書評: 『一八世紀の秘密外交史ーロシア専制の起源カール・マルクス、カール・アウグスト•ウイットフォーゲル、石井知章+福本勝清翻訳・周雨日霏訳

ーThree quarks for Muster Mark !  
クオーク三唱、王マークに!」 
 
クオーク三唱、王マークに。号令届かぬ王の声。届いたところで的外れ。」で始まる 、ジェイムス・ジョイスの「フィネガンズウェイク 」第二部、第四章では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四人の福音書記者を喚起する語り手がトリスタンとイズーの「うねる(roll)」愛を物語ります。 
 
and there were, like a foremasters in the rolls, listening, to Rolando’s deepen darblun Ossian roll  
 
「四人はと言えば彼らはうねる波間四本マスト船、公文書四管理官のように、ローランドの濃褐色の大洋オアシンのうねりに聞き入っていた」(宮田恭子氏訳)。 
 
これをどう解すか。 
 
世界資本主義とその分割である四つの帝国ーアメリカ、中国、ロシア、拡大EUのあり方をわたしは考えます。 
 
ロシアと中国、そして、日本をみる限り、経済が発展すればするほど総体の従属が深まる、といわざるを得ません。やはり「アジア的」なのか。マネー、テクノロジー、経済はどんどん進むのに人権が出てきません。 
 日本は世界第三位の経済大国といわれますが、総体の従属が深まるばかりという状況ではないでしょうか。 
 
 「グローバルデモクラシー」の掛け声は無視され、ロシアと中国のように、帝国と帝国主義の区別をやめてしまった国もあります。 
 
さて、マルクスは一八五〇年頃を契機に、単一直線で進行して行くような普遍主義的見方をみ直していきます。これについて、「十八世紀の秘密外交史、ロシア専制の起源」(マルクス、ウィットフォーゲル、白水社)は、ロシアの在り方がマルクスの思考をいかに揺さぶっていったかを正確に語っています。 
 
これは二十一世紀の現在を考えるために役に立ちます。フランス革命勃発から皇帝を倒すまで百年間を要しましたが、現在ロシアと中国で革命後再び現れた皇帝がグローバル資本主義である民主主義と共存しています。そして、前者(ロシアと中国の皇帝)は後者(グローバル資本主義である民主主義)に対して総体としての従属を強いるのです。例えば、中国の民主化がなければ日本の民主化は不可能となっているほどです。 
 
マルクスが克服した単一直線的な歴史観を、日本の歴史に置き換えて考えると、次のようになるでしょう。単一直線的な歴史観では、古代天皇制の後に中世と十七世紀の江戸幕府の近世が成立するはずですが、歴史はそのように単純ではありませんでした。古代天皇制は江戸幕府成立直前まで鎌倉時代に通じて共存していたのです。津田左右吉によると、江戸の武士政権は天皇を京都に隔離(政教分離)することに一時的に成功しましたが、王政復古は天皇に全権力を集中させてしまいました。 
 
「今日の世界情勢が告げていることは、専制主義は既に過去のものと考えることはできない、という事実である。」「専制国家の閉じたサイクル『非専制化→その挫折→再専制家』は今後も続くであろう。専制国家が世界史の動向を左右する、あるいは専制国家の振る舞いが周辺諸国を脅かす、という可能性は今後も消えることはない。自由主義陣営、欧米列強が、十九世紀帝国主義列強のように、専制国家をコントロールするなどという状況が戻ってくることはない。それ以上に、自由主義陣営、欧米列強が、専制国家に対し今日のような力関係を、今後も長期にわたって維持し得る保証もない。それらを踏まえ、今後、いかに強大な専制国家と対峙していくか、その非専制化への歩みをどのように促すのか、保守革新、左右両翼など従来の枠組みに関わりなく、問われている」(福本勝清氏による「解説」) 
 
マルクスは、一八五〇年代に著した『イギリスのインド支配』、『イギリスのインド支配の将来の結果』(インドにおけるイギリスの二重の使命)などの評論において、アジアの『遅れた』諸民族・諸国家にとって、資本主義化、植民地化は不可避であると論じていた。つまり、その資本主義化==民地化を媒介にしてはじめて、『前近代的』政治経済システムがより現実的に『破砕』できるのであり、ここではそうしたポジティブで、かつ限定的な意味でのみ、いわば『例外的』植民地化が肯定されていたということである。だが晩年のマルクスは、そうした考え方を一部変更しつつ、アジアの遅れた諸民族・諸国家による資本主義を『跳び越えて』の社会主義への発展を認めていった。すなわち、いわゆる『ザスーリチの手紙への回答』においてマルクスは、ロシアが資本主義(= カウディナ山道)を超えて社会主義に至ることは可能であると承認したが、このことこそが、西欧を中心とする社会主義革命とは異なった、アジア社会に『独自な』社会主義への道を可能にし、二〇世紀のロシア革命と中国革命がまさにそのマルクス晩年の構想の正しさを実証するものとして理解されたのである。 
この議論は中国においても、ポスト鄧小平時代であるこの二十年余りの間に、『カウディナ山道の超克』論としてさまざまなに繰り広げられてきた。しかも、ここできわめて興味深いのは、これらの「論争」がポスト天安門事件期における党=国家による独裁的支配の強化と、国家資本主義の高度成長の中で行われていた、という事実である。とはいえ、マルクス自身は『もしロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者が互いに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる』(『「産党宣言』ロシア語版序文、一八八二年)と述べていたのであり、この両者の互いに補うことがーその是非はさしおいてもー高度に緊密な関連を持った世界革命の『同時性』について述べたももである以上、ここで主導的な働きをなすのは周辺の『遅れた』諸国家ではなく、中心の『先進的』資本主義の成果を継承した西欧プロレタリアートであり、『遅れた』国家・民族はそれに依拠しなければ『跳び超え』自体があり得ないことになるであろう。それゆえに、マルクスにおいては、やはり第一義的には『前近代的なもの』に対して『近代的なもの』がポジティブなものとして対置されていたということになる」(石井知章氏による「あとがき」) 
 
マルクスは、プーチン習近平のような権力が集中するアジア的かつ皇帝的存在が影響力を持ち、近代がそのような形であらわれる世界史的舞台を予測していました。しかし、同時に、市民社会の視点をもっては、その(アジア的)世界史的舞台を批判しませんでした。そうして、今日の中国は、マルクスの思想を、自らをいまだアジア的生産様式だと自己規定し、西欧が要求する民主化を否定する根拠とするのです。ロシアのプーチンアメリカやヨーロッパの体制を批判するとき、中国と同じ見方から行っています。市民社会論なきアジア的生産様式論が西欧近代とは異なる、という中国独自の近代を語らせているこの言説的問題をどう考えるか、市民社会の近代を批判してきたわれわれポストモダンの知が問われています。