MEMO

On the line 

4年越し?で仁斎論語を学んでいたときは、線を描こうとするといつもこういう感じで二つのものが現れた。夜の線と昼の線が交わらないフラットな平面(指たち)と、夜の線と昼の線が交差する襞のある面(掌)

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江戸思想の喚起とともに、朱子的普遍主義に対する仁斎の四端の心、脱構築的「水平的平等」がある。現在は、中断を余儀なくされているが、「垂直的平等」の朱子の思想を見直すことによって、ポストモダン孔子を深めることが課題となっている。戦後は、竹内好を除いて、思想の形成が無かったが、現在こういう形で思想は反復する。つまり差異は反復する。正確にいえば、ここでは江戸思想と呼んでいるものについて語っているのだけれど、過去と同じものの繰り返しが起きることはないのだから、思想の反復については、差異の差異化が生じると言わなければならないとおもう。

(上下の写真で上のは昨年一月の講座での子安先生の板書)

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La valeur a cessé d’être un signe, elle est devenue un produit. ーFoucault “Ricardo”

価値は記号(シーニュ)であることを止め、生産物となる。



マルクス経済学とケインズ経済学が終わり、経済学が美しい数学で書かれるレーガノミクスが始まる後期近代に、「価値は記号であることを止め、生産物となる」といわれる表象と言説の関係を明らかにしているフーコの文をかんがえていた。そのときは、映画は投射であることを止めていて、言い出される言説となっていた。思考の形式として見いだされた映画の始まりを投射するためには闇の中に輝く光があった500年前に遡る必要がでてきた。そうして呟きがはじまる...


五輪は連帯の記号であることを止めて、思考停止の復興ナショナリズムが一人占めする生産物とならなければならない。

ー> 菅首相「コロナで世界の団結必要、象徴として五輪開催」


The universal must remain open, its differences and potentiallies must remain so; other wise we are forever trapped in the present in the future...



武者小路公秀『国際政治を見る眼』を読んだ後にレーガンが出てきた。世界的にコロナ対策で財政支援している去年をもってレーガノミクスが終わったとクルーグマンは言っている


器官なき身体」と書いた詩人はペストとして表象される。殆ど一文無しでシングの手紙だけ持ってアイルランドにやってきたアントナン・アルトーも「幽明始終、初無二理」だとおもう


ジオットとダンテはどちらが偉大か?


ケニス•クラークKenneth Clarkの文明’Civilisation’のなかで、画家ジオットと詩人・哲学者ダンテはどちらが偉大なのかというような話をしている。美術史ではジオットはいきなり現れてきた画家である。ジオットは意味の喪失を映画みたいにナラテイヴに表現できた。絵の端にマルクスエンゲルスとよく似た人物が描かれているのは大変気になる(後でこのことは述べよy。)左側の嘆きの舞台は地上の堅固な世界である。ジオットのイメージは、文明が教会からイタリアの銀行システムが確立する豊かな都市へ移行してくる時代を告げる。右側のダンテは、ジオットのようには地に制約されないような、形而上学的な天の光を書く(『神曲』)。光は言語的存在である人間が存在の意味を問うのである。トマス・アクィナスとゴシック的世界からの影響がダンテに読みとれる。ダンテはジオットより上であるとクラークは結論する。なぜならダンテは哲学と正義を考えたからだ。ここで、ルネッサンスの都市を、グローバル資本主義の分割である帝国中国が現れてきた今日の文脈に置き換えてみたら、どんなことがが言えるだろうか?『資本論』の新しい読みとともに成立する高度の互酬Xの実現として中国をとらえる柄谷行人氏はジオット的だし、これに対してグローバル・デモクラシーから民主を批判的に問う子安宣邦氏はダンテ的であるとおもう


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忘れてはならないのは、〈啓蒙〉の時代に古代ローマの模範が二重の役割を果たしてきた点である。共和制のその相貌のもとでそれは自由の制度そのものであったし、軍事中心のその相貌のもとではそれは規律訓練という理念的図式であった。-フーコ監視と処罰-


生の始めと死の終わりは別々のものか?別々ならば、意味の問いから曖昧な文学を切り離すようなものだと思う。ロゴスが形式論理学の計算する卑小さに還元される近代とは何だった?


近代というのは、過去のあらゆる権威を否定し尽くすエネルギーをもっていますが、「真理は一つである」(あるいは「真理は一つではない」)というような「真理」の絶対的権威に同一化します。そういう近代の根源的誤認に私が同意できない理由とはこういうものです。「真理」の絶対的権威とは、議論を以って覆すことができないようなあり方をいいます。「真理」の絶対的権威を覆すために人間は政治組織を作り上げるでしょう。経験は教えますーそこで人間は「兄弟殺し」で消滅してしまうことを。近代の成立とともに現れた人間をゼロにしてしまうと、何もかも全部がゼロになってしまうというような危険がないのでしょうか。

「暴力ははじまりであった。暴力を犯さないでは、はじまりはありえなかった。どんなに人間が互いに兄弟たりえようとも、それは兄弟殺しから成長してきたものであり、どんな政治組織を人間が作りあげてきたにせよ、それは犯罪に起源をもっているのである。」

ーハンナ•アーレント『革命について』序章 戦争と革命


アイルランド映画アイルランド映画が作られる前から既に存在していた。映画はスペイン市民戦争の継承。抵抗する大衆の自発性は運動がプロ化すると失われてしまう歴史を伝えてきた


おそらく、古代においてまったく神秘的感覚をもたなかった唯一の民族、ローマ。そのふしぎな理由は何だろう。イスラエルのように、亡命者によってつくられた人工の国家だったのだ。

シモーヌ・ヴェイユ


Mais comment un mot , impropre à seulement nommer la cendre à la place du souvenir d’autre chose, pourrait-il, cessant de renvoyer encore, se présenter lui-même, le mot , comme de la cendre, à elle pareil, comparable jusqu’à l‘hallucination? Cendre, le mot , jamais ne se trouve Ich、mais là.  ーJacques Dérrida


A word, unfit even to name the cinder in the place of the memory of something else, and no longer referring back to it, how can a word ever present itself ? The word, like the cinder, similar to her, comparable to the point of hallucination. Cinder, the word, is never found here, but there. 


時間とはなにか?自己にたいして、自己のなかの自己が、遅れるか、あるいは先じているのか?


What is time?

時間とはなにか?自己にたいして、自己のなかの自己が、遅れるか、あるいは先じているのか?自己のなかの自己とはギリギリ要請されるのか

What is being?

存在とは何か?弔うときはあなたたちの存在の記憶に関わる。国家が自身を祀るときははじめから存在するに関わることができない


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過去のものをひっぱりながら形成してゆく制作のプロセス。過去を捨てるがちっとも新しくない。極大化してどんどん希薄となって極小化する。名を与える近代


バイデンの圧倒的勝利を無視したトランプ大統領と彼の支持者達は選挙そのものを占拠する反民主主義の声か?オキュパイ運動とその言説が包摂されてしまったのではあるまいか?



精神の眼、鬼神の眼

デリダエクリチュールと差異』は、この私は読む力がないのですが、何を言いたかったのでしょうか?この本のなかで批判されている、ソシュール『一般言語体系』とレヴィストロース『野生の思考』は、なにか、<生きている言葉>と<死んだ言葉>とのせめぎあいを書いていたのでしょうか?<生きている言葉>は、ものを住処としている<死んだ言葉>を、生きているのか死んでいるのかわからないように語ります。言葉は過去の蘇りの近くで声を聞くように語るのですけれど、だけれどそこで死に切った過去を開く精神の眼、鬼神の眼を哲学的に思考することがなければ、<死んだ言葉> に隠れている<生きている言葉> を考えているだけかもしれません。文明論はそういうものかもしれません。文明論は死に切ったものを実体として指示しますが、死に切ったものとは思考の対象です。実体として考えてしまうと、死に切った過去としての <死んだ言葉>から見つめられる意味を、名はあるが意がわからなくなった他者の言語が存在する意味を、考えることができなくなるのではあるまいかと不安に感じてしまいます



「合理主義」を読み直す


フーコは西欧の問題をいう。わたしなどはこのフーコの一文を読んだときは、「最も価値のない」カントとヘーゲルの哲学しか考えられなかったほどで、まあ西欧中心主義で、西欧のオリエンタリズムでなければ価値すら成り立たない江戸時代の儒者(古学)が漢字仮名文で何とか読み解こうとした朱子の思想のことを考えることがなかった。アジアに位置する近代日本のことを論じる可能性のある問題なのに、いつものように近代ヨーロッパを考えていた。いや待て、近世日本の思想と文化もヒューマニズムがある。ヨーロッパとアジアと共通のものがある。しかしそれはヒューマニズムという言説のなかにそって論じられなければゼロなのだ。たしかに合理主義は東西にある思想だ。その場合は、アジアの普遍主義・啓蒙主義朱子学の合理主義を考える必要がある。それはこの世とあの世に「二つの道理がある」と考えないような合理主義である。詳しく知らないが、ポストモダンドゥルーズを読むと、中世ヨーロッパのドゥンス・スコトゥスもトマスアクナスにたいしておなじように考えたかもしれないが、それはプラトニックな神秘思想におけるものであろう。しかし朱子は合理的に考えたのである(先ず、生を考えなさい。それから死を考えなさい。) 

現在も文明論は、近代は中世のような偉大な哲学がないのはどうしてかという問いにたいして、17世紀は絵画で、18世紀は音楽で、哲学をつくったf:id:owlcato:20210112002640j:plainと説明する答えをきくとき、なるほどそういうものかとわかってしまう。しかしアジアの形而上学も、17世紀と18世紀のアジアの思想も知らないでいいとしていた、いや正直そんなこともまるっきり考えてもいなかった、現在もまったく変わっていない明治の「合理主義」の教育プログラムの生産物でしかないわたしはもうやっていけなくなってきたとおもう


ヘーゲル以後、[…]かつて西欧において最も高度な思考であったものが今や教育の領域で最も価値のないものとみなされている活動に転落してしまったという事実が、恐らく哲学が既にその役割と機能と自律性を失ってしまったことを証明しているといえるでしょう。」

ーフーコ『文学・狂気・社会』



書評を読まさせていただきました。この書評から新しく多くのことを学んでいます。先ず、読み解かれた「方法としての大正」は素晴らしい視点です。

「子安氏の2016年の著作である『「大正」を読み直す』では明治に後続した大正という時代から見た考察、つまりは、「方法としての大正」が用いられていたが、この視点は「方法としての江戸」と同質の分析方法であった点も注記しておこう」

「知識人」という切り口から、民衆の立場から論じられていたのは大切だとおもいました。
「他者性」ではラカンの分析から展開しているのは非常に面白く、今後議論していくべきものと考えました。『漢字論』は先生の代表作ですから、先生は12章「「漢」の排除と一国家主義――津田左右吉『シナ思想と日本』の再読 二」を分析した書評を求めておられていたとおもいます。
子安氏が指摘した漢字の他者性とは、ジャック・ラカンならば「大文字の他者 (grand Autre)」と呼ぶであろうものであると私には思われる。
本当にその通りだとおもいます。この点について付け加えさせていただきますと、間違ったことを言うかもしれませんが、中国は、2009年ぐらいから経済的に日本を追い抜きますが、当惑するアジア諸国にとってどう関係をとっていいのかわからない「大き過ぎる他者」だと考えています。乱暴にわたしの考えを説明させていただきますと、中国は東アジアの中心にいる権利をもっていると考える根拠は、自己が漢字文明の中心にいるからです。しかし現代中国は中国語をどんどん音声化しています。これは音声中心主義の自言語中心主義にほかなりません。自己が漢字文明の中心にいるという根源的誤認があるようにみえます。これが「大き過ぎる他者」の問題を構成するとかんがえています。柄谷行人が『資本論』の新しい読み方とともに帝国中国をアジア知識人たちに向かっていいはじめましたが、柄谷は「大き過ぎる他者」の問題を隠蔽しています。私の理解ですが、子安先生の「漢字」はデリダエクリチュールと呼んだものと一致するとおもいます。「大きすぎる他者」に過ぎない<一国>民主主義はエクリチュールを所有できません。エクリチュールは<他が(論理的に)先行する>あり方だからです。もしアジアがエクリチュールをもつと考えるとしたらどういうことが言えるのかを考えているところです。多分ここで言うアジアは実体化できないでしょう。アジアはこれまで誰も語ることが無かった思考の対象です。これが竹内好の「方法としてのアジア」ではなかったかと理解しております。(説明が不味くてすいません)

