書くこと 200ー300

201 映像はリズムをもっている。組み合わせることによって、早くて強いものがあるが、遅くてずっと記憶にとどまるものもある。音を見せてくれる楽譜なんじゃないかとおもう

202 日本の伝統とは、学と道徳の両立を自分のものにした江戸時代にある。明治は新たに美と倫理の両立を確立しようとしたか。岡倉天心の講義にきたのは、和辻哲郎大川周明九鬼周造

203 明治は美と倫理の両立の確立を目指したが何を失ったか。大正から、学と道徳の両立を可能にした漢文を読めなくなった。三木清マルクス主義を消した。美は国民倫理を得ても仕方ない

204 日本化とアメリカ化は美意識を殺戮している。英国は美意識がない。国民が共有する美意識は階級的アイデンティティに根ざしてはいけない。だがあまり言うと全体主義っぽくていけない。

205 日本は権力集中を解体しようとするものがマイノリティを排するファショ的な人物と政党しか出てこないが、ファシズムが拘りを示す美意識がなくて(間違った)コストの計算ばかりしている

206 和辻哲郎はヨーロッパ大好きの代表選手、竹内好はアジア大好き代表選手である。渡辺一民はそう教えてくれた。父は戦前に和辻に憧れていた。修学旅行から帰って亀井勝一朗の仏像論を読んでいた私を幼稚だと愚弄してきた。たかが鑑賞の話。「何だ、これは?」と、亀井にたいする否定の感情に当惑した。『古寺巡礼』を読めという。これは美に対する考え方の違いによるものなのかとずっと思っていたが、そういうことではなくて、アメリカには謝らなくていいが中国に謝れという考えに反発していたのではないかと思うようになった


207 書くことは並べること。世界は見えない物が占拠している白紙の本。目に見えず耳に聴こえす洋々とするもの。消滅しまう前に還ってくるもの。忙しくて祀られずに地にうちすてられたもの。名づけて国家を制作するもの。可畏きもの。共同体がある限り還ってくるもの。此方から見える、彼方ー近くに留まるもの


208 書くことは並べること。コスモロジーは理と気で成り立つ。「理は即ち性」。性は生まれつきの心の方向ではない。天が地上のすべての人に人が人としてある命令を与える。之が性である


209 書くことは並べること。コスモロジーは理と気で成り立つ。問題は二つのものをいかに秩序づけるかである。朱子は「理先気後」と考えた。四書はバベルの災厄である


210 書くことは並べること。理と気の差異性を保つことが大切である。差異性を気質の清濁にしてしまうのは危険である。理と気の差異性を保つことができないから


211 理と気の差異性を保つためにはどうすればよいか。「理は只、気の上に泊まる」と考えたらどうか。上下の差異化。形なきものが上(形而上学)、形あるものは下(形而下学)


212 「理先気後」と言っても、われわれの知識はまずこの気の世界の体験から形成されると強調する朱子学は、出自をもつ「只是れ箇の浄潔空潤底の世界」というような仏教色を払底できるか


213 その正体は大英帝国が作った「高台」なのだけれど、現在も旅行者の視点でしかない残滓を有り難くおもうのは、帝国主義の視点を消費しているんだよな


214 ダブリンで、フリールの移民をテーマとした芝居を囚人たちが演じるというので観に行った。観客ならば誰でも入れた監獄の舞台で主人公が父と別の部屋にいる心の中の父と対話していた


215 

顔を支えるものは顔の下にある絵画=仮面

フリールの芝居(Dancing at Lughnasa)は、映画化されたが、人々が冷戦の時代のラジオを聞いている場面がある。現在はタブーとなっているが、アイルランドがコリアと同一化していた時代があったらしい。このことを伝えている。こういうことを知ると、起源とはなんだろうか、あらためて考える。歴史のことを書くと、独立アイルランドの教育は教会が掌握した。作品の検閲が始まる。そして普遍宗教の地域化、これが排除されることになった。他所からきた異教なものは禁じられた。フリールの芝居は、異教なものに関わって、仕事を失う危険があった女性が主人公である。おじさんだったか、アフリカから帰ってきたこの人物がやっている異教の儀式なんかはめちゃくちゃヤバイのである。しかしどうも彼はアフリカがアイルランドの起源だと思っている感じである。起源の同一性を脱構築するようなこの見方をただの神秘主義と評していいのか?芝居を観たとき、人間というのは顔の下に仮面があることをわたしは考えた。他所と繋がることができるのはこの仮面のおかげではないかと。国家はこれをおそれるのである。ベラスケス『ラス・メニーナス』、この絵画そのものが仮面であると考えるアーチストたちがダブリンにいた。絵画=仮面は顔の下にある。裏側にあるものは表に見えている。クローズアップした顔は炸裂している

216 ナチスがどうしてあれほど表現主義を畏れていたかわからないが、芸術の仲間たちはこれを明らかにしたのではないか。絵画=仮面は顔の下にある、そして他所と繋がることができるのは裏側にあるものが表に見えているこの仮面のおかげである、そうして起源であるクローズアップした顔は炸裂している。

217 書くことは交錯superimpositionである。アジア思想史は、分割の仕方だけでなく、相互作用と反発をもつ「思想的交錯の実際」(子安先生)を考える。

218  自然の中に隠棲しなかった孔子の<世界ー内部的亡命>は、仁斎における日常の卑近の思想とともに、新天下主義的国家の無媒介的声から自立している媒介的エクリチュールの意義または目に見えない他者が介入してくる文の意義として再構成できるのではないか。これは世界哲学史である。


