書くこと 1500−1600

 

1、色というのは思考の要素だとおもう。境界線は天と海を隔てるけれど、碧色は天と海が共有するものである。色は境界線に対して多孔性porousとしてある。

2、アイルランドから、カネの話ばかりしているイギリスへ来ると、病的な感じがしたが、イギリス人はカネそれ自身が好きなのではなく明確性を重んじる文化だからとイギリス人は語る

3、トランプ旋風が起きなかった理由?あたりまえでしょう。それよりも、日本マスコミがトランプ旋風が起きて欲しいと願ったのはどうしてなのか知りたい。異常なんじゃない?

4、

津田左右吉をたたえよう

津田左右吉は「詩は外国語で書いてはいけない」と言っています。源氏物語は認めていたようだけれど、あの漢字嫌いの津田も漢字で書かないと精神的な価値がないと考えたのでしょうか?
津田は自分の名前を漢字では書かず仮名で書きました。これをもって彼の漢字嫌いを指摘することには反対意見もあるでしょうが、漢字では日本人は創造性を発揮できないと言い切っていたことは確かです。彼の漢字全否定は、漢字文明に依拠した日本知識人否定を意味するほどで文革の知識人否定を喚起します。
十数年前渡辺一民は私に、津田は普遍主義なのか反普遍主義なのかわからないといいました。しかしだからこそ可能性がある思想かもしれないのです。津田の漢字知識人全否定はファショ的ですが、戦前に彼だけが皇国史観を批判できました。万葉集を書いたのは貴族で、農民を含めてあらゆる階級ー国民ーが書いた筈がないと。これは国民国家のモデルを古代に見出した、昭和10年代全体主義に帰結する明治近代に対する反論です。津田はナショナリストとして皇国史観を許せなかったのでしょう。ここで津田はナショナリストですが右翼というほどではありません。津田は不敬罪で逮捕されます。和辻哲郎はこの津田とは反対に、思想を現人神の偶像化へ起きます。

5、資産1200億円 「国王より2倍金持ち首相」スナク氏に集まる厳しい視線。20兆米ドルに及ぶ習近平政権の「隠し資産」の中国的資本主義は資本主義の問題が起きないのか?

6 東京で朱子学を学んだので注釈があれば鎌倉時代の五山文学の漢詩を読めないことはない。俳句より面白い。徂徠も勉強したので浮世絵より日本画が好きだし、能の方が歌舞伎より楽しい

7 鎌倉は何というか、ブルジョワのための街というかんじ。宋の時代とか明の時代を考えるにはいい。五山文学は林羅山とかが継承したらしいね。仁斎は羅山が訳した『論語集注』を読んだ

8 中国の歴史の方が日本の歴史より面白いとおもうのは、中国は1000年かけて仏教との思想闘争を行った歴史があるからなんだね。儒教は国教となった宋の時代は仏教は外国思想として「危険」だった。朱子は仏教を自分のものにした。朱子学はいわば東アジアの「バベルの災厄」で、朱子五経を古代のときのようには読まなかった。読めなくなったというか。鎌倉時代に留学した仏教徒儒教の経典を持ち帰ったのは日本にとって大事な歴史である。英語は科学をどんどん進歩させるに違いないが、漢字でなければ精神的に価値のあるものが生まれないのではないかという思いはこの時代によって確立したのではないかと考えてみる

9 中国は共産主義のままでいいから隣国と国内マイノリティーとの関係をよくすること、そのためには、一党独裁である必要がないことを中国の為に理論化できる者は誰なのか?

10 他の思想(空)から己の思想(理)が独立してはいけない。それでは他の思想の意味がないからである。反対に、他の思想に己の思想が依存してもいけないことは明らかだろう。思想闘争において大切なのは、他の思想から己の思想が自立すること。これ自身思想を形成するのではないだろうか

11 中国の思想闘争において大切なのは、他の思想(仏教)から己の思想(儒教)が自立することだった。すなわち朱子学である。古学の思想闘争は脱朱子学(脱普遍)によって本質的なものを個体化していく方向であった(伊藤仁斎)

12 ルネサンスの精神はガリレオのように正しいことを自由に言わせてくれだった。フランス革命は監禁されたサドを自由にすることが大切であった。間違っても自由に喋らせてくれである

日本思想における正統と異端

本居宣長の絶対的保守主義ー国が安定していれば神と皇位との連続性に依るべしーは和辻哲郎によって正統とされた。宣長儒教との激しい思想闘争の結果、死後の救済がないとした。ここから昭和10年代の教育を受けたものは絶対的保守主義の言説の中でそも内部に沿って国家に運命を託したのである。ポストモダンは、国家中心主義から自立した思想で、これ(国家)しかとする無いとする絶対的保守主義を批判できた。ポストモダンが終わると、絶対的保守主義が日本の主流となる危険がある。他方で、異端とされたのは平田篤胤の、宣長国学的鬼神論とは異なる、死後の救済のある民情論的鬼神論である。平田派は明治政府から追放され弾圧を受けたが、平田を継承したのは折口や『先祖の話』の柳田の民族学である。共通するものとしてある空集合の多孔性の現代思想は、平田における異界への多数の入口を考える思想を喚起する。平田は寅吉と共に、明治維新に先行するものとして仙境異聞における筑波の場をもっていた。

13 

アジアにおけるバベルの災厄

「子曰、天生徳於予。桓魅其如予何」(『論語』)。次のように書き下される。「子の曰く、天、徳を予(わ)れに生ぜり。桓魅(かんたい)、それ予を如何(いかん)」。朱子は、孔子が仰ぎ見ただろう天を考えなかった。朱子学は古代世界との連続性を絶ったアジアにおけるバベルの災厄なのである。仁斎は天を仰ぎ見たが、理念としての天の主宰性を考えることになった。日本人は漢字の受容から約千年を要して考えることができた。比べると、ヨーロッパ語の受容は150年しか経っていない。洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)享保の改革から約250年か。西欧と取り組んだ西田幾多郎モダニズムポストモダンなのかわからない思索の混乱は言語の未成熟によって説明できる。

14 あまり知らない人でも映画監督が亡くなると悲しいです。デュラスが言っていたのですが、どんな女性も幻想を持っているから男性よりも面白いと。女性が亡くなった話も悲しいです

15 私のデッサンが幼稚だという俗説は、私の線描作品に由来するのだろう。私が線描で試みたのは、たとえば一人の人間という、なんらかの事物の観念を、線という要素の純粋な提示に結びつけることだった。ーD =G

16 明治維新が推し進めた中心の一極集中とは何か。中心に豊かに情報が集まっていても、知を組織化する権力が集中している問題がある。外部も規則にしたがって作られてしまっている

17 ゴダールの映画において外部が規則にしたがって作られることはない。現在われわれが遺族のように迎え入れる過去の映画の存在が外部である。それは侵入してくる現れー映画魂ーである

18 言説を重視するポストモダンから言うと国家日本はその語られ方にある。例えば国家日本はNHKニュースが語る解釈の中に存在している。市民はNHKをアベチャンネルからとり返そう

19 サンテラスの中に絵を立てかけてある。春からここで描きたいとおもう。絵を見た近所の子どもが地面に描いた絵を見て、わたしにおける線のリズムの構成を理解できた。子どもは天才だ

17 一党独裁の本質はひとつの階級である。しかしどうしても本質にこだわるならば、本質は個体的だし個体的になっていくのである。本質を表現するならば一党独裁である必然がない。

18 一党独裁の本質はひとつの階級である。しかしどうしても本質にこだわるならば、本質は個体的だし個体的になっていくのである。本質を表現するならば一党独裁である必然がない。

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歴史を書くこと

中国は共産主義のままでいいから一党独裁である必然はない。一党独裁をやめないのは、やめたら、アヘン戦争など西欧列強の歴史を消すことになるかもしれない。化石にならないように、歴史を書くこと、台湾作家が発言するように清朝が西欧と同じ帝国政策をやった歴史も消してはいけない。

20 

周辺国の女性は二重に搾取されている。世界資本主義とそれに抵抗する周辺国の男性原理とによって

世界システム
theory of the world-system

近代以降の世界全体を単一の社会システム,すなわち世界資本主義体制としてとらえ,その生成・発展の歴史的過程を究明することによって,さまざまな政治経済的諸問題,とりわけ国家間関係,経済的な支配・従属,世界秩序の構造と変動などを全体的に究明しようとする理論。アメリカの歴史社会学者 I.ウォーラステインによって創始された。まず世界をアメリカおよび他の工業諸国から成る「中心」と,発展途上国から成る「周辺」に分けた上で,前者によって後者が搾取され,さらに両者によってその周辺が搾取されているとする。富める国々は,周辺地域から稼ぎ出した余剰のうちわずかな部分しか周辺地域に配分しない。他方,周辺に属する国々にも「周辺の中心」,すなわち世界経済システムの中心に位置する外国資本と結びついた特権階級や民族ブルジョアジーが存在する。このように世界を素描する世界システム論は,明らかにマルクス主義的な考え方を下敷きにしている。ここには,国家間に固有の競争や対立への言及はなく,資本主義社会における階級闘争の分析が世界全体に拡大・適用されるのである。(コトババンクより)

21 河上肇の『貧乏物語』はいかにも彼が留学したイギリスの中流ブルジョワ的倫理の視点があるとおもう。河上は『貧乏物語』の中で「ワーキングプアが生まれるのは、富裕層が贅沢をして、社会が貧者の生活必需品を作らないからである」という批判を行い、社会全体が贅沢を止め、質素倹約をすれば貧困の問題は解消されると論じた。しかし、その結論に対し、福田徳三や社会主義者堺利彦は「現実的ではない」と痛烈に批判している。河上はブルジョワ的なのだ。高度な互酬Xを語る柄谷行人は河上的なものではないだろうか。
ところでわたしは大島渚監督の映画が好きなのは、ブルジョワを批判するコミュニズム党の中核に、ブルジョワ的なものが覆っていることを見抜いているかのような点だ。だから彼の映画はブニエルの映画に似ている。どんなことをしても資本主義を克服できないのだから暴力革命しかないとする考えは、ある日いきなり理由もなく部屋の外へ出られなくなったブルジョワにおける閉塞感のようである。それは社会民主主義を廃する一党独裁の部屋である。

22 ブルジョワ的複数政党はコミュニズム一党独裁が批判するほど腐敗しないのは多分ブルジョワ的自己規律によるのだが、それが自慢する多様性は他を排除しないと言いながら他が入って来れない部屋から出れなくなってしまうことは起きる(皆殺しの天使)

23「世界の屋根」から彼方にみえる仏教の世界よ。だが石の上に暮らす貧困に中国共産党が介入しなければやっていけるのか。この政治の問題を隠蔽したのが「チベットモーツァルト」だ

24 グローバルデモクラシーの一国に対する関係は、あえて『資本論』に沿って考えると、貨幣と商品との関係とパラレルである。どの国家の成立は、どの商品も貨幣から排除されるように、要請される。そうでなければ、グローバル資本主義の分割ーの米中ロ拡大EUーのように国家モデルに基づく帝国のシステムになってしまうからだ

25 きょうは箱をひとつも整理できなかった。こんなことをおもった。グローバルデモクラシーとは書記言語の権利ではないだろうか。物で書かれた物は大事にされたのは書かれたからである

26 古代は物(神)で書かれた物(神)は信があったのは物(神)で書かれたからだ。今日は地球環境の自然が言われるが、自然とエクリチュールは別々のものだから自然は大切にされない

27 湘南の海の音を聴いてダブリンの海辺を思い出した。FWのジョイスは雷の音を表すのに百語の雷を意味する語で構成した。古代は物(雷=神)は自然の力をもつ物(雷=神)で書かれた

28 

囲まれない海のグローバルデモクラシー

「本源的蓄積」は、分割についての考え方ですが、これは何か政治的というのでしょうか、非常に単純な権力的な見方が反映されているように思ってましたから、見直しが必要だと昔から考えていました。その点、冊封体制は権力に基づくよりは権威によって支えられている交換の文化的なあり方です。中国は宋の時代に朱子学の普遍思想に基づく宗教改革が起こり知識人的官僚制の青写真が出来上がります。それは海の帝国として現れた明の時代に完成するのですね。こう言ってよろしければ、海の囲い込みが起きました。琉球は囲まれない海を失っていくとわたしは理解します。江戸時代に琉球は帝国中国と幕藩体制の間に位置づけられてしまいます。習近平は明の時代の権利を主張していますから、台湾のつぎは沖縄の奪還が叫ばれるのかもしれません。台湾の作家が指摘していましたが、中国は西欧列強によって半植民地化される前に、清朝帝国主義的拡張を行いました。支配を受けたチベットウイグル、コリア、ベトナム冊封体制を構成した国々です。それに対して、わたしは、グローバルデモクラシーは囲まれない海の権利に基くものとして主張されるべきだとおもいます。

29 「トランプ前大統領のツイッターアカウントを復活へ マスク氏」。残念ですが、もし、もしですが、1984みたいにひとりの人間が支配するメディアになるならば廃止の方がいいです

30 英国は虐待された子供を救い出すために国が家の中に入っていかなければいけない。これは財産権の人権を侵害するか。労働党と保守党とが議論していた。宗教と反共教義の問題ではない

31

若い女性とは、年齢に関わることではなくて、理念的なあり方

ソポクレスが書いた若い女性は何を根拠にかくも自分に自信があり傲慢で気まぐれであるのか。若い女性というのは、一生懸命に、空である自己を埋めるように知識を身につけていく努力を行う。お金の権力持っていないが、未知な者と出会って迎えいれるセックスの権力をもっている。皆と同じように年老いてわたしは懐疑論的になってきたかもしれないと思うが、傍らで、自分の言葉に、若い女性が笑うと愉快だしなんかわからないが勇気づけられることもある。宇宙の力の粒子を飛散させているのではないか。ドウルーズによると、ギリシャ神話の起源はエジプトにあったが、神の裁きを受けて生き残る人間の存在を知らなかった。オイディプスは彼の娘と共に脱出できたのであるとわたしはおもうよ。反(脱)原発運動の中から、若い女性達が「間違っても自由に喋らせてくれ」と訴えた。彼女たち以前にはこの言葉はなかった

32 歴史を鑑みると、アジアはマルクス主義無くして西欧列強の植民地化に抵抗できなかったが、確立した共産主義一党独裁に対して、宗教の自由を含めて前近代をゼロにしたマルクス主義の近代が抵抗の拠点をゼロにしてしまったと言わざるを得ない

33 ゲーデルが生きていたたら彼の仕事を援用するポストモダンの理論を評価しただろうか?マルクス主義を無意味として全部ゼロにしてしまったら、思考の何もかもゼロにしてしまう

Gödel would have hated what the postmodernists made of his work ?

34 文革以降の学者は革命なんか起きたら大変だとおもっているから官僚がうまくやったら一番いいとおもっているが、他方で官僚は民主主義を考えることができないと軽蔑している

35 フーコ『言葉と物』は、言語のなかの映像ー言説的絵画ーの成立を問題にしていたから第1章「侍女たち」と第9章「人間の分身」と第10章「人文諸科学」を一緒に読む必要がある

36 湘南文化とやらはハリウッドを喚起するアメリカ的な場所らしい。茅ヶ崎に中華料理屋さんがない。湘南には中華は似合わない?だけれど湘南という言葉が中国の表象なんだけれど(笑)

37 私は組合とストライキの必要を考える社会批評の勉強会に参加し始めました。そういう日本左翼の中には、多元主義のフーコとかデリダをフランスの国家主義だときめつけ、全体主義レーニン多元主義と考えて疑わない者が存在することにほんとうに驚きました。これではナチス中国共産党の方向です。富裕層がエリートの多様化ーオバマや国王より金持ちのスナク等々ーを彼らの為に利用する中で、富裕層による搾取率無限大♾を実現する闘争に対する闘争をどう組織化するのか?とおもって読みましたが、「『啓発されたリベラル・ナショナリズム』 が答えなのですか?それでは、「エリートが仕掛ける」階級闘争と共に、国が安定していれば神と皇位との連続性によるべきだという的保守主義の中にすっぽりはまりそう。私は、問題の解決は脱階級的な方向にあると思います。そうして一人ひとりがマイノリティーに成っていくN個の性、グローバルデモクラシーにおけるリベラル・反ナショナリズムを考えていますがね。イギリスでは労働者階級出身の人達がテートモダンの現代アート講座に来ていました。特権的な知識を必要とする表象的な古典作品にしか関心がない中流と比べると、彼らは表象批判の脱階級的作品をストレートに理解できるのですね。マルクスが若い時に強調していたのも、人類が知識へ平等にアクセスが可能である社会です。また、才能も何もかも社会が与えてくれたものなのだから、稼いでもいいが、所有してはいけないというような発想の大転換が必要だとおもいます。何かまとまりがなくなったので、「そうなっていくのではないでしょうか」という言葉で締めくくりたいと思います(笑)

 

38 ゴダール喪中

ゴダールピカソジョイスにおける映画の継承である。ゴダールピカソが美しいスペイン人を描きたかったから表象にとどまったように過去の映画に留まった。またゴダールジョイスは文学に歴史の感覚をもったように映画に歴史の感覚を持ちたいと望んだ。歴史といっても、全ての相違と全ての非連続を投射の起源的な一点に集中させることは考えなかった。そうしてしまうと国家が自身を語る歴史になってしまうから。
最後に、文字で描く画家とはだれか?ゴダールである。袋小路の中で書いた/描いた。映画とは映画の映画という曖昧な観念に依拠している。映画の映画は映画史であるが、それは明確なイメージを為す外部無くしては、それ自身では証明できない。

ゴダールピカソジョイスにおける映画の継承である。ゴダールピカソが美しいスペイン人を描きたかったから表象にとどまったように過去の映画に留まった。またゴダールジョイスは文学に歴史の感覚をもったように映画に歴史の感覚を持ちたいと望んだ。歴史といっても、全ての相違と全ての非連続を投射の起源的な一点に集中させることは考えなかった。そうしてしまうと国家が自身を語る歴史になってしまうから(嘘の三角錐の頂点)
最後に、文字で描く画家とはだれか?ゴダールである。袋小路の中で書いた/描いた。映画とは映画の映画という曖昧な観念に依拠している。映画の映画は映画史であるが、それは明確なイメージを為す外部無くしては、それ自身では証明できない。

39 マイナー文学であるカフカはイデッシュ語とチェコ語ゲーテが住処にしたドイツ語を利用して書いたが、ジョイスは標準英語で書いた。それを利用して言語革命を行った

40 公害企業の前で三か月に及んだ抗議の座り込みをしたとき、全国から労働組合が支援に来た。毎日話していて分かってきたが、人の死をどう考えるについて組合的なものの見方がある

41 台湾人はなぜ地方選で親中政党を支持するのか?日本新聞が解説しているような「巨大権力警戒、日本人が知らないバランス感覚」で説明できることなのでしょうか?わたしは明確な答えがありませんが、ただ数年前に、台湾を訪ねたとき、中国の資本の支配が隅々まで及んでいた様子を目撃しました。南部地域は民進党の支持基盤ですが、農業作物の買い手は中国になっているという話もききました。あと考えたことは、北京語と台湾語との差異はありますが、同じ言語の危うさがあります。台湾人が支配される心の不安を解決するのは中国の支配が完成したときだと嘆いていた知識人の言葉を思いだしました

42

はい、おかげさまで、なんとか。母の世話を考えて、茅ヶ崎に引っ越しました。片付かない200の段ボール箱に家が占拠されています。日本画思想史から追放されて、感知できないような微妙な空白感にともなわれる都落ちという感じですが、佐藤先生の本を読んで徂徠の江戸思想と関係がある日本画を勉強して、湘南の契沖にでもなってやるぞとおもってます(笑) 以前、梶野さんが話していただきました若冲のことはずっと覚えています。わたしは文人画家の蕪村や大雅のスタイルも好きです。契沖がどう発展させていったかは大変面白いですね。佐藤先生の豊かな分析があります。他方で、ピカソの近代は、失ったら獲得できるというものですが、わたしはベケット的というか、失ったら失うことができるという考えに賛同します。茅ヶ崎の空を見ながら、若冲が失うことができたものは何だろうと考える毎日です。まあ、境界なのかなと少しづ考えています。雅なもの/俗なものという境界を崩すのは色なのかと思います。宇野先生のもとにいらっしゃった宇野研究所の髭さんのおかげで月に一回は、文京区の区民会館を借りた社会批評の勉強会に出席しています。地球座の学者とアソシエの組合関係者が多いですね。ワイマールとかアベノミックス都会の発表がありました。

43 高校を辞める者を少なくするためには、高校に数学の授業は要らないという意見も一考の価値があると思いますが、それでも、マルクスの思想が19世紀にあってどんな意味があったかを考えてみるように、17世紀にとって微分を発明したライプニッツの思想はどんな意味を持っていたかとかを教えるべきですね。ライプニッツ多元主義の思想から、戦前の天皇ファシズムは戦後憲法はどう考えたかを、憲法にとって象徴天皇制の意味と一緒に考えるようにならなければいけないと思います

44 近代というのは、此方から見える彼方を考えることができない。彼方のものは転落するし転落しなければいけない。しかしまだ彼方は地に落下していないので絶えず矛盾に陥る

