MEMO

「「製作する(produire)」という言葉のなかの「u」という文字は、「製作する」のなかに「語る(dire)」が入り込むのを妨げているだろうか」(ゴダール『映画史』1998)。ここでゴダールが語っているのは、外部性をもった制作のポストモダンである。外部の思考から投射されたグローバルデモクラシーの国家も制作される。これは決してポストモダンモダニズム化などではない、浅田彰が語るようには..


「自然」(朱子学)は思考の対象がある。制作される思考の対象が可能となるのは名(命名)によってである。仁斎論語、『朱子語類』(理気論と鬼神論)、徂徠『弁名』の順番で読むとこういうことがわかったでぃ、「自然」(朱子学)と作為を切り離すことはできない、丸山真男のようには



源氏物語』は「感じる心」の享受者と共に何重のメタレベルがある。ゴダール『軽蔑』のポストモダン的美学みたい。だが近代は作者と作中の源氏、宣長をプレモダン的主体に還元する



魂、それは一つの政治解剖学の効果であると同時に道具である。魂、それは、身体の監獄なのだ。-フーコ『監視と処罰』-


コモンズという原理はイギリスにまったく無いものだからこそコモンウエルズを構成するということか。溝口雄三「中国の衝撃」のなかで言われていたことと類似している見方である。ネグリ&ハートのコモンウエルズは、世界資本主義の分割である帝国(例、拡大EU)とは別のあり方が表象される。新たにコモンウエルズと名づけられるものは制作されるというべきかもしれない。しかし現在のBrexitの英国の方向について言えば、それはEUを脱退するそれはアイルランドの地域紛争の解決を台無しにするような大英帝国の復活ではないか。非常に心配している


久しぶりに歌舞伎に来た。近松作「傾城反魂香」の絵師達。名画から抜け出た虎を消す。描いた絵(自画像)が石から抜ける。これは何だろうかね?身体的自然を以て外から自分のものにする芸のイメージと関係していないか。わからないけど、絵師の舞を見ながら、礼楽は道芸だと言った徂徠の言葉の意味を考えていたな



アイルランドで制作された映画。詩人は夢の中で彫刻家である。野原の石の塊が考える彼に問う。「いつ私を外に出してくれるんだね?」と。復古主義でも擬古主義でもない起源的自己像


Postcard from Tokyo とはなにか?道義的責任なき、何を言っても通じないような乱世だ。ホー、梟猫は国内亡命の場所をさがす、Go to exile ニャリ


「バベルの穴」とカフカが言う文は「バベルの塔」を対象としてもたない。動詞「作る」にかかわる言及である。国家なんてものは人々の要求に応じて何度でも制作されるそれだけの物


「絵を描く」というけれど、行っていることは「描く」とどうかかわるのかであり、「描く」についていかに解釈するかということではないだろうか。「描く」は、芸術の政治から自律してある自らの近代的なあり方を含んでいる。この近代の自明性を批判的に問うにしたがって、「描く」の自律性は透明性を失う。「描く」は「書く」となっていく


クレーによると、「可視的にする」、あるいは宇宙の一端をとらえるためには、事物の観念に純粋で単純な線を結びつけなければならない。線の数を増やし、事物全体をとらえても、混信と雑音以外に何も生まれないというのである。――(中)p388


昨夜の能『綾鼓』の謡曲はスゴイとおもった。ひたぶる心。嗚呼、思いを遂げられぬ精神(=亡霊)を媒介に、見えない-聞こえない世界の上に宙吊りになっているこの世の端に私はいた


「アルシーヴとは、その全体性を記述することの不可能なものであり、その現在性を回避することの不可能なものである」(フーコ)。わたしは、「アルシーヴ」とフーコが呼ぶものを理解しているだろうか。多分十分理解していない。だが鬼神論を考えると、丸山真男が想定していたような儒学国学の間の明確な境界とか、音声中心主義のゼロからの出発として表象される主体でなければ意味をもたぬ弁証法の全体性の記述は不可能だったのではないかとおもう。また「アルシーヴ」の「現在性」との関係においては、何かを言うとすれば、エクリチュールの普遍主義に対する分割できない自立的運動が徳川日本に存在していたのである


d'objets de notre pensée ou de notre intuition 


ON the LINE

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曖昧な観念に明確なイメージを衝突させよ。思想史の観念に思考のイメージを衝突させること。ここで思想史は思考のイメージに先行する。思想史とは差異化の運動。それは音声中心主義のラディカルモダニズムの生とは違う。寧ろその死から、精神は自らが声の永久革命的否定の時間の曖昧さに従属していないかと問い、思考の明確なイメージを要請するものである。時間的順序でなく論理的順序の思考のイメージを。だから江戸思想が先行する。そうでなければ、明治における清沢満之の思想を朱子の『論語』はこうであるかもしれないとして考えることができないのである


歎異抄の近代」講義の板書より


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道義的責任を喋るが罪悪感がない。そもそも歴史修正主義者アベは心の中から神(理念)と罪悪感の全てを追い出した。こんな人間を作った、昭和とは何か、問われるべきはこれである


ヨーロッパの極右翼のことが言われますが、一応戦争責任を裁いた後に、出てくる極右翼です。比べると、日本の極右翼は戦前とまったくおなじ主張を語っているか、あるいはそのままのものを隠しています。戦争責任を裁いたヨーロッパの極右翼と、裁いていない日本の極右翼はおなじではありません。この意味で日本の極右翼は比べることができないほど危険だと思います。GHQの日本占領の期間が、冷戦勃発のために、短いものでした(ドイツの場合と比べると)。結局戦前の極右翼を撲滅できませんでした。その証拠に、戦争犯罪人が政界に復活しましたし、その戦争犯罪人の孫による最長の政権が成り立ってしまったのですね。天皇についてですが、左翼は戦後は天皇をゼロだとおもって問題にすることはありませんでしたが、よくなかったのではないかと思います。兎に角今日国体論的言説に取り囲まれてきた感があります。仰られるとおり、日本人の精神性は何かという問題を戦争責任に即してもっと考える必要があると思います。「日本人」もこの150年前に発明されたということもいっしょに考えてみたらどうかとおもうのです。


国家神道天皇の宗教的に力は日本人の精神性に深く影響を落としている」、そのとおりだとおもいます。この一文に続く文が表示されていない(読み込めない)ので読めませんが、この一文に、全部の問題が集約されているのだろうと思います。たしかに「神道指令」に限界があります。神社本庁について言及なさっておられましたが、国家神道は、彼らの言い分ですが、政教分離の原則をもっているのですね。「キリスト教や仏教は政教分離をまもれ」と言うのです。国家神道はどうなのかといえば、自分たちは宗教ではないという考えです。「神道指令」では宗教だということになっているので、自分たちは宗教ではないという認識を隠していると言わざるを得ません。何かというと、彼らの説明では、国家神道は国家なのです。伊勢神社ー古代天皇から統治権の象徴である三種の神器をあずかっているーは、憲法と権力分立より上に立つというとんでもない教義をもっているのです。したがって憲法からは制約されないとおもっているようなのです。アベは伊勢サミットをやったのですが、キャメロンとオバマの信教の自由をおかしても、どうしてもやらなければいけなかったのです。国家祭祀は、明治憲法に書かれなかった天皇の死者を主宰する権力と結びついています。天皇を通じて、「祀る国家は戦う国家である」という物の見方が成立していました。日本人の精神性について話を戻すと、ここらへんに責任があるのは本居宣長ですね。日本人は宣長が好きで評価も高いのですが、国家神道の言説を準備した宣長の仕事の部分は無視されるのです。しかし宣長をほんとうに評価するならば全体をみる必要があると思います。


この教説から逃れられなくなるとき、精神は古代よりほかのことが不可能だとおもってしまうのではなかったでしょうか。これが天皇ファシズムです。軍国主義と結びついて、アジアで2000万の命を奪いました。しかし最近は、国家神道の問題は明治初期に新政府に神祇官が入ったときだけに起きたとする考え方がアカデミズムで有力になってきて、靖国神社としての日本人のアイデンティティーという起源が言われるようになってきたのは驚きです。ヤバイですね。腹が立ちます。そもそも国家なんてものは古代の起源をもっているわけではありません。国家は人々の要求に応じて新しく制作できるのです。実際に、下級武士たちが推進した明治維新における国家祭祀の近代(明治維新の近代)も制作されたでしかありません。このことを知っていれば、いまの政治に対して批判的に相対化できるのではないかとわたしは思います。アベがやってきた、また首相復活のときやるであろう公式参拝を禁止して、言い換えると、戦前との連続性を回復させるような国家祭祀の復活を禁止して、平和と隣国との関係を大切にする国家が制作されるまでは、わたしは国内亡命の場所を探しています、Go to exile ですかね(笑)