219 内部的亡命がない国のわれわれは、ジョイスの「自分で決めた亡命」は自然-内-隠棲か内部的亡命か、RとLの音の区別がつかないように、区別できない。ヨーロッパは『フィネガンズ・ウェイク』は、翻訳の問題を解決できない読めない迷宮でも、ヨーロッパの中で行った市民権のない抗議する内部的亡命であることをはっきり知っている。エドワード・サイードがダブリンに来てこのジョイスについて語るはずだったが、死んでしまったのが残念。サイードならばどう言うのだろうか。わたしもしっかり理解できていないが、ジョイスの場合は前衛作家の政治的亡命のようには政治的に迫害されてはいなかった。仕事をもとめて貧しい国を出た移民の移動だったが、移民は母国の政治を文学を通じて批判することはないだろう。「自分で決めた亡命」は曖昧な概念であるが、この国ではやっていけないのだという明確なイメージをもっている。内部的亡命についてわれわれは国外に逃げなくてもこの国ではやっていけないのではないかと感じはじめたのは原発災害から。政治に信がない。


220 世界は必ずしも両立しない前半と後半とがある。天皇の反民主主義の前半も好き、戦後の民主主義の後半も好きな「変な人間」を作りだしたのが昭和である。別の「変なもの」でありたい

221 産業革命があった国は世界の少数派です。世界の多数派は、産業革命が無かった、あっても、20世紀のかなり後半にやっと実現したような国たちなんですね。産業革命と民族資本の形成を不可能にしたのが帝国主義です。さて産業革命とは、物の見方を変えただけで、人間の精神に何か影響を与えたのでしょうか。イギリスのような産業革命が起きなかったけれど、フランスで政治革命が起き、ドイツでは思想革命が起きましたね(おかげで、反時代的に、いま、ここで、人間の精神なんかについて考えています)。進んでいたイギリスは自慢の言論の自由はあるのですが、政治革命と思想革命と結びついていないので、情熱のない言論の自由の様相を呈しています。それでも、ポスト大英帝国のイギリスを支えるのは人権と結びついた国際報道であるとはっきり考えています。アジアのほうを見渡すと、この150年間、産業革命があって、経済と技術、マネーがどんどんすすみますが、人間の精神を支える言論の自由の方向性をもった政治革命が起きてきませんね。どうしてなのでしょうか?政治革命が起きないこのことを考えると、日本の近代は、良い悪いはべつとして、復古主義による近代化しかなかったとおもうのですが、しかしこれからは、“明治に帰れ”とは別のあり方を考える必要があるとおもうのです。何かこの国の衰退を恐れるひとがたちが出てきているようですが、戦争と開発と同化主義はどんどんすすんでいくのに、精神的に価値のあるものを作って行けるのか、むしろこのことをわたしは恐れています

222 書くことは並べること。「経書」的世界の字を並べよう。「性即理」と構築的に理念化すると高すぎる。仁斎は彼が立つ大地に並べる。人あっての道と天下に達する道。と..と..

223 書くことは並べること。アルバムの写真を並べるときでも、何か失っても何かを得るという感じで理念化すると並べるのが難しくなる。失ったら失うことができるとするのが脱構築である


224 書くとは、絶えず「あらためて」還るものに与えられた名ではないか。言語的存在である人間が存在の意味を考えるとき、要請でも排除でもなく迂回でもない、精神が白紙の本に与える懐疑的差異の線である


225 世界は「人類」か、「国民」か?高すぎてよそよそしい「人類」と「国民」の理念は民族主義の「みんな」を呼び出してしまう。原初的過去から呼び出された。だが「みんな」「みんな」と言っているうちに「人類」になったフランス革命の時代は民族主義が平等を実現できた。しかし現代のアベ政治の「みんな」は平等をもたらさない。国民の中の格差を広げているだけだ

226 世界は民主主義か反民主主義か。ベートーベンも、称えた民主主義が反民主主義と気がついて葬送行進曲にした。フランスは100-150年要した民主主義の達成をドイツはワイマールの凝縮された10年間でやった結果、ナチズムの混乱が起きたとみる考えもある。それでもヨーロッパはルネッサンスから500年の歴史がある。日本は西欧化が150年早くて民主主義を考える時間があったが、戦前は天皇主権のもとで民主主義が可能だと考えている有り様だ。未だ民主化30年のアジアは反民主主義を民主主義と考え、民主主義を反民主主義と考えている。世界は近代の終焉とともに、新しい普遍主義を多元主義の方向において再構成しようとしている。これは民主主義の成熟を為すものだろうが、国家は世界に多元主義を求める以上自ら多元化する必要がある。世界に向かって多元主義を求めながら自ら多元化しないような国家は反民主主義の帝国になるだけだ。


227 世界は奪われた言語も奪われた文化も、失った物を取り戻すことができない。しかし「万物が君への愛ゆえに時と戦うのなら僕も時が奪ったものを君に添え直そう」(シェイクスピア)。


228 世界は失った物を取り戻すことができない。その名の意味を灰色に灰色に重ねるように解釈するだけ。しかし言語の外に「物」を見いだす徂徠にとって「六経はその物なり」


229 世界は失った物を取り戻せない。21世紀は物(映画)の名も思いだされない。解釈の言説はバベルの災厄。映画の言語の外に「物」を見いだすゴダールにとって文学はその物である

230 世界は還るもの。物で書かれる還るものがあった。物の形が亡くなったときは、名があるだけで、物を取り戻すことはできないのは、死に切った過去が蘇らないこととおなじである。だけど言語の外に「物」を見いだすジョイスにとって、ダンテの煉獄、シェークスピアの目覚めることのできない悪夢と亡霊(spirit)、ホーマーの地中海、旧約聖書イスラエルはその物である


231 わたしは還る、だから、わたしはいつもこころもちさがったところにいる


232 ポスト構造主義的には、映画史的言語において物の形を失ったものは、再び映画史的言語には無いのだ。映画史的言語の外に見出だされる。思想的言説の歴史を見渡す言語にその物がある


233 物の形を失ったものは再びプルーストの嫉妬のシーニュを織りなす言語に無い。その言語の外にその物が再び見出だされる。ケルト的妖精の反理性の言語に思い出されるのを待つ物がある


