子安宣邦論ー未来を思い出す思想家は日本思想史をどう語ったか?

 

 

No.1

高校時代は全共闘運動の世代の先生もいて、中江兆民を読まされました。中江は、自由民権運動の担い手が漢文を読む活動家的知識人だったことから、ルソーのフランス語を漢語に翻訳しました。例えば、社会契約によって自然権を譲渡して国家を作れという話は、「天命の自由」を捨て「人義の自由」を得よと書きます。中江は現在は読まれていないのが残念です。中江は、後期水戸学が影響を受けた荻生徂徠の制作学によって再構成するしかないと子安宣邦氏は語ります。これはどういうことかをあきらかにするために、荻生徂徠研究の大家である子安宣邦氏の仕事を回顧する投稿が必要を思います。子安宣邦論ー未来を思い出す思想家は日本思想史をどう語ったか、です。大杉栄の意義を小田実の市民論の先駆として捉える画期的視点が子安宣邦氏にあります。そして世界資本主義の分割である帝国から自立するための、儒教における多様な普遍から東アジア共同体の意義を説き起こします。

西欧の真善美を超えるものは再び西欧の真善美に依拠することは不可能である。全否定するアジア的なものが要請される。それは最高のものがある西欧を包み返す空であり、復古主義のための廃墟であって、未来を思い出す絶対の死かもしれない。そうして儒家神道の後期水戸学は、徂徠の制作学を継承しながら、聖人に天照大神を読み出した。日本近代はこのように中華文明から自立しようとした古学からしか生まれなかった。ただし制作学は制度論なので、天皇を必要としない選択も可能であった。そしてこれは天皇主権を否定して国民主権を宣言した戦後憲法の道でした。このことを理解する前提で、古学とは何であったかついて語っていこう。

No.1 

 

ポストモダン孔子があるならば、反時代的なポストモダン精神(鬼神)もある。それは、ハイデガー「存在-内-世界」における開示の思想ではなく、全時代の思想からくる暗闇の魂の折り畳みも思想だろう。

 

No.2 

「精神」の語を構成する概念の配置は12世紀の『朱子語類』に見出せる。「精神」は、ドイツ語のGeist、英語のSpirit である。朱子においては「精神」と「鬼神」は「相似たり」であった。だけれど近代のわれわれわれは「鬼神」を喪失して、「精神」だけを心身的記憶に留めてきたのかと子安宣邦氏は問う。そうしてわれわれは何を失うことになったのか?アジアのコスモロジー(宇宙論)ではないか

「中国では、「精」と「神」とを組み合わせた古い漢語であり、元来は元気やエネルギーという意味であった。これが今日のような「物質」の対義語として使われるようになるのは、明治の日本でドイツ語のGeistなどの翻訳語に選ばれて以来のことである。」(Wikipedia)

精神は能動的で知性的な働きとされる事が多いです。精神と物質を対立関係として捉えます。しかし「鬼は陰の霊、神は陽の霊」。朱子の精神=鬼神は、精神と物質を対立関係として捉えていません。物資も働きがあります(魄である精は地に沈む。魂である神は上へ行く)。ライプニッツは物質にも自発運動を認める一方で、精神を実体の知性的な自己表現力とするようです。

漢語で理解される精神とは働きであり実体があるから、精神は芸術であるのではないでしょうか。

「神は伸ぶるなり。鬼は屈するなり。風雨雷電初めて発する時の如きは神なり。風止み雨宮過ぎ、雷住(しず)まり電息(や)むに至るに及べば即ち鬼なり」
(『朱子語類』巻三「鬼神」書き下し文)
<訳> 神とは伸であり、鬼は屈である。風雨雷電の始まる時は神であり、風が止み、雨があがり、雷鳴が静まり、雷電が収まるに至れば鬼は屈である。(子安宣邦訳)

・このように語ることによって、鬼神(死後)は生存する人と陰陽二気の自然的世界に読まれていく。

鬼神は陰陽の消長に過ぎざるのみ。亭毒化育、風雨晦冥、皆是なり。人に在っては則ち精は是魄、魄は気は是れ魂、鬼の盛んなるなり。気は是魂、魂は神の盛んなるなり。精気集まって物となる。何物にして鬼神なからんや。遊魂は変を為す。たまたま遊べば魄の降ること知るべし。(『朱子語類』巻三、書き下し文)

(子安宣邦氏の訳)
鬼神は陰陽ニ気の消長であるに過ぎない。
生成化育、風雨晦冥はみな鬼神、すなわち陰陽ニ気の消長である。人にあって鬼神をいえば、精神の精とは魄であり、魄とは神の盛んなものである。精神も神とは魂であり、魂とは神の盛んなものである。精気が集まって物を為すという。したがって物にして鬼神のないものはない。また遊鬼は変を為すという。したがって魂は浮遊するのだから、魄は下降することを知るべきである(地に沈んでいく)

・文字がなかった古代に言語の存在はあった。物で書かれた物が存在したのであル12世紀に、それらは鬼神論によって説明されたとわたしは考える。

 

 

朱子学をただ日本近代思想の成立にとっての否定的な思想体系としてのみ見るのではなく、東アジアに成立した唯一の普遍的な思想体系として見ることから、あらためて日本の近世・近代思想の読み直しを考えるものです。
「あらためて」とはいかなる意味だろうか?

吉川幸次郎は『論語』先進編「鬼神に事えんことを問う」章の評釈の言葉も中で朱子無神論者としながら日本近世思想史を俯瞰するようなことを言う。これについて子安氏はいう。「私が朱子の鬼神論的世界を知る前であったらこの吉川の朱子を「無神論者」とする論定に驚くことなく、「無神論者」朱子を前提にして辿られる日本近世の「無神論者」仁斎とそれに対立する「有神論者」徂徠とそして宣長に辿られる思想史的系譜の記述を喜んで受け入れたであろう。だが朱子の鬼神論的世界を『朱子語類』の自分なりの解読によって辿ってきた私は朱子を直ちに「無神論者」とすることに抵抗を感じる。」子安氏は近代合理性のいわば透明な言語となったその自明性を問題とする。

 

No.3

朱子語類』巻三 「鬼神」

(書き下し文)
問う、鬼神は便ちただ是れ此の気なるや否や。曰く、又是この気の裏面の神霊と相似たり。
(子安宣邦氏訳)
鬼神はただこの気であるのでしょうか。朱子が答えていう。鬼神はこの気の裏面の神霊というべきものに似ている。

・「鬼神」は陰陽二気の霊妙な働きである、その裏面の神霊的な実体であると、「精神」に似ていると朱子は語る。現在は「精神」から「鬼神」を表彰することはない。近代のわれわれは「鬼神」を喪失して、「精神だけを心身的記憶に留めてきたが、それで失ったものは何であろうか?