強力な共和主義の理論を考えようとおもって遠くアイルランドに行ったはずでしたが、東京に戻ってからはすっかり怠けていて、あまり進んでいません。しかし国家祭祀を止めること(戦前との連続性の回復を止めること)の認識をもつことが答えだとだんだんわかってきました。知識人がやらなければ、われわれがやるしかないでしょう。将来的には、天皇制を廃止して、そのとき一番いいのは、京都に帰ってもらっていたてですね、天皇博物館の永久館長にでもなっていただくのがよいだろうとおもっています。博物館にどうしょうもない天皇抑止論のコーナーももうけていただいてですね


「弔う」と「祀る」の差異


昨年大学の後輩が過労死しました。会社がやったであろう葬式には行きませんでした。「弔う」ことができないようにおもったのです。「会社のために命を捧げくれた」というような言葉を聞いたら、これは、「弔う」べきところを「祀る」ようなものです。「祀る」場所はどこまでも会社です。「弔う」とは何でしょうか?「祀る」と「弔う」を比べてかんがえてみたいのですが、「祀る」は主語(=主体)が目的語をもっています。国家が主語(=主体)で、国家自身が目的語であることだってできるのです。そうして『万葉集』の古代から、日本知識人は自らを「祀る」天皇に深く同一化してきた歴史をかんがえます。国家祭祀の国家は誰のためにも祀ることはありません。国家は国家自身を祀るだけです。ここから、国家に命を捧げたかどうかによって死者の間にヒエラルキーをつくってしまうのです。さて「弔う」は、なんか中動態の話みたいにするわたしの勝手な解釈ですけど、直接目的語をもたない感じですね。目的語「を」が重要ではないと言いたいのです。「弔う」は、「弔う」という動作に関わる関わり方がいわれるのです。「ーのために」が重要です。「弔う」は、外部である「弔う」場所こそを世界の中心にするような、死者の息の振動のなかで自らのために再構成するあり方をいうのではないでしょうか。


外部である「弔う」場所こそを世界の中心にするような、死者の息の振動のなかで自らのために再構成するあり方ー火ここになき灰に、自らの力が及ぶものに在ることー記憶イメージが必要とされるのは曖昧な観念に留まることができないからー祀ることに、自らの力が及ばない国家祭祀に委ねることはできない


小田実「日独ばかりでなく多くの国々の人たちとともに、新しい未来をつくるための努力をすることによって、過去の死者たちを弔いたいと思います」(87年5月ベルリンのプレッツェンゼー処刑場跡で、ナチスに抵抗し殺害された人々に花輪を捧げたときの談話)『西ベルリンで見たこと日本で考えたこと』1988


書物からAIまで記憶は人の力の及ばないものをすみかとしていくよう。文学は、神ミューズを前に、最後に記憶した人間は誰だったか?と尋ねる日がくる。魂は帰る場所がない


ホー、もしコロナが難しいのは地球環境に関係があるからとしたら?梟猫は予言するー根本的対策もないまま我慢すれば元に戻ると考えるような発想が人類を滅亡させるのではないかニャ


カント以後、有限性の問題が表象の分析(それはもはや有限性との関係において派生したものでしかありえない)より、より基本的なものとなったのと同じように、リカード以後、経済学は、多少とも明瞭なやり方で具体的諸形態を有限性に与えようと試みる、一つの人間学に基礎を置くわけだ。-言葉と物-


〈批評〉というものが,その本来の姿において,存在し,価値を持ち,〈詩(ポエジー)〉にほとんど比肩するのは――〈詩〉に対しては高貴な補完作業をもたらすのだ――,直接的あるいは崇高なる形で,批評もまた森羅万象あるいは宇宙といったものを目指すことによってのみである.マラルメ


戦後からは検察は経済検察になりました。ロッキード事件のことはよく覚えています。が、思想検察を本当にやめたのでしょうか?大杉栄を殺戮した検事の甘粕は昭和の陸軍ファシズムの青写真です。アベは長州の陸軍ファシズムを称えているのですから、検察はこの男をこんな感じで歓迎していたかも。「先生、ご苦労です、先生、これは形だけの取り調べですから。逮捕したいとおもっている、先生の敵である名簿はこちらです」と。われわれが考えているよりも、全く新しい天皇教を構想している日本会議が応援する歴史修正主義者が検察の権力を掌握している可能性がないのでしょうか。陰謀論でしょうか?そうかもしれません、私のおしゃべり、過剰な深読みでしょう。ただ、戦前と全く同じことは起きないでしょうが、総理大臣のときに行ったこれほどの買収を容認してしまうようでは民主主義の要である選挙そのものを無意味化していると言わざるを得ませんね。すると何が起きてくるのでしょうか?われわれはナイーブすぎないでしょうか


多孔性としての襞

Le Pli est poreux

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ヨーロッパは自己を神話とリアリズムによる語りにおいてきた。問題は、神話とリアリズムの公の世界を以って、神話でもリアリズムでもない自立したい私の世界を覆い尽くすような近代の語り。


ヨーロッパは自己を神話とリアリズムによる語りにおいてきた。問題は近代の語りである。神話とリアリズムの公の世界を以って、神話でもリアリズムでもない私の世界を覆い尽くすのか?スティーブンの心の中に公の世界を読むようには、ブルームの心を読めない。私の世界に公はなく公の世界に私がないような『ユリシーズ』(ジョイス)の自立したい私は天を仰ぎ見るだけだ。さて小林秀雄は戦後のマルクス主義が終わった思想史の中で大切な役割をはたすが、本居宣長を読む解く彼の失敗とは多分こういうものだったかもしれない。公の世界に属する『古事記』に私の世界の「古人の声」を聞くことはできなかったし、反対に、私の世界にある本居宣長の心を一生懸命追いかけて公の世界である「日本人の心」なんてものをみつけることはあり得なかったのである。同一性に差異は存在することがないように、差異に同一性が存在することは不可能である。


京都学派の「近代の超克」なんて、ヨーロッパで議論されていたものを再語りした非常に陳腐な対抗西欧の近代の枠を出ないもので、現在未だ日本の教科書にあるように古代史から始まる歴史の見方にとらわれているのは残念でしょうがない。アイルランドも近代の超克があったが、このヨーロッパの周辺に位置する国の近代の超克はヨーロッパの中心のひとつであるイギリスとは違う。ここではステイーブンのグローバルな言語(英語)に苛立っている様子が書かれているが、ジョイスの「魂」はアイルランドにおける対抗イギリスの近代に苛立っている。それは何かを考えることはわたしには過大なテーマで、結局アジアの周辺で近代の超克を考えてみようということになったのである。『朱子語類』の現代中国語訳ー近代の嘗てはオリエンタリズムだったが、ポストモダンの今日では英語のリベラルや革命思想が自明に読んでいるーにイライラするようになった。注釈した江戸思想の言語が消されている問題を少しずつ理解している..

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“I identify myself in language, but only by losing myself in it like an object. What is realised in my history is not the past definite of what was, since it is no more, or even the present perfect of what has been in what I am, but the future anterior of what I shall have been for what I am in the process of becoming.”

― Jacques Lacan, The Seminar of Jacques Lacan: The Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis


日本は朱子学や鬼神論の影響下にあるのにどうしてわれわれは人の生死に本質的に関わる宇宙論をもつことはなかったのかと子安氏は問う。明治維新の近代はアジアの形而上学宇宙論を消し去ってしまった。それに代わるものはなにか?それもだれもわからない。多分わからないでいるのは、国家祭祀の近代がそれに代わるものを吸収してしまったからだろうか。近代とは何か?ラディカルモダニズムにとって、音声中心主義的な永久革命が生であり、その終止符が死である。ラディカルモダニズム皇国史観を否定できた。物事は表と裏がある。問題は、その生が知識人否定のファシズムに関係するような危険である。この問題は、人の生死に本質的に関わる宇宙論をもつことがない限り、解決されないのではないか。結局後期近代のわたしは思考の欠点的な不足に直面している。「方法の江戸」と「方法のアジア」の間に、多様性と平等性の間に、近代の死からわれわれの方を見つめてくる精神が語る鬼神論が存在する、と、かんがえてみたら一体どんなことが言えるか?まあ来年の課題である


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自民党のアベ政権のときは宗教の自由を抑圧しました。スガ政権は精神の従属を強いる体制です。彼は内容に関係なく政府の方針ならば何でもしたがえ、私みたいになれと思っているの?


アメリカ民主主義を、報道と言論の自由をトランプは破壊してきた。この問題の解決は再び、言論の自由を破壊してきたトランプに委ねるのか?不可能だ。people が解決すべきだ


フランス革命は、従来人間の政治領域における基本概念であった自由と平等に博愛を付け加えましたが、この博愛は18世紀に不運な人、19世紀に悲惨な人と呼ばれ抑圧、迫害、搾取され、傷付けられた人々の間に自然な形で存在していました。

ハンナ・アーレント『暗い時代の人間性


Think you are escaping and run into yourself. The longest way round is the shortest way home 

Joyce


完全な頓挫。果てしのない苦痛。  

カフカ 日記1915年


形而上学ー目に見えぬものを考えるーも倫理がある。階級意識と民族ナショナリズムから記憶されなくなったような他者ユダヤ人ー火ここにない灰ーの場所を含むものでなければならない


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Jacques Derridaの『火ここにない灰』も、鬼神論だとおもうよ。形而上学もギリギリ倫理性をもっている。それは、そこに(là)目に見えないものを考えるときは、記憶から消されてしまった他者の場所を含むこと。文は他者を直接目的語化しないあり方に間接的に関わるというか、でもただここで中立的に文法の話だけをしているのではない。おなじ所にあって違うものが先行するようなエクリチュールの問題だとおもう


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“La différence et le jeu de la lumière pure, la dissémination panique at pyromane, le brûlé-tout s’offre en holocauste au pour-sou; gibt sich dem Fürsichsein zum Opfer. Il se sacrifie mais c’est pour rester, assurer sa garde, se lier à lui-même, strictement, devenir lui-même, pour-soi, auprès de soi. Pour sacrifier, il se brûle.”