234 師弟関係の根底に、言語的支配があるのではないでしょうか。だから、実在していればの話ですが、親鸞は決して弟子をとらなかったそうです。言語的支配は「他力」ではないし、信を支えるものは言語的支配ではないからと考えたのかなと思います。講座『歎異抄の近代』で学んで考えたことです。似ている話だとおもうのですが、日本では死んだ思想家の思い出話をする未亡人みたいな人が多いですね。だけれど死んだ思想家の弟子になるのは難しいのです、それはそうですね、証拠が無いですから。平田篤胤宣長の死後の弟子ですが絵師に夢の中で宣長の生前の弟子となった様子を描かせる必要がありました。さて死んだ思想家の弟子になるのが無理ならば、思想家の「未亡人」とかになって発言力をもつことができます。思想家は死からは自立した存在だとおもうのですが。思想家に関しては死んだことを前提にして話す必要がありませんのに。死んだ思想家の「弟子」とか「未亡人」とかになって発言力をもつひとは、もしかしたら死の文化を為すものかもしれませんが、ちょっとわたしは苦手ですね。なぜそうあるのかその理由と言えば、わかりませんが、学的な枠組みを取り払って自由に何か別のことを言おうとするのかもしれませんが、結局何でもかんでも喋ることになるのです。そこに、そのひとたちの「死」を媒介とした党派的な支配の欲望と精神の隷属がどうしてもみえてしまうのです。世界というのは二人以上で成り立つ限りにおいて党派的なものしかないのかもしれませんが

235 クリスマスのこの時期は、ハリウッド映画の聖書物語が流れてくる。全員アメリカ人が演じている出エジプトなんかみてしまった。フロイトのことをおもう。フロイトアイデンティティの関心は、ヨーロッパ人としてのルネッサンスコスモポリタン的ダビテ像 (ミケランジェロ)への同化にあった。だがフロイトはナチズムの台頭でウイーンからロンドンに亡命しなければいけなくなる。娘は父がショックを受けないようにとウイーンの家とまったく同じにしたらしい。その彼の家は現在博物館になっている。わたしはよくここに来た。フロイトアイデンティティの関心がヨーロッパの外に向かって行く時代に、『モーゼと一神教』を書く。フロイトの説では、モーゼはヘブライ語を話さないエジプト人だった。多分モーゼは出エジプトのときに殺された。彼を内面化したユダヤ共同体が成立した。乱暴にポイントを書いたが、これは何か精神分析的鬼神論と等価のものか?わからないが、フロイトにおいて思想的言説の転換があったのである。その点について、イードユダヤ人について語るのは苦痛だと前置きして、無神論から精神分析的有鬼論への言説的転換は政治によるものであるとみる。ひとつのアイデンティティは実体がないのだ

236 映画における感化の運動を表現しなければいけないが、しかし問題は、プラトン的に構成してみると、表現するまえに感化の運動が消えてしまうこと。そうならば、これはデモの場合とおなじではないか。特に現代の非暴力の自発的に集まってくるデモは、事件性を名づけるような思想が形成されないと、持続することが難しい。<ウォール街を占拠せよ>の先駆を為したロンドンG20開催抗議デモはどういう思想を形成しているのかわたしはよくわかっていない。反(脱)原発デモと反安倍戦争法デモを契機に成立した政党は現在、新しい経験をもちながらも、それを表現するための思考が決定的に足りないという思想不足の問題に直面しているようにみえるが、どうなんだろうか

237 民主主義があろうとなかろうと経済は発展する。経済発展しても言論の自由がない。国が奪われても国を取り戻しても関係なく、精神的に価値のあるものが生まれなければやっていけない


238 

思想史的交錯としての鬼神論のデイスクールの配置


子安宣邦氏は、

「「第二江戸思想史講義」では朱子学をただ日本近代思想の成立にとっての否定的な思想体系としてのみ見るのではなく、東アジアに成立した唯一の普遍的な思想体系として見ることから、あらためて日本の近世・近代思想の読み直しを考えるものです。」と語ってきた。

あらためて」とはいかなる意味だろうか?


『江戸思想史講義』は「江戸時代講義第一」を為すが、朱子学をただ日本近代思想の成立にとっての否定的な思想体系としてのみ見」たかもしれない。それを「あらためて」考えなおすと言うのである。

『江戸思想史講義』の思想家の言説を並べた目次をみる。


中江藤樹の「孝」

山崎闇斎の「敬」

伊藤仁斎の「天命」

三宅尚斎の「鬼神」

荻生徂徠の「礼楽」

中井履軒の「儒者

賀茂馬淵の「真心」

本居宣長の「物哀」


『江戸思想史講義第一』の八つの点が線を作るのではなく、逆に、『江戸思想史講義第ニ』における線のほうが帝国知から脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てている。『江戸思想史講義第ニ』はアジアで唯一の形而上学を作った朱子近代主義朱子学から守る。無鬼論にみえる朱子は「鬼神」をどう読んだか、徂徠は「鬼神」をどう読んだか、「あらためて」このことを問うた『江戸思想史講義第ニ』において鬼神をめぐる思想的言説の線が引かれた。


吉川幸次郎は『論語』先進編「鬼神に事えんことを問う」章の評釈の言葉も中で朱子無神論者としながら日本近世思想史を俯瞰するようなことを言う。これについて子安氏はいう。「私が朱子の鬼神論的世界を知る前であったらこの吉川の朱子を「無神論者」とする論定に驚くことなく、「無神論者」朱子を前提にして辿られる日本近世の「無神論者」仁斎とそれに対立する「有神論者」徂徠とそして宣長に辿られる思想史的系譜の記述を喜んで受け入れたであろう。だが朱子の鬼神論的世界を『朱子語類』の自分なりの解読によって辿ってきた私は朱子を直ちに「無神論者」とすることに抵抗を感じる。」子安氏は近代合理性のいわば透明な言語となったその自明性を問題とする。

「有神論者」か「無神論者」かの二項対立を逃れて第三項を書くことは可能か。以下は、子安氏の説明を参考にしてわたしが作った鬼神のデイスクールをめぐる表(タブロー)である。これが第三項を構成するとわたしは考える。


朱子の<理気二元論的無鬼論>(しかしそれほど無鬼論か?)