・アジアは、「精神」はアジアのコスモロジーである「鬼神」と結びついていたのだけれど、近代は「精神」だけになった。抵抗の拠点である伝統を捨ててしまったのである。関心をもってくれる人たちもいて心強いが、ここで、「鬼神論」に反発する肉体言語の日本人たちのほうが多いかを知る。近代にやっつけられてしまったとはこのこと...なにか、漢字で書かれたロゴスにたいする反発をかんじる。デリダがいっていた音声中心主義とはこれか?ただわたしは江戸思想史を知らない読み手にいきなり朱子学とその鬼神論について語ることは方法的に問題はないかとおもっている。朱子学は「公」について語る思想であると思い描かれていて、彼らのイメージの中では「私」が消滅してしまう。しかし江戸時代の古学がいかに朱子学を解体していったかを知らないのである。伊藤仁斎にとって一番大切なものは「私」だろう。その「私」が宇宙の「天」(天命を与える)と結びついていなくてはならない。「公」は「天下的「公」として再構成された。石田梅岩のような朱子学者は天を支える士農工商の垂直的平等を考えた。この知識を前提に、どうして鬼神論についての朱子の言説が大切かを理解できる。徂徠の制作学的鬼神論、宣長の神話的鬼神論、篤胤の民情論的鬼神論が朱子の祭祀的鬼神論から展開された。

 

No.4

‪「帝は是れ理を主と為す」‬(陳淳)

子安先生の訳と解説 (『朱子語類』を読む)

「天が帝であるとは、理を主としていうのである」

• 人間が自らに判断できる主宰性(主体的、自立的)をもつのは、人間は心をもっていることによる。

・・宋の 陸九淵 や 明 の王陽明の学問、江戸中期の京都の 石田梅岩など、朱子学者から影響を受けた思想は心学と呼ばれます。心学は心=理、です。ただし朱子学は心が理を支えるとは考えません。朱子学は、性=理です。

伊藤仁斎ははじめは、天の理(ロゴス)」と結びついた「私」を大切に考えたと思います。「性」というのも天から命令を受けた生まれつきの心の方向性のことですよね。しかし仁斎はだんだんと天地観も性理論も捨てて行くことになりました。仁斎は人が人して要請されるあり方をカントのように語りました。
朱子学は「公」が大事なんでしょうね。むしろ「私」を排除しました。おそらく貴族は個人の救済が大切でしたから、仏教に寄ってました(日本の貴族は立身出世が救いでした)。しかし帝国宋の時代に貴族は、淫祠邪教を廃した宗教革命によって、官僚にすなわち知識人的活動家になっていきました。彼らは公の立場から、天帝を仰ぎ見はじめたのです。

・個人的なことで恐縮ですが、わたしは体系から遠い人間ですので、体系のことを喋るのが苦しいのです(笑)。しかし20世紀の朱子学の近代は体系的に理解しようとするあまり、朱子が死後の世界について語ったことはくだらないとか言いますよね。しかし12世紀の朱子は鬼神論について語りましたし、知識人のくせにどうも原始儒教の祖先崇拝をやめたりはしていないのですね。祖先崇拝する知識人は世界に例がなく、多分朱子学の知識人だけではないでしょうか。朱子は淫祠邪教を廃して宗教改革を行いましたが、近代主義(吉川)が捉えるように彼は無神論ではありませんでした。一筋では理解できない、ポストモダン的に混ぜ合わせがある思想家です。これがわれわれのポストモダン朱子の主張です。以前に、‪ 「フーコはいかに「言説」を語ったか」を投稿したとき、<混在郷>について書きました。朱子の鬼神論を語った言説は『朱子」の名を破裂させる<混在郷>です。
「だが<混在郷>(エテロトピ-)は不安を与えずにはおかない。むろんそれがひそかに言語(ランガージュ)を掘り崩し、<これ>と<あれ>を名づけることを妨げ、共通も名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法」を崩壊させてしまうからだ。」(フーコ)

 

No.6

アジアの形而上学は、祖先崇拝の伝統を否定せずに、目に見えず耳に聞こえない鬼神とは何かを考えた。ただ形而上学は仏教の宇宙をも消滅させる無神論的思考を排するのが難しかった。そうして天を仰みたのは朱子学批判の古学。仁斎は人における天の主宰者としての道徳を考えた。しかし徂徠はそれを主観的だと批判。彼は聖人の命名による鬼神と国家の制作をはじめて語ることになった。この天皇制国家の青写真ー徂徠の国家に託した理論ーは後期水戸学に影響を与えていく。歴史は制作と再制作の反復である。

19世紀の異端的な平田篤胤は、18世紀の正統的な学者の議論(宣長と徂徠)というよりは、救済を望む民衆(彼のパトロンたちを含む)の話を取り入れる形の思想的主張である。平田は、言説的<と>を外部化する他者である。
鬼神論の言説について書くとは、包むもの、絶えず「あらためて」還るものに与えられた名ではないか。言語的存在である人間が存在の意味を考えるとき、近世的要請でも近代的排除でもなく中世形而上学的迂回でもない、包む精神が白紙の本に与える<問い返す>懐疑精神の差異の線である。

No.13

No.7

鬼神論の言説について書くことは並べること。世界は分節化できない生と死。思考の分割できる論理的順番として、ハンナ•アーレントハイデガーに先行する。先ず、遥か遠くからくる移民としての生を存在と書く。これによって此方からみえる向こう側がある。その後に、近(親)しい仲間から遠くへ行かないで再び還る「世界-内-存在(死)」を書くこと。アジアにおける、鬼神論的にある、本質なき再-分節化である。

目に見えて耳に聞こえるものは、世界から生と死の不透明性を奪ってしまってそれを返さないならば罪である。目に見えず耳に聞こえない鬼神を問う言説は事件であり、鬼神論をめぐる言説の展開は贖いである。世界から不透明性を奪った問題を解決するために、再び言語の透明性に委ねることは倫理的に不可能である。朱子が語る鬼神論は言語を透明化した。しかし朱子の鬼神論は、弟子たちとの議論を通じて、理(ロゴス)の優越性を保つのはいいとして、死を第二義的問題とみなすような、世界から生と死とが一体にある不透明性を奪ってしまってはやっていけなくなることを隠さない。

 

朱子『中庸章句』と江戸思想史”のテーマは思想的交錯である。西欧思想と江戸思想と比べると、関心が高くなく読まれることが少なかったアジア思想ー 朱子学ーとの交錯を考えることは意義深い。朱子におけるアジアの宇宙論をもつ中心的思想を表現する文との関係を示したい。「天の命ずる之(これ)を性と謂う」(『中庸章句』)を解釈し注釈したあり方を一変させたのは、宋代の朱子たちであった。時代背景的には、南宋の学問知識ある士大夫の彼らは新しい宇宙論をもった哲学的思想として再構成した。子安宣邦氏は江戸の知識人と比較する。江戸で知識人が形成されたが、中国の国家権力をになう宋を支える知識人的官僚である士大夫と違う。この相違を指摘したうえで、子安先生は、「「天命之謂性」という『中庸』のテーゼと朱子の解釈が、近世日本の思想世界でたどる拒絶的反発をも含んだ思想的交錯の実際」を指摘してみせる。「この交錯はなにを生み、なにを失うことになるのか」と。
この問題提起を念頭におきながら、朱子の注釈を読んでみよう。朱子は「性は即ち理なり」と注釈した。「性」をどう理解するか。「地上に人や物が生じると天は命令のごとくにこれらに性を賦与するというのである。その性は理であると朱子はいう。「性即理」とは『中庸章句』におけるもっとも重要な定義である。これによって『中庸』首章のテーゼは朱子哲学的テーゼになるのである」(子安)。つまり、「人は人であることの理由、人の存在理由をもって生まれるという」。ここで理由とは根拠である。そうして、「人の生まれつきの心を意味する「性」が、いま人が人であることの本性すなわち「理」として再定義される」と子安氏は語る。いま『中庸章句』という人倫の哲学の確立にとってなにが重要であるかが明らかである。それは、「人倫的存在としての根拠すなわち理」である。
宋とは何であったのか?子安氏にとって、この問いは知識人とは何かという問いと一緒にある。宋とは時代の政治と知識•学問•文化に責任を負う士大夫が貴族に代わって成立した時代である。「宋が中国史における<近世>の始まりを称される有力な理由はそこにある」と指摘して、第一章をこう結ぶ。(朱子学は)「哲学的には宇宙論的規模における思想的な自己表現であるように思われる」。