天皇制」のなかで論じられていることは、わたしをはじめ、子安氏の問題意識に接近する多くの読者にとって素晴らしい理解の助けとなると思います。

主権者の自由と平等という前提に立った西洋の近代国家理念では、自由や平等という基本原理と対立するものとしての宗教理念は排除され (その最もよい例がフランスの非宗教性 [laïcité] を謳った国家体制である)政教分離が根本原理として唱えられたのである。何故なら、近代国家にとって最重視されるべきものは死後の世界でも、始原的な崇拝の中心でもなく、今、ここで、現実を生きている国民の中で展開する国家システムだからである。この観点から見れば、祭政一致の政治システムはあまりにも旧態整然としたものであるだ。


子安先生の本のなかでは書かれていないのですが、解釈改憲によって、軍国主義は復活し、また事実上国家神道が復活してしまいました。絶望していますが、だからこそというか、国家祭祀の禁止から国家を制作することが要請されているのではないかとこのわたしに語っておられました。近代が終わる時代にもはや国家に戻って考える必要がないので、先生が命名なさった言葉ですが、国家祭祀を禁止したアジアのグローバルデモクラシーの中心という理念ですね。

「近代日本国家システムの問題点」のなかのこの文は本質的なことを言っています。ここに、髭さんの大切なご主張が集中しているとおもいました。

ジャン=リュック・ナンシーは『無為の共同体――哲学を問い直す分有の思考』の中で、「ある意味では、共同体とは抵抗そのものである。つまり内在に対する抵抗だ。それゆえ共同体とは超越性である。だが、「聖なる」意義をもはやもたない「超越性」は、まさしく内在への (全員の合一への、あるいは一人ないし幾人かの排他的情熱への、要するに主体性のあらゆる形態、そのいっさいの暴力への抵抗以外の何ものも意味しない」(西谷修安原伸一朗訳という主張を行っている。ナンシーはここで、単に「共同体」と述べているが、厳密に規定するならば、それは一般化された共同体ではなく、近代以降の西洋型の共同体である。すなわち、彼はジョルジュ・バタイユの至高性という概念を詳細に分析しながら、神聖さの中にある暴力に反抗するものとしての西洋型の近代的共同体の意義について語っているのだ。

 神聖なるものは至高性を有するものである。それはその聖性ゆえに、あらゆる問いかけを拒否することも、理不尽な要求を行うことも、責任を担うことを拒否することもできる存在である。神聖さは神々しさの裏面に暴力を隠し持ったものなのだ。「神聖にして犯すべからず」と定義された天皇の存在も同様に機能するものである。


ナンシーの思想をこうしてアジアに即して考えることができるのは本当に意義深い問題提起です。自分で考えてみようとおもいますが、ここで言われるバタイユ至高者は、ブランショの至高者と無関係ではなさそうですからおそらく一緒に考えたら面白いようにおもいました。


言説「天皇は神聖にしておかすべからず」。「神聖さ」で表象される過剰な政治的統一。考えてみると、明治の元勲たちは天皇を人形だとおもっています。京都から無理矢理連れてきた天皇を「神聖」だというのですね。変ですね。しかしこれについては、明治のエスタブリッシュメント対抗西欧の復古主義は王政復古の仮装で確立していくしかないと考えたが、中江兆民自由民権運動を導く思想に対する彼らの恐怖のことを改めておもいます。近代国家が彼らの捏造した過去ー「神聖」ーに押しつぶされていく最初の悲鳴が、日中戦争ではなかったかとおもいます。

• 言説「天皇は神聖にしておかすべからず」(明治憲法)。「神聖さ」で表象される過剰な政治的統一。伊藤博文は『日本書紀』の言葉をひいて注釈を書いています。リベラルであれ保守主義であれ、明治の元勲たちは皆天皇を人形だとおもっていました。だから京都から無理矢理連れてきた天皇を「神聖」だというのは変ですね。しかしこれについては、明治のエスタブリッシュメントは対抗西欧の復古主義は王政復古の仮装で確立していくしかないと考えたが、中江兆民自由民権運動を導く思想に対する彼らの恐怖のことを改めておもいます。近代国家が彼らの捏造した過去ー「神聖」ーに押しつぶされていく最初の悲鳴が、日中戦争ではなかったかとおもいます。

明治憲法の成立過程を読むと、議会の財政権のコントロールの独立に関して当時のドイツ憲法よりリベラルであったことがわかります。

•宮沢の8月革命説は天皇機関説に繋がっているようです。8月革命説は正しいとおもいます。戦前の国体は後期水戸学に基づく制作だったと考えると、国家祭祀の戦前との連続性を禁止した象徴天皇性も制作でしょう

解釈改憲によって、軍国主義は復活し、また事実上国家神道が復活してしまいました。絶望していますが、だからこそというか、国家祭祀の禁止から国家を制作することが要請されているのではないでしょうか。近代が終わる時代にもはや国家に戻って考える必要がないので、子安先生が命名なさった言葉ですが、アジアの2000万人の命を奪った国家祭祀を禁止したアジアのグローバルデモクラシーの中心という理念ですね。これは、「祀る国家は戦う国家」というような国家の理性をたたえる「神聖」なものではなく、制作的に至高なものだと考えています。

和辻哲郎の言説「祀る神が祀られる神」を解体できずに一年が過ぎてしまった、なんということだろうか。わたしは自身の思考の決定的不足をおもう。言説「祀る神が祀られる神」は、日本リベラルが答えをだすように、デモクラシーと両立しないと言ってしまえばいいのか?正直わたしはわからないでいる。何故なら、言説「祀る神が祀られる神」を消しても、デモクラシーの形態である明治維新の近代が残るからである。わたしがおもうのは、ここで必要なのはおそらく漢字論ではあるまいかと。漢字エクリチュールは他が論理的に先行するあり方として存在している。他者は他者であるのは、そこに他が論理的に先行しているように。音声中心主義の帝国は自らが漢字エクリチュールを所有しているゆえにアジアの中心にあるべきだとおもうのは根源的誤認であるように、自言語中心主義と「一国」民主主義の国家が、声の神話的内部に在る「祀る神が祀られる神」をたたえるゆえにアジアの中心にあるべきだとおもうのは根源的誤認だと言わざるを得ない。言説「祀る神が祀られる神」で表象される「神聖なもの」は、「漢字は不可避の他者である」で表象される「至高なもの」としてのアジアを盗むものである、とわたしはかんがえようとしている。そのアジアとは、「祀る神」「祀られる神」と同様に、やはり実体はなくて思考の対象であるけれども、共同体が「祀る国家は戦う国家である」を止める意味を絶えず問う限りにおいて倫理的なものであり得るのではないか

推敲中
文学史というと、
History of litterature in English ーBritain&Ireland&...
それに現在話題に上るScotlandが加わるのでしょうけれど、1970年代以降はイギリスで一般的にこういう言い方になりました。このように言うと、なにか一つに包摂できないような開かれた知の枠組みを思い浮かべますね。辞書的には、又は、分かっている専門家や研究者の間では簡潔に、English(British)Litteratureで十分に通じるのですが、カフェで会話するときこの言い方はなーんか不安というか、大英帝国的「一」を喚起するなにか古臭い嫌な響きがあります。(パウンドでも勉強してるの?という感じ)。どちらがいいのか何人かにきいたことがあるのですが、尋ねてみたそのひとり、ナイジェリアの英語で書くショインカの仲間で、70年代に留学してきた方にきくと、マルチ・カルチュアリズムのロンドンでは、英文学史はやはり、History of litterature in English ー ...&...&...&...というあり方が要請されるとのことでした。
このことをできるだけ思想的に考えてみますと、アイルランドスコットランド、そしてナイジェリアの外部から、イギリスの近代を捉えてみることにどんな意義があるのだろうかと改めて考えるとき、言語的アプローチに依るのですが、(豪族とかの反乱で古代国家の統一が簡単には行かなかったと伝える「古事記」と比べてみることができるか?)、世界の半分をもつことになるイギリスで象徴される近代化というものが原初的に困難を極めたということ、History of litterature in English ー...&...&...&...というこの指示に反映されていると思います。Englishというものはどこにも属する散種だが、いかなる場所でも発芽して完成することはない、目的をもたない「過程」のイメージが湧きます。
そのEnglishがジョイス文学というスリットからどのように展開してくることになったのか、これが私の関心であります。




どうして国が金を出して医療・福祉施設の検査を徹底しないのかって?金が東京五輪に固定されてしまっていて必要なところにまわらないからでしょう。国家の名誉に押し潰されています

「みんなが間違っていると考える見方に実はみんなが考えていなかった正しい主張がある」という懐疑精神と平等的正義感、新しい経験を重んじて法を発見する信念をもっていない裁判所などに憲法を判断する力はないとおもうようになりました。裁判所が解決してくれないならば、われわれが言うしかないとおもいます。その場合、当事者のために解決するという視点が大切になってくるはずだとおもいます

「写真は示している、物は与えられているのであり、そしてそのために、物は距離を置いたままでいるのだ、ということを。与えられているもの(le donné)のもつ贈与行為は、そこに、その場のなかにとどまっている、ーあるいは、おそらく、むしろ、贈与行為とは場それ自体なのである。与えられているものの背後に贈与があり、そして、贈与が「ある」ということは(l‘ ”il y a”)は、もつことー場(l‘ avoir -lieu)[場をもつこと/起こること]なのである。この、[場をもつこと/起こること]は、隠されたままでいるのではなく、接触との隔たりのなかで不可視の状態で、かつ触知できない仕方で開かれているのである。フィルムも上に、観光性の小さな皮膜の上にやってくる光ーすなわち、情報のもろもろの単位として分析によりピクセル化される光ーこの光は、表明し、とどまらせるのだ、光の贈与を、光の啓治を、光を宣言し光を作動させる「光あれ」を。「光あれ」は、行為における区別=栄誉(distinction)であるがゆえに、神的なもの(崇高なものであると、Longinは述べている)なのである。」

* Cassius Longin、c.213-273 新プラトン派の修司学者、哲学者

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4年前ジジェクは大統領になるのはクリントンよりトランプがいいと言っていた。破壊者トランプに抵抗して資本主義米国の根本問題が解決される運動が出てくる筈だから。そうなったか


菅政権を支持している4割ですけど、だれが一番タフかを競う生き残りゲームをしているつもりで自分が勝ち残るなどとおもっているのでしょうか?


