanyというと、なんだか、本質が現象するというようなマルクス読みのひとがこだわる物の考え方みたいなのだけれど、これはトマスアクナスの思想から来るものであった。ジョイス近代文学のチャンピオンだから議論が起きるが、『ダブリナーズ』のジョイスは普通の人々の言葉に美の顕現をみていた。普遍言語への探究に対して、普遍的なものは卑近なもの(日常言語)に顕現するのであると。

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神学の根本は信仰、哲学の根本は理性。方法論の違いだけであって、信仰も理性も辿る真理はおなじって、そういう顕現って何だろうか?全体としての意味されるものを拒否する現代とは違う


いい加減なことを書くが、朱子学の「這裏」も、トマスアクナスの「顕現」も大体おなじなんだろう。現代は中世のように悟ることが難しくなったからと言って、悟りを否定する必要がなくて、何が先行するのかをゆっくり考えればいいじゃないかとおもう


14 本居宣長は『古事記』の神の意味を明らかにすることは諦めたらしいが、その代わり神の名の正しい読み方に努力した。現代の音声学的アプローチは、神の名に含まれているm(両唇鼻音)、 b(有声両唇閉鎖音)が大事だったと考えているようだ。音声中心主義の近代は遠くへいく。一生懸命日本語の起源を探す。しかしながら神の名は漢字で書かれているので、漢字の表意性(意味作用)をゼロにできない。このことを考えるだけでも、漢字を不可避の他者とする日本語の面白さを知ることができると思う。たとえ漢字の表記で意味されるものがわからなくとも、意味を伝えようとする意思を無視できないんだよな。これが言語に沿って絶えず意味の意味を問う思考の形というか..

15 漢字が与えてくれる意味作用を西欧のアルファベットで考えることができるのだろうか?代わりに、数の意味を考えて、真であるが形式証明できない命題を構築的に思考できるのか

16 プーチンは米国の爆撃のヒューマニズムを差異化しながら、ロシアの語られ方を作る。「レーニンウクライナを作った」と語る。事後的に、一国社会主義を継承する皇帝の欲望は広がる

17 『日本書記』と『古事記』の違いは歴史と神話。ここにも差異化の運動がある。『古事記』は、『日本書記』における神の語られ方を差異化して、国家を越える宇宙の神から書き始める

18 書くことは並べること。並べることは差異化の運動。宇宙がそれほど根源的であるわけではなかった神話は、先行したリアリズムを差異化するために、曖昧な始まりの観念をやめて、明確な始源的始まりのイメージを事後的に語り始める

19 時間の歴史が存在するという。ホーキングのおかげで、宇宙の始まりは時間をめぐる学者的議論にあるということがわれわれにもわかってきた。マルクス主義の始まり的終わり(革命)の<語られ方>も、近代経済学の終わり的始まり(ネオリベが前提にする収穫逓減の法則と絶えざる開発)に対する対抗であった

20 ウクライナを語るのに台湾の話をしているの?「台湾有事は日本有事」の安倍発言に中国は「内政干渉だ」と言う。安倍と習近平は共謀して自分に都合よく自国の国民に拍手させている

21 「記憶を胸に刻んで」という新聞は、自ら担った安全神話は崩壊して11年経ったということを消そうとしている。政治災害なのに自然災害だったと都合よく置き換えられてしまった

22 もしウクライナEUに加盟していたら今日とは違った。台湾もEUモデルの東アジア共同体に属すべきだと思うが、最早依拠できるEUのイメージが極右翼によって貶められてしまった

23 系譜学において起こっているのはまさに知の反乱です。それは科学の内容、方法或いは概念に対する反乱というよりは。先ず何よりも、中心化しようとする権力作用、私たちの社会の内部で組織される科学的言説の制度と機能につきものの中心化する権力作用に対する反乱です。-フーコ「防衛講義」-

24 サドは悪徳の<語られ方>を作った。ジュスティーヌの美徳の言語の内部からそれに沿ってジュリエットは悪徳を差異化していくことによって、欲望の成り立ちと共に表象の空間が壊れる

25 有限な人を無限にするのは学であるのに、世界を読み解くのに無限の時間がかかるようではかつて学んものが容赦なく亡くなっている。世界を読み解くためには有限の時間でできるかかそうでないかはチューリング の停止問題を構成するのか?


世界は有限であると判断する者たちは、遠く離れた場所では、回廊や、階段や、六角形などが思いがけず消えている――これは不条理なことだ――と仮定する。

ボルヘス


有限な人を無限にするのは学であるのに、世界を読み解くのに無限の時間がかかるようではかつて学んだものが容赦なく亡くなっているのも不条理だ。世界を読み解くためには有限の時間でできるかかそうでないのかが問われるが、これを問うとき、人間はパラドックスによって、解決を与えない議論を構成できる。二項対立では人間の思考の創造性を覆い尽くすことができない。


有限な人を無限にするのは学であるのに、世界を読み解くのに無限の時間がかかるようではかつて学んだものが容赦なく亡くなっているのも不条理だ。世界を読み解くためには有限の時間でできるかかそうでないのかが問われるが、これを問うこと自体が有限の時間でできるかかそうでないのかによるのだからうまく機能しない

26 建国神話というのは厄介ですね、一国社会主義の継承である帝国ロシアの皇帝プーチンは、KGBからアマチュア歴史家になってしまったんですね、なるほどわかります。やはり安倍晋三と仲がいいのかもしれません。プーチンは情報戦ではウクライナに負けたと言われます。なるべく早く、難民を出す戦争をやめて欲しいです。わたしは帝国論の視点で観ようとしていますので、世界資本主義の分割である帝国ロシアは、経済力と文化によって、周辺国を支配できますが、ウクライナの例のように周辺国が民主化の方向で自立しようとすると、帝国が軍事力がものをいう帝国主義になっていることを観察しています。そして帝国拡大EUは、ウクライナを周辺国にするだろうと見ています。帝国拡大EUの文化は、そうですね、ケルセンの価値相対主義の西欧議会主義といえるでしょうか。ヨーロッパは、他者の岬であるように、イスラムとの関係を構築できるような新しい普遍を再構成しようとしていますが、極右翼とbrexitによって悪い形にならざるを得ない感じですね。ホメロスに書かれてあるように起源へ向かうヨーロッパの建国神話はファシズムを生み出したものです。経済は、ソビエト崩壊後、アイルランドをモデルとした、東ヨーロッパの再建を行なってきました(ドイツ銀行に支配されてはいるのですけど)。ウクライナはこれを選択したということだと思います。ただ、あまりにも西欧化するち、若者達はみんなアメリカへ行ってしまうでしょう。これは東ヨーロッパが直面している問題です。ウクライナEUにはいると、ユーロマネーになると、自分の国で雇用政策を展開できないです

27 社会契約説は何が正しくて正しくないかもわからないほどの自然状態だと生命危機のなかで人間はやっていけなくなるので自然権を譲渡して国家を作ったというけれど、今日ウクライナで見ている事態ーロシアは集団殺戮から人々の安全を確保するためにウクライナに国家を作っているーはそれとは別のものだ。国家こそが人間を殺す、何が正しくて正しくないかもわからないほどの自然状態なのである。人々は自らを帝国だと根源的に錯認する国家に抵抗している

28 法は言語で書かれています。法が権力の自己抑制の方向で、自らを根拠づけていくことができるのは、言語の創造性とチョムスキーがいうものによるものです

29 一方では権力の範囲を明示的に定める司法の規則がある。他方ではこの権力が生み出し、この権力が導く真理効果というものがあって、そうして生み出された真理効果が今度は、権力を引き継ぐようになる。つまり「権力⇔司法⇔真理」という構成の三角形があるのです。-フーコ『防衛講義』-

30 マンデラガンジーを継承した非暴力主義ですが、物凄い武闘派の時代があったんですね、彼の追想文を読んで驚きました。ガンジーは、わたしはよく知りませんですし間違ったことを言うかもしれませんが、彼の対英の非暴力的抗議はその後に必ず起きた激しい民の暴力的抵抗を観察すると、非暴力は暴力を増幅させるような効果をもっていたと観る意見もあるのですよ。わたしは、左翼同士が消滅するほどの殺し合いに絡み取られたことに疑問をもった世代です。結局、スターリニズムは暴力に訴えたから、国家は暴力装置だと言われますけれど、国家を同じ程度に武装化させたのはスターリニズムだとおもっています。これを反省したうえで、わたしは今日主流になっているノンセクトの非暴力の市民運動を支持するものです。言論で覆すことができない絶対真理にたいしてだけは暴力が許されるとおもいます。非暴力主義を支持しますが、しかしいくらなんでもウクライナの人々の現在展開しているような抵抗の形を非難するなんて考えられません

31 英語の授業では先ず英文を読んでから日本語の訳を考えますね。これと同じ順番をもって、古代日本の知識人たちは『論語」を読んだのだろうとおもわれます。『論語』を朝鮮知識人が古代中国語で読んで、それから古代朝鮮語で教えてくれたのです。しかしそうならばその朝鮮語は残っているはずだが、現在どこにもないのはどうしてでしょうか?否、デリダが言うように、痕跡は必ずあるのです。だとしたら、嫌韓の人にはショックかもしれないが、方法論的に考えていくと、古代朝鮮語は古代日本語と「同じ」だから特に書き留める必要がなかったのです。否、言語学は「同じ」はご法度です。古代朝鮮語と古代日本語は同じだという話は日本の朝鮮侵攻を根拠づけました。「似ている」と言わなければいけません。真相は古代日本の奈良は中国と朝鮮の地方みたいな場所だったのでしょう

32津田左右吉皇国史観を批判した学者でしたが、神様(実在しない天皇)にたいする名誉毀損を理由に逮捕されました。現在も、「天皇神武天皇のY遺伝子がなくてはならない」などと言っています。神話に書いてあるからと言って、そのとおりのことが実在するわけではありませんが、北一輝が指摘したように、「万世一系」の観念が素面の日本人を狂わせるのです。皇室の神聖は神々の支配権との連続性に存しますが、これを書いたのが『古事記』です。神聖というのは、至高なものではなくて、ただ国家神道的な神々しさだけです

33 顕幽論は神聖性と至高性の対立する観念を語る。光は彼方に見える暗闇から来た神のものであり、また覆い尽くせない暗闇は交換できないものでは無い。知識人は何処から現れるのか

知識人は理念であり光であるが、理念の高慢さをおさえにかかる暗闇ー先祖がつぶやくーが覆い尽くせないところから存在する

34 ダブリンの渋滞している交差点に車掌も客も乗っていないバスが説明もなく在ったりするが、こういう人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは役にも立たない

35 アムステルダムが好きである。どんなものもはいってくる運河をみると、社会の設計とは信頼の設計であるとおもう。先ずは他を信頼するのだ。移民国家はリベラルの運河化である

36 アムステルダムといえばユダヤ人。オランダ人はユダヤ人に関心が無かったとしか考えられない。家の中を綺麗にしておけ、オランダ人をユダヤ教に改宗させるなぐらいしか言わなかった

37 ユダヤ人陰謀説はこれを軽蔑するしかない。ユダヤ人が分かると世界がわかるとでもおもっているのは勝手だが、ウィットゲンシュタインとフーコを知ると世界がわからなくなる

39 ナチスに支配されたフランスでは誰がユダヤ人の祖先をもつかは分かるという。イギリスはそうではない。ユダヤ人の祖先を研究したひとが調べたら自分がユダヤ人だと発見して驚いた

40 「明白かつ現在の危険」というアメリカの判例で展開したような表現の自由を保障した憲法的リベラルな原則はスピノザにおいて論じられた。それにしても、『エチカ』の哲学的高さを知るものは、学の無い商人出身の彼がどうして『エチカ』を書けたのかを考える。謎である。当時はヘブライ語で聖書を読みたいオランダ知識人が沢山いた。スピノザヘブライ語をどのくらい知っていたかはわからないが、文献学の知識をもっていたので聖書の解釈を与えることができた。そうして知的サークルに入れたのではないか。聖書は神が単数形で記されたり複数形で記されているのは、論理学では矛盾だが、それはテクストの書いてあるその通りに読むしかない。論理学を通すと神学である。スピノザはそういうことを書いている。こういう話は文献学の宣長と神学の篤胤の差異を考えるときにわたしに役立つ。マルチチュード論はスピノザ『エチカ』を読み解いて、”存在としての共通なもの”の意味を展開しているが、これはわたしは理解できているだろうか?

41 共通なものはこれを空とか無が理念化できないものである。空や無は差異だから。部分と全体(包摂された部分)との間に共通なものはない。しかし言語的存在である人間は共通なものを存在の意味として考えることができる。共通なものは多数の方向性をもつ。部分の傍ら全体が存在するような多元主義

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42 


『湖に浮かべたボートをこぐように、人は後ろ向きに(過去を向いた姿勢で)未来へ入っていく、目に映るのは過去の風景ばかり、明日の景色は誰も知らない。』 ポール・ヴァレリー
43 ヴァレリーは「人は後ろ向きに未来へ入っていく」と語る。アイルランド詩人は未来を思い出した。京都の近代の超克はヨーロッパの在り来りのものだが、竹内好橋川文三は違うらしい
45 アイルランドは文学の国だから会計士だった首相も文学の定義を言える。Double Meaninでですと。その純粋なものがparadoxである。バベルの塔の頂点に位置する
46 書くことは並べること。注釈された『古事記』は神を中国思想独自の「神」字で定義するか「カミ」の訓みで定義するかで分裂したが、どちらも漢字を日本人民が依拠できない外部とみる
47 書くことは並べること。神を、中国思想独自の「神」字で解釈し、「カミ」の訓みで解釈することは、同時的なことなのだ。言語の集中が起きる同時性は、主体を表象する内部の秩序を炸裂させる
48 なぜ戦争反対と言えないのでしょうか?展開があまりに早くて、ウクライナが帝国ロシアから自立する民主主義を全体主義(ネオナチ化)と考え、全体主義(ウクライナ人はロシア人であると宣言した戦争犯罪者による市民への無差別攻撃)を民主主義だと考えているからですか?まさか?ウクライナから自由が奪われていることをわかっている多数派も、安倍を内面化していたら、プーチンー安倍が怖いということがあるのかもしれません
49 ロシア国営放送のニュース番組のなかで、「戦争止めて」「嘘をつくな」のボードをもった勇気ある女性は編集部のスタッフで、父親はウクライナ人。NHKはこれをニュースとして流したらしいが、彼ら自身はこれをどう思ったでしょうか。何年か前、アベチャンネルになるな!と抗議した数百名のデモがありました(「NHKをぶっつぶす」のデモとは別です)。マイクをもつひとたちはみんな、NHKに感謝の気持ちを伝えるのですね。特に過去の戦争について真実を教えてくれたと。あまりに感謝するので、これではたたかいにならないと思いました。デモに永田さんがおられましたが、NHKがアベチャンネルになってしまうのは勿体な過ぎると訴えていました。これはほんとうにそのとおりだとおもって聞いていました
50 ローマ帝国ビザンチン帝国の継承を謳う帝国ロシアだけれど母国語ロシア語によってそれが可能だとは思えないのは、現在の音声化した母国語化した漢字の帝国中国の場合と同じである
51 古事記』は神々の誕生と泥が固まった国土の出現を記す。FWも横たわる巨人の地理的表象。phoînix公園塔は勃起ペニス、泥炭(peat)の山湖は男神女神が別れる前の陰部

アイルランドは泥んこ大好き。ジョイスの「自分で決めた亡命」は、「ヨーロッパでレンズ豆のポタージュ」を選んだ。これは男神女神に別れる前の土地の陰部を表す泥のイメージ?

ラング『メトロポリス 』は洪水が救済イメージをもつ。洪水ニュースを模した『フィネガンズ・ウェイク』の言語は、女神の舐められた陰部の中で起きたおしっこの洪水を表象する

52EUケインズ経済学が教えるように財政政策と金融政策の両方を機能させなければいけないのに、貨幣のコントロールだけだから上手く行かない。雇用に不安をもつネオナチが出てくる
53 「ヨーロッパでレンズ豆のポタージュ」は、ヤコブの提案(「このスープとあなたの長子の権利を交換しよう!」)でエサウが失った長子権を、ジョイスはイタリアにおける亡命で獲ることができない市民権と解した。前衛芸術家の政治的亡命ではなくて、むしろ普通の人々の仕事を求めて国を出る亡命を考えている。サイードの議論を喚起する

‪あいつはアイルランドのけちな割れ豆を我慢するよりヨーロッパでレンズ豆のポタージュをこねまわしている方がまだしもだと言って女と逃げ出し、父息子となった。(宮田恭子訳、2004 集英社)‬

He even ran away with hunself and became a farsoonerite, saying he would far sooner muddle through the hash of lentils in Europe than meddle with Ireland’s split little pea. ‬
‪ーJames Joyce, Finnegans Wake ‬
54 世界資本主義を推進しているプーチンは、世界資本主義を推進している中国共産党天安門広場前で民主化を求める抗議者の劉暁波を米国ネオリベと非難したように、民主化を望むウクライナを非難している。劉暁波ネオリベと決めつけた日本左翼は今日、相変わらず反米か反米でないかで分類する構造主義的見方にとらわれていて、ウクライナアメリカ側におけるものとして「どっちもどっちだ」と位置づけているのではないかとおもう。ウクライナを知らなければ黙っていようと言っていつようでは、結果的には、安倍晋三のロシアのウクライナ侵攻を擁護する見方とおなじではないか。世界資本主義の分割である帝国アメリカだけでなく、それと帝国中国と帝国ロシアと帝国拡大EUを全部、批判的に論じる民主主義の視点をもっていないと言わざるを得ない。帝国か民主か、グローバルデモクラシーの視点からのこの批判を日本左翼はもっていないこと、これが問題である。
54 プーチンがもつロシアのユーラシア主義の思想。私は20年前に知っていた。アイルランドの米国化を心配した宗教画家は完璧だと語ってきた。彼は大アジア主義のことは知っていたが
55 フランス革命の近代はマリー・アントワネットを処刑してしまった。つまりマリー・アントワネットに表象されるものを排除したのである。フーコが分析するようにフランス革命はローマの軍国主義の復活だった。近代は主体をめぐる言説(「わたしは女性である…」)を男性原理の対抗として構成するが、そのために男性とおなじように色々なものに繋がっている態が否定されていることが起きる。革命前夜では女性たちがパトロン的存在として哲学者が集まる文化サロンを主宰していた。今日的には、ブルームズベリー・グループの中心に、ウルフ姉妹がいたのである。女性は生成する粒子だった(「wave 」)。それは原子的多孔性のネットワーク、思考の柔軟性の中心に在ったのである。
56 日本では哲学を語ると女性は離れていくが、フランス人は近づいてくる。まだ野蛮な者を啓蒙しなければいけない(笑)。オーストリア人は賢くて社交的。ヨーロッパの中心だったからかな
イタリアのフェミニズム女性は目線を上げながら知的なことを語ることはできないから、私を必要としている。家父長的なものによる知の抑圧がないイギリス女性が一番自由ではないか
57 稗田阿礼は女性だったと絶えず言われる。宮廷女性だったか?『古事記』を完成させた元明天皇。中国知識人と朝鮮知識人と太安万侶の日本知識人のサークルの中心に女性がいたのだ
58 知識人と文化人

超越的な神との同一化を前提にする絶対平和主義の宗教とは別に、道徳は「暴力をゆるされない」根拠を問う。世俗的に言えば、抵抗というかたちで暴力が許されるのは、言論の自由によっては覆せない絶対的真理に対してである。真理の問題は知識人が問う。真理を問題にする知識人は間違ったら真理にたいして責任を取らなければいけない。「ウクライナアメリカにおけるものである」にたいして反証の精神が働く。反証しても経験的事実に照らして間違いはあるし、それについては責任を痛感するプレッシャーがある。昔は知識人は専門家にたいしていた。反論もできない圧倒的な専門知にたいして、絶望的に限界があると知っていても、何とか市民が思考できるように問題提起したのが知識人である。反核体制派の安全神話にたいする抗議はこういうものである。現在は知識人と対立するのは文化人である。文化人の場合は、彼らが依拠している大衆の理解の中に理解できる形で、思考の神話的秩序を示す。漢字は日本文化のオリジナルをあらわす借り物であると、対象を二項対立的に追っかけるだけだったりするがそのこと自体は大衆的である。みんな、間違っても真理に責任を取ることはない文化人になりたいのだろうし、文化人的発言に共感するようにみえる
59 ゼレンスキーが米議会演説で真珠湾を例に出した。是非国会で言って下さい。植民地を求めて帝国主義化した帝国ロシアと民主ウクライナとの戦争になっていることがわかります

自分はウクライナの「脱ナチ化」のために戦っていると信じて戦死したロシア兵。現実とのギャップの中で自分は何のために戦っているかわからなくなっていたのが多数ではないかな

60 わたしは憲法に書かれた、カントの理想を体現した普遍的平和を支持します。それは全体を見渡す理性の復権だとおもうのです。願いというものではなくて、言葉とともにある権利ですね。しかしそれはイデオロギーではありません。絶対に戦争は反対であるという文は何でしょうか?絶対に戦争は反対と言明するのは、神は存在しないと言ってしまうのとおなじようにそれを言明したらそれきっりです。もし戦争が起きていたら、どんな戦争に反対するかを初めて議論すべきだと思います。国家を対象とした戦争に反対します。それは国家悪だからです。故に私はプーチンの戦争に反対します

The universal and lasting establishment of peace constitutes not merely a part, but the whole final purpose and end of the science of right as viewed within the limits of reason.
- Immanuel Kant

61 フーコを理解するためにはニーチェマラルメの違いをおさえておくことは大切だが、これが論じられるこの章「人間の分身」に先行した章が、古典経済学と博物学の知に限界を感じた「表象の限界」である点を知る必要があるね
62 ラスコー洞窟が、見る者にすぐさま与えてくれる答えは、あくまでも難解をきわめたものであり、半ばしか理解できないものだということを認めよう。それは最も古い答えであり、第一番目の答えである。その答えを発せしめた時間の夜には、暁のぼんやりとした薄ら明かりしか射し込んでいない。ーバタイユ
63 アイルランド神話では海から来た人々が太陽の廻りをまわって踊ります。『古事記』では国造と神産むのメッセージを受けた伊邪那岐伊邪那美が天柱に見立てた国柱を回って出会います
古事記』において、メッセージを受けた遠いものどうしが近づくのは、天柱に見立てた国柱をまわることによってです。これによって、伊邪那岐伊邪那美hs地方神話から国の神話にやってきました

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64 帝国の時代が始まった、湾岸戦争以降、特にイラク戦争では、アメリカの軍事力は圧倒的ですが、しかし単独では戦争できなくなって、ほかの国の協力を必要とするようになりました。世界資本主義も(米•中•ロ•拡大EU)に分割される中で、もはや世界中に米軍基地を支えるほどの財政的パワーがありません。米軍が世界中がら撤退する時代に、日本は米国に依存しない安全保障を確立するチャンスですが、われわれは原発体制の軍事化•核体制を受け入れることはできません。それは憲法に書かれている、全体としての理性の復権である普遍的平和主義にも反するとおもわれます
65 