荻生徂徠の<制作学的有鬼論>

本居宣長の<国学的有鬼論>

平田篤胤の<民情論的有鬼論>

柳田邦男<民俗学的有鬼論>(先祖の話)


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19世紀の異端的な平田篤胤は、18世紀の正統的な学者の議論(宣長と徂徠)というよりは、救済を望む民衆(彼のパトロンたちを含む)の話を取り入れる形の思想的主張である。平田は、言説的<と>を外部化する他者である。

鬼神論の言説について書くとは、包むもの、絶えず「あらためて」還るものに与えられた名ではないか。言語的存在である人間が存在の意味を考えるとき、近世的要請でも近代的排除でもなく中世形而上学的迂回でもない、包む精神が白紙の本に与える<問い返す>懐疑精神の差異の線である。


『江戸思想講義』と「江戸思想史講義第二」、二つをどう関係づけるか。

アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えず耳に聞こえない鬼神とは何かを考えた。ただ形而上学は仏教の宇宙をも消滅させる無神論的思考を排するのが難しかった。そうして天を仰みたのは朱子学批判の古学。仁斎は人における天の主宰者としての道徳を考えた。しかし徂徠はそれを主観的だと批判。彼は聖人の命名による鬼神と国家の制作をはじめて語ることになった。この天皇制国家の青写真ー徂徠の国家に託した理論ーは後期水戸学に影響を与えていく。歴史は制作と再制作の反復である。


鬼神論の言説について書くことは並べること。世界は分節化できない生と死。思考の分割できる論理的順番として、ハンナ•アーレントハイデガーに先行する。先ず、遥か遠くからくる移民としての生を存在と書く。これによって此方からみえる向こう側がある。その後に、近(親)しい仲間から遠くへ行かないで再び還る「世界-内-存在(死)」を書くこと。アジアにおける、鬼神論的にある、本質なき再-分節化である。


『江戸思想史講義第ニ』は朱子というアジアの思想をわれわれに教えてくれるだけではない。アジア主義ヨーロッパに最高のものがあるが帝国主義の限界があると考えたことがなにであったかわたしはおもう。包むものは包むためには包まれるものを超えるものを自らもっていなければいけない。そうしてヨーロッパを超えようとしたアジア主義はだが、中国との戦争によって破綻した。理念における方法としてのアジアを再構成するとしたら、それはなにか?講座『江戸思想史講義第ニ』は『江戸思想講義』とともに、アジアがヨーロッパを包むものとしてあるとわたしは考える。


子安氏の鬼神論をめぐる言説的展開の考察は現代の中国の問題と向き合って進められていったものである。東アジアにおいて問題になってきたのは、他者の知り方である。他者は、われわれの自己否定が投射されたその他者の知り方に規定される。知の内部的矛盾のように、われわれと他者との間の衝突が起きてくる。

「上からの近代化」のシナリオと「下からの近代化」のシナリオの関係を考える。「上からの近代化」の失敗は「下からの近代化」が補うものとしてあるのか?「上からの近代化」の革命(明治維新)と「下からの近代化」の革命(明治維新から影響された辛亥革命)とが衝突した歴史について、われわれはどう語っているか。サルトルによると、エマ・ボヴァリーは自分が夫の形見になっていることに耐えられなかったように、中国は湖水(「江湖的中国観」)としてあるのに日本人には置き物(「金魚鉢的中国観」)としてしまったのではないか。つまり日本人の「金魚鉢的中国観」は自分たちに都合よく、過剰に、中国を、「上からの近代化」の失敗を補う「下からの近代化」とみる見方である。

目に見えて耳に聞こえるものは、世界から生と死の不透明性を奪ってしまってそれを返さないならば罪である。目に見えず耳に聞こえない鬼神を問うことは事件であり、鬼神論をめぐる言説の展開は贖いである。世界から不透明性を奪った問題を解決するために、再び言語の透明性に委ねることは倫理的に不可能である。朱子が語る鬼神論は言語を透明化した。しかし朱子の鬼神論は、弟子たちとの議論を通じて、理(ロゴス)の優越性を保つのはいいとして、死を第二義的問題とみなすような、世界から生と死とが一体にある不透明性を奪ってしまってはやっていけなくなることを隠さない。

21世紀に鬼神論の言説の配置は子安氏によっていかに語られるか?鬼神とはなにか?それは曖昧な観念を保っている。新しく獲得するために終わるというのではなく、失ったら失うことができること、目に見えず耳に聞こえないものをゆっくりと思考できるようにすること。鬼神論は、明確なイメージをもっているのではないかとおもう。

鬼神のディスクールの運動は、『中庸』を読み返す朱子から誰も言わなかったことが始まったが、仁斎でスローモーションになってついに止まった。荻生徂徠において再開する。本居宣長の新しい流れと合流したり、平田篤胤において切断が起きた。後期水戸学から時間反転がおきる。アジアを見渡しながら、柳田國男で消滅する。つまり線は、襞、折れ目、破片、展開と再包摂を超えていき、現代の中国からつきつけられる問題と向き合うながら、『江戸思想史講義第二』の精神において真っ直ぐに無限に至る。