ホホー境界の傍らに与えられる場所で、触角なしで触れる、視覚なしで見る、そうして共に働く感覚がカフカプルーストの文学に書いてあるとはニャ


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フーコー『言葉と物』:第1部で、古典主義時代での一般文法、博物学、富の分析を素描する。第2部で、それらが断絶的に変様し18世紀末以降に系譜学、生物学、経済学として成立し人文諸科学を統べる過程を記す。そのなかで知を司る主体としての人間が近代において生み出されたものであることを示す。」(哲学botより)

構造<視覚ー空間ー触角>は、表象の限界によって、人間を基底とした構造<触角ー時間ー視覚>へと転回した、フーコにとって問題となってくるのは、再び人間の表象を利用していかに人間を解体するかである。境界の傍らに与えられた場所を世界の外部的中心として構成すること、振動を捉える毒虫のナレーションの成立とともに、すべてを表現し尽くす嫉妬のシーニュを解体すること、そのための方法として、<視覚なしで見るーテンソル的時空構造ー触角なしで触れる>ことは果たして可能か(ドゥルーズ)。精神分析構造主義の帝国から逃れいくヨーロッパにおける「近代の超克」の問題?他者の問題を考えるために、宇波彰氏を考えることがはじまるのはいまだとおもう

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『語孟字義』に伊藤仁斎の前に誰も言わなかった思考の斜線が書いてあるー水平的差異化の軸(仁斎)と垂直的差異の軸(朱子)が構成する座標において

ひとは黒地の上に,光り輝くインクで書くのではないのだ.ただひとつ,星々のアルファベットだけが,そうすることによって,粗描されたか〔書くことが〕中断されたかしたような姿を現して来る.――つまり,人間は,白〔紙〕の上であくまでも黒を追い求めているわけだ.ーマラルメ

「水平的平等」は理気論の同一性と差異性の軸、脱構築的「水平的平等」は仁斎の四端の心の軸。後者の多様性に格差が生じぬように、斜線は朱子の同一性を見直す方法のアジア的構成か

Twitterがトランプ氏に対してついに永久停止処分を下した理由を説明して、米議会議事堂への暴力的な侵入を奨励したことを考慮したと言う。そもそもトランプの問題は、責任を追求してくる都合の悪い質問に答えない彼の態度にある。わたしが怖く感じるのは、彼は質問そのものを破壊しようとしているのではないかと疑うときである。彼が奨励した議会議事堂への侵入は侵入以上の意味をもっている。選挙そのものを壊しているとしたら?現代は権力が政府に集中していて、この現代ほど、被支配者は権力を支配者に委ねた時代はあっただろうか。だからこそ、「責任は全部、一切合切の権力が委ねられた政府にある」と批判するためには、質問が不可避なのに、それすら許されないとしたら、どこの国も自民党の国みたいになってきている。近代という時代は、戦争と開発と同化はどんどん進むのに、自由に喋る政治が全然進まないという時代なのだ。菅は「仮の質問に答えられない」と言っているが、事実上質問を禁止しているようなものではないか?100年後の人々は、最後に質問したひとは誰であったかと調べて、後期近代のいまの時代をどのように語ることになるのだろうか。これも、禁じられた仮定の質問となってくるのか..

山崎闇斎をたたえる

こんなわたしのようなものの話を辛抱強く聞いてくれたのは二人。どちらも「聖」という名前をもっていたのは、偶然だろうけどね。其れは其れとして、荻生徂徠の制作論の思想を知らなければ、『江戸思想史講義』(岩波書店)に書かれているこの文の大切さを発見できなかったかも。「『敬』の名辞が存在しなかった遠い過去にあっても、後に『敬』と呼ばれる『心法』(すなわち『無名ノ敬』)は聖人たちの心の内に存在し、それは例えば『乾坤ニ掛』の像の上にも顕されてきたのだと闇斎はいう。」(子安氏)

思想は過去から生まれたものではないし過去の中にあるものでもないのに、過去から生まれたし過去の中にあったと言う。思想を自己のものにしようとした他者の存在を思い出すために?

恵原病院は近所。広尾病院といえば、恵比寿時代の隣人だった韓国人夫婦の出産のお祝いに行ったことを思い出した。あのときの赤ん坊はもう30歳すぎているはずなんだ

推敲中

「どうしてアイルランドにいたのか?」と聞かれたら、「20世紀の主たる作家はこの国から現われたから」と答える。「なぜ?」と問われたら、「ここにあらゆる人間の問題があるから」と言う。八十年代は、七十年代の開かれた批評精神の形骸化ー文献学的プロ意識の復活ーである。ポスト構造主義ジョイスのテクストによって、他者にhelloと言う書記行為、グローバル資本主義の搾取にNoと声をあげことの倫理的意味が読み出される。<私は話す>ということは、アイルランド演劇がこれを初めて行う。アイルランド演劇の前に、<私は話す>は一度も起きなかったのである。


現代アイルランド演劇『faith healer』

ブライアン・フリールは『トランスレーションズ』で土地の名について考えた(プルーストも小説の中で考えた)。アイルランドの表象の成立は英国軍の近代測量とアングロ・サクソン化させられた地名のとともに成り立った。『faith healer』はベケットを超える凄い芝居なのである!治療する力powerを失った信仰治療者フランクの興行をえがいている(写真はフランクの弁護士出身の奥さん)。

      アベラーダ、アベライロン、
       サングラノッグ、サングリッグ
      アベゴーレッヒュ、アベギノルウィン
      サンデファイロック、サンネハメッズ
      アベホーサン、アベポーズ

フランクが信仰治療に利用しているお唱えは全部、現在滅びつつある土地の名である。わたしの理解では、土地の名はBadiouが言う意味で「空集合」である。分析哲学からは数学ではないと非難されるが、Badiouは言っている、自分の文は詩なんだと。彼は空集合とか固有名の意味を問う詩を書いている。差異をさがしに行け、属することばかりを考えるなと。もし土地の名を「空集合」として考えてみたら「存在する」ことについてどういうことが言えるか考えてみよう。名は土地のなかにないし土地からくるものではない。名は他者である。

第一部 フランク (1)

 Brian Friel; Faith Healer
 Part One, Frank (1)

 Frank; (Eyes closed) 
 Aberarder, Aberayron,
 Langranog, Llangurig,
 Abergorlech, Abergynolwyn,
 Llandefeilog, Llanerchymedd,
 Aberhosan, Aberporth...
 All those dying Welsh villages. (Eyes open.) I'd get so tense before a performance, d'you know what I used to do? As we drove along those narrow, winding roads I'd recite the names to myself just for the mesmerism, the sedation, of the incantation -
Kinlochbervie, Inverbervie,
 Inverdruie, Invergordon,
 Badachroo, Kinlochewe
 Ballantrae, Inverkeithing,
 Cawdor, Kirkconnel,
 Plaidy, Kirkinner...
 Welsh-Scottish-over the years they became indistinguishable.The kirks or meeting-houses or schools-all identical, all derelict. maybe in a corner a withered sheaf of wheat from a harvest thanksgiving of years ago or a fragment of a Christmas decoration across a window - relicts of abandoned rituals. Because the people we moved among were beyond that kind of celebration.

フランク(目を閉じて)
       アベラーダ、アベライロン、
       サングラノッグ、サングリッグ
      アベゴーレッヒュ、アベギノルウィン
      サンデファイロック、サンネハメッズ
      アベホーサン、アベポーズ
 ウエールズ地方の滅び行くあの村たち・・・(目を開ける)
 私は出番のまえにはえらく緊張しちゃううんです。どうしたかというと、あの細い曲がりくねった道々に沿って車を飛ばしてこの呪文を催眠剤とか鎮静剤として唱えていたというわけです。
      キンロッホバーヴィ、インヴェバーディ
     インヴァドルイー、インヴァゴードン
     バダクルー、キンロキュ
     バラントレイ、インヴェキーシング、
      コードー、カコネル、
      ブレイディー、カキナー・・・
 ウエールズスコットランド地方の名前なんですが、時が経つにつれお互いに区別がつかなくなりましてね。教会でも、集会所でも、学校でも、みんな廃墟になっちまったところばっかり借りてたもんです。過ぎし日々の祭りの儀式の名残などがあってー部屋の隅には何年も前の感謝祭につかわれた枯れた麦の穂が一本だけあったり、窓にはクリスマスの飾りのの頃が張り付いていたりと。ただ、わたしらが相手にした連中は、そんな祝いなどとは縁のない貧乏な人々ばかりだったんですがね


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来週に親戚の家族葬に行くつもりでいたが、さっき電話で東京から来ることを断られた。年末に東京からの感染が起きているし、地方の病院が大変になっている話も聞いて心配している


大学に勉強しにいく所で、友達と会うのが目的でない。分かっているけれど。惑星『ソラリス』のSFみたいだ。宇宙船の科学者達は互いに孤立して自分の過去の記憶を物質化して生きる


五輪開催が至上命令だ。五輪中止を求める声に耳を塞ぐ権力の中心は、解釈改憲軍国主義国家神道を復活させたが、原発災害以降の分裂に恐怖していて政治的統一の喝采を捏造したい


ジル•ドゥルーズ著『プルーストシーニュ宇波彰

第八章 アンチロゴスまたは文学機械 より


問題は、プルーストによっ、いくつかのレベルで提起されている。ひとつの作品を統一させるものは何か。われわれと作品のあいだに、<コミュニケーションをさせる>ものは誰か。芸術の統一性があるとすれば、それを作るのは誰か。部分をまとめるひとつの統一、断片を全体化するひとつの全体をわれわれは探求することを断念した。なぜならば、有機的全体性としてのロゴスみ、論理的統一としてのロゴスも、いずれも拒否するのが、部分または断片の、特性であり、性質だからである。しかし、それらの断片の全体としての、この多様なものの、この多様性の統一であるところのひとつの統一が、存在するし、また存在しなくてはならない。つまり、原理ではなく、多様なものと、その分裂した部分の<効果>であるようなひとつのもの、ひとつの全体が存在しなくてはならない。このひとつのもの、ひとつの全体は、原理としては作用せず、効果として、機械の効果として機能するだろう。それはひとつのコミュニケーションであって、原理として措定されるものではなく、機械と、その分解された部分品、コミュニケーションもないその部分の運動の効果として生まれてくるものであろう。哲学的には、閉ざされた部分、あるいは、コミュニケーションのないものから結果するコミュニケーションという問題を最初に提起したのは、ライプニッツである。戸口も窓もない<モナド>のコミュニケーションを、どのように構想すべきであろうか。ライプニッツの巧みな答えは、つぎの通りである。つまり、閉ざされたモナドは、その属性の無限のセリーの中で、同一の世界を展開•表現することにより、また、それぞれのモナドが、他のモナドとは異なった、明確な表現の領域を持って満足することにより、したがってすべてのモナドが、神が展開せしめる同じ世界についての異なった視点であることにより、すべての同じ材料を処理する、というのである。このようにして、ライプニッツの答えは、神というかたちのもとにーこの神は、それぞれのモナドの中に、世界または情報についての同じ材料を入れ、(<予定調和>)、また、孤立したモナドのあいだに、自発的な<対応>を基礎づける神であるがーあらかじめ存在する、統一と全体性を回復する、プルーストにとっては、もはやその見方は不可能である。彼にとっては、さまざまな世界が、その世界に対する視点に対応し、また、統一性・全体性・コミュニケーションは、機械の結果としてのみありうるものであって、あらかじめ存在する材料を構成するものではない。


Le problème est posé par Proust à plusieurs niveaux: Qu’est-ce qui fait l’unité d’une œuvre? Qu’est-ce qui nous fait <communiquer> avec une œuvre? Qu’est-ce qui fait l’unité de l’art, s’il y en a une? Nous avons renoncé à chercher une unité qui unifierait les parties, un tout qui totaliserait les fragments. Car c’est le propre et la nature des parties ou fragments d’exclure le Logs aussi bien comme unité logique que comme totalité organique. Mais il y a, il doit y avoir une unité qui est l’unité de ce multiple-là, de cette multiplicité-là, comme un tout de ces fragments-là: un Un et un Tout qui ne seraient pas principe, mais qui seraient au contraire <l’effet > du multiple et de ses parties décousues. Un et un Tout qui fonctionneraient comme effect, effet de machines, au lieu d’agir comme principes. Une communication qui ne serait pas posée en principe, mais qui résulterait de jeu des machines et de leurs pièces détachées, de leur parties non communicantes. Philosophiquement, c’est Leibniz qui posa le premier le problème d’une communication résultant de parties chose ou de ce qui ne communique pas: comment concevoir la communication des <monades> qui sont sans porte ni fenêtre? La réponse truquée de Leibniz est que les monades fermées disposent tout du même stock, enveloppant et exprimant le même monde dans la série infinie de leurs prédicats, chacune se contentant d’avoir une région d’expression claire, distincte de celle des autres, toutes étant donc des points de vue différents sur le même monde que Dieu leur fait envelopper. La réponse de Leibniz restaurer ainsi une unité et une totalité préalables, sous forme d’un Dieu qui glisse dans chaque monade le même stock de monde ou d’information (<harmonie préétablie>), et qui fonde entre leurs solitudes une <correspondance> spontanée. Il ne peut plus en être ainsi selon Proust, pour qui autant de mondes divers répondent aux points de vue sur le monde, et pour qui unité, totalité, communication ne peuvent que résulte des machines, et non pas constituer un stock préétabli. ーDeleuze


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愛国心というのは保守主義とは何の関係もない。それは、変化しながらも不思議なまでにもとのままだと感じられる何物かに身を捧げることである。例えて言えば、もと白軍にいたボルシェビキがロシアに対して抱く感情のようなものだ。[右であれ左であれ、わが祖国] ジョージ•オーウエル


「映画は私たちの眼差しを私たちの欲望にかなう世界に置き換える」(ブレッソン)。『言葉と物』では、近代が終わり人間が消滅した後に再び人間の表象が語られれるのは何故か?「明確なイメージ」(ゴダール)をともなわず、存在の自己否定の曖昧な観念に留まることは倫理的に許されないからではなかったか

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It is always the “dead letter ” in which the “living spirit“ must survive, a deadness from which it can be rescued only when the dead letter comes again into contact with a life willing to resurrect it although this resurrection of the dead shares with all living things that it, too, will, die again.  ー Hannah Arendt


「生きた精神」が生き続けなければならないのは「死んだ文字」の中においてである。そして「生きた精神」を死から救い出すことができるのは、それを進んで蘇らせようとする一つの生命と再び接触するときだけである。ーハンナ•アーレント『人間の条件』23


深く重くそして遠く(に行って調べる)説得力の近代は、だけど先行する表面的に軽く近くにしか見えてこないものを蓋してしまうと、体系的に一生懸命に積みあげた知識がむなしい..