日本民族の印度韃靼的な血そのものが、この民族をして、これら両個源泉から汲み、かくして全アジア意識を映し出すかがみとなることを得しめた天賦の能だったのだ」(岡倉天心『東洋の理想』)
帝問曰「朕即位已來、造寺寫經度僧不可勝紀。有何功德。」
師曰「並無功德。」
帝曰「何以無功德。」
師曰「此但人天小果有漏之因、如影隨形雖有非實。」
帝曰「如何是真功德。」
答曰「淨智妙圓體自空寂、如是功德不以世求。」
帝又問「如何是聖諦第一義。」
師曰「廓然無聖。」
帝曰「對朕者誰。」
師曰「不識。」
帝不領悟。師知機不契、是月十九日,潛回江北。 — 『景徳傳燈録』巻三
帝は質問した。「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか。」
師は言った。「どれも功徳はありません。」
帝は言った。「どうして功徳がないのか。」
師は言った。「これらはただ人間界・天界の小果であって、煩悩を増すだけの有漏の因です。影が物をかたどっているようなもので、存在はしても実体ではありません。」
帝は言った。「真の功徳とはどのようなものだろうか。」
答えた。「浄智は妙円ですが、その本体はそもそも空です。このように功徳は俗世間で求められるものではありません。」
帝はまた質問した。「聖諦の根本的意味はどのようなものだろうか。」
師は言った。「この世はがらんどうで、聖なるものなどありません。」
帝は言った。「では朕と対座しているのは誰なのか。」
師は言った。「認できません。」
帝はその意を理解できなかった。師は機縁が合わなかったと知り、この月の19日にひそかに江北に帰った。

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「壁となって観ること」即ち壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずること。プラトンが問うように、問題は、魂は真理にいつ達するのかである。

66 ポストモダンは差異化の思想である。全体主義(ファシズム)とナチスの差異を理論的に明らかにしてみせた。われわれは天皇ファシズムアジア主義の差異を認識できているだろうか
西欧アバンギャルドの近代は差異化の運動だった。これを内面化したのがボルシェビキの問題。文化を心のなかに支えるのは、文化権力(天皇)に国家権力を集中させた同じ全体主義である
ベルトリッチは『暗殺の森』でゴダールを殺して、ファシズムの芸術を全体国家を支える暗闇を表現することができた。魂がいつ真理に達するかを常に問う知識人が森の中で殺戮される

魂がいつ真理に達するかを問うことはチューリング の停止問題みたいだ。私は二項対立に絡み取られなければ、到達できる真理が存在するものであると理念的に考えよう
67 魂がいつ真理に達するかを問うことはチューリング の停止問題みたいだ。私は二項対立に絡み取られなければ、到達できる真理が存在するものであると理念的に考えよう
68 ニーチェに扮するダンサーが本を読んで、ダンサーたちの輪に沿って歩く作品をみた。若いときはモーリス・ベジャールも、ダンスの練習のときは哲学の本ばかり読んでいたらしい
69 神字はシンとカミという2つの読み方が可能だ。宣長はカミと読むことを絶対的に選択した。つまり2−1。抽象的思考を喚起する現代ダンスを見ながら、N−1に一般化できると考えた
70 ポストモダンはあえて領土を理念化した。脱領土化は大地からの離脱である。再領土化でも脱コード化している。言語の中に国を制作した復古主義は国家を再発明できるようにした
71 アイルランドの芸術家たちはユーラシア主義に共感をもっていましたがね、ゴルバチョフの上からの改革が失敗したために、プーチンを選んだ国民には、亡命知識人が語るような民衆に過剰に期待する言説が成り立った可能性があるのでしょう。ここから、危険なナショナリズムが起きていたと思われます。最近、中国の学者たちが習近平にロシアから離れろと警告していますね。私は、帝国中国が、プーチンが依拠するロシアの語られ方を作ったこともあると考えています。もうそうであれば、帝国中国を擁護してきた知識人に責任がありますよ
72中国が武器を送ることを考えているらしいがプーチンとか習近平みたいなあんなくだらないものにどうせ殺されるぐらいならば私は卑怯者と言われてもたたかわずに逃げだすよ
73 世論は、戦争責任を果たしていない日本の極右翼(日本会議)を全然問題にしないのに、ヨーロッパのナチス戦争犯罪を裁いた後に出てきている極右翼が気になって仕方ないらしい
74 古事記』は兎に角名前が多い、漢字が読めない、カタカナだとどこを切って発音するの、主人公は誰?訓(よ)むのが難しいと漢字に絡まれた君は脱イデオロギーのテキスト論にいる
75 中国は「歴史の正しい側にいる」と主張。ロシアもこの種とおなじ自己証明にとらわれているようにみえます。ヨーロッパ中心主義を批判したポストモダンの時代、歴史の多元主義化のもとで、国外であれ国内であれ民主を踏みにじる我こそは普遍なりという普遍主義の<語られ方>が帝国の間で分割されています
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イギリスの移民国家の文化多元主義アイルランドの地域紛争を解決するためにはEUの介入を必要とした。同様に日本が移民国家の文化多元主義としてやっていくためにはEUモデルの東アジア共同体の成立が要請されるだろうとおもう

77 ロシアの裁判所はフェースブックとインスタグラムを禁止。フェースブックの禁止は真実を恐れる独裁国家の記号となっている
78 反米かそうでないかにとっては、ウクライナは真か偽かですが、反戦にとってはウクライナはわれわれのウクライナです。われわれのウクライナは、ウクライナと人々が存在します
79 古事記』の山はわれわれの山である。山はわれわれの語りに存在する。山と神がいる。山は思い出されると(山が)目覚めるような妖精的な名づけではない。
80 書くことは並べること。並べることは世界である。『古事記』は生成する神々の名が次々に出てくる。名とは何だろうか?集合というのはわからなかったが、名とは集合のことである。「これはパイプである」という文は集合(パイプの)を指示している。「パイプ」は個物に言及していない。集合とその構成要素は別々である。これをつきつめていくと、名は対象をもたない。そうすると、世界は名と名づけられないもので成り立っている。たとえば、詩人が語るのは名であるけれど、しかしどうもそうではない。固有名というのがある。固有名は場所を指している。神話の「山」は名である集合であるけれど、固有名みたいなものじゃないか。神話においては、「山」はわれわれの語りのなかに存するのであって、われわれの「山」である。神話の「山」は山と神があるのである。詩人が語るのも、死に場所としてのわれわれの「山」であるという感じである。詩人は山と言うときは逃げ去った神の痕跡をさがしているに違いない
81 シェークスピアの「ハムレット」に関心をもっていても、劇団に興味がある人はそれほど多くないのは残念である。況やその劇団が拠点とする芝居小屋の存在に関心をもつひとは稀だろう。しかし鄙びた裏道にある芝居小屋の中の壁を見よ。ロゴスは無いし人間もいないのに眼差しをもっていることに気がつく。それは純粋な表象作用である。おそらく疎外に生きるわれわれにつきまとう即自的な影かもしれない。上映前の、死装束のようなスクリーンがそうである。なにしても、徴は表象とともに至る所にあるのだ
82 現代ウクライナの民族的アイデンティティを築くこととなった原点の一つに、ソ連支配下ウクライナで起きた人為的大飢饉(ホロドモール:1932-33)があるらしいが、19世紀の植民地時代のアイルランドも帝国イギリスにたいする信頼を失わせるジャガイモ飢饉を経験した
83 ダビリンはFWを読んで河に河と女神が存在すると語ってきたし絵も描いた。『古事記』を読む現在、これから、山や島々に神がいると語るかも。言語のなかの神を再語りする面白さ
84 インターネットがあったらホロコーストは起きなかったとエーコとカリエールは喋っていたが、確かにプーチンのロシアは侵略が簡単にいかない。危ういが台湾侵略も難しいのではないか
85 古事記』の序文を読むと、中国知識人と朝鮮知識人の影響のもとに彼らに育てられた日本知識人が書いたものであることは明らかであるが、宣長の『直毘霊』を読むと、序文を否定しないが、そういう外部的なものによる成立のあり方を隠蔽して、漢字を借り物とした上で、日本人の道は大和言葉で伝えられてきた声の独立性に支えられている<一>に存すると強調する。他方で、『古事記』を読み進めていくと、宣長は神にたいして絶対的に服従する注釈がある。神の生成を語る『古事記』は多神教的な<多>を語っている。神と言っても、そこで救済が語られることはない。死んだら女神伊邪那美が行った穢らしい黄泉の国に行くだけである。宣長の思想において、<一>と<多>とが両立しているが、これはどのように可能となることなのか?これはポストモダンがいう微分多様体なのか?何か興味深い思想ー帝国の多を一に還元するから自立した多元主義の方向の?ーがある..
86 
毎日『古事記』を少しだけ読む
横になって、顔のしたにあるような
仮面をもった一文を考える
漢字も眠るのだろうか
眠っている間、夢を見るのだろうか
87 国会のゼレンスキーはリップサービスか。そうかもしれません。これに関して、シリア人から言われた言葉をおもい出しました。原爆を二度落とされた日本はアメリカに負けていないとわたしにいうのです。平和国家となって経済的繁栄を実現していると。これは解釈改憲公式参拝による国家神道の復活と軍国主義の復活を知らない過大評価か、リップスサービスとおもいましたが、普通の人でもそう考えていることはたしかです。少なくとも平和憲法は普通に国民の「勝利」のはずだし、戦争が多い国ほど理想に見えるものだと考えました。況や戦争を強いられている国は..
88 第二外国語として、スペイン語とロシア語を選ぶ子どもたちが多い。理由はスペイン語話者の人口が多いこと、またロシアの国土の大きさ(地上の8分1)による。わたし的には、フランス語とドイツ語は頭のいい人たちに占領されていて劣等感に苛まれるし、英語は昔だったら一生懸命中国へ行ったが現在はアメリカに行っているという感じで立身出世の嫌な野心で充満している。昔は、イタリア人からは何か好かれるし、結局イタリア映画が一番好きだし彼らの美意識を尊敬するから、イタリア語なんかいいと思ったが、しかし彼らは日本人に向かって人生を見失っていると説教したい。深いところで断絶があるかもしれない。幸せをもたらす第二外国語は何処の国の言語か、これが問題である
89 今日3回めの接種。記録用紙に、1922年3月24日と書いてしまった。1922年は『ユリシーズ』の出版の年
90 「日本文化で一番大事なのは教育勅語にある家族主義」 参院憲法審で自民議員が持論展開(東京新聞)

明治日本が実現した、皇帝が臣民に教育を与えるという明と清の帝国的理想は新しいものです。数十年で破綻したものを大袈裟に日本文化と呼ぶのですか?国家が教育を与える制度としては容認できるが、天皇は日付が無限に遡る神に連なるので、これは問題だったとするわたしの友人の意見があります。津田左右吉は神を冒涜した罪で捕まりました。わたしはそもそも国体の中心にある教育勅語の役割を認めません。古代は男尊女卑がありますが、家父長制を神格化した、万世一系的男性原理の連続性は近代の男尊女卑ですね、これはわれわれの精神を形成する文化ではないので廃止できます
91 芸術とが戦争の基盤となり得るとジジェクが言う所を、われわれは世界史知がロシアの<語られ方>を作ると言いたい。帝国知の基盤である世界史知を批判しない限り問題が解決しない
92 現代ウクライナの民族的アイデンティティを築くこととなった原点の一つに、ソ連支配下ウクライナで起きた人為的大飢饉(ホロドモール:1932-33)があることを、今回多くの報道番組解説者らが指摘している。

しっかり考えておかなければいけない有名な史実ですが、わたしが高校生のときは教科書にそういう記述がなかったように記憶しています。

仮に、世界史の教科書に記述があったとして、わたしはそれを知っただろうかとおもうのです。わたしは、古代史に遡って近代・現代史を語ることに反対です。近代・現代史は、1870年以降から成り立つものです。フランス革命アナキズムを発展させたのはパリコミューンです。他方でフランス革命国家主義を選択していったのはロシア革命ボルシェビキで、スターリンウクライナ国家への抑圧はこの中で理解できるものではないでしょうか。何というか、古代中世を現代に連続性あるものと物語る世界史は帝国ロシアに都合の良いものなんですよ。芸術と思想が戦争の基盤となり得るとジジェクが言う所を、われわれは世界史知がロシアの<語られ方>を作ると言いたいです。帝国知の基盤である世界史知を批判しない限り問題が解決しないとおもいます。ロシアの戦争は彼らの支配を世界史に沿って正当化する知の戦争という側面があります
93 文学で暗示されているような、暴力と性的虐待が根強くある問題がアイルランドにあるのですが、これは大飢饉のトラウマによるものではないかと分析する研究もあります。飢えた人間はストレスをかかえるのですね。アイルランドは、19世紀に800万人いたのですが、現在は半分の500万人です。人口減理由は移民と大飢饉(100万人ぐらい?)です。思い出すと、Holodomorの話をする人がいました。植民地時代のアイルランドは、大飢餓に何の対策を取れなかったイギリスに失望してこれから独立したいと思ったのですから、況やウクライナの場合は人為的大飢饉を作りだしたロシアから独立しなければやっていけないとおもってきたのでしょうね。
94 ロンドン時代に、ユダヤ系の友人に、「どうして豚を食べてはいけないのか」と聞いたら、「豚の遺伝子は人間と殆ど同じだから人食いになる」と青ざめた。このとき私は理由が無いことを知った

人類学は自然と文化を見渡すことができる学である。レヴィストロースは禁止は文化か自然かと問うた。これについてデリダが語っていた。

インセスト禁忌はたんに禁止であるだけではない。それは「~してはならぬ」とだけでなく、同時に「~せよ」とも命じる。インセスト禁忌は、この禁忌の拡張された社会的表現である外婚と同様、一つの互酬規則なのである。人がみずからと他人に女を拒むとき、まさにそれによってこの女は供与される。(中略)すなわち、私がある女の使用をみずからに禁じ、その結果この女が別の男にとって処分権〔使用権〕の対象になる瞬間から、どこかに、ある女を権利放棄する男がおり、この権利放棄によってその女が私にとって処分権の対象になる。禁忌の内容は抑止することに尽きるのではない。禁忌が制定されるのは、直接的にか間接的にか、即座にか時間を置いてか、ただ交換を保証し基礎づけるためなのである。(福井和美訳『親族の基本構造』)
95 矛盾を禁止するように無矛盾を前提にすると、無矛盾は形式証明できない。無矛盾では、真理が無限の高さになってしまって、魂が真理に到達できないのではないかという哲学的問題が起きる
96 無矛盾では、真理が無限の高さになってしまって、魂が真理に到達できないのではないか。西田幾多郎の「絶対矛盾」は、無矛盾という「対象論理」を禁止してこそ、直観的に到達できると言っているのではないか。しかし西田は対立の解消を否定しているのだから差異を保つのかといえば、そうではない。「絶対矛盾的自己同一」なのである。西田は差異を保つ多元主義ではない。
97 フランス革命は市民的アナキズム国家主義をもつ。民主ウクライナは前者を自分のものにしようとし、帝国ロシアは後者を発展させてきた。ユーラシア主義は民族の世界史知を利用する
98 中国共産党に対するギリギリの批判を含む子安先生の中国論についての本が、何と習近平独裁のもとで新聞の書評が出た事実は、中国というのは、反中•嫌中が勝手に言っているような単一社会では決してないことを考えさせるものである。なるほど、独裁の状態になっていても、日本に無い自由をめぐる議論は活発であるという
99 病院のテレビのニュース番組で情報戦を分析していたけれど、これは冷戦時代と勘違いしている時代遅れのどうでもいいような細かい話だと思った。それよりは、言説の戦争である。物の見方は一度確立すると、その中にあってそれとは別の見方をするのが難しい。プーチンの物の見方を作った言説とは何かを考えるべきだとおもう。世界資本主義に対して、グローバルデモクラシーの普遍主義を再構成すること、これが、帝国の見方によって、非常に悪い形になっている。プーチンアメリカの普遍主義とは別の普遍主義を見いだそうとしても.. 問題は、帝国が作る普遍の<語られ方>にあるとおもう。
100 トルストイの小説に書かれたような女の子に「付き合ってください」と言ったときは観念過ぎた。「何々とどう付き合うか」は大きな問題である。『世界』は中国とのバランスをとりたい

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荻生徂徠の影響の下に後期水戸学は、国家の<語られ方>をはじめて作ったことである。それは現在のわれわれが国家を再制作する可能性を開く画期的な意味をもった。幕末の活動家的知識人は言語のなかにすむ国家を制作した。その言語とはほかならない漢文であった。だから自由民権運動中江兆民は、朱子学的思考に規定された「天命の自由」と「人義の自由」を発明しなければならなかった。中江に先行して、これは北村透谷の漢文エクリチュールで書かなければならなかった自由の理念が存在した。

明治二十年代の「透谷も天下国家を議論しようとする悲憤慷慨の精神の持ち主であったと言える だろう。彼が漢文体に託した思想は政治と連動する「経世の志」や「悲憤慷慨」と背 反する思想ではなく、むしろそこから進化したものだと捉えられるはずである」(Lu Chen)







書くこと 400−500

1、書くことは並べること。

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2

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『裁かれるジャンヌ』の少女は、村ではジャネットと呼ばれていたという。英語を話す村で育ったのである。フランスの英雄は本質的な意味でフランス語で語らなければいけないのに、少女は英語で喋っていたのではないか!と考えてみることはポストコロニアリズム的テーマである。しかしもっと衝撃的なのは、少女は自分自身の名から自分自身を絶えず抹殺していることである。書物の純粋な儀式の中に、誰が署名するのかを執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、己の固有の言語から自分自身を絶えず抹殺したのである。これは、『ユリシーズ』の最後に、ダブリンの署名がないように、ポストモダンを構成するテーマである。


個体の生命は、古代と同じように、ふたたび死すべきものとなったのである。しかも、世界は、宗教時代よりも安定性と永続性を欠き、一層信頼できないものとなった。近代人は、来世の確かさを失った時、自分自身に投げ返された。世界に投げ返されたのではなかった。(ハンナ•アーレント『人間の条件』)

わたしは死んだら消滅するだけ、後のことは考えても仕方ないと思うのと違って、『裁かれるジャンヌ』のジャンヌは身体と魂を分離させようとする審問に繰り返し怒りの言葉を発する。コスモロジーをもっている。もちろん映画のコスモロジーであるが、声を獲得したトーキー映画はこれを失ってしまう。死すべきひとりぼっちのわたしと自分自身しかない。声は、一から他へと与えられる、存在にかかわる贈り物でなければ、うしなわれるのは友情である。

本居宣長の文献学-哲学は篤胤の哲学-神学ほどではないが、理学の言説を全否定して、この物から成る多数の神々の向こう側にみえる原初的過去の一神の名を指示する理念的高さがある

書くことは並べること。<間>に在るために。多神教の原初的経典に書いてあるとおりに読む文献学と、一神教における矛盾を許さない神学との<間>に立つ哲学は、存在の意味を考える

明治維新の失敗を東京一極集中の失敗として理解したのはよかったのですが、その問題を解決するためにと考えて大阪の東京化をすすめているのでしょう。権力集中を解体するため再び権力を集中する?そして資本主義の格差を生み出す何でもかんでもカネがモノをいう問題を解決してくれるのは何でもかんでもカネがモノをいう体制だという喋ってる姿を見ていて此方が恥ずかしくなる、この原理主義的なものが始まるのはいつからなのですか?