Jacques Derrida


しかり,紙を折ること,およびそのことがそこに作り出す数々の折られた内側,というものがないとすれば,黒い活字となって散らばったその暗闇が,指で〔ページを〕ひろげたとき,その表面に,神秘の破片のように広がることの一つの理由を明らかにすることはないかもしれない.

マラルメ


「もともと、当然のことであるのだが、神々はあらゆることのうちで最も優れた最も大切なこととして、心像の正しい使用だけをわれわれわれの力の及ぶところに置いたが、残りのことはわれわれの力の及ぶところには置かなかった。」


訳註: 心像(パンタシアー)は「表象」とも訳される。...クリュシッポスによれば、心像とは、「魂に生ずるとともに、それを惹起したものをも、自らのうちに指し示す情態」...


ー第1巻第1章 われわれわれの力の及ぶものとわれわれの力の及ばないもの


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哲学で考えるべき事柄を敢えて古典語の文例で分析される「中動態」の文法論で考えるのは、不正確でも概念は成り立つポストモダンのマイナーな戦略なのに、古代スゴイとなるのかしら


ポストモダン時代の寵児、ヌーヴェルバーグは作るオリジナルに絶望し切っている。「感化の大きな運動」とその「思考の形式」の自律は、矛盾したアナーキーな受容的心性の自己主張


For me personally, Wittgenstein was perhaps the philosopher who, besides Russell and Frege, had the greatest influence on my thinking. The most important insight I gained from his work was the conception that the truth of logical statements is based only on their logical structure and on the meaning of the terms. Logical statements are true under all conceivable circumstances; thus their truth is independent of the contingent facts of the world. On the other hand, it follows that these statements do not say anything about the world and thus have no factual content.

- Rudolf Carnap (1963), Intellectual Biography. The Philosophy of Rudolf Carnap,

 ed. by P. A. Schilp, La Salle, Ill., Open Court


荻生徂徠ケインズが金本位体制の国家とは別の国家の制作を考えたように幕藩体制とは別の国体論的天皇制国家の制作を考えた。これを知ればグローバルデモクラシーの国家を作れる


政策と制作は違う。政策は国の政策のこと。制作は国をも制作する。制作は新しくなにを言うかが大切となる。ただし過去に言われていたことを初めて言うことになるのだし、また初めて言うのにずっと言われていたとするのである。学生でわかっているのはおまえだけだと言われた。長谷川如是閑を再発見しようとする大学で英米法を研究しなくていいから彼の制作論を研究しろと教授に勧められた。しかしこれは無理だとおもって断った。独学しかないが、なにを読んでいいのかわからない。68年から近代の意味を問いはじめた本のなかで荻生徂徠について分析した新しい本を読みはじめたことは間違っていなかった。メチャクチャ要領が悪いので結局30年以上要して制作論の入り口に来た..


昨日の講座「徂徠「制作」論の成立とその射程」(子安宣邦氏)は制作論の意義を考えた。現在それについてわたしの理解を書いておこうとおもう。先ず言っておきたい点は、グローバル資本主義が齎す格差拡大と環境破壊は国家によっては解決できない点である。解決の為には一国的知の外部に立つ制作が要請される。先ずそれにグローバルデモクラシーの名を与えよう。

さて制作論とは何か?『弁名』の荻生徂徠は、ケインズが金本位体制の国家とは別の国家の制作を考えたように、幕藩体制とは別の国体論的天皇制国家の制作を考えたのだ。これを知れば、1970年代から行き詰まった国家とは別の国家、現在グローバルデモクラシーの国家を作れる。だが吉本隆明和辻哲郎におけるように天皇の神話ー人間と人間が存在しない時代に遡行した起源とを結びつけるーに絡みとられてしまうと、制作また再制作は非常に難しい。神話にたいする反抗が必要であるとおもう。

丸山真男の思想史が自然(前近代)といおうが対抗的に作為(近代)といおうが、論理平面の同一的差異である。言語の集中が起きる平面で他者を介して非等質なものが近づくのは、後期近代におけるアジアのポストモダン的制作ではないだろうか。


王の肖像画を描く/書くのはヴェラスケスで彼の他に考える必要がなかったが、『弁名』の荻生徂徠は描かずとも、制作される国体論的天皇(国家)を書いていた。丸山真男の誤認だった


フーコが「先験的=経験的二重体」と呼んだものは、近代の人間のあり方を指す。それゆえに人間は誤認の場所にすむのである。この二重体は、グローバル主義と(それとは別のあり方に、思考できぬ自らの経験全体を奪回しようとする)地域主義との二重体として理解できるのではないか。後期近代は国家も根源的誤認の場所にある。色々問題がある


初めに言葉ありき。これは、ロゴスが論理的順番として先行すると言っている。言葉が先験性の光があまりに遠くに行くのをふせぐ暗闇の中に成立するのは、先験的=経験的二重体(人間)が根源的誤認を住処とするからだろか。究極的初めにおいて言語的存在である人間は存在する意味を問うーグローバルの加速化していく構造に絡みとられ無いように


スピノザは普遍主義精神の持ち主だからラテン語が得意だと言われていたが、ポストコロニアリズムの研究では慣れ親しんでいたのはどうも父祖のポルトガル語の方らしい(彼のメモをどう理解するかであるが、『エチカ』をポルトガル語で書けたらなあと書き記していたと解釈されるようになったのである)。単純ではない。聖書のことはよく知らないが、スピノザを読むと、彼が研究していたヘブライ語聖書では時には神が単数形、時には複数形だと指摘している。これは一見して矛盾だが、論理を哲学の問題であるとした。この問題については、スピノザは聖書の解釈を論理から自立している文献解釈学から考えたようだ。本居宣長は神を多元主義的に理解したのは、彼の文献学的解釈(『古事記』)においてであった。それは文献学的解釈であって哲学ではない。宣長を師とした平田篤胤が神学を哲学的に構築したのである。「神はカビ(迦黴)」ということを文献的に言うか、哲学的に言うかに大きな違いがあることは、わたしのようなものでも分かる。


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ギリシャ的真理を震撼させたのは、「私は嘘をつく」という言表だという。ここでフーコが問題にしているのは、言説「私は語る」のラディカルモダニズムの問題、すなわち音声中心主義の近代の問題。根源的誤認が経験的全体を奪回しようとして言説「私は語る」に絡みとられてしまう。ファシズム的表象が成立してしまうことだって。わたしは面白いと思っているのは、子安氏の江戸思想論のなかで宣長の「「神の御国」の人情論」がファシズムと関係のある言説として分析されることが可能となってくるのは、書記言語ー漢字とラテン語ーのもとで、グローバリズム(朱子学と普遍主義)を解体していく、多元主義の方向をもつ運動をみるかぎりにおいてであるということ

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天皇ファシズムの後に生きておらず単に明治維新の近代の後に生きていると考え、また日中戦争の後に生きておらずただ米国との戦争の後に生きていると思っているわれわれの問題。たとえば田辺元「種の論理」は普遍主義を超える本物の類と個が「媒介」によって成り立つというが、アジア二千万人の生命を犠牲にした「媒介」の正体とは何だったのか?


私は嘘を言います。でも安倍が平気で嘘をつくのは本当に不気味です。罪悪感のない怪物を前に検察は怖くなったのでは?「桜」の件とは別ですが、戦後文学は罪悪感を初めて書いたはずでした。が、歴史修正主義のこの男はそこにいません。これも昭和が作った人間です。心の外に罪悪感のすべてを追放したようにみえます


History says, don't hope

On this side of the grave.

But then, once in a lifetime

The longed-for tidal wave

Of justice can rise up,

And hope and history rhyme.