45 近代というのは、此方から見える彼方を考えることができない。例えば起源を考えることができない。彼方のものは転落するし転落しなければいけない。しかしまだ彼方は地に落下していないので絶えず矛盾に陥る。歴史性は嘘の円錐の頂点を作ってしまうが、これを考えることができないから何か神聖な価値のあるものと信じてしまうのではないか

46 彼らが生きた近世は中世と近代との間である。天の信と言っても、伊藤仁斎孔子との同一化は無かったし、徂徠も聖人との同一化はなかったのではないか。

47 日本に関心を持ちはじめた人はアイヌや沖縄のマイノリティがどう扱われるかが一番の関心なんだね。自分が住みたいから。杉田のような愛国者が繰り返す「みんな」には関心がない

48 しかしですね、杉田みたいな差別主義者に反省を求めても無駄でしょう。ああいう人たちは、任命責任のある岸田も含めて、海外で差別されるまで差別の問題をわからないと思います

49 ヨーロッパは1980年代から移民国家的文化多元主義に取り組んできた。日本は50年ぐらい遅れてしまっている。彼らは相当なことをやったから、その差は縮まらないだろう

50 国防費が2倍になったという事実は何を意味するのだろうか?戦前の文学を読むと、軍事費の増大と貧富の格差が一緒に起きていたことがわかる

51 毛沢東の評価は「7割間違い、3割正」の折衷説ですか。しかし無実なのに死刑を求刑された人にとっては無実しかあり得ないように、毛沢東に殺された人も「3割正」はあり得ないです

52 母が私の中学生のときに描いた絵を見つけてこれを玄関の壁に飾った。何でもない静物絵だが、当時の家の中からの眺めを描いただけに絵の色が母とコミュニケーションをとっている。

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反中と嫌韓の言説的起源はなにか?『古事記』に責任がある。一のアイデンティティであること(独立していること)は他のものを踏み潰すことである。

54 「ひとつの実体」は神であるとスピノザは考えた。彼は思惟と身体の他に無限の属性についても考えた。属性は神に規定されるが物はそうではない。自然における物の無限の生成を考えた

55 ダブリンのオペラ大好きの中流サラリーマンがアマチュアのカルト的精神分析医の所に訪ねていく芝居を昔観た。レコードをかけるが、口をパクパクしているだけで歌が歌えないと悩んでいる。抑圧されているから思い出せないのだ。これはとてもアイルランド的テーマである

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戦後の転向ーポストモダンモダニズム

柄谷の仕事が海外で知られることは良いことだと思いますが、しかしどうしても気になる点は、柄谷は天安門広場前の抗議を非政治的なものであるときめつけた根拠は何でしょうね?一党独裁に対して抗議した学生たちを、ネオリベの側にいる自由のある日本の学生と同じであるように語るのですね、このひとは。しかし中国共産党こそが官僚資本主義のネオリベですよね。逆さまじゃないですかね。この点に関して、このひとの立ち位置がわたしの頭ではわからないのですが、何でもかんでも交換様式で説明しちゃうと、そうなっちゃうんですかね?誰も論じていません。柄谷の探究は、言語と数が、貨幣と美学とに結びつけられ、帝国主義と資本主義と哲学の体系は同時的に発展するのです。しかし90年代に柄谷は自ら知識人を辞めたといいました。これは転向を意味しています。結局、わたしたちが彼の帝国理論において目撃しているのは、柄谷における国家の一元主義を多元主義として捉えるような、ポストモダンモダニズム化です。

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戦後の転向

柄谷はマルクス資本論』に依拠しながら交換様式について考えたと言ってますが、またそのことが大きな影響力をもってアジアの知識人たちに『資本論』の読み方を教えることになったのですが、高度な互酬Xを支える帝国の国家について発言していますが、そもそも『資本論』には国家を考えた文はありません。もしマルクス主義のほかに新儒教など<自分探し>を行っている中国共産党が、彼らが全く知らなかった国家理論ー柄谷の高度な互酬Xーを理解して、国内マイノリティーと近隣諸国との関係を改善していくならば、それは意義深いことだとは思ってはいるのですけれど、残念ですが、殆ど希望はないでしょう

59 『右側に気をつけろ』はゴダールの連立政権に対して警告を発した映画の名。現在西欧は普遍主義を再構成しなければいけないが、全体主義多元主義としていないか私は警告したい

60 イスラムと中国との関係を考える西欧は普遍主義を再構成しなければいけないが、ポストモダンのモダン化というような、全体主義多元主義としてしまう根源的誤謬はなぜ起きるのか

61 思考の順序として何が先行するのかをじっくりと考えるのはエクリチュールである。「白人」とか「東京」が先行すると語リだす声は、なぜ複雑になるものを単純化して透明にしてしまうのか?近代は先行するものとして起源を指示する。しかし近代は起源ー此方からみえる彼方ーを思考できない。近代の人間は自己の有限性に即してしか認識できないからである。かわりに信じるのである。ここから、現人神とか人間の従属をめぐる問題が起きてくるのではないか

62 防衛費倍増に賛成する世論では、日本が日本としてやって行くためには絶対的平和主義かそこまでではない専守防衛憲法では困難となった。国家祭祀を禁止した憲法が支えかもしれない

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64 外国で、自分の国について喋る人の話はつまらない。これを聞くと、日本人は自分達の英語力が足りないからだとおもってしまうが、こだわるわれわれ自身を主語とする話は退屈なんだ

65 柄谷行人をたたえる

66 昔は鎌倉に中国の湘南を表象した。茅ヶ崎も湘南である。戦前は英国、戦後は米国西海岸を表象する。わたしは勝手に地中海を表象している。ここ茅ヶ崎は思い違いで成り立っている場所

67 柄谷は体系的に考えることができて、西欧から評価される。思想の体系を数の体系から美学的に再構成する。大杉栄も思想性をもっているのに、現場主義的な話に枠付けられてきたか

68 大杉栄ボルシェビキウクライナアナーキズム抑圧の事実を知って、労働運動の意味を大切にしながら社会主義を批判し始めた。彼の思想は小田実が語る市民の思想の先駆だった

69 アイルランド第二次世界大戦のときは中立を保った。しかしチャーチルアイルランド北部にナチスが侵攻してくると英国を守れなくなるとして占領しようとした。防衛とは侵略である

70 江戸時代は国防論がなかった。こんな国防では国を守れない、幕府の責任だという批判は幕府批判だった。武士政権は一切の幕府批判を許さなかった。平田派から国防論が現れた

71 世界史の知ではキリスト教の宗教対立は過去のものであるが、現在進行形のアイルランドの宗教対立の話をしたら、興味をもった20代サーファーの若いお兄さんがいた。おそらくカトリックプロテスタントも知らないこの彼のためにどんな説明をすべきだっただろうか?体系というのが切り口になるかとおもっている。思考は自身にない思考と一緒にやっていくためには、その体系にある原理を忌避することが重要。そうして人文科学が成立したのが西欧である。うーん話がみえないか。「忌避」という言葉が難しいかもしれないから、「我慢」と説明しておくか

72 アイルランドの地域紛争を日本人はどう考えるのかを語らなければいけなかったのに私は何もしていない。演劇を考える必要があったしフーコも読み直した。語るためには儒学を学んだ

73 三木清によれば、思想は死を観念化しなければ世界思想でないそうである。絶対的保守主義が主流となる現在、モダニズムの死は起きなかった。思想も死も日本化・オイデプス化するだけである。

74 下級武士が推し進めた日本近代の失敗は国家が中国のように帝国化したことにあった。現在中国は未来をポストモダン(多元主義)に託しているが、再び日本が陥った帝国化(全体化)に絡みとられているようにみえる

75 1955年のバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議)。インドネシアやインド、中国、エジプトなどの首脳が中心となり、植民地主義反対や平和的な共存をアピールしました。ポストコロニアリズムの知は、英国から独立したアイルランドがモデルとなったと考えている。拡大EUアイルランドソビエト解体後の東欧のモデルとしているが、色々問題がある。

76

柄谷『世界史の構造』のフランス語訳だ出ていたんだ。すごいことだね。昔はパリにいたら読んだと思うが、今は交換で説明し尽くして何でもかんでも喋る本を読みたくないね。

柄谷はマルクスの「交通」を再発見した。それは交換様式であり、『世界史の構造』が強調する戦争を意味する場合もある。ヘーゲル的な柄谷を読むと、世界史を動かすのはもっぱら戦争である。しかしアイルランド地域紛争を解決したのは戦争ではなく民主主義である。歴史を動かしたのは民主主義だった

77 反中・嫌韓は今に始まったことではない。古代の昔は、大陸の戦争に巻き込まれないようにと、日本は独立した国であることを示した。現在は逆の方向で自ら戦争に巻き込もうとしている

78 サルトル『存在と自由』は昔どんな本屋にあった。だが影響を受けた日本左翼は自己否定の観念は凄いが、ファショ的体制ではやっていけない明確なイメージ、香港の学生を理解できない

79 香港裁判所

親中派の日本左翼は、英国の植民地だった香港を抵抗の思想もないとずっと見下してきた。それに対して、香港返還のときにリベラル派のなかに香港の裁判所に注目する者もいた。英国時代に自由の考えがここを拠点に発展したのではないか。香港裁判所は天安門事件の追悼集会禁止に「違法」の判断を行って有力活動家の有罪判決覆した。これはマグナカルタ以来、最も重要な判決ではないか

80 ゴダールの映画から、演劇ブレヒトからの影響があることはだれも直ぐに分かるが、作家ジョイスからの影響を読み取るのは彼が書いたのは読めないテクストであるだけに難しい。ジョイスは歴史の感覚を文学に持ちこんだが、ゴダールもおなじである。ゴダールは『映画史』を作らなければならなかった。そしてゴダールのあの特筆すべき錬金術師的造語(もうやめてくれと言いたくなる)は、不連続の歴史ー思考の歴史ーを確立することの困難さを伝えるものである。ゴダールははじめて不連続の歴史を書く/描く作家だったのだ

81 後期水戸学は儒家神道の伝統にあったのであり、その復古主義は聖人に『古事記』のアマテラスの仮面を被せたようなものだったんだね。素顔であるこの仮面と皇位とが繋がっている

82 どうして私は江戸思想を語るのか?徳川日本は国家がないが、カントと対等な非常に充実した思想があった。昭和の様な国家中心主義でなくとも思想を語ることができると言いたいのだ

83 アジアはマネーと技術はどんどん進むが民主主義が始まらない。「1人当たりGDP、日台・日韓で逆転へ」という話よりも、台湾と韓国がいかなる民主主義を獲得したかを話し合おう

84 

「戦後」の意味

日本は「戦後」が二回あった。日露戦争の後の時期を、「戦後」と呼んだのであった。二度めの「戦後」はもちろん、太平洋戦争のあとの時期である。われわれが生きているのはこの時期であるということになっている。戦争の終わりから現在までを分節化したような「戦後」という時期の区切りは何だろうか?これはこれから考えていかなければいけない問題だ。「戦後」とは絶えず動く総体のなかの恣意的な切断に過ぎない。「反撃能力」は戦前なのに、与野党解釈改憲している憲法で禁じている戦争の形態すなわち北朝鮮に対する米軍と自衛隊の合同演習の威嚇を行なっていても、「戦後」なのだ。「戦後」で意味されるのは、平和である。しかし考えてみれば、戦争責任を果たしていない平和なんかありえない。

85 今はお金を持たないといけないが、若者はお金を保ち続けたら損してしまうバブルのインフレを理解できない。インフレの方が革命に有利だ。貨幣を求めるのは基準を求めているからだ

86 若者は歴史に関心をもっているようだが、それは秩序の感覚というかんじですな。われわれが関心を持つのは、応仁の乱とか戦国時代前夜の自立する地方政権とかであって、統一の方向にある歴史ではないんだとおもいます。
ネオリベポストモダン思想の共犯関係について指摘されるけれど、それはどうでしょうかね?それよりは、インフレの時代にポストモダン思想が成立したことのほうが大事な気がします

87 野党は平和主義というが、自衛隊は5位 – 2021年の世界の軍事力ランキング(2021年)ーだからこそ、反平和主義のそんな軍事大国の「反撃能力」の危険が問題になるのだろう

88 都市にとって重要なのは、隠されたまま公的な重要性をもたない家族領域の内部ではなく、外側の現れだ。それは、家と家との境界線を通して、都市に現れる。ーハンナ・アーレント人間の条件』

84 松が丘と呼ばれるぐらいだから松達が家の近所に生えているのだが、柳田によると、神様が枝を道にして破れ傘みたいな所から地に降りてきた。毎朝曲がりくねった幹をポンポンと叩く

85 分割線を引きたいのか?だが全ての境界線は無限に動く恣意的な総体の切り取りに過ぎない。一国民主主義とか日本語に先行した漢字文化圏の中で他者を攻撃すると自己を攻撃している

86 文質彬彬とは何か。自然と文化との調和という風に近代主義的に理解していいのか?質は民の本来的自然性(仁斎)だが、君子にとって必要なのが文。文は古、先人が遺した文(徂徠)

87 50年前に作られた映画を当時の観客がどう見たのかわからない。孔子は過去の文献を編集した。現在のわれわれはもはや2000年前の言葉で何が言われているかわからないように、孔子も彼から2000年前の文を読むことが不可能だっただろう

88 「文質彬彬として、然る後に君子なり」(「論語」雍也第六16)は、私の解釈では、ケルズの書において伝えられているのと同様に、言語の存在をたたえているのだとおもう

89 ジョイスユリシーズ』の教理問答のナレーションで構成される挿話イタケの終わりは<書かれた言葉の眠り>である。このあと、挿話ペーネロペーにおけるモリー・ブルームの声の独白が始まる。だが言語(ランガージュ)の存在をたたえた「フィネガンズ・ウエイク』への入り口でもある。

89 『フィネガンズ・ウエイク』に読めない本である。<我考える、ゆえに我存在する>と語る本である。透明でない、原初の思考不可能な言語の存在を考えている

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今年はジョイスユリシーズ』出版の年から百年である。ジョイスは『ユリシーズ』の後に、『フィネガンズ・ウェイク』(1939)を書いた。1923年より執筆を開始し、1924年から「進行中の作品」(Work in Progress)の仮題で「トランジション」など複数の雑誌に発表された。首都ダブリンを舞台とする

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92 ピカソは絵画によってゲルニカを永遠化した。出前にきたお兄さんも玄関にあるゲルニカの絵を知っている。ゴダールの映画の歴史を永遠化するためには絵画の再構成が必要だ

93 ポストモダン孔子は何かと聞かれると、さあ困った。先人が遺した文章を読むことは、なにか世の中のために価値のあることだとはおもわない。正当化は必要ない。ただ差異が存在する

94 ポストモダン孔子の「孔子像」とは何か?孔子は何を言っても通じない乱世に生きた。世をただすことをやめなかった、国内亡命の場所を求めた、差異としての孔子が存在する

95 ピカソは抽象化の時代にあって、価値のあるものを遺したかったから、スペイン人の美しさを描いた表象に留まった。現代の芸術の主流は、表象を否定した差異の戯れである

96 ジョイスピカソと同様に抽象化の時代にあって散文的表象に留まった。アイルランドを連れて自分で決めた亡命を行った。ジョイスの『ユリシーズ』はダブリンで成り立ったのに、それだけに、『ユリシーズ』の最後の頁に、彼が滞在したトリエステとパリとチューリッヒの署名があって、ダブリンの署名がないのは屈折している

97 子供のときは切手を集めた。嬉しくて、頻繁に、ここまで何枚とか書いてある。表象無きべケットを読むのは拷問で、読んだ本にはどの頁にもラストまであと何頁と書いてある

98 ジョイスの文学はベケットと比べたら、知のヒエラルキーに基づいている。アクイナスのカトリックと通じる力である。ジョイスは普通の人々の言葉に向けた普遍性の探究があった

99 フロイトとかアインシュタインシェーンベルクとかヤコブソンが、オーストラリア=ハンガリー帝国の思想化か?大英帝国の崩壊はベケットやベーコンに影響を与えたことは言われる

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オーストラリア=ハンガリー帝国は1916年アイルランドイースター蜂起を注目していた

一九一八年以降、さらに根底的には一九四五年以降、中央ヨーロッパのコンテクストの外に出たオーストリアは、じぶんの殻に閉じこもるか、あるいはゲルマン性の殻に閉じこもるかして、フロイトもしくはマーラーのあの輝かしいオーストリアではなくなってしまった。
クンデラ<出会い>

101 ダブリンの大学で日本語を教えたが、思い出すと、今日は授業にひとりしかこなかったこと。カトリックの国だから、当然なのだけれど。しかしなあ..

102 私がX国の独裁者だったらミサイルを撃たないで、自民党3世が支配する選挙区にパラシュート部隊を送り込む。権威的で従順な住民はそのまま外国から来た独裁者を迎えるだろうから

103 思想史的にみると、帝国中国の成立は朱子学と共にあった。中国の本質となった朱子学を脱コード化したのは東夷の古学。ポストモダン孔子の中国は脱コード化であり再領土化である

104 復活について中学時代に遠藤周作の本を読んだ。しかしロンドン時代にユダヤ系友人に死後の復活について聞いたら、ゾンビみたいに土から蘇るという自分の説明に震え上がっていた

105 本箱を眺めると、もう10代のときに買った本は殆ど無いが、まだ生協で100円で買ったデカルト方法序説』がある。ポストモダンデカルトをどう考えるかを語ったのはフーコだ

106 悪魔から命を守るために身体中に文字を書いた耳なし芳一の話をしたら、聞いていたカトリックアイルランド人は興奮した。わたしたちの国にもそういうのがあるという。北アイルランドプロテスタントが示威行動としてやるオレンジ行進があって、太鼓をたたいて国から悪魔を追いだすのである。この場合、悪魔はカトリック。大いに盛り上がった

107 アイルランド時代に毎日のように来ていた映画館。もともとはクーエカ教の集会所だった。窓になっているところから宗教者が現れたのではないか。わたしの映画の関心も、映画狂というよりhs映画教の方向である。アンナ・カリーナがアルファビルの上演の時にここに来ていた。彼女を案内したフランス人の同僚から、「カリーナが訪ねてみたいという恐山ってなに?」と聞かれた。そういう話はアイルランドでは日常的で、中世は煉獄があると言われたアイルランドにヨーロッパ中から裸足でお参りに来た巡礼者たちがいたのである(今日もいる)

108 アイルランドプロテスタントは大事な仕事をしている。イエーツの現代ロマン主義の仕事がある。ベケットプロテスタントの出身だが、彼の文学はアジア的だという評価もある

109 この野蛮な国はヨーロッパからなにを学ぶかだよな。防衛費2%?とかそういうマッチョな話ではなくてさ、大学授業料を無料にしなよ

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本箱

改めて我が本箱を眺めると、もう10代のときに買った本は殆ど無いが、まだ生協で100円で買ったデカルト方法序説』がある。ポストモダンデカルトをどう考えるかを語ったのはフーコだ。しかしポストモダンが終焉して絶対的保守主義が主流となるこの時代である。及び腰だが逆らってやるとおもう

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113 戦前の天皇ファシズムは、杉田のように、エリート主義でヒロイズムに溺れていただろうか。女性とか性的マイノリティーに対する差別があったか?何よりあんなに語彙が貧かったか?

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戦前の天皇ファシズムは、杉田のように、エリート主義でヒロイズムに溺れていただろうか。女性とか性的マイノリティーに対する差別があったか?何よりもあんなに語彙が貧かったか?

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高校の教室は元図書館だった。本棚にあった『世界』のバックナンバーを読み漁ったものだ。13年前に東京に戻って読んだ『世界』は未だ米国批判だけだがこれは二項対立の静態では?