9 ケインズ『雇用・利子•貨幣の一般理論』で貨幣数量説の知の大きな網目がほどかれて、近傍のような変量の諸断片を組み合わせた修正された一般的貨幣数量説を呈示する。どんな機能も機能しないからこそ万事順調である。議論が起きるからだ。芸術作品もそういうものである。彼は芸術家集団ブルームズベリー•グループにいたが、芸術論を資本主義を分析する言語で書いたのではなかったか

10 宣長が後期水戸学のイデオローグのために開くことになった文献学=哲学的空間に、神(カミ)と訓(よ)む言語(日本語)が介入する。神(カミ)が神(シン)に論理的に先行することになった

古事記』は日本の「語られ方」をどう作っているのか。18世紀宣長は見出した『古事記』の語られ方をどう作るのか。中国文明から自立できるかは神の名の読み方にかかっていた


古事記』で訓(よ)みだされる一つの神話の根底に一つの民族があると考えることは、天の岩戸の誰も入れない洞窟のなかで一人で映画を観るのと同じぐらい不可能なことである

11 ラッセル。ここでは、知的に考えなさいと呼びかけているが、主観的であればあるほどアナキズムになる危険があるから、the factに留意しなさいよ、そのためには事実をみること。しかしこれは難しい、わかってはいるけれど。これについては議論を深める必要がある。ラッセルは世の中は互いの結びつきが大きくなってきたので、自分とは異なる意見も接するようになった指摘したうえで、学と道徳とがいっしょにあるべきだと言っていることはたしかにそうで、17世紀の伊藤仁斎も学びと道徳的自立を言っている。現在の文脈で考えると、イデオロギー原理主義に陥らないこと、内部に絡み取られることがないこと、また惻隠の情を大切にすること、先ず他者を信頼すること、卑近な人々と隣国どうしを大事にすること(アベのナショナリズムがやっているヘイトの互酬的連鎖を避けること)。知的であることは愛することーリベラルなヒューマニズム

12 言葉と思想を以て戦うこと

武器ではなく

ギリシャがはじめてこれを言い出した

13 神話の根底に一つの民族がある?そうかな?アイルランド神話のクー・フーリン(Cú Chulainn)は英国におけるフェミニンなキリストのマッチョ化である。『古事記』だって

14 百済の亡命知識人が国家日本を作ったと言っても間違いではないのではないか。彼らがしたことは一言で言うと、歴史を書くことmaking history だった。「日本書記』は中国知識人と朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人が一緒に書いたものである。

15 マフノとはだれか、そしてマフノビチナとは何か。大杉の説明を聞こう。「マフノビチナとは、要するに、ロシア革命を僕らのいう本当の意味の社会革命に導こうとした、ウクライナの農民の本能的運動である。マフノビチナは、極力反革命軍や外国の浸入軍と戦ってロシア革命そのものを防護しつつ、同時にまた民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府とも戦って、あくまでも民衆自身の創造的運動でなければならない社会革命そのものをも防護しようとした。」ー子安宣邦氏「大杉栄の批判的先見性ーボルシェヴィズム批判」より

16 言語とは何か?文学と思想は何か?これは好奇心をもつ私を利用して、言語と文学と思想が向こう側にある自分自身に向かって問いている。答えは先送りのまま日本語の存在に呆然とする

17 日本ネオリベの何でもかんでもカネがモノをいう原理主義に巻かれたら巻き返さなければいけないが、芸術はそれと十分にたたかうには小さくなり過ぎてしまったか。これしかないとばかり時間を機械的にフラットにする全体主義的包摂にたいして弱腰だけれど逆らってやりたい

18 文化多元主義

わたしは子供時代にオーストラリアの白豪主義をやめた文化多元主義を目撃した。また大人になって、イギリスのヨーロッパ中心主義をやめた文化多元主義を知っている。文化多元主義は平和ときは最大の恩恵をもつが戦争をすると最悪になってしまう。オーストラリアの多元主義ベトナム戦争で上手くいかなくなったし、イギリスの文化多元主義イラク戦争で壊れてしまった。だから文化多元主義である以上、戦争を避けなければいけない。また多元主義の空間に中心があると、たとえばひとりの白人男性がいると、意味がないので、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨする市民のみんなひとり一人がマイノリティになる必要がある。理念的に、文化多元主義の言説から民族的表象を切り離さなければいけない。明治維新を再発明するのは、憲法を活かした移民国家的民主主義の文化多元主義である。すでに移民国家なのだし、すでに移民国家なのだし、多元主義に関して言えば、百済の亡命知識人が国家日本を作ったと言っても間違いではないのではないか。彼らがしたことは、一言で言うと、歴史を書くことmaking history だった。「日本書記』は中国知識人と朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人が一緒に書いたものである。

19 昭和天皇がやらなかったことで平成天皇がやったことといえば死者の弔いのことだとおもいますが、この人気ある平成天皇は、戦後憲法を支えるヒューマニズムを以て、憲法が絶対にやってはいけないと禁じた国家祭祀と等価の祀りをやってしまいました。〈おことば〉の朗読を超えるような言葉をーかつての植民地時代の「大御心」を喚起するー語っています。清宮などの憲法学者たちも、象徴行為(「象徴としての行為」とは別)という独自の解釈からそれらを認めていきます。統治機関である天皇に人権を認める有り様です。その結果、人々は自分たちの人権(言論の自由)のことよりも天皇の人権を心配しています。天皇主権の戦前と同じような感じで、国民主権がなくなってきたとおもいます。ますますみんな自由に喋れなくなってきたなかで、この山田氏のような思考停止です。こう言っています。「平成の時代には、昭和天皇がやらなかった、あるいはできなかった「昭和の戦争」の後始末の一定の部分を明仁(あきひと)天皇美智子皇后が果してきたとも言える」と。呆れたことに、内田のような吉本左翼はすっかり天皇抑止論ですしね

20 言語とは何か?文学と思想は何か?これは、労働のために問うものでも、命のために問うものではなくて、ただ、孤独なというか、脆くあまりに頼りない存在であるこのわたしの好奇心による問いである。いつまで答えは先送りのままである。しかし古代ギリシャの市民も同じように好奇心からワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨしたのではなかったのだろうか。ただしギリシャは戦争の欲望に絡み取られた。『ユリシーズ』のブルームも植民都市ダブリンを議論に解決を与えないかのようにワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨしたのも、「ギリシャ-ユダヤ」精神だったから。帝国主義の戦争が美化する死よりも遥かに充実した1日のあり方を示したー意識であれ、神話的無意識であれ

21 WILLIAM BUTLER YEATS:

Turning and turning in the widening gyre   

The falcon cannot hear the falconer;

Things fall apart; the centre cannot hold;

Mere anarchy is loosed upon the world,

The blood-dimmed tide is loosed, and everywhere   

The ceremony of innocence is drowned;

The best lack all conviction, while the worst   

Are full of passionate intensity.

22 近代とは絶えずはじめるために終わるあり方を考える。終わったら始まりがあると。終わったらもう終わることができるのに。死に切った絶対の過去こそ文化だ

23 ダブリンに行ったときはシングの詩は読めたのだけれど、イエーツと彼のゲール文藝復興運動は分からなかった。東京に戻って古学と後期水戸学の勉強を契機に復古主義を再び考えている

24 ヨーロッパのジョイスを語るためには、復古主義の近代であるイエーツを「父」としたうえで、自分で決めた亡命で反オイデプスの孤児となったアイルランドジョイスを考えてみよう

25 文献学の近代の助け無くしてはどんな過去も近づけない。そこから復古主義は、近代の永久革命的な解体的自己発明から自立する為に、他者である読めない死に切った過去の導入を試みる

26 馬鹿の国ニッポン、すごい。たえず徴を解読するつもりでいるので、あらゆる価値、あらゆる関係を逆転させてしまう、日本人にとって、元号とは天皇なのだ。顔=personal history は戦前が二回あったこと、太平洋戦争に先行する10数年の日中戦争があった歴史を忘却させる。『万葉集』からとった令和は、支配する側にとって都合のいい仮名の元号でなかったのだけれど、漢字の表意性のおかげでなんとか偶像に抗う思考を保っている感じである

27 平和の祭典でも、アジアでもヨーロッパでも第三次世界大戦のまえなのかしら?

28 現在はOccupy Wall Streetの非暴力の抵抗が主流です。あさま山荘事件50年ですか。日本左翼はなぜ消滅し合ってしまったのかについて反省されているのでしょうか

29 日本語を喋る人たちが存在するだけで、「日本人」なんていないと思う。左翼は近代化が上手くいかないのは「日本人」だからだと繰り返し言って「日本人」を実体化してきた責任がある

30 母国語の中の異邦人たれとポストモダンはいう。異邦人は死に切った過去、江戸思想の言語へ行く。シナ学の西欧近代の壁をbreak throughして向こうにある朱子がみえる

31 書くことは並べること。考えるためには並べる必要がある。

言語支配者は漢字マイノリティの漢字の「語られ方」をどう読むだろう?古学は経書の「鬼神」の命名に国家の制作を読んだ。漢字はこのような思考が可能となるためには不可避的な存在である。聖人は中国にしかいないー東夷にいないーという言説は中華世界の優越的オリジナルをめぐる漢字マイノリティの漢字の「語られ方」である。他方で国学は漢字の向こうにある原初的古代の声によって国家神道天皇制国家を考えようとする。何よりも神(カミ)の名を正しく読むことが大切で、この場合「神」をシンと読ませる漢字は借り物でしかない。固有なものは原初的古代の声にある。やはりこのような中国文明からの‪自立を表象する‬言説も、中華世界の普遍主義をたたえるのとは反対方向から、漢字マイノリティの漢字の「語られ方」をつくっていたのである

32 北一輝天皇批判は天皇機関説よりもラディカルなのは彼の明治維新(上からの近代化)への失望の深さを示している。国家民族主義という明治維新の再発明を外部(中国)に託したのか?

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33 宋代または明と清の理想を実現したのは近代日本においてである。しかし明治の失敗は帝国化である。ポストモダン中国が成功するかどうかは日本と同じ間違いを繰り返さないかどうかだ

34 フーコは言語の回帰をめぐる「語られ方」をどうつくったか?もはや言語は存在しない。言語は言語の「語られ方」に存在する。ニーチェマラルメにおいてはじめて言語が言語を語る。向こうにみえる何という孤独な氷壁の白鳥の儚い存在。割れた鏡の私は何処にも属するが、白紙の本の何処の部分になることはない

35 何も言わぬにもかかわらず、決して黙ることのない、「文学」と呼ばれるあの言語とは何か?どんな計画も(反計画も)機能しないが黙ることがないのが言論の自由の明確なイメージ

36 ウクライナレーニンが作った」は、日本右翼おじさんが「台湾は日本が作ったから日本は特別だ」と語るのとそっくり。ロシアと日本でなくとも他の帝国主義の国が「作った」のに

37 Brexitの後のEUは英語を母国語としない国同士が英語でコミュニケーションをとっている。それでやって行けるらしい。EUは英語をやめると英語の権威に影響はあるだろう

38 戦争を理念化したのはD=Gが最初ではない。竹内好が戦争を理念化した(日本は米国ではなく侵略した中国に謝罪せよ)。アジア主義が破綻したのは、戦争機械が帝国的国家の内部にあったからだ。

「戦争機械は常に国家の外部に位置する。たとえ国家によって利用され、横領されたとしても、戦争機械は国家の外部にあるのだ」D=G

39 何も言わぬにもかかわらず、決して黙ることのない、「文学」と呼ばれるあの言語とは何か?ポストモダン多元も新しい普遍主義も機能せぬが、黙ることがない文学機械が21世紀の思想

30 昨日は、わたしの誕生日に天皇が生まれたらしい。迷惑なことに、天皇とおなじ誕生日だと告げると左翼たちから必ず爆笑されるのはどうしてなのかわからんね。多分神聖なものと変なものとの偶然の出会いが面白いのか、そんなことだろうとおもうが、そうだとするなら、このわたしを変なものと考えるのは自由であるが、神聖なものとは何か?結局は、戦争を推進するなかで戦死したものを祀る『万葉集』の時代から、天皇の俯瞰的視点で国家を見ている日本知識人のあり方に気がついてしまう(苦笑)。下は、出版から30年読んでいるプラトニズムについて現代的に解釈している物理学者ペンローズの本。ほんとうにゆっくりだが、ペンローズが描いたイラストのおかげで、文系のわたしにもわかってくる科学の発見的言語がたくさんある。しかしこの本のタイトル(「皇帝の新しい心」)の意味だけは物理学者がどんなことを言おうとしているのかあまりわからないでいる。天皇の大御心を考えると腹がたって仕方ない。それは植民地主義だからである。現在みんなが気になっているのは、ボルシェヴィキの一国社会主義が生み出した皇帝プーチンの心である(汗)。だがワグナーのパトロンであったルートヴィヒ2世の「心」のことは考える価値があるとおもう。神話に魅了され長じては建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した「狂王」の異名で知られるが、しかし国家の戦争のための軍国主義に予算を使う方向に反対した彼のやり方だった。ルートヴィヒは監禁されてしまうが、かれは正しかったとわたしはおもう。最後に、ペンローズは大変知的なひとで、ジジェクがたたえていたがフランスの現代思想に通じているらしい。フランスの誰だれの思想を表現してやったぞと仲間の間で話しているらしい。思想の表現とはなにか?思想が依拠する言語を表現するためには、あえて、思想の言語の中で亡くなってしまった物を見い出して、そういう物は正統的に数学だったりあるいは異端的に文学や芸術かもしれないのだが、思想を拡張するということではないだろうか。思想は復古主義の思想に関心を持つのは、そもそも思想それ自身が復古主義的なものだからなのである



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40 ヘーゲル法哲学民法を分析している。「思想を自分の物にする」という文を考える。思想は自ら、外部の言語である市民法に表現している。「憲法を自分のものにする」と言われる

41 19世紀に徘徊した怪物は共産主義、21世紀に帝国に徘徊しているのは再び皇帝である。現在世界が気になっているのは、20世紀ボルシェヴィキの一国社会主義が生み出した皇帝プーチンの心


一国社会主義と帝国の皇帝プーチンとは関係がないだろうか。しかし「レーニンウクライナ作った」(からロシアのものだ!)とプーチンはいう。やはり両者の間に連続性があるのだ


42 ロシアのウクライナ侵攻も、起き得る中国の台湾侵攻の場合も、われわれと彼らとの間に排他的境界線をひくことによって、われわれなしの領域にわれわれがいる権利を主張するものである。これは、なにか、文字のなかった、それ故に日付を無限に遡るわれわれなしのヤマトの時代に現在の日本人のわれわれを置こうとする過去を占有する近代主義イデオロギーと無関係なのだろうか?こういう起源の言説は日本が百済の亡命知識人たちが中国知識人と彼らが育てた日本知識人と一緒に『日本書記』を書くことによって作った国家であることを隠蔽してしまう

43 ポストモダン中国は近代の<語られ方>をつくっている。中国的近代が12世紀宋の時代に成り立っていたという。たしかに、思想的に言えば、朱子コスモロジーの言語の傍らに、デカルトとカントと等価な超越的思考の近代がギリギリあったといえるかもしれない。清沢満之を読むとそう思うのである。しかしフランス革命の間違っても自由に喋らせてくれという多元主義の方向をもった政治はヨーロッパにおいて起きただけである。そのことは、ほかでもない、中国が示している

44 わたしは10年近くアイルランドにいました。第二次世界大戦のときはイギリスは、アイルランドがドイツに占領されては軍事的に不利だというので、まさに今日ウクライナNatoにはいるかもしれないウクライナにやっているような勝手なことをやりました。今、帝国主義の周辺国の困難な立場について考えます。

歴史をみると、ウクライナの農民はロシアの前衛的革命を支持してこれを守ろうとして外国の反革命の軍隊と闘いましたが、アナーキズムだったので、国家主義をとるボルシェヴィキから弾圧を受けたようです。大杉栄はこれを観察していました。現在は何か、この時代のことが繰り返されているようにおもいます。

社会主義の国は中国しかないのですが、どうして中国の社会主義が崩壊しないのだろうか、これは一考の価値があります。柄谷行人はうまいことを言っていて、それは、中国は社会主義ではないからだと説明するのです。ロシアとは別の、まったく独自の社会主義であるということですね。ロシアはウクライナを支配しようとしても、ウクライナ語の民はロシアに抵抗し続けるでしょうが、中国が台湾を支配すると、支配者と被支配者の言語(漢字)はおなじですから、台湾人は支配関係を対象化できずに受け入れてしまうことが起きるかもしれません。


中国はウクライナ情勢で自制呼び掛け 「侵攻」ではないと主張しているのは何も言っていないに等しいです。中国は隣国との関係を大事にしようとは考えていないことだけは分かります。


世界史を読む直すために帝国-知みたいな構造のことが言われるようになりましたが、これに対して、帝国の周辺国の同化されない権利を研究するひとはいないのでしょうか


帝国の周辺国の同化されない権利を研究するひとは韓国に沢山います、国の歴史であるからだと教えて下さる方がいました。この数年間朱子学を勉強してきましたが、理を気の純化ととらえるような、純粋朱子学である朝鮮儒学の一元主義的にみえる方向性のことをちょっと考えました。

45 洞窟の暗闇の中で太安万侶は言語の存在と共にあって天照大神を書くことは、一人で映画を観る鍵のかかった部屋に誰もはいって来れないことがあり得ないように、不可能である

46 イギリスで学んだことは、一人で映画を観る鍵のかかった部屋に誰もはいって来れないこと。たしかに私は言語の存在と共にあるときは背後に既に誰かがいるか、私は部屋の外にいるか

47 汎スラヴ主義は、西欧の没落をめぐる言説のなかで無神論社会主義的西欧に対するアンチテーゼとして打ち出されたことは分かったが、大アジア主義を想起させるものかどうかはわからない

48 カントの啓蒙的ヒューマニズム定言命法「人を殺してはいけない」は、アジアは人は道(道徳性)がない国から筏で逃げろと語る。「人を殺してはいけない」は半分言葉で半分は行い


カントはサルトルと比べると言葉の分析がある。「人を殺してはいけない」はどういう文において成り立つかを考える。「人を殺してはいけない」は「もし..」のない定言命法で書かれる。「人を殺してはいけない」は判例からこの原則が導かれたのではない。先験的に、人間が人間としてある限りにおいて貫かれる道徳則である。戦後憲法のカントからの影響は明らかだが、問題は、安倍と自民党のように憲法を守るつもりがない者に通じないことである(解釈改憲の問題が起きてくるよ)

49 ポストモダンネオリベではない。ポストモダンはもう国家中心の時代ではなくなったことをいうだけだ。国家を売れというネオリベは何でもかんでもカネがモノをいう原理主義である

50 自衛戦争は固有権みたいなことを言うが、フロイトの分析では、憲法の平和主義が内面化されている国では、他国を侵略したい者が禁止によって、他国が侵略してくるぞと言うのである

51 天岩戸はカオスとコスモスをめぐる天照大神の再生の物語を語る。カオスのスサノオの後に対抗的な大国主神が秩序を作る。だがカオスはコスモスに役立つだけかとポスト構造主義は問う


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52 なぜ、いま古事記を読むのか?子安先生は、「いま古事記を読む、それは、もうすこぶる現代日本をめぐる問題だ」と言われる。この意味を考えるためには、近代は『古事記』の<語られ方>をどう作ったか?という問題意識が必要である。

本質的な意味において『古事記』は『日本書記』より日本人に大切なのは、その話し言葉はそれを住処とする民によって読み継がれてきたからという。しかし18世紀本居宣長が発見する迄『古事記』は本当に読み継がれたのか?漢字を「借り物」と考えたうえで、『古事記』の書記言語の裏側にみえる話し言葉を訓(よ)むのは民族主義が行う思想闘争であろうか。『古事記』の<語られ方>を音声中心主義によって構成することは、津田左右吉が見抜いた天皇による支配関係を隠蔽している。「いま古事記を読む、それは、もうすこぶる現代日本をめぐる問題だ」への応答がここにある。われわれなしの時代にわれわれを存在させようとする起源の政治に批判的距離をとるために、いま古事記を読む直すのである

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53 ウクライナの市民がビルから戦車に火炎瓶を投げて抵抗してるようだ。この火炎瓶を大学に投げてはいけなかった。結局大学にマルクス主義の学者を追放する口実を与えてしまった

54 帝国とは世界資本主義の分割である。ウクライナが帝国アメリカと帝国拡大EUと帝国ロシアの力の場となっている。帝国中国がロシアを仲介すると思われているのは思考の帝国化である

55 これが第三次世界大戦なのか.. ヨーロッパ人は生きている間に世界大戦は無いと思っていたかもしれないが、実はずっと戦前だった。日本もいまが三度めの戦前かもしれない

56 イラク戦争以降はヨーロッパはどこでもアンチアメリカです。わたしもそうでした。しかし東京に戻ってきたときは反中の世論を知ってこれではいけないと気がつき「反-」をやめました

57 映像に、「危険な男」の観念は存在しない。「危険な男」は言葉の指定である。「反-」も言葉の指定だ。赤ん坊と老人は世界を見るだけだ。私はそんな赤ん坊と老人になりたい

58 トーキー映画の女優は必ず叫ぶ。ロンドンで最初に叫んだ人が誰だったかが分かっている。境界で見知らぬ人を見たら叫べと市の規則で決められたのだ。その前に叫ぶ人はいなかった。

59 シニカルと言われても、ポストモダン的に言えば、ウクライナは存在しない。ロシアが作ったウクライナの<語られ方>と、NATO が作ったウクライナの<語られ方>だけがある。

誰も語らなかったウクライナの<語られ方>をだれが作るか。それは反戦のプラカードや詩からあるいは思想からかもしれない。ウクライナの勝利はここにかかっているのではないか。

60 アイルランドの芸術家はロシアに共感をもつ。ロシアはアジア的であるが、但しモンゴルよりはビザンティンにちかいと言われる。イエーツのビザンティンを語った解釈の難しい詩がある


アジア的とは何か?わたしにはそれがわからないのであるが、インド文明と中国語文明、そして過去の文明の集積地としての日本がある。アジアの美の理念を再構成する拠点を中国から日本に移動させたのは岡倉天心である。中国美術がアジアの美術を表象していたから、誰もそんなことは考えたことがなかった。和辻と大川と九鬼は大きな関心を以って岡倉の講義を聞いただろう

61 本居宣長において言語をめぐる言説と表象は一体としてあったのに、近代主義が分析するやり方で言説から表象を切り離してしまうと、宣長の分裂ー実証性とイデオロギー性ーが言われる

62 言語とは何か?19世紀に言説から表象が切り離されたとしたら、20世紀の「中国論」をめぐる言説が表象との結びつきを取り返す。帝国の言語は大いなる書物『資本論』に書いてある

63 この男は平気で嘘をつく。今回も安倍は、ロシアのウクライナ侵攻が起きなくとも、東京五輪開催して原発再稼働のための新安全神話核武装化の核体制を確立しようとしていたくせに。安倍の原発推進は明らかに、彼が言及する「核兵器共有」の核体制のためにあるものならば、脱原発は自ら反核体制派として再構成する必要があると思う。

64 

Vlad the Invader: Putin is looking to rebuild Russia’s empire ?