ーSeamus Heaney


幸徳秋水(1871~ 1911)の

老子』現代語訳 第1章(全文)


「人間が名を与えることを越えた無名の状態こそが、万物の始まりとしての真の道であり、同時にまた、やむをえず名を与えた後の有名の状態も、やはり万物を生み出す母としての真の道なのである。〔したがって〕、人間は無欲の態度に徹することによって目に見えぬ道を把え、同時にまた、有欲の態度に徹することによって姿形のある万物を把えるのだ。

この道と万物との両者は、同一の真の根源から出てきたものであって、名前(表現)こそ異なるものの意味(内包)は同じである。そこで、この両者を否定しつつ真の根源に向かって遡及し、その否定をくり返しながらさらに真の根源に向かって遡及していくならば、ついには多数の霊妙な宝物の蔵されている〔門〕にたどりつくであろう。」


老子』現代語訳 第4章(全文)


「〔一体、道という実在は空の器のようなものであるが、その働きはどんなに注いでも〕一杯になる〔ことがない〕。深々として万物を生み出す大本(おおもと)でもあるかのようだ。

この道は、それに向かおうとする人(修道者)が、己の〔鋭い頭脳を〕挫(くじ)いて、乱れた万物それ自体の中に融即(ゆうそく)し、己の〔知恵の光を〕和らげて、〔塵のような渾沌たる世界〕と一つになった、その揚げ句に現われるものである。〔深々と水を湛(たた)えて〕その奥底に存在する〔かのようだ〕。

わたしにはそれが〔誰から生まれた〕子供か分からない。どうやら世界の万物を生み出した天帝よりも、さらに古い先祖であるらしい。」


老荘の思想を面白く読ませてくれる立派な文ですね、感動しました。老荘の関心とは別に、詳しくわからないので間違ったことを言うかもしれませんが、文を読んで、アジア主義のことよりも、アナーキズムのことを考えました。日本ではアナーキズムというと革命のために一人一殺的な行動の人と理解されるようですが、しかしヨーロッパのアナーキズムの大きな特徴は懐疑精神のなかに生きる徹底性に、観念性にあるのですね。秋水はヨーロッパのアナーキズムだとおもいます。彼の先生である中江兆民アナーキズムではなくて未来を国家に託した思想家。フランスから帰ってきた後漢文と儒家的思想の勉強に取り組むのですが(フランス語を学ぶ学生に漢文を勉強させた!)、深読みかもしれないですが、幸徳秋水は兆民に限界をみて老子の現代語訳を通じて思索しているかもしれないと思いました。われわれの考えでは、秋水は、先駆的に、国家と対等な市民の思想を理念的に打ち出した思想家です。「修道者は...どうやら世界の万物を生み出した天帝よりも、さらに古い先祖らしい」で言われる「天帝」は明治国家が全権力を集中させた天皇を指していることは明らかです。民本主義を疑っていたでしょう


幸徳秋水は先駆的に国家と対等な市民の思想を理念的に打ち出した。これは、彼の思想を深く読んで得た見方であるよりも思想史の方法を以って五百年の視野からみえてくる見方である


ドナルド・キーン『能•文楽•歌舞伎』を読んでいたら、これはニューヨークのことしか書いていない本ではないかという疑いがどんどん膨らんできたのであるが、わたしの誤認か..


天皇を称える文化人は対抗西欧の近代をたたえる西欧をたたえる西欧中心主義で、30年前ぐらいにやっと産業革命が起きた世界の多数派を後進国とおもっている。結局物質的なのかしら


ふらふら歩いていたときマラルメの詩がわかった。真理はここにあり?帰って本を探した。無い。あった。押し潰されるように本とノートの一番底にある言葉はたすけをもとめていたんだ


スターリン主義は無誤謬の神話でしかなかったことが経験から明らかになったけれども、だからと言ってマルクス主義をゼロにしてしまっては何もかもゼロになってしまう危険もあるので(これも対抗的な真理の神話)、何を残しておかなければいけないと考えるとき、ほんとうにそれがレーニンであるべきなのかはわからないのですが、彼は社会主義の方向を考えたときフランス革命アナーキズムだったか国家主義だったのかを論じたことはたしかで、この議論に立ちかえるときに何とかみえてくるかもしれない国家から自立した市民的<私>のあり方に、林達夫が根拠地とするアイロニーの批判精神であるのでしょう。ただ林からはラディカルリベラルー大杉栄小田実的再構成ーがみえてくるでしょうか?わかりませんが、たとえ林達夫は忘れられても、彼が主張したアイロニーの批判精神は大切です。共産主義は、皇帝一国社会主義としてプーチンのもとで完成しつつあると考えてみることができるでしょう。アメリカと中国と拡大EUとともに、グローバル資本主義の分割である帝国をなしています。


哲学bot 

プラトン:人は何かを新たに学ぶのではなく、生まれる前からもっている徳(=知)を思い出すという想起説と物質の背後には永遠不滅のイデアがあるとするイデア論を説き、そこから肉体は滅びても魂は不滅であるとする。洞窟の比喩、倫理観、国家観、詩人追放論など後世への影響は絶大。



アイルランドのニューグレンジ。ここからは冬至の朝日が、日の出とともに古墳内に差し込む。どうも文明論のイギリス人が差し込まなければならないように再建した近代建築である


なぜニューグレンジが造られたかの新説。新石器時代後に昼の労働へ移行する。農耕は単調で退屈だ。夜の狩のノスタルジー。夜に生贄の儀式ー楽しかった狩のシュミラークルーが行われた


陰陽五行説は、紀元前3000年頃に成立した古代中国の陰陽思想と、紀元前2000年頃の五行思想が合わさって誕生したという。ニューグレンジも紀元前3000年頃に造られた


「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」という。古代は政治と芸術(詩と音楽)はともにあった(「礼」は政治である)。だが詩と音楽を作るものは道を知っていたか?道を知ることはほんとうに難しいのである。近代にはいって芸術は政治から自立していく。政治が収容所を語るようには、芸術は収容所のことを語らない。芸術は政治の言葉では語らない。芸術家は芸術の言語に依って語るから。もう後戻りできない。そうして、収容所のなかの囚人たちの演奏をレンブラントは見ていた、とゴダールは編集している。しかし果たして芸術の編集の力によっても、何が問題となっているのか倫理的に明らかにできているかどうかわからない。やはり難しいが、20世紀の問題は17世紀から考える必要があることを伝えているとおもう。17世紀とは宗教と芸術は外へ出て行く危機の時代、政治的統一に抗して


外部の思考が存在するゆえに言語が存在する。外部の思考のイメージは、ゴダールにおいては、エクリチュールとしての映像である。本の『映画史』は肖像画を書く。本をめくるときに広がる闇は無の署名である


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人間は消滅してしまった。しかし国家と対等な市民の思想を語る言説を考えるとき、幸徳秋水という人間を方法として表象してみる。そして敢えて問う、その人間は存在したか、と。大正に存在しなかった。1970年から存在するかもしれない。存在する。白紙の本を書く徹底的に観念的である秋水として差異化する


推敲中(オペラはルネッサンスではなくバロックの時代に現れたのはなぜか?白豪主義をやめた時代にシドニー・オペラハウスが完成したのはどうしてか?ヴェラスケスは画面の右端にギリギリ見える窓(外部)から差し込む光を以って描いた共通の場所はどこか?光を先験性の領域に行き過ぎないようにしていた闇は一体いつ現れたのか。明白に隠されている画面が目の前にあるのはなぜなのだろうか?)


誰が「日本人」かという問題はあるが、昭和の思想を知るためには、「日本人は中国をどう語ってきたか」を考えなければならない。そして現在、誰が「中国人」かという問題はあるが、溝口雄三柄谷行人が発明した帝国中国の思想を知るためには、「中国人は日本をどう語るのか」を考えることになるだろう


大統領トランプとバイデンの討論に絶望した多くの人たちは、副大統領ペンスとハリスとのコミュニケーションが成り立っていた討論に希望をもったのではないか。言葉が社会を動かした


secular 世俗的 

powerless

common 卑近な

vernacular 


人間の肉体は 鍵のかからない密室です。

寺山修司


人間の肉体は鍵のかからない暗闇の密室。煌めく鏡があるのは窓の光がある?絶えず還ることで遅れてしまう原初的テクストがある。どんな議論も自由だが解決を持ち込むなと書いてある。言語は決して終わらない。


昨夜は久々に能の舞台に行った。90歳の野村萬狂言悪太郎」をみた。「綾鼓」では『ユリシーズ』の亡霊の描写を考えた。異界は沢山の部屋がある廊下で、他者は遠くからくるのではない


能「綾鼓」の舞台はなにか、地謡の「恨む」の語を繰り返して恨む死者を思い出せと聞こえてくるとき、碑文を読んでいるようだ。昔の巡礼地で碑文を声を出してこれを解読するアイリッシュたちを思いだした。周辺の死者と周辺の生者を媒介するのはエクリチュールで、近代が構成する詩人の声ではないと思う


万葉集』を称える近代主義は「からごころ」に表象される政治的統一を軽蔑するが、生活の隅々まで統一があり純一でなければならないという万葉的世界こそ政治的統一なのになあ


「現代において全く批判的、思想的機能も意味を失ったかのような日本のアジア主義、あるいは中国主義というアジア・中国への<肩入れ>とは何だったのか」(子安宣邦氏『日本人は中国をどう語ってきたか』)。

わたしの理解では、明治維新を絶対的始まりとみなす制作主体の失敗、これは社会主義が解決する課題だった。『日本人は中国をどう語ってきたか』で、社会主義を人民に託す左翼の「中国」と、国家に託す右翼の「中国」をわたしは読むことができた。言説上の、言説的に構成される中国像の差異である。ここで見落としてはいけない点は、どちらの見方によるとしても、「日本人は中国をどう語ってきたか」は外部無くして不可能だったことである。今日子安氏がはじめて明らかにした開かれたこの外部は再び、閉じた日本の外部から語られているようなのである。日本人は中国をどう読みたいのかは溝口と柄谷において現在進行中の言説上のたたかいである。