アジア思想との思想史的交錯として鬼神論のデイスクールの配置を思考することができるのは、解体ー日本思想史のポストモダン孔子においてである。



239

中江兆民の民主主義の成立を国家に託した自由民権運動が挫折した後、幸徳秋水は何を考えたか?アジアの社会主義だといわれる。そうだろう。しかし単純ではない。ロシアの社会主義アナキズムを弾圧していた。幸徳と大杉は社会主義の言語の外に、失われた物を見出だそうとしたのではなかったか。阪神・淡路大震災以降小田実が語るだろう市民の言語にその物がある、というのがわれわれの構成である。それは、近代的思惟の欠如が問題にした、丸山真男におけるような戦前の講座派を包摂した市民社会ではない。小田の市民の思想は、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨしている、小さなものを表象している。提案すべきは、小さなものたちが行う再制作である。左翼のリベラル•エリートは天皇の話ばかりしているが、強力な共和主義を構築する必要があると考えるわれわれはそんな暇はないのである


240

這裏(しゃ‐り)。「這」は「此」の意。このうちに真理がある、という禅の言葉。悟ったの意味らしい。朱子の口語文体に「這裏」がある。アジアの唯一の普遍主義を為した「朱子語類』における思考のリズムのことをおもう。縦書きに思考のリズムがあった?縦書きが消滅しつつあるネットの時代に、新聞と国語教科書がやめたら縦書きが終わるのだろうか。最後の縦書きの文は何だろうか?日本知識人が行った訓(よ)みにおける思考のイメージが死に切った過去となる日がいつか来るのだろうか..


241 世界は活動と言論である。「活動と言論が行われるためには、その周囲に他人がいなければならない」とハンナ•アーレントはいう。それと内部的批判的他者が必要ではないか。紀元前5世紀に起きた世界ー内部的亡命は内部的批判的他者の起源かと考えてみる


242 外国人であろうとなかろうと、生活していたら共同体を形成する意思があるとみとめられる。その意思がある以上、住民投票の権利を必要とする共同体のメンバーである。なぜ排除する?

アポロ13号は、存在の曖昧な観念だが明確なイメージがあった。存在とは<生としての移民>。遥か外から来る生を迎える喜びがなければやっていけないわれわれ自身の姿を見たのだ

近代合理性は死を第二義的問題と考える。しかしコスモロジー形而上学にとって、死は第二義的問題ではない。ただし思考の論理的順番がある。現代に即して考えると、最初に、遥か遠くからくる生を考える。存在の生としての移民を考える倫理性が先行する。次に、現前する死と、隣にいる仲間から遠くに行かない死後を考えるのである


243 書くことは並べること。世界は分節化できない生と死。思考の分割できる論理的順番として、ハンナ•アーレントハイデガーに先行する。先ず、遥か遠くからくる移民としての生を存在と書く。これによって此方からみえる向こう側がある。その後に、近(親)しい仲間から遠くへ行かないで再び還る「世界-内-存在(死)」を書くこと。本質なき再-分節化である


244 ゴダール『映画史』はいかにもプロテスタントが語り出すカトリック神秘と言われる。感格の道理である、投射のなかに書かれた言葉が佇む、映画史と絵画史との間を表現しているのに

245 アイルランドは有神論、イギリスは無神論とみられているが、そうだろうか?そのように分節化しているのは二項対立の曖昧な観念でみているからではないか?共同体は有神論と無神論との間でなければやっていけない明確なイメージをもっているとおもう

246 殺しあった北アイルランドの超カトリック過激派とイギリスの対抗プロテスタント過激派は、議会で互いに顔を見合わせなかったが、現在は仲良くしているらしい。おなじ神様だもの

247 幕末は、天下の普遍を支えたのは活動家的学者の自発性である。開国のための攘夷は、自発性を失って安倍的にプロ化した田舎者テロリストと暗殺者が演出する王政復古ではない。

佐幕派からみると、坂本竜馬横井小楠を理解したつもりで、田舎者の攘夷の私闘的テロを天下の普遍と考えた。圧縮されたアジア民主化の中でファシズムを自由と錯認する活動家みたい


248 鬼神といえば、嗚呼お化けの異界の話かと思われるけれど、アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えず聞こえないものとは何かを知的に考えることから成立したのよ

249 アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えない鬼神とは何かを考えたが、仏教の宇宙も消滅させる無神論を排するのは難しい。天を仰みるのは朱子学批判の古学である

250 映画とは何だったのか?反偶像崇拝のヴァンダリズムではないけど、投射されないスクリーンが先行する。此方の知からみえる、彼方側にある空や無を考えるうちに、映像が見つめてくる


251 『江戸思想講義』と「江戸思想史講義第二」、二つをどう関係づけるか。


アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えない鬼神とは何かを考えたが、仏教の宇宙をも消滅させる無神論を排するのは難しい。そうして天を仰みたのは朱子学批判の古学。仁斎は人における天の主宰者としての道徳を考えた。しかし徂徠はそれを主観的だと批判。彼は聖人の命名による鬼神と国家の制作をはじめて語ることになった。この天皇制国家の青写真ー徂徠の国家に託した理論ーは後期水戸学に影響を与えていく


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252 政治権力を天皇に集中させた王政復古は、長州が文化権力の中心にある天皇を京都から連れ出したせいで、テロリストの家の中で政治権力が日本人の心の中を覆い尽くす危険がでてきた


253 精神的に価値のあるものの制作と再制作が反復したのはそれを名づけることによってである。古代は詩は言語に名づけることを働きかける役目があったか?「興於詩、立於禮、成於樂」と

254 アメリカの何でもかんでも武力が解決できるとする恐怖となんでもかんでもカネがモノをいう隷属にNoと言うのは精神的に価値のあるものだとおもう

255 スマホとかiPhoneの時代。「この道はどこですか?」と道端で言う人が消滅した。ヨーロッパに行ったとき彼らが外国人の私にどうして道を聞いてくるのか分からなかった。現代は知らないことは恥ずかしいという啓蒙時代の地層があるということか。ネットのおかげで知らないことは消滅した。生活の隅々まで監視されているのではないかと不安におもうこともあるが、兎に角ネットは無知を隠してくれる