一国社会主義の皇帝プーチンはピョートル1世だったか?何しても、ロシア側の死者4000人もプーチンの犠牲者じゃないかね

65 八〇年代にフランスに留学した講座の参加者から所謂汎神論として理解されるスピノザ朱子についてきかれたときは、ほんとに力不足で、何歳になってもスピノザをとらえることができないでいるが、神の定義はおもしろいとおもうな。神を自己原因として理解するのは大袈裟だというのがポストモダンスピノザ論。属性は無限にあるし、物も自然において無限に生成される。ラテン語をみると法律の論理的言葉みたいに、神は属性を管轄するが物を支配しているとは書いていない。神が管轄しない領域に物が存在する。また、物はものを表象するが、神の場合は、物で書かれた物ではなく、自ら書くものー真であり論理の順番をもって考えることができるー。中世は卑近なものと言えば、たとえば巡礼のときは、神しかいなかった。このものとの距離は隅々まで神に包摂されている空間の距離とは違う。そうすると、スピノザはどうも汎神論であるとはいえないかんじだ。ところで朱子との関係は?そんなことが分かっていたら、わたしはここでこんなことを書いていないよな(笑)ただちょっと考えたことは、朱子宗教改革は原初的儒教の先祖崇拝を否定しているものではない。スピノザも、ラテン語で書くよりもポルトガル語で書いたほうが上手く行くと手紙では書いていた。これは、スピノザラテン語の普遍主義と結びつけられていたので、これとは全く別の、ポストコロニアリズム的なスピノザ像を思い浮かばせる。スピノザポルトガルとスペインから逃げてきた父祖(セファルディムSephardim)の言葉と共にあった

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66 それはウクライナかロシアかと語る、1、2、1、2、..。しかし機能しない。何故ならウクライナは存在しないからだ。それはロシアが作るウクライナの<語られ方>に存在するだけだ。<語られ方>を言説という。言語はわれわれが思考できるように言説を与える。そうして同様に、驚くに値しないが、やはりロシアも存在しない。ロシアもロシアの<語られ方>に存在する。ロシアは一国社会主義の皇帝ピョートル一世であると。だから現在の問題は帝国ロシアか民主ウクライナかである。われわれの思考がはじめて可能となる

67 帝国とは世界資本主義の分割である。帝国が帝国主義と異なるのは、前者は文化と経済の支配のあり方であり、後者のような新植民地主義の軍事的支配ではないこと。そうして世界資本主義の探究を多様化する視点が働く。しかし帝国と帝国主義の境界が曖昧であるという指摘がある。

帝国ロシアは一国社会主義の皇帝、帝国中国は漢字文化圏の宋代に表象される一国家社会主義の皇帝。帝国拡大EUは神話的リアリズム、帝国アメリカはニューディールとか公民権運動があったが、新自由主義新保守主義のどこの国にも属さぬナショナリズムに規定されている(奇妙なことに、母国語と一国民主主義のナショナリズムを補っている)。

68 ロンドンのカフェでは働きにきたハンガリー人やポーランド人のような親しみはないが、ロシア人はこの私に違和感がない。イタリア人はなんでこんなものがここにいるのかと感じている

69 ヨーロッパの街に行ったらかならずゲットーを見学する。わたしはユダヤ系のひとがすきで彼らと喋ると幸せを感じる。孤独がある。消さなければいけない疎外感を消さないでいられる

70 イギリス人は他人に冷たく英国人同士でも冷たく、形式的な日本人の軍国主義と同じだという評判。彼らも自分たちの狂気を隠すのが上手い。だからか、私の欲望が非常に気になるらしい

71 ゼレンスキーよ、頑張れ、きみは俳優のままでいいんじゃないか。英国首相ボリス•ジョンソンもBBCのコメディアン出身。非常に教養があるらしいがヒロイズムに酔っている凡庸な人

72 ロシアに領土的野心がないとして擁護しているのは中国と安倍だけである。どうして中国と安倍は物の見方がおなじなのか?同じ同士だから対立し合っているのかと考えてしまった


領土問題は戦争によってしか解決しない。それなのに、領土問題を作り出して人間の命をモノのように扱うプーチンの問題は、日本の社畜おじさんたちみたいに<無>魂化していること


日本は、仮に中国の台湾侵攻が起きたら、台湾からの避難民をどのように安全に受け入れるのか?ーロシアと同様に対中国の制裁によって中国から逃げる大量の民が来る準備も必要だ

73 ワグナーの音楽、自分の限界を超えていく和声崩壊から向こうに見えるものはシェーンベルクグレの歌でしょうか?大地からの離脱ー土地のどこにもいるが、決してどこの部分にならない精神(亡霊spirit)の旅

74 書くことは並べること。『古事記』は表象空間と表象関係の成立の消失を書く。天の石戸を出た天照大神は類似のネットワークの劇場に入るが、背後の向こうに、表象する主体が消える壁がある

75 第三次世界大戦とは何か?帝国ロシア政府の民主ウクライナに対する戦争が早すぎて思考が間に合わないが、考えよう。帝国の側に、核武装した一国でしかないのに自らが一国を超えた普遍だとする根源的錯認がある

76 書くことは並べること。「此れより内にな還り入りそ」『古事記』(天の石屋戸)は時間的順番を記したのか?洞窟の内の神と外の神が確率論的重ね合わせとして同時にあれば、神は宇宙

77 エジプト神話は神から罰せらても死なない存在を知らない。しかしギリシャ神話はオイディプースは生き残る。同じように、神であるけれど、速須佐男も神から罰せらても死なない。生き残る


「是に八百万の神共に議(はか)りて、速須佐男命に千位(ちくら)の置戸を負わせ、亦髭を切り、手足の爪を抜かしめて、神やらひやらひき」『古事記

78 プーチンは無謀な賭け?否、賭けは成功しているのではないでしょうか?一国社会主義の皇帝プーチンは狂気でなければ、戦争(死)を主宰する例外的状況を創出しています。帝国主義ロシアは核テロが齎す死の恐怖が覆う世界を植民地化しようとしているようにみえます。何か是は死者を支配する政治神学のようです

79 絶対平和主義や平和主義アナキズムを考えるが、スペイン市民戦争のこともかんがる。この間で悩む

80 自由(主権国家の自立)を自由の反対で、自由の抑圧(ロシアの侵略)を自由だと考えていませんか?米国か反米かだけでは構造主義的。ロシアの批判を伴ってこそ言論の自由と思います

81 古事記』の曖昧な<語られ方>ー天照大神は天上界(高天原)と地上界(葦原の中津国)の主宰者ーに、明確なイメージー天照大神の他に誰も入れない天石屋戸は不可能ーを衝突させよ。『古事記』の根底にひとつの民族が存在することはあり得ない

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83 ボードリヤール第三次世界大戦はないと言うのはシニカル過ぎるか。だがそれは第三次世界大戦の<語られ方>に存在する。ロシアの戦争は冷たい戦争ではなくて熱い平和である


独裁者スターリンほど人間的眼差しを持った人間はいなかったとジジェクは言う。一国社会主義の完成である帝国ロシアの戦争が集団虐殺を止めるヒューマニズムと熱い平和であるのは必然だ

84 第三世界中立同盟のモデルとなったと言われる、核保有禁止の理念を最初に提唱したのはアイルランドである。米国が実現したが、自分たちを例外とした結果、今日のような形になった

85 ロシアは世界で一番民主主義が無い国と言われる。現在は戦争をしているから報道を禁じはじめた。しかしロシアのデモの様子を見ると日本よりよほど自由にやっているじゃないか

86 言語は、第一の人から第二の人に、目撃した者から目撃していない者に伝わるだけでは十分ではない。必ず、事柄を見なかった第二の者から、やはり見ていない第三の人にも伝わらなくてはならない。(…)言語は一つの地図であって、複写ではない。――(上)p168

87 アイルランドの芸術家はみんなタルコフスキーが大好きなんですが、ダブリン時代に親しくしていただいた宗教画家もロシアに大きな共感をもっていて、ある日、「ユーラシア主義」を熱心に語りました。アングロサクソンは何でもかんでも個人に還元してしまうので、共同体を守る考え方が必要なんだと言っていました。ナショナルアイデンティティの文化論としては、「ケルト」のアイルランドでは弱いんだと。そのときは、日本の場合のように1870年以降に成立した近代国家が自己を古代史に投影する危うさのことー江戸時代は民族主義を異常な考え方だとしていたーを喋ったような記憶がありますが、特に彼に異論はありませんでした。しかし誰がそのユーラシア主義を語るのかが問題です。一国社会主義(スターリニズム)の皇帝が語り出すと、今日の悲惨に帰結するイデオロギーになってしまうのですね。国家日本の近代化は宋や明清の理想を明治維新において実現したのですが、その失敗は、帝国化したことだと思いますが、中国もロシアも帝国化していくおなじ失敗をしてほしくないですね

88 ウクライナを知らないくせに全面的に支持するのかというけれど、われわれはイラクを知っていたわけではない。単純に、同じ無力な人々が爆撃される現実に黙ってはいられなかったのだ

89 漢字を借り物と考える論者からすれば、『古事記』の制作過程を語る序文は『古事記』の透明な<なかで>を不可能にする外部である

90 ロシアが教えること。ゴルバチョフの話では、ヨーロッパへ行きたいウクライナの交渉の場でロシアを孤立させたことが今日の問題を起こしているという。帝国の帝国主義化が起きる

帝国は世界資本主義の分割である。経済と文化が周辺国を支配する。周辺国は自立するときに帝国を孤立させると、帝国の帝国主義化が起きる。ロシアで起きることは中国で起きる

民主化•西欧化して自立化する周辺国に対して帝国の帝国主義化を回避するあり方を探究することが21世紀の課題ではないか。帝国と周辺国との間の停戦交渉はイスラムが仲介しようとしているのは注目すべき新しい動きである。日本のような亜周辺の国も憲法を活かして介入できることがあるのではないか

91 産業革命を経験しなかった国が世界のマジョリティである。同様に、核を持たない国は多数派である。日本は、核を持たない点では世界の多数派でありそれによって普遍的であり得る

92 ギリシャにおける神話から哲学への移行はどういうことなのか?大変興味がある。これはヨーロッパの文献学の強力な知識があればはじめてわかってくることで、自分で取り組むとなると、そう簡単ではない。独学は限界がある。自分には無理であると思う。しかしアジアの思想ならば、漢字と江戸時代の注釈との助けによって、古事記の神話の後に、朱子学形而上学があり、古学において思想的理念性が成立したことが読んでわかる。20世紀ポストモダンから神話的リアリズム(魔術的リアリズムとは別)が言われるようになると、蘭学と呼ばれた19世紀の西欧実証的リアリズムの趨勢の中で折衷的な多様性があったことが発見される。17世紀と18世紀は文献学の正統の時代、19世紀から異端的な学者的議論が存在したが、それを可能とした言語的成熟は中国からの漢字の受容から1000年要したのである。こういうことは明治からの西欧中心のカリキュラムがかわっていない大学のなかでは中々勉強できないようであるので、「地下茎」のような市民大学の講座を利用して学ぶしかない。案外西欧の思想もわかってくるときもあるから愉快である。明治のとき西欧思想は朱子学の語彙を利用して翻訳されたのである(西欧の普遍を支配したい大きな欲望のもとに、朱子学は近代の世界に適うように置き換えられたが、コスモロジーを失ってしまった(物理はうまく訳されたが、哲学は「理」学、権利も権「理」とは訳されないのである)

93 わたしは、カトリック系住民とプロテスタント系住民とのあいだで毎日殺し合いをしていたアイルランドにいましたから、「殺してはいけない」という人間性の根本に関わる絶対的平和主義の意味がわかったのですが、ロシアのウクライナ侵攻に関しては、抗戦も含めて「いかなる戦争も反対」は、日本人が曖昧に惹かれるすごい自己否定の論理ですが、プーチンの体制のもとではやっていけないという市民の明確なイメージをもっていないと思います。「いかなる戦争も反対」を言っていた文学者は今日、帝国を世界史の構造として容認しています

94 朱子宗教改革は祖先崇拝を否定しなかったが、唯物論的に魂は消滅すると考えていたので弟子たちとの論争があった

平等とは何か?性は天から平等に与えられる。性は心の方向性。「性即理」だ。性は死後に天に帰す。朱子は子孫の祖先祭祀は死者を不死とみなすのと等しく、性の私有視だと非難した

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96 Fb友達の言語研究者によると、ウクライナ人の民族意識は実は結構曖昧で、自分はロシア語を話しているけど(ウクライナでは多数派)ウクライナに住んでるから、多分自分はウクライナ人なんだろうなと思っている者が大半らしい。

戦争が起きると、ナショナル•アイデンティティが成立している。

言語は、事実上消滅したゲール語の影響を残した形でイギリスの地方言語と植民者たちが持ち運んだ英語のハイブリッドである。辞書はないから発音は喋って身につけるしかない。

アイルランド人も自分たちがケルトであると考えたことがないのが大半で、EU加盟のときまでヨーロッパ人であることも知らなかった。現在はタブーであるが、1950年代はコリアに同一化していたとメディア研究者が指摘していた。

97 プーチンファシズムを容認していることを隠さない。ウクライナがロシアから離れたいことに理由がある。

“In my view a turn to totalitarianism for a certain period of time in our country is possible"

(Vladimir Putin in 1996)

98 古事記』序文を読むと、太安万侶は実在すれば、神話を中国的な漢字言語で再構成しているような、中国知識人と朝鮮知識人に育てられた日本知識人に違いない

99 近代は、文革が知識人を否定したように、『古事記』の成立過程を語っている序文の存在を無視したいようだ。神話は民のものである以上、連続的で、声を住処とする。だから翻訳可能である。皇室の相続と起源を読み取れる。しかし漢字エクリチュールは孤児であり切断である。したがって訓(よ)むことができない


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書くこと 300ー400

1、書くことは並べること。「性」と「理」との出会いまで1000年以上を要した。世界に知識人的官僚が現れたが、思想的交錯は時間において現れるから空間におけるものとしてはみえない。交錯は注釈の文を通じて知ることができる

書くことは並べること。原初的テクストとその翻訳。世界はオリジナルなものの顕現である。「理先気後」におけるように、オリジナルなものは先、翻訳は後である。しかし非常に希であるが、『フィネガンズ・ウェイク』のように原文がどの民族の言葉によって、何語で、書かれているかわからないような、翻訳が不可避である本もある。翻訳がなければ成り立たない本である。人類が共有する読めない原初的本であるそういう本は、オリジナルが存在しないために、あるいはバベルの災厄が起きた結果オリジナルなものが失われてしまったために、現存する世界じゅうの言語的破片を利用して自分自身を翻訳することによってだんだんと明らかになっていく変な本である。世界神話というのも理におけるような優越性をもったそういう起源なき空のようなものではないか?そうしてはたらきとしてのコピー的差異化の上に泊まる。言語的存在である人間は存在の意味を探究するために必要とする本とはそういう本ではないか?多分その人間は人類が共有する読めない原初的本を携えて目に見えない不在の痕跡を辿る詩人と呼ばれてきたとわたしは想像してみる。何もかもカネがものをいう等質的なものに巻かれてしまって巻き返すことができなくなった、忙しくてもう祀る場所もなくなった大地で繰り返される宇宙の生死を共にしている彼だけである

マルクス主義的労働法の見方からすると、ブルジョワ的なものが市民法的(契約法的)「人」の抽象概念に隠蔽されているという。この場合は、「人」はネガティブに理解される。ここから、過剰にストレートに、政治が呼び出される。自由平等の理念はブルジョワのものであって、彼らに抑圧されている民衆(大衆)のものではないという声である。この声はブルジョワのもの属する自己にたいする否定の観念をともなう概念的に強力な論理に支えられている。ところで最近わたしの関心をとらえている倫理学からは「人」について別のアプローチができる。江戸思想において言われたことがそれである。天下に達する道も、日常卑近な隣どうしの関係を含むどんな道も、「人」の道であるということ。勉強不足な私の理解だけれど、「人」を言う以上、道において、「性即理」の「理」学が捉えられない生の倫理的な関係性を映し出すスクリーンが存在する。果たしてそのスクリーンに自由平等の理念が映しだされているかが問題である。

そのスクリーンは、曖昧な概念だけれど、明確なイメージをもっていなければいけない。台湾でも香港でも、学生たちからは、自己否定を含めてラディカルに否定が決定する論理はそれほど伝わってこない。その意味で曖昧だが、どういう体制のもとではやっていけなくなるに関して明確なイメージをもっていると私はおもう。日本だと、運動の自己否定は凄くて地球上のどこにでもその力が及ぶのだが、自民党のもとではやっていけないと危機感をもつことがあまりないようにみえる。これは反(脱)原発運動から変わってきた

ボヴァリー夫人の幻覚は純粋な欲望に向かって獣が歩くイメージがある。「文学」論を講演するフローベルが聖パトリックの杖をついて歩くアルトーに変身して獣に成る一人芝居を昔観た

書くことは並べること。人の道と獣の道。人の道は言ー文ー意ならば、獣の道は言語を言説に押しつぶす砂の庭にスクリーン(屏風)が立つ。雲海の龍の像

『中庸』を読むためには、意味だけを論じている『論語』ではなく、物である「六経」へ行かなければいけないように、われわれは自己の言語の外にある言語に向かって旅する必要がある。自己の言語の中に物が亡くなっていることがある。このことは、自己の言語の外にある言語に向かって旅すれば分かる。方法論的にいえば物はそこにあると構成できる。物はおなじにみえても同じではあり得なかった。絶えず制作されている。

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 can we separate the artist from the abuser?

語り手であるであるクモにとって巣の向こうにみえる獲物=シーニュは身体を貫く波動である。絶えず、端っこから巣である獣の道を這って外部へ飛んで行くーたとえ動かずとも

10 近代国家日本のあり方(天皇制国家)は古学からしか構想されなかったが、明治維新とは、西欧列強のアジア進出の時代にあって同じままではやっていけないから国を制作したのであって、「われわれ自身」が住処としていた過去を思い出すことによってその通りに国の形をつくったということではまったくない。あえて言うとむしろ外部からきた他者たちが国家日本を作ったのだと方法論的に考えることができよう。これは現在を考える考え方としてはいかせる。先ず戦後は天皇の全体国家をやめた。そしてグローバルデモクラシーの時代がきた現在、相互依存が深まる現実にもかかわず彼らと(ファーストの)われわれの間に排他的な境界線を引く何が何でも国中心でやって行く同じままではやっていけないならば、国のあり方を制作できるのだ。方法として、憲法を活かして、移民国家的民主主義の多元主義を(再)制作する秋(とき)ではないかと私は考えるのだけれど。

11 ロンドンにモスクがある。これは国家は共存する教会の中で何が言われようと自由だとする政教分離による。しかしかえって喋れなくなってきたらしい。知識人の多数派は無神論的だしね

12 アナキズムのファンであるこのわたしは孔子教と言われる儒教ではないのだが、それほど無神論的ではない『論語』に転向したのは、どうしてなのかと自問する。所謂ヨーロッパ帰りのアジア回帰なのか?まあすこしはあるかもしれないが、それよりも、マルクス主義の「前近代」を見下す近代主義にたいする距離をもちたい。もっと共同体のことも考えることができる。ダブリンの神を否定しない実存主義者たちとの出会いもあった。神の存在を否定してしまうと死に場所が亡くなっちゃうみたいにそれっきりなんだけど、アジアで展開した鬼神論の言説を学んで、敢えて神の存在を前提にすると、神の存在をめぐる二項対立から逃れることができるんじゃないかしらとだんだん考えるようになった

13 レッセフェールといえばアダムスミスだが、彼はスコットランド啓蒙主義者。知らないことは恥だ。資本は自分自身が計算する(=知る)べきだ。実は株式会社に委ねる世を批判した。さてヒュームもフランス革命を批判したスコットランド啓蒙主義者。ラディカルな懐疑主義的批判から、確実とされているものを容赦なく疑ったと哲学史は教える。神を疑った。自我を疑った。因果律における疑えないような自明性も疑ったヒュームの文は、物凄く孤独なのだけれど、このおかげで独断論的眠りから覚めることになったカントは認識の限界を問わなければいけない。この場合、カントはデカルトのように人間を主語としたのではなくて、人間の有限性を前提に、理性を主語にした新しい哲学をはじめた。

しかし懐疑主義的批判が分析してみせた誤謬というのは無意味ではないのではないか。たとえば芝居で役者に同一化するのは誤謬の類いであるが、ヒュームにおいて芝居自体が否定されることはない。依拠しなければいけない、合理では説明できない慣習のなかには共同体を形成する役割をもつものもある。ヒュームは信を否定しきることはなかったと思う。というか、懐疑主義的批判精神が己にとってどうしても不可避なものとしてある信を語ることになったのではないか。

14 「この男性がデモに参加したのは本当ですか」と言われている人物は、上に率うだけだというようなことも喋っていて、一度も自発性を以てデモに参加したことがない人みたいだけど。昔は帰属している組織の旗を掲げてデモにきたひとが多かった。比べると、現在のデモは自発性に支えられている。参加者の中には自分の携帯電話やiPoneで仲間に実況放送している若者もいる。長々と書いた手書きのプラカードを示す。お互いに読んでいる。海外に発信できる。単純に増えていくことは増えて行くが、中々十万人を超えない問題がある

15 『古事記』が記す天岩戸の中にいるのは天照大神だけではない。表象されるこの神を書く稗田阿礼太安万侶がいなければならない。しかし鍵がかかっている誰も入れない部屋のような岩戸でそれは可能だろうか?この言説は闇がある。その闇は、外部の異文化との接触によって豊かになるものを汚れたものとしてこれを許さない起源の指示を隠しているというか。稗田阿礼太安万侶も、実在していれば、『日本書記』を書いた中国知識人と朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人のなかにいたはずなのだ。本居宣長が語り出したように、言語を『古事記』の根底にひとつの民族があると語る言説的神話に押し込めるときは他の言語ー世界神話ーへの脱出が隠蔽されているのだ。

16 ウイーンの美術館カフェに来るとヨーロッパの中心に垂直軸が立っているようです。天空にあるような過去を見上げながらここがヨーロッパの中心だったことをおもいます。ロンドンの美術館カフェによく行きました。記憶のなかでは、女の子が美術館の展示を案内してくれました。階段を上がったり下がったりして長い廊下を歩く間、芸術とは何ですかとずっと聞かれる。しかしどの部屋にはいっても何も置いていないのです。はっと気がつきます。ヨーロッパの水平軸はここにあるのです。階段と廊下は斜線でしょうか?

17 政教分離言論の自由がヨーロッパを為すものである。しかしヨーロッパのイスラム言論の自由が成立していないか失敗していると反論している。政教一致について語る自由が無いではないかと。あえて言うと、政教分離であれ政教一致であれ、国家を制作する道をどこからとるかの違いだけであって、両者の間に本質的な差異ない。だとすると、イスラムからは、自己自身を排除しなければならない西欧の近代国家を歴史的に受け入れることができなかったしこれからもできないというこの主張が言論の自由ゆえにゼロにされてしまっている。と、わたしのこの理解でいいのか?

18 ソ連の崩壊は事件だった。時代に流されずにマルクス資本論』を読むのが思想だと拘りを示した日本知識人達は現在の皇帝的帝国が一国社会主義の完成だと見抜くことができないだろう

19 宇宙の果てまで通信しようと一生懸命に開発したのはソ連の謎。誰と何の為に?ロケットに閉じこめた亡霊的幻覚を飛ばした『惑星ソラリス』は社会主義の鬼神論ではないか

鬼神とはあちら側にあるもので、こちらで果たすべき知と世界がある。宇宙飛行士、というか詩人に取り憑いた物資化した亡霊的記憶をロケットで宇宙に飛ばすのは唯物論と矛盾しない

20 西ヨーロッパの反ナチスの人々が大混乱に陥いった、スターリンヒトラーとの不戦条約締結によって、東ヨーロッパのコミュニストの活動家達が一斉に逮捕されてしまった。条約締結の日から、ナチス全体主義に抵抗する者は共産主義の敵となったのである。サルトルレジスタンス運動にいたが、この事実を知りながらも、ハンガリー動乱までスターリンを批判しなかったことが批判された。信頼を失うことになって、思想界は、実存主義にとって変わって、反サルトル構造主義が台頭することになったと言われる。フランス革命を継承するロシア革命アナキズム国家主義か選択があったが、ボルシェヴィキ国家主義に託した結果、スターリニズムが出てきてしまった。阪神震災以降のラディカルになっていった小田実の先駆を為すような、国家から自立した市民概念を確立していたのは幸徳秋水大杉栄である。30年たったソ連崩壊の事件を考える企画は良いが、収容所群島としてのソ連のあり方に目を塞いで、希望を見いだすという言葉しか出てこないとは..自身への批判をこめて

21 ものは物で書かれていた時代は自然が大切にされた。書かれていたものに信があるように自然に信があった。バベルの災厄後、ものは物に体することはない。人間の死。人の形を失ったものをどう考えるのか誰もわからない。世界神話も安全神話しかなくなった。世界は、魂をフクロウ-ネコ的コスモロジーの中に再構成してくれる哲学者の言を待つ


22 伝記で読んだが、スピノザが読むことができたヘブライ語聖書では神が単数形だったり複数形なのは論理学的に矛盾するが、文献学的には書かれた通りに理解するしかない。神学•哲学は論理学から成立する。

『エチカ』のスピノザは神を<一>的多として構成すると、どういうことが起きるのだろうか。神が無くなってしまうのではないか。これは朱子の神の陰陽二気論的構成とおなじである。スピノザは神を<一>的多として再構成したと見ることができる。スピノザは、朱子無神論者でなかったように、信を保ったのではないか

23 書くことは並べること。世界は交錯する。ポストモダン多元主義的<一>的多は多様体の理論を利用しているが、宣長が読む『古事記』の漢字空間と文献学(国学)との交差に立つ批評性において見出せるものか

24 『言葉と物』は近代の終わりと人間の死を書いた。表象は分散し言語の集中が起きる魂と灰は何処に行く。王が立つ場所に、白鳥が飛び立つ氷の表面すなわち鏡の裏側ではないだろうか

25 公害企業のこんな出鱈目をゆるしたらやっていけなくなるのにゆるす自分に抗議するために、敷居が高くない座り込みに行ったら、言語化してくれる上の人の目的がスペイン市民戦争の継承だったのを発見した。デモというものに反感もつ人たちが多いからわれわれはマスコミがきたときは気をつけなさいと言われた。みんなちょっとニュース解説者みたいな口調で中立的に喋りすぎたようにおもう


忘れられたアイルランドの政治がある。日本からは一人ぐらい行ったらしいが、スペイン市民戦争に行った人たちの半分が市民側にいき、半分はフランコ側に行った。その意味は何か?