老子』現代語訳 第40章(抜粋)


原文
反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。

書き下し文
反(かえ)る者は道の動なり。弱き者は道の用なり。天下万物は有より生じ、有は無より生ず。

(そもそも世間の反対を向いて行くのが)、道の運動であり、剛強ではなく柔軟な態度を取るのが、道の作用である。



「これ性」(haeccety)とか「共通本性 」( natur a commu­nis)ね、解らんけれど、翻訳されている「これ性」の「性」は朱子学の概念。無責任に適当なことを言うのを許していただきたいが、「性」概念から考えてみようとおもう。理と気の関係について、恰も不純なものが純粋なものにもとづくものとして気が理にもとづくように構成するのではなく、理と気の関係を二元論的に保つように要請されているとわたしは考える。多元主義の「これ」が成り立つのは外部による。たとえば、「性即理」を「心即理」にしてしまうと、結局「性即理」を「心即心」となって、関係に外部性がなくなってしまう。外部性こそが、「これ性」(haeccety)である。


「日本人は中国をどう語ったのか」。明治維新を絶対的始まりとみなす制作主体の失敗、これは社会主義が解決する課題だった、戦前の昭和はこういう風に理解できるかもしれない。社会主義を人民に託すのかあるいは国家に託すのか主張は対立したが、戦前の左と右の思想家たちは制作主体として、帝国日本の内部に向かうのではなくて、中国という現場で考えた。中国という外部から明治維新の近代と帝国日本を批判的に考えた。現在、『日本人は中国をどう語ったのか』(青土社子安宣邦氏)について、われわれは日本に存在しないその書評が中国に存在すると知るとき、彼等は少なくともその外部を考える外部性をもっているのではないかと考えるのである。


ジョイスは何ということを書いたのか、これは考えてみると大変なことなのだけれど、帝国イギリスの貴族の価値観がアイルランド独立運動ナショナリズムを形成していることを書いたかもしれない。人の世の<古>と<今>との間にある大きな差異、消滅の危機にある過去のゲール語の神話的世界に定位している<古>をとりかえせという思い、これは、『ユリシーズ』のテーレマコス挿話に書き記された貴族の見方を為す。そしてここから別のことが言われる。<今>が悪くなったのは外からきた異物のせいだ、それを排除すべしと。これは、『ユリシーズ』においてはナショナリズムをになうワーキングクラスがリアルに主張する。結局、貴族的価値観からも労働者のナショナリズムからも他者「ユダヤ人」が排除される。他方で、ジョイスアイルランド語の消滅は民が生活に役に立たないからすてたと考えていた。また奪われた土地を取り返せというナショナリズムは土地に執着している点で、土地を奪う帝国主義と互いに補い合っているとみなした。『ユリシーズ』を読むと、言語が暗闇の海のなかに置かれた人々のあいだを自由に動くように、だれがなにを喋っているのか解らなくなってくる。労働者が貴族の言葉を語り、貴族が労働者の言葉を語る...これはブルジョアのリアリズム文学では書けないものである。


A colour shines in its surroundings. Just as eyes only smile in a face. 

ーWittgenstein Remarks on colour


Blue is the universal love in which man bathes ーit is the terrestrial paradise.

ーDerek Jarman


The first of all simple colours is white, although some would not admit that black or white are colours, the first being a source or receiver of colours, and the latter totally deprived of them. But we can’t leave them out, since painting is but an effect of light and shade., that is chiaroscuro, so white is the first then yellow, green, blue and red and finally black. White may be said to represent light without which no colour can be seen. 

ーLenonard de Vinci


バイデンを選んだのはトランプでなければよかった。民主党はリベラルを周縁化しているしチョムスキーも彼に期待していない。一体誰が白人至上主義のファッショ化を食い止めるのか!


推敲中

文献学で解剖して現象学的解釈学で読み解いて構成される、和辻哲郎の言葉では原「オデユッセイア」って、なんかなあ、大衆に受け入れられる感じだけれど、プロの仕事よね(『バベルの塔』みたいなところがある。) それにたいしては、自分は、アマチュア精神へ行く、解体<原「オデユッセイア」> へと。だから毎日描いているのは、解体『バベルの塔』。和辻哲郎ホメーロスユリシーズ」を読んで、ギリシャ人がギリシャ人と成る為には何が必要かと問うた。都市国家(Polis)と領土奪還のエートスを指示した。そうか?ジョイスも考えた。アイルランド人がアイルランド人と成る為にはギリシャユダヤ人(ソクラテスの対話的ロゴス)が必要だという


中動受動態


  • 動作の結果が自分の利害に関連する場合

編集

Wiki サンスクリットでは中動態が広く使われる。例えば、能動態の yajati(祭祀する)は、祭官が他人のために祭祀するときに使い、中動態の yajate は祭主が自分のために祭祀するときに使う


Wiki ラテン語の受動態は中動態に由来し、実際に中動態的な意味を残していることがある。たとえば、能動態の verto が何かの向きを変えるという意味であるのに対し、受動態の vertor は自分が向きを変えることを意味する。対応する能動態を持たない動詞(deponentia)は中動態的である。例: sequor(追う)、imitor(まねる)、loquor(話す)


冤罪は国家犯罪である。



冤罪は国家犯罪である
• 免田栄さんが死去 死刑囚として国内初の再審

冤罪は国家犯罪である。その理由は..

免田事件についてだれが一番責任あるのですかと昔倉田弁護士に聞いてみた。再審請求が拒まれた免田氏を支える弁護団に加わったときの話をしてくれた。大学のサークルの大先輩であった倉田弁護士は法律よりもすごい量の文学を読んでいる。この人権弁護士はいつものように検察の厚い調書を4回読んだ。と、矛盾がみえてきた。しかしまだ不安がある。免田氏に会う。直ぐに、この人は人殺しする人でないことを確信した。いつ死刑執行されるかもしれない免田氏を説得してあえて殺人をみとめることにした。そして検察が書いた作文どおりに凶器のナイフで殺したならばそのナイフを民事請求で返還を求めたのである。検察はまったく返還できない。当たり前だ、そんなナイフは存在していないからだ。免田氏の無実が明らかになった。倉田弁護士は学生のわたしに語った。一番責任があったのは裁判官だと。引き継ぐ検察官たちですらこれは冤罪ではないかと疑っているのに、肝心の裁判官がはっきりしない。無罪だと気がついているらしいが、誰かが殺したにちがいない、犯人はあいつに決まってるという世間の声を気にしている。裁判官は経験が足りないから判断ができないのである。だから事実の認定について多様で豊富な経験をもっている市民による陪審が必要だと考えていた。国民は犯罪の立証が非常に難しいことを知らなければいけないし、犯人をさがせない場合は国が被害者家族を補償すべきであると。検察の暴走をチェックしなければならないのは裁判官である。しかし今日の裁判員制度では裁判官の判決を事後的に正当化するだけの役割しかもっていないと指摘される。それは冤罪が起きないようにする陪審ではない。国のために行う参加なのである(国体じゃない?) 結局何の反省もなく、安倍政権のあいだに48人が死刑執行が行われた。冤罪はなかったのか?冤罪は国家犯罪であると全く言われなくなった。



迂回の戦略はヘーゲル鬼神学



「言葉、言葉、言葉! シェイクスピア、言葉の名匠であった彼は、その言葉を軽蔑していましたね。グアヤキルでは、いや、ブエノスアイレスでもプラハでも、言葉はつねに人間ほど重要ではないのです。」(ボルヘス)


グローブ座の立ち見席にきていたワーキングクラスの人々は熱心に観劇していたというが、教育がなくそれほど字を読めたわけではないこの彼らが非常に難解な芝居を理解していた、これは現在謎とされる。しかしこの謎は理解というものについて過剰に物語る。17世紀は政治的統一が要求された時代の物の見方を教える言説ではないか。「言葉、言葉、言葉」。すべての人々ー王と貴族、上流階級と下層階級ーが集まる場所において言語は「透明」でなければならなかったのである。これは政治なのだ


ミクロ政治学の観点からすれば、社会はその逃走線によって規定されるし、逃走線は分子状である。いつも何かが流れている。あるいは逃走している。そしてこの<何か>とは、あらゆる二項的組織を逃れ、共振装置から、超コード化の機械から逃走するもののことである。[(中)p113]


Mais l'immobilité attentive de ses yeux renvoie á une autre direction qu'ils ont suivie souvent déjà, et que bientôt, à n'en pas douter, il s vont reprendre : celle de la toile immobile sur laquelle se trace, est tracé peut-être depuis longtemps et pour toujours, un portrait qui ne s'effacera jamais plus.