 

 

 

No.8

「性は即ち理なり」と語りはじめた朱子における「理」概念をより詳しく考える必要があるのは何故か?『江戸思想史講義』の著者である子安宣邦氏にとって、「朱子学との関連で江戸思想を問うとき、事ごとに問われてくるのはこの「理」である」という。「ただ宋代の白話的言語を混じえた『語類』のテクストは中国哲学思想を専門にしていない私などの読みうるものではないが、和刻文の訓点を頼りにし、三浦氏の著書の助けを籍りてあえて読んでみた」。子安氏はここで重要なことを言おうとしている。漢文的読みのほうが正しいのではないかと。日本でつくった漢文を読む方法にしたがっている、理のほうが優越した概念ではないかということである。「理は経験的事象•事物の世界に先立ち、超えるものとして先験的、超越的概念としての性格をもっている。と同時に理は事象•事物の存立根拠として、常にその裏にある存在論的な概念である」。ここで注意しなければいけないのは、理を気質の精粗でとらえかねない危うさにたいしてである。理と気の差異性を保たなければいけないからである。おそらく朱子において理ははじめから明確な概念としてあったのではないだろうと言われる。『朱子語類』は、この「理」概念をもつことによって、朱子の哲学も宇宙論も成立するものであることを師弟間の問答という「具体的で生動的な」場面を通じて示す「世界哲学史上に希な記録」である。

ただし子安氏は「朱子は門人の気軽な「理気先後」の言説をたしなめている」と指摘する。「「理気先後」といっても、われわれの知識はまずこの気の世界から形成されると朱子は強調した。これについては、子安先生は「朱子学の出自をもつ「只是れこの浄潔空潤底の世界(「空」の世界)というような仏教色を払底できるか」と考える。

朱子語類』巻第三「鬼神」は、理に「はたらき」があるわけではないとされる。また、精神は気の概念であり理の概念ではないという。

子安宣邦氏は訳された三つの文を示す。

「天道は流行し、万物は発育する。その際、理が先ず有って、後に気があるのである。このすべての過程に理と気とは同時にあるのであるが、畢竟理を主とするゆえ、先ず理有りとするのである。人はこれを得て生まれてくるのである。(…)知覚・運動は陽の働きであり、形体(周明作は骨肉皮毛とする)は陰のつくるものである。さらに気を魂といい、体を魄という。」

 

「聚散するのは気であって、理というのはただ気の上に泊まっているだけである」「人が人としてあるべきもの、それが理であって、理について聚散をいうことができない」、「気が尽きれば、魂気は天に帰し、形魄は地ににして死ぬのである」「人は気の聚合として身をもって生まれ活(い)きる。そして死とともに心の働きをなしていた陽気のエッセンスである魂は天に上り、身体を形成してきた陰気のエッセンスである魄は知り降るというのである。これは人の生死を天地における気の働きとして理解し、それを言語でもって表現したものである」。子安先生の説明によれば、こうして人とその生死は一つの「筋道」をもって気的宇宙論の中に包摂されることになった。

「理」を知り、「理」をいう言説とは何か?死後について知らねばなるまいが、問題は、このもの(理と気)をいかに秩序づけるかにあった。朱子は順を言っている。「幽明始終、初(もと)より二理無し。但し之れを学ぶに序あり。等を喩ゆるべからず」(『論語集注』)

こうして、言語的存在である人間が存在の意味を考える。「人が宇宙の中にどのように生まれ、どのように生き、どのように死に、そして宇宙にどのように同化していくのか、その筋道が理であり、これを理とするのが人の智であり、智の表現としての言語ではないのか」。この智と言語とは宇宙論をその根因とともに構成し、言説化していくのである。四書はバベルの災厄であった。『論語』において語られなかったことをはじめて言い出したのは朱子である。アジアの形而上学はこうして生まれてきた。

No.9 

ひとまず「理」をこう理解して、子安宣邦氏が展開する朱子鬼神論を読んでみる。鬼神論は死をどう語るか。祖先祭祀が説明される。ちなみに朱子は宇宙も生死を繰り返すという。

「人の生死を気の聚散をもって説いた朱子は、ここでは祖先祭祀を祖先と子孫との同一の気の間における感格(感じ格(いた)る)の道理をもって説明している。人は気を散じることによって死ぬのだが、上に向かっていく魂気が散じきるに長い時間を要する。その間は子孫が祀れば、同気の先祖の霊は祀りの場に感じ来たるというのである。これを感格の道理という。この感格の道理は祖先・子孫間における同気の働き合いという道理をいうものであるか、それは同時に祖先祭祀を意義づける言語でもある。」(子安)

 

・子安氏は、伊藤仁斎による『中庸』首章解を通して、「文」による古学的批評の意味を明らかにしている。「17世紀の日本で宋学あるいは朱子学は山門を出て、市井の新たな学び手の前に現れたというように、話は中国から日本に来る。京都の堀河の町衆の家に生まれた伊藤仁斎と、近江の農村に生まれた中江藤樹を子安先生は語る。「彼らの出身の環境には彼らの学への参入に結びつくものはない」。この二人はその強い志にしたがって儒学に参入し「朱子学体験」というべき「学習体験」をもつことができた。「体験」とは何か?これを問うことは近代という時代を問うことである。「体験というのは、朱子学による彼らの学的自己形成がそれ自体として最初の体験というべき新しさをもっている。日本の近代とは、彼らにこの体験を可能にするような時代としてあったのである」。「伊藤仁斎らがその生涯を通して克服的対応をし続けたのは封建的イデオロギーとしての朱子学ではない」。子安氏は事件性の概念を導入する。事件性とは言説のことである。「いま17世紀に成立する近世社会で予期しない新たな受容者によって学習体験されるのである。その意味で近世日本の彼らによる朱子学の学習体験は事件性をもっている」。

仁斎における人の道は「関係性をもって生存する人の性という自然に循がったもの」である。朱子においては、理である性との必然的関係としての当行の道があることを「性に率うの道」といった。「性即ち理」を否定する仁斎において「性に率うの道」とは何かがあらためて問われねばならなう。この問いへの明確な答えは、「中庸発揮にように『童子問』によって与えられる。」