24 サッチャーリズム労働党時代に議会ではなく銀行に初めて抗議しに行ったロンドンのデモの現場では、これは天安門事件広場の抗議とおなじなのではないかと語りあった

25 今日、迷路みたいで出口がわからない渋谷駅に降りた。マスクをはずそうと訴える若者たちが政治に怒っていた。正直マスクのことはわからないが、政治に怒らないことに怒っている

26 今日は講義「神と霊魂」第一回。漢字で書かれた「何々神」とは別に、漢字に定位しない「カミ」を宣長が語り出す理由を考えたら、18世紀の思考を規定する注釈学的言語の平面がみえた


なーんか神々しい靖國神社とか伊勢神宮に行くときは、この神々しいものに巻き込まれてはいかんと理性の覚醒した懐疑的批判精神を以て偵察しに行くが、お正月は京都祇園の八坂神社の前を通ったときはリラックスしてみることができた。今日講義「神と霊魂」のテーマに関連するのであるが、この大勢の一生懸命に祈願する人たちは心のなかで漢字で書かれた「何とか神」をおもうのであって、「カミ」じゃないよなと観察していたのは、嗚呼わたしだけではなかった..

27 フェースブックの友人の中には、ベラスケス「侍女の部屋」に屈辱を感じてこれに反発する者がいることを知って驚いた。共和主義のスイスとかアメリカの大事な友人が王に従属するイメージを嫌がっている。しかし絵をよく見ると王は存在しない。部屋には実在しない鏡の裏側に立っている王をこの絵を描いているのは誰か?画家であるとフーコはストレートに考えなかった。描く\書くのは言語学(注釈学)である。

漢字で書かれた「何々神」とは別に、漢字に定位しない「カミ」ー日本語の「神」とはなにか?ーを宣長が語り出す、18世紀の思考を規定する注釈学的言語の平面がみえる

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28 「神と霊魂」

ー神とは何か


神とはカミなり。これは本居宣長の「神」の注釈である。「漢字の背後に、ヤマト言葉としての「カミ」がある。(神=シンではない)。ここに決定的な問われるべき問題が集約している」(子安先生講座『神と霊魂』)

言語への回帰は、文学(『古事記』)と共に成立する注釈学と、日本語の「神」ー「カミ」ーによって、宣長に現れる。言語が客体となる所で古典の学、朱子学的陰陽ニ気的解釈が消える


太安万侶が誰も入れない天岩戸の中に(声の内部に)入ったとき、神(シン)はそこから脱出していた。見たのはカミである。と、宣長は物語る。その意味で『古事記』が成り立っのは18世紀においてである。ヤマト言葉としての「カミ」を指さすが、漢字の表意性にあるギリギリの理念性をどうすることもできない。漢字が渡来してきたリアルな歴史ーヤマト言葉的民族の起源の不在ーを隠蔽できない。津田左右吉が指摘したように、どんなに遡ってみても漢字の断片しかない。


29 21世紀は第4の権力であるマスコミと一緒になれば四千人のデモを以って政権を倒すことができるが、世界中のマスコミが味方になった7百万人のデモでも政権を倒せない体制もある

30 批判すべきは安倍政治の軍国主義公式参拝解釈改憲を前提にしたヘイト的ナショナリズム(皇室に依存しない天皇教)。対案は憲法を活かした移民国家民主主義の文化多元主義の確立

31 ポスト構造主義は、神の名がどの物にも属さない<多>が<一>なるものに包摂される構造の隙間なく覆い尽くしてくる音声中心主義的なあり方を問題にした。それは王政復古におけるように明治天皇の文化権力に集中した政治権力を与えた構造ではないだろうか

32 単一価値観は権力の集中のもとで起きる。フリードマンネオリベは市場中心主義によって権力の集中を解体できると考えたが、ナチスとボルシュヴェキに反対したハイエクの場合は単一価値観の体制を拒む思想が重要であった。しかし、何でもかんでもカネがものをいうようになれば権力の集中を解体できるとおもう維新のように権力の解体を主張するものがどうしてマイノリティを排除するファショ的な人物からしか出てこないのだろうか?これが日本の問題である。将来日本は憲法を活かした移民国家的民主主義の文化多元主義の道へ行くならば、これは単一価値観と両立しない

33 トッドはネオリベは単一価値観ではないと主張する。その根拠は家族構造に規定されながら教育がどんどん広がったからである。しかし彼は全体思想に対する思想闘争の意義を無視する


トッドによると、中国の家族構造を分析しながら、中国が超大国にはなりえないと明確に語る根拠は、例によって、教育による多様化にある。党支配を可能にさせてきたおなじことが起きない。しかしそんな話は当たり前じゃないかとおもう。問題は、超大国化ではなく、帝国化である。知識人のポスト構造主義からする思想闘争がなければ、80年代のフランスに共産主義思想の崩壊が起きなかったように、帝国にたいする思想闘争がなければ帝国の崩壊は起きないし中国の民主化も難しいのではないだろうか。わたしがこの問題に関心をもつのは、結局中国の民主化が起きなければどうも日本の民主主義も進まないのだし、80年代から始まった東アジアの民主化もより言論の自由に向かうことが恐らく難しいのではないか

34 大塚久雄『共同体の基礎理論』を読む。戦後の社会科学的見方が戦前の中国で行った農村調査に規定されているという。「日本人の法意識」(川島)も中国無くしては成立しない共同体理論だったか

35 CIAは反権力的左翼に影響力のあるフーコの本を調べていたらしい。文の素晴らしさに我を忘れて読んでしまうことがよく起きたらしい。現在はもうフランスから思想が出てこない

36 何でもかんでもカネがものをいう。生活の隅々まで監視してくる「自己責任」の語は逃げられない怖さがあるが、ファシズムの語を以てラベル張りするのはどうか。濫用すると本物がでてきたときには薄まっちゃっている

37 言語の回帰が起きた文献学から、荻生徂徠天皇制国家の青写真をつくり本居宣長は土台としての原初的国家祭祀を考えた。18世紀の徳川日本には国家が成立していないのだから、語り出されたこれらの言説は適用する対象がなかった。後期水戸学によってこれらの思想が国家の制作にとって価値をもったことはたしかである。日本の場合、近代国家の制作は古学の思想からしか出てこない。復古主義の近代である。ヨーロッパの社会契約論理は自然へ帰れと言ったときは国家の制作を考えたように、復古主義は制作を考えていたのである。自由民権運動中江兆民が「天命の自由」と「人義の自由」を言ったときは、国家に託した。国会が政府から生まれない国家を制作したいと訴えたとわたしは考える。近代主義者の中には宣長ナチスと比べる者がいるが、とんでもない誤解である。近代主義者によるファシズムの語の濫用と言わざるを得ない。昭和10年代の全体主義は文化権力の天皇に政治権力を集中させた明治国家の近代からしか起きてこない点を市民はよく理解しなければいけないとおもう

38 ダブリン時代はアイリッシュと中国人とが仲良くやっているのを不思議に思った。前者は貧困が存在する限り世界中にアイルランドを見つける。後者は何処にいても中国を感じるらしい

39 外国人と喋るとき自分の国の話をしだすとつまらなくなる。相手も私が日本の話につまらなさを感じる。固有なものはない、移民的国家の文化多元主義にとって豊かさとは只差異化に存する

「豊かさとは只、差異化に存する」は共通の話題になるが、ユダヤ系は世界を説明し尽くす危険な偶像崇拝を思うかも。イスラムは「下らないな。君は神をどう考えるのか」と聞いてくる

他者の岬思想が危険な偶像崇拝であるかどうか、又は危険な無神論か、ユダヤ系とイスラムがどう判断をくだすかは、自らを迎入れる文化多元主義が本当に彼らを平等に扱っているかによる

40 差異化を差別と捉える見方はオリジナル崇拝の近代だ。中国の朱子学のようなアジアで唯一成立した普遍主義の思想は差異化された。漢字文化圏アジア諸国で概念を展開したそれらの思想とオリジナルの間に優劣はない

41移民的国家の文化多元主義を目標とすることは、国が公表したがらないリアルな日本人とアジア系との結婚の率を知れば、トンデモ無い話ではない。教育権と選挙権を保障すべきだと思う

42 映画に興味あるフランス人の友人が多かったときは、ダブリンの友人から、おまえの英語はパリの人間が喋る英語のアクセントだぞと指摘されたときはびっくりしました。自分では気がつきません。イタリアなんかに行くと、今年は「ユリシーズ』出版100周年なんですが、ジョイス(文学)の国からきた日本人が喋るダブリンのアクセントの英語に興味津々なんですよ。ネイティブでないわたしの英語なんて非常に弱くて不完全ですから、他から影響されやすいのですね。英語に、porous(多孔性)という言葉がありますが、わたしは自分の英語が、ギリシャ語とラテン語の古典語の文法性に支えられながら、穴だらけの雨傘であると想像しています。書かれた言葉がとくにそうですが、言語というのはporousですね。だから外国の友人をもつお陰で言語は面白いです。多文化主義とは何か?わたしは答えがありませんが、重なり合う物が多文化主義にとって大事です、その場合、不完全で穴だらけでないと色々なものが重なり合わない、起源と境界線をもったはっきりしたアイデンティティに決定されていては表現が中々上手くいかない、このことを何とか絵のイメージを通じて表現したいとおもっています

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43 ファシズムを日本人はどう語ってきたか

フランス革命後150年間、パリコミューンに集約されるアナキズムと皇帝の復帰における国家主義との交代が起きた。ドイツで起きたのは、このフランスで150年間かかってやったことをワイマールのドイツが僅か10年とか20年という凝縮した期間で実現したことの混乱であった。自由と考えていることが非民主的だったり、反対に非民主主義と非難しているものが自由だったりする。それを、ファシズムと呼ぶのは、イデオロギー的かもしれないと躊躇する見方がポストモダンの知識人たちにはある。ファシズム近代主義の問題なのである。さて西欧がルネッサンス以来500年を要した民主化であるが、日本はアジア諸国の中で西欧化が早かったから、少なくとも150年間の時間があり、自由と考えていることが非民主的だったり、反対に非民主主義と非難しているものが自由だったりすることは起きないようである。しかしながら、権力集中(東京一極集中)を解体すると言いながら権力を集中する(大阪の東京化)ことが現在起きているのはどうか?権力集中の解体を訴えるものがマイノリティを排除するファッショ的人物と政党からしか出てこないのは日本の問題である。ファシズムを日本人はどう語ってきたか?丸山真男はドイツの全体主義を厳密に理念化して定義したために、天皇ファシズムファシズムではなくなった。これは問題である。また日本の場合ファシズム天皇ファシズム(国家祭祀)だったのに、ナチスのことを論じれば日本のファシズムを知っているつもりになっている者が多い。国家祭祀を主宰する天皇を政治体切り離した象徴天皇制憲法の意義をしっかり理解しなければいけない(戦前の天皇機関説から考えたい)。最後に、天皇ファシズズムを考えるときは、ナチズムをフランコの体制と一緒に考えるように、文革ファシズムと考える必要があるかもしれない。昭和10年代の全体主義に帰結したような、明治維新における「上からの近代化」の失敗を語る日本知識人(北一輝津田左右吉?)の言語が中国に向かって「下からの近代化」を過剰に語る言説となっていた可能性がある。語るべきは、ファシズムを日本人はどう語ってきたか、である。


44 徂徠『弁道』『弁名』の制作論を丸山真男経書的世界の自然を否定した所で理解してしまったが、失われた物は見出だされるのか?Remembering the furute

45 アイルランドの独立は復古主義の政治に依るものだが、彼らが悩んだのは、毛沢東回帰の文化大革命も同じ復古主義なのかという疑問。明治維新文革を一緒に論じるようなものだ

46 「召使いのひび割れた眼鏡」


エスタブリッシュメント復古主義によるアイルランドの独立は上からの革命の挫折として理解される。政治的に独立できても、経済は従属したままである。政治的に独立したといっても、大英帝国憲法とそっくりの共和国憲法をつくっている。帝国の象徴であったキルメイハン監獄は逮捕した独立運動の活動家を入れている。独立は青色のポストを緑色にしただけだ。革命は挫折したのであるとするこの思いが、下からの革命を担うordinary people (人民?)への過剰な思い入れを生じさせることになるのかもしれない。わたしは明治維新の問題を考えることによってやっと理解し始めた。われら自身の神聖なアイルランド語が奪われたと言われる。しかしこの見方をジョイスは否定した。たしかにイギリスは言語を抑圧したが、真実は、むしろ人々は生活するために英語を選択して自らアイルランド語をすてたことにあると語った。『ユリシーズ』(1922)の中で、民のものであるアイルランド語によって芸術を確立すべきだと考えた仲間たちの芸術観を「召使いのひび割れた眼鏡」とステイーブンは言い放った。夜に彼は撃ち殺されそうになる。ジョイスはイギリス植民都市ダブリンの一日を映す鏡である本である「ユリシーズ』においてどうしてもこの議論から書き始めなければならなかったのである。


https://www.instagram.com/p/BcMvYu4B8dq/?utm_medium=copy_link


47 遠くへ行っても何も見つからなかった現在、近傍をウロウロ散歩するベケットの登場人物の「たまに家に帰らないこともある」まるで領土を横断している感じが遊牧の民みたいで面白い

48 スクリーンと壁に掛かった絵を考えてきたが、最近は、漢字の神と壁に掛かった絵を考える


レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。」D =G

Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)

48 美術館で見た絵を語るときは、他の観客も見た壁に掛かった絵を考える。画家のようには絵をおもい浮かべることはない。漢字の神も壁に掛かった絵と同じである。カミを表象しない

49 


4つの神


私のオーストラリア時代はまだ日本との戦争の記憶があった。誕生日パーティーのときにこの私だけ帰されることが時々あった。招待してくれた友達は困っていて、仕方なく親の言葉を告げる。ジャパニーズはGod 神に悪いことをしたからだという。これはさっぱり理解出来なかった言葉だった。観念が気持ちわるい。東京に来てからは、近所の神社に祀られる「何々神」の旗を見る。オーストラリア時代のGodと対応がつかない。大学に行くと、ニーチェが神が死んだと言っていることを知る。ただしポストモダンの哲学者によると、死んだのは人間らしい。近代とは人間中心主義なのだ。そして小林秀雄本居宣長が言う日本語の神について喋っている講演テープを聞く。なんかそれは漢字ではないカミらしい。

50 神God-ardはプロテスタントステレオタイプカトリック神秘主義に非らず。言葉の力に依拠する近世知識人が原初的儒教の祖先崇拝を否定しなかったように、映像を否定しない

51 そこそこの自由があるからかえって民主主義を論じない。しかし世界一民主主義がないと思われているロシアのデモをテレビで見たら東京のデモよりもよほど自由にやっているんだよ

52 

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53 書くこととは並べること。並べることは世界である。漢字の神は書かれた言葉とそれが指示する経書的世界を並べる道徳。日本語のカミは声とそれが包摂する一つの民族を並べる注釈学

54

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56 書くこととは並べること。並べることは世界である。サイレント映画はスクリーンに映像と書かれた言葉を並べる。世界神話のように、映像の根底に一つの民族は存在しない。

57 分割を問うフーコ三部作

『狂気の歴史』

『言葉と物』

『監獄の誕生』


フーコは、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。狂気と理性、古典的知と近代知、監獄の誕生の前と後。これらの分割を可能にする言説を分析した。

『狂気の歴史』は排除をテーマとして大きな囲い込みをフーコは語る。 ボッシュの作品『愚者の船』はどこにも上陸できない。狂気は社会が作るものである。境界線を引く囲いこみと狂気が近代を近代として成立させる。西欧の空間はペストを克服するために今日のように条理化されることになった。次の、『言葉と物』で引き続き、狂気について分析される。近代から狂人と囚人とが別々に扱われる。コギト的アイデンティティから狂気を切り離すことができない。「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」と語る言葉に狂気が隅々まで存在する。そして言葉で出来てはいない映像(絵画)を語ることの不可能にフーコは宙吊りになる。近代の根源的な袋小路は、古典的知を狂気のように扱うところにあるのではないか。その狂気のしるしも、人間における総体としてのあり方を揺さぶるものとしてではなく、錯誤に還元されている。そうして精神分析の知に抵抗した「神の裁きを断つために」の詩人アルトーが呼びだされた。絵画『侍女たち』の中に小人が二人、犬の前にいる。これは国家のネガティブなあり方に明確なイメージを与えると解される。わたしはこのイメージに危機の時代と呼ばれる17世紀における外部性を読む。あるいは、これはわたしの理解であるが、描かれている小人の視線は、鏡の表と裏を含めて、人間を成立させる記号的配置が見えない、批判的に見ようとする言説批判的思想史と等価の視点である。フーコ三部作の最後の『監獄の誕生』は監獄というのは霊魂の部屋である。法が記す道徳はこの部屋を語っていない。映像(建築)と言葉は互いに独立している。この逆の方向から、この独立性は現代アートや映画(Duras,Godard)を支えている。監獄の社会化(一望監視方式)をフーコが語っているこのテーゼはフーコの読者でないひとでも誰もが知っている。


58 フーコは、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。狂気と理性、古典的知と近代知、監獄のフーコは、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。狂気と理性、古典的知と近代知、監獄の誕生の前と後。これらの分割を可能にする言説を分析した。これらの分割を可能にする言説を分析した。わたしも、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。生の世界と死後の世界をめぐる言説がコスモロジーを作り、また国家の制作や共同体の成り立ちの哲学を形成した

59 「学ぶ人」から考える視点は、脱階級的なものです。「教える」とは非対称的であるというのがわれわれ「子安一派」の構成です。孔子は「学ぶ人」でしたが、ポスト孔子の学を継承した弟子達によって、他者孔子は、『論語』のなかで教える人になってしまいました。市井の学者さんの伊藤仁斎がやったことは子安先生が「思想史家が読む『論語』」の韓国語訳の序文に書いてある通りです。他者としての「学ぶ人」の取り返しです。

60 ドウルーズは、ナチスのハリウッド映画に対抗する多元主義、中国より百年前に登場した、ポストモダン国家としてのファシズムを分析した。問題は国の外と内とのギャップにあった筈だ


61 現在だれがヒトラーか否かをめぐって勝手に盛り上がるが、深まる議論をともわなければ茶番と言わざるを得ない。立憲は維新に問いただすべきだ。権力集中の解体を言うお前達は、マイノリティを排するファショ的政党じゃないか?と。また維新はヒトラーを恐れる立憲にたいして、社会民主主義でなければお前たちはどうやってヒトラーをやっつけれるのかと聞くべきだ。議論しないの?本当はドイツの「われわれ自身における本物」のファシズムを論じるだけでは足りない。日本の場合、ファシズム天皇ファシズムだったからだ。この機会に、わたしならば、グローバルデモクラシーの、国体論を超えていく移民的国家の多文化主義を制作する理念を語るのだけれど

62 思想史は、思想を考えるやり方と違って、位置と時間を以て考えるやり方。美術史がそういうものです。ゴーギャンは歴史の感覚を以て中々の芸術批評を哲学的に書きます。彼の前に、セザンヌがいました。セザンヌは、ルネッサンスは美としての自然を発見したが、その自然をヨーロッパとして考えたのが画期的でした。ヨーロッパ=普遍という近代の確立ですね。それに対して、ゴーギャンは現在今あるところで自分の絵画を作ることをはじめて考えたんじゃないでしょうか?セザンヌの後に、ピカソが来ます。キュビズムコミュニズムを普遍とみる前衛でした。ソ連は崩壊しましたが、資本主義への抵抗はどこに現れるのでしょうか?芸術批評の重要性が高まると同時に、現在のアーティストが、グローバル資本主義に抵抗する自己の哲学的あり方をもつようになったのは、おそらくピカソに遡ります。

63 日本人は中国をどう語ってきたか?これは中国論です。先ず中国論について言っておかなければいけないことは、本質的な意味において、中国と日本とは互いに大切な隣国同士であることです。この意味において日本は自ら民主化しなければ、相手に民主化を求めることなどできないでしょう。その上で、互いに体制の違いについてどんどん批判し合ったらいいと思うのです。日本人は中国をどう語ってきたか?これに続いて、中国人は「日本人は中国をどう語ってきたか?」を語ることが大切となってくると思われます。そうして、われわれは中国をどう語ってきたかという問いかけが成りたちます。日本人にとって漢字は不可避の他者です。漢字のおかげで思考することが可能となりました。言語支配者の中国からみると、マイナー言語の日本人が中国をめぐる言説を通じて中国を語ってきたかは大変意義深いに違いありません。中国を独自の社会主義とする溝口雄三は宋代の朱子学から語ったとすると、それは多元主義ポストモダン国家としての中国像です。そして柄谷行人の構成は互酬の高度な次元Xとしての社会主義の実現である帝国のあり方を語るものでした。これは溝口の中国論とともに、中国の多元主義の方向を説明しようとするものだとみることができます。問題は権力の集中のもとでは多元主義は可能なのかという子安先生の問題提起です。これに関連して、わたしは最近、ドウルーズは、ナチスのハリウッド映画の米国に対抗する多元主義、中国より百年前に登場した、ポストモダン国家としてのファシズムを分析していたことをおもいだしました。やはりドイツの問題は国の外(多元主義)と内(一元主義)とのギャップにあった筈です。


64 3次元舞台の演劇は俳優のものだが、2次元スクリーンの映画については監督のものであると言われる。映画はヌーヴェルバーグ以降は、ポストモダンの時代の建築と同じで観る快楽に委ねる鑑賞者のもの。そのスケールは整数で例えば生成1.5次元のより自然な状態なのかしら

65 石原慎太郎氏が死去 各界から悼む声」(NHK)。国家はNHKのニュースの解釈に存する。『想像の共同体』の著者が指摘したこの通りならば、解釈のアベチャンネル化が起きている現在、解釈そのものが亡くなっているなか、東京五輪後の国家日本の終焉を目撃しているのではないか

66 バベルの塔のネガテイヴなイメージは、当時高い建築術をもったアラブに対するユダヤの敵視が反映されていた。天罰の後を記した世界は多数言語で沸騰したアラブの国際都市の姿だった

67 中国の衝撃は続いている。各国の左翼政党は中国をどう認識してこれと向き合うのか真剣に考えているのに、どうして、『日本人は中国をどう語ってきたか』を読まないのだろうか?