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118 磯崎新の廃墟の建築が好きだったのは何故だろう?大学は廃墟でなければいけないと言ったのは浅田彰である。色々な年代の人達が共有しているものー知識と経験ーは大切。差異だから

119 ローマのルネサンスを準備した建築の廃墟に来ると面白い。これは差異である。人類が共有している。差異の共有は、世界文化遺産のように共通であるものを共有することとは違う

120 藤沢にあるミニシアターに行った。街の中に溶け込んでいた。本がある知的な空間である。思春期の私のセックスとは何かを見せてくれる映画館のイメージはこういうものではなかった

121 雲は白い。雲は氷や水を含んでいるので光の乱反射による。えぼし岩は海底が上がって百年前に現れた。一万年前に生活していた人々が同じ雲を見た。自然で書かれている茅ヶ崎

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引用

ライプニッツは、人間の精神というモナドも、神と同様に、不完全であっても全宇宙を映し出し、人間の意志は神の予定調和により実現すると考えた。しかし、私たちが絶対な真理と思っていることが間違っていたり、絶対に実現するつもりだった目標が達成されなかったりすることがある。ライプニッツが信じていた動物の発生に関する前成説は間違いだったし、彼が意図したカトリックプロテスタント両協会の統一は失敗に終わった。予定調和が必ずしも成り立たないのであるならば、神は自らの内に矛盾を含むことになるのではないだろうか。」

124 『怒りの鉄拳』ブルースリーが演じた半植民地時代の中国武闘家のテレビドラマを見た。棒を以って暗殺者の剣を筆の如く動かせて「徳」字を地面に書かせた「中国はやっぱり凄いんだ」

125 仏共産党独ソ不可侵条約ヒトラースターリンが手を結ぶというカオスのためにヒトラーを支持しなければならなくなったのです。大混乱でした。たしか、カミュナチスを絶対悪と言ったことによって一致団結したファシズムの闘争が成立しました。どうしても、独ソ不可侵条約を超えるような、絶対悪についての語りは必要だったのではないでしょうか。だからわたしは今日プーチンは限りなく絶対悪であると考える見方に賛成です。もちろん国際法は大切ですしここから離れてはいけないとおもいますが、プーチンは自分で勝手に解釈した国際法的な立場から自己の侵略を正当防衛のように語っていますよね

126 フランスのヌーベルバーグは男女が車を盗んでは南へ旅していく。アイルランドのヌーベルバーグはアイルランドを一周して出発点に戻ってきてしまう。復古主義的である(笑)

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人間の精神はモナドである。鏡が全宇宙を映し出す。ライプニッツは予定調和的にカトリックプロテスタントの統一を考えた。彼の前はそんなふうに予定調和を語るものはいなかった。

朱子の性理学とおなじで、言語は世界にたいして透明になっているという。モナドにとって問題は何か?柄谷的に言うと、モナドは窓がないことだという。窓とは何か?貨幣的存在のことか

「表象の作用には、モナド間で程度の差がある。物質のモナドは不明瞭にしか表象しないが、理性や魂のモナドは明瞭に表象する。特に人間の理性は、モナドとして、自己を知り、神を知ることができる。」

ライプニッツモナドは全宇宙を映し出す鏡がある。それを描く/書くキャンバスが必要で、描く/書くものは、地域紛争を解決するために、アイルランドの演劇集団フィールドデイにおけるように、プロテスタントカトリックから同じ人数で構成されるべきだと私は考える

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ケルト的、プルースト

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ポストモダン建築の政治性

ブルジョアは世界を作ると宣言した。しかしそうして彼らの作った都市はどうしてかくも抑圧されて住めなくなるのか?ボヘミアン的芸術家アナーキズムブルジョア建築の近代を徹底的に拒んで、建築について脱近代の別のあり方を考えた。問題となっているのは、政治的なこと。ボヘミアン的芸術家アナーキズムは、過去の痕跡を打ち消す過剰な自己「否定」の曖昧さに、ブルジョアの都市のもとではやっていけないと批判する明確さを衝突させたのだ。マネーと技術と開発はどんどん進むが、移民国家的多元主義のデモクラシーはちっとも始まらない。移民国家的多元主義のデモクラシーと批評空間、こも両者は建築において互いに切り離すことができない。この点を日本において問うものこそが、ポストモダン建築の政治性だった筈だが、果たして成功しているだろうか?

 

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新しい普遍主義の再構成

カトリック(公同)という言葉は、元はギリシア語の「普遍的」・「世界的」を意味する“katholikos”に由来するとされる。ローマ教皇の首位権と正統性を認めるカトリック教会が他派と区別するために用いる自称。普遍とは正統である、普遍でないものは異端であるか。学者的議論において、普遍でないものは正統であり得る。アジアで唯一成立した普遍主義の朱子学中国文明からの自立を考えた国学多元主義であるが、和辻哲郎の近代からは、多元主義である宣長国学は正統とされ、篤胤の国学は異端とされた。これをどう考えるか?おそらく、普遍主義は、新しい批判的多元主義の方向を以って、普遍に依存しないあり方が問われる時代がやってきたのだ。この新しい普遍主義の再構成の足を引っ張るのが、正統か異端かの基準ではなく、われわれ自身かそうでないかという「OOファースト」的民族主義である。

131 英米で勉強している中国人は、フーコ『言葉と物』(Les Mots et les choses:)の英語訳The Order of Thingsで読んでいるのだろうか?男性原理の秩序の解体である女性原理を考えさせるが問題がある。ポストモダンは脱原理でなければいけない。そうだからこそ本質は個体的であるし個体的になっていく。社会主義が西欧とは異なる独自に多様なあり方でも、その国家は三権分立がなければ、それは全体国家である。中国はポストモダン的であるとは言えない

132 『グッドバイ・ゴダール』を見た。映画を取るのか、革命を取るのか。『東風』では撮影の仕方について俳優達と議論して多数決をとったが、それは無理なこと。監督は専制君主なのだ。ギロチンで自分の首を落とさなければならない

133 伝記的映画“グッドバイ・ゴダール”を観て伝記本三冊を思い返した。誰がいつどこにいたかを正確に記す伝記は軍事作戦の解説本から派生した。ゴダールの意味は書かれない

134 映画か、革命か?『東風』ではこの問いが極まった。監督は専制君主なのだ。ギロチンで自分の首を落とさなければならない。そうでなければ自分一人で仕事をする(『映画史』)

135 アメリカへ留学する人たちをみると、かつて中国に留学した僧侶を考える。一生懸命に勉強した。仏教徒朱子学の学問的文献を持ち帰った。彼らは鎌倉で幕府のために外交文書を作成したりしたようだ。わたしは米国のことは知らないが、ヨーロッパと共通なものをもっているはずだ。欧米に行ったら、世界文学・芸術論をベースに、ポストコロニアル精神分析フェミニズムを学ぶ。日本は50年遅れている移民国家的の価値多元主義は受け入れなければ新聞を読めない。もちろん死刑に反対するヒューマニズムを持っていなければ日本の中と違ってだれも相手にしてくれないだろう。というか、やっていけない。

 

 

アメリカへ留学する人たちをみると、かつて中国に留学した僧侶を考える。一生懸命に勉強した。わたしは米国のことは知らないが、ヨーロッパと共通なものをもっているはずだ。欧米に行ったら、世界文学・芸術論をベースに、ポストコロニアル精神分析フェミニズムを学ぶ。日本は50年遅れている移民国家的の価値多元主義は受け入れなければ新聞を読めない。もちろん死刑に反対するヒューマニズムを持っていなければ日本の中と違ってだれも相手にしてくれないだろう。というか、やっていけない。

136 “グッドバイ・ゴダール”の中で、晩年マルクスが関心をもっていた代数学で何を考えるつもりだったかを問う台詞が二回出てくる。トータルに、つまり総体の線形性の条件を満たす思考だろう。それに対してポストモダンは自然すなわち非線形性による思考だ

137 契沖のあのなんとも言えない柔らかな輪郭線は、狩野派の輪郭線ほど明確ではないが、池大雅の輪郭線のようには曖昧ではない。折衷とはそういうものではないか

138 国家中心主義の近代は終わった。国家が安定しさえすれば神と皇位に連続性に拠るべしの絶対保守主義でなくていいという意味で国亡に賛成するが、敵基地攻撃と防衛費倍増の国防は反対

139 ゴダールの言説的映画は、ナレーションほど明確ではないが、彼におけるレマン湖的境界線のようには曖昧ではない

140 労働者は貨幣賃金に依拠しているから短期的には実質賃金の低下を伴う雇用増を受け入れるとケインズは考えたが、マネタリズムはそれを認めなかった。長期的に貨幣賃金に同一化しない

資本主義は、短期的には、労働者にとって、不合理でも、不均衡を解決できる依拠できるものが存在するが、ただしマネーと財政を連動させなければいけないが、長期的にみて、合理的であるかぎり、その状態を同一化する構造は無い。しかし合理とは何か、政治にとってそれが問題である。その合理の下ではやって行けない明確なイメージが必要だ

141 茅ヶ崎のアジトにかえってきた。再び、文学機械と共にある。何の意味があるのか知らないでいるが、現実と和解できない時限爆弾としてのアート作品の制作に取り組むか

142 思想の歴史は野蛮の大陸にキリスト教を伝えたアイルランドの役割を認めながらアイルランド自体に思想の発展が無かったと考えていた。ケルズの書にただ文字を装飾していただけである。しかしフーコの仕事によって、文字の装飾が言語の存在を称えていた可能性があったことが気づかれた。ゲール語は話される言語である。たたえられた書かれたその言語はラテン語ではないだろう。たたえられた言語は、バベルの災厄の前に存在した物で書かれた物であると考えられないか。それを復興したのがジョイスの文学である。ジョイスのテクストについて最初に言っておかなければいけないことは、それは読むことができないという点である。『ケルズの書』をみながら書いた『フィネガンズウエイク』は、発見してくれるのを待っている物のようにある。どの文も自分で決めた亡命のアイルランドを指示した一文一文に、全体が部分の近傍にある。人間は感覚を研ぎ澄まして思い出すように、ジョイスの本は国内亡命を探す人々の未来に思い出せと語りかけるのである。ヨーロッパの基層にケルトがあると言ったのはレヴィ・ストロースである。ヨーロッパのギリシャ・ローマとは別のあり方を問題提起したが、しかしこれは極右翼を助け得る危険な言説でもあった。自立的一国言語(母国語)に閉じ込められてはいけない。

143 日本語を大学生に教えたとき、アイルランドが日本語をどう聞くのか興味をもった。言語の音の全体的な配置がわかる。わたしが気がつかなかったことも指摘された。ところでサンスクリット語ではアーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])、漢字音はアジャリ(阿闍梨)。どうして?そう聞こえると気持ちがいいとしかわたしは説明できない。

144 法事の坊さんが故人の話をしてくださいと言っていた。それが場所を正すことになりますからと言う。と、わたしは元号に反対していることを親戚の前で話していた。何か集会みたいだが、義理の父は戦争で苦労していて反対していたのだ。しかし場違いかなと思っていたら、義理の母が、勤労奉仕のときに校長先生が御真影の前で教育勅語を読み上げた記憶を語り出した。毎日天皇に感謝しながらの勤労奉仕ばかりで勉強もできなかったらしい

145 五山文学の漢詩は、海とか空に、分節化されない己を投射しているかのようである。しかしほんとうに海や空が声におけるようにそういう自己自身でしかなくて、もので書かれたものではなかったら、他者に何かを伝えることがないだろう

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147 朝寝したい。物で書かれたものを起きずに考える。尚書を読んだ儒家国学である後期水戸学は、物(天皇)で書かれたもの(聖人)を考えた?類似していたから?未来を思い出す

148 物で書かれたもの。神(カミ)で書かれた神(シン)。復古主義における未来を思い出す類似の想像力。これは芸術家が和解できない現実を構成した起源に絡みとられる主体の思考だ

149 日本人はコミュニケーションが欠けると言われると軍国主義的規律を以って克服する。こだわりを示すからつまらないのに原理主義的こだわりを示してどんどんファショ的になっていくか

150 国の力はそれが持つ美術品の多さであるとサイードは言っていたのに、国宝を維持できずに、<どうだ凄いだろう>と「クールジャパン」のナショナリズムが叫んで至福の極みである

151 極右翼は国会を攻撃しているが、それはうまくいかないだろうね。そういうことは左翼が既にやって失敗を証明した。現在その左翼は中央銀行に抗議しにいく

152 いまヨーロッパで、植民地時代にアフリカなどから奪った文化財を、もとの国に返還する動きが広がっている。日本も五百年前から朝鮮と中国から奪ったものを返さなければいけない

153 知識人は故郷がない。日本知識人の土(地)に対する執着は世界で例をみない。これが不合理なものでないとしたら、<神道に救い無し>に対する民衆救済の言説を語ってきたのか

154 遠近法の原罪とは此方からみえる彼方が小さくなってしまう点にある。この体制はいかなる条件において成立したか?レオナルド・ダビンチの宇宙の中心に来た女性によってである

155 仏や伊で十年修行すれば料理をもつ。私も十年以上外にいたのに思想を持っていない。普遍という名の脱普遍の批判的多元主義を考え始めたが神の問題と向き合っていなければ意味がない

156 今日は六年ぐらい行っていない三浦半島にある父の墓参りするか。私も父の遺骨が撒かれる湘南の海が死に場所になるのだろう。その帰りに、鎌倉の野菜市場に行くのもいい。

157 フーコはデカルトについてアイロニを書く。我考えることができるものを考える、ゆえに我ありと読む。近代人は起源を考えることができないから、信じるしかなくなるという

158 林達夫といえば、アイロニの精神。アイルランドの文学的書き手が綴った一行には少なくとも四つや五つのアイロニあり。有りの儘に一頁読んだら、すげー性格が悪くなっていると思う。

昨夜は鵠沼海岸近くにあった林達夫の庭について思った。戦争批判の庭を伝統的日本讃美の庭と軍部は勘違いして『作庭論』出版を許可した。藤沢市はなぜ残せなかったのかな

157 普遍という名の脱普遍の批判的多元主義を最初に考え始めたのはカラバッジオだったとおもう。飛ばない天使を描いた。神と平等の問題と向き合っていなければ意味がないと考えたことも

158 ヘブライ語聖書の英訳について説明した本を立ち読みしていたのでユダヤ系店員から不気味がられていたが、カフェで本ばかり読んでいた私を聖人だと教会シスターズが祈っていたらしい

159 バロック絵画は、理念が遠くに行き過ぎる高慢(光)を闇がおさえこんでいるようにみえるが、その理念性はまだギリギリの理念でしかない。極限的に豊かなもの(光)と、極限的に乏しいもの(闇)との対比のあいだに立っている人間を語っているとみるべきか

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MEMO

軋轢は激しく、漢人はさらに華南から東南アジア、アメリカなどへ移民として流出していった。

・土司は、元代以降、中国と直接境界を接する諸民族において、ある民族が一国を形成しないまま、分立する各地の支配者が個別に中国王朝と交際する場合に、州・県の知事職や、衛所制にそった軍事指揮官の称号を受けた者たち(羈縻衛(きびえい))を指す。清においては、さらにこれらを区分し、軍事指揮官の称号を受けた者たちを土司(aiman i hafan)、州・県の知事職を受けた者たちを土官と呼ぶ。
なお、土司・土官における「土」とは土着の意で、先祖伝来の所領において世襲でポストに着くことを指す。科挙を経て任官する官僚が、出身地のポストに赴任することが禁止され、数年の任期ごとに各地のポストを転々としたのを指して流官と称するのと対比した表現である。
これら非漢人世襲の諸侯領を廃止して中国に組み込み、科挙官僚である流官を派遣して統治する地域に改めることを「改土帰流」と称する。ーWiki

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ラス・メニーナス』はピカソによって再構成されている。幾つもの作品がある。ピカソは仮面に大きな関心をもっていて、『ラス・メニーナス』は仮面だったからではないかとする説があるのが面白い。絵を見てすぐ気がつくことは、ヴェラスケスが明確にした部屋の内部/外部の区別は無くなっている。画布は斜線になっている。画家の姿は無い。「極めて豊かなもの」(暗闇に現れる光、色、表象的形象)と「極めて乏しいもの」(闇)との対比がある。両者は仮面(=絵画)において互いに切り離すことができないが、われわれは思考の順序として顔の下にある「極めて豊かなもの」(仮面)から見始める。「極めて乏しいもの」(顔)を後にみる。「これは何か?」の問いの答えがひとつの原理によって支配されないようにである。

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利休の切腹の原因は諸説あるが、リアルな権力者に近づくことは危険であることは、昔も今日もおなじではないか。芸術の世界が同時にいかに成立と消滅に関わっているかを作家は書く

利休の切腹の原因は諸説あるが、野上弥生子の小説では「唐御陣」の無謀な出兵を咎めたとされているようだ。思想的には、西欧もアジアも外部へ出ていく世界システムの成立の時代だ

163 はっきりしたことは、平和憲法で日本人は変わったというのは幻想であったこと。戦争神社公式参拝の効果があったこと

穏健に喋る知恵もありそうな美容師コンサルタントの男がYou tubeで喋っていました。防衛費増大は日本人が考えるより大変なことが起きているかもしれないので仕方ないと。わたしは驚きました。反対じゃありませんか。日本の防衛費増大が他国への脅威となっている、このことが「大変なこと」なのですよ

盧溝橋事件のように自己の攻撃を過小評価し他者の攻撃を過大評価する日本人。自己の集団的自衛権の行使で、日本が攻められてないにもかかわらず敵基地攻撃を日本がやるのである

戦前の文学を読むと、戦争がやってくるまえは、軍事費の増大と貧富の格差の拡大が一緒に進行している。

戦前の文学を読むと、戦争がやってくるまえは、軍事費の増大と貧富の格差の拡大が一緒に進行している。

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縁があって高台寺の和尚と一緒にお茶を飲んだことができただ、茶道も仏教にもあまり関心がない。だが16世紀の町人階級が利休がそうであるように仏教をどう理解したかは興味がある

堺からきた京都にきた伊藤家は材木屋で、伊藤仁斎は上流階級に属していた。17世紀の伊藤仁斎は、儒学の『古義堂』に学びにきた貴族達から仏教的な道の意義を説かれた可能性がある

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「宗易」が法名である、利休の名は「利を休む」の意である。16世紀の利休は草庵露地の詫び茶の理念性を我が物にする。野上弥生子の小説では、魚問屋の主であった利休は毎日必ず帳簿に目を通した。茶人と商人、この両者は利休において互いに切り離せない。利休を自分達の茶頭とした、信長と秀吉は、堺の商人の力を必要としたのである。17世紀は学問(儒学)によって脱階級化が起きた。『童子問』は有限性に即してカント的理念性が要請されてくるあり方を読むことができる。16世紀はそれまでの歴史に大きな知の境界線を引くことができる。アジアの知識革命である17世紀が京都において始まる

伊藤仁斎孟子なので易姓革命の考えをもっていたのだろうと思われるが、仏教的語彙である道を強調したのは、徳川幕府から警戒されないようにという貴族達のアドバイスがあった

168 憲法改正自衛隊を外部に出れないようにして台湾と東アジア海情勢について会議するという形があったと思うが、反中の安倍の視点から台湾を守るということになってしまったらしい

169 カントを考えるためにデカルトからカントを語るよりは、ポストモダンがやったように、外部に出たデカルトを考えるためにカントからデカルトを語ったほうが面白い

170 カントを考えるためにデカルトからカントを語るよりは、ポストモダンがやったように、外部に出たデカルトを考えるためにカントからデカルトを語ったほうが面白い

171 利休の切腹を描写した場面が気になるので数百頁先を読んでしまった。実際は秀吉の決定の知っていて、処刑を告げる使者がくる前に、風呂の中で手首を切って自害したらしい。『秀吉と利休』の書き出しは朝風呂からだったことをおもう。野上弥生子は事実とは別に大広間で利休が切腹した文を書いた。介錯の様子を読んで、アイルランドに上陸してきた野蛮なバイキングが僧侶達の頭を棍棒で砕いた話を思い出した。一振りで1000冊の本が失われたと言われた

172 利休の切腹が気になるのでこの場面を描写した数百頁先を読んでしまった。実際は秀吉の決定の知っていて、処刑を告げる使者がくる前に、風呂の中で手首を切って自害したらしい。『秀吉と利休』の書き出しは朝風呂からだったことをおもう。利休の肉体を書いた本である。野上弥生子は自害の事実とは別に、大広間で利休が切腹した文を書いた。介錯の様子を読んで、アイルランドに上陸してきた野蛮なバイキングが僧侶達の頭を棍棒で砕いた話を思い出した。野蛮の極み。棍棒の一振りで1000冊の本が失われたと言われた

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フーコの仕事だが、外部に出たデカルトを考えるためにカントからデカルトを語ろう。それをアジアの日本思想はどう考えるかを明らかにすることが私ができることかもしれない

174 フーコの仕事だが、外部に出たデカルトを考えるためにカントからデカルトを語ろう。それをアジアの日本思想はどう考えるかを明らかにすることが私ができることかもしれない。
思考できないものを思考すること。それは、漢字が無言に占拠している『古事記』から逃れる漢字エクリチュールを考えることだ。つまり外部性の頑固な形態において考えることである。中国知識人と朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人(1000人の太安万侶たち)が『日本書紀』を書いた。『古事記』の成立は『日本書紀』と共にある。漢字を借り物と考えるような起源の思考は、日本人の起源的偶像を作ることでであり、移民国家的多元主義の時代にあって時代遅れのものである

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戦争は私達の眼差しを私達の欲望にかなう世界に置き換える。戦争神社公式参拝してきた、「反撃能力」と語られる日本人の侵略の欲望。安倍の夢を叶える

176 [...]カロリング王朝の核となる地帯—フランス東北部とドイツ西部—は、まさしく、古典という観点からすれば、一種の文化的真空地帯を代表した。(E.パノフスキールネサンスの春』)

177 「無誤謬の神話」を考えた東大や早大の学生の70年の運動の失敗の後は近代を問うた。周辺大学が担った反(脱)原発運動は挫折したとき「間違っても自由に喋らせてくれ」と初めて言った

178 「恥を知れ」と言われても、「自分は潔癖だ」と思っているのだろう裁判官は、問題はそこではないのだが、あの潔癖感はどこからやってくるのかと不思議である。国家からか?

179 

Godard deuil 
ゴダール喪中
子供に抱えられた死に装束
言語は投射を表象する死に装束に絡みつく

映画とは何かについて学者的議論があった。視覚に依存した映画に思考を取り返すのが古典的デコパージュを擁護したゴダールの思考の形式だった。頑固な外部の投射としての思考の形式を表象しなければいけない

180 秀吉が利休に腹を切らせた理由は何か?処刑によって、秀吉の権力に文化が従属した。それは、京都から連れ出した文化権力の天皇への権力の集中のように隙間なく覆い尽くした全体だ

181 

本質なき分節化のような..