朱子は性を前提にして道がはじめて有るかのようにいう。「各其の性の自然に循うときは、即ち日用の間、各当行の路有らずということ莫し」という。これについて、仁斎は、これは『倒説』ではないかという。「蓋し性とは己に有るを以て言う。道とは天下に達するを以て言う。易に曰く、「人の道を立つ。仁と義と」、是なり。故に人有るときは性有り。人無きときは即ち性無し。道とは、人有ると人無きとを待たず、本来自ずから有るの物、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らずということ無く、処として在らずということ無し。豈人物各其の性に循うを待って而る後えれ有りと謂うべけんや。晦庵の説く所の如きは、是れ性は本にして道は末、性が先にして道は後なり。豈倒説に非すや」

 

No.10

朱子の「理」的言語による<経書>的世界の再構成が漢字的世界の事件であるならば、仁斎の「性即理」に凝縮されている朱子「理」学の否認による<経書>的世界の再構成もまた漢字圏的世界におけるもう一つの事件であるだろう。」

「仁斎は『童子問』で「蓋し性とは己れに有るを以て言う。道とは天下に達するを以て言う」と性の一己性に道の天下性を対置していった。このことは『中庸発揮』では「性とは己の有する所、道とは天下の通ずる所」と言われていた。この「性」と「道」との対置は、「性」から「道」への学の主題自体の転換をいうものである。だがこれを転換というよりは、むしろ復帰というべきだろう。仁斎の学とは孔子の聖学への復帰、すなわち古学であるからである。」

子安宣邦氏は「私の感銘する一章」をここに引いておきたいと言われる。

「卑しきときは則ち自から実なり。高きときは則ち虚なり。故に学問は卑近を厭うこと無し。卑近をゆるがせにする者は、道を識る者に非ず。道は其れ大地の如きか。天下地より卑しきは莫し。然れども人の踏む所地に非らずということ莫し。地を離れて能く立つこと無し。況んや華厳を載せて重しとせず、河海をおさめて漏らさず、万物載すときは、則ち豈其の卑しきに居るを以て、それを軽んずべけんや。」(『童子問』の上、第24章)

 

仁斎の文章を求めていた子安氏は、林少陽の『「修字」という思想』を再発見したという。

 

「林は音声言語における言と意との無媒介的な構成に対して「文」における言と意との間に第三項的「媒質」をもった言語論的構成をいう。「媒質」とは「言ー書ー意」や「言ー象ー意」「言ー比(喩)ー意」の「書」「象」「比)喩)」という言ー意間を媒介する第三項をいう。この媒質を介してはじめてわれわれの言語表現は「文」とされるのである。」

「要するに、「言語の媒質性」とは、意識の言語化とそれに関わる「読む主体」の意識、すなわち他者への伝達、他者の理解などの根底には、この文字による媒質的過程性がある、という意味である。そして伝達の媒質とその過程との両者が不可分であることを強調する「媒質過程」という用語を本書に導入したのは、「媒質過程」という用語がコミュニケーションの過程性、現場性、主体性、媒質と主体との間にある歴史性などうぃ重視する用語として機能し、そして漢字圏批評史の言語理論の特質を説明するのに有効なものだと考えているからである。」

「書かれてものとしての文は、形式的にも本質的にも来るべき他者のために開かれたものである。それは来るべき他者に伝達され、来るべき他者によって意味が生産され、来るべき他者によって判断され、ないし審判されるための言葉である。したがって書くことはそれ自体、重大な倫理問題と関わっているのである。」

 

林氏は「東アジア漢字圏の批評理論は可能か」と問いかける。子安先生は言う。「私は、「東アジア漢字圏の批評理論は可能か」という問いかけを江戸の17世紀日本にまで遡らせて考えようとしている。仁斎は朱子の「性即理」に立つ「理」的言語に対して「大地」を比喩としながら、「道」の人にとっての重大性、と同時に卑近性とを見事で美しい文章をもって提示した」。

 

書くことは<経書>的世界の字を並べること。「性即理」と構築的に理念化したものは高すぎる。仁斎は並べるのは、彼が立つ大地においてである。人あっての道と天下に達する道。と..と..

 

No.11

中国の「新天下主義」を語る許紀霖『普遍的価値を求める』をどう読むか。

 天下概念とは国の範囲を超えたものである。しかし「新天下主義」と言われるものは、『帝国か民主か』の著書をもつ子安宣邦氏の指摘では、中華的「天下主義」と「帝国」の想起であり、それらの21世紀的世界での再構成ではないのかと問う。溝口雄三の現代中国を社会主義国家とみる見方や、柄谷行人『世界史の構造』における「帝国」概念を批判する子安先生は、こう言う。「新天下主義」が国民国家至上主義的中国の批判とその国家概念の真の普遍化を目指して掲げられるものであるならば、その旗下ろしは、「天下主義」であってはならない、いかなる意味でも「帝国」を想起するものではならないと。
<東アジア世界>の<一体多元>的共同体としての再構成は、その中核的国家中国それ自体の<一体多元>的国家としての存立なくしては不可能である。「<一体多元>的共同体としての<東アジア世界>を導く旗は「新天下主義」ではない」。

 他方で、子安氏は、「新天下主義」の構成にあたって許氏が世界文明としての成立期すなわち「枢軸時代」に向ける許氏の視線を貴重なものだとしている。「文の意義」との関係が語られる。

「枢軸時代」とはヤスパースが「この世界史の軸がはっきりいって紀元前500年頃、800年から200年の間に発生した精神的過程にあると思われる。そこに最も深い歴史の切れ目がある。われわれが今日に至るまで、そのような人間として生まれてきたところの人間の発生した」というその時代である。この時代には驚くべき事件が集中的に起こった。シナでは孔子老子が生まれ、シナ哲学のあらゆる方向が発生した。そしてインドで、イラン、パレスチナギリシャで、この時代に基本的範疇が生み出されたが、それを身につけてわれわれは今日まで思惟しているのである。また世界宗教の萌芽が生み出されたが、それに基づいて人間は今日まで生きてきたのである。「あらゆる意味で、普遍的なものに迫る歩みが行われたのである」。

「枢軸時代」とは目に見えない他者との関係が確立していく時代ではないか。

『仁斎論語』において、仁斎における日常の卑近の思想と共に提示された、自然の中に隠棲しなかった孔子の<世界ー内部的亡命>は、ここで、「新天下主義」的国家の無媒介的声から自立している媒介的エクリチュール(目に見えない他者が介入してくる文の意義)として再構成できるのではないか。これが「世界哲学史」である。

 

No.12

鬼神とは何かを明らかにする目的とするポストモダン精神(鬼神)は、朱子は鬼神をどう語ったか、徂徠は鬼神をどう語ったかを問う。
その徂徠の「制作」論の成立とその射程を明らかにするために、彼の「中庸解』を読まなければいけない。子安宣邦氏は、現代語をもって読み下してみたときあらためて「『中庸解』ははたして経典•テクストの注釈であるかを疑うのである」という。徂徠は『中庸』第一章を総括する文章の中で、「夫れ聖人は性に率いて道を造る。子思は率うを言いて造るを言わず。其の流れ孟子の性善を言うに至りて極まる」と言っている文を子安先生は読んでつぎのようにいう。「こうした言葉は徂徠の『中庸解』が子思の制作になる『中庸』の批判(クリテイック)からなるものであることを教えている」と書く。