中国の衝撃は続いている。各国の左翼政党は中国をどう認識してこれと向き合うのか真剣に考えているのに、どうして、『日本人は中国をどう語ってきたか』(2012 青土社)を読まないのだろうか?

資本主義は封建制から生まれてくると考える見方からは、封建制が十分になかった中国の現在は資本主義ではないとする見方があった。平野義太郎の中国で行った農村調査は戦後日本の社会科学を規定することになった。戦前は橘樸のように自分で中国に行って調査したりする日本人がいた。北一輝のように、明治維新の上からの近代化に失望して、過剰に、下からの近代化を中国に託す日本人もいた。言説の中国は、<日本人は中国をどのように語ったか>に存在するのである。

後期近代にはいっての中国の圧倒的な存在感をもって現れてきたものを、中国の衝撃と呼んだのも日本人である。西欧から言われるアジア的生産様式は「遅れ」のレッテル張りだが、強かに中国はそれを否定せずに自らの独自性の根拠とした。市民社会が誕生してこないことのexcuseと市民にたいする弾圧の正当化だったかもしれないが、何であれ、中国のself-invent (自己の発明)に関することである。映画監督の張藝謀が今回も北京五輪開会式を演出した。彼が撮った『紅いコーリャン』で西欧は中国と考えるが実は中国の何処にもない風景を見たように中国の立春を初めて観たのである。今日問題になっていることは、果たして、「中国的資本主義」は資本主義の問題から逃れることができる「立春」なのかという点である。


68 石原慎太郎都知事「東京からは不法入国や不法滞在の外国人をたたき出したい」。外国人をまるで未開社会の外敵のように語る。しかし未開社会では共同体の外敵は女性の身体の損傷において表象される。今日においても虐待が行われる入管施設で殺されるのは女性だ。共同体形成の意思をもつ人々を受け入れずに、選別し分類し排除するこの石原こそが本当の外敵である


わたしは暇にしているけれど、安倍晋三日本会議の日本の未来を語るほどわたしは暇人ではないと思っていたところ、東京五輪石原慎太郎の死を惜しむ声、バカタレ、やはりどうしようもないな。かならずしも楽観的ではないけれど、思想の成長を考えるためにも、ポストモダン中国の未来を語っていたほうが意味を感じるが、わたしにはもう時間がないか..


69 ヨーロッパ人はどのようにヨーロッパを語ったか?事実を神話を利用して語った。今日から考えると、リアリズムであり神話である語り口で、ヨーロッパ人が帰ってくる岬がヨーロッパである。『ユリシーズ』に、象形文字から自立したギリシャ文明に先行する、エーゲ海やエジプトの高度な文明の存在を書き記した序文はない。『古事記』は太安万侶の存在を通じて、中国知識人•朝鮮知識人がいなければこの神話が書くことができなかったほどの外部からの圧倒的な影響を考えさせる序文がある。『古事記』は寧ろ漢字文化圏における世界神話を為すものであることを分からなくさせてしまったのは文献学の近代による(「神」字をシンではなくカミと訓んだ)

70 ゴダール「映画史』はドイツ文学が祖先崇拝と結びついている。中国の宗教改革では知識人は原初的祖先崇拝を捨てなかった。どちらも喪と人生奪回の仕事である

71 資本論』の冒頭でマルクスは商品の言語世界を象形文字として書かれていると考えたらどんなことを言えるかと言っていた。商品の名をどう訓むかなど考えてはいなかった

72 漢字文化では呼び捨てはへートスピーチである。他方で自分の影響力を知って行う差別発言の場合は人間に対して物理的な障害を構成するのではないか

73 憲法53条の死文化?支配した米軍時代でもこれだけの憲法を作ったのだから、国が独立したら憲法がもっと充実していなければ、愛国者に騙されていると思えと憲法は言っている

74 アイルランドみたいにみんなが貧しい国はその中でいくら自分が貧乏でもそれほど惨めに思うことはなかったが、イギリスは貧富の格差がめちゃくちゃすごい。大富豪の王室の報道が流れると、本当に惨めになる。たしかに、イギリスという国は自由がある。最大限の自由を享受するオランダと比べられる。多分香港はイギリスの植民地時代に植民地だったとはいえ自由を経験したのでないか。だから今日の中国に対する抗議があるのではないか?しかしオランダと違うのは同じくらい権威的規則が英国にはあることだ。その権威主義は王室からくる。最近の調査では、英国王室に対する支持が下がっているという。チャールズとダイアナの離婚は、国教会の守護者としての王室のあり方のイメージダウンであると言われる。しかし単純ではない。王室にとってはユダヤイスラムと付き合って行かなければいけない英国の文化多元主義と共存するためには有利な出来事だったと観る見方もある。王室は開かれている印象がある。

歴史のことを言うと、英国王室は1916年のロシア革命アイルランドイースター蜂起で恐怖のどん底に落ちた。親戚のロシア皇帝のように殺されないように政治から距離を取りはじめた。先ずドイツ起源の名前を隠した。自らのアイデンティティを国教会の主宰者としての超越性に築こうとする。1916年は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(1916~1921)の出版の年である。津田左右吉はイギリスにいたらしいしこの歴史を興味深く観察していただろう。日本は京都にいた天皇と民衆との間に争いが起きなかったが、英国とは民衆と王権との戦いであると彼は言う。明治のホッブスの社会契約論の理解は、支配の側から国家の正当化を論じるが、しかしイギリスでは社会契約論は自由を確立するための国家理論であり、旧体制の全く知らないものであった。王様の首を切り落とす前に、思想闘争をもって、議会は王から権力を奪って成立したのだ。

スピノザ君主制に警戒していたのは王は名誉心のために戦争をしたがることである。たしかに、イギリス国民の8割がアメリカのイラク戦争に反対していたのに、エリザベスが全軍をたたえるメッセージによって、逆に、8割が戦争支持となったのである。英国においても天皇が政治に関わると国民主権がなくなって行くのと全くおなじ事態ー国民が自分の頭で考えることができなくなるーが起きたとわたしはおもう。労働党時代に王から権力を奪う憲法改革に取り組んだ。憲法裁判所ができた。最近憲法裁判所はボリスジョンソン首相の女王の権力を濫用して議会を開かない決定を違憲とした

75 歴史を書くこと。支配の近代とは、支配者と皮支配者の間に障壁がなくなること。応仁の乱において争い合った貴族が没落したことによって、天皇と民衆との間に障壁がなくなった。新・権門体制の近代に向けて天皇による民衆の直接的支配が成立する。中国の宗教改革によって、貴族が宋の帝国を支える官僚的知識人たちになったこと。エリザベス一世に反逆したアイルランド貴族たちが敗れて集団でイタリアに逃げたことによって、英国による中央集権的支配が進んだ


75 大きな網目がほどかれる

知の歴史を書くこと。同一性と差異の表から成る表象の知の大きな網目が、音声と生命と生産が切り開く新しい経験の多様性によって、言語と生物と等価的交換の世界の隅々まで捕捉できなくなったとき、いかに自らを再構成したか?『資本論』の知の大きな網目が、ポストモダンの時代のグローバル資本主義の新しい経験の多様性によって、近代世界の隅々まで捕捉できなくなったとき、いかに自らを再構成するのだろうか?『資本論』を新しく読む読み方を教えてくれる柄谷の知から労働価値説のイデオロギーが取り除かれた。何でもかんでもモノをいうのは交換様式である。独自の社会主義であれ帝国であれ、交換様式に還元された、高度の次元における互酬的Xの国家は、言説「礼」と宋代口述的エクリチュールの声が支えるわれわれ自身の回復である。問題は、グローバルデモクラシーをもとめる非暴力の市民たちの経験が活かされているのかである。


76 外国人嫌いのひとって、わからないんだけど、周りの何もかもずっとおなじままでいてほしいような感じなのかな。それはそれでいいのだけれど、しかしそもそもその自分だっておなじのままではあり得ないよ。わたしは急進派ではないが、絶えざる変化とともに在るのがポールクレーの絵の中にあるような宇宙のリズムと共にだったらラッキーだね

I don't grow old. I change. I don't die. I change again. ーHarold Pinter

77 映画の衰退とナショナリズムの高まりはいっしょに起きているのはどうしてだろうか?嘗ては此方から向こうにあるところへ行く死に場所があったが、開発され尽くした近代に死に場所がなくなっていくと、国土が死に場所と観念される。映画は大きいものであるとされるのは映画は物が物自体を考えるように自らを投射するので映画史である映画ほど大きいものはない。このいわば喪を構成する死に衣装であるスクリーンを通じて此方から向こうにある世界を与える映画が亡くなったときから、人生を奪回する精神と倫理性への関心がうすまるなかでナショナリズムが高まってきて極右翼も現れてきたのではあるまいか..? 一考の価値あり

飢えることは大変なことだが友情を失ったらもうやっていけなくなる。友情を嘲笑う政治家を都民ファーストの極右翼が厚く埋葬するのが罪深いのは死者の世界にも差別をもたらすからだ

78 今年は『ユリシーズ』出版百年。ジョイスはミュージカルホールとしてダブリンの街を見事に表現した。言語が物(音)と混ざる本とコミュニケーションを取る必要がある(ケージ)

79 マイノリティの文化を保護しなければいけないのだから、日本語を教えるときはマイノリティである女性の言葉で教える必要があると思う。男性の言葉を使うときはできるだけ中和化する

80 中世は「和漢混淆文」が成立した。能の謡曲は、今の感覚で言えば、男性が使った漢字とマイノリティである女性が使わなければいけないとされた仮名とで書かれた。多様性があった

81 中国は言語支配者であり、日本は言語マイノリティである。『日本書記』『古事記』は漢字で書いた。『源氏物語』はカナで書かれる。中世からは漢字で書いた物語が出てくる

82 究極の平等とは華厳のひとり一人がマイノリティ(差異)に成ること。これは理念的なので難しい。隣国との関係を大事にしてヘイトをやめたり国内のマイノリティを大切にすることは難しくない


石原が恐れていたのは他者であり外部なんだとおもう。結局石原に負けてしまったのは、みんなが平均的右翼おじさんに安住していて、一人ひとりが他者としての女性に成ること、外部である外国人に成ることを怖がっていたから。自身への抗議をこめて

83 『言葉と物』のフーコは近代の成立とともにある文献学と解釈学の言及を追うが、ルネッサンスとの関係を考えようとしても知識不足で西欧におけるものが簡単には理解できないときは、朱子学の展開と宣長•篤胤のことを考えると分かるし面白くなってくる。後で、19世紀の言語の哲学的反省のニーチェ、それからマラルメの文学を考えてみる。フーコが奥深く難しいのは、本の中で語られるデカルトとカントの認識する人間がわれわれの傍でいっしょに『言葉と物』に書かれたこうした事柄を読んでいるようなところ。芝居小屋で翻訳者の渡辺先生に「君はもしかして僕のデウス・エクス・マキナdeus ex machinaかもしれない」と言われたことを思い返しながら、伊藤仁斎も考えた理念化の問題を考える

84 どんな表現も個人的なものではあり得ない。マスコミが許す石原<節>は石原個人のものではなく、作家が定位する国語主義と<一国>民主主義という集団的なものではないだろうか

85 言語には、もはや自己以外の何物をも指示しない書く書くという行為のうちに、自己自身の姿をあらわすということが起きる。それはいつからいかなる条件のもとで起きたのか?それ以前はどうだったのか?生命と労働のために言語は費やされていたが、哲学的反省に言語ははじまるのはやっと20世紀からである。(これを手で考えようというのである)

86 イギリス人は「冷たい」。自分自身にも冷たい。カフェで人生を捨てたように本を読む私がどうしても気になる者がいた。「I can’t read French」事件。氷が割れた

87 朱子学は理学と言われる。ポストモダンの時代の「理」とはロゴスから由来するデイスクール(言説)と考えていいのではないか。その場合、「理」は筋道と同時に学者的議論である

88 朱子宗教改革によって、貴族に代わって、宋を支える知識人的官僚が誕生した。朱子学の近代が否定する儒教の原初的祖先崇拝は経書と共に存続した

89 街にいる中国人に「儒教」と言っても通じない。「孔子教」と言えば通じるようだ。17世紀の徳川日本の儒者たちは孔子を祖先のようなものとして祖廟で崇拝していたらしい。台湾は面白かったな

90 歴史を問う問題提起です。しかし戦前は天皇は王政復古の舞台のほかのところでは必要とされていなかったし、西欧列強に植民地化される危険もなくなって天皇に全権力を集中する必要もなくなっていた大正にやめるチャンスがあったのです。ですから、「日本はなお神聖天皇を必要とするのか」という問いかけが成立しませんよというのがわたしの構成です。日本の言論に影響力を持っている温厚なこの学者は、一見説得力があるのですが、しかし「崇敬」というわけのわからない概念に依存して考えていますから、戦前日本は天皇が必要とされていたと喋るのでありますが、「崇敬」していない、(戦前に日本とされた)朝鮮と台湾の人々のことも考えると、残念ながら、「崇敬」は非歴史的な偽の文化概念だとわたしは思います

91 宗教改革の国スイスのゴダールが「映画史』のなかで祖先崇拝とドイツ文学とが結びつけているし、そういうことを映画批評家アイリッシュ系イギリス人が彼の伝記の中で展開しているのは異様な感じがしたが、宗教改革をした、「無神論」的にみえる中国の知識人にとっても祖先崇拝と経書とが一体だったのだからね

92靖國に公式参拝するのかと問われた石原都知事は怒って記者に向かってこう言い放った。「近代史、現代史を知らんのか!?」それはおまえのことだろう

93 天皇憲法に書かれていない、死を主宰する権力をもっていたのですね。「敵を殺して死ねば靖國に神として戻ってこれる」というのです。これがアジア2000万人を殺戮しました。明治政府の神祇官に宗教者がなった政教分離違反だけが問題でしょうか?天皇の靖國を通じて明治憲法に書かれていない死を主宰する権力を理念的に前提にしないとこれでは解釈改憲が起きます

94 プラトニズムとPenroseが呼ぶものは外部的かつ絶対的で永遠なものである数学的真実だが、ロゴス(理=言説)が構成する精神の眼が見る芸術のコンセプチュアルな美を考えた

95 アベが口にする「誠」字は、中国古典では死者がいる天と人を媒介する、虚のない誠実さを意味しました。アジア二千万人を殺戮した靖國の公式参拝のどこに「誠」があるのでしょうか?


「クールジャパン」三唱、アベが主宰する馬鹿の国日本、凄い!


96 戦前の法的体系の中で、皇国史観を批判した津田左右吉なんか、なんと!実在しない神話の神様を侮辱したという理由で名誉毀損の罪で逮捕されましたからね、その異常さに呆れませんか

97 「いま、古事記を読む、これはもうすぐれて現代日本をめぐる問題なのだ」(子安先生)。

98 共同幻想論』の吉本隆明は沖縄の独立の問題を考える為に『古事記』を読んだが、しかし沖縄が自立しようとする日本国家のアイデンティティの方を書いた神話を読むのかが分からない

99 書くことは並べること。世界は並べる。

天皇ファシズム文革ファシズムの間

日本の場合、ドイツと違って、戦前の裁判官と検事はそのまま裁判官と検事になったときいています。びっくりしましたが、戦後の裁判官は、当たり前のように、戦前と同じ論理と感覚で、大逆事件で冤罪だった人の再審請求の裁判のなかで思想を裁いています。

戦前の法的体系の中で、皇国史観を批判した津田左右吉なんか、なんと!実在しない神話の神様を侮辱したという理由で名誉毀損の罪で逮捕されましたからね、その異常さに呆れます。

三木清は思想犯で捕まっていなかったので(たしか、図書館の本を返さなかったような別件の罪で逮捕された)、戦後はかえって発見されずに死んでいました。

明治においては薩長の元勲たちが天皇を人形にして好き勝手なことをしていましたが、身体的に非常に弱かったと言われる大正天皇のときに、生き残ったもののうちで幸徳を殺した元勲が独裁みたいになったのか、あるいは天皇をコントロールする者がいなくなって大正天皇が独裁者みたいになったのか、どちらなのか議論がありますが、わたしは後者の説をとります。今日の市民運動が挫折してしまうのは、国家に逆らうと怖いからと思っているからです。国家(国体)に逆らうと怖いかぞと植えつけられてしまったのがこの時代(大正)においてです。

最後に、日本における上からの近代化に失望した思想家たちは何を語るのかについて思想史的関心から書かせていただくと、津田左右吉は近代化が進まないのが「シナ」(中国)のせいだと執拗に考えて漢字文化を根本から否定するような言説を展開して知識人全否定みたいない一見ファショ的?な見方にたって音声中心主義的な近代を主張していきますし、北一輝は下からの近代化を過剰に中国に託すことになって中国を巻き込む形でアジア主義に大きな影響をもたらします。

東アジアは明治維新をたたえてきて上からの近代化に希望を持っているのですが、しかし経済と開発はどんどんすすむのに言論の自由は全然ないことを考えるとき、これからは、そういう単純なことではないらしいということがわかってくるのではないでしょうか

100 五輪を見ると、文明のゲームはプレイヤーは最初は差異がないが最後は勝者と敗者に差異化される。レヴィストロースは未開は最初は差異から始まるが最後は差異がなくなると指摘した。近代経済学は収穫逓減の法則に沿って考えるので、ブルジョワは差異がなくならないように絶えず開発しなければいけないというようなことを言う。マルクスの政治経済学は全員が貧乏になって差異がないような状態からはじまる。革命までは何も始まっていないのである。またどんなことをしても資本主義をコントロールできないー暴力革命でなければ。差異がない状態は近代から見れば終わりであるが、マルクスの場合、終わりが始まりに先行する。と書くと、如何にも宗教の終末論的ユートピアの様相を呈すが、マルクスからの影響はそれほど単純ではない。情報の客体の側に絡み取られることなくコミュニケーションの主体にならなければいけないが、どんな機能も順調に働かない。否、機能が期待されたとおりに働かないときこそ万事順調であるとする世界観にたつ。しかし調和を拒否するこれは、合理的なもの(構造の知識にもとづく予測)が成り立たない場合にだけ経済政策が機能すると考えるブルジョワ経済学とあまり大差ないことになってしまうのではあるまいか


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ビーダーマイヤー時代におけるショパンシューマン、彼らを出会わせたメンデルゾーン


少女が女性になるのではなく、女性への生成変化が普遍的な少女を作り出すのだ。子供が大人になるのではなく、子供への生成変化が普遍的な少年を作り出すのだ。D=G

普遍的思考は時間的順番から少女は女性に先行する。ポストモダンは普遍的少女を論理的順序を以て考える。ウルフが描くように、この物を指さす言語の平面にある女性が少女に先行する


ドライヤー『裁かれるジャンヌ』を観た。フランス人映画監督と観たのは30年前か?完璧な映画である。ブレヒトの芝居「ガリレオの生涯」のことを考えながら観た


『裁かれるジャンヌ』を一緒に観たこの映画監督ーカメラマンのネストール・アルメンドロスを師とあおいでいたーのもとで、トリフォー『野生の少年』の脚本を恵比寿時代に読んだ。異端審問官はジャンヌの証言を書き取っている。審問官にとって、ジャンヌがいう「神」が意味しているものが問題であった。それが何を指示していても自由だが、教会の存在理由がなくなる根拠となる言説が危険であった。他方で、イタール博士はアヴェロンの野生の少年が自分の欲求を為す牛乳の語を発することができても、「その牛乳を下さい」という形で文法性を以て喋れないので知的なものがないとした。近代にとっては、点を線のなかで構成できないことが問題であった。それではわれわれの思考を効率的に可能にする言語を支えることができないからである










Foucault フーコ 1

‪1

『言葉と物』第三章は’表象‘である。このなかで「秩序」と題した一節の書き出し


‪「歴史一般にとって、不連続のあり方を決定するのは容易ではない。思考の歴史の場合、それはおそらくなおのことそうだ。分割線を引いてみようというのか?だが、あらゆる境界線は、無限に流動する総体の恣意的な切断にすぎまい。一つの時期を切りとろうと望むのか?しかし、二つの時点において対称的な切断を行い、両者のあいだに一個の連続的で統一ある体系を出現させる権利が、そもそもわれわれにあるのだろうか?そのような体系が成立すること、ついでそれが消滅し崩壊すること、それは何に起因するのだろうか?体系の実在と消滅とは、どのような体制にしたがいうるのか?体系の内部に整合性の原因があるのなら、この体系を忌避しうる外的要素はどこからくるのだろうか?思考は、みずからと異なるもののまえでいかにして身をかわすことができるのか?一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか?」


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顔を支えるものは顔の下にある絵画=仮面


フリールの芝居(Dancing at Lughnasa)は、映画化されたが、人々が冷戦の時代のラジオを聞いている場面がある。現在はタブーとなっているが、アイルランドがコリアと同一化していた時代があったらしい。このことを伝えている。こういうことを知ると、起源とはなんだろうか、あらためて考える。歴史のことを書くと、独立アイルランドの教育は教会が掌握した。作品の検閲が始まる。そして普遍宗教の地域化、これが排除されることになった。他所からきた異教なものは禁じられた。フリールの芝居は、異教なものに関わって、仕事を失う危険があった女性が主人公である。おじさんだったか、アフリカから帰ってきたこの人物がやっている異教の儀式なんかはめちゃくちゃヤバイのである。しかしどうも彼はアフリカがアイルランドの起源だと思っている感じである。起源の同一性を脱構築するようなこの見方をただの神秘主義と評していいのか?芝居を観たとき、人間というのは顔の下に仮面があることをわたしは考えた。他所と繋がることができるのはこの仮面のおかげではないかと。国家はこれをおそれるのである。ベラスケス『ラス・メニーナス』、この絵画そのものが仮面であると考えるアーチストたちがダブリンにいた。絵画=仮面は顔の下にある。裏側にあるものは表に見えている。クローズアップした顔は炸裂している。


ナチスがどうしてあれほど表現主義を畏れていたかわからないが、芸術の仲間たちはこれを明らかにしたのではないか。絵画=仮面は顔の下にある、そして他所と繋がることができるのは裏側にあるものが表に見えているこの仮面のおかげである、そうして起源であるクローズアップした顔は炸裂している。