深く重く遠くにある中心から見られているから、自己の傍の言語は表面的で軽く卑近なものとなる。厄介なのは、対抗中心に絡みとられた起源とその深さと重さと遠さを見るときである


小林秀雄が語るように、難しくなるのは遠く難しい理念をあまりに短い時間で考えるからなのか?問題は行いだ。卑近で平易さを理念として言語行為的に行うことも時間に関係なく難しい


われわれは議会や中央銀行の奥に行かない。占拠の抗議は中にいる人を外に出そうとする。何をしているか分からず中にいたと同じだった自分自身への抗議でもある。現場で他者を考える


アタリは伝染病の背景に地球環境の問題があると言う。この解決なくして静かにしていれば元に戻るという考えが人類を滅亡させると。国の責任なのに国民が事実上損害賠償を払っている


憲法制定権力者ー憲法の成立を以って優越的に保障される言論の自由を核とする憲法体系を与えた。




中国で初めて「革命」の思想を明らかにしたのは、戦国時代の諸子百家の一人、孟子だった。戦国の七雄の一つに挙げられていたは、もとの斉王の家臣団の一つであった田氏がその王位を奪ったものでふつう田斉といわれている。国家の主権の基盤に問題を抱えていた斉の宣王が孟子に会ったときに、まっさきに聞いたのが「の湯王は夏王桀を放逐して殷王朝を建て、の武王は殷の紂王を征伐して周王朝を確立した。臣下がその君主に反抗し、君主を殺して、つまり革命を行ったということは歴史上の事実か?」ということだったのは、そのような事情があったからだった。孟子が「古い書物にそう書いてある」と答えると、宣王はさらに「臣下の身分で主君を殺すことが道義的に許されるのか」と反問した。


常にシナリオを二つ用意しておかなければならない


孟子は答えて「仁愛をそこなうものは賊であり、道義をそこなうものが残である。こういう残賊をおかすような悪人は、天子にして天子でなく、一個の人間に過ぎない。だから、殷の湯王や周の武王は、天子にして天子でない残賊、すなわち一個の人間に過ぎない夏王桀や殷の紂王に反抗してそれを殺したのである。殺した相手は一個の人間にすぎなかった」という。
 これが有名な中国における革命論である。すなわち、中国を統治する君主は、人民の人望をえている聖人である人が、天から命じられ、天の代理である天子として人民を治めるのである。だから、暴虐な君主たちは人民の人望を失い、人民に反抗され、そしてけっきょくそのくらいを追われる。ここでいう天は、仮想的・抽象的なものであるが、その天がいままでその王朝に命じて天下を治めさせていたのが、その命令を改めて、人民の人望を失った暴虐な君主を放逐し、その代わりに、新しく人望をえている者に命じて天下を統治させる。人民の世論に応じて天が命を革(あらた)める――この革命論を初めて打ち出したのが孟子である。」(貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000(初刊1974) 講談社学術文庫 p.485)


• 常にシナリオを二つ用意しておかなければならない。革命のシナリオAと別のシナリオBである。後期水戸学の特徴としては易姓革命を否定し尊王の立場をとったから、シナリオAは無理だった。そのかわりシナリオBがある。聖人は命名行為によって国家を制作するシナリオである。だから王政復古のクーデターはシナリオBに基づいていたとはいえない。だが、国家の成立とともに、恰も国家は聖人がどこからきたのか語らなければならなくなったかのように、後に明治憲法天皇が不可侵であるとか言いだすことに先行して、国家は聖人を天照大神として再構成していた起源的言説が幕末にあった。この起源的言説は、西欧も支配する、19世紀において顕著な帝国のものである。(民族主義は影響力をもってこの時代に存在したと言えるか?それはその言葉を知る大正時代に起きると思わされる。) 歴史修正主義に囚われている21世紀のわれわれはほんとうにそれほど、明治におけるこの起源的言説から遠くにいるのだろうか?


期待外れをたたえる


ラストエンペラー』のベルトリッチは鏡にうつらぬ心の影にこだわるようなメチャクチャ面白い作品を作る。映画界の本居宣長だとおもう。だけれど暗闇とは何かの裏側でしかない。その表側を示してこそ映画は左翼である。そうしてゴダールは映画において決定的な何かを言う。と、おもっていたら、嗚呼前作とまたおなじことを言っている。映像と言葉は別々ではいけないぐらいのことしか言えない。ゴダールの映画にいつもガッカリさせられる、常に期待外れである。嗚呼ロッセリーニだったら、パゾリーニだったらとおもってしまう。しかしゴダールはこの期待外れが凄いのだ。われわれが住処としておる近代がガッカリしている。そうならば近代をガッカリさせてやろうではないか。多分このとき、形而上学的論理の順番が告げられている。映像と言葉とは、生者と死者を分けへだてはいけないように切り離してはならない。つぎに映像を考えよ、生者を考えよ、言語的存在である人間が存在する意味を考えよだ。しかし近代とは専ら生者を考えるのである。死に場所なんか500年前からなくなっている


“excuse the emotion, but when I die, Delaware will be written on my heart. "


Time is not a thing, thus nothing which is, and yet it remains constant in its passing away without being something temporal like the beings in time.

Martin Heidegger


Maybe the most certain of all philosophical problems is the problem of the present time, and of what we are, in this very moment.

 –Michel Foucault,“The Subject and Power”


アイリッシュ系の新しい大統領バイデンが作家ジェイムス・ジョイスの言葉を引きながら自分の決意を語ったよ!(ジョイスはDublinと言ったところを、バイデンは自分が代表しているDelawareと言っている)。嗚呼果たしてヒューマニズムホワイトハウスにもどってくるのか?

“excuse the emotion, but when I die, Delaware will be written on my heart. "


Das andere >Ende< aber ist der >Anfang<,die >Geburt<.


Im Sein des Daseins liegt schon das > Zwischen< mit Bezug auf Geburt und Tod


Martin Heidegger


Time is not a thing, thus nothing which is, and yet it remains constant in its passing away without being something temporal like the beings in time.

Martin Heidegger


来年はジョイスユリシーズ』出版から100年である。前衛的近代チャンピオンか、それとも、解体近代のポストモダン的チャンピオンなのか、ジョイスをどう観るかをめぐる議論は、シェークスピアとダンテと並んでヒューマニズムの偉大な歴史に刻印されることになるだろう。しかしである、ヒューマニズム帝国主義とが両立する問題を、グローバルデモクラシー無き新植民地主義ネオリベグローバリズムが始まった後期近代のジョイスの読みにおいて問題にしなければいけなかった、ヨーロッパの周辺アイルランドの声なき声はどうなるのか?平等の最高の理想は西欧にある違いない、否、アジア(仏教)にこそあるがアジアはヨーロッパのようにそれを実現する方法をもっていなかったのか、この点について議論がある所だけれど、問題はヨーロッパも、西欧に対抗したアジアも、帝国主義に絡みとられてしまったことである。「自分で決めた亡命」をやったジョイスアイルランドであれ、岡倉天心の「東洋の理想」であれ、ヨーロッパの周辺の思想なり芸術が、対抗西欧の復古主義に陥らずに、精神の隷属を拒んで西欧を包摂するような未来は不可能なのだろうか?


トランプ大統領選出のときは核ボタンを押す危険が心配されたが、彼はビジネスマンタイプだった。だが大量の恩赦を与えて金儲けする最後の最後まで商売にしか関心がなかったとはね


In the US. White people can’t imagine black people who are just like them .


「白人至上主義」または「Brexit 」あるいは「美しい国」。2005年から問題となっていることはこの一言に尽きるのではないでしょうかー“We are on our own” 

時計仕掛けの機械の進行のような容赦ないグローバルな普遍主義に抵抗しなければもうやっていけなくなるときに、対抗的に、反-<グローバル普遍主義>を対象項にしていくことで何か過剰なものを溢れ出させる危険があるとおもいます。難しい問題ですが、デカルトは上手いことを言っています。「われ疑う、ゆえにわれ存在する」と。もちろん、「疑う」だけでは何の解決にならないといわれるでしょうが、だけれど、失われた経験全体の意味を奪回するためには「疑う」ことからだと思います


‪「人間はまた、経験的=先験的二重体であるから、誤認の場所でもあるー誤認といったが、それこそ、つねに人間の思考から人間固有の存在(エートル)を溢れ出させる危険にさらし、同時に、人間にたいして、人間を逃れるものから出発してみずからを想起することを可能にするものなのだ。」(フーコ 'コギトと思考されぬもの' 渡辺一民訳)‬

Parce qu'il est doublet empiricism-transcendantal, l'homme est aussi le lieu de la méconnaissance, ー de cette méconnaissance qui expose toujours sa pensée à être débordée par son être propre, et qui lui permet en même temps de se rappeler á partir de ce qui  lui échappe. (Foucault)‬


Wake up はジョイス文学を読み解く鍵です(「歴史は、そこから私が目覚めようと努力している悪夢だ」)。「目覚め」とは何か?<死>だとジジェクが言います。夢を発明し続けなければ目覚めると。トランプはアメリカンドリームしかなかったので目覚めてしまいました。バイデンは新しい夢を発明できるかです


ジョイスユリシーズ』(1922)は、「歴史は、そこから私が目覚めようと努力している悪夢だ」という「目覚め」の歴史についての言説を語る文学です。『ユリシーズ』は昼の本です。ところでアメリカ人ほど夢という言葉を好む人々はいません。『フィネガンズウェイク』(1939)は知識人の本ベスト10のなかにかならずランクインします。さて夢をテーマとする夜の本である『フィネガンズウェイク』からは、「目覚め」とは何でしょうか?<死>です、とジジェクが言います。夢を発明し続けなければ目覚めると。わたしは、このポストモダンアイロニーにすべてのことが語られていると思います。そしてわたしは<死>を、音声中心主義のラディカルモダニズムと考えようとしています。「文革」はそういうものでした。「文革」以降の中国は、天安門前広場事件の民主化の道を弾圧して、儒教的「礼」で表象される帝国的な政治的統一を以って夢を発明しようとしていますが、成功したでしょうか?目覚めて、ロシアと同様の皇帝的コミュニズムの独裁の死のなかにあるようにみえます。目覚めてしまったのは、中国とロシアだけではありません。「白人至上主義」(アメリカ)または「Brexit 」(ヨーロッパ)あるいは「美しい国」(日本)、2005年から問題となっていることはこの一言に尽きると思われますー“We are on our own”。ネオリベグローバリズムに対抗するために、われわれ自身にこだわる、自言語中心主義<一言語>主義と<一国>民主主義は、実は、ネオリベグローバリズムと両立する悪夢なのかもしれません。われわれ自身の起源と彼らの起源という境界線を引く思考の問題、これは一考の価値があります。思考が思考のなかの思考できないものと関わることができなくなるする近代が構成する思想史的問題です。アタリは伝染病の背景に地球環境の問題があると指摘したうえで、この解決なくして静かにしていれば元に戻るという考えが人類を滅亡させると言います。そこで地球環境の問題を取り組むことができるような世界を語る理念的構成のもとに、グローバルデモクラシーの思想空間を制作する夢を発明しなければ、隣国と隣人の他者に依拠できないわれわれは死のなかに目覚めてしまう未来に不安をもち続けていくのではないでしょうか。