「彼が取りあげたり、湯を入れたり、すすいだり、拭いたりするというより、道具の方からそれぞれに動いて、運びをつくって行く。絶えず淀みなく流れる水を、あの水、この水、と指し示すのは難しいように、・・・利休はちょうど軽い小舟が水のままに浮き、流れるに似て、眼に見えない自然な作用に淡々と身をまかせているの過ぎず..」(『秀吉と利休』野上弥生子)

182

不況が深刻な英国は現在ストライキで救急車が来ない。救急車が来なくて自宅で心臓発作で死ぬ人も。Brexitの保守党政権が続いて、発展途上国みたいになってきたと言う人もいる。

G20ロンドン開催に抗議したデモに参加したが、これでサッチャーリズムの労働党政権を倒したら、保守党が政権を取ることになるがそれでいいのかと問われた。責任を感じる

183 救済されることを信じることは思考できないものを信じることである。救済されないことを考えることは思考できないことを考えることである。ダンテは愛によって天へ行けると考えた

知識人は自己なら救済できる。しかし知識人は他者(大衆ー日本人)を救済できない。不可能だからこそ救済は意味があるのだ。親鸞は救済をはじめて語った。彼の前は誰も語らなかった

184 西田幾多郎吉本隆明も最後は親鸞だ。日本知識人は親鸞に行きつくのは何故か?知識人の親鸞は『教行信証』で救いに対する無力を書いていた。日本人は救われない。これではないか

185 利休のこちらからみえるあちらとは、草庵露地の詫び茶の理念も金ピカの茶室を可能にした秀吉の交換可能なあり方だったのではないか?利休が依拠した東アジアの普遍主義を侵略した

186 英語圏の国に暮らしていて思い悩まされたのは、英語で考えても漢字でなければ精神的価値のあるものかと。これは仏教は翻訳漢字で伝えられたことによるか。ドイツ語のカントの英訳を読む時もそうだ。英語で読んでもフランス革命を経験したフランス語でなければ政治的に価値あるものなのかと思ってしまう

187 年金問題でフランスで100万人がスト。移民の暴動のときは、パリは車が焼かれる。ロンドンでは人が殺される。ロンドンの移民は心底、英国を憎んでいるからだと言われる

188 同感

「私の眼にはサドという人間が規律本位の社会、つまりきちんと時間割がなされ、空間が基盤目状に区切られ、服従と監視の体制がとられた規律ずくめの解剖学的な階級社会に特有のエロティスムを仕立て上げた張本人だとさえ見えなくもないんです」ーフーコ『サド、性の法務官』

189 「理先気後」は、理気の両者は人において互いに切り離せないが、先ずは理からという思想を言う。しかし気=芸術家だとして、芸術家は理の共和国から追放される。朱子学の無理を思う

190 

ネットの時代の独裁者

商社の人に見られる現象ですが、企業戦士のときは日本を売ってもいいと語るほど「自由」ですが、引退すると、殆ど例外なく、異常な愛国者になりますね。反動というよりは、長い眼でみると、フリーマーケットとウルトラ右翼は両立するようです。逆に言うと、ネットを利用する右翼が何を企んでらんいるかバレバレになってきたんですがね。
「孤独の病」だなんて、心の中を分析してもうまくいかないのではないかと思います。むしろ反対に、ネットによって、「孤独な人」は消滅したのではないでしょうか。しかし映画の話題を投稿しても、全く反応がないのは寂しく思います。
ただ媒体は媒体、問題は戦前との連続性を回復する高まってきたナショナリズムではないですかね。
最後に気になるのは、ネット形成に関わる人たちが独裁者敵パーソナリティをもつという指摘があります。マスクとかひろゆきを思うのですが、嫌な感じですね。
マスクについて色々苦労してきた記事をちょっとだけ読んだことがありますが、ビジネスについて正直詳しく知りません。ただしそのように指摘されているのを知って、彼のマスコミ批判(非難?)はどういうものなのか考える必要を思いました。普通の意味では、独裁は権力の集中を意味すると思いますが、ネットの時代の独裁とはなにか?新しく意味が違ってがくるのでしょう。
最後に、独裁者的ではないですが、中国はすごい、カネと技術と開発を無条件にたたえるホリエモンみたいなひとをみると、アジアは全然民主化しないことに危機感を感じないような独裁の共感をもつオピニオンリーダーの存在を思います

191

192 問題は、自然に関わる経験ー何でもかんでもカネがモノを言う一国市場神話の破綻ーが必然的な諸判断ー国家中心主義の帰還ーを生じさせるがいかにして可能かではない。グローバルデモクラシーが要請される

193

194この国は戦争ばかりしている

195 朝ゴミを出しに行く。子供の通学する時間である。彼らはテラスの中に立てかけてある自分の絵を見て道に自由に落書きしている。こどもたちがどう理解しているか何だか楽しい

196 アイルランドの知識人はジョイスのキュプロスについての語られ方を注目した。ジョイスは反ナショナリズムとされてきたが、彼のナショナリズムの理解はそれほど単純ではない。イギリス人のヒューマニズムからみると、アイルランドナショナリズムは単眼のキュプロスである。しかし帝国主義者がベルギーの住民を鞭で打つという記事に涙を流しているのは嘘ではない。すでに、ギリシャ時代に、キュプロスについての語られ方が変わったらしい

197

198 スコットランドは英国のために帝国化することを拒む。何故イラク戦争イラクの民を爆撃するためにその税を負担しなければいけないのか。権限譲渡で事実上独立していると言われるが、独立の国民投票が必要なのだ。また北アイルランドも、誰がアイルランドの為に考えるかというと、それはアイルランド人自身であって英国ではないのだ。

199 満洲国の五族共和国の理想はインチキなほど高慢だったが、中国における飢餓の解決に役立つことはあったかもしれないが、結局帝国化して日本の中国軍事支配の外交?を裏付けたんだよ

199 

197 思想(史)は思考できないことを思考する。芸術は表現することを思考する。表現とは何か。時枝は枠組みを超えるあり方を表現と呼んだことは参考になる

198 戦争体験は伝わらないものでなければ、戦争はピカソゲルニカにおいて描かれているように、思惟の表面に書かれていないから、忘れられてしまうのではないだろうか

199 国鉄分割民営化ー国鉄の解体ーは80年代中曽根政権が行ったものでした。これは、組合的なものの消滅以上のものを意味しました。つまり従属しない日本の消滅を意味したのです

従属しない日本の消滅は80年代の中曽根政権に始まり、福島原発の爆発は2000年小泉政権に始まっていた。絶対的保守主義はこれから日本の主流となるのは安倍政権によってである

200 野上弥生子の小説を読むと、秀吉をはじめ家康とか他の大名は茶や能謡などの芸事で忙しいんだね。戦国大名の彼らは元々、京都に守護大名として居た。京都の貴族から馬鹿にされながら歌を作ったりしたのだろう。応仁の乱を契機に、守護大名は国に戻った。そうして彼らの持ち帰った文化と共に、沢山の小さな京都が日本中にできたという仮説はかなり説得力がある。「秀吉と利休』では、天皇や貴族の記述は殆どないが、僧侶と町人が登場する。彼らは秀吉を囲んでいる。利休は秀吉に必要とされたし利休は草庵露地のわび茶の理念や金ピカの茶室を作るために秀吉を必要とした。

201 現在も、芸術に触れたら、日本の中にいたいとは思わないのである。外に出ていく

202中国の帝国(明)の崩壊は、アジアのコスモロジーの終わりを意味しなかった。条理学の三浦梅園においてみられるように、形而上学の思考に経験性の領域が与えられる。古学が成立する

203 野上弥生子は利休が手がけた庭園の描写が見事なのだけれど、日本庭園というのは扇子ー何か光と暗さを折りたたんだ襞のようなものーを開いた広がりなんだな。言葉の曖昧な領域である

204 野上弥生子は利休が手がけた庭園の描写が見事だとおもう。日本庭園というのは扇子ー何か光と暗さを折りたたんだ襞のようなものーを開いた広がり。言葉が自ら逃れる曖昧な領域である

205 光の裏側もあるし闇の裏側もあるが、光の裏側が闇、闇の裏側が光というように、再び光と闇を構成するわけではない。光と闇は裏返せない平面を占拠する硬い外部性によるからだ

206 

207

アジアの政教分離とはなにか

室町の権門体制は天皇と貴族と寺社の支配だ。明治の新権門体制は下級武士・軍人・官僚・宗教家が加わった。明治日本は江戸よりも平等が進んだのは勘違いで、支配者が増えて不平等は拡大した。江戸も平等についての思想があった。公共哲学もあった。ただ西欧のように平等を実現する方法を論じることは、武家政権だったから危険だった。明治はヨーロッパ思想によって平等を実現する方法を論じた。しかし明治は不平等を解決したのでは全然なかった。自由民権運動は敗北し、国会は政府が作ったのである。
日本の歴史において中世以降は天皇は文化権力の中心にいる。徳川日本の武士政権は天皇を京都に幽閉することに成功した。津田左右吉によると、これは政教分離を意味していた。ところが明治維新のとき薩長は京都から天皇を連れ出して、王政復古で、文化権力である天皇に政治権力を集中させてしまった。これは何を意味したか。日本人の心のなかに政治権力の網目がはられることになったと考えられる。明治は元勲は天皇を利用しこれをコントロールしたが、大正には元勲がいなくった。昭和10年代は国家祭祀で死の権力を主宰した天皇ファシズム軍国主義とが同じ方向を向いた結局、「おまえは非国民だ」と指さされたら逃げ場がなかったと証言される。総力戦の時代とはいえ、とりわけ日本の戦争が悲惨を極めたのこのことによる。

208 

209 

ユリシーズ』の中でステイーブンは歴史の悪夢から目を覚ましてくれと叫んでますがね。日本の場合は、クーデターで成立した近代国家日本は「正しい始まりを持たない」。「正しい始まりを持たない」歴史が反復する

人間がただ自分自身の魂の怪物と戦うだけでよかった最後の平和な時代、ジョイスプルーストの時代は過ぎさりました。カフカハシェクムージルブロッホの小説においては、怪物は外側から来るのであり、それは《歴史》と呼ばれています。ークンデラ講演「セルバンテスの貶められた遺産」

210

水平的平等は生まれの平等をもって平等が主張される。政治的平等である。平等は水平的平等だけでなく江戸思想において論じられた垂直的平等ー天下的平等もある。私の理解では、色々なアイデンテイテイがそれぞれが責任をもつ天に向かって平等とされる。独立した国家がない倫理的平等である。

211 安倍は台湾を守ろうとしたのは反中だからだった。それに対して、われわれが主張したいのは、台湾を守るのは破綻した国家日本が目指す新しい理想であるからだ

212

『言葉と物』で言われる<物>とは、上に行ったり下に来たりするもので表象される「道」である。仁斎は「路」と呼んだが天地の往来を「道」と『尚書』が呼んだ再発見でもある。ところで物に残らない神とは何か?物で書かれた物に見出されない鬼神とは?鬼神は亡霊であるが、これは世界を照らし返す精神なのか?

212 

ラッセルのスピノザの評価は高いんだよね。

スピノザの神は数学みたいだと言うんだね。スピノザの神は人間のようだと言われるけれどそうではない。数学はわれわれに関心を持たないように神もわれわれに関心がない。無関心な神は数学は人間でもないし宇宙の全体でもないように人間ではなくまた宇宙の全体ではない。

"I like mathematics because it is not human and has nothing particular to do with this planet or with the whole accidental universe – because, like Spinoza's God, it won't love us in return."

スピノザはモーゼをイメージと関わる預言者と考えた。これは論争を招いた

"If I had as clear an idea of ghosts, as I have of a triangle or a circle, I should not in the least hesitate to affirm that they had been created by God; but as the idea I possess of them is just like the ideas, which my imagination forms of harpies, gryphons, hydras, &c., I cannot consider them as anything but dreams, which differ from God as totally as that which is not differs from that which is."

213利休の切腹は、大徳寺にあった彼の木像が理由だという説もある。寺内の公の所に設置されたのを私物化したと憤慨した秀吉の様子を小説は描いているが、「公」って何だったのだろうか

214 岸田の耳はロバの耳。私も自分ほど他人の話を聞く人間はいないと思っていましたが、「この人に何言っても無駄。何も聞かない」と言われ続けました(ちゃんと聞いてるでしょう)

215

わたしのような思想アマチュアスピノザをどう読むか

スピノザといえば、普遍主義のチャンピオン。だから『エチカ』とかラテン語で書いたしまた書かなければいけないとされていました。メモで、「この言葉で」書いたらもっと上手く自分の考えを伝えることができるとオランダ語で書いていました。「この言葉」とはヘブライ語語でもオランダ語でもなくてラテン語だと言われていました。これは普遍主義についての語られ方ですね。ところが、ポストコロニアルの時代ということもあるのでしょう、「この言葉」はイベリア半島から来た祖父が使っていたポルトガル語ではないかと考えられる可能性があるのだそうです。
そこから、普遍主義について考え直すことになりました。普遍主義はひとつではないということとか。普遍の多様性というか。朱子学も普遍主義ですよね。
現代中国語をフルに読める溝口先生は大プロジェクトで朱子の役を作っていますが、立派なことだとはおもいますが、12世紀の朱子より近かった17世紀の江戸時代の朱子学の理解の方がほんとうではないかと考えはじめました。特に鬼神論についての議論ですねー鬼神など迷信深いものに絡み取られてはダメだという近代主義的解釈をとるのです、溝口先生は。古学は、生と死との切り離せない関係を前提にして、プライオリティとして先ずは生から物事を考えようというものです。南先生は日本儒学の漢文書き下し文をインチキと読んでいたそうですが

216 

スピノザをたたえましょう

あれだけの大思想は商人のスピノザがどうして到達できたのか謎ですが、当時ヘブライ語聖書を読む知識人たちとの交流があったようですね。聖書は神が単数形だったり複数形だったりするらしいのですが、哲学ではこの矛盾を論理的に解決しなければいけませんが、論理が問題とされない文献学においては書いてある通りそのまま読めばいいのだと言っていたそうです。ま、宣長は文献学でしたが、篤胤は哲学的・神学的でした

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219 アイルランドの西岸へ行くと、ケルトの民が来た所に来る。崖。海。岩岩。先住民は消滅していた。その古代の人々がやったように、ケルトの民も海からの強い風を岩を積んで防ぐ

220 アイルランドの不毛な西部へ行くと、絞りは何か、アングルは何かわからなくなって自失呆然。ここであなたはフォードのように強力な物語を作るか、ベケットのように物語を書かないか

221 「奇想」は「因襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想」とされる。円山応挙における、描かないもので書かれる差異としての余白。しかし元々の描き切った中国画の構想力も凄いとおもうよ

「奇想」は「因襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想」とされる。円山応挙における、描かないもので書かれる差異としての余白。しかし元々の描き切った中国画の構想力も凄いとおもう

222 黄昏のなかの富士山の姿は濃淡だけで日中に見るくっきりした線がない。此方からみえる彼方は線がない。線のない世界を考えることにどんな意味があるのだろうか

223

分割しない線を見る?

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おそれながらわたしのGodard deuil ゴダール喪中も

「似絵であり、模造であり、表現であり、表象である書物は、みずからの起源——また規範(モデル)——を自身の外にもっている。すなわち「事物そのもの」をもっている。」ーデリダ『散種』

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東部13州と連邦制の歴史、ニューディール最高裁のあり方(司法積極主義と消極主義)、大儲けした日本との戦争、これらが米国の連邦制を形成しているが、その連邦制は国家をモデルとしている点でウエストファリアー体制にもとづくと指摘しているのはネグリとハートである。この国家に乗っかって、世界資本主義が量子力学的にグルグルと回転してスーパー稲妻を発しているいるというのがアメリカのイメージである

中絶の権利が政治的問題となる現在の米国を理解するためにはトランプの登場だけでなく東部13州と連邦制の歴史も理解すべきだと宮台は語るのは本当だ。原理主義国家の出発がある

イラク戦争について戦略的に反米主義を訴えるやり方はリベラルが「あり得ない人」を擁護しているという感じである。だがもっと単純に愚鈍でなければやっていけなくなるのではないか

 

マルチチュードスピノザ論の文革を評価する文は疑問だ。資本主義は暴力革命によってしか倒せないと言って、ピケティ が提案する社会的コントロールの民主主義をしなくていいのか

 

他との相互関係で豊かになる文化を排除する差別主義者の憎しみは痛さ(物理的な)である。国家日本のアイデンティティがあるとして、彼らのアイデンティティとする『日本書紀』は中国知識人と朝鮮人と彼らが育てた日本知識人が書いたものである。『古事記』は先行する中国の漢字文明の成熟なしには成立しなかった。外部との関係を持った『日本書紀』『古事記』に書かれた漢字の豊かさを無視して、漢字を借り物としてしまうのは、オリジナリテイ(固有性)にこだわる貧しい孤立である。しかしこのような孤立をすてて、他者と共にある愛に戻って来る必然がある。なんといっても、孤立は身体を傷つけるからである、愛は、スピノザ『エチカ』で語られている、存在としての共通のものではないだろうか

226 

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反中のくせに一帯一路を褒めていたのは愚か者だと思った。またこの人は北一輝社会主義を国家に託したのに、国民に託したと喋っていた。明らかに反権力的だが権威的なんだね

228 私の母は何十年付き合っている人を毎回初めて会ったかのように挨拶するし、全く見知らぬ人をずっと知っている。しかしこれは一つのことが二つに現れているのかも。絵で表現できるか

229 ドンキホーテは風車に突撃した。オランダが風車に書かれていたから。近代は意味されているものが違うと考えるが、彼は書物ー物で書かれる物の世界に生きているからリアルであった

230 中国画に余白があるが、余白を飾っているのは円山の日本画からだよね。小津映画における空のショットもそんな感じで、transitionを飾っている

240 飾るものと飾られるものとの関係が逆転するところが面白いよね。飾るもの(利休)と飾られるもの(秀吉)との関係も安定していないことを小説を読みながらおもう

241 仮名なんて漢字の文を読めように作られたのだ。それがどういうわけで日本語の起源になると言われるのか?捏造された起源では?宣長の答えは、『古事記』と私が向き合うだけである

242 谷崎の『細雪』の書き出しは、「「こいさん、頼むや。」鏡の中で、廊下からうしろへ入ってきた妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、そちらを見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら」。まるで文楽の舞台みたいだ

243 古代は男尊女卑はしょうがないが、能力さえあれば当たり前として女性天皇が成立した。『古事記』の完成と遷都を行なった。近代の男尊女卑はいくら能力があっても天皇になれない

244 ダブリンは本を鞄の中に入れずバンドでしばる。10冊縛っている人もいる。カフェでどんな本を読んでいるかわかる。声をかける。what is Dublin? profane

茅ヶ崎はずっと風が吹く。大きな白い雲が動く。空気がいい。茅ヶ崎は船である。

245 『秀吉と利休』は放蕩息子を書く。家業を継ぐつもりもないし、父兄達のように茶の道へ行く気持ちもない。女と南蛮船で逃げるか、倭寇にでもなるか。昔は映画館がなかったからなあ

246

アジアのなかの日本であることは意味がありますが、はっきり言ってしまうと、日本はヨーロッパと全然違う方向に行くと失敗してしまいます。文化多元主義に遅れた日本は50年ぐらい時代遅れです。ひとりひとりがマイノリティーである時代なのに みんながおなじである国家でなければいけない変わらないあり方を選択しているかのように考えていますが、根源的誤謬です。日本人はこの50年間、何の感性の成長もありませんでした。国が変わらないことを望むかのように政治家はいいますが、それは捏造された起源です。それは、絶えず発明しなければ化石になってしまうことを知っている保守主義ではありません。現在の自公民を支持する日本人は他者との交流を通じて豊かになる文化を拒んで、生活手段に隷属している動物とおなじです。

247

正しいことを自由に言わせてくれ
間違っても自由に言わせてくれ

248

右翼も『構造と力』を読むという意味で、フーコ『言葉と物』と同様に、古典となりました。構造主義は消滅しましたが、ポストモダンも日本において絶滅の危機。絶対的保守主義の近代が主流になろうとしています。『構造と力』 はこのような40年後を考えていたでしょうか。
安倍の体制はいきなり来たのではありません。それは1980年代において構想されていました。靖國公式参拝と、解釈解決による軍国主義国家神道の復活。原発体制から核体制への移行。皇室に依存しない天皇教は、絶対的保守主義(国が安定していれば、神と皇位との連続性に寄るべし)ともに、自民党LGBT否定の本質主義に体現されている

249 2683年前の神武天皇を祝う今日は神と皇位との連続性を教える。かくも捏造された起源を指して、 LGBTを排除する岸田は” すべての人が生きがい感じられる社会を” と宣う

250 レバ肉食べた、窓にぶつかる二匹の蝿の交尾を見て妻への思いに耽るブルームのように。この場面は大飢饉を表象せたとアイリッシュの作家が言う。あまりにポストコロニアルな..

