Foucault フーコ 1

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『言葉と物』第三章は’表象‘である。このなかで「秩序」と題した一節の書き出し


‪「歴史一般にとって、不連続のあり方を決定するのは容易ではない。思考の歴史の場合、それはおそらくなおのことそうだ。分割線を引いてみようというのか?だが、あらゆる境界線は、無限に流動する総体の恣意的な切断にすぎまい。一つの時期を切りとろうと望むのか?しかし、二つの時点において対称的な切断を行い、両者のあいだに一個の連続的で統一ある体系を出現させる権利が、そもそもわれわれにあるのだろうか?そのような体系が成立すること、ついでそれが消滅し崩壊すること、それは何に起因するのだろうか?体系の実在と消滅とは、どのような体制にしたがいうるのか?体系の内部に整合性の原因があるのなら、この体系を忌避しうる外的要素はどこからくるのだろうか?思考は、みずからと異なるもののまえでいかにして身をかわすことができるのか?一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか?」


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顔を支えるものは顔の下にある絵画=仮面


フリールの芝居(Dancing at Lughnasa)は、映画化されたが、人々が冷戦の時代のラジオを聞いている場面がある。現在はタブーとなっているが、アイルランドがコリアと同一化していた時代があったらしい。このことを伝えている。こういうことを知ると、起源とはなんだろうか、あらためて考える。歴史のことを書くと、独立アイルランドの教育は教会が掌握した。作品の検閲が始まる。そして普遍宗教の地域化、これが排除されることになった。他所からきた異教なものは禁じられた。フリールの芝居は、異教なものに関わって、仕事を失う危険があった女性が主人公である。おじさんだったか、アフリカから帰ってきたこの人物がやっている異教の儀式なんかはめちゃくちゃヤバイのである。しかしどうも彼はアフリカがアイルランドの起源だと思っている感じである。起源の同一性を脱構築するようなこの見方をただの神秘主義と評していいのか?芝居を観たとき、人間というのは顔の下に仮面があることをわたしは考えた。他所と繋がることができるのはこの仮面のおかげではないかと。国家はこれをおそれるのである。ベラスケス『ラス・メニーナス』、この絵画そのものが仮面であると考えるアーチストたちがダブリンにいた。絵画=仮面は顔の下にある。裏側にあるものは表に見えている。クローズアップした顔は炸裂している。


ナチスがどうしてあれほど表現主義を畏れていたかわからないが、芸術の仲間たちはこれを明らかにしたのではないか。絵画=仮面は顔の下にある、そして他所と繋がることができるのは裏側にあるものが表に見えているこの仮面のおかげである、そうして起源であるクローズアップした顔は炸裂している。


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