徂徠の「古学」とはなにか。ここから考える必要がある。『弁道』でこういう。「不佞、天の寵霊により、王•李ニ家の書を得て以てこれを読み、はじめて古文辞あるを知る。ここにおいて六経を取りてこれを読む。年を経るの久しき、物と名との合するを得たり。しかるのち訓詁はじめて明らかに、六経得て言うべし。六経はその物なり。礼記論語はその義なり。義は必ずものに属(つ)き、しかるのち道定まる。すなわちその物を舎てて、ひとりその義を取らは、その氾濫自重せざる者は幾希し。」(『弁道』)

 
ここで子安氏は重要なことを指摘する。徂徠の古学にポスト構造主義的な批判的言説と方法論的におなじ構成をみる。「己れに成立する古学をこのように語る徂徠の言葉を見れば、この古学的な批判的言説はわれわれにおけるポスト構造主義的な批判的言説と方法論的に類似していることに気づく。まず徂徠の批判は物を舎ててただ義だけを語り出していく儒家的な「道」の言説に向けられる。批判がまず人の<語り出し>に向けられるかぎり、その批判は言語論的、あるいは言説論的である。義だけを語り出す人々の言語が問われているのである。ではその言語を人はどこから問い質すことができるのか。それはその言語の外部からである。徂徠はこの外部を「六経」の世界に取るのである。しかも徂徠は「六経はその物なり」という。徂徠は「六経」をそこから語り出される内部的な意味言語の全くの外部である「物」だとするのである。」。

聖人は人間の性にしたがうように道をつくったとする「道」の再定義をした徂徠は、「先王の道は先王の造る所」と語りはじめた。徂徠の思想的言説からひとつの主張が出てくる。ここで、子安先生は、徂徠の「性に率う道」とは「皇国における臣民の道でもある」と指摘する。「それは徂徠「制作」論の日本の近代に及ぶ遥かな射程を思ってである」という。子安先生は80年代に行った「言説論的転回」について説明する。「丸山<徂徠>の乗り超えは80年代の「言説論的転回」と私が呼ぶ思想史の方法論的転換とともになされていった。そして徂徠「制作」論がもたらした言説論的な結実は水戸学的「国体」論であることを知ったのである」。

「徂徠「制作」論が導いた近代日本の国体論的天皇制国家の存立という事態は、丸山が徂徠に読むところでも、読もうとするところでもなかった。では徂徠「制作」論との理論的・思想的な強い影響的連関の中に近代の天皇制国家日本の成立を見ることは、丸山政治思想史に対する批判以上のいかなる意味をもつのか。もっとも重要なことは、明治維新によって成立する国体論的天皇制国家日本を<制作されたもの>として見ることである。天皇を最高の祭祀者とした祭祀的国家日本は徂徠古学・宣長国学・後期水戸学によって再発見され、再構成されたものであるのだ。近代天皇制国家は制作されたものである。この国家を制作されたものと見れば、その再制作の課題と責任とは現代日本人の当然負うものであるはずである。」

 ・国体論は日本を自然的始まりに基礎づけていたが、こういうのは実は徂徠の制作論からはじまると子安先生は指摘する。子安氏による丸山真男「作為」論批判では、『徂徠学講義』の序に書いた文を引いていう。「徂徠学が宣長国学や後期水戸学を介して近代日本の国家理念の形成に深くかかわっていることの指摘は、影響的射程という思想史的地平を超えでた問題の地平にわれわれを導くだろう。神武創成の偉業を明治のいまに再現する日本の近代国家(ネーション•ステート)としての形成は、中国の先王的古代の祭祀国家理念を負っているのである。これは近代日本の天皇制国家の隠蔽された地平を一気にわれわれの前に露出させる」。子安氏は、徂徠「制作」論と丸山真男「作為」論を並べて、丸山政治学的言説の誤読を指摘する。徂徠学が「外部的な制作の学」である所以を明らかにする。「先王と礼楽と、そして六経という外部的視座をもって徂徠は社会形成的存在としての人間への視点を獲得し、日本思想史上に稀有な外部的な社会哲学的世界を構成していった。」

 なぜ日本の近代天皇詔勅元号によって中国古代の帝王の尚書的世界を装ってきたのか。徂徠学は日本に近代天皇制国家の作為的構成をわれわれに教えるのである。ここで作為とは丸山におけるような近代的思惟の特質をいうのではない。「それは国家社会の為政者による制作行為をいうのである。」この制作行為は、述べてきたように、「政治的である。」制作の学としての徂徠学は、日本の近代天皇制的祭祀国家を制作としての視点をわれわれに与えるのである。

ここから子安氏は問題提起する。「近代天皇制国家の制作論的解明は、われわれに再制作の道を開示するのである。」

 

No.13

「季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ能く人に事うることあらわず。焉んぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」(『論語』先進第十一)

 

「鬼神に事えんことを問う」は、『論語』における「鬼神論」的原型であろう。「季路がその事え方を問うた鬼神とは、死んだ人、すなわち祖先とその霊である。鬼神とは一般に死者とその霊が意味される。『論語』先進篇のこの章が貴重なのは死者とその死が、生者とその生との関わりにおいて初めて孔子に問われ、孔子が答えたことにある。「「鬼神論」という儒家的論説はこの章についての朱子の解釈(朱注)にその論説的構成の仕組みを見ることができる。その意味でこの章とその解釈を儒家における「鬼神論」的論説の原型と呼びたい。」

子安宣邦氏は、『論語』鬼神章の簡野道明の解釈を参照し、「幽明始終に二理無し」が中村惕斎にどう注釈されたかを読む。また吉川幸次郎の理解を検討している。子安先生はコスモロジーの基本は易にあるとしてつぎのように言う。「昼があり夜があるという自然の道理は人間における死生の道理だというのである。ここには天に由来する天地自然的道理の優越性があるように思われる。生も死も、人も鬼も、昼と夜と同様に自然の道理の中にあるのである。生も死も、生物も死者も、ともにそれぞれ道理をもってこの世界の中にある。だから生の道理を尽くせば、死の道理をも尽くすことができるだろう」。これが程子・朱子が『論語』の鬼神章の孔子と季路との問答に読みとった教えであるという。そうして鬼神にことは第二着の問題だという朱子の考えが明らかになる。これについては『朱子語類訳注』の現代解釈者は正しく理解していないという。

子安氏は朱子孔子の言葉の理解を示す。「鬼神を事えんことを問うことは、蓋し祭祀に奉ずる所以の意を求む。而して死は人の必ず有るところ、知らざるべからず。皆切問なり。然れども、誠敬以て人に事うるに足るに非ずんは、即ち必ず神に事うること能わず。始めを原ねて生じる所以を知るに非ずんは、即ち必ず終わりに反リて死する所以を知ること能わず。蓋し幽明始終は、初めより二理なし。但しこれを学ぶこと序有り。等を越ゆるべからず。故に夫子之を告ぐること此くの如し。」(『論語集注』)

子安氏は、現代解釈者の近代合理性に素直にしたがったかのような誤読を指摘しながら説明する。朱子はこの章における季路の問いについて、、鬼神や死についての問いを、二義的なものとしているわけではない。「ただそこに順序があると孔子は教えたのだと解している。」