「『維新』的近代」は思想史の自己像、思想史の肖像画のモデルを示している。思想史の肖像画とはなにか。フーコは 『言葉と物』の書き出しにおいて思想史の肖像画について考えた。

「つまり、すでにしばしば彼の眼がたどってきた、そして疑いもなくただちにふたたびとるであろう方向 、いいかえれば、そのうえに、もはや決して消されないであろうひとつの肖像がおそらくはずっと以前から、そしてこれからも描かれつづけ、描かれたままであるにちがいない、不動の画布の方向のことだ。」(フーコ 渡辺訳)


王の肖像画を描く/書くのはヴェラスケスで彼の他に考える必要がなかったが、『弁名』の荻生徂徠は描かずとも、制作される国体論的天皇(国家)を書いていた。丸山真男の誤認だった


津田左右吉永久革命的 な<ラディカルモダニズム>と和辻哲郎の国体は変わらず的の<祀られる神は祀る神である>、これは思想史的言説を見渡す二つの見方を為す。言説の、言説上の構成される思想史の自己像の差異である。知の考古学からみると、二つは対立する物の見方であるが、しかし音声中心主義の論理平面からみると互いに補いあっている。つまり津田の<ラディカルモダニズム>と和辻の<国体論>とは、生と死における関係のように二項対立的に対立するだけなのである。脱構築するためには、思想史を言語平面に配置しなければならない。そうして江戸思想と後期水戸学において展開した制作論の視点から出発して思想史を読み直すことが要請された。そこで明治維新の近代は、対抗西欧の近代とともに、荻生徂徠命名制作論の祭祀国家の近代として再構成される。また開かれた漢字文化である漢字文化圏の近代としてアジアを方法的に読み直されるのである。


渡辺一民氏はヨーロッパについていけば日本は間違いがないと言う。そうだが、問題はヨーロッパの知識しかないために、安倍の対抗西欧の虚の保守の感染に抵抗できなくなっていること


冬至は最も昼が短く夜が長い日。陰陽が交代する日なんだって。言葉初めありきは、平坦な百科全書的知識に対する懐疑のあとに広がったこんな暗闇の中からだったのではないか


啓蒙主義の役割を自覚するBBCはパニクったイギリス人がフリーマーケットの野蛮に駆け込むことがないようにこれでもかこれでもかとベートーベンを聴かせている。パニクったアメリカ人には何の音楽がいいのだろうか?彼らがわかる音楽、そうだ、ワーグナーを聴かせてやろう


「人間のなかの起源にあるものは、そもそも最初から、人間を彼自身とはべつの物に連接させる。」音声中心主義のラディカルモダニズムは彼を祖国も日付もないファシズムに結びつける


l’originaire en l’homme, c’est ce qui d’entrée de jeu l’articule sur autre chose que lui-même..

ー Foucault

「人間のなかの起源にあるものは、そもそも最初から、人間を彼自身とはべつの物に連接させる。」フーコ


「映画とは画面に映っているものがすべて」 蓮實重彦


先ず映画について言わなければならないほんとうのこと(真実)は、「映画とは画面に映っているものがすべて」である。しかしすべてではない。わたしは嘘をついている..

国学士院の創立と初期の歴史は示唆に富んでいる(略)政治的宗教的扮装に加わることはしないと約束しなければならなかった。「客観性」という近代の科学的理想がここに生まれたと結論したくなるであろう。これはその起源が政治的であって科学的でないことを示している(『人間の条件』第六章注26)

肖像画とは画面に見えるものがすべてである。ただし画面は三つの役割をもつ数で構成されている。開口である窓の存在を明示せずに、境界線を見えないようにしておかなければならない。その鏡(数)の前で自身を書く私、そこにあって隣人の異なる人々、その鏡の位置に立っている、我々を見ている他者ー私の背後の壁に掛かっている二番目の鏡(数)にその姿を見ることができる。そうして共通の場所が成り立つのだろうが、この論理平面は奥深く閉ざされるまえに、言語平面に置き換えられていく。記憶とはこういうものである。この500年間の記憶についていえば、形而上学的根拠が終わったあとに、他者は人間であり、国家であり、帝国主義社会主義全体主義であった。そして後期近代の現在では方法としての市民である

「すでに「民衆的」意識をいうのに、「伝統的、土着的、底辺的、日常的」というように、「日常的」という語のコノテーションをもって言わざるをえないのであり、そのことは、「民衆」的概念そのものが、研究者の視線が辿り、あるいはそれが向けられた跡であることを明白に語っているからである。すなわち、「伝統的」社会の規制を受けながら、「土着性」を保ち、社会の「底辺」に位置し、「日常的」生活に営む人々に研究者の視線は定位するのだ。そうした視線とともに「民衆」概念は構成される。...そこにすでに対象として設定された「民衆」の、その意識をめぐるストーリーを隠すことなく語ってしまっている。幕末維新の変動期に民衆のうちにひとたび高揚したいと変革的意識」が、やがて近代国家の形成とともに、抑圧する国家権力の「近代化」の政策のもとに、どのようにして再び「日常的世界に鬱屈する」にいたるのか、...ここでは民衆における変革的な意識の形成を語る言葉に、歴史における敗者に代わるような「鬱屈」する心情のことばが重なりあう。」(子安氏)

「自由が丘と鎌田の中間にいる」というとき、「鎌田より」と説明を足すのは、鬱屈した私の中で破綻した「民衆史」。近代の失敗に近代の視線が辿る、ユートピア近代主義が語る心情でしかない

絵画と違ってエクリチュールは、幻影を作ることさえない(…)周知のように、画家は真なる存在者を産出するのではなく、外見を、幻影を、言い換えれば、すでに複製を複写するものを産出する。(…)アルファベットで書く者はもはや模倣することさえない。(『散種』)

「遊牧的思考は、普遍的思考主体を要請する代わりに特異な人種を要請するのであり、また、包括的全体性に根拠を置く代わりに草原、砂漠、海といった平滑空間としての地平なき環境に展開するのである。」D=G 

c’est que la pensée nomade ne se réclame pas d’un sujet  pensant universel, mais au contraire d’une race singulière; et elle ne déploie dans un milieu sans horizon comme espace lisse, steppe, désert ou mer . ーD=G

朱子語類』を読んでもらったあとに、伊藤仁斎『語孟字義』のエクリチュールを考える。アジア形而上学の理もロゴスと訳して、西欧の形而上学の理性をかんがえてみたい。伊藤仁斎を読めば理性の世俗的な表記(漢文エクリチュールで書いたが漢字仮名混淆文で考えている)ことがでてくるのに、丸山真男伊藤仁斎を殆ど論じようとしないのはどうしてだったのか?やはり音声中心主義的論理を展開したが、書かれた言語に鈍感だったということもあったのではないか?ただ丸山真男津田左右吉のようにラディカルモダンではない。丸山は朱子学的思惟の知識人たちを全否定したりはしない。

‪理性がそれ自身をあらわにします。フッサールは、理性は歴史のなかで生まれてくるロゴスだと言っております。ロゴスはそれ自身を目指して、自分に自己を開示することを目指して、すなわちロゴスとして、自らに話し、自らを聞くことを目指して、存在を貫きます。それは、自己愛としての、話しー自ら聞くものとしての言葉です。それは、自己への現前<生きている現在>において、それ自体において、自己を取り戻すために自己から出て行きます。話しー自ら聞くことは、自分自身から出て、書記(エクリチュール)という回り道を通って理性の歴史のなかに自らをつくりあげます。こうして自分自身をもう一度所有するために示唆遅延するのです。『幾何学の起源』には、世俗的な表記によって理性を叙述する必要が書かれています。それは、対象の真実性と観念性を作り上げるのに必要欠くべからざる叙述であり、しかしまた、記号の外部からの意味に対する脅迫でもあります。書記(エクリチュール)の際には、記号(シーニュ)は常に<空に>され、目覚めることから逃れ、<再生されること>から逃れることができます。記号は永久に閉じて沈黙してしまうこともできます。クールノが言うように、書記(エクリチュール)はここで<批判的時期>です。(デリダ『差異とエクリチュール』、<発生と構造>と現象学坂上脩訳)‬

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ギリシャ人は世界における根元性について初めて考えた。インド人は根元が空だと考えた。これは中国人にとって思想革命であった。根元が理であるコスモロジーを考えていく

ケルト人や自分をケルト人であると感じるひとならば、境界線を見えなくするようにして生きていて、国家と主体も、存在の地平もない。岡倉天心を知ってケルト人を理解できた。漢文を読む 

Penrose 

死とは<形象>である。一つの死によって身体は、単に時間だけでなく空間においても完了し、その線が輪郭を形成し、限定するのだ。――(上)p224

エクリチュールは(…)あたかも、みずからの権利を失ったもの、アウトロー、道を踏み外した者、非行少年、ならず者、向こう見ずな冒険者のようなのだ。街路をうろついているうちに自分が誰だかさえわからなくなり、自分の同一性がわからなくなり、名前さえ、父の名さえわからなくなる。(『散種』)

不均衡のままに成立する安定もあれば、見よ!均衡のままに成立している不安定を。映画『カルメンという名の女』は光と闇とが均衡している。映画の中にゴダール監督自身がいる。人々はゴダールと共に明るく照らされる自らの場所を見る。ゴダールは彷徨っていて、視線を画面の端の隠れている闇へと誘う。均衡のままに成立している不安定さ、これがリルケの美とおなじものを形成するとわたしはおもう。

不均衡のままに成立する安定は政治的統一を求める<と>である。しかし外の思考は均衡を保って展開する不安定を捉えるー耐えられない不条理が列挙を支える<と>を不可能にするまで

不条理が、列挙された物の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙をささえる<と>を崩壊させてしまう。ーフーコ『言葉と物』序(渡辺一民訳)

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真淵と宣長の江戸時代に美学の成り立ちがあった。アドルノがみたのも、政治的統一を求めるロゴスの言説を拒んだとき、過去から一瞬美が立ち現れたこういう世界だったかもしれない

日本文学論は中村真一郎加藤周一を読めば十分だとする啓蒙主義柄谷行人は啓蒙したつもりだろうが、実はこの啓蒙主義啓蒙主義の野蛮を啓蒙する必要があるのではないか

芸術家は愛されている。ただし死んだ芸術家だけが愛されているのは、現在の自分に何の影響も及ぼさないからか?思想家も芸術家も死者として回想する必要があるのだろうか?