256 神とは何か知りませんし、神は存在しないという無神論をとればそれっきりですが、神の知り方を問題とするのは、国家に先行する共同体の成り立ちを考えることができるからです

257 昨夜の橋本での話題。どうもね、問題になってきたのは、日本人における中国の知り方。科学の世界みたいに、対象自身の状態に影響を与える、語る主体における対象の知り方。

258 書くことは並べること。「上からの近代化」のシナリオと「下からの近代化」のシナリオを並べてみよう。そしてこの関係を考える。「上からの近代化」の失敗は「下からの近代化」が補うのか?「上からの近代化」の革命(明治維新)と「下からの近代化」の革命(明治維新から影響された辛亥革命)とが衝突した歴史について、100年後の人々は、どう語るのだろうか。前者を「日本」と呼び、後者を「中国」と呼ぶのか

259 EUの援助で成り立っていたダブリンの映画館は元々、クエーカー教の施設だった。当時の空間が残っている。8年間もここを拠点に映画とは何かを考えたら映画教になるよな

260 


問題なのは、他者の知り方。他者は、われわれの自己否定が投射されたその他者の知り方に規定される。知の内部的矛盾のように、われわれと他者との間の衝突が起きてくる


ラディカルモダンが託した「下からの近代化」が、京都から天皇を連れ出した「上からの近代化」を贖った。と考えると、そうして「上からの近代化」と「下からの近代化」の間の戦争が生じたと理解できる。今日ラディカルモダンは、代表するものと代表されるもののメルトダウンの中で中国的資本主義を語る


261 サルトルが書いていたが、エマ・ボヴァリーは生きながら自分が夫の形見のように扱われていることに耐えられなかった。同様に中国は湖水としてあるのに、日本人は置き物にしてしまう


262 サルトルによると、エマ・ボヴァリーは自分が夫の形見になっていることに耐えられなかった。同様に、中国は湖水としてあるのに日本人には置き物。鬼神論を置き物にしてはいけない

263 日本は移民国家だった起源を隠蔽していないか?古代の朝鮮から大量にきた亡命知識人が国家日本を作った。漢字を教えてくれたのは移民。しかしリスペクトが無いからコリアは怒る


264 目に見えて耳に聞こえるものは、世界から生と死の不透明性を奪ってしまってそれを返さないならば罪である。目に見えず耳に聞こえない鬼神と鬼神論をめぐる言説の展開は贖いである

267

目に見えて耳に聞こえるものは、世界から生と死の不透明性を奪ってしまってそれを返さないならば罪である。目に見えず耳に聞こえない鬼神を問うことは事件であり、鬼神論をめぐる言説の展開は贖いである。世界から不透明性を奪った問題を解決するために、再び言語の透明性に委ねることは倫理的に不可能である。朱子が語る鬼神論は言語を透明化した。しかし朱子の鬼神論は、弟子たちとの議論を通じて、理(ロゴス)の優越性を保つのはいいとして、死を第二義的問題とみなすような、世界から生と死とが一体にある不透明性を奪ってしまっては、やっていけなくなることを隠さない。21世紀の鬼神論は言説の展開を通じて曖昧な観念を保っている。新しく獲得するために終わるというのではなく、失ったら失うことができること、目に見えず耳に聞こえないものをゆっくりと思考できるようにすること。鬼神論は、現代の中国からつきつけられる問題と向き合うことができるこの明確なイメージをもっているのではないかとおもう

268 何故日本では権力集中の解体を訴えるものが権力を集中するファッショ的なものからしか出てこないのか。戦前のことを考える。「明治維新ヲ完成シ」という主張がみえるが、昭和維新という呼び方が広がったのは五・一五事件(1932)からだという。「天皇の取り巻きである重臣軍閥、政党や財閥などが独裁を行っている」と言って、彼らから権力を取り上げ、国民の手に権力を戻すことが必要と考えていた。権力集中の解体を訴えるものが、王政復古が与えていた以上に天皇に権力を集中するという。これはなにか?明治維新における「上からの近代化」が失敗したという思いから、「下からの近代化」にたいする過剰な期待が存在したのだ。「上からの近代化」の失敗とは、政治権力を天皇に集中させた王政復古は、長州が文化権力の中心にある天皇を京都から連れ出したせいで、テロリストの家の中で政治権力が日本人の心の中を覆い尽くす危険がでてきたことである。問題は、言説「下からの近代化」が、中国自身を巻き込むかたちで他者に向かって投影されることである。日本人は中国をどう語ってきたかは、日本人の「上からの近代化」への失望と「下からの近代化」の過剰評価と切り離すことができないだろう。北一輝「下からの近代化」として国家に託す社会主義を主張する。結局日本は日中戦争がどうして起きたか認識するという戦争責任を果たしていないので、右翼が戦前とおなじ内容のことをおなじ形で言っている。しかし象徴天皇制憲法のもとで嘗てのように天皇に権力を集中させることが不可能なので、安倍政治とその補完勢力は、軍国主義復活と国家神道復活(公式参拝)解釈改憲を前提に皇室に依存しない新しい天皇教ーつまりヘイトスピーチナショナリズムに託しているようにみえる


269 「上からの近代化」が失敗したために「下からの近代化」に過剰に思い入れをもつ、アイルランドの芸術家達は他国と比べて ordinary peopleと言いたがると言われる

270 米国のイラク戦争に対してダブリンの十万人の抗議が起きた。エスタブリッシュメントの「上からの近代化」の失敗を奪回する「下からの近代化」として読みとる言説は自発性を強調した

271 なぜ官僚資本主義に独裁が現れたのか?市民社会の成立が無いから?日本知識人における言説「上からの革命」の失敗を奪回する言説「下からの革命」が語る過剰なものが存在するから?