子安氏は黄義剛の問いと朱子の答えを検討したあとで、「朱子無神論者か」が問われる。朱子の鬼神論的世界を『朱子語類』の自分なりの解読によって辿ってきたという子安先生、朱子を直ちに「無神論者」とすることに抵抗を感じると述べる。吉川が「宋儒の無神論」といったとき彼は朱子の鬼神論を合理主義的な鬼神観でもって覆いきってしまうのである。「だが「鬼神に事えること」を問い、「死」を問うことを共に人の切問だという朱子、人の死と死後、そして死霊の行方とその祭祀をめぐる執拗な問いに答える朱子とははたして無神論的合理主義者であるのか」、「われわれは朱子の鬼神をめぐる知と言説の性格を問い直そう」。

No.14

「季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ能く人に事うることあらわず。焉んぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」(『論語』先進第十一)

 「鬼神に事えんことを問う」は、『論語』における「鬼神論」的原型であろう。「季路がその事え方を問うた鬼神とは、死んだ人、すなわち祖先とその霊である。鬼神とは一般に死者とその霊が意味される。『論語』先進篇のこの章が貴重なのは死者とその死が、生者とその生との関わりにおいて初めて孔子に問われ、孔子が答えたことにある。「「鬼神論」という儒家的論説はこの章についての朱子の解釈(朱注)にその論説的構成の仕組みを見ることができる。その意味でこの章とその解釈を儒家における「鬼神論」的論説の原型と呼びたい。」

子安先生は、『論語』鬼神章の簡野道明の解釈を参照し、「幽明始終に二理無し」が中村惕斎にどう注釈されたかを読む。また吉川幸次郎の理解を検討している。子安先生はコスモロジーの基本は易にあるとしてつぎのように言う。「昼があり夜があるという自然の道理は人間における死生の道理だというのである。ここには天に由来する天地自然的道理の優越性があるように思われる。生も死も、人も鬼も、昼と夜と同様に自然の道理の中にあるのである。生も死も、生物も死者も、ともにそれぞれ道理をもってこの世界の中にある。だから生の道理を尽くせば、死の道理をも尽くすことができるだろう」。これが程子・朱子が『論語』の鬼神章の孔子と季路との問答に読みとった教えであるという。そうして鬼神にことは第二着の問題だという朱子の考えが明らかになる。これについては『朱子語類訳注』の現代解釈者は正しく理解していないという。

子安先生は朱子孔子の言葉の理解を示す。「鬼神を事えんことを問うことは、蓋し祭祀に奉ずる所以の意を求む。而して死は人の必ず有るところ、知らざるべからず。皆切問なり。然れども、誠敬以て人に事うるに足るに非ずんは、即ち必ず神に事うること能わず。始めを原ねて生じる所以を知るに非ずんは、即ち必ず終わりに反リて死する所以を知ること能わず。蓋し幽明始終は、初めより二理なし。但しこれを学ぶこと序有り。等を越ゆるべからず。故に夫子之を告ぐること此くの如し。」(『論語集注』)

子安先生は、現代解釈者の近代合理性に素直にしたがったかのような誤読を指摘しながら説明する。朱子はこの章における季路の問いについて、、鬼神や死についての問いを、二義的なものとしているわけではない。「ただそこに順序があると孔子は教えたのだと解している。」

 

朱子が「鬼とは陰の霊なり、神とは陽の霊なり」というとき、それは鬼神の陰陽論的解体というよりは、鬼神の陰陽論的再構成の方向をもった言葉になっていると子安先生は強調する。「「人の主宰としてこの鬼神(たましい)が体されているあり方を見落とすことはできない」と朱子は言うのである。」

「しかも「これは陰陽的自然の真実(まこと)である」。「この微なる真実が顕然となるのは誠が尽くされた祭祀の場においてだ」というのである。」

幽明を異にする死者(祖先)と生者(子孫)との精神(たましい)の合一がなされるのはその祭祀の場においてである。

「人に体されて鬼神が存するのは自然の底の実すなわち誠である。そしてその鬼神が祭祀の場に顕然として存するにいたるのは祀るものの実すなわち信によってであるち。これは自然哲学的<鬼神>の宗教哲学的な<鬼神>への転換だということができる。そしてこの転換をもたらすのは祭祀者の実すなわち信であると。」

 

 

No.15

 朱子コスモロジーは鬼神論と結びついている。鬼神とはあちら側にあるもので、こちらで果たすべき知と世界がある。その鬼神とは、人間の生前と死後とに関わる精霊的働きであり、その実体すなわち「魂魄」でもある。これを語ること、すなわち人間にとって永遠の課題でもある「死」と「死後」との言語化をいま朱子は、『易』の「繋辞」の「仰いでもって天文を観、府してもって地理を察す、この故に幽明の故(こと)を知る。始めを原ね、終りに反(かえ)る、故に死生の説を知る。精神気は物を為し、遊魂は変を為す、この故に鬼神の情状を知る。を原初の根源的な「知」の範型として実現していこうとするのである。それが朱子学における「鬼神論」である。子安先生は問う。生者と死者とのコスモロジーとは何かと。『鬼神論」(1992)において、「朱子の『鬼神論』を当代社会における<鬼神>をめぐる俗信を含む信仰的実態に対する儒家知識人の立場からする批判的解釈的言説というとらえ方をしている。これはマルクス主義的なイデオロギー批判としての社会的言説批判の方法によるものであるという。本書では、俗信的鬼神信仰的世界の批判的解体とともに、気-陰陽論語的ななコスモロジーをもった鬼神祭祀的世界の再構成をもともなうものであるこちを明らかにしようちする。子安先生が、加知伸行『儒教とは何か』(中公新書1990)を批判的に分析しながら、朱子「鬼神論」と近世•近代日本の対応を考えてみる。「宗教改革」と呼ばれる大切な概念とは何か?

「宋代とは<中国的>とされる文化的•知的世界を、それを言語的に表現する知識人とともに生み出した社会であり、時代である。宋学とはこの宋代知識人の新たな儒者としての自己形成とともに形成された新たな宇宙論的な儒学である。これは朱子学として体系化される。このように見てくると、朱子「鬼神論」とはこの宋代知識人による<中国的>生死観に立ったコスモロジーの構成とともになされる宗教改革の表明ではないかち思われてくる。中国的社会を祖霊祭祀的宗教体系でもって統一し、再構成するには、祖霊信仰体系をも危うくしかねないような仏教や俗信的鬼神信仰の解体的批判が必要だったのであろう。朱子「鬼神論」を構成する議論の大半はこの俗信的鬼神信仰の解体に向けられたものである。そこから朱子鬼神論を無鬼論とする理解も生まれてくるのである。」

