本居宣長の注釈を超える注釈とはなにか?

注釈を超える注釈とはなにか?

宣長は「神」を「シン」と訓むべきことをいう。なぜか?そのことによって何が問題となってくるのか?


先ず本居宣長が行ったのは神話の注釈である。神の道を解釈した。そこで宣長は体言と用言をめぐる中国語と日本語との言語的差異に注目している。つまり言語の注釈も行なっていたということができる。子安先生は、宣長は「神」を敢えて「カミ」」と読むことによって何をしたかったのかを問う。宣長は、朱子学(理気論と鬼神論)の言説から、言葉を奪回して、中国文明から自立するための思想を注釈のなかに書いているとかんがえてみたらどういうことが言えるか?つまりこれが注釈を超える注釈をなす過剰なものである。と同時に絶対的に貧困なものである。近代からみると、それは大和言葉のように限界をもたぬ思考実体ゆえに過剰である(しかし宣長大和言葉は思考方法ではなかったか)。問題は、漢字なくして思想は可能だろうかというこの一点にある。あるいはロゴスは成り立つのか?もし可能でないとしたら、または成立しないとしたら、漢字は思想にとって不可避の他者と考えざるを得ないとおもわれるが、このわたしの理解でいいのだろうか。こうした問題提起は子安先生が独自に打ちたてたものであるが、‪先月から始まった‪『国学における「神」の成立ー本居宣長の「神」の注釈‬』において明らかにされることになるだろう


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