思想史空間は可能か?先験的経験的二重体の人間を論じるときに時間の思考に依拠しては起源の思考に絡みとられる。近代建築の靖国神社ですら太古に遡る。だから思想史的空間を考える。ポストモダン建築の位相空間的構造に人間が定位するような建築の前に立つだれもが、200年前にあらわれた人間が太古から規定されているとは考えないだろう。思想史空間と建築とは一体なのである。これから建築物を見ることは、写真を見ることである。触角なく触るような、思考できない断片たちとのコミュニケーションである。


荻生徂徠が言う聖人による礼楽の制作は、解体-普遍主義(朱子額)の身体であり、身体の外部の成立とともにある思想空間のエクリチュール•文でなのかな


ジョイスユリシーズ』(1922)は、「歴史は、そこから私が目覚めようと努力している悪夢だ」という「目覚め」の歴史についての言説を語る文学です。『ユリシーズ』は昼の本です。ところでアメリカ人ほど夢という言葉を好む人々はいません。『フィネガンズウェイク』(1939)は『ユリシーズ』といっしょに知識人の本ベスト10のなかにかならずランクインします。『フィネガンズウェイク』の書き出しは(riverrun)は、「河は流れます」という文です。フランス語訳は「夢をみましょう」と読ませようとします。どちらも正しいと思います。『フィネガンズウェイク』は夜の本だからです。さて『フィネガンズウェイク』にとって、「目覚め」とは何でしょうか?<死>ですとジジェクが言います。夢を発明し続けなければ目覚めてしまうのだと。生と死を夢を発明できるかによって説明しようというのです。ここでわたしは<死>を、音声中心主義のラディカルモダニズムの目覚めだと考えています。

生と死を別々に考えるのではなく、表側と裏側の関係として一緒に考えるとして、思考の論理的順番を<折り返す>ことによって、裏側にあった<死>を表側にして考えはじめたらどういうことが言えるでしょうか。亡霊のような死から見つめられることになります。<折り返す> によって、夢ではなく、制作が問題となってくるのです。そしてそこではじめて<生>が倫理的に問題となってくるようにおもうのです。ここで『朱子語類』の鬼神論の言説についてわたしは考えるのですね(下は子安先生の板書を書きうつしたものです。) この思考の論理的順番 の折り返しによって成り立つのが「精神」です。「精神」は、荻生徂徠が言う聖人による礼楽の制作が解体-普遍主義(朱子)の身体であり、身体の外部の成立とともにある思想空間のエクリチュール•文でしたが、そういう制作的契機をもつ理念が「物」として再構成されたものではないだろうかとわたしはかんがえようとしています。


国際社会にデビューするアジアのイスラム国を歓迎するはずだったのに、その機会を奪ってしまった五輪の東京開催決定は国際協調主義の憲法に反したと思うのはこのわたしだけなの?


福沢諭吉はsociety を人間交際と訳した。誰彼構わず話したソクラテスを危険人物とした「社」会は囲むが、人間交際は多孔性である。人間交際の思想はpeopleにある


だれも賢人ではありえないというソクラテスの偉大な洞察から知にたいする愛、哲学が生まれたのであった。この点を考えると、イエスの全生涯の物語は、善に対する愛が、だれも善ではありえないという洞察から生まれたことを証明しているように思われる。

ーハンナ•アーレント『人間の条件』


We are reminded to Socrate’s great insight that no man can be wise, out of which love for wisdom, or philo-sophy, was born; the whole life story of Jesus seems to testify how love for goodness arises out of the insight that no man can be good. 

ー Hannah Arendt


「沖縄は日本にとって自己を変革させる道徳的警鐘者である。だから「沖縄の日本」とは、大江健三郎が沖縄という鏡の中に見た、そして見たいと望んだ過去、現在、未来の日本人像ー言い換えれば、祭司・大江健三郎が繰り返し祝詞を上げて呼び出そうとする、日本人の手中の鏡に映った多重的な自己である。」

ー呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』



ロンドン時代、テートモダンの詩のワークショップで一緒だったイタリア人は日本人の私の風貌がカルロ・ポンティに似ていると面白がっていたが、テムズ川に沿って歩きながら、散文的な英国人の悪口をいいながら、と、イラク戦争の話になった。米国の戦争も狂気、戦争を支持した英国人も狂気だ。と、彼女が私に言った。イタリア人は狂っていると言われるけど、英国人は狂気を隠すのが非常に上手いのだと。彼女は英国人と結婚しているから知っていると強調した。まあそれはユーモアだったか、軍国主義的に形式的で冷たいイギリス人に似ていると思われている日本人とファシズムに絡みとられた狂気の歴史にたいする批判だったか。イギリスに関していうと、私は、英国人達はアイルランドに来てアイルランドから自己を確立しようとしていたのに、エデンとイヴの園に来たと感じることになる彼らの狂気を見たような気がした。何かそれはアイルランドを対照項にして、アイルランドが無くなってしまうような祀るロマン主義(対抗日本ロマン主義)ではなかったかといまおもう。イエーツから感化をうけた大江の小説「燃え上がる緑の木」は、祀られているアイルランドを読むことができるが、リアルなアイルランドが無くなってしまっているのではないだろうか。わたしもその中にいた、イラク戦争は自分たちと無関係なのに隣人のこととして感じて思わずダブリンの街頭にでて抗議した十万人が制作ようとした公共空間(エスタブリッシュメントとは別のあり方)と、祀られているアイルランドとのあいだ共通のものがない。思考不足で深められないが、呟きでもやっぱりちょっと書いておこうかな


ハイデガーは、私にとって常に本質的な哲学者でした。私はヘーゲルを、ついでマルクスを読むことからはじめ、そして1951年か1952年にハイデガーを読みだしました。更に1953年か1952年、いつであったのかよくは覚えていませんがニーチェを読みました。-フーコ『道徳への回帰』-


夜は寒いからかなり早起きしている。「どうして」と聞いてくるから諺を口にした。驚愕された。「あなたの口から損得の言葉を聞くなんて信じられない!!」そ、そこがポイントか!?


向日葵運動の学生達に会えた喜び。帝国か?民主か?子安先生の柄谷行人『世界史の構造』を批判した講義。そこで呉先生が台湾からあなたのビデオを何回も見ていると仰った。7年後の現在、呉先生の「孤立無援の島の思想」を、子安先生の国内亡命の場所から明治維新の近代を問題とする反抗の精神が語る。台湾という外部から、東アジアの開かれたあり方を考えるために、呉先生が書いた大江健三郎批判を考えたい


文学とは何か?言説的でない言説であるとフーコは言う。文学が言説であることを考えさせる作家が大江だ。彼の祀ることを表象させる言説で何が失われたのか?


大江と吉本は「祀る島は祀られる島」の言説ではないか?天皇ファシズムに対抗して<祀るー祀られる>を取り込み、日本ロマン主義の何処にもない島に対抗して>囲まれた島>を書く


名が言語(ランガージュ)の成就であると同時に生の素材でもあった唯一の瞬間ーそれは許しがたい瞬間であり長いこと秘密もうちに葬られてきたーは、サドとともに、言語(ランガージュ)が欲望の舞台、充足、際限のない端緒となり、その全域にわたって欲望につらぬかれたときであった。われわれの文化もなかで、サドの作品が絶えざる本源的呟きとしての役割を演じているという事実は、まさにそこに由来する。ついにそれ自体の発音された名の暴力によって、言語(ランガージュ)は物としての凶暴な姿をあらわにするのだ。名詞(=名)以外の「品詞」も自律性をおび、名詞の至上権を脱し、名詞のまわりで装飾としての付属的輪舞を踊るのをやめる。そして、言語(ランガージュ)を名の周辺に「引き止め」、その直接に言い表さぬものを表示させることのうちにはもはや特異な美がない以上、ここに、言語(ランガージュ)をその生のままの存在(エートル)において顕示する役割をもった、言説的でんし言説(デイスクール)が生まれるであろう。言語のこの固有の存在(エートル)こそ、やがて19世紀が<言葉ウエルブ> (言語(ランガージュ)を表象の存在(エートル)にたえずそっとピンで留めるという機能をもっていた古典主義時代の<動詞ウエルブ>にたいして)と呼ぶこととなるものである。そして、言語(ランガージュ)のこの存在(エートル)を保持し、それをそれ自体のために解き放つ言説(デイスクール)こそ、文学にほかならない。

ー「語ること」、フーコ『言葉と物』(渡辺、佐々木共訳)

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Wiki によると、「道場」(どうじょう、みちば)は、サンスクリットのBodhimandalaを漢訳した 仏教用語菩提樹下の釈迦が悟りを開いた場所、成道した場所のことらしいんだね。道は、何のことかわからないけれど、わからないけれど、四角形と繋がっているのが面白いとおもう。やっぱり道は路

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推敲中

朱子学漢字文化圏コスモスポリタニズム。透明となった言語の観念は抽象的だが、天理や天命の思想の直線のイメージは具体的である。それは天から公に向かって垂直的な方向をもつ。万物の平等を考えるが、中華思想として確立すると、平等が成り立つのはanother(メンバーのなかの関係が問題となる)においてである。例えば絶対的平等性は皇帝と臣下のあいだを貫くのである。

伊藤仁斎における朱子学脱構築では、不透明な言語は『童子問』において深遠さより平易さの大事な意義が言われるように抽象的ではない(注釈される『論語』では「仁」は何かと定義したりすることはない)。言語は観念的でないことが要請されるが、天下の思想の直線のイメージは抽象的であるとわたしは思いえがく。それは「道は路なり」といわれるように水平的な方向をもつ。朱子も「路」の比喩を使ったが、仁斎における平等はeach other(メンバーの外にある関係が問題となる)においてである。 仰ぎ見る天における対自的関係、天下的関係。


アリストテレスからマルクスへと語るのは、世界史と日本史が古代史(近代の写し姿)から始めるのと同じで、いかにも知の権力に抵抗していない。マルクスからアイルストテレスを語る見方もネイティヴ化すると、外部が無くなる。そこでフーコの思想史は、常に盲目の解釈にたいして、背後からささやいてくる17世紀の沈黙する映像を、あたかも本の外部としてあるように、本の一番最初に置く必然があった


ゴダールモンタージュの概念を展開する。投射されるスクリーンは投射するスクリーンである。だがスクリーンを対象項とする<祀るー祀られる>ような神聖さを脱して、無の傍らにある絶対平等の至高なものへいく

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言葉、言葉。野党議員が求めるのは議論する本質。それなのに、語る態度とかそんな小さなことにとらわれている本質を議論しようとせず周りに気を遣って馴れ合うだけを考えるこんな人物に共感をもったら私は自分を恥ずかしく思わなくてはいけない。結局ガースーにやっつけられているのではないかと疑うけれどね。スタイル(文体)が問題となっているのに、まだこういうこともあるかもしれない。国会議員なのに、女性が意見を持つとみなして、感情を以ってそれを語ることに反発をもつこと。日本だけだよ


いまや、古典主義時代経験における言語(ランガージュ)の強固で緊密な統一性が何であるか、把握することができるだろう。言語(ランガージュ)とは、分節化された指示作用の仕組みによって、類似を命題的関係のなかにおさめるものである。つまり<ある(エートル)>という動詞を基礎とし<名>の編目によって顕示される、同一性と相違性の体系のなかにおさめるのだ。古典主義時代における「言説(デイスクール)」の基本的任務は、<物に名を付与し、この名において物の存在(エートル)を名ざす>ことである。二世紀にわたって西欧の言説(デイスクール)は存在論の場であった。つまりそれは、表象一般の存在(エートル)を名ざすとき、哲学、すなわち認識の理論および観念の分析であり、表象された個々の物に適切な名を付与し、表象の場全域にわたって「よくできた言語(ラング)」の網目を張りめぐらすとき、学問ーすなわち、名称体系と分類法ーだったわけだ。

ー語ること、フーコ『言葉と物』(渡辺、佐々木共訳)

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音声中心主義のラディカルモダニズムの必然?


レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。」

Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)


不遜なあの箱根オーフィリアも「悪いことをすればお天道様に筒抜けだ」にびびるのは祖父母に言われたらしい。道は徳ではないが、音が似ているので、この国では区別がなくなっちゃっている


箱根オーフィリアはカトリックプロテスタントの学校にいったが、「絵空事よ」。マッカーサー時代に漢文を教わらなかったが、「お天道様」にびびるのは漢字遺伝子によるものなのか


ホッブスはイギリスの当時の権力が全く知らなかった理論を打ち出した。しかしそれは後の近代主義に都合のいい制作論だったかといえば否である。ホッブスの社会契約論は、近代主義自然権のいわば自然を段々消していってしまうのであるが、リヴァイアサン自然権から切り離して語ったのではなかった。明治啓蒙は近代主義ホッブスにやったことを「功利主義」の荻生徂徠にやった。だが徂徠の制作論は、外部の思考であるから、制作を自然(朱子学)から切り離すわけにはいかなかったのであるー丸山真男の「作為」の理論が考えるようには。中江兆民はルソーの社会契約論を自由民権運動の知識人的活動家たちのために儒学的コンテクストで考えた。「天命の自由」と「人議の自由」、この両者は中江兆民において互いに切り離せなかったのある。他者である読み手に出会うために兆民にとって、philosophyの訳は「理学」でなければならない。「哲学」(井上訳)では何のことかわからなくなってしまうからである。


大島渚『儀式』の結婚式は前夜に花嫁が逃げ出したのに何事もなかったように進行したように、嗚呼、東京五輪は国家の他に誰一人来ないような儀式を強行して五輪が逃げだすのかしら


官僚の近代は何でもかんでも計画してきた。公害体制など必要ないものも作り続けた。1990年からは官僚は何もしなくなる。30年間一切を市場に任せたから現在必要なものをつくれない


日本は大きな他者•中国に物を言うためには、俺の背後に米国がいるとEUに自国の優越を示した英国の失敗を繰り返すのではなく、先ず民主化する自己を示してこそ言葉に実がある


マルクス主義では近代化を経ない脱近代はあり得ないが、アジアの現実は近代化せずに脱近代している。問題は近代化ではなく、脱近代において集中した権力を分散する民主化ではないか


Inventing Asia

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心と身は仏教が最初に言ったらしいよ。近代は専ら我は心であるが、古代は我は身で受けられる。「身に得て徳を我に形成する」といわれる



法哲学』(ヘーゲル)は人倫の三角形を書いている。家族(色々な形があるべきだ)を考える。家族から自立した個のあり方を考える。市民法の領域だ。問題は国家を考えるときである。国家の近代をどういうふうに考えるか。宗教にとってかわられた独立ナショナリズムにおけるブルジョワ的なものに絡み取られる(国家祭祀の近代)。しかし平等に誰もが参入できる公共空間を作れなくなることをみなければいけない。『法哲学』はアイルランドで再び読み直して理解できたことがおおかったが、現在は公共空間を作っている向日葵運動の台湾を無視しては『法哲学』のことを考えられなくなっている。もっと言葉が必要なのに自分の思考不足を痛切しているが、日本のことだけを考えると時間の無駄であるようにどんどん感じるようになってしまったのは、何か、『法哲学』がわたしに考えさせようとしているのかもしれない..


法哲学』はアイルランドで再び読み直して理解できたことがおおかったが、現在は公共空間を作っている向日葵運動の台湾を無視しては『法哲学』のことを考えられなくなっている。もっと言葉が必要なのに自分の思考不足を痛切しているが、日本のことだけを考えると時間の無駄であるようにどんどん感じるようになってしまったのは、何か、『法哲学』がわたしに考えさせようとしているのかもしれない..ヘーゲル儒教とおなじように家族と宗教を否定しない。かれの『法哲学』は人倫の三角形を書いている。家族(色々な形があるべきだ)を共同体の多分公理のようなものとして考えている。市民法の公理として、家族から自立した個のあり方を考える。問題は国家を考えるときである。国家は公理なのか?これを考えときは考えることができないものを考える必要がある。宗教である。国家は国家であるためには宗教の原理主義にとってかわられなければならない。だが独立ナショナリズムにおけるブルジョワ的なものに絡み取られる、あるいは、靖国神社としての日本人のアイデンティティみたいな再び国家祭祀の近代におけるような国家主義の内側に向かっていくようでは、平等に誰もが参入できる公共空間を作ることは難しいことをみなければいけない。


The theory of thought is like painting: it needs that revolution which took art from representation to abstraction. This is the aim of a theory of thought without image.

Gilles Deleuze, Difference and Repetition


宗教は哲学的知を表現する「表象」(Vorstellung) の形式をもつ。銅像孔子を真っ二つに割った文革ファシズムにおいてあらわれたような、音声中心主義の破壊し尽くすラディカルモダニズムの問題を考えると、絵画は表象から抽象へ行けとドウルーズが言うようには..「抽象」の捉え方が問題で、ラディカルに表象を全否定することを語っているのではないだろう。しかし敢えて表象にとどまる代償とは何か?わたしは答えもないが、抽象へ行く時代に表象に反時代的にとどまるときに考えるのは、解釈する神話的偶像再興の和辻のファショズム的言説ー「祀る神は祀られる神である」ーの孕む問題である。これは神聖さを表象する言説である。既に近代が成立する17世紀において、宗教も表象も腐敗するのはそんな神聖さの内部においてあることが議論されたのではなかったか?議論するためには、新しく、表象された神聖に国家という名が与えられたのではなかったか?17世紀のまえに、作為を自然から切り離して、国家を語るような言説はなかった。腐敗しているだけなのに、そこに命を奪われても文句がいえないような神々しい恐怖をみるのは近代からである。思想の理論が絵画との関係においてあるとすれば、例えば自己のほかに対象なき純粋な思惟のような思考できる自分自身を前提にした思考をやめて、思考できないものを思考していくように抽象から自立する反時代的な外部であって、ここのほかにない


MEMO

「思考する」は明治の翻訳語(?)。和製漢語がなければ「思考できない」が、「思考することができる」ということまで保証してくれない。


「人間は、思考するということの可能性をもっているかぎりにおいて、思考するということを心得ているが、しかしそのような可能性は、まだ、わたしたちが思考することができるというまでは、保証してくれないのである」、思考は「思考させる」もの、思考されるべきものの現前において、強制されてやむを得ずといったかたちでのみ思考するーそして、至高されるべきものは、まさに思考されえないもの、あるいは非-思考でもある、すなわち、(時間の純粋な形式にしたがって)「わたしたちがまだ思考していない」永続的な事実である。ーDeleuze 財津理訳

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聖人の「無名ノ敬」は信と一体となった物に書かれたものか?「敬」と云える名がなければ考えることができなかったが、「敬」の一字を分節化して句読点が成り立つ文を作っていいのか


演劇は俳優のもの、映画は監督のもの。キャラ反復+構築3次元又はGo to編集2次元。ポストモダン建築は鑑賞者のもの。スケールは整数で例えば生成1.5次元のより自然な状態


音楽は直接に作用してくる大きな力をもっている。音楽は絵画がもたぬ権力をもつ。音はヤコーブソンがやったように物理的に記述されるが、彼が示したのは音が成り立つ文化の空間


「失われたもの」の回復を言う近代の言説のもとで、「元号」は万葉集の指示した「元号」によって失われたものとなった。絶対の起源から排除すべき漢字で書かれなければ消滅していた


他者にむかう思考のイメージは、自らを前提にしたように展開する思考に非ず。思考の可能性だけでは思考ができる(外の)思考のイメージではない。外部は、写真をとって見るように触角無くして触れること。しかし内側の奥は、写真をとらないから手が見ることがないように触角があるが目は触れてはいないのである

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論語』は殆ど定義しない。「OOというのは」と定義して覆い尽くす近代がない。女性の妻の役割を語る大義名文の下らぬ文が一つある(孔子の言葉か分からない)が時代の限界だろう


海外に出たら、フェミニズムラカン精神分析とポストコロニアリズムを勉強させられる。そこでサイードスピヴァクを読んだおかげで帰ってきてポストモダン孔子を学ぶことになった


デュラスはどんな女性も面白いのはそれぞれ幻想をもっているからだと言う。男性がつまらない。レンブラント集団肖像画の光の中に置かれた少女のような集団の幻想しかもてないからだ


ダブリン時代に宗教画家と交流があった。自分を批判する愛人と娘を形容した彼の言葉に女性達は反発した。私は自前の小説の中でマルクスにその言葉を言わせたー「幻想が幻想を産む」


まだ彼等はロンドンデリーと言っている。イギリスにいたときは、なぜミャンマーというのか、もうビルマと呼ばないのかという疑問をもっている...


山崎闇斎論を読み終わったら、中江藤樹論、中井履軒論を再び読もうとおもう。江戸時代は京都、大阪、江戸がそれぞれ文化、経済、政治の中心をなした。物が知識を運んだ。大阪に懐徳堂ができたのはネットワーク論から説明できるという


‪推敲中

ダブリン時代にハロルド・ピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は毎日映画館に通って(IFC)、全部みました。問題提起がありました。ただ正直、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけ。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきたのです。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているわたしのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。アイリッシュではない。沈黙。それから二人は闇のなかに...。あとで、映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。‬彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。闇のなかで誰が何を喋っているかわからない場面があります。パッと舞台が明るくなると、死体があります。と、この芝居の闇によって、あのときの闇は何だったろうのかということを考えていました。わからないままですが、「黒板」のようなものではなかったでしょうか?誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書き続けるしかないわけで、「意味」がでてくるまで...


 森の女性蔑視発言は「失われたもの」の回復、即ち起源への回帰を言う近代の言説だ。だが他者を排除して、自民党の自らを前提にしたような思考の展開ではもうやっていけなくなった


閉店前の食堂に駆け込むとテレビ国会中継。客も店員も、怒る野党議員の話に集中して質問を聞いている。だがガースーの答弁の言葉が始まると誰一人聞かない。プチっと消してしまった


三月だったが、自由が丘にある立ち食いそば屋のおばちゃんがラジオで厳し過ぎた自粛要請をした小池知事に向かって「うるせえ!」と怒った。ずっとガラガラで昨年に潰れてしまった


徹底的に国際問題化しよう!

#DontBeSilent

#GenderEquality

#男女平等


寸劇

バッハ会長「あなたの謝罪は誰も理解できません。五輪憲章に反する発言を容認することができません。どうしたらいいものか..」

森会長「解釈改憲すれば早い」


六カ国語読めなければいけない、ラテン語がひとつ入っていなければならないと中学時代の漢文の先生に言われた。どうもパージされて塾に教えにきていたらしい。また高校入学のときは、まだアジアという言葉が少しタブーにかんじられた時代にアジアを考える先生に言われた。ヨーロッパに行って研究するばかりでなくもっとヨーロッパから人間を呼んできて日本で研究してもらわないといけない。インド人やキューバ人のように三時間喋る必要があるとも。隅っこに汚い『世界』が積み上げられていた教室に、中江兆民を読まされた。卒業式の歌の練習にフォークソングをうたう全共闘世代たちが先生だった。岩波書店の世界史や中国史なんかがズラーと並んでいる街の本屋さんに、サルトル存在と無』がかならずあった。10代の記憶は消えている。だけど意志というほどのものではないけれど、独学とはいえ、本は読んだし(全部無くなってしまった、デカルト方法序説』を除いて)、なんとか読んだ限りにおいて、現在を支える問題意識のなかにいくつかは残っているようにおもう。前置きが長くなってしまったが、現在も考えるのは、全く正反対の方向にみえるのに、科学革命と宗教改革ルネッサンスにおいて一緒に成立するのはどうしてかという問題である。西欧形而上学の理解なくしてヨーロッパで考えるのは限界があるが、朱子学陽明学のアジアの500年間を射程におくことによってこの問題を考えることができるかもしれない。中江藤樹朱子学と宗教的に関わったが、山崎闇斎は日本朱子学を確立したのである。17世紀の註釈学の知•伊藤仁斎以降、多種多様な学ー洋学と国学ーが開花する。神学は平田篤胤からである。渡辺一民氏は「僕は江戸の註釈学のことを全然知らない」と言った。日本思想の要である「津田左右吉は普遍主義なのか反普遍主義なのかわからなってくる」。アジアで読む『言葉と物』を深めるためには、ここを押さえておくのが大切だとやっとわかってきた