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書くこと 200ー300

201 映像はリズムをもっている。組み合わせることによって、早くて強いものがあるが、遅くてずっと記憶にとどまるものもある。音を見せてくれる楽譜なんじゃないかとおもう

202 日本の伝統とは、学と道徳の両立を自分のものにした江戸時代にある。明治は新たに美と倫理の両立を確立しようとしたか。岡倉天心の講義にきたのは、和辻哲郎大川周明九鬼周造

203 明治は美と倫理の両立の確立を目指したが何を失ったか。大正から、学と道徳の両立を可能にした漢文を読めなくなった。三木清マルクス主義を消した。美は国民倫理を得ても仕方ない

204 日本化とアメリカ化は美意識を殺戮している。英国は美意識がない。国民が共有する美意識は階級的アイデンティティに根ざしてはいけない。だがあまり言うと全体主義っぽくていけない。

205 日本は権力集中を解体しようとするものがマイノリティを排するファショ的な人物と政党しか出てこないが、ファシズムが拘りを示す美意識がなくて(間違った)コストの計算ばかりしている

206 和辻哲郎はヨーロッパ大好きの代表選手、竹内好はアジア大好き代表選手である。渡辺一民はそう教えてくれた。父は戦前に和辻に憧れていた。修学旅行から帰って亀井勝一朗の仏像論を読んでいた私を幼稚だと愚弄してきた。たかが鑑賞の話。「何だ、これは?」と、亀井にたいする否定の感情に当惑した。『古寺巡礼』を読めという。これは美に対する考え方の違いによるものなのかとずっと思っていたが、そういうことではなくて、アメリカには謝らなくていいが中国に謝れという考えに反発していたのではないかと思うようになった


207 書くことは並べること。世界は見えない物が占拠している白紙の本。目に見えず耳に聴こえす洋々とするもの。消滅しまう前に還ってくるもの。忙しくて祀られずに地にうちすてられたもの。名づけて国家を制作するもの。可畏きもの。共同体がある限り還ってくるもの。此方から見える、彼方ー近くに留まるもの


208 書くことは並べること。コスモロジーは理と気で成り立つ。「理は即ち性」。性は生まれつきの心の方向ではない。天が地上のすべての人に人が人としてある命令を与える。之が性である


209 書くことは並べること。コスモロジーは理と気で成り立つ。問題は二つのものをいかに秩序づけるかである。朱子は「理先気後」と考えた。四書はバベルの災厄である


210 書くことは並べること。理と気の差異性を保つことが大切である。差異性を気質の清濁にしてしまうのは危険である。理と気の差異性を保つことができないから


211 理と気の差異性を保つためにはどうすればよいか。「理は只、気の上に泊まる」と考えたらどうか。上下の差異化。形なきものが上(形而上学)、形あるものは下(形而下学)


212 「理先気後」と言っても、われわれの知識はまずこの気の世界の体験から形成されると強調する朱子学は、出自をもつ「只是れ箇の浄潔空潤底の世界」というような仏教色を払底できるか


213 その正体は大英帝国が作った「高台」なのだけれど、現在も旅行者の視点でしかない残滓を有り難くおもうのは、帝国主義の視点を消費しているんだよな


214 ダブリンで、フリールの移民をテーマとした芝居を囚人たちが演じるというので観に行った。観客ならば誰でも入れた監獄の舞台で主人公が父と別の部屋にいる心の中の父と対話していた


215 

顔を支えるものは顔の下にある絵画=仮面

フリールの芝居(Dancing at Lughnasa)は、映画化されたが、人々が冷戦の時代のラジオを聞いている場面がある。現在はタブーとなっているが、アイルランドがコリアと同一化していた時代があったらしい。このことを伝えている。こういうことを知ると、起源とはなんだろうか、あらためて考える。歴史のことを書くと、独立アイルランドの教育は教会が掌握した。作品の検閲が始まる。そして普遍宗教の地域化、これが排除されることになった。他所からきた異教なものは禁じられた。フリールの芝居は、異教なものに関わって、仕事を失う危険があった女性が主人公である。おじさんだったか、アフリカから帰ってきたこの人物がやっている異教の儀式なんかはめちゃくちゃヤバイのである。しかしどうも彼はアフリカがアイルランドの起源だと思っている感じである。起源の同一性を脱構築するようなこの見方をただの神秘主義と評していいのか?芝居を観たとき、人間というのは顔の下に仮面があることをわたしは考えた。他所と繋がることができるのはこの仮面のおかげではないかと。国家はこれをおそれるのである。ベラスケス『ラス・メニーナス』、この絵画そのものが仮面であると考えるアーチストたちがダブリンにいた。絵画=仮面は顔の下にある。裏側にあるものは表に見えている。クローズアップした顔は炸裂している

216 ナチスがどうしてあれほど表現主義を畏れていたかわからないが、芸術の仲間たちはこれを明らかにしたのではないか。絵画=仮面は顔の下にある、そして他所と繋がることができるのは裏側にあるものが表に見えているこの仮面のおかげである、そうして起源であるクローズアップした顔は炸裂している。

217 書くことは交錯superimpositionである。アジア思想史は、分割の仕方だけでなく、相互作用と反発をもつ「思想的交錯の実際」(子安先生)を考える。

218  自然の中に隠棲しなかった孔子の<世界ー内部的亡命>は、仁斎における日常の卑近の思想とともに、新天下主義的国家の無媒介的声から自立している媒介的エクリチュールの意義または目に見えない他者が介入してくる文の意義として再構成できるのではないか。これは世界哲学史である。


219 内部的亡命がない国のわれわれは、ジョイスの「自分で決めた亡命」は自然-内-隠棲か内部的亡命か、RとLの音の区別がつかないように、区別できない。ヨーロッパは『フィネガンズ・ウェイク』は、翻訳の問題を解決できない読めない迷宮でも、ヨーロッパの中で行った市民権のない抗議する内部的亡命であることをはっきり知っている。エドワード・サイードがダブリンに来てこのジョイスについて語るはずだったが、死んでしまったのが残念。サイードならばどう言うのだろうか。わたしもしっかり理解できていないが、ジョイスの場合は前衛作家の政治的亡命のようには政治的に迫害されてはいなかった。仕事をもとめて貧しい国を出た移民の移動だったが、移民は母国の政治を文学を通じて批判することはないだろう。「自分で決めた亡命」は曖昧な概念であるが、この国ではやっていけないのだという明確なイメージをもっている。内部的亡命についてわれわれは国外に逃げなくてもこの国ではやっていけないのではないかと感じはじめたのは原発災害から。政治に信がない。


220 世界は必ずしも両立しない前半と後半とがある。天皇の反民主主義の前半も好き、戦後の民主主義の後半も好きな「変な人間」を作りだしたのが昭和である。別の「変なもの」でありたい

221 産業革命があった国は世界の少数派です。世界の多数派は、産業革命が無かった、あっても、20世紀のかなり後半にやっと実現したような国たちなんですね。産業革命と民族資本の形成を不可能にしたのが帝国主義です。さて産業革命とは、物の見方を変えただけで、人間の精神に何か影響を与えたのでしょうか。イギリスのような産業革命が起きなかったけれど、フランスで政治革命が起き、ドイツでは思想革命が起きましたね(おかげで、反時代的に、いま、ここで、人間の精神なんかについて考えています)。進んでいたイギリスは自慢の言論の自由はあるのですが、政治革命と思想革命と結びついていないので、情熱のない言論の自由の様相を呈しています。それでも、ポスト大英帝国のイギリスを支えるのは人権と結びついた国際報道であるとはっきり考えています。アジアのほうを見渡すと、この150年間、産業革命があって、経済と技術、マネーがどんどんすすみますが、人間の精神を支える言論の自由の方向性をもった政治革命が起きてきませんね。どうしてなのでしょうか?政治革命が起きないこのことを考えると、日本の近代は、良い悪いはべつとして、復古主義による近代化しかなかったとおもうのですが、しかしこれからは、“明治に帰れ”とは別のあり方を考える必要があるとおもうのです。何かこの国の衰退を恐れるひとがたちが出てきているようですが、戦争と開発と同化主義はどんどんすすんでいくのに、精神的に価値のあるものを作って行けるのか、むしろこのことをわたしは恐れています

222 書くことは並べること。「経書」的世界の字を並べよう。「性即理」と構築的に理念化すると高すぎる。仁斎は彼が立つ大地に並べる。人あっての道と天下に達する道。と..と..

223 書くことは並べること。アルバムの写真を並べるときでも、何か失っても何かを得るという感じで理念化すると並べるのが難しくなる。失ったら失うことができるとするのが脱構築である


224 書くとは、絶えず「あらためて」還るものに与えられた名ではないか。言語的存在である人間が存在の意味を考えるとき、要請でも排除でもなく迂回でもない、精神が白紙の本に与える懐疑的差異の線である


225 世界は「人類」か、「国民」か?高すぎてよそよそしい「人類」と「国民」の理念は民族主義の「みんな」を呼び出してしまう。原初的過去から呼び出された。だが「みんな」「みんな」と言っているうちに「人類」になったフランス革命の時代は民族主義が平等を実現できた。しかし現代のアベ政治の「みんな」は平等をもたらさない。国民の中の格差を広げているだけだ

226 世界は民主主義か反民主主義か。ベートーベンも、称えた民主主義が反民主主義と気がついて葬送行進曲にした。フランスは100-150年要した民主主義の達成をドイツはワイマールの凝縮された10年間でやった結果、ナチズムの混乱が起きたとみる考えもある。それでもヨーロッパはルネッサンスから500年の歴史がある。日本は西欧化が150年早くて民主主義を考える時間があったが、戦前は天皇主権のもとで民主主義が可能だと考えている有り様だ。未だ民主化30年のアジアは反民主主義を民主主義と考え、民主主義を反民主主義と考えている。世界は近代の終焉とともに、新しい普遍主義を多元主義の方向において再構成しようとしている。これは民主主義の成熟を為すものだろうが、国家は世界に多元主義を求める以上自ら多元化する必要がある。世界に向かって多元主義を求めながら自ら多元化しないような国家は反民主主義の帝国になるだけだ。


227 世界は奪われた言語も奪われた文化も、失った物を取り戻すことができない。しかし「万物が君への愛ゆえに時と戦うのなら僕も時が奪ったものを君に添え直そう」(シェイクスピア)。


228 世界は失った物を取り戻すことができない。その名の意味を灰色に灰色に重ねるように解釈するだけ。しかし言語の外に「物」を見いだす徂徠にとって「六経はその物なり」


229 世界は失った物を取り戻せない。21世紀は物(映画)の名も思いだされない。解釈の言説はバベルの災厄。映画の言語の外に「物」を見いだすゴダールにとって文学はその物である

230 世界は還るもの。物で書かれる還るものがあった。物の形が亡くなったときは、名があるだけで、物を取り戻すことはできないのは、死に切った過去が蘇らないこととおなじである。だけど言語の外に「物」を見いだすジョイスにとって、ダンテの煉獄、シェークスピアの目覚めることのできない悪夢と亡霊(spirit)、ホーマーの地中海、旧約聖書イスラエルはその物である


231 わたしは還る、だから、わたしはいつもこころもちさがったところにいる


232 ポスト構造主義的には、映画史的言語において物の形を失ったものは、再び映画史的言語には無いのだ。映画史的言語の外に見出だされる。思想的言説の歴史を見渡す言語にその物がある


233 物の形を失ったものは再びプルーストの嫉妬のシーニュを織りなす言語に無い。その言語の外にその物が再び見出だされる。ケルト的妖精の反理性の言語に思い出されるのを待つ物がある


234 師弟関係の根底に、言語的支配があるのではないでしょうか。だから、実在していればの話ですが、親鸞は決して弟子をとらなかったそうです。言語的支配は「他力」ではないし、信を支えるものは言語的支配ではないからと考えたのかなと思います。講座『歎異抄の近代』で学んで考えたことです。似ている話だとおもうのですが、日本では死んだ思想家の思い出話をする未亡人みたいな人が多いですね。だけれど死んだ思想家の弟子になるのは難しいのです、それはそうですね、証拠が無いですから。平田篤胤宣長の死後の弟子ですが絵師に夢の中で宣長の生前の弟子となった様子を描かせる必要がありました。さて死んだ思想家の弟子になるのが無理ならば、思想家の「未亡人」とかになって発言力をもつことができます。思想家は死からは自立した存在だとおもうのですが。思想家に関しては死んだことを前提にして話す必要がありませんのに。死んだ思想家の「弟子」とか「未亡人」とかになって発言力をもつひとは、もしかしたら死の文化を為すものかもしれませんが、ちょっとわたしは苦手ですね。なぜそうあるのかその理由と言えば、わかりませんが、学的な枠組みを取り払って自由に何か別のことを言おうとするのかもしれませんが、結局何でもかんでも喋ることになるのです。そこに、そのひとたちの「死」を媒介とした党派的な支配の欲望と精神の隷属がどうしてもみえてしまうのです。世界というのは二人以上で成り立つ限りにおいて党派的なものしかないのかもしれませんが

235 クリスマスのこの時期は、ハリウッド映画の聖書物語が流れてくる。全員アメリカ人が演じている出エジプトなんかみてしまった。フロイトのことをおもう。フロイトアイデンティティの関心は、ヨーロッパ人としてのルネッサンスコスモポリタン的ダビテ像 (ミケランジェロ)への同化にあった。だがフロイトはナチズムの台頭でウイーンからロンドンに亡命しなければいけなくなる。娘は父がショックを受けないようにとウイーンの家とまったく同じにしたらしい。その彼の家は現在博物館になっている。わたしはよくここに来た。フロイトアイデンティティの関心がヨーロッパの外に向かって行く時代に、『モーゼと一神教』を書く。フロイトの説では、モーゼはヘブライ語を話さないエジプト人だった。多分モーゼは出エジプトのときに殺された。彼を内面化したユダヤ共同体が成立した。乱暴にポイントを書いたが、これは何か精神分析的鬼神論と等価のものか?わからないが、フロイトにおいて思想的言説の転換があったのである。その点について、イードユダヤ人について語るのは苦痛だと前置きして、無神論から精神分析的有鬼論への言説的転換は政治によるものであるとみる。ひとつのアイデンティティは実体がないのだ

236 映画における感化の運動を表現しなければいけないが、しかし問題は、プラトン的に構成してみると、表現するまえに感化の運動が消えてしまうこと。そうならば、これはデモの場合とおなじではないか。特に現代の非暴力の自発的に集まってくるデモは、事件性を名づけるような思想が形成されないと、持続することが難しい。<ウォール街を占拠せよ>の先駆を為したロンドンG20開催抗議デモはどういう思想を形成しているのかわたしはよくわかっていない。反(脱)原発デモと反安倍戦争法デモを契機に成立した政党は現在、新しい経験をもちながらも、それを表現するための思考が決定的に足りないという思想不足の問題に直面しているようにみえるが、どうなんだろうか

237 民主主義があろうとなかろうと経済は発展する。経済発展しても言論の自由がない。国が奪われても国を取り戻しても関係なく、精神的に価値のあるものが生まれなければやっていけない


238 

思想史的交錯としての鬼神論のデイスクールの配置


子安宣邦氏は、

「「第二江戸思想史講義」では朱子学をただ日本近代思想の成立にとっての否定的な思想体系としてのみ見るのではなく、東アジアに成立した唯一の普遍的な思想体系として見ることから、あらためて日本の近世・近代思想の読み直しを考えるものです。」と語ってきた。

あらためて」とはいかなる意味だろうか?


『江戸思想史講義』は「江戸時代講義第一」を為すが、朱子学をただ日本近代思想の成立にとっての否定的な思想体系としてのみ見」たかもしれない。それを「あらためて」考えなおすと言うのである。

『江戸思想史講義』の思想家の言説を並べた目次をみる。


中江藤樹の「孝」

山崎闇斎の「敬」

伊藤仁斎の「天命」

三宅尚斎の「鬼神」

荻生徂徠の「礼楽」

中井履軒の「儒者

賀茂馬淵の「真心」

本居宣長の「物哀」


『江戸思想史講義第一』の八つの点が線を作るのではなく、逆に、『江戸思想史講義第ニ』における線のほうが帝国知から脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てている。『江戸思想史講義第ニ』はアジアで唯一の形而上学を作った朱子近代主義朱子学から守る。無鬼論にみえる朱子は「鬼神」をどう読んだか、徂徠は「鬼神」をどう読んだか、「あらためて」このことを問うた『江戸思想史講義第ニ』において鬼神をめぐる思想的言説の線が引かれた。


吉川幸次郎は『論語』先進編「鬼神に事えんことを問う」章の評釈の言葉も中で朱子無神論者としながら日本近世思想史を俯瞰するようなことを言う。これについて子安氏はいう。「私が朱子の鬼神論的世界を知る前であったらこの吉川の朱子を「無神論者」とする論定に驚くことなく、「無神論者」朱子を前提にして辿られる日本近世の「無神論者」仁斎とそれに対立する「有神論者」徂徠とそして宣長に辿られる思想史的系譜の記述を喜んで受け入れたであろう。だが朱子の鬼神論的世界を『朱子語類』の自分なりの解読によって辿ってきた私は朱子を直ちに「無神論者」とすることに抵抗を感じる。」子安氏は近代合理性のいわば透明な言語となったその自明性を問題とする。

「有神論者」か「無神論者」かの二項対立を逃れて第三項を書くことは可能か。以下は、子安氏の説明を参考にしてわたしが作った鬼神のデイスクールをめぐる表(タブロー)である。これが第三項を構成するとわたしは考える。


朱子の<理気二元論的無鬼論>(しかしそれほど無鬼論か?)

荻生徂徠の<制作学的有鬼論>

本居宣長の<国学的有鬼論>

平田篤胤の<民情論的有鬼論>

柳田邦男<民俗学的有鬼論>(先祖の話)


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19世紀の異端的な平田篤胤は、18世紀の正統的な学者の議論(宣長と徂徠)というよりは、救済を望む民衆(彼のパトロンたちを含む)の話を取り入れる形の思想的主張である。平田は、言説的<と>を外部化する他者である。

鬼神論の言説について書くとは、包むもの、絶えず「あらためて」還るものに与えられた名ではないか。言語的存在である人間が存在の意味を考えるとき、近世的要請でも近代的排除でもなく中世形而上学的迂回でもない、包む精神が白紙の本に与える<問い返す>懐疑精神の差異の線である。


『江戸思想講義』と「江戸思想史講義第二」、二つをどう関係づけるか。

アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えず耳に聞こえない鬼神とは何かを考えた。ただ形而上学は仏教の宇宙をも消滅させる無神論的思考を排するのが難しかった。そうして天を仰みたのは朱子学批判の古学。仁斎は人における天の主宰者としての道徳を考えた。しかし徂徠はそれを主観的だと批判。彼は聖人の命名による鬼神と国家の制作をはじめて語ることになった。この天皇制国家の青写真ー徂徠の国家に託した理論ーは後期水戸学に影響を与えていく。歴史は制作と再制作の反復である。


鬼神論の言説について書くことは並べること。世界は分節化できない生と死。思考の分割できる論理的順番として、ハンナ•アーレントハイデガーに先行する。先ず、遥か遠くからくる移民としての生を存在と書く。これによって此方からみえる向こう側がある。その後に、近(親)しい仲間から遠くへ行かないで再び還る「世界-内-存在(死)」を書くこと。アジアにおける、鬼神論的にある、本質なき再-分節化である。


『江戸思想史講義第ニ』は朱子というアジアの思想をわれわれに教えてくれるだけではない。アジア主義ヨーロッパに最高のものがあるが帝国主義の限界があると考えたことがなにであったかわたしはおもう。包むものは包むためには包まれるものを超えるものを自らもっていなければいけない。そうしてヨーロッパを超えようとしたアジア主義はだが、中国との戦争によって破綻した。理念における方法としてのアジアを再構成するとしたら、それはなにか?講座『江戸思想史講義第ニ』は『江戸思想講義』とともに、アジアがヨーロッパを包むものとしてあるとわたしは考える。


子安氏の鬼神論をめぐる言説的展開の考察は現代の中国の問題と向き合って進められていったものである。東アジアにおいて問題になってきたのは、他者の知り方である。他者は、われわれの自己否定が投射されたその他者の知り方に規定される。知の内部的矛盾のように、われわれと他者との間の衝突が起きてくる。

「上からの近代化」のシナリオと「下からの近代化」のシナリオの関係を考える。「上からの近代化」の失敗は「下からの近代化」が補うものとしてあるのか?「上からの近代化」の革命(明治維新)と「下からの近代化」の革命(明治維新から影響された辛亥革命)とが衝突した歴史について、われわれはどう語っているか。サルトルによると、エマ・ボヴァリーは自分が夫の形見になっていることに耐えられなかったように、中国は湖水(「江湖的中国観」)としてあるのに日本人には置き物(「金魚鉢的中国観」)としてしまったのではないか。つまり日本人の「金魚鉢的中国観」は自分たちに都合よく、過剰に、中国を、「上からの近代化」の失敗を補う「下からの近代化」とみる見方である。

目に見えて耳に聞こえるものは、世界から生と死の不透明性を奪ってしまってそれを返さないならば罪である。目に見えず耳に聞こえない鬼神を問うことは事件であり、鬼神論をめぐる言説の展開は贖いである。世界から不透明性を奪った問題を解決するために、再び言語の透明性に委ねることは倫理的に不可能である。朱子が語る鬼神論は言語を透明化した。しかし朱子の鬼神論は、弟子たちとの議論を通じて、理(ロゴス)の優越性を保つのはいいとして、死を第二義的問題とみなすような、世界から生と死とが一体にある不透明性を奪ってしまってはやっていけなくなることを隠さない。

21世紀に鬼神論の言説の配置は子安氏によっていかに語られるか?鬼神とはなにか?それは曖昧な観念を保っている。新しく獲得するために終わるというのではなく、失ったら失うことができること、目に見えず耳に聞こえないものをゆっくりと思考できるようにすること。鬼神論は、明確なイメージをもっているのではないかとおもう。

鬼神のディスクールの運動は、『中庸』を読み返す朱子から誰も言わなかったことが始まったが、仁斎でスローモーションになってついに止まった。荻生徂徠において再開する。本居宣長の新しい流れと合流したり、平田篤胤において切断が起きた。後期水戸学から時間反転がおきる。アジアを見渡しながら、柳田國男で消滅する。つまり線は、襞、折れ目、破片、展開と再包摂を超えていき、現代の中国からつきつけられる問題と向き合うながら、『江戸思想史講義第二』の精神において真っ直ぐに無限に至る。

アジア思想との思想史的交錯として鬼神論のデイスクールの配置を思考することができるのは、解体ー日本思想史のポストモダン孔子においてである。



239

中江兆民の民主主義の成立を国家に託した自由民権運動が挫折した後、幸徳秋水は何を考えたか?アジアの社会主義だといわれる。そうだろう。しかし単純ではない。ロシアの社会主義アナキズムを弾圧していた。幸徳と大杉は社会主義の言語の外に、失われた物を見出だそうとしたのではなかったか。阪神・淡路大震災以降小田実が語るだろう市民の言語にその物がある、というのがわれわれの構成である。それは、近代的思惟の欠如が問題にした、丸山真男におけるような戦前の講座派を包摂した市民社会ではない。小田の市民の思想は、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨしている、小さなものを表象している。提案すべきは、小さなものたちが行う再制作である。左翼のリベラル•エリートは天皇の話ばかりしているが、強力な共和主義を構築する必要があると考えるわれわれはそんな暇はないのである


240

這裏(しゃ‐り)。「這」は「此」の意。このうちに真理がある、という禅の言葉。悟ったの意味らしい。朱子の口語文体に「這裏」がある。アジアの唯一の普遍主義を為した「朱子語類』における思考のリズムのことをおもう。縦書きに思考のリズムがあった?縦書きが消滅しつつあるネットの時代に、新聞と国語教科書がやめたら縦書きが終わるのだろうか。最後の縦書きの文は何だろうか?日本知識人が行った訓(よ)みにおける思考のイメージが死に切った過去となる日がいつか来るのだろうか..