251 池大雅の、印象派の絵画のように?描かれた中国の風景画(山水画)は、彼は実際に中国を見たわけではなかった。一枚を見た人が1000人いれば、絵が1000種類増殖していく

252 『秀吉と利休』の最後は、父利休の処刑のあと、放蕩息子が行き場も無くなって老いた売茶にくっついていく。秀吉と利休の天下茶は窮屈であった。心が依拠できる大きな世界を求めた

253

日本人は読書人である知識人が論じた精神を理解できなかった。ドイツ語ではGeist 、英語はSpiritである精神とは何か、これを朱子学的に考えると、精とは、こまやかに、くわしくする。またまじりけのないものを意味する。北宋画のゴツゴツした岩で「精」字で語られるものは書かれると考えてみる。精神は、魄である身においてある<精>と、魂である心においてある<神>とから成る。朱子が体系づけた理気二元論において、魂魄は何方も気であるが、死後の世界を投射できるようになった。ここから、死後の世界から理気二元論を投射したのが鬼神論である。つまり死が生の世界を根拠づけるのである。つまり精神である。さて中国画を語る批評は肉感性と精神性の一体としてあると考えたが、日本人は精神を理解できなかった。批評が語る精神を理解できなかったこの中国画の理解の仕方が日本画を構成していくのではないか

254

ベストセラーの『論語』は、何千年の学者的議論が全く無視されて、社長の自分語りに都合よく利用されているが、原発再稼働を求めた大企業系組合によっても都合よく利用されている。

255

死後の魂と肉体を魂魄という。朱子理気論では両者とも気である。肉体は鬼として地に消滅する。魂は神として天に登る。子孫に祀られる精神Geistとなる。そうしてアジアのコスモロジー朱子理気論によって完全となる。しかし精神は愛するためには肉体が必要ではないか

255 カントを分析してみせたドウルーズを生命論のベルグソンの継承者としてまとめる評価があるが、反対である。カントが語った自らを超える諸機能のあり方を差異として思考したのである

266

論語子路(しろ)に、こういう話が出ている。「教えざる民を以(もっ)て戦うは、是(こ)れ之(これ)(民)を棄(す)つと謂(い)う」と。

この「教えざる」の「教え」について老生は軍事訓練と解釈している。すなわち軍事訓練をしていない兵を使って戦闘するのは、軍事(防衛)力がなく、兵を棄てるようなものだの意。

となると、祖国防衛の基礎訓練は、中・高校あたりから始めるべきではないか。

戦いは死に直結する。『論語』述而(じゅつじ)に曰(いわ)く「子(し)(孔子)の慎む所は、斎(さい)(祭祀(さいし))・戦・疾(しつ)(病)と」。

論語』の実践として、主に教育論の言論、講演活動を行っている。「儒教の本質は、生命の連続を大事にすることである。祖先からずっと伝わってきている生命を後世に伝えるために自分はここにいる。それは自分だけでなく、他人もみんな伝わってきた生命なのだから、それを絶つな」としている。

加地伸行

MEMO
元号を法制化して、存続させることを決断したのが、時の総理大臣、福田赳夫。多く省をおさえていたボス

 

267 権利のない社会に反対!五輪前の築地市場豊洲移転、五輪後の神宮外苑再開発計画、権利を奪うすべての根拠が利権的腐敗から派生しています

268 スコットランド啓蒙主義は、信教の自由と教会を全否定しない。朱子学啓蒙主義も原始儒教の祖先崇拝を捨てなかった。その理性的な独立の考え方はナショナリズムという感じがしない

269 イギリス法の権限移譲で軍事と放送を除いてスコットランドは殆ど独立しているようにみえる。しかしNHKニュースの解釈の中に国家があるように、放送権が問題なのだ

270 ナチススターリニズムを批判する方向は同じである。ところが天皇ファシズムに抵抗できた津田左右吉のような人は文革ファシズムのように漢字知識人を全否定していた

271 学生時代は、戦後の刑法理論が戦前の刑法学説の批判をもっていたにも関わらず「倫理」という言葉を当たり前のようう使われていたので違和感を覚えた。結局刑法学は挫折してしまった。国民道徳論は19世紀の水戸学の国体論的政治神学によっている。その忠君は愛国より強かったから、ブルジョア的になった。全体性としての国民、民族性によって、国民道徳を倫理として再構成したのが和辻哲郎である

272 プーチンは全く信用できないが、日本はまだ米国の植民地だという。東アジアの民主台湾を守るのではなくて、安倍のように反中から米国の台湾を守るつもりでは日本は米国の植民地である

273 

274 高校時代、アジアという言葉が危険だった。大東亜共栄圏の記憶による。「倫理」もヤバイ。「国民」を強調し過ぎてもヤバイ。戦前は倫理は全体性としての国民として再構成されたのだ

275

リアリズムはひとつではない。
円山応挙司馬江漢をたたえましょう。

275

リアリズムを問う

276

277

278 『論語』読みは、「集団自決」をどう理解するかですが、わたしは「集団的自決」の言説に反対します。思想的存在者は強制されるそのような徳なき政治的迫害を避けて、長生きすることが大事ですね。孔子も国内亡命の場所を見つけて現在の日本のような徳なき乱世を批判して、仁(愛)の思想を成熟させました

279 ベケットを読むのは拷問だよね。ベケットは自分自身を翻訳した。必ず彼は先ず作品をフランス語で書いて後で英語に翻訳したのである。ジョイスも自分自身を翻訳する作家だった

ダブリンに引越した次の日はテムプルバーでベケットの一人芝居をみた(モロイ)。なんてすごい所にきたとおもったものだ。東京では観客が来ないのでベケットは上演されないんだ

茶店にきたら、隣で老人どうしが「あそこの映画館は亡くなった」とかウロウロ歩いて街の情報を自分の陣地の如く喋って情報交換している。ベケットの文学を読んでいるようで面白い

300 翻訳といえば、オリジナルの原文に即して他の言語に移しかえること。この考え方では、オリジナルの原文の意味が存在している。翻訳とは、例えば日本語を借り物にしてそれを伝えるのだ。しかし聖書は、世界中の言語の翻訳(天とかのアジアのコスモロジーの語)によって初めて意味が明らかになる。ジョイス『フィネガンズウエイク』もそうだ。初めから意味がわかっているのではない。世界中の翻訳によって、初めて意味がわかってくる。

ゲーデル数もそれ自身は数の無意味な列としてあるが、翻訳によって意味が明らかになる。翻訳によってしか意味が成立しないというか。近代はオリジナル中心主義だが、ポストモダンワールドでは、翻訳が先行するのである翻訳によってしか意味が成立しないというか

301 狩野派の強い線は確信を以ってお城を飾る。文人画家池大雅の境界線をなぞる柔らかい線は分からぬ哲学書を繰り返して読んでいる感覚だ。若冲のジグザグの線は狩野派と大雅の間へ行く

302

「水戸天狗党の乱があります。降伏した八百人あまりのなかで武士は三十数人しかいなかった。武士ではなくて、主導権は百姓、民衆の方にあったのではないかと思い始めています。ただ、彼らがなにを目指したのか分からない。民衆の政治意識は解釈が難しい。」
島崎藤村による小説「夜明け前」に証言されているように、近代化を担った活動家的学者の下級武士の中心に水戸学があって、社会改良を推し進めたのですが、天狗党の乱の弾圧に抑え込まれてしまって、教育勅語的な方向に巻かれてしまいました

憲法学の樋口陽一先生も報告された。「四つの八九年」という論考です(『共和国はグローバル化を超えられるか』平凡社新書、二〇〇九年所収)。一六八九年の権利章典、一七八九年の人権宣言、一八八九年の明治憲法、そして天安門事件があった一九八九年の革命二百周年。この四つの八九年を通して日本を立憲主義の世界展開の中に位置付けた。」

水戸学と民衆は何がやりたかったかについてですが、復古主義の革命の完成ではないでしょうか。近代日本は国学からしか始まらなかったのです。西欧列強による植民地化を避けるために天皇に権力を集中させましたが、しかし大正からはその必要がなくなったのですから、復古主義の完成は、天皇の国家中心主義の廃止です。東アジアの民主化、すなわち移民国家的多元主義だとわたしは思います。樋口先生の見方にしたがえば、天安門事件を活かして、国家の独立を主張しない民主台湾をモデルに日本の民主化を行って中国の民主化を要求することではないでしょうか。

303

All things are words of Language, with which Someone or Something writes day and night the endless nonsense that is called World History. The ocean where the universal rivers of "Finnegan's Wake" join is world history. The sea is hard externality because it is written

 

<多>のポストモダンが消滅の危機にあり、<一>である絶対的保守主義が主流となる歴史世界(現在)に、意味のあるどんな自己表現が起きてくるというのだろうか?他との交流によって豊かになっていく文化を拒む、何の感性の成長がない反中・嫌韓の日本ナショナリズム

I will append here a final world about my logic of the predicate. The historical world, I say, is always self-expressive in the dynamically transformituive structure of the conscious act as the contradictory identity of the many and the one....( Nishida Kitaro; 'Nothingness and the Religious Worldview')

西田幾多郎の最後の著作は「場所的論理と宗教的世界観」(1945)

最近中国のアメリカ大使館に中国人が犬を亡命させてくれと駆け込んでこんくる。職員「肉がないの?」中国人「肉はあるが犬だから自由に吠えたいんだ」。公館は現代のアジールである

『秀吉と利休』はここにつながるんだ..

江嶋の人々は、主をもつことを許されなかった。つまり、逆にいえば、江嶋中の者は、主従の縁の切れた人々だったのである。それ故、外部の争い、戦闘と関わりなく、平和を維持することができたのであった。まさしく、江嶋は「無縁」の場だったのであり、「公界所」という言葉は、この場合も、「無縁所」と同じ意味、同じ原理を表現している。
網野善彦『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』

堺は結局、信長の脅迫に屈し、妥協の道をえらび、あたかも多くの「無縁所」が、大名の権力を背景にその特権を保ったように、信長の庇護の下で、「自由」と「平和」を保つ方向に進んだ。それ故、信長の支配下に入ってからも、堺の「公界」としての本質が消え去ったわけでは、決してない。
網野善彦『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』

304 宇宙戦艦ヤマトは、初めて漫画本で見たときは、虚空に浮かぶ何か得たいの知れないもので、ダリの電話受話器の上のロブスターみたいな感じだった。やはり近代の滅びの美学を考えた

305

ポストモダンのわれわれは作る近代に絶望している。戦争を作る国とか。廃墟でいいんじゃない、そこで誰も集団自決することなく保たれている色々な世代が知識を交換し合う

306 自然状態への隷従が問題になった所で天命の自由を譲渡して人義の自由を得るのが社会契約論は国家に託したが、自然状態とは危険な核体制と反撃能力の戦争国家だったのではないか

307 反中と嫌韓に、反「文化共産主義」(反ジェンダー平等も反保育行政も反LGBTパートナーシップ)。安倍と日本会議の皇室に依存しない天皇教のナショナリズムを構成するのか

308 『サロメ』は耽美主義でも、ワイルドはそれほど耽美主義に整理できない。彼はアイルランド独立のためにはイギリスから自立した一日を描いた文学を求めたアナキズム理念である

309 ジョイス近代文学は、没落する中流に絡みつくナショナリズムと宗教の問題を書いた。『細雪』はイデーに全く関心がない姉妹達の存在を書いた。谷崎が耽美派と言われる理由だろう

310 近代批判のポストモダンの時代、ロシアも中国も各々、ロシアの語られ方、中国の語られ方に存在する。中国は主権国家の範囲を超えて17世紀の海の帝国に存り、問題を起こしている

311 

原発60年超運転へ「束ね法案」を閣議決定…老朽原発への不安は消えないまま(東京新聞)

安倍もできなかったことをする岸田政権

原発安全神話の解決を推進した政財官司マに再び委ねることは倫理的に不可能でした。だからこそ市民が介入したはずなのですが、「利用の観点」からでやっていけるとおもっているのでしょうか

312 中学校時代は大人気者だったが、全然規則を守らないので、罰で全校生徒の前で体育館の壇上で正座をさせられることもあった。初恋の女の子がソッポを向いている。がーん!宇宙の崩壊

313 関東大震災のときに東京で看護婦だったおばあちゃんは当時、井戸に毒を入れられているというデマを聞いた。ずっと信じ込んでいた。日本人が朝鮮人を殺したのは根拠のない恐怖

314 明治維新の西欧化に反発した儒教ナショナリズムはあったが、右翼が登場したのは、1923 年の関東大震災からである。日本の外の国土とかそういうことを発言し始める

315 寺山映画の撮影監督に、「キミは絶対に俳優になれ。その言葉遣いじゃだめだ。寺山のように青森弁で喋ろ。寺山は日本女子大へ行って青森弁を習ったと言っていた」といわれた。遅いか

316 

英国人のアイロニーのセンスはアイリッシュ移民から影響を受けたらしいね。アイリッシュポストコロニアル系知識人が書く一行にアイロニがぎゅうぎゅう。1頁読んだら滅茶苦茶性格が悪くなりそう。

共同体マインドのスラブ系移民からは嫌われていたユダヤ系。私は大好きだった。ギャングもアイロニーを喋る。「イギリスは良いことはない」、「いやある」、「何だ?」、「天気だ」(ドーン)

フーコ『言葉と物』を訳した渡辺一民先生はポストモダンの精神はアイロニーに宿ると考えていた。物事には必ず裏がある。ベラスケスのラス・メニーナスは此方からみえる彼方ー画布の裏ーを見ている。左回りに見えるものが右回りだったりする(リーマン球の無限遠点から見ると左回りだが、中心から見ると右回りということ)

317

318 近代とは何か?明治に作られた靖國神社は近代建築だ。大正に再建された能舞台も近代的である。古代とか中世を必要とする近代とは何か?近代が自らの根拠とする遠い起源を声の力に託すこと、これが近代なのである。

319

320 人間というのは寝ぼけている時間が大切だと思う。朝寝坊のデカルトはベッドの中で寝ぼけていたからこそ、どんな明晰な真理も曖昧な狂気がつきまとうことを知った。

321 朝起きると、幼稚園の女に子のように気分屋さん

322 能といえば、織田信長の舞である。テレビでも映画でも、「人間五十年」を本能寺で歌っていたのをみた。野上弥生子の小説『利休と秀吉』を読むと、戦の陣地で一日に何度も舞った秀吉は創作させた『明智撃』のシテである。家康と一緒に舞うこともあったらしい。在京した守護大名は貴族に馬鹿されながら歌を作ったりした。守護大名が自国に戻った応仁の乱によって、日本中小さな京都ができたと考えられる。津田左右吉によると、応仁の乱で中世の名だたる貴族は互いに殺しあって滅んでしまった。守護大名らは戦国大名になったが、僧侶が書いた貴族文化が継承されたようである

321

言説「日本を取り戻す」

戦前の京都学派アジア主義(竹内好)によれば、ヨーロッパに民主主義に関する最高のものがあるが、帝国主義の問題があると語りました。そこで日本はヨーロッパを包み返さなければいけない、それは何かと。それは、国家祭祀ー戦う国家は祀る国家であるーを止める象徴天皇制の平和主義であると私はおもいます。復古主義とは発明です。水戸学の政治神学(復古主義)は天皇制近代国家を発明したのですが、その国家中心主義を止めることも発明できます。そうしてこそアジアと共存する歴史は始まるのですが、しかし伊勢サミットの安倍から、日本は、戦前との連続性を取り戻せとばかり、戦前天皇の島ラピュタという感じで似非理念として高く傲慢に宙に浮かび始めましたね。周辺諸国の歴史を見ずに、靖國神社としての日本人のアイデンティティを言う危険な言説もあります。

322 仮名の日本文学のメインストーリーム?しかし真名の漢詩がある。漢字は強くないが私は漢詩の歴史を考えながらヨーロッパ語を読みたいし、漢詩とヨーロッパ語の傍に絵を描きたいのよ

323 野党もまた、野党の語られ方に存在しています。マスコミがはじめて、「反発」と語ったのです。マスコミのまえに、「反発」を語ったものはいませんでした。現在になってやっと明らかになりました。政府が与えた、マスコミの自己規制を求めるあまりに日本人的な情緒的表現ではなかったでしょうか

324 18世紀日本美術は言説的文から絵が現れる面白さがある。文の傍に絵を描きたいのはどうして?絵は言葉で語られるようには出来ていないからである。しかし物は物で書かれている

325 そうなんです。そう言っていただきましたのは中沢さんがはじめてです(涙)
バブルに責任のある官僚たちは父の世代です。戦前の国民総動員法の時代の優等生で、赤紙がきたのは終戦の日でした。晩年は、理系の大学に行かず、あえて学徒出陣の危険のあった憧れの一高に行くことを決めたときに書いた遺書を読んで感動していた姿は、わたしのような普通の都立高校生だったものには気持ち悪いものでした。出世するため、というか影響力を保って生き残るために、どの政治家につくかということで毎日忙しく世の中を分析していましたが、津田左右吉とか清澤満之とか和辻哲郎の話も時々したので、現在日本思想史の勉強に役立っていますかね。父は福田派の官僚でしたが、機を見て、田中角栄に接近したのが失敗でした。ロッキード事件までは読めていなかったのでしょうね。父たちは、戦後賠償のために働きました。若い父はインドネシアと韓国の賠償のテーブルに着きました。慰安娼婦問題がマスコミで取り上げられたとき、父に聞いてみました。政治家から、「日本に不利になることは一切言うな」と言われていたそうです。慰安娼婦について話されなかったの?と聞くと、「国家公務員は国家の機密を守る義務がある」とつっかえしてきました。そんな大事な真実を息子に話せないのかと、何と言うか、父は軍国主義ではなかったし天皇に対して憤慨を持っていましたが、卑近の存在でありながらしかし接近できない、禁じられたむこうにある国家なんですよね、ずっと。大島渚『絞首刑』の検事を見たとき、彼が抱える無誤謬な全体性の神話のことをおもいました。中国の貴族は宋の時代に朱子のように官僚たちは知識人的官僚になっていくのですが、日本の官僚は知識人的では無い感じですね。平目のふりをする蛸は、わたしの理解では、普遍性を、国家の壺を住処とする全体性としか理解できない視野なんですよね、きっと。ファショでは無いが、市民と市民的理念も見えないのではないですか

326

327 

328 靖國公式参拝とか伊勢サミットは国家祭祀である。ヤスパースの言う「枢軸時代」は国家祭祀との切断によって可能となったと思う。つまり真理の所有ではなく真理の探究が始まった

329 

飛鳥から平安の漢詩を書くのは文章博士菅原道真などの貴族である。鎌倉時代の禅を探究する漢詩とは別のものだ。貴族の仏に求める救いは立身出世である。親鸞の前と後は全く違う

飛鳥から平安の漢詩で短歌からの影響を受けるものがある。王の地位をもつ僧侶階級が葬儀(国家祭祀?) を行う様子をゲール語で書いた詩の翻訳を思い出した。インド起源の説がある

330 ロマン主義が讃える古代アイルランドの詩は海とか山をうたうが、もっと広い知識を持っていたのではなかったか。仮名の文学も目の前の自然を讃える。真名の漢詩は広い知識を持っていた

331 『教行信証』の親鸞は念仏を唱えても救われないのにと書き記していた。親鸞は考えることができないことを信じたのではなかった。考えることができないことを考える知識人だった

332 

漢詩で読む歴史

文章博士である菅原道真は中華文明の貴族であり、法律用語を使って書いた漢詩を読むと大宝律令の行政官でもあった。天皇を支える知識人であった。天皇は戦争の死者を弔い、知識人は『万葉集』にあるように歌を書いた。古代は昭和の近代が未来を思い出すような天皇と民との直接的結びつきがあったわけではない。貴族が障壁を為した。天皇の権威は文明中国から書物を取り寄せたことにあったが、貴族は知の権力を以て天皇を脅かす力をもちはじめる。

333

「物で書かれた物」l’ecriture des choses とフーコが呼んだもの、貨幣は瓦で書かれるものでもよかった。江戸幕府は紙幣の観念があったが結局発行しなかった

334 華厳経はインドの中国化と言われる。これは何を意味するか?中国語の翻訳がインドと日本を媒介した。物で書かれる物、中国語で書かれるインド。中国に交換されたインド

335 異性「愛」についてであれ同性「愛」についてであれ、この国の問題は愛を語る情熱と精神的自由がないのだ。国家「愛」しかないのだ

336 ポストコロニアル的テーマに、演劇に使われることがあるが、嘘をつく公のナレーションがある。映画「マイケル・コリンズ」のラストに「銃の政治は終わった」と語るのはそれだ

337 私の師匠であるドンキホーテは物で書かれている物を読むことができた。風車で書かれていたオランダに突撃できた。意味の網目に生きる人々は書物の世界に生きる師を笑いものにした。師匠は近代という時代になってゲームの規則が変わったことに気がつかなかった

338 アヴェロンの野生児 は森に捨てられた赤ん坊でしたが、傷口を偶然に葉が塞ぎ狼が育ててくれました。「牛乳」では駄目で、「牛乳をください」と動詞を使って言えと求められました

339 トリフォー『野生の少年』の撮影はネストール・アルメンドロスによる。彼は光源は論理的に正当化されなければいけないという。蝋燭の影が写っていることはあり得ない。光は真理だとは言わない。ここが大事

340 演劇の舞台において物を照らし出す照明は欠かせない。観客は気がつかず中心となる光源を探している。光源を作るとは暗闇も作ること。言葉の高慢過ぎる理念を暗闇が包む

342 アイルランドの霊感治療(faith healer)を描いたブライアン・フリールの舞台がある。脱普遍の時代に普遍なき宗教のあり方を問うた。普遍の近代は国家を要求する。戦争する国家悪を知りながら、国家がなければ救われないのか。

343

グローバルデモクラシー知の平和主義

344

帝国知の柄谷行人は植民地化されたアイルランドの歴史だけは検討しないのです。アイルランドの歴史に、帝国主義の軍事支配と帝国の文化的経済的支配の区別がないからです

345 宣長の普遍主義に対する対抗的言説は<神道は救いなし>の原理的言説を語らせるが、これは普遍主義と言えるかもしれない。結局は国家を必要とする普遍主義。脱普遍主義は平田篤胤

346 「喜ぶのジョイス」とか、「燃え上がる緑の木」という言葉を打ち出したように、大江はアイルランドに関心をもっていた。イエーツとかベケットを語った。脱普遍の時代にあってもはや国家中心主義でなくてよいような、一人ひとりがマイノリティーになる共同体のあり方を、「戦後民主主義」と呼んだと思う

347

訂正: 七行目は「判事側」ではなく「検事側」です

348

カタカナの起源は新羅か?面白いね。東大寺華厳経新羅写経である。全体として、新羅で作られ、加点された写本が日本に渡り、東大寺に所蔵されてきたらしい

349

戦後民主主義の時代は戦前と比べて思想が出てこない。日本思想に集まる人は少なくてみんな憲法に行ってしまうからだ。百年後は文学は大江、思想は柄谷だったと語ることになるのか

350 

片仮名は新羅がルーツか?