 
・「鬼神とは聖人の立つ所なり」と荻生徂徠は『弁名』で言う。子安先生は徂徠と制作論的鬼神論を読み解く。
先ず、子安宣邦氏は、朱子「鬼神論」と篤胤『鬼神新論』を読み比べる。
『鬼神新論』あるいは『新鬼神論』はその主題的起源を朱子『鬼神論』にもつ。朱子『鬼神論』とは中国の淫祀邪教的宗教社会に対する宗教改革的な意味をもった批判的言説であった(民間信仰を否定する)。『論語』『中庸』など経書の新たな宇宙論的な哲学的立場からの解釈によて中国から朝鮮•日本をも覆う朱子学思想体系に対して、篤胤はいま「鬼神論」を、重要な切り口として批判的反抗を企てるのである。すなわち「古学」的方法をもって『論語』『中庸』の孔子の言行から<鬼神の実有>こそが古えの真実であることを証明してみせるというのである。「これは途方もない企てのようだ」。
子安氏は篤胤の徂徠発見を指摘する。「徂徠は鬼神祭祀を通して共同体の原初的な成立を語る。篤胤は祭祀的共同体としての人間世界のはじまりを徂徠とともにしながらも、徂徠に伝統儒者に対すると同じ非難を浴びせる」。徂徠によれば、鬼神がなお聖人の制作意味のなかにある。篤胤はこの点を非難する。
子安氏が、「物」をめぐる語りの差異を問題にする。そうして徂徠から宣長へと考えを進める。
「聖人の制作になる鬼神(祖霊)を祭祀対象にした祭祀が<物>のような確かさをもって存在することを知るのは、『六経』にあると徂徠は答えたであろう。このような答えを導くのが徂徠の古学である。ところでこの徂徠の古学という学問的方法論の徳川日本における最高の後継者を私は本居宣長だと考えるのである。」
「徂徠の<制作論的有鬼論>を『六経』や『古事記』による有鬼論、すなわち<古学的有鬼論•有神論>と呼ぶならば、その言説の影響的射程は近代に及ぶものであることは明らかだろう。」
宣長の『古事記伝』を中心にした<古学的有神論>は制作された天皇的祭祀国家に<民族神話>的魂を注ぎ入れ、まことに、これを国民的制作物にしていったのである。」
ここに、子安氏は篤胤の有鬼論を位置づけた。そしてこの問いの言葉を置く。
「私は朱子「鬼神論」に対する近世日本の<制作論的有鬼論>の近代日本に向けて辿る思想系譜のみを追ってきた。では鬼神論をめぐる最大の問題発起者である平田篤胤も<民情論的有鬼論>、近代前夜のこも<有鬼論>はどのような運命を辿ることになるのか」
 
 子安氏は、「朱子鬼神論と近世日本の有鬼論的反応」を語るために、平田篤胤と彼の「民情論的有鬼論」が分析される。先ず、二つの「有鬼論」とは何か?徂徠は聖人と同一化して国家に制作をめぐる制作論を展開するが、篤胤は民衆に同一化して共同体の形成をいう。簡単に言えば、民衆は鬼神というものを信じるから、これを契機に共同体がつくられるという。この差異は重要である。「篤胤は聖人の制作に先行するのは民衆の心情における鬼神の存在だといったのである。この二つの有鬼論(徂徠と篤胤)の間には鬼神をどう見るかの違いよりは人の思想という位相における違いがある」。子安氏は、篤胤の考えを明らかにするために、彼が言う「霊の行方の安定(しずまり)」の意味を考える。『霊能真柱』の冒頭で篤胤はいう。「古学する徒は、まず主(むね)と大倭心(やまとごころ)を堅むべく、この固の堅在(かたち)では、真道(まことのみち)の知りがたき由は、我が師の翁の、山菅の根の丁寧に教悟しおかれつる、此れは磐根の極み突立てる、厳柱(いかしはしら)の、動きましに教えなりけり。斯くて、その大倭心を、太く高く固め欲するには、その霊の行方の安定(しずまり)を、知ることなも先なりける。」

この文に、宣長と篤胤の間の思想の主題の違いがある。「霊の行方の安定」をめぐる問いとは、死後霊魂の行く方をめぐる問い、人は死後どこに鎮まるのかという救済希求的問いである。篤胤は、師宣長とは違って、「霊の行方の安定」をめぐる「安心」を得ることが古学の徒における最重要事であることをなぜ言うのかと子安氏は問うために、宣長の「安心なき安心」論いいかえれば救済のない救済論が検討される。「天下の人みな此儒仏の説を聞馴て、思ひ思ひに信じ居候処へ、神道の安心は、ただ、善悪共に黄泉の国へゆくとのみ申てその然るべき道理(いわれ)を申さでは、千人万人承引する者なく候、然れ共その道理と申事は、実は人のはかり知べき事にあらず、儒仏等の説は、面白くは候へ共、実は面白きやうに此方より作りて当て候物也、御国にて上古、かかる儒仏等の如き説をいまきかぬ。ただ死ぬれば、黄泉の国へ行くものとみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを学ぶ人も候はずし、理屈を考える人も候はざりし也、さて、其のよみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ずゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也、然えに儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理屈を申すは、真実の道にはあらざる事、明らけし」。

この宣長の死生観なき文は小林秀雄を困らせた。子安先生はこの文を読んで、これはわれわれの考え方の転換を促すような国学思想的な言説と見るべきだと言う。「この思想的転換のはるかな帰結を私は20世紀日本の民の上に見る思いがする。」

 「人の死ぬれば夜見に帰く」ということは宣長の確信的にな説であったが、篤胤があえてこれを宣長以外の他者の説とした、宣長もまたこの影響下にあったとしている。では人が死んでその魂はどこに行くのか。

篤胤は顕幽二元論を展開しながら、民衆のものである救済論を説く。宣長も救われたのである。

「あはれ然(さ)る人々よ。大船の、ゆたに徐然(しづか)におもひ憑(たの)みて、黄泉国の、きたなき国に往かむかの心しらびは止みねかし。さるは上にいへる如く、 人の霊魂の、すべて彼国へ往くてふ、伝えも例(あと)も見えざればなり。しの師の翁も、ふと誤りてこそ、魂の行方は彼処ぞといわれつれど、翁の御魂も、黄泉国に往で坐さず、その坐す処は、篤胤たしかにとめ置きつ。しづけく泰然と坐しまして、先だてる学兄たちを、御前に侍らはせ、歌を詠み文などを作きて、前に考えもらし、解釈誤されることもあるを、新たに考え出つ。こは何某か、道にここての篤かれば、かれに幸ひて悟らせむなど、神議々(かむばかり)まして、おはすること、現に見るが如く更に疑ふべくもあらぬをや」

 

• 「国民的救済信仰の語り出し」として『先祖の話』の柳田國男を読み直す。

子安氏の戦争と私の原体験から語り始める。「私がここに書こうとする原体験とは<死の恐怖>の体験である」という。全体主義国家日本が子供にもたらす<死の恐怖>は子安先生における歴史の原体験として持ち続けられている。「この原体験は柳田の日本人の「死の親しさ」をいったりする文章に直ちに反応する」という。

「昭和のこの戦争がもたらす「死」の恐怖に戦き、生涯ぬぐえぬトラウマをもった私はその戦争最終期に「死に親しい」日本人をいう柳田の『先祖の話』に民族主義的誤謬というべき最後の日本救済論と思うのである」。

柳田國男はアジア的状態を前提にして平田篤胤の顕幽二元論を継承している。「死の親しさ」を民俗学的に理づけているのだと子安氏は指摘する。ここから、「先祖教」と柳田が呼ぶものが成立する。「これは柳田とその民俗学だけが語り出す言葉である。私はこれを「祈り」といった。」