グローバル資本主義が齎す格差拡大と環境破壊は国家によっては解決できない。解決するには一国的知の外部に立つ制作が要請される。先ずそれにグローバルデモクラシーの名を与えよう

日本知識言論界は天皇天皇抑止論的意味づけを行っている。私は反対だ。アジア2000万人を殺した国家祭祀の禁止を言うこと、これによる国家の「制作の秋(とき)」は今だと思う

自然(前近代)といおうが対抗的に作為(近代)といおうが論理平面の同一的差異である。言語の集中が起きる平面で他者を介して非等質なものが近づくのは制作(ポストモダン)である

<Tout est eau.> Ce qui intéresse le philosophe, c’est de comprendre le rapport entre le langage et nos désire, nos projets, nos souvenirs, nos émotions, nos pensées. Plus particulièrement nos pensées. Qu’est-ce qu’une pensée? Quels sont les rapports entre le langage et la pensée? Trouve-t-on des pensées en dehors du langage? 

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言語と思考は如何なる関係をもつのか?思考は言語無くして可能なのか?近代の観念論と経験論の対立とは別の仕方で考える。エクリチュールの制作を考えることは常に外部的である

柄谷はカントを念頭においていたと思いますが、本物の啓蒙主義とは啓蒙主義を啓蒙することだと言っていました。だから知識人が大切だとおもうのですけれど、だけど『トランスクリテイーク』のなかでは正しく自分は「知識人ではない」と自分で転向をみとめているのですね。だれもこの問題を言いません。知識人をやめたこのときから、柄谷は日本近代における前近代の問題を語らなくていいわけですから、ポストモダンの未来だけを語ることができるのです。たしかにデビューのときはポストモダンの批評精神を以って文学に現れた日本近代の問題を考えたのです。それはそれで迫力がありました。中村や加藤の分析では物足りないと感じたわたしはニューヨークで翻訳されている彼の本を見つけて一生懸命読んだものです。だがどうも経済学を語りはじめてくると段々文学から離れてきて、現在はすっかり文学とは関係がないにもかかわらず、圧倒的な影響力をもって文学の特権的高み(そう見える)から喋り続けているのはどういうことでしょうかね。三瓶さんがご指摘なさっている点と関係があると思いますが、柄谷というのはシステムの正しさにこだわるひとですよね。システムの正しさを言うひとは文学的ではありません。抗議について抽象の論理で説明しきってしまうのですが、しかし抗議している人間たちはシステムの正しさを証明しようとはおもっていないわけですよ、そうでしょう?抗議するために自発的に集まってくる肉体で、義憤という草原に放たれた火が広がるように、単純に増えていくの

Le Maître dit:<La Voie ne réussit pas à s’imposer. Je vais m’embarquer sur un radeau de haute mer et prendre le large. ( Confucius Les Entretiens)
Confucius said, “The country is not in order. I’d rather go abroad on a raft

「私には家も祖国もなく、財産も奴隷もない。私は地べたで眠る。私には妻も子も邸宅もない。私にはただ、大地と空と一枚の古いマントがあるのみだ。それで、一体何が私に欠けているだろうか。私には悩みもなく恐れもないではないか。私は自由ではないか。」(『人生談義』より引用)-フーコ、真理の勇気-

オンライン論語寸劇

孔子くん:道行なわれず、桴に乗りて(東)海に浮かばん..
梟猫: 東夷の国は、純粋思考の西と違って、思考が他を必要とするほど野蛮で、言語を住処としています。それでも筏に乗りますか?
孔子くん: 亡命はやめて、起源(中原)に留まることにしよう
梟猫: 話がみえません。この寸劇にはオチがあるんですか?映像も無いですしね..

戦前から来た和辻の言説「祀られる神は祀る神である」は現在思考を揺さぶる事件である。学の議論である言説に即して理性はかくも、起源と非思考の偶像とによって規定されているとは..

街の建物の窓は絵の中に描いた鏡だった。重ね合わせとは平面の自らの折り重なりでその裏側の部分を表の画面に貼り付けている。死が貼り付けられた記憶の街を誰も見ることができない

文化圏の重なり合いとは何か?東雪谷から奥沢に行くとラーメン屋がなくて鎌田文化圏が消滅している。鎌田に行くと喫茶店がなくて自由が丘文化圏が消滅する。喫茶店でカレーを食べる

「西部劇」の巨匠、ジョン・フォード監督はアイリッシュアメリカ人でこの映画を契機に、独立運動の活動家だったらしい彼の先祖の情報を探してもらう為にIRAに大金を払ったといわれる。「静かなる男」はハリウッド映画が作った「アイルランド」の映画である。静かなる男(ジョン・ウエイン)は外からやってくる。この男は最初は村の人々と争う(ちなみに、村では何時何分に誰々がどこでなにをしているかみんな知っている。余所者の男を警戒する。) だがアイルランド起源の人間だと分かるとあっという間に打ち解け合うというステレオタイプ的に構成されている。アイルランド的風景は抗えない嵐=自然、逆らえずに征服されることになる汚れなき女性に表象される。映画はアメリカ人観客のために物語を与えるが、ポストコロニアル的に読むと、第三世界を歩くアメリカ人のテロにたいする恐怖をリアルに表している(3分から)

天から与えられる生まれつきの心の方向性、ささえる性があってロゴスが成り立つ(「性即理」)。「心即理」という心だけにしてしまっては三島の反知性主義に留まるだけではないか


朱子学は原初的テクストを古代とはまったく別の読み方で読んだという意味で、それはいわばアジアに起きたバベルの災厄といえるんだね。そこで荻生徂徠は何をしたかを丸山真男はこう語る。

「名より実へ、主観的道徳より客観的人倫態へ、の徂徠の工作をして、バベルの塔を建築するに終わらせない為に残された方向はただひとつ、道の背後に道を創出した絶対的人格を置き、この人格的実在に道の一切の価値性を依拠せしめるよりほかにない。徂徠学における先王及至聖人はまさにかうした究極的実在として登場するのである。」
In erecting a system that places substance over name and objective human relationships over subjective morality, the only way to avoid erecting a Tower of Babel was to establish an absolute personality standing behind the Way as its creator. All the values of the Way had to be rooted in the personified entity. In Sorai’s system, the Early Kings and the sages emerged as such ultimate entities. 

徂徠の近代的世界がこういうふうに表象される。だまって丸山の語る言説をきくしかない。

「自然の秩序の論理の完全な克服には、自らの背後になんらの規範を前提とせずに逆に規範を作り出しこれにはじめて妥当性を賦与する人格を思惟の出発点に置くよりほかない。徂徠が「夫れ道は、先王の立つる所、天地自然に之有るにあらず」(弁名下)といふ時、先王は実にかうした道の絶対的作為者たる意味をもつものであった。」
 
If the theory of natural order was to be completely overcome, no normative standards of any kind could be present in the background as the premise; instead, the starting point had to be human beings who, for the first time, invented norms and endowed them with their validity. This role of absolute inventors of the Way was precisely the role Sorai assigned to the Early Kings. “The Way”,he said, “was established by the Early Kings. It doesn’t exist naturally in heaven and earth.

だけれどどうしてもわからなくなるのは、「自然」と対抗的に措定される「作為」の問題を指摘しはじめるとき。徂徠はほんとうにそんなふうに分割したのか?「自然」と「作為」というふうに分割しなくても、国家の青写真を作る命名制作の外部的戦略を理論づけることができたのではないか?わたしは、礼楽を道芸として捉えていた徂徠の言説を読み解く子安氏著『江戸思想史講義』を読んでいる。思想史はいかに分割されるのかを考える学問である。

 筆者は以下に於いてその対立を「自然」と「作為」といふ二つの概念を指標として捉へ..