「片仮名は新羅がルーツ」「片仮名は日本で発明された」。奈良の人々の殆どが渡来人だったそうですから、結局は同じこと。
中国知識人と朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人が『日本書紀』ー国家日本のアイデンティティーを書くあげ、古典である中国の漢文を読むためにカタカナが用いられ、平仮名が発明されるというのは素晴らしい歴史ですね。結局移民国家的なんですと、日本は歴史的に言って。
最後に、漢字の受容から1000年かかって、江戸時代に古学からは成熟した思考が可能となりましたが、この時代に中国文明からの自立をいう国学宣長が<古代日本スゴイ>といったり<漢字は借り物だ>と主張してみるのも 漢字と漢字の与えてくれた思考力のおかげなんですよ。漢字と漢字の与えてくれた思考力がなければ、<古代日本スゴイ>といったり<漢字は借り物だ>と考えることもできなかったのです

351

久しぶりに来た東京の本屋で買ったヘーゲル『法の哲学』(岩波文庫)を帰りの電車で読んだ。日本思想史で精神について理解を深めたから、読めなかった世界史が理解できる、茅ヶ崎も駅ビルの丸亀でうどんを食べていたら本を置き忘れたことに気がついた。また買うのも癪だし、そこで家にある本たちで面白かった文は何だったか調べる。国家祭祀を否定した象徴天皇制憲法の意義はヘーゲル「法の哲学』によって理解できた

352

第三次世界大戦前夜の平和主義

中国はアメリカとの戦争を考えていて、日本など全く相手にしていないと中国の友人が言ってましたから、安全保障の観点から日米軍事同盟を辞めるときです。自衛隊は日本の外に出ないようにと憲法においてしっかり決めて、台湾との間で東アジア情勢の情報を検討するだけでも抑止力になるのではないでしょうか。中国に属する中国の取り返しではなく、東アジアの部分である台湾の侵略の意味を中国に認識させるべきです

353 われわれ鳥(バード)たちは大江健三郎が考えなかったことを考える時代である

354 私はダブリンから来たと話すとそれだけでヨーロッパの人々に尊敬された。ジョイス文学の英語はこんな風に喋るんだと。日本女子大で青森弁を習った寺山修司みたいなカッコ良さである

355 英米系の憲法の思想は思想の自由のプライオリティについて裁判の歴史に沿って経験的に語るだけで積極的に思想的に語ることはない。絶対的平和主義の思想が大江にあった。問題は、果たして日本人はその憲法の思想を自分のものにした思想だろうか。柄谷に至っては、憲法が存在するだけで、自動的に、改憲を目論む者は敗北させられると言う有様である。果たしてそうだろうか?野党は全て解釈改憲である。私にとっては、戦後憲法は敗戦後の「普通の国にならない」という市民の誓いを証言しているようにおもう。もし日本が普通の国になったら、国家祭祀を行う天皇ファシズムの戦争する国になってしまうのである。

356

357 ゴダール『映画史』を見てナレーションからの印象でヒューマニズムと語る人は文字の人だ。大江は映像を読める。『映画史』は「絵」本と絵「本」のモンタージュだと見抜いていた

358 問われているのは、人間は人間が思考できないことを思考できるかである。ここから、わたしは見る、ゆえにわたしは存在する。ロッセリーニとかゴダールの問題意識がでてくる

359 戦前日本の人類に対する戦争犯罪をどうして韓国企業が責任をとるのかさっぱりわからないし、搾取した朝鮮半島の人々に対してどうして日本企業は賠償も謝罪もしないのか?

360 毎日通学する中学生を観る。夢の中に中学時代両思いだった女の子が現れた。私は勉強できないし勉強の邪魔にならないか心配。オデコをくっつけてくれた。寒いさむい北欧にいるらしい

361 活躍した人や活躍している人の話をきいたり読んだりするとき湘南から見える富士山の姿のように立派だ。此方の自身に溜息。せめて私の絵が混在郷でもなってくれればと願うだけである

362 時の政権の放送法の介入的解釈の意味とは何か。戦前の情報操作(大本営放送)に生じた悲惨を考えるだけでは足りない。現在それがいかに人間性の形成を破壊したかを議論しなければ

363 

364 ダブリンのトリニテイ大学の12世紀のケルト美術の展示を観に来てください。何が意味されているのかって?いやいや、物で物が書かれる時代に彼らは言語の存在をたたえていたのです

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366 20世紀は映画の世紀だった。21世紀に、消滅した映画のスクリーンはどこに現れるのか?一人ひとりの背後に投射されるスクリーンがある。19世紀はそれを精神と呼んだ

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竹内好は、西欧に最高のものがある。しかしその西欧は植民地主義に絡み取られてしまった。アジアは、西欧を包み返す。そのためにはアジアは自分に最高を超えるものをもっていなければいけない。それは何だ?それは、国家祭祀のナショナリズムを禁止した憲法的要請の場所であるとわたしは思う。そこで、国家神道ナショナリズムをやめて、一人ひとりがマイノリティーに成る。西田幾多郎は<一>と<多>について<一>的<多>を思索した。だが<多>が差異であるためには<多>は<一>を禁じなければいけない。日本ポストモダンはこの点がわかっていない

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日本帝国主義の完成である日露戦争マルクス主義が批判できた。だが今日皇帝的一国社会主義ロシアのウクライナ侵攻は「世界史」的正当化がある。これはそもそもマルクスに問題は無かったのだろうか、責任がないのかを考えさせることになったほど危機的である

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クオーク三唱、王マークに!」

(ーThree quarks for Muster Mark !)

 

クオーク三唱、王マークに。号令届かぬ王の声。届いたところで的外れ。」で始まる第二部第4章。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の福音書記者を喚起する語り手がトリスタンとイズーの「うねる(roll)」愛を物語ります。

and there were, like a foremasters in the rolls, listening, to Rolando’s deepen darblun Ossian roll (ジェイムス・ジョイス『フィネガンズウェイク 』FW)「四人はと言えば彼らはうねる波間四本マスト船、公文書四管理官のように、ローランドの濃褐色の大洋オアシンのうねりに聞き入っていた」(宮田恭子氏訳)。これはどう解すか?

世界資本主義とその分割である4つの帝国ーアメリカ、中国、ロシア、拡大EUーのことをわたしは考えます。

ロシアと中国と日本をみると、経済が発展すればするほど、総体の従属が深まると言わざるを得ません。やはり「アジア的」なのか..?マネー、テクノロジー、経済はどんどん進むのに、人権が出てこないです。
日本は世界第三位の国と言われるが、総体の従属が深まるばかりではないでしょうか。
「グローバルデモクラシー」の掛け声も無視されて、ロシアと中国のように、帝国と帝国主義の区別をやめてしまった国もあります。

さてマルクス1850年頃を契機に、単一直線で進行して行くような普遍主義的見方を見直していきます。これについて、『ロシア秘密外交史ーロシア専制の起源、マルクス、ウィットフォーゲル』(白水社)は、ロシアの在り方がマルクスの思考をいかに揺さぶっていったかを正確に説明しています。

これは21世紀の現在を考えるとき役に立ちます。フランス革命から皇帝を倒すまで100年間要したが、ロシアと中国の皇帝はグローバル資本主義の民主主義と共存しています。そして前者は後者に対して総体としての従属を強いるのです。例えば中国の民主化がなければ日本の民主化は不可能となっています(日本からわれわれは民主化するから中国も民主化を行ってくださいとは言おいとはしない。常に中国の民主化を求める日本は中国から信用されていない。)

マルクスが克服した単一直線的歴史観を、日本に即して考えると、こういうことがいえます。単一直線的歴史観では古代天皇制の後に17世紀の江戸幕府の近世が来るはずだが、歴史は決して単純ではありません。古代天皇制は江戸幕府成立直前まで鎌倉時代において共存していたのです。その後、津田左右吉によると武士政権は天皇を京都に隔離しました(政権分離)が、王政復古によって天皇に全権力を集中させてしまいました

「今日の世界情勢が告げていることは、専制主義は既に過去のものと考えることはできない、という事実である。」「専制国家の閉じたサイクル「非専制化ー>その挫折ー>再専制家」は今後も続くであろう。専制国家が世界史の動向を左右する、あるいは専制国家の振る舞いが周辺諸国を脅かす、という可能性は今後も消えることはない。自由主義陣営、欧米列強が、19世紀帝国主義列強のように、専制国家をコントロールするなどという状況が戻ってくることはない。それ以上に、自由主義陣営、欧米列強が、専制国家に対し今日のような力関係を、今後も長期にわたって維持し得る保証もない。それらを踏まえ、今後、いかに専制国家と対峙していくか、その非専制化への歩みをどのように促すのか、保守革新、左右両翼など従来の枠組みに関わりなく、問われている」(解説; 福本勝清氏)

マルクスは、1850年代に著した「イギリスのインド支配」、「イギリスのインド支配の将来も結果(インドにおけるイギリスの二重の使命)などの評論家において、アジアの「遅れた」諸民族・諸国家にとって、資本主義化、植民地化は不可避であると論じていた。つまり、その資本主義化=植民地化を媒介にしてはじめて、「前近代的」政治経済システムがより現実的に「破砕」できるのであり、ここではそうしたポジティブで、かつ限定的な意味でのみ、いわば「例外的」植民地化が肯定されていたということである。だが晩年のマルクスは、そうした考え方を一部変更しつつ、アジアの遅れた諸民族・諸国家による資本主義を「跳び越えて」の社会主義への発展を認めていった。すなわち、いわゆる「ザスーリチの手紙への回答」においてマルクスは、ロシアが資本主義(= カウディナ山道)を超えて社会主義に至る事は可能であると承認したが、このことこそが、西欧を中心とする社会主義革命とは異なった、アジア社会に「独自な」社会主義への道を可能にし、20世紀のロシア革命と中国革命がまさにそのマルクス晩年の構想の正しさを実証するものとして理解されたのである。
この議論するは中国においても、ポスト鄧小平時代であるこの二十年余りの間に、カウディナ山道の超克」論としてさまざまなに繰り広げられてきた。しかも、ここできわめて興味深いのは、これらの「論争」がポスト天安門事件期における党=国家にとる独裁的支配の強化と、国家資本主義の高度成長の中で行われていた、という事実である。とはいえ、マルクス自身は「もしロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者が互いに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(「共産党宣言』ロシア語版序文、1881)と述べていたのであり、この両者の互いに補うことがーその是非はさしおいてもー高度に緊密をもった世界革命の「同時性」について述べたももである以上、ここで主導的な働きを為すのは周辺の「遅れた」諸国家ではなく、中心の「先進的」資本主義の成果を形象した西欧プロレタリアートであり、「遅れた」国家・民族はそれにいくしなければ、「跳び超え」自体があり得ないことになるであろう。それゆえに、マルクスにおいては、やはり第一義的には「前近代的なもの」に対して「近代的なもの」がポジティブなものとして対置されていたということになる」(石井知章氏)

マルクスは、プーチン習近平のような権力が集中するアジア的皇帝的存在の、近代を実現させてくれる世界史的舞台を予測していました。しかしマルクス市民社会の視点を以って、世界史的舞台を批判しませんでした。そうして、マルクスから、今日の中国は自らをまだアジア的生産様式だと自己規定して民主化の否定の根拠とするのです。ロシアのプーチンアメリカやヨーロッパの体制を批判するとき中国とおなじ見方から行っています。市民社会論なきアジア的生産様式論が西欧近代と異なるろと中国の独自の近代を語らせているこの問題をどう考えるか、市民社会の近代を批判してきたわれわれポストモダンの知が問われています

374

物語が文字化されると何が失われるのか

アイルランドでは、ゲール語の辞書がありません。なぜないのですかと聞くと、ゲール語は人から教わるもので、文字から伝わるものでないと説明されました。そこでゲール語を学ぶためには西部の共同体の学校へ行って修学旅行みたいな感じで彼等の喋るゲール語を文字の媒介なく学ぶのです。そんな感じでアイルランド英語の辞書もないのです。アイルランド英語は事実上消滅の危機にあるゲール語と17世紀のイギリス植民者が持ち込んだ英語とイギリス地方の方言が混ざったものらしいのです。実は植民地時代にその口語のアイルランド英語は恥ずかしく思わされてきたことがあります。家の中で喋る英語と学校で喋る英語が違うのです。
喋るようになりたいならば語るアイルランド人から学べと言われるのです。
逆に、辞書があると、語るアイルランド人から学ぶことが無くなってしまうと考えられています。物語が文字化されることで何が失われるかと考えたのですが、言葉は詩を通して共同体が喋るという見方が亡くなるのではないでしょうか。例えば語られる身体の損傷は外敵の存在を伝えるもので、語る人と共に外敵の存在をおもい浮かべなければいけないのですが、それを文字で伝えるとなると中々外敵をおもい浮かべることは難しいです。文字が伝える身体の傷は身体の傷です。オスカーワイルドの父は眼医者で、治療費を払えない貧しい多くの患者たちから、代わりに、伝説とか小話を喋ってもらったそうです。アイルランド人は普通の人でもストーリーテーラーです。ワイルドは彼等から沢山のストーリーを知っていました。
まあしかしロマン主義の近代が構成した詩人の役割には疑問を感じる所があります。あまりに語られる凡庸なナショナリズムの詩ですね。文字はイギリスで、物語はアイルランドであるという女性原理的な分節化です。

375 

青山霊園から消えた旧華族の「無縁墓」 守る人のいない遺骨の漂流先

そうだったんですか。鍋島家のもですか。そういえば、子孫の者だという人から不満を聞いたことが。たしかあそこは勝海舟の墓もあるのでしょう。外人墓地というイメージがありましたが、新権門体制の、天皇を除く、明治のエリートー貴族、下級武士、軍人、官僚、宗教者(神道系)ーが祀られていたんですね。
おもいだしたのですが、カトリックアイルランドも独立後、10パーセントの支配者だったプロテスタントの教会が信者が来ないので廃墟となっていて、あっちこっちで売りに出されていますね。カフェとかになるみたいです。永遠の家ではあり得ないのです。作家ベケットや画家ベーコンもプロテスタント出身ですが、カトリックアイルランドの独立が成立した彼等の幼少期に経験した彼等の階級の没落が、彼らの芸術的インスピレーションになっているという説もありますが、どうでしょうか

376 バベルの災厄は、原初的テクストがいかに語られるのか考えさせる。わたしはいつも本を観ると、建築と人間の関係を考える。ゴシック建築的本である『フィネガンズ・ウェイク』的高さとは、此方からみえる無限に、それを超える無限を付加していく加算システムの抽象なのか。「自分で決めた亡命」先でトリエステの市民権なきアイリッシュが書くと一体何が起きるか。

377

378 ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨと、物で物が書かれていて、宇宙に繋ぎあっていた言語の存在をたたえていた『ケルズの書』は、ジョイスの『フィネガンズウエイク』で完成した

379 飛鳥ー平安の漢詩は、天皇と貴族が書くが、遠い世界を見渡す知識を見上げる。花や木や鳥や山の自然は漢字に定位する自然であって、ロマン主義近代が狭く称えるようには透明ではない

380 飛鳥ー平安の漢詩は、天皇と貴族が書くが、遠い世界を見渡す知識を見上げる。花や木や鳥や山の自然は漢字に定位する自然であって、唐土を創る場合もある。ロマン主義近代が自己の身体との境界において捉えるようには透明ではない。ナショナリズムというような狭い起源なんか関心がないようだ

381 普遍的な中国文明からの自立を考えた宣長に沿って考えると、<他> ー中国 ーは<自>の否定としてある。文化多元主義において他者の他者は存在しない。つまり<他>の否定において<自>は存在しない。普遍的にそれを認めては、<他>が亡くなってしまう。<他>を普遍から遠ざけなければいけない

381

382 バロック絵画は用意周到な人物と物の配置がイメージされるが、人間がどこに立つかは偶然による。芸術が見いだしたこの根源的偶然性は17世紀ヨーロッパを自らの外に出したのか

383 1850年代にマルクスは普遍主義的コミュニスムとは別の方向を考えはじめた。マルクスアイルランド問題について書く。英国プロレタリアートと周辺国アイルランドの民衆との団結を考えた可能性があるが、しかしアメリカが貧しいアイルランド農民を移民として吸収していった。その点でアイルランド問題は存在したが団結の条件がなかった。結局マルクスの関心は貧農の問題が解決しない危機のロシアに向かったのではないか

384 

儒教は多様である

わたしは専門家では無いですが、儒教は多様であることを具体的に語る前に、西欧啓蒙主義はひとつではありません。スコットランド啓蒙主義はイギリス啓蒙主義と違いますし、ほかにフランス啓蒙主義、ドイツ啓蒙主義がありますでしょう。アジアで唯一成立した普遍思想の朱子学も普遍主義です。朱子学を批判していく、徳川日本の伊藤仁斎も、アジアの知識革命と言える啓蒙主義です。
台湾儒学は、蒋介石が持ち込んだ故宮的中国儒教、朝鮮と同じ陽明学、植民地時代の京都大学内藤湖南の中国観、それと、前述した、文部省官僚が迎える孔子魂の儀式(舞踏も含む)で形成されています。彼方は、コリアと同じで、自分達こそは、本物儒教とおもっているので、日本の『論語』の脱構築的読み方など馬鹿にして耳をかさないですね。
朝鮮儒学についてですが、『論語』はたくさんバージョンがあったのですね。氏族ごとにどういう場でどんな服を着るかとか礼の作法がそれぞれ違うらしいのですが、荻生徂徠とかの儒者は礼儀のしきたりに全く関心がありませんでした。日本が関心を持つのは学者的議論だけです。中国の朱子学を純粋化して継承したのが朝鮮儒学です。陽明学は彼らのものです。「性即理」が朱子学だとすれば、「性即心』が陽明学です。朱子学は本来的には理気二元論ですが、理を純粋な気のあり方として捉える結局、朝鮮儒学のエッセンスは一元論的純粋さですね。戦前は東京大学が朝鮮でオリエンタル儒学を形成していました。議論がありますが、コリアのキリスト教は朝鮮朱子学ではないかと指摘するひともいます。江戸時代に儒教を確立した藤原惺窩と林羅山は朝鮮儒学からの大きな影響があります。
中国儒学についてですが、孔林の孔子銅像を真っ二つにした文革によって、全否定されました。内乱によって古い文献も消失してしまいました。しかし、ルモンド紙は現代中国は毛沢東とマリリンモンローとの結婚だと揶揄されますが、ほんとうは新しい儒教を考えています。伝統と近代化を折衷させた新儒教というのがあります。現在の習近平陽明学が好きらしいです。共産党左派(毛沢東派)は儒教を西欧近代とは別の新しい普遍主義として再構成しようとしています。これは問題を起こしています。漢民族の起源を強調した皇帝的一国社会主義の官僚資本主義ですね。
最後に、日本儒学ですが、これは伊藤仁斎荻生徂徠の古学につきますね。仁斎は朱子学を解体しながら道徳についてカントと同じことを考えています。それと、『論語』はフランスのオリエンタル学をもとにした研究なのです。フランスが理解したアジア観に基づく『論語』をそのまま受け入れわけにはいきません。例えば、孔子が弟子に語った言葉を、真理と訳すのですが、ちょっと問題があります。孔子は弟子の要求に応じて彼らがわかるように語っていました。だから仁とか孝の定義があるわけではありません。われわれはポストモダン孔子という立場を問題提起しています。

389 わたしはアイルランドに8年間住んでいたのですが、アイルランドでは脱普遍のカトリックのようなものの意義が発見されていました。カトリックは普遍という意味らしいので、これは脱普遍の普遍ですね。このテーマがブライアン・フリールなどで芝居化されることもありました(『フェイスヒーラー・ガール』)。わたしの理解ですが、プルーストが書いていたように、本質とは個体的なものであり個体的になって行くのではないでしょうか。中国の儒教もそうして、台湾儒学、朝鮮儒学、日本儒学のように、漢字文化圏の中で差異化されて行くことになったのだろうかと考えています