わたしの不十分な理解だけれど、津田は王政復古としての明治維新の近代にたいして相対化しようと批判するときは反-普遍主義的である。対抗西欧の近代のインチキを見抜いていた。他方で津田は創造性を強調するところで不可避の他者である漢字を文革的に全否定する。漢字知識人の総体を否定するラディカルモダンの普遍主義である。普遍主義か反普遍主義か、両極の中間にある位置にこそ価値があるかもしれない。しかしこの中間点において不可避の他者である言語を消去してしまっては、ロゴス=言語的存在としての人(人間)がいかに存在する意味を考えるのかという形而上学の問題が無くなってしまうのではないだろうか。


言説<単独者の交通する無の場所>から言説<主権国家の交通する帝国>へか..。帝国でもいいが交通を言うからには、宗教マイノリティーとの関係、周辺国との外交を解決しないとね


推敲中

「弁名」

論語」は所謂近代の定義集ではない。孔子はどの弟子に何々を言ったといったことが書かれているだけで、例えば「仁」が何々でありしたがってどういう行為なのかという形で抽象的に記されてはいないのである。この一文では、孔子の死後、孔子と弟子たちの間で言葉にしなくとも指示されていて共同に了解されていた自明なものが、解釈しなければわからなくなっていったことが言及されている。徂徠は物と名の食い違いを言う。このような過去との連続性が断たれたという問題意識から、子安氏が使う「祖述」という言葉が活きてくることに気がつく。原初テクストそのものをたたえること、これを読み解くとき、壊されてはならないのは、ほかならない、制作行為としての命名行為の意味である。一回限りの反復しない行為。この誰が命名したのかというアクションの重要性が徂徠によってはじめていわれるようになった、と、わたしはこの一文を読むことになった。ここで、‬「論語」に先行する「六経」の意味が大きく意識されてくるのである。



秩序の感覚は先なるものを卓越とみなす。形なき目に見えないものは目に見えるものより上だというあり方を言う。だが理は只、気の上に只佇むのだ。すべてのものが先なるものではない。すべてのものが後なるものでもない。そして先なるものでも後なるものでもないものは何もない。存在するから等しいのだ



Finnegans wake 

What true feeling for their hayair with what strawing voice of false jiccup

「嘘のしゃっくり藁声で干し草髪を撫でるなんてこころのなかのまこと! 」


(ジョイスは聖書の話を利用して文を作っているようだ。老いて目の見えなくなった父イサクがエサウに鹿肉をもとめたとき、ヤコブは山羊皮をかぶり父に鹿肉をもっていった。父は「声はヤコブだが、手はエサウだ」と言い、エサウのつもりでもヤコブに祝福を与えたという。リフィー川の流れを髪と言っている?アナ・リビア・プルーラベルAnna Livia Plurabelle の髪?)


I try to pick up the hot potato of the Japanese link with Te’no (Emperor )fascism. The hot potato turns out total subordination in the Arahitogami (the living god). The potato never deify the other because it deifies itself (a sort of noesis structure without object)


「女はいらない、女は喋りすぎだ」と言うやつは結局「女」を必要としているのさ。「女は生かしてくれるが、ほったらかしにする」とヒモになったゴダールのように呟くだけにしておけ


“本の目次”で読み解く思想史


実存主義からポスト構造主義へ、ポストコロニアリニズミからポストモダンにおける民主化のあり方を問う新しい思想へー


1、左はサルトル存在と無』(1943)の目次

第二章は、「対自存在」

実存主義の思想


2、右上はドゥルーズ『差異と反復』(1968)の目次

第一章は「即自における差異」(それ自身における差異)、第二章は「対自における反復」(それ自身へ向かう反復)

ドゥルーズサルトル存在と無』の「存在」を「差異」におきかえた。

後期近代のフーコ『言葉と物』(1966)から確立するポスト構造主義の思想


3、右中はネグリAntonio “Toni” Negri “ Traversées de l’Empire”(2011) の目次


ポスト構造主義とポストコロニアリニズミムから、「帝国」としてのグローバル資本主義の問題を問う


4、右下は子安宣邦氏『帝国か民主かー中国と東アジア問題』(2015 社会評論社) の目次

ポストモダンにおける民主主義のあり方を問う


•海外に出たら、フェミニズムラカン精神分析とポストコロニアリズムを勉強させられる。そこでサイードスピヴァクを読んだおかげで帰ってきてポストモダン孔子を学ぶことになった


マルクス主義では近代化を経ない脱近代はあり得ないが、アジアの現実は近代化せずに脱近代している。問題は近代化ではなく、脱近代において集中した権力を分散する民主化ではないか。


•失われた経験の全体の意味を自立的に奪回する差異の多元主義に向かって、ロゴス=言語的存在としての人(人間)がいかに存在する意味を考えるのかという形而上学の問題が無くなってしまわないように。要請されるグローバルデモクラシー




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柄谷行人『世界史の構造』(2010岩波書店)と英訳’the structure of world history’.


•『世界史の構造』はアジア知識人に、後期近代における『資本論』の読み方を教える。もはや近代における『資本論』の伝統的な読み方ー絶えずヨーロッパとのギャップに思い悩まされるーは問題となっていない。伝統的なマルクス主義では近代化を経ない脱近代はあり得ないが、アジアの現実は近代化せずに脱近代している。良い悪いを別として、アジアの関心は、近代化についてではなく、脱近代についてである。そうして柄谷は希望を以て(?)、帝国から自立する徳川日本のあり方ー時間の束ーをポストモダン的に分析できた。中国は溝口と柄谷によって今まで全く知られていなかった理論から再構成される。しかしその中国の発明が画期的だとしても、問題となっているのは、脱近代において集中した権力を分散する民主化ではないだろうか。


なりふり構わずに奪ってきた五輪に、失われた経験の全体の意味を奪回できると思っていただけに、高笑いする右翼大臣にもう自殺したくなるが、その前に自分と自民党にNoを示そう


東京五輪などの開発と経済と同化はどんどんすすむのに、全然ものが言えるようにならない女性たちは自由に喋らせてくれと怒っている!


「生民之本尽」とは、易に曰く、「天地の大徳を生と曰ふ」と。「民」は人なり。経に曰く、「天地の性は、人、貴しとなす」と。ゆえに生民と曰ふ。「生民」は、なを生活活発の人と言はんがごとし。「本」は根底なる。人の孝徳ある、なを木の根底あるがごとし。ゆえに孝をもって生民の本となす。「民」はその極に至りてしかうして遺すことなきにの謂ひ、「性を尽くす」の「尽」と同じ。ー中江藤樹


何でもかんでもカネがものを言う日本。イスラム国の国際デビューの機会を奪った東京五輪の値段は7000億円から3兆円に。世界の多数派である貧国の五輪開催の未来を潰す犯罪だ


だけどもし安倍が会長になったら?伝染病を克服した勝利、死者を祀るような全く新しい天皇ナショナリズムを支える新靖国神社としての東京五輪がまさか現れたりして Oh コワッ


エエエエエエ!!!?森は会長を辞めたことはやめたが、代わりに、川淵と安倍を利用して院体制を確立しちゃったような権力を持ったまま、自由の身になったのではあるまいか..


アメリカは現実を超えている。トランプ氏の弾劾裁判が開始、米上院は裁判を合憲と判断。映画もトランプみたいな怪物は出てこない。今の時代は映画を観ていたほうが安心である(笑)


12年間のあいだに非連続的陥没があった。ダブリンからロンドンへ、神々のジョイスホメーロス世界の詩から、現代アート的クセノファネス世界の詩へいった。If horses could draw, they would draw their gods like horses。平面が折り重なるようにヨーロッパの周辺からアジアの周辺に戻ってきてしまったが、わたしが戻ってきたところはまだ明治がはじまっていない。中江藤樹の「孝」の教説と<孝子伝>との間にとどまる。「民は人なり」という。だがそれは人間という意味ではない。毎朝起きたらわたしは馬だ。「生民」となるためには、天地の大徳としての生生的あり方を己の性としなくてはならない。あなたは存在しているかと問うわたしは詩をひとつ描く\書く。そうして投射された馬の影像から離れて朱子プラトン世界に向かって行く

リーマンショックの年だったかな、詩の話をしたので頭がおかしいとはおもっていなかったみたいだったけれど、本しか読まない私が世を棄てていると呆れていたナイジェリア人が、ある日、チェーン店カフェに入ってきて、「おい、坂道の教会があるだろう、あそこのシスター達はおまえを聖人だと言ってこのところ毎日拝んでいるんだそうだ」と驚愕していた(笑)


推敲中
六十八年パリ革命は植民地主義的西欧中心主義的の普遍主義の傘に穴を開けた。が、十分な数ではなかった。思想史は語る。「公の空間」を縮小していくネオリベグローバリズムの貨幣と中央銀行を取り囲む運動が起きてきたのは、それまで「公の空間」からも「私の空間」からも疎外されてきた人びとであった

A robustly just society is where the members , when acting self-consciously within rational and private norms - never adequately possible see freedoms not as ends but absolute means to protect their transgression, which is also their exercise.
Gayatri Chakravorty Spivak

議会に乱入したトランプ支持者達の中には「改心」するものもいるらしい。多分奥に入り過ぎたのだろう。近代が根づく深さは貧しい。開かれた全体をみる位置は内部の中には存在しない

思想史は深入りしない。どの要素(自然)とどの要素(人間)を交換したらカントのゲームの規則デカルトゲームの規則になるか考える。すると固有名とは何だという問いが出てくる

構造にも、構造と構造の関係にも還元され得ないような、固有名の名は、開かれているという意味で、開かれた全体をみる位置が内部の中には存在しないように、外部の思考を可能にする

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推敲名
‪「日本」という単一の「傘」に多数の穴をあけること、「ひとつの日本」「ひとつの日本語」をできるだけ相対化していくこと、生きるために。1968年は重要な契機だった。だが、現在、現実にこれほど隙間なく国家の構造に取り囲まれてしまっていては再び占拠できる空間を見いだすのが難しい。しかし別の次元で介入できる余白がまだあるかもしれない。つまり時間の占拠のことである。1960年代から学生と市民の視点から近代が問われることになったのである。過去の言説を批判的に読み解く形で、国家が自らのアイデンテイテイーとして隙間なくはりめぐらす言説体系の「傘」に穴をあけていくこと。生きるために、意味を作り出すために。同じであることはあり得ない、絶えず変化していくということを示すこと。そうして脱出する穴を言説の網目にあけるというのは、もちろん簡単ではない。ひとりで取り組むことなんて不可能だ。だがここに、近世の思想を構成する徂徠学を読む意義があるのではないかと段々気がついてきたのである。私はかんがえている。徂徠もこれと同じことをかんがえていたのではないだろうかと。彼がそこにはいりそこから出ようとしという意味において依拠しようとした過去は、ほかならない、朱子であり仁斎、そして二人がはじめて言い出した言説であったのだ。‬子安宣邦氏の評釈の抜き出しと訳を示しておこう。「『世は言を載せて以って移る』と徂徠はいう。時代の変化とは、物言いの変化、言説の変化である。」「徂徠が『豪傑の人』と評するのは、朱子であり、伊藤仁斎である。朱子も仁斎も徂徠にとって批判的克服の対象であるが、しかし彼らが傑出した才能をもって、儒学とその言説を一変させた人物であることをみとめるのである。豪傑の士とは、世に英雄として対し己において聖人の道を担おうとするものである。学とその言説が一変するのは彼らによってである。」

世界記録を持っていたが自費でギリシャへ行けと言われて断念した日本語学習者のアイルランド大学生を思い出した。金持ち国の社交クラブ「五輪」にそれほどみんなが参加してはいない

ポストコロニアル世界のワールドカップは参加国の数という点で近代主義の五輪より普遍性がある。新しい政治?ナショナルチームのどの選手もそれほど母国を代表しているのか不透明だ