241 世界は活動と言論である。「活動と言論が行われるためには、その周囲に他人がいなければならない」とハンナ•アーレントはいう。それと内部的批判的他者が必要ではないか。紀元前5世紀に起きた世界ー内部的亡命は内部的批判的他者の起源かと考えてみる


242 外国人であろうとなかろうと、生活していたら共同体を形成する意思があるとみとめられる。その意思がある以上、住民投票の権利を必要とする共同体のメンバーである。なぜ排除する?

アポロ13号は、存在の曖昧な観念だが明確なイメージがあった。存在とは<生としての移民>。遥か外から来る生を迎える喜びがなければやっていけないわれわれ自身の姿を見たのだ

近代合理性は死を第二義的問題と考える。しかしコスモロジー形而上学にとって、死は第二義的問題ではない。ただし思考の論理的順番がある。現代に即して考えると、最初に、遥か遠くからくる生を考える。存在の生としての移民を考える倫理性が先行する。次に、現前する死と、隣にいる仲間から遠くに行かない死後を考えるのである


243 書くことは並べること。世界は分節化できない生と死。思考の分割できる論理的順番として、ハンナ•アーレントハイデガーに先行する。先ず、遥か遠くからくる移民としての生を存在と書く。これによって此方からみえる向こう側がある。その後に、近(親)しい仲間から遠くへ行かないで再び還る「世界-内-存在(死)」を書くこと。本質なき再-分節化である


244 ゴダール『映画史』はいかにもプロテスタントが語り出すカトリック神秘と言われる。感格の道理である、投射のなかに書かれた言葉が佇む、映画史と絵画史との間を表現しているのに

245 アイルランドは有神論、イギリスは無神論とみられているが、そうだろうか?そのように分節化しているのは二項対立の曖昧な観念でみているからではないか?共同体は有神論と無神論との間でなければやっていけない明確なイメージをもっているとおもう

246 殺しあった北アイルランドの超カトリック過激派とイギリスの対抗プロテスタント過激派は、議会で互いに顔を見合わせなかったが、現在は仲良くしているらしい。おなじ神様だもの

247 幕末は、天下の普遍を支えたのは活動家的学者の自発性である。開国のための攘夷は、自発性を失って安倍的にプロ化した田舎者テロリストと暗殺者が演出する王政復古ではない。

佐幕派からみると、坂本竜馬横井小楠を理解したつもりで、田舎者の攘夷の私闘的テロを天下の普遍と考えた。圧縮されたアジア民主化の中でファシズムを自由と錯認する活動家みたい


248 鬼神といえば、嗚呼お化けの異界の話かと思われるけれど、アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えず聞こえないものとは何かを知的に考えることから成立したのよ

249 アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えない鬼神とは何かを考えたが、仏教の宇宙も消滅させる無神論を排するのは難しい。天を仰みるのは朱子学批判の古学である

250 映画とは何だったのか?反偶像崇拝のヴァンダリズムではないけど、投射されないスクリーンが先行する。此方の知からみえる、彼方側にある空や無を考えるうちに、映像が見つめてくる


251 『江戸思想講義』と「江戸思想史講義第二」、二つをどう関係づけるか。


アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えない鬼神とは何かを考えたが、仏教の宇宙をも消滅させる無神論を排するのは難しい。そうして天を仰みたのは朱子学批判の古学。仁斎は人における天の主宰者としての道徳を考えた。しかし徂徠はそれを主観的だと批判。彼は聖人の命名による鬼神と国家の制作をはじめて語ることになった。この天皇制国家の青写真ー徂徠の国家に託した理論ーは後期水戸学に影響を与えていく


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252 政治権力を天皇に集中させた王政復古は、長州が文化権力の中心にある天皇を京都から連れ出したせいで、テロリストの家の中で政治権力が日本人の心の中を覆い尽くす危険がでてきた


253 精神的に価値のあるものの制作と再制作が反復したのはそれを名づけることによってである。古代は詩は言語に名づけることを働きかける役目があったか?「興於詩、立於禮、成於樂」と

254 アメリカの何でもかんでも武力が解決できるとする恐怖となんでもかんでもカネがモノをいう隷属にNoと言うのは精神的に価値のあるものだとおもう

255 スマホとかiPhoneの時代。「この道はどこですか?」と道端で言う人が消滅した。ヨーロッパに行ったとき彼らが外国人の私にどうして道を聞いてくるのか分からなかった。現代は知らないことは恥ずかしいという啓蒙時代の地層があるということか。ネットのおかげで知らないことは消滅した。生活の隅々まで監視されているのではないかと不安におもうこともあるが、兎に角ネットは無知を隠してくれる


256 神とは何か知りませんし、神は存在しないという無神論をとればそれっきりですが、神の知り方を問題とするのは、国家に先行する共同体の成り立ちを考えることができるからです

257 昨夜の橋本での話題。どうもね、問題になってきたのは、日本人における中国の知り方。科学の世界みたいに、対象自身の状態に影響を与える、語る主体における対象の知り方。

258 書くことは並べること。「上からの近代化」のシナリオと「下からの近代化」のシナリオを並べてみよう。そしてこの関係を考える。「上からの近代化」の失敗は「下からの近代化」が補うのか?「上からの近代化」の革命(明治維新)と「下からの近代化」の革命(明治維新から影響された辛亥革命)とが衝突した歴史について、100年後の人々は、どう語るのだろうか。前者を「日本」と呼び、後者を「中国」と呼ぶのか

259 EUの援助で成り立っていたダブリンの映画館は元々、クエーカー教の施設だった。当時の空間が残っている。8年間もここを拠点に映画とは何かを考えたら映画教になるよな

260 


問題なのは、他者の知り方。他者は、われわれの自己否定が投射されたその他者の知り方に規定される。知の内部的矛盾のように、われわれと他者との間の衝突が起きてくる


ラディカルモダンが託した「下からの近代化」が、京都から天皇を連れ出した「上からの近代化」を贖った。と考えると、そうして「上からの近代化」と「下からの近代化」の間の戦争が生じたと理解できる。今日ラディカルモダンは、代表するものと代表されるもののメルトダウンの中で中国的資本主義を語る


261 サルトルが書いていたが、エマ・ボヴァリーは生きながら自分が夫の形見のように扱われていることに耐えられなかった。同様に中国は湖水としてあるのに、日本人は置き物にしてしまう


262 サルトルによると、エマ・ボヴァリーは自分が夫の形見になっていることに耐えられなかった。同様に、中国は湖水としてあるのに日本人には置き物。鬼神論を置き物にしてはいけない

263 日本は移民国家だった起源を隠蔽していないか?古代の朝鮮から大量にきた亡命知識人が国家日本を作った。漢字を教えてくれたのは移民。しかしリスペクトが無いからコリアは怒る


264 目に見えて耳に聞こえるものは、世界から生と死の不透明性を奪ってしまってそれを返さないならば罪である。目に見えず耳に聞こえない鬼神と鬼神論をめぐる言説の展開は贖いである

267

目に見えて耳に聞こえるものは、世界から生と死の不透明性を奪ってしまってそれを返さないならば罪である。目に見えず耳に聞こえない鬼神を問うことは事件であり、鬼神論をめぐる言説の展開は贖いである。世界から不透明性を奪った問題を解決するために、再び言語の透明性に委ねることは倫理的に不可能である。朱子が語る鬼神論は言語を透明化した。しかし朱子の鬼神論は、弟子たちとの議論を通じて、理(ロゴス)の優越性を保つのはいいとして、死を第二義的問題とみなすような、世界から生と死とが一体にある不透明性を奪ってしまっては、やっていけなくなることを隠さない。21世紀の鬼神論は言説の展開を通じて曖昧な観念を保っている。新しく獲得するために終わるというのではなく、失ったら失うことができること、目に見えず耳に聞こえないものをゆっくりと思考できるようにすること。鬼神論は、現代の中国からつきつけられる問題と向き合うことができるこの明確なイメージをもっているのではないかとおもう

268 何故日本では権力集中の解体を訴えるものが権力を集中するファッショ的なものからしか出てこないのか。戦前のことを考える。「明治維新ヲ完成シ」という主張がみえるが、昭和維新という呼び方が広がったのは五・一五事件(1932)からだという。「天皇の取り巻きである重臣軍閥、政党や財閥などが独裁を行っている」と言って、彼らから権力を取り上げ、国民の手に権力を戻すことが必要と考えていた。権力集中の解体を訴えるものが、王政復古が与えていた以上に天皇に権力を集中するという。これはなにか?明治維新における「上からの近代化」が失敗したという思いから、「下からの近代化」にたいする過剰な期待が存在したのだ。「上からの近代化」の失敗とは、政治権力を天皇に集中させた王政復古は、長州が文化権力の中心にある天皇を京都から連れ出したせいで、テロリストの家の中で政治権力が日本人の心の中を覆い尽くす危険がでてきたことである。問題は、言説「下からの近代化」が、中国自身を巻き込むかたちで他者に向かって投影されることである。日本人は中国をどう語ってきたかは、日本人の「上からの近代化」への失望と「下からの近代化」の過剰評価と切り離すことができないだろう。北一輝「下からの近代化」として国家に託す社会主義を主張する。結局日本は日中戦争がどうして起きたか認識するという戦争責任を果たしていないので、右翼が戦前とおなじ内容のことをおなじ形で言っている。しかし象徴天皇制憲法のもとで嘗てのように天皇に権力を集中させることが不可能なので、安倍政治とその補完勢力は、軍国主義復活と国家神道復活(公式参拝)解釈改憲を前提に皇室に依存しない新しい天皇教ーつまりヘイトスピーチナショナリズムに託しているようにみえる


269 「上からの近代化」が失敗したために「下からの近代化」に過剰に思い入れをもつ、アイルランドの芸術家達は他国と比べて ordinary peopleと言いたがると言われる

270 米国のイラク戦争に対してダブリンの十万人の抗議が起きた。エスタブリッシュメントの「上からの近代化」の失敗を奪回する「下からの近代化」として読みとる言説は自発性を強調した

271 なぜ官僚資本主義に独裁が現れたのか?市民社会の成立が無いから?日本知識人における言説「上からの革命」の失敗を奪回する言説「下からの革命」が語る過剰なものが存在するから?

272 映画はいつ映画となったのか?議論のなかに映画が現れたのである。実体として映画は存在することはなかった。中国がいつ中国になったか、日本がいつ日本になったかも全く同じである

273 ドライヤー 『奇跡』(1954)は鬼神論の映画化である。見るべし

274 

ドライヤー 『奇跡』は鬼神論の映画化である。相手の立場にたつ努力をしても党派的な対立を解消できない生者にとって、死者は共同体を成立させた不可避の他者として表現されている


275

時が腐っている

時と共に、人々よ、腐れ

どうにもならない。蓋をせよ

嗚呼だれが還る魂を迎えるのか

276

 「鬼神論のような形の無いものを考えても仕方ない。くだらない、こんなものは言語ではない」というならば、形のあるものとは何か?と、鬼神論は言語的存在である人間に問うだろう。形のあるものは、存在の意味を問うシステムと言説的連続性をそなえている必要がある。それならば、言語こそは鬼神論的でなければいけないのではないか

277 多分英語で書かれたFWを読んだら「これは言語か?」と考え始める。逆に、FWは「英語は言語か?」と議論してくる。英語はFWにおいてあるようなシステムと連続性をそなえていないものならば、FWを言語であるかと問う権利がないと

278 ドライヤー 『奇跡』は鬼神論の映画化である。相手の立場にたつ努力をしても党派的な対立を解消できない生者にとって、死者は共同体を成立させた不可避の他者として表現されている

279 ドライヤー の映画『奇跡』のなかで、対立していた地主と仕立て屋がともに旧約聖書を解釈する。相手の立場にたつ努力をしても党派的な対立を解消できない。党派である以上互いに消滅しあう必然のことは、旧約がカインとアベルにおける原初的兄弟の暴力を書いている通りである。共同体の形成は不可能なのか?しかし死者が天にいる意味はなにだろうか?鬼神論が教える。死者は共同体を成立させる不可避の他者ではないか。弔いを通じて、死者は、心の中の神の成立とともに、還る魂として、言葉を住処とするようになる。しかし神を心の外に出して祀ることは禁じられるべきだ。祀る国家と戦う国家を作り出してしまう危険があるから

280 

ドライヤー『奇跡』は映画は思想的問題を表現している。演劇的ナラティブの面白さがあるが、やはり映像が大切。映画が闇からの応答を考えさせる。映画の世紀が終わって、YouTubeの現在、『奇跡』そのものが闇となってきた。闇から光(言語)が現れわれないのは何故か?人間の認識の客体となった言語の透明さに闇が広がってきたとは、どういうことか?それは、光(言語)は物の形を失ってしまったということである。現在は物無くして名だけから意味を考える。だがバベルの災厄のまえはものは物の形を失ってなかった。嘗て言語はそれほど透明ではなかった。言語は存在した。先ず宇宙は光から有るが、闇は近代主義が教えるようには第二義的問題ではない。光と闇は一体としてある、生と死とがあるように。西欧では危機の時代の17世紀にバロック的言説がはじめてそれを語りはじめた。アジアでは古代の言語を読み直した無神論的な朱子が考えはじめて、有神(鬼)論的な古学と国学が発展させることになった

281

真実はあるのか無いのか?真実は無いと言ってしまってはそれっきりであるから、真実はあったとしたらどんなことが言えるかをわたしは考えてみる。真実とは、真理が解釈し尽くすのはヤバイと考える。別の見方ができなくなってしまうからである。これが真実の基準である。何でもかんでも武力が解決するイラク爆撃と何でもかんでもカネ(市場)が解決するネオリベの「これしかない」と言ってきた近代にたいする抵抗を為すものが、「別の見方」である。(ポストモダンを批判する新実在論から、一見、真実はリアルに存在するしまた存在しなければいけないと聞こえる話をきくと、なるほど一理あるとおもうが、再び、いかにも近代日本的な、思考の虚構性を廃するような、機能の予定調和を強調する実体の卑小なリアリズムに陥いらなければいいのだけれど。) たとえば、日本はいつ日本になったかを問うとき、これは「別の見方」からする言説が理念的に語ることができる。だから、『日本書記』を中国知識人と彼らが育てた日本知識人とともに書いていくことになった亡命朝鮮知識人が国家日本を作ったと考えることが可能である。『古事記』は支配者たちが外部からきたことを伝える。日本は他者の異文化との接触によって豊かになっていった移民国家だったとわれわれは主張する。しかし日本という実体をリアルに(?)語るのは国体論である。現在のように、肉体的に、国体論の真実性のこだわりに絡みとられてしまっては、他者の異文化との接触によって豊かになっていく移民国家として再構成していく理念を考えることが難しくなるのではあるまいか


282 書くことは並べること。世界は蘇りをめぐるある語りをもつ。決してそれを信じてはならない。映像は思考と共に必ず蘇る。ものは物の形を失っても、見えないものを名づける他者が現れる


283 書くことは並べること。目に見えない世界は、表に出てこないような絶対真理の権威ではない。目に見える世界との交換が可能である。平田篤胤が解釈したように、神話は統治権をめぐる神々と人との間の交換を語るある語りがある。思えば、貨幣と商品世界との間の交換を神話的に語っっていたのはマルクス


国家神道復活の禁止をやめたらこれから戦後日本は何を支えにするのか?神道統治権についてヤバイ語りがあるのに、安倍も立憲も国民も伊勢神宮にホイホイと行くのはどうしてか

284 儒教の宋と仏教の唐との間に対立的断絶があるが、朱子学と禅を宋から日本に持ち帰ったのは仏教のお坊さん達。明治の鈴木大拙の思想に親鸞朱子の超越的思想とが一緒にある

285 日本最古の禅寺でこの水墨画を描いたのは原発体制に責任のあるネオリベ推進の元首相だと考えてしまったら、「大哉、心乎」にはならなかったよ…心が無い時代である

286 京都は四つのシナリオがある。政教分離が成立した江戸時代、応仁の乱祇園祭が復活する室町時代、近世と共存した古代天皇性の鎌倉時代百済の亡命朝鮮知識人が作った国家の平安朝時代


江戸時代の前まで鎌倉の近世日本と京都の古代(天皇制)が共存していた。古代ー>近代の矢印はイデオロギーマルクス主義が語るようには。ポストモダンの思想史的見方が必要だった

287 嗚呼何十年前に修学旅行の時に来た銀閣寺は山道を登ってその屋根を見ながら戻ってきたらはじめてみえてきたのを思い出す。いや待てよ、そういう風に思い出されるのは、還るものを表象させる物の形を言語化する復古主義の言説を考えていることもあるね


288

神話を読んだとき此方から見えた大地を闊歩するあちらのものがいま指差すこのものとおなじであると考えるのはいかなる根拠があるのか?根拠は無いが、他者の存在としておなじひとつのものが要請される限りにおいて、多元主義の卑小なリアリズムに陥ることがない。だが、他者とは事件であって理念ではないだろう


289

願い事を書く護摩の札。護摩サンスクリット語のホーマhoma(焼くの意)の音写らしい。灰の火は言葉の魂みたいなものか?何れ灰となるものは自らを差異化できるのだろうか、人の介入が無ければ

290 投射である、思考の形式を可能とする不可避の美とはなにか?プラトンの洞窟の中で此方から向こうに見える命懸けの美を問う議論がなくてはやっていけなくなるような思考の歴史が映画史と呼ばれる

291書くことは並べること。ヘーゲルの精神とカントの物自体と理念。世界は、中世に還ることによって、ヘーゲルとカントをどう再構成するのか?漢字の世界にスクリーンと投射がある。生死の理気的二元論の宇宙から鬼神に向かって投射されるこれとは逆に、鬼神から宇宙に向かって投射するときは精神の字と観念があらわれる。近代をあえて中世から超えようとする思惟は物の理念化を精神と呼ぶ。ここで問題となってくるのは世界は民族精神をどう考えるかである。神話を住処とする民族精神は解釈を必要とする。解釈であるかぎり、ひとつの解釈は機能しない。同様にひとつの民族も成り立たない..

292 「フクロウの球体世界に見えてくる若い槍持ち..」

なーんか夢のなかのような風景である。「槍」とはなにか? Finnegan's Wake (フィネガンの通夜)の表題の人物である大工ティム・フィネガンは屋根から転げ落ちて死んだが、その通夜に生き返ったという。 Here  comes every body 人類全体をあらわすと言われるHCEと、高すぎたバベルの塔が類似していると物語っていることに気がついた...いや、これは深読みか。アイリッシュならば、どう考えるか?大地を闊歩する民族精神を記号「槍」に読みとるかもしれない。ただし分裂している現実を考えながら彼らの「痛い」話を聞かなければいけないかとおもう。しかし、神話を住処とする民族精神は解釈を必要とする。解釈であるかぎり、ひとつの解釈は機能しない。同様にひとつの民族も成り立たない.. ひとつの解釈では並べることが不可能

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293 文化とは、何でもいいのだけれど、与えられる=支えてくれるとみえるものの範囲ー自分の力が及ぶ範囲でーを一周して戻ってくるときにはじめて見えてくるものだろうか?その表象の中心に外部がある。わたしは山道から銀閣寺をながめるときは、外部の中国知識人と亡命朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人が作ったものの展開と成熟を自分が乗っかっている台としてみているのかとおもったりした

294 ケルト神話は此方からみえる彼方を語る。だがそれはロマン主義の近代が説明するように、国土ー山とか海ーだろうか?『古事記』も一民族を超えた広い世界の知識(漢字)を語っている

295 サイレント映画が先行した。ドライヤー『裁かれるジャンヌ』の投射スクリーン。表象の中心に外部がある(声の外部)。泣いているのは誰?二つの映像、二つの解釈(見方)が一つの思想に必要だ

296 実体として存在するわけではなくて、ポストコロニアリズムアイルランドが存在する。言説的に、植民地化された国は「社会が存在しない」から、帝国のフランス文学のように反抗する個人と社会とが対立することが起きないと考えなければいけない。そうすると、文学や戯曲のエッセイを書くときは、共同体を主語とする面白い解釈を展開できることもある。普遍主義から自立しようとする共同体の在り方を考える(国家宗教から異端とされている地域的な宗教儀式に参加して職を失うかもしれない女性教師とか、芸人と一緒に旅する力を失ったフェイスヒーラーー土地の名を唱えて治療するーとかをどう読み解くかである)。地域紛争を解決する市民のアイデンティティを考える文学の声は、復古主義の神話的語りと共にあるが、日本の場合と違って、共同体の視点がナショナルアイデンティティに絡むとられることが少ないようにみえる。『デイリーの名誉市民』(フリール)におけるように、国家に都合の良い歴史解釈を嘘のナレーションとして演劇のテーマとするような批判精神があるということか。アイルランドといえば、かの帝国イギリスを打ち倒して、独立できた偉大さを日本人から称えられることがある、決して単純ではない。国家を獲得する政治的独立の問題を毎日議論している

297 ポストコロニアリズム的な論客はポストモダンを出発としているのに、明治維新の問題を言説的に批判できていないので、アジアの中で未だ近代に託すナショナリストになっていない?

298 ダメなテレビは東京五輪に迎合するし、ダメな新聞は総裁選ばかり報じた。保守的だけど公式参拝を実況放送し大見出する異常に対してとる距離は健全だ。将来ネットは大丈夫かしら

299 明治維新の歴史に興味ある親戚に、薩長ばかりにバンサイしてるけど水戸がなくなっちゃうよと説明したら物凄い関心を示したので吃驚した。もっと徂徠の制作学の思想を話したかったな

300 書くことは並べることである。並べるときに交錯がある。映像の交錯、語の交錯、思想的交錯、言説的交錯。言語マイノリティが言語支配者に向かって問題提起する、漢字論をめぐる言説的交錯が成立するか