385

ご指摘ありがとうございます。もちろん原始儒教は常に国家とともにありました。朱子学においても帝国中国とそれを支える知識人的官僚を成立させました。西欧明治の行き過ぎに危機感を持った儒教への反動的回帰(個人主義批判)が起きたこともわれわれは知っています。問題である教育勅語も、明代の皇帝の臣下に対する平等主義の理念から影響を受けた、儒家神道的な語りです。しかし儒教というものが実体として存在するわけではありません。儒教儒教についての語られ方に存在するのです。伊藤仁斎の仕事は天を仰ぎみる「私」に根差すものです。これは公=国家とは対極にあった見方です。といっても、時代の制約があるとはいえ、古代儒教の解釈に、家族に定位する女性の本質を語る文を読むと、『論語』はやっぱりくだらないかとおもうことがあります。古代儒教は女性なんか存在しないのでしょう。
プルーストは別に儒教を考えていたわけではありません。儒教プルーストはどう考えただろうかを私は問題提起しているのです。しかしこれは難しい(笑)。わたしも無理ですが、問題は宗教ではありません。問題は宗教の近代です。本質的同一性に絡みとられる宗教の近代についてプルーストはどう考えたか、これなら考えることができそうです。ユダヤ人という近代における本質の措定はそのままではやっていけなくなることを、本質を個体的であり個体的になって行くことを考えることができたからだと私は考えます。これはポストモダン孔子の方法と同じです。孔子は引退して、何を言っても通じない乱世の世の中を批判できる国内亡命の場所をずっと探していました。国家が乱世をもたらすならば、その解決を再び国家に依拠することは倫理的に不可能です

386 ゴダール『映画史』のスケッチはプルーストの書き方ー本質は個体的であり個体的になって行くーである。光と闇で包む全体を投射させた細部の増殖が包むものを包み返していく

387 二宮尊徳を研究した小田原の親戚は満洲国の農本主義による正当化に失望していた。だけど二宮は平田派の佐藤信淵と同じように当時国家がなかった。江戸思想はファシスズムに非らず

388

吉本の「日本語の難しさ」

・漢字借り物論の近代
・音声中心主義が実体化する古代に近代が投射されている
・思想の問題として、大いなる他者「中国」を消去している
・18世紀の文献学によって読まれた「古い日本語」に定位するとされる民の存在ーさまざまな部族ーが語られる。言語の存在と人間の存在は切り離せないという近代のわれわれの物の見方を正当化しているかのようであるうが、しかし人間の誕生は17世紀からである。つまり吉本がやっているのは、近代によってしか現れない人間の思考を、遥か遡って書紀言語以前(古代)に、見いだしている。これは連続性の語りにある近代にとって都合のいい、起源の思考である

389

オスカー・ワイルドといえば文法性の高さ。オックスフォード大学を首席で卒業した、古典語の知識をどこで得たのかが謎。近代でも遅れたアイルランドは古典語を保た教会が存続した

390 私は絵描きであると語るが、芸術家であると言うのは躊躇する。芸術とは何かについての定義は不可能だ。芸術家は実体がない。芸術家は芸術についての語りの中に存在するだけである

391 私は絵描きであると語るが、芸術家であると言うのは躊躇する。芸術とは何かについての定義は不可能だ。芸術家は実体がない。芸術家は芸術についての語りの中に存在するだけである

392 D=Gが言ったように、芸術は定義可能だと思う。それは、しかし17文字以内に定義できなくて、何百頁の『ユリシーズ』とか『失われたときを求めて』において定義されている

393 

<嘘のナレーション>

アイルランドは公が語る<嘘のナレーション>がある。映画『マイケルコリンズ』のラストの字幕「銃の政治が終わった」がそれである。これはポストコロニアル的問題であるが、『日本書紀』も大化の改新についての語りも<嘘のナレーション>かもしれない。政治は見かけは単純に統一されたが、権利を奪われた個人・部族の権利は偶然で曖昧の領域におかれた。『古事記』は統一がそれほど簡単ではなかったことがスサノオについての語りから読みとれる。最近は、「若者が見つめた安倍氏の「国葬」」というのがあった。日本はこの嘘のナレーションのなかに存在したままだ

394 戦前が悲惨を極めたのは、天皇ファシズム軍国主義とがおなじ方向をとったからである。戦後民主主義の絶対的平和主義が意味をもつのは、この両者の一致に対して抗議する場合である

395 

儒教は抽象的他者がいない。「忖度」は眼前の他者の立場に立って全力で尽くす。ジョイスユリシーズ』も抽象的他者がいない。何時何分にどこに行けば誰に会えるか互いにわかる

中国は共産党のままでいいから、ポストモダン孔子の眼前の他者の立場に立って全力で尽くす忖度の精神を以て、周辺の国々と国内マイノリティーとの関係を改めて。日本も助けよ

396

397

安倍以来自民党は国境ある友情に訴えるから反撃能力と自己の権力を持つために「敵」が必要だが、われわれは国境なき友情を持ちたいから反撃能力も要らないし「敵」とは言わない

398 

ユリシーズ』とはだれか?

ユリシーズ』は、大英帝国の植民都市ダブリンを鏡で映したような小説です。ペラスケスの『侍女たち』の鏡を思い浮かべるかもしれませんが、ジョイスは手鏡のなかに植民都市ダブリンをうつさせました。1922年は、『ユリシーズ』出発の年は、前衛的近代の決定的勝利の年ですが、同時に、植民地を持たない国はゼロに等しいことを暴露した本です。1980年代はポストモダンの『ユリシーズ』の読みが席巻しましたが、現在は第三世界の作家達の関心を集めています
私は『ユリシーズ』をデリダがどう読んだかに関心をもちました。distant voice という小章で、ブルームが「hello, hello..?」と言うと、その返事が500頁後に、独白の章である別の文脈で彼の妻モリーが「Yes、yes、yes」と答えたと読むのですね。何という偶然。わたしははじめてデリダ差延の思想を理解できました。面白い事に、「hello, hello,Takashi-sann 」と挨拶してくるジョイス研究者が多いのです。ところが、デリダから影響を受けたと言っている東さんは、外国人に対して、「出て行け」とは言わないのですよ。これは国境のある友情。
ポストコロニアルジョイス論は、あまり知られていません。『ユリシーズ』の舞台は、郵便局とか図書館とか病院とかなんですが、どうしてそういう建築物を舞台として選んだかというと、植民地時代のイギリスはこんな公共施設を作ってくれたことを覚えておこう、もし独立した政府はこれらを下回ったら独立はインチキだと伝えたかったのです。政治は独立したが経済が従属しているままに特権を貪っている独立エスタブリシュメントに対する批判をなすものですね

399

 


Discours on other capes is events. Disagree with "our own selves". Nothingness folds itself in the body. Nothingness is the signature of blank book writing difference.

400

ちなみに、映画の歴史も複数形です。ゴダールが強調していました

401

漢帝国が崩壊して、明代『三国志』に書かれた三国時代 Three Kingdomsがきた。江南文化の中で、北の教養文化と南の開拓された平野とが出会った山水画が現れたらしい

402 経済的に米国は世界中に米軍基地を保つことが困難で、東アジアからの撤廃も起きるでしょうから、核武装して独立するチャンスだと話す人がいます。また核を持って世界のリーダーになれと喋る知識人がいます。何か、植民地を持たなければその国はゼロだとばかり、核をもたなければ日本はゼロなんですか?

403 世界史は、「地球の住民」が、「民族」という違いを強調するのではなく、「多様性」を重んじことを学ぶ

405 「言葉と物」も

406 世界史は西欧はカトリックプロテスタントの間の宗教戦争が終わったかのように語る。しかしわたしがアイルランドにいたときは、毎日カトリック派とプロテスタント派とが殺しあっていた。毎朝ニュースを聞くのがつらかった。そして家々のドアに銃弾の跡がある紛争地域に行くとどちらもどちらの理由があった。しかし、演劇集団のフィールドデイの介入があったり、アイルランドエスタブリッシュメントを白紙にしてしまったイラク戦争に抗議したデモがあったりして、辛抱強い努力によって和平交渉が成立したのだ。だからこの和平交渉をゼロにしてしまう英国のBrexitに対して怒りを感じるし、Brexitをたたえる日本知識人にはわたしは全く信頼がない。結局あなたたち愛国者はイギリスとかフランスしか考えられないヨーロッパ中心主義なのだ

407

カトリック神秘主義とは自然と共にある神の力や教会の力を訴える力の神秘主義。人々を救いだす映画の力を過剰に語るゴダールカトリックゴダールと揶揄される。映画よ、復活せよ

ブルックナーは英国人からはカトリック神秘主義に響く。ゴダール『映画史』はいかにもプロテスタントが思い描くカトリック神秘主義と見られる。力の神秘主義でもある

408 アイルランドカトリックは、極カトリックのテロと教会スキャンダルに疑問を持った人々が長崎のカトリックのことに関心を持つ。新しく共同体を求めて脱普遍の普遍へ行く

409

410 イギリスではマルクスの妻イエニーについて彼女の自立的役割を表現したフェミニズムの芝居があったりするのですが、晩年のイエニーは大変苦しかったのですね。わたしはマルクス一家の家の近くにいたということもあって、この辺りを散歩したり買い物をしたあろうそのイエニーの小説を書けるのではないかと思って執筆していたとき、夜中でしたが、最上階の天井からコツコツと靴の足音が聴こえるのです。これはすごく怖かったです。もっと、もっと真実を書けと言ってきているように思いました。

411 <繋がりあう国境>というのは、移民や難民のリアリティ。文化は国境を超えて、混ざり合う。食べ物も混ざり合う。前衛芸術家の亡命とエリート的創作とは異なる。

<繋がりあう国境>は、移民や難民のリアリティ。これを民衆の概念として構成してしまうと、失敗した近代に対抗するユートピアとなるが、その限りにおいて対抗近代ではないだろうか

ウルトラバロックとはなに

412

413思想の流れに、美術や芸術が乗っかっているあり方にわたしは関心をもっています。わたしは4年間、文化多元主義のイギリスのロンドンにいたのですが、人物画を描くのは危険な感じがしました。それは特定の民族を描くことになるからです。何か偶像崇拝禁止みたいな話ですが(笑)、ほんとうです。お陰で、イギリス人と一緒にヴィットゲンシュタインの哲学テクストを読みながら、表象なき抽象を描く方向に向かいました。8年間いたアイルランドはこの反対で、共同体のアイデンティティというか、神話とか表象を以て描かないと孤立してしまいましたね。子どもも近代の遠近法で絵を描いちゃダメなんです。目をつぶって描いたものがみんなと同じでないといけません(笑)

414

Qu’est-il donc impossible de penser, et de quelle impossibilité s’agit-il ? (Foucault)
だがいったい何を思考するのが不可能だというのか?そもそもどのような不可能性のことなのか?(フーコ)

包摂できない無限なものー不条理こそは、列挙された物の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙を支える<と>を崩壊させてしまう(フーコ『言葉と物』)

フェースブックの外国の友人の中には、ベラスケス「侍女の部屋」に屈辱を感じてこれに反発する者がいることを知って驚いた。共和主義のスイスとかアメリカの友人が、従属するイメージを嫌がっている。つまり王に対する従属である。しかし絵をよく見ると王は存在しない。王が表象されているだけである。部屋には実在しない鏡の裏側に立っている王をこの絵を描いているのは誰か?人間である。それは描く🟰書くのはヴェラスケス自身である。われわれは全部を見ているのか?否、われわれ自身を見ることができない。画布の裏側にこそ画家が見渡している全部があるのではないか。裏側しか見ないのであるから、自分が誰か、自分が何をしているのかわれわれは知らないからだ。いったい見られれているのだろうか?それとも見ているのだろうか?( フーコ 渡辺訳 Parce que nous ne voyons que cet embers, nous ne savons qui nous sommes, ni ce que nous faisons. Vus ou voyant ? )しかし隠されているものは何も無い。裏側には現在われわれが見ている通りのものが存在するからだ。こもわれわれの視線を宙吊りにするものこそがわたしは精神(Geist、spirit、鬼神論)であるとおもう。精神に無限なものがある。問題は、近代は精神を奪ってしまった。その結果、「人間は、おたがい、死者と語らう死者なのだということを忘れる」(ボルヘス)。王と(王を表象している)わたしという関係しか無くなった。それは、鬼神論についての儒家的言説を消去していった絶対的保守主義の近代ー国家が安定していれば神と皇位との連続性に依るべしという言説ーにほかならない。つまり死者を支配した天皇全体主義国家神道である。

415 私はアイルランドにいたから国家を否定しない。ポストモダンは明らかにアナーキズムだが、国家が成り立つためには国家中心主義でなくてもよいというような柔らかい理解でいいと思う

416 

柄谷行人

無限の宇宙はひとつである。この宇宙より大きな宇宙があるとすれば、矛盾だからである。と、スピノザは包摂できない全体を考えたのにたいして、そのスピノザの考えに感化を受けたライブニッツは、それ以上分割できない小さなものを考えて、それが精神が依拠できるモナドと考えた、と柄谷は書いていたと記憶しています。柄谷は可能世界論を探究しましたが、わたしはさっぱりわかりませんでした。カトリックプロテスタントとの和解を考えるために、窓が無いことが問題であるが、モナド(単独者の交通する場所)の意義を考えたというのですが、非常に面白いことは面白いが、あまりに思弁的すぎて、アイルランドみたいな国でそれを考えることが非常に難しいのですね。ただ、別のあり方を考えることがリアルなことだという点はわかるのですが、やめたとはいえ、このことを哲学化したライプニッツは凄いと思います。スピノザライプニッツとの出会いは必然ですね。カントはライプニッツ的に考えていたときに、ヒュームの仕事を知って、大きな展開を行うのですが、スピノザに戻って考えた可能性もあります。柄谷ならばこれを検証して欲しかったですが、「トランスクリテイーク』では、カントから、マルクスに行ってしまうんですね。消えた可能世界論はマルクスにおいてどこに現れるのか?

柄谷は、ライプニッツについて論じて、カトリックプロテスタントとの和解を考えるために、窓が無いことが問題であるが、モナド(単独者の交通する場所)の意義を考えたと指摘しました。カトリックプロテスタントとの間に、原理主義的でないような、共通のものー人文知ーを考えることは大切におもいます。しかしアイルランドみたいな国でそれを考えることが非常に難しいのですね。帝国主義の問題を消去してしまえば、柄谷が考えた通りかもしれません。わたしは柄谷は帝国主義の問題に関心がないのではないかと考えました。彼は帝国と帝国の構造だけが問題なのですね。『トランスクリテイーク』のときは柄谷は知識人をやめたと言いました。柄谷は帝国主義の問題を止めていたように思えたので、わたしはショックを受けませんでした。柄谷は彼の思考にカントを導入したことは意義深いです。問題は、マルクス主義から離れるためにカントを読み直したのではなくて、カントからマルクスに命懸けの飛躍を行うのでした。さて消えた可能世界論はマルクスにおいてどこに現れるのでしょうか。柄谷のマルクスはは交通概念(『ドイツイデオロギー』)が支えます。柄谷の交通概念は交換様式ですが、わたしには、交通概念から交通が消されていったと思いました。中国論についての交通に、ヘーゲルの精神の客観としての、高度な互酬Xが想定されることになりました。しかし帝国と帝国主義の区別に意味があったかと問われるなかで、天安門広場民主化要求の経験を考えなければならなくなった時代に、柄谷の世界史的な<帝国の構造>の擁護に疑問を投げかけないわけにはいかなくなりました。

417

418 たしかに、教養というものは、意識の高さとか知能とは別のものなのでしょうね。教養については「深さ」が言われます。教養は垂直軸を思います。他方でイメージはどこから見るかの視点です。わたしにとって、イメージとは水平軸ですね。教養とは何か?イメージとは何か?この二つが一緒に働くものは何か?

419 

鑑賞とはなにか?

境界とフレームワークは表象にいかに依拠しているかを考えてみよう。ベラスケスを再構成したピカソ(左)に、西欧の、具体が中心にあり抽象は外側にある描き方を鑑賞できる。境界はあるし、枠組みはある。比べると、若冲(右)は、具体と抽象が同じ空間にある。境界はなく、枠組みはない。日本美術の中で、大雅の絵もそうであるように、無境界と無枠とが衝突している作品はわたしを捉える。書くために映像を必要としているのは文人画家の方法である。18世紀は中国論についての言説と中国をいかに思い浮かべるかの表象が働いていた

 

420 Das Wesen der Mathematik liegt in ihrer Freiheit.ーGeorg Cantor
数学の本質はその自由にある(カントール)

421 解説にある「巨匠へのオマージュ」についてですが、そうだったとしたら、それは<失ったものを取り戻せ>というような近代主義的「オマージュ」ではないでしょうか。だからそうして惹かれながら、「ねじ伏せ」的になるでしょう。<失ったならうしなうことができる>というようなベケットの方向では無いですね。ゴダールピカソの継承であるという評価があるのですが、むしろベケットの継承だとわたしはおもいます。『映画史』による過去の映画の編集は、過去を称えていながら、<失ったならうしなうことができる>という感じです。「もっともはかない瞬間こそが、華々しき過去を所持するように」(エミリー・ディキンソン)

422

ドウルーズはプルーストについて言っているのですが、本質は個体的なものだし個体的になっていくと。この豊饒な多様性を腐敗と考えるものがいます。腐敗しないために、愛が必要なのではないでしょうか。異性愛であれ同性愛であれ

423 アイリッシュは国家と教会とは別の沈黙するordinary timeを語る。日本人は別々に国あるいは神社を語るだけで沈黙を語らない。だから戦争体験が伝わらない

424

435

存在とは何か
ー他者が語るわれわれについての言説のなかに「われわれ自身」が存在するというポストコロニアルの視点

わたしはアイルランドに8年間いたのですが、アイルランドが成立するのは1922年です。しかし調べてみると、国家アイルランドについて語るアイルランド文学というのは、アイルランドという国が登場するまえに、イギリス人読者の間に存在していました。本当ならば、イギリス文学と呼ばなければいけません。アイルランドは存在していませんでした。しかし英国が語るアイルランド文学についての批評空間に「アイルランド」は存在していました。
わたし達の感覚でも、アイルランド文学が国家アイルランドの成立に先行するのは違和感ありますね。また、アイルランド人は自分達がヨーロッパ人であることをアイルランドの1970年のEU加盟まで知りませんでした(ちなみにケルト人として存在しているという認識は現在もありません。)しかしアイルランド人はずっとヨーロッパ人として存在していたのですね。つまり、アイルランド人は自分達がヨーロッパ人であることを知らなかったが、ずっとヨーロッパ人の語りの中でヨーロッパ人として存在していたことになるのです。存在というのは、結局それについて語る言葉の中にしか存在しないことを考えます。
存在が語りのなかに実体化されるほかの例ですが、アイルランド映画というのは結構人気が出てきたのですが、これはほとんどすべてがハリウッドが制作した映画なんです。アメリカが制作した映画のなかに「アイルランド」が存在するのですね。アイルランド人自身がそういう映画を見て自分達のアイデンティティを形成してしまうことが起きルのです。例えば、ハリウッド映画で描かれたテトリストが「祖国のためにおばあちゃんを助けるのが本物のアイルランド人だ!」と叫ぶと、本国のテロ組織IiRAがこの言葉を選挙キャンペーンで使うのです。「祖国と祖母を救え」と。アイルランドでは祖母を重んじることはありませんが。まあこれが地域紛争を激化してしまうことになるのです。これはポストコロニアル的問題です。他者が語るわれわれについての言説のなかに「われわれ自身」が存在するのです

歴史を語ることmaking history

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金持ち社交クラブのようなサミットだが、中には「名誉白人」のような国が紛れこんでいる。みんな握手しているが、よく見ると誰もこの国に挨拶していない

437

「芸術は存在しない」と考えてみたらどういうことが言えるか、芸術は言語の中に存在すると言えないかと考えることができるのだけれど、こも命題に猛烈に反発する人たちを見ると、芸術は本物だから存在しなければいけないと考えているみたいだ。そういう人は言語を何処かでインチキだとおもっているのではないか。言語は代理するだけだと。そんなところに本物は存在しないのだと。本物の起源を探す、非常にナショナリステイックな感じがする

438 

芸術理論は、普通の人達が批評を読んだ17世紀から起きる。17世紀に何が起きたか。西欧もアジアも外へ出ていった。外部が芸術に介入したのではないか。ルネサンスのときは貴族とか僧侶が批評を書いたり読んだりしましたが、世界システムが成立する17世紀世紀以降は、脱階級的に、批評が書かれたり読まれたりしました。江戸時代も18世紀から、医者だった本居宣長が芸術批評(源氏物語論)を書きました。面白いですね

439 

芸術は役に立つか?

