求めあう表の世界と裏の世界

求めあう表の世界と裏の世界

小林秀雄の『本居宣長』を再発見しています。近代主義者たちが自分たちに都合よく宣長に思想を読みこんだ結果、あまりにもモダンな宣長を想定してはいなかったでしょうか、これが『宣長問題とは何か』が問いかける問題です。今日では宣長の「大和心」に言及する長谷川三千子みたいなものがチンパンジーの心すら実体化していますが、宣長は心について語っていても、宣長にとって、古代人の心が問題とされたのは、漢文の裏側にある古代言語を明らかにするための方法だったからです。宣長は言葉好きな学者。それ以上でもそれ以下でもありません、どうもそうらしいのです。いまふうにいうと、言説なき文学を展開したのです。彼のふたつの墓を目撃したとき考えたのは、表の世界と裏の世界、宣長は常にこの両方に関わったのではないかという感じなんですね、それも理屈っぽく。表の世界と裏の世界とは何か?確立した物の見方が一度成立してしまうと、その見方の中からその内部に沿って表の世界を中心にみてしまうものですが、だけれどそれとは異なる裏の世界からみたらどういうことがいえるでしょうか。裏の世界によって、表の世界との関係を再構成したらどうなるのか、宣長はそう考えたのではないでしょうか。私のようなアマチュアは、漢文で書かれた表の世界を前にするとき、500年前とか、1000年前の文は読めません。一生懸命に注釈を利用すればなんとか理解できるかもしれませんけれど、確かな保証はありません。それでも漢字の意味の力が働きます。他方で裏の世界へアプローチするとまったく意味がわからなくなるのです。意味そのものが成り立たなくなっているというか、そういうことでしょうか。そして表の世界と裏の世界、この両者の中間にあるのがロゴスの力ー思考の優先順位として思考の形式、先ずロゴス(言葉)があるー。これは先ずテクストが存在するということではないでしょうか。その存在性を神聖化できますけれど、だからといって神聖化は起源として崇めることとは別だとおもうのですね。宣長が『古事記』を選び『古事記』が宣長を選んだかもしれませんが、『古事記』に起源として宣長の文学に占める特権性があると考える必要がありますか?‬