『朱子語類』を読むことの意味

中国哲学インド哲学を勉強する学生が少ないと若い中国哲学の研究者から聞いた。と書くわたしもアジアの哲学をほとんど知らないでやってきたではなかったか。ほんとうにそれでいいのかと思いながら彼の北京大学留学の話を聞いた。インド哲学といえば、ダブリンの近所の哲学語学塾みたいな所で一カ月だけ勉強したときに手に入れたサンスクリット語で書かれた入門ウパニシャッドの解説本をもってかえってきている。リグ・ヴェーダの文もあるが、これらを眺めているだけ。英語の翻訳があることはあるが、すべてオリエンタル学の解釈だろう。ただサンスクリット語起源と推定されるゲール語がたくさんあることを知ったのはよかった。さて中国哲学の再構成はインド哲学との出会いによって起きたと考えられている。朱子学は東アジアを代表する哲学として確立した。朱子学は究極のもの=ロゴスを覚醒する存在論であるが、17世紀徳川日本の時代に、仰ぎ見る天の思想に帰る古学派によって朱子哲学が脱構築されていった。その意味はなにか?これは京都から起きたアジアにおける知識革命を為すものであった。20世紀ポストモダン孔子という読みは翻訳を通じて、現在中国の関心を呼んでいる。21世紀の東京で行われた、17世紀の朱子語類鬼神論の読みは鬼神論を超える。鬼神論のディスクールはアジアからヘーゲルとフーコが発見されていくかのようである。ヘーゲル精神現象学』に言及する「人間の分身」(第9章)のなかの‘起源の後退’を読んで12世紀だけれど鬼神論の弟子たちの考え方について考えている。‘物で書かれたもの’を分析している「世界という散文」の‘透明性’の喪失を読む見方は成る程、「命名=制作」論か。子安宣邦氏のもとで朱子を読んできたが、これと平行して、市民大学講座で、アジアにおけるグローバルデモクラシーの展望がないまま国家祭祀が事実上復活してしまったという危機感をもって明治維新の近代を相対化する批判的視点を学んでいる。