宣長は芸術は役に立つかについて当時行われた論争に加わっていました。大まかに言うと、芸術は役に立たたなくていいというのが彼の考えでした。とくに宣長が考えていた文化は神話『古事記』のような公のものでしたが、それを心のなかを覆いつくすものとして根拠づけてしまうと、ファショ的ですね。実際に、明治維新の問題は、文化権力であった天皇が心の中を覆いつくしたことです。アドルノが言うように芸術はロゴスの支配の破壊であると言っていたのは宣長の芸術観に近いのかもしれません。宣長の王朝文化の再構成は、一瞬だけ蘇る儚く過ぎ行くイメージではなかったでしょうか。「物哀」ですね

440

441

現代は落ちこぼれるためには音楽家になるわけですが、江戸時代に学問をしたい武士達は、武士を辞めるような脱藩行為は死罪に値しましたから大変でした。落ちこぼれるために、町医者になって、あるいはお坊さんになるのですね。江戸時代の学問は、町人出身が築き上げました。町人出身の仁斎の古義堂とかに3000人集まりました。古義堂にあったこの堀川を隔てて相対する位置に、山崎闇斎が闇斎塾を開きました。明治維新の下級武士のエートスを形成しました。大阪の「心学」の石田梅岩は農民出身でした。天下を支える町人のエートスを教えた塾を開きました。大阪の懐徳堂は町人達が全国から集めた本を利用して作りました。また咸宜園は、江戸時代後期に生まれた儒学者・廣瀬淡窓が豊後・日田に開いた日本最大規模の私塾(学校)です。3000人集まったのです。武士たちも自分達の畑を売ってやってきました。大名達は彼ら自身は知識人でしたが、学問をリードしたのがこうした町人の塾です。中国は科挙試験のために士大夫が学問をしましたが、徳川日本は科挙制がなかったので、市井の学者さん達が現れました。学者的議論はこうした脱階級的な市民が行いました。多分これは世界の他に例がない知の形成のあり方でしょう。田中さんとかが、「江戸万歳」というかんじでもっぱら文化の話をしてわたしなんか退屈に思っていた江戸ブームを作りましたが、もう今は「江戸万歳」という人はいません。17世紀は東アジアの知識革命を為した儒者の古学の知、18世紀文献学の知と中国文明から自立する国学の形成、19世紀は異端の知ー平田篤胤の思想へと、言説の歴史が展開していきます。ちなみに徳川日本の時代は、儒教中心ですから、吉田松陰の民族の思想を異常だと考えていたのです。荻生徂徠など儒者が担った雅の知は、漢詩日本画と能だとしたら、俗の知は俳句と浮世絵と歌舞伎。両者は同時に成立しました。「江戸万歳」ブームは俗の知についてよく語っていましたが。そも田中さんが江戸時代は三つリアリズムがあったと指摘なさったのは面白いです。解体新書的なリアリズム、オランダ絵画の影響によるリアリズム、中国清朝とそれを脱構築した仁斎のリアリズム

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日本が国家中心主義に向かうにつれて嫌韓になる。これは『日本書紀』に遡る構造で、国家日本の成立は朝鮮の排除と共にあった歴史を示しているのか?他の排除が無意識に反復している

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大衆とはなにか?

吉本隆明の「最後の親鸞」(良い本と思います)が、「最後の吉本隆明」だったように、「大衆の原像」も「吉本隆明の原像」だとおもっていました(笑)。安全神話を疑わない彼の科学合理主義は受け入れることができませんが、思想家としては立派だとおもっています。党派的でないものは無いという言説は闘ってきた思想家の言葉ですよね。ところでかくも吉本は上野千鶴子に反発するのは、彼も同類の構造主義者だからではないでしょうか。吉本は王=天皇を絶対に批判しませんしね。
彼の大衆は方法論として語っている集合概念であると考えてみたらどでしょうか。わたしは日本知識人がマルチチュードをどう考えてるのか知りたいのですが、日本の若いドウルーズ研究者が言っていることはよくわからないのですが、吉本がスピノザを考える方向性を持っているというのは大事なことですね。分断されることなく量的に単純に増えていく多数であることについて、それは存在論的にどういうことなのか、集合の視点と共に、ちょっと自分で考えてみようと思います。Badiouは考えているのでしょうが。存在としての共通なもの。大衆は、存在しない惨めさに耐えなければいけないならば存在する惨めさを示したい表象にとって、共通の場所として役立っている、分断されることがない明るさを解き放つと思います
ウオールストーリートの時代は、中央銀行の前で、でしょう。サッチャーリズムのブレアーのロンドン時代に、2009年G20ロンドン開催に抗議して中央銀行まえの広場に自発的に集まった4000人の中にいたのですが、警察8万人に数時間包囲されました。あっという間にこのニュースが世界じゅうに発信されて、この時は、デモ嫌いの保守的なイギリス人もデモを支持して、ネオリベ労働党政権は倒れたのです。しかしわかっていたことですが、後に保守党が出てきて最悪のBrexitを実現させてしまいました。しかしこういうのは例外的で、現在はどこも立ち入り禁止で、存在は占拠できる場所がなくなってしまいました。でも歴史には占拠できる場所があります。つまり過去には解釈の自由があるのですね。日本思想史の外部性を倫理学(国民道徳)に介入することができます

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和辻はハイデガーと対等に議論できて超えることができるかもしれないと考えたことを思うと、自分の英語は零であるが、We Irish と語ったときはヨーロッパ人に衝撃を与えた

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法は[……]本質的に脱構築可能である。[……]法のこのような脱構築可能な構造こそ、(中略)同時に脱構築の可能性を保証しているのだ。もしも正義それ自体というようなものが、法の外あるいは法のかなたに存在するとしたら、それを脱構築することはできない。
同様にまた、もしも脱構築それ自体というようなものが存在するとしたら、それを脱構築することはできない。脱構築は正義なのである。

 

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『アンチオイデプス』は二項対立からの逃走が言われました。作る近代に絶望しきっているのも大切なポイントです。人間が推進した二項対立の問題を解決するために、再び人間に委ねることは倫理的に不可能です。二項対立からの逃走は、人間(理性中主義、国家中心主義)からの逃走を意味しています。ただ、逃げるものが、勝つことに気を取られ、闘うこと(思想闘争)を忘れちゃうなんてというような本末転倒が世の中にあります。天皇ファシズムが「おまえは非国民だ」と指さしたらもう逃げられなくなったとはどういうことだったのか?戦前と同じことは起きないとはいえ、帝国の時代におけるファシズムにたいする抵抗はどうして必要なのか?構造主義が終わってしまい、ポストモダンも亡くなってきて、絶対的保守主義の近代が日本では主流となってきています。日本思想は『アンチオイデプス』をどう読むかが問われています。われわれはポストモダン孔子という見方をうち出しています

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芸術は定義可能であると私は思っている。しかし芸術を定義しなければいけないとは考えない。定義しなければいけないと言う人は洗礼か戴冠のように芸術を定義したいかのようだ

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フーコの<外の思考>とはなにか

フーコは『監獄の誕生』以来、分割されているどんなものにも心をとらえられきました。しかし思想を自己を得ることができなかったようにみえます。しかし本当にそうでしょうか。権力に巻かれたら巻き返せ。そうして、『監獄の誕生』において、一望監視監獄に互いに独立し合う可視的なものと言説的なものを見いだしたとき(権力は意味をもっていない)、『言葉と物』で既にこの戦略が取られましたが、言説と光と闇を以って巻き返せないかと考えたのではないでしょうか。

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精神(鬼神)の宇宙論的独白

私は分割されているどんなものにも心をとらわれます。ポジティブに言えば、本質は固体的であり個体的になっていくのです。管理社会こそは最高のものをもっている世界だと信じこまされています(戦前は天皇が主宰する国家祭祀が最高なものでした)。世界を包み返すためには、自己にそれを超えるものがなくてはいけません。観念的批判的多元主義が要請されます。

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近世日本思想は、朱子の性理論を捨てて、伊藤仁斎において大地に立つ宇宙すなわち人が学問によって無限を自分のものにすると考えた。朱子学が消滅したわけではない。天と地との間の往還を語る言説から、死と精神とが自ら襞のように折り曲がって無限へ向かう鬼神論についての言説へと移行する。これと平行して、制作学の徂徠と国学宣長と篤胤の影響を受けた後期水戸学の政治神学が成立する。

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Brexit(英国のEU脱退)は保守党が労働党に対する議論のための議論だった。明らかに失敗だ。ユダヤジョイス読みが語った。規則は一つだけー議論に最終解決をもちこむな

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ヨーロッパとはだれか

確立した我のなかにあって別の我のあり方が在る、ということがフーコにおいて問われていました。これは、一度ある言説が確立してしまうと、それを止めることはほんとうに難しい。確立した言説の中でそれとは異なる言説を作るやり方(戦略)に対応していると思います。映画界のゴダールは自画像を映画を制作したときに、思考不可能なものを撮ると言っていましたのは、このようなフーコの問題提起を受けたとおもわれます。
やや簡単に説明してしまったかもしれません。ここはフーコは、影響を受けたハイデガーとの思想闘争があります。ハイデガーの「世界-内-存在」は、本質的には、開示の思想についての言説なのですね。それに対して、フーコは、窓の存在を指定できないほどの暗闇の底に生じた「精神の襞」(ドウルーズ)を考えてみたというのがわたしの理解です。
ですから、ハイデガーの開示も思想によっては思考不可能なことを思考するのがフーコの構成であるということではないでしょうか

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No.1 反時代的なポストモダン精神(鬼神) 

ポストモダン孔子があるならば、反時代的なポストモダン精神(鬼神)もある。それは、ハイデガー「存在ー内ー時間」における開示の思想ではなく、暗闇の魂の折りたたみの思想である

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No.2 反時代的なポストモダン精神(鬼神)

「精神」の語を構成する概念の配置は12世紀の『朱子語類』に見出せる。「精神」は、ドイツ語のGeist、英語のSpirit である。朱子においては「精神」と「鬼神」は「相似たり」であった。だけれど近代のわれわれわれは「鬼神」を喪失して、「精神」だけを心身的記憶に留めてきたのかと子安宣邦氏は問う。そうしてわれわれは何を失うことになったのか?アジアのコスモロジー(宇宙論)ではないか

460 精神を考えるときになぜアジアのコスモロジーを切り離してはいけないのか。お天道様とか先祖様が私を見ていなければいけないのに、ヨーロッパのコスモロジーでは先祖様はいないから

461 茅ヶ崎にいるが、毎日サーフィンしているのと聞かれるけれどそれは勘違いであって...中海岸にいるから海はそれほど外では無くまたそれほど陸の内側にはいない。境界がない場所

462 「1940年代日本体制」の隷従の道を批判した日本左翼は、ネオリベの台頭を助けてしまったという指摘については考えるべきところがある。いやはや難しいね

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中国の学者が「日本の繁栄は、海外の文化に対する謙虚な姿勢と学ぶ気持ちにあった」と言うのです。だから今後もその気持ちを忘れないなら日本は伸びるだろうと。たしかに、その気持ちがあれば、日本も捨てたものではないでしょう。ぶっ飛んだ仮説かもしれませんが、わたしはこんことを考えます。古代日本は奈良の中国知識人と朝鮮知識人と彼らに育てられた日本知識人が作った国家です。これは必然として移民国家の構想があるはずです。だから日本の外からくる文化を迎いれる制度となっているについて、例えば、『古事記』は、当時の日本列島にあった神話を集めてきたのですが、それらは中国文明の高度な語りを媒介しなければ、他者に伝えるものではありませんでした。『古事記』序文において、天皇が語り伝えたもものを分かるように書いたのは中国知識人たちあるいは学んだ日本知識人です。1000の太安万侶たちです。こうして、日本人は自分のアイデンティティの確立が中国文明を必要としていたことを考えなければいけないないようになっているのです。ただ問題は、大陸の戦争に巻き込まれないようき韓を排除した国家建設でしたから、今日のヘイトスピーチがあります。『日本書紀』『万葉集』の時代に、韓国に知識人はいなかったと何の根拠もなく言う人もいます。朝鮮知識人から漢字を学ばなかったというのならば、古代人が『古事記』を書いたとでも言いたいのでしょうかね。酷いナショナリズムを残念におもいます。

464 わたしは高校時代から、「西欧中心主義万歳」になったかもしれないのですが、子供時代は四年間、オーストラリアにいました。そのオーストラリアを西欧ではないと、やはり大正教養主義の西欧かぶれの父が語った言葉がずっと引っかかっていました。西欧は、ヨーロッパの西欧、日本人が考える西欧とのあいだに分裂があることを考えなくてはいけませんでした。前者はいいが、後者は信頼ができません。半分だけの西欧万歳

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 バルザックにおけるように書きたいと考えたマルクスのテクストを横断する、古代-近代-脱近代(象形文字としての商品-信用貨幣-絶える技術革新の創造的破壊)

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西欧の首脳たちが広島に来るのは遅すぎましたが、広島の平和主義を活かす時代がきました

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ヘーゲル

わたしはヘーゲル読みではないのですが、『法哲学』の財産法についてヘーゲルが<私>を自由意思として捉えた上で、それは無限だと解釈していたのを思いだしました。面白いですね。その「物」はわたしは思想を自分の物にしているかと問われるときの「物」だと思います。問題は、われわれは思想を自分の物にしているかと問うことはどういうことかを考えることです。ブルジョワ財産法の枠組みの「わたし」に留まっていては、そこにいけません。精神の客観ー家族、市民社会、国家ーをヘーゲルは語ります。そしてヘーゲル精神現象学』を『鬼神現象学』と呼んではいけないでしょうか?

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わたしは映すことに無関心な鏡がすきだ。鏡は部屋の中に置かれているのに、部屋の中を映さず、部屋の外にいる人々を映している鏡。待てよ、これは窓のことか。窓ならばいらない

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「宇宙の鏡」というのは、ウンベルトエーコが分析してみせたジョイス『フィネガンズウエイク』のテーマでした。人間が描く
く=書く、部屋の中にあるものを映すことに無関心な鏡をベラスケスは描いていたと指摘したのはフーコです。われわれには見えない、部屋の外にあるモデル(国王夫妻)だけを映しているのですね。王が立つこの場所から、「人間」と人間知(同一者の知)が現れてくるというフーコの筋書きは面白いとわたしはおもうのですが。そしてその人間も砂浜の落書きのように消えていくのです。

わたしは映すことに関心がない鏡のあり方に興味があります。そうしたら壁にかかっている鏡に代わりに何を置くか?わたしは棺桶だとおもっています。鏡と窓はフーコにおいて区別されていませんから、結局窓の代わりに棺桶をおくのです。これはわたしのダブリンに行ったときの街の印象でした。昔は溝口『雨月物語』のような死が支配している感じで廃墟の街だったらしいのですが、2000年に行ったわたしには街の建物の窓のひとつひとつが棺桶に見えたのです。
興味があるかわかりませんが、『資本論』のマルクスにおいては、貨幣はみんなを映すべき鏡でした。しかし皆んなを映すことに無関心な鏡です。世界を構成する商品に無関心な鏡ですね。その貨幣がどうして王としての役割をもつのかはマルクスの探究です。わたしは、代わりに、宇宙の鏡こそが世界を映すのだと思います。それはどこにあるのか?ジョイス文学では、それは二人の洗濯女達の語りの中に定位するのです。神話の語り口を想起する、ダブリンの洗濯音楽達の言葉にジョイスは造語的に世界中の河の名を書き記しました。

古事記』は、いきなりイザナミイザナギが登場するのではないのですね。天之御中主神(アメノミナカヌシ)、高御産巣日神タカミムスビ・高木神)、神産巣日神(カムムスビ)、宇摩志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコヂ)、天之常立神(アメノトコタチ)という宇宙神が先行します。それから、国の神々、国之常立神(クニノトコタチ)とか、イザナミイザナギですね。これはどうしてかと考えると、国の神々が支配した神話(鏡)では世界を映すことができなくなったという事ではないでしょうか。宇宙の鏡である宇宙神が必要となったときに、『日本書紀』と『古事記』が作られる必然があったのですね。例の天照大神は自分を映して鏡を見せられて、「自分以上に偉い神はいるはずがない」という考えを捨てるのですね。そうして天岩戸から出てきたというのは面白いですね。
イタリア人の友人が『古事記』を凄く誉めて、日本の神様は皆んなを照らす光を復活させたと。皆のことを考えている、比べると、ギリシャ神話の神々はセックスばかり追いかけているのは自分の欲望しか考えないイタリア人のようだと(笑)

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70年代、80年代の日本の新聞は面白かった。このときは一緒懸命新聞を読んだ記憶がある。現在新聞は解釈が無い事実が並ぶだけだ。記者達が書いた現場からの報告など中には大事な記事もある。しかし社説が全くダメだ。ガーデアン紙は、解釈の解釈の仕方に自己の意見がある書き方をする名物コメンテイターが沢山いる。ピアニストのバレンボイムが訪英したとき毎日ガーデアン紙のコメント欄を読んでいたと語った。サッチャー主義のブレア政権とたたかった英国のメディアは2000年から20年間非常に充実していた。

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反知性主義の起源

「日本人は自分の意見を言って個を表出できない己を乗り越えるべきだ」という言説ほど怖いものはない。自分の意見といっても結局誰かの意見なのだから、自分が語っているその誰かの意見をどう解釈するかに自分のあり方があるのに、それをニセモノときめつけてしまって、「自分の意見」をオリジナルなホンモノと考えてしまうのである。そうして「自分の意見」としては存在しない一切の学者的議論を罵倒するまで反知性主義に陥っていく。これは漢字借り物論が陥るオリジナル幻想と似ている。これらは全体主義的「個」にほかならない。

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軍人勅諭』の漢文的表象から、『古事記』的表象へ

明治15(1882)年1月に発布された『軍人勅諭』の一節、「己が本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽し」は、知りませんでした。『軍人勅諭』についてはよく語られます。しかし所詮エリートである軍人のものである『軍人勅諭』はどれくらい国民全体に影響していたかはわかりません。これについて考えてみますと、漢文的表象で、「国破れて、山河あるか」みたいですね。台湾と朝鮮を植民地化した大正に確立する日本帝国主義軍国主義という感じだと思いました。死んで国を取ってこいという乗りですが、それほど狂気ではないです。しかし50カ国と戦う根拠となった国体となると、すなわち祀る国家が戦う国家のファシズムでは、生きている意味もないし死んでも救われないのだから国に生命を託せと、死後の救済がないからこそ意味があると、死から生を生み出せみたいな、漢字的表象から切り離された、狂気の『古事記』的表象が中心だったのではなかろうかとわたしは考えています

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ヘーゲルはいつから思弁的になったのか?カントは中世の物の概念を再構成した。物をヘーゲルマルクスは精神と労働と呼んだ。精神は西欧中世のコスモロジーからは切り離されていたから思弁化していった。精神が自立的に運動していあり方を書いた

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鑑賞者のわれわれは画布の前で、その裏側と鏡を見て部屋全体を描く画家を見ている。自己と類似しているもの全てが空白に消滅している。この自由で純粋な表象を嘲笑う者はだれか?

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マルクスが言う通りに労働が価値を決めるのだったら、労働生産性が低いアイルランドのΣ労働価値こそは最大の富を享受すべきだが、現実は最も貧しい国であった。どうする、マルクス

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マルクスが言う通りに労働が価値を決めるのだったら、労働生産性が低いアイルランドのΣ労働価値こそは最大の富を享受すべきだが、現実は最も貧しい国であった。どうする、マルクス

アイルランドが独立したとき(1922)、最初に承認した国はソビエトでした。緑のアイルランドではなくて、赤いアイルランドだったのですね。
第二インターナショナリズムの影響のもとで起きたダブリンのイースター蜂起(1916)に注目したのは、レーニントロツキーでした。しかし混乱のうちに終息してキリスト教会の力が強まったのを観察して、革命はアナキズムの自発的な大衆運動では限界があると、前衛党が導く必要があるということになりました。ロシア革命は1917年でした。
マルクスは、『資本論』の中で、アイルランド問題を書いていました。アイルランドで革命が起きるべきなのに、どうして起きないかを考えた彼は、立ち退きされたゲールの子孫たちをアメリカが受け入れていた事実を指摘しました。大英帝国を打ち倒す敵がどんどんアメリカで成長していると。こんな感じで熱くなって、アイルランド問題とロシア問題を考えた1850年代から、マルクスコミュニズムが手動する普遍主義に疑問を持ちはじめました。インドの近代化には英国の支配が必要だったというようなことも言い出して、ヨーロッパ周辺の社会主義革命はヨーロッパ諸国のプロレタリアートの協力によって実現すると考えたりしました。今日のフランスのメランショは次の大統領になる可能性がありますが、彼はヨーロッパのプロレタリアートによるソ連への介入を口にしていますよね。
柄谷行人は、帝国主義の時代が終わった世界史の必然から帝国の時代が来ると言ってきました。帝国主義の軍事支配と違って、帝国は経済と文化を支配するのですね。世界資本主義の分割は、帝国アメリカと帝国中国、帝国ロシアと帝国拡大EUです。しかしわたしは戦後も続くイギリスのアイルランド支配のあり方と期待アイルランド紛争の現実を知っていたので、帝国主義と帝国を区別することはできないと主張したジジェクの意見に賛成です。わたしはアジアの知識人のようには帝国を擁護する柄谷を評価できません。柄谷は決してアイルランドのことを言わないのは、彼の帝国の理論が破綻しているからです

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マルクスの労働観は近代のもので、表象理論の語る所のものではない。だが労働ついての語り方は分裂の事実より寧ろ古典的な二重化された表象に存する。具体的労働と抽象的人間の労働

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ソビエトが崩壊して、絶対的真理とされたマルクス資本論』の解釈が自由になったとき、そもそも解釈の自由とは何かが問題提起されました。注釈について考えられたとき、表象が成立する為には自己を表象してくれる他の表象が必要ですが、それはマルクスが「等価形式」と呼んだももではなくないかと喚起したのは柄谷でした。江戸思想史は注釈と批評の歴史です。注釈は言語の存在と共にあり、他方で批評は言語から自立する空間ですね。フーコが書いてあるようなヨーロッパの注釈と批評の歴史を勉強しなくとも、江戸思想史にあります