ちょっと思ったことがあるのだけれど、女性蔑視について大企業は「われわれの価値観とちがう」というが、ほかのことは日本会議の森の考え方とおなじなのだろうか?よくカネが出せるな

日本会議はおかしいがアベノミクスは正しいと説く大企業的人間の安倍支持のお喋りは、10%しか知らないのにみんなを代表すると思う日本会議の根源的誤認にそっくりで恥ずかしい

錬金術Europasianisedは告げるーヨーロッパEuropeとアジアAsiaを混ぜよと。我ら自身に拘るケチな一国知では豊穣なポタージュスープを制作できない

大坂なおみさんは暴行を受けた死者の名を記したマスクをつけてコートに現れたのは事件だった。世界は多様性の象徴となった彼女の意見を聞きたい。「(森は)考えが足りない」と言う

3兆円を福島のために使えなかったのかとおもうのはわたしだけだろうか

保守は、マイノリティを差別する自民族中心主義で戦争責任を考えない近代を否定しなければいけない。しかし近代に対抗しているだけの森と川渕は保守伝統でなくて開発•戦争•同化主義

知識人とは、教える親がいなかったから(いたとしても) 正しいことは全部本を読んで知った理念的孤児。帝国官僚合理主義からの自立、武士社会に依存しない中江藤樹は知識人だと思う

中江藤樹は、「俺も親孝行だったが」と近代人に称えられるような模範的な親孝行をしていない。己の感性的世界から脱して他性へ行く脱自的な、聖人と呼ばれることになった異常な親孝養だ


推敲中‪‪‪

「弁名」ノート‬ 

‪未来を思いだすということは、書記言語的に書かれている過去を参照することによって現在のあり方〜未来の生き方にかかわるーに距離をおく批判精神に存する。それが批判的方法であるとすれば、現在の枠組みのなかで翻訳的に等価物をさがすことは批判的方法ではないだろう。現在の投射から、現在のスクリーンに向かって、過去に失われてしまった不可能な名と物を指示することは、恣意的な分節化と言わざるを得ない。完全にみえる「理」の存在論的言説によっても、過去との連続性は回復することはあり得ない。だからこそ、「弁名」という、言語・言説の古今の変化の認識に立った徂徠学という「先王の道」の古学の思想方法論が必要なのであるという。

ポストモダン遊牧民の場合は動かないんだな。いかに脱出するかを戦略を練っている。動いてしまったら外に出ることを考えない。あえて動かずに外部から考える。まあ、ウロウロウヨウヨ、ガイガイワイワイとやっている多孔ポストモダンモナドにとって、ポストモダン<一>神教は多元主義のこと。脱近代の時代に考えられたこうしたものは、わからないが、ポストモダン的に読まれるような、明治国家(公)に囲まれることがない天における清沢の精神主義朱子が『論語』の彼方側にみた絶対無限に関係があるんじゃないかしら

カイバード「神話的リアリズム」論の言説

アイルランド時代に宮田恭子先生が雑誌「すばる」のために翻訳したこの論文をもってダブリンにいらっしゃった。政治に言及しているので政治嫌いな先生はそれほど気乗りしなかったとおっしゃっていた。だけれど注目されていた本(“Inventing Ireland “)のなかにはいっている注目された論文である。ほかに、ポストコロニアリズム的視野からアイルランドのオスカーワイルドのアナーキズムを論じたものが中々面白い。カイバードはわたしが日本語を教える仕事を手伝わせていただいた大学にいた。何回か講義をきいたことがあった。”反アイルランド”にきこえる彼の言説に怒ったIRAが大学の聴衆者のなかにいるとも言われていた。カイバードは『ユリシーズ』の解説を書いている。ヨーロッパ周辺は、ヨーロッパ中心主義を批判したデリダの脱構造主義の成果をみとめたうえで、それが再び「普遍主義」を表象しているからか段々喋れなくなってきたことの問題を考えなければならない


哲学は、「我考える、故に我存在する」といわれているような関係とか差異を考えるための書かれる言葉に近い(下の二つの絵)。絵は話される言葉に近い。今日デカルトが生きていたらデカルトが警戒した誤認(偏見や結論を急ぐこと)は、哲学を、コミュニケーションのための話される言葉で考えるときに起きること。話される言葉がわるいと言っているのではない。世の中は何というか、「われわれ自身」にこだわる起源の観念に向かって音声中心主義の話される言葉で溢れていること、これが問題だ。一所懸命考えて構築した物の見方なのに、理解しようとせず(書かれた言葉にたいして)、「みんな」を代表しているような立場から一言で簡単に否定してしまうような小さなトランプ達との苦痛な出会いを避けることが難しいのである。しかしわたしは彼らみたいにトランプにならないようにするためにこれらの絵を思い出すことにしよう

推敲中

‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 8. ( 私の文学的フットノート)

‪‪知が自己に向かって関係をとっていく折り目のなかでの、仁斎との重なり合い、そこに包摂されない余白、朱子との切断。覆いきれない、名も物も失われた痕跡。再定義を止めたとき、痕跡の彼方に再び現れる痕跡。外部のテキストへ出ること。‬

‪聖人の制作になる諸名辞の‬
‪なんと大きいことよ‬
儒教言説で読み解く世界の‬
‪なんと小さいこと‬

1990年代に、アイルランドのようなヨーロッパ周辺の知識人たちは、デリダが考えていたジョイスユリシーズ』の読み直しが起きたときに、 世界標準の<公的な>経書解釈的言説になっていったデリダエクリチュール論に批判的視線を注いだ。身体の表象において成り立つ女性の独白の重要性が再発見された。外部からの侵入で損傷した共同体の身体の表象としての女性の声である。たしかに共同体の身体の表象については近代が十分に考えてこなかった。そんなものは前近代的なものか、オリエンタリズムではないかと。新しい議論が起きようとしているが、問題となったのは声である。この問題をジョイスのテクストに沿って他者の問題を考えた知識人たちは、声は書かれた言葉ほどの他者性をもっているのかと反発するデリダ派からの非難を受けた。書かれた言葉は存在するのは、未知の他者が読むことを前提にして存在しているということ。他方で語られる言葉ー声ーは目の前の他者とのコミュニケーションとしてある。アルトーの詩やベケットの小説がそうだとおもうが、文学の声は、コミュニケーションの意思の不在を示すことによって、そこにそれまでなかったコミュニケーションと関わるあり方を抽象的に考える。これが語られる言葉が絵画に近いと言われる理由かもしれない。現代美術館を訪れた者は絵画を読み解くだけではない。絵画とコミュニケーションをとることがもとめられていて、一人ひとりが自分の規則を発明しなければならない。文学である語られる言葉とともに「だれでもないわたし」ー「一時逗留者」ーが即自的な身体の表象とともに成り立ってくるということだろうか。宇宙の鏡の劇場と称えられる言語革命の『フィネガンズウエイク』に、ジョイスは自己の文学を、女と逃げた、自分で決めた亡命と名づけて大きな確信をもって書いた一文がある。ほんとうは確信がまったくなかった「だれでもないわたし」の痕跡を残してしまったのである。

思考も、人びとが政治的自由の中に生きているところでは、まだ可能であり、疑いもなく現存している。
ーハンナ•アーレント『人間の条件』

ヨーロッパの周辺へ行って、宇宙の鏡の劇場である本の存在を知った。アジアの周辺に来て、聖人の命名制作になる「道」とはこの人間世界と等しい大きさをもった概念だと知りつつある

たしかに、記録に挑戦している選手たちのことをかんがえる。しかし彼らには世界大会があるではないか。世界大会は、「勇気を出して、参加しよう」などとは言わないのである。オリンピックの「勇気を出して、オリンピックに参加しよう」という言説で、「心をひとつ」の世界が表象されている。戦前と同じことは起きずとも、生活の隅々まで監視しなければ「心をひとつ」にできず、これは安倍戦争法でなければ不可能。五輪を語っている文で、なんとなく、「心をひとつ」にする安倍戦争法を支持させられているのではないかと私は疑うのは、<ひとつ>が過剰に強調されているからである

国民の7人に1人がボランテイアに参加したといわれるアイルランドスペシャルオリンピックスU2が本会場の中心に招き入れたマンデラこそ、われわれの真の首相だとみんな拍手した

寸劇; 蕎麦屋「祖考」
客「変な名前の店だな。天ぷらそばでもいただこうか」
マスター「天祖そばのことですか?元々聖人ラーメンでしたが、明治維新150年のお祝いに、天祖そばと名づけました」
客「いいから..物をみせてくれ、作ってくれよ」
マスター「ですから、ほら、作りました」

‪ ‪あのキスのイメージが流通しているのはキスがないからだろう。キスというのは死者との接吻。実存論的な問いかえし

失われた時を求めて」は映画化されてきた。多分「失われた時を求めて」は「失われたもの」が無い。キスは至る所に存在するのだー自己の力がおよぶシーニュが至る所にあるように

美術館の廊下をブラブラしている。と、画布の裏側を描いた絵の前に立ち止まる。画布の裏側が表象をささえる絵に折り重なっている。バタイユの言葉をおもう。この宇宙の全体は、外部である、見られる客体として与えられる。それと同時に、内部である、見る主体として与えられる

(『ラス・メニーナス』はピカソによって再構成されている。沢山の作品がある。ピカソは仮面に大きな関心をもっていて、『ラス・メニーナス』の絵それ自身は仮面だったのではないかとする解釈もある。仮面は外部から受ける損傷に対して、共同体が住処とする身体をまもっているのだろうか?)

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It is quite conceivable that the modern age ーwhich began with such an unprecedented and promising outburst of human activity ーmay end in the deadliest , most sterile passivity history has ever known .  ーHannah Arendt , The human condition 1958

近代は、歴史上最も不活発で、最も不毛な受身の状態のままで終わるかもしれない。
ハンナ・アーレント『人間の条件』

資本論』について最初に言わなくてはならないのは19世紀を分析したこの本は「資本論」が無い。20世紀の「資本論」は森嶋の経済数学のなかにある。彼は21世紀イギリスが無い

帝国主義(大英帝国)の時代はイギリスは他国の宗教と言語を抑圧した。戦争が終わったときは、イギリスは米国に行ってカネをくれと言う乞食になった。だけれど国際放送と人権に基づく外交、金融と教育の国として確立することができた。英国はドイツと比べてケインズ主義的社会民主主義に乗り遅れたが、ピケティーが分析している通りにある期間のヨーロッパの繁栄と共にあった。宗教と言語を重んじる多文化主義EUがモデルだったことも事実だ。新しい普遍主義を確立したいが、Brexitを推進した連中は大英帝国のノスタルジーを隠さない。イギリスは戦争の勝者である、なのに勝者のわれわれが(敗者だった)大陸に従うのは恥ではないか、だから英国はわれら自身の道へ真っ直ぐに進もう、これからは米国と中国を新しいパートナーにしよう、と、おもっている。そうしてイギリスはヨーロッパのイギリスを捨てようとしている。しかしそうするとだれが戦後におけるイギリスの役割を引き受けるのだろうか。アメリカとみられている。実際にオバマは軍事大国アメリカから外交大国アメリカへシフトしようとした。だがトランプが復活したら(結局弾劾もできずその可能性を否定できなくなったか?)、孤立の道に行くかもしれない。1970年代に多極化の多元主義の時代のことが言われたが、現在のような帝国の時代に生きることを予想できただろうか。現在楽観しているものはだれもいない。「思考も、人びとが政治的自由の中に生きているところでは、まだ可能であり、疑いもなく現存している」とハンナ•アーレントは言っていた。しかしアジアは開発と戦争と同化はどんどん進むが、政治的自由は進まないではないか。思考は不可能である。思考を辞めた代表選手が自民党日本である。帝国はグローバル資本主義の分割でありそれぞれの帝国(米•中•露・拡大EU)では経済と文化がものをいうが、もはや帝国か帝国主義かわからなくなっている事実があるとジジェクの警告の言葉が大変気になりはじめた。たしかにマイノリティーの宗教と言語が殺戮されている国もある

至高なものに
祀る神は祀られる神であるような
神聖さはない。
至高なものは言語をつくった。
出会ったことがない他者に向かって
書く文は、外部である、
見られる客体として与えられる。
それと同時に、内部である、
見る主体として与えられる