272 映画はいつ映画となったのか?議論のなかに映画が現れたのである。実体として映画は存在することはなかった。中国がいつ中国になったか、日本がいつ日本になったかも全く同じである

273 ドライヤー 『奇跡』(1954)は鬼神論の映画化である。見るべし

274 

ドライヤー 『奇跡』は鬼神論の映画化である。相手の立場にたつ努力をしても党派的な対立を解消できない生者にとって、死者は共同体を成立させた不可避の他者として表現されている


275

時が腐っている

時と共に、人々よ、腐れ

どうにもならない。蓋をせよ

嗚呼だれが還る魂を迎えるのか

276

 「鬼神論のような形の無いものを考えても仕方ない。くだらない、こんなものは言語ではない」というならば、形のあるものとは何か?と、鬼神論は言語的存在である人間に問うだろう。形のあるものは、存在の意味を問うシステムと言説的連続性をそなえている必要がある。それならば、言語こそは鬼神論的でなければいけないのではないか

277 多分英語で書かれたFWを読んだら「これは言語か?」と考え始める。逆に、FWは「英語は言語か?」と議論してくる。英語はFWにおいてあるようなシステムと連続性をそなえていないものならば、FWを言語であるかと問う権利がないと

278 ドライヤー 『奇跡』は鬼神論の映画化である。相手の立場にたつ努力をしても党派的な対立を解消できない生者にとって、死者は共同体を成立させた不可避の他者として表現されている

279 ドライヤー の映画『奇跡』のなかで、対立していた地主と仕立て屋がともに旧約聖書を解釈する。相手の立場にたつ努力をしても党派的な対立を解消できない。党派である以上互いに消滅しあう必然のことは、旧約がカインとアベルにおける原初的兄弟の暴力を書いている通りである。共同体の形成は不可能なのか?しかし死者が天にいる意味はなにだろうか?鬼神論が教える。死者は共同体を成立させる不可避の他者ではないか。弔いを通じて、死者は、心の中の神の成立とともに、還る魂として、言葉を住処とするようになる。しかし神を心の外に出して祀ることは禁じられるべきだ。祀る国家と戦う国家を作り出してしまう危険があるから

280 

ドライヤー『奇跡』は映画は思想的問題を表現している。演劇的ナラティブの面白さがあるが、やはり映像が大切。映画が闇からの応答を考えさせる。映画の世紀が終わって、YouTubeの現在、『奇跡』そのものが闇となってきた。闇から光(言語)が現れわれないのは何故か?人間の認識の客体となった言語の透明さに闇が広がってきたとは、どういうことか?それは、光(言語)は物の形を失ってしまったということである。現在は物無くして名だけから意味を考える。だがバベルの災厄のまえはものは物の形を失ってなかった。嘗て言語はそれほど透明ではなかった。言語は存在した。先ず宇宙は光から有るが、闇は近代主義が教えるようには第二義的問題ではない。光と闇は一体としてある、生と死とがあるように。西欧では危機の時代の17世紀にバロック的言説がはじめてそれを語りはじめた。アジアでは古代の言語を読み直した無神論的な朱子が考えはじめて、有神(鬼)論的な古学と国学が発展させることになった

281

真実はあるのか無いのか?真実は無いと言ってしまってはそれっきりであるから、真実はあったとしたらどんなことが言えるかをわたしは考えてみる。真実とは、真理が解釈し尽くすのはヤバイと考える。別の見方ができなくなってしまうからである。これが真実の基準である。何でもかんでも武力が解決するイラク爆撃と何でもかんでもカネ(市場)が解決するネオリベの「これしかない」と言ってきた近代にたいする抵抗を為すものが、「別の見方」である。(ポストモダンを批判する新実在論から、一見、真実はリアルに存在するしまた存在しなければいけないと聞こえる話をきくと、なるほど一理あるとおもうが、再び、いかにも近代日本的な、思考の虚構性を廃するような、機能の予定調和を強調する実体の卑小なリアリズムに陥いらなければいいのだけれど。) たとえば、日本はいつ日本になったかを問うとき、これは「別の見方」からする言説が理念的に語ることができる。だから、『日本書記』を中国知識人と彼らが育てた日本知識人とともに書いていくことになった亡命朝鮮知識人が国家日本を作ったと考えることが可能である。『古事記』は支配者たちが外部からきたことを伝える。日本は他者の異文化との接触によって豊かになっていった移民国家だったとわれわれは主張する。しかし日本という実体をリアルに(?)語るのは国体論である。現在のように、肉体的に、国体論の真実性のこだわりに絡みとられてしまっては、他者の異文化との接触によって豊かになっていく移民国家として再構成していく理念を考えることが難しくなるのではあるまいか


282 書くことは並べること。世界は蘇りをめぐるある語りをもつ。決してそれを信じてはならない。映像は思考と共に必ず蘇る。ものは物の形を失っても、見えないものを名づける他者が現れる


283 書くことは並べること。目に見えない世界は、表に出てこないような絶対真理の権威ではない。目に見える世界との交換が可能である。平田篤胤が解釈したように、神話は統治権をめぐる神々と人との間の交換を語るある語りがある。思えば、貨幣と商品世界との間の交換を神話的に語っっていたのはマルクス


国家神道復活の禁止をやめたらこれから戦後日本は何を支えにするのか?神道統治権についてヤバイ語りがあるのに、安倍も立憲も国民も伊勢神宮にホイホイと行くのはどうしてか

284 儒教の宋と仏教の唐との間に対立的断絶があるが、朱子学と禅を宋から日本に持ち帰ったのは仏教のお坊さん達。明治の鈴木大拙の思想に親鸞朱子の超越的思想とが一緒にある

285 日本最古の禅寺でこの水墨画を描いたのは原発体制に責任のあるネオリベ推進の元首相だと考えてしまったら、「大哉、心乎」にはならなかったよ…心が無い時代である

286 京都は四つのシナリオがある。政教分離が成立した江戸時代、応仁の乱祇園祭が復活する室町時代、近世と共存した古代天皇性の鎌倉時代百済の亡命朝鮮知識人が作った国家の平安朝時代