I shall attempt to pinpoint this conflict in terms of two concepts, nature( shizen) and invention (sakui)

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明治維新の近代を批判する主題よりも、その書物に関する書物のほうが忙しくなるのかもしれない。明治維新の近代を批判できる江戸思想のマイナー言語の下に、朱子という原初テクストの至上権が横たわっているが、それを与えてくれた言語支配者が「「維新的近代」の幻想」をポストモダンの未来の言説として読むのだろうか。17世紀から言語はもはやとどまることを知らない。

資本主義論争も、講座派を包摂した丸山も、歴史の敗者を共感的に代弁する民衆史も、日本人の明治維新の再語りはどうでもいい。これについて中国台湾コリアが何を言うのかが私に大切

『日本政治思想史研究』は学生のときに生協の復古本セールで買って読んだ。『日本の思想』(岩波新書)には思想が一行も書いていなかったので、この本のおかげで江戸思想史というものが存在することを知った。対訳のない漢文に圧倒されながら、朱子学のなかでは思考できないものを考える思想闘争があったらしいと何とか理解できた。思想闘争をするためには、1000年前に他者の言語を自分たちのものにするほどの成熟がなければいけないだろう。子安先生の「「事件」としての徂徠学」(岩波書店)を読みはじめたら、テクストを精読する学者の議論である言説を丸山がやったように本のページをめくるように追うのではなく、解体、言説の事件性をとらえることが大切だと理解できた。その子安先生のもとで、この数年間、仁斎論語を読んだ後に『朱子語類』を一緒に読んで貰った。古学の注釈学は常に原テクストに還る。朱子のように思考できないものを解釈し尽くすことはない。古学はいわば解釈の帝国ではない。思考とテクストとが均衡しているが、還ることのうちに、安定が求められている時代にそれとは正反対の方向へいくダイナミズムを孕む。また中国文明からの自立を模索した国学との関係を読まなければならない。国学からは、復古の言説、そして伝統的国学の枠を越えた国家神道を読む文献学的言説が出てくる。国学もテクストを読む「古学」だったのである。国学からは神学も生まれてくる。蘭学は翻訳的蓄積が明治維新への移行をスムーズにした。こうしたすべてが幕末の政治神学的思想に影響を与えていく。明治維新とはなにか?対抗西欧の復古主義的近代はいかに中国の帝国から脱出するかにかかっていたが、失敗した。帝国主義が完成した大正から昭和10年代の全体主義日中戦争をもたらしてしまった。実は現在のポストモダンの中国もこれとおなじ問題に直面している。多元主義を帝国の構造と世界史の構造に還元してはならないと思うのだけれど

問題提起。鎖国を強いられた江戸時代の思想は外へ出る方法を常に考えた。明治維新からは反対。帝国からの脱出を考えない対抗西欧の復古主義は不均衡のまま政治的統一の安定に向かう



16世紀の開かれた西欧文化の経験にマルクスは権利を語った。哲学史の和辻のように文化から権利を切り離してマルクスの書き出しをやめたならば、アリストテレスから語るしかない

昭和天皇の容態と崩御に心を奪われていて、近代が齎した公害企業に座り込んだわれわれの抗議に無関心に通り過ぎ行く日本人を作ったのは、対抗西欧の国家祭祀の近代ではなかったか

欧米と台湾が香港活動家の逮捕に深い憂慮を示している。しかし日本は自民党の底無しの腐敗(安倍)に絡みとられていて、中国に対して一致した声明をだせないでいる

「万葉仮名は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである」とあるが、元々その「日本語」も中国から来た言葉なんじゃないのかとふと思う

何かについてコメントするよりも、コメントにコメントすることで忙しいこの時代に、コメントを控えるひとが国の中心にいる

大飯原発3・4号機。耐震性の判断に誤りがあり、国の審査に欠落があるとして、大阪地裁が設置許可は違法であると認めた

MEMO 

ベンヤミンの意図を超えて私が提出しようとする解釈とは、次のようなものであるからだ。すなわち、法/権利の基礎づけをなすもしくは法/権利の定立をなす暴力(rechtsetzen de Gewalt)それ自体が、法/権利を維持する暴力(rechtserhaltende Gewalt)を包み込まねばならず、またそれとたもとを分かつことができないのだ。ーデリダ『法の力』堅田研一訳

「精神/霊(Geist)はーこれがこの時代のテーゼであるー権力のかたちで自分を顕現させる(wrist sich aus in Macht)。
精神/霊とは、独裁を行使しうる能力である(Geist ist dad Vermögen, Dikatatur auszuüben)。この能力は、内に対して厳しい規律を要求するばかりでなく、外に対しては、はばかることのない行動(skrupelloseste Altion)を求める」ーデリダ『法の力』の引用文より 堅田研一訳

階級意識は一番下の俺よりももっと下の人間がいると表象したら成立しない。ゲームの規則が変わった。白人至上主義は一番上のトランプよりも上の人間を表象したら成立しなくなるかも

推敲中

江戸思想史は、わたしの中では、伊藤仁斎で始まり本居宣長でおわるというものであった。だがそれはいつの間にか勝手に思い描いてしまっていた風景に過ぎなかった。中国語訳の江戸の思想史の空間を参考にしながら、『江戸思想史講義』(1998)は目次をみると、「孝」の中江藤樹と「敬」の山崎闇斎が、「天命」の仁斎に先行している。荻生徂徠は三宅尚斎と「儒者」の中井履軒の中間にある。「物哀」の本居宣長の前に賀茂真淵が置かれている。こうした江戸の思想史の空間は何を意味するか?儒教の内部解体から国学が誕生するというような近代がいかに二項対立の物の見方に依存しているかを示す。しかしそんなに線形的に単純ではない。徂徠と仁斎に向けられた非難が、古い言説と新しい言説との間のズレから起きてくることがわかる。また近代から神話的に物語られる真淵と宣長との出会いがいかに複雑な距離を構成していたかがみえる。‬そしてどこからも仁斎論語というものがみえてくるのだ。子安宣邦氏が描いた江戸の思想史の地図は、近代の物の見方の中でそれとは異なる見方を与えてくれる、多孔性の空間であるとわたしはおもっている。

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左は朱子肖像画。ほんとうにこういう顔をしていたかはわかりません。右は子安氏の『江戸思想史講義』中国語訳の表紙です。右のこのイメージはなにか、左の朱子の顔の輪郭が崩壊していることをわたしに表象させるのですね。顔が風景となっています。ただしこれは脱領土化した統一のない風景。方法としてのアジアを言説化していると書くべきでしょうか。しかしだからといって、江戸思想史の書き手が、日本に朱子学のような宇宙論と思想が現れなかったのかという問いから離すものではないのです。再び朱子の顔を描く\書くような再領土化によって、ポストモダン孔子を深めること。この再領土化は脱コード化で、方法のアジアに向けて開かれている外部であるとおもうのです。



パゾリーニの「ソドムの市」Salò o le 120 giornate di Sodoma (1975年)は、ブルジョワが似非貴族的世界を似非再現する欲望を大衆の尽きない消費として描いてみせている。映画というのも欲望という名の何でもないものかもしれない。映画のなかで、サドの文学の言葉みたいに、心のなかに留めておくことのできないことを物語として終わりなく語りあう場面がある。最後の最後は、映画の観客は透明になった自らの欲望を覗いているように、ファシストたちは双眼鏡でユダヤ人少年少女の拷問の場面を見ている。映画なんかは役にたたない、と、「ソドムの市」はわれわれにそう伝えてくるようである。それだけにパゾリーニのあの映画は美学的方法を貫いていたことに驚きを禁じ得ないのである。

収容所のなかの囚人たちの弦楽四重奏の演奏をレンブラントは見ていたというゴダールの『映画史』における編集をどう解釈するのか。これを他者の問題として深めなければいけない...

映画は役に立たないか?否、アイルランドで学んだ嘘のナレーションがある。例えば最後に「和平によって銃の政治が終わった」と語る映画は公のナレーションが君達を騙すことを教える

映画界のリア王ゴダールは本日で90歳?現在は文学と絵画の城壁の中にいる孤高なイメージ。批評家時代の若いときは映画のあらゆる可能性は尽くされていた。映画は無用だからこそ映画の自律性があるとする似非芸術至上主義のポストモダンであった

この写真は奇妙だ。監督のゴダールはカメラの背後に立っていない。現場にいることはいるが、この位置では撮られている部屋の奥を見ることができない。しかし敢えてゴダールは距離を保って制作を眺めているのかもしれない。常に、「芸術至上主義に陥っているのではないか」という批判を受けることになるゴダール映画だけれど、この距離は、映画の自律を主張する「感化の大きな運動」の自律を成立させている彼の戦略なのだろうか?文学の自律を主張する「感じる心」の自律みたいである

ポストモダン時代の寵児、ヌーヴェルバーグは作るオリジナルに絶望し切っている。「感化の大きな運動」とその「思考の形式」の自律は、矛盾したアナーキーな受容的心性の自己主張

ヌーヴェルバーグの批評家達は「作る」オリジナルに絶望し切っていた享受者だが、映画とは何かについて書くために、外部から制作することになった。「作る」ことを解体したというか

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