江戸時代の前まで鎌倉の近世日本と京都の古代(天皇制)が共存していた。古代ー>近代の矢印はイデオロギーマルクス主義が語るようには。ポストモダンの思想史的見方が必要だった

287 嗚呼何十年前に修学旅行の時に来た銀閣寺は山道を登ってその屋根を見ながら戻ってきたらはじめてみえてきたのを思い出す。いや待てよ、そういう風に思い出されるのは、還るものを表象させる物の形を言語化する復古主義の言説を考えていることもあるね


288

神話を読んだとき此方から見えた大地を闊歩するあちらのものがいま指差すこのものとおなじであると考えるのはいかなる根拠があるのか?根拠は無いが、他者の存在としておなじひとつのものが要請される限りにおいて、多元主義の卑小なリアリズムに陥ることがない。だが、他者とは事件であって理念ではないだろう


289

願い事を書く護摩の札。護摩サンスクリット語のホーマhoma(焼くの意)の音写らしい。灰の火は言葉の魂みたいなものか?何れ灰となるものは自らを差異化できるのだろうか、人の介入が無ければ

290 投射である、思考の形式を可能とする不可避の美とはなにか?プラトンの洞窟の中で此方から向こうに見える命懸けの美を問う議論がなくてはやっていけなくなるような思考の歴史が映画史と呼ばれる

291書くことは並べること。ヘーゲルの精神とカントの物自体と理念。世界は、中世に還ることによって、ヘーゲルとカントをどう再構成するのか?漢字の世界にスクリーンと投射がある。生死の理気的二元論の宇宙から鬼神に向かって投射されるこれとは逆に、鬼神から宇宙に向かって投射するときは精神の字と観念があらわれる。近代をあえて中世から超えようとする思惟は物の理念化を精神と呼ぶ。ここで問題となってくるのは世界は民族精神をどう考えるかである。神話を住処とする民族精神は解釈を必要とする。解釈であるかぎり、ひとつの解釈は機能しない。同様にひとつの民族も成り立たない..

292 「フクロウの球体世界に見えてくる若い槍持ち..」

なーんか夢のなかのような風景である。「槍」とはなにか? Finnegan's Wake (フィネガンの通夜)の表題の人物である大工ティム・フィネガンは屋根から転げ落ちて死んだが、その通夜に生き返ったという。 Here  comes every body 人類全体をあらわすと言われるHCEと、高すぎたバベルの塔が類似していると物語っていることに気がついた...いや、これは深読みか。アイリッシュならば、どう考えるか?大地を闊歩する民族精神を記号「槍」に読みとるかもしれない。ただし分裂している現実を考えながら彼らの「痛い」話を聞かなければいけないかとおもう。しかし、神話を住処とする民族精神は解釈を必要とする。解釈であるかぎり、ひとつの解釈は機能しない。同様にひとつの民族も成り立たない.. ひとつの解釈では並べることが不可能

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293 文化とは、何でもいいのだけれど、与えられる=支えてくれるとみえるものの範囲ー自分の力が及ぶ範囲でーを一周して戻ってくるときにはじめて見えてくるものだろうか?その表象の中心に外部がある。わたしは山道から銀閣寺をながめるときは、外部の中国知識人と亡命朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人が作ったものの展開と成熟を自分が乗っかっている台としてみているのかとおもったりした

294 ケルト神話は此方からみえる彼方を語る。だがそれはロマン主義の近代が説明するように、国土ー山とか海ーだろうか?『古事記』も一民族を超えた広い世界の知識(漢字)を語っている

295 サイレント映画が先行した。ドライヤー『裁かれるジャンヌ』の投射スクリーン。表象の中心に外部がある(声の外部)。泣いているのは誰?二つの映像、二つの解釈(見方)が一つの思想に必要だ

296 実体として存在するわけではなくて、ポストコロニアリズムアイルランドが存在する。言説的に、植民地化された国は「社会が存在しない」から、帝国のフランス文学のように反抗する個人と社会とが対立することが起きないと考えなければいけない。そうすると、文学や戯曲のエッセイを書くときは、共同体を主語とする面白い解釈を展開できることもある。普遍主義から自立しようとする共同体の在り方を考える(国家宗教から異端とされている地域的な宗教儀式に参加して職を失うかもしれない女性教師とか、芸人と一緒に旅する力を失ったフェイスヒーラーー土地の名を唱えて治療するーとかをどう読み解くかである)。地域紛争を解決する市民のアイデンティティを考える文学の声は、復古主義の神話的語りと共にあるが、日本の場合と違って、共同体の視点がナショナルアイデンティティに絡むとられることが少ないようにみえる。『デイリーの名誉市民』(フリール)におけるように、国家に都合の良い歴史解釈を嘘のナレーションとして演劇のテーマとするような批判精神があるということか。アイルランドといえば、かの帝国イギリスを打ち倒して、独立できた偉大さを日本人から称えられることがある、決して単純ではない。国家を獲得する政治的独立の問題を毎日議論している

297 ポストコロニアリズム的な論客はポストモダンを出発としているのに、明治維新の問題を言説的に批判できていないので、アジアの中で未だ近代に託すナショナリストになっていない?

298 ダメなテレビは東京五輪に迎合するし、ダメな新聞は総裁選ばかり報じた。保守的だけど公式参拝を実況放送し大見出する異常に対してとる距離は健全だ。将来ネットは大丈夫かしら

299 明治維新の歴史に興味ある親戚に、薩長ばかりにバンサイしてるけど水戸がなくなっちゃうよと説明したら物凄い関心を示したので吃驚した。もっと徂徠の制作学の思想を話したかったな

300 書くことは並べることである。並べるときに交錯がある。映像の交錯、語の交錯、思想的交錯、言説的交錯。言語マイノリティが言語支配者に向かって問題提起する、漢字論をめぐる言説的交錯が成立するか