「ここで祈られているのは、あの祈りの言葉綴られている日本人の生の永続である。柳田はその生の持続を支えるものを日本人の『固有信仰』といい「先祖教」ともいった。そしてこの「固有信仰」なり「先祖教」の持続を支えるのは「家」の持続である。」子安氏は家族と自己の体験を語りながらこう言う。「日本人の「先祖教」あるいは「固有信仰」を維持し、伝えるべき場として「家」はもはやないというべきだろう。『先祖の話』とは遅すぎた救済の教えなのか、あるいは早すぎた先祖教レクイエムなのか。」

「遅すぎた救済の教え」であれ「先祖教レクイエム」であれ、靖國的救済とは別の役割をもつことが柳田において期待されたかもしれない。しかし柳田の敗戦を消去してしまう言説は、鬼神論の国民国家化ではないだろうかとわたしは問題提起したいとおもうのである。

 

No.16

第二江戸思想史講義とはなにか

「第一江戸思想史講義では伊藤仁斎における朱子学脱構築を読んだ。その前提として、アジア普遍主義の朱子学を自然哲学的にとらえていた。仁斎のポストモダン孔子の読みは、子安氏の『語孟字義』に尽くされている。仁斎の天道観に関係づけて簡単に紹介しておこう。

2011年でしたか、わたしは、大阪の中野島図書館の売却に抗議しに行った年に、子安先生のこの本が出版されました。図書館のガラスケースのなかに展示されていたのがまだに『語孟字義』でした。一行も読めませんでした。これを当時の商人達が読んだのかと衝撃を受けたものです。
書評を書くつもりで書いた昔の投稿ですが、よろしかったら..

「語孟字義」のなかで、子安宣邦氏が注目している、陳北溪による次のような言葉がある。「誠字はもともと天道についていうものである。天道の流行は、古より今に至るまで、いささかの妄(みだれ)もない。暑さが来れば寒さが来、日が沈めば月が昇る。生い育った春が過ぎると夏が盛んとなり、秋に草木が枯れると貯える冬が来る。天道の流行は永遠にこのようである。これを真実無妄というのである」と。「然れども春当に温かなるべくして反りて寒く、夏当に熱すべくして反りて冷やかに、冬当に寒かるべくして反えりて暖かに、夏霜冬雷、冬桃李華さき、五星逆行し、日月度を失うの類い、固(まこと)に少なからずと為す。これを天誠ならずと謂いて可ならんや。蘇子が曰く、<人至らず所無し、ただ天偽りを容れず>と。この言これを得たり。」(しかしながら春は当然温暖であるはずなのに反って寒く、夏は当然熱いはずなのに反って冷たく、冬は当然寒いはずなのに反って暖かで、夏に霜、冬に雷、冬に桃李に花が咲き、五星が逆行し、日月が度をはずれるという類は、少ないことではない。これらによって天は誠にあらずといってよいだろうか。蘇東が言っている。「人知の作業は至らざるところはない。ただ天はいささかの偽詐も許さない。」
 子安氏の評釈によれば、 朱子(陳北溪)は天道流行の万古にわたって真実であるあり方(真実無妄)によって天道の誠を言った。いま仁斎は、天地自然の時に示す異常・変異をもって、天道を誠といっていいだろうかと、疑問を投げかける。しかしそう問いながら、蘇東の言葉を引き、一転して、「天は偽りを容れず」という意味で誠だという。天とは真実無妄の意味で誠であるのではありません。真実無偽の意味で誠だというのだ。さきに仁斎は真実無偽という誠字解を消極的にいっていたが、だがここでは天道観の差異を前提にして真実無偽がいわれているのである。「天は偽りを容れず」という主宰的な天道観を前提にして仁斎は天の誠(真実無偽)をいおうとする。ここから朱子学における宇宙論的・存在論的な諸概念を仁斎は容認しないということはいえる、と子安氏は指摘している。
ここで、「天道」の仁斎にとっては、すでに天は規範的なものではない。それは「道は猶路のごとし。人の往来通行する所以なり」でいわれる、人道を基礎とした天道である。そうして仁斎は天をこのような天道(天地の間は一元気のみ。たえざる運動状態)で読み通し言い切ることによって天理を否定した。それを徹底した結果、天命という超越者としての天命的天が分離してきたと子安氏はみる。この分離から、孔子の、絶望的にうちすてられたことでかえって突き動かされたかのように宇宙と一体となるような天が再発見されてくるのである。これは仁斎と同時代の思想家、カントの第一批判から第二批判へと論じるときの思考に対応しているとも考えられよう。

 

さて第ニ江戸思想史講義は朱子はそれほど自然哲学なのかを問い直している。そうして再び新しく、鬼神論の言説を読んでいるのは、宗教哲学という大袈裟なものではないが、近代が思考できないものを思考しようとしている。第ニ江戸思想史講義は、「人間の消滅」の後の時代の思想は一体どういうものなのか考えているような気がしてきた。

子安先生の江戸思想は朱子学解体のポストモダン孔子なのだが、先生が行う朱子の講義も、中国研究者の近代朱子学解体という意味でポストモダン朱子というような性格を持つ。朱子を解体して、さらに中国の近代朱子学を解体するものである。ポストモダン朱子は、仁斎についても容赦なく、朱子を解体した仁斎の近代を解体するものである。子安先生は仁斎がいかに朱子を解体したかをはじめてあきらかにできたが、第二江戸思想史講座のこの数年間は、朱子はいかに仁斎の近代を解体し得るものかを論じたと言えるかもしれない。これを考えると、思想は中心なき差異として存在することがはっきりわかってくる。ここまで思考の方法を徹底すると、近代も中世も対等だということである。」

第一江戸思想講義の序文では、子安氏は「近代の超克」の問題意識の射程の中で江戸思想を考えたという、それならば、第二江戸思想講義においても、最高なものがある西欧を包みかえすアジアにそれを超えるものが問われるはずである。

われわれは、見上げる他者(ヨーロッパ)と見下げる他者(アジアの両方が必要ではないでしょうか。
日本思想を読んだ丸山も基本的にはヨーロッパ中心主義でした。東大は官僚養成機関なので、民主主義を教えることは無いと思います。丸山真男は例外でした。しかし丸山は、橋川文三の証言によると、戦後民主主義から、水戸学に転向したのです。丸山真男も文章は後期水戸学の文体とそっくりです。「心の中の天皇」という丸山の思想は、天皇にたいする抵抗を説いたものですが、これは前提に問題があります。天皇制は制度的設計ですから、心の中にあるはずがありません。しかし日本朱子学山崎闇斎的に考えているから、ココの中から天皇が現れてくるように見えたのですね。近代的な、その意味で非常に右翼的発想と言わざるを得ませんま。比べると、後期水戸学は、徂徠の制作学を継承していますから、尊王攘夷は制度の問題です。心の問題ではあり得ません。もし心の中に天皇がいるとしたら、われわれ日本人は決して天皇を止めることができないでしょう。しかし制度ならば天皇を止めることができます。後期水戸学の復古主義とはそういうものですし、中江兆民の、「天命の自由を捨て、仁義の自由を得よ」とする自由民権的発想と連携できるものです(ここで?「天命」は天皇のことですね)。
後期水戸学は、朱子学的合理の光圀にたいするデウス・エクス・マキナであったと橋川文三は言います。藤田東湖尊王攘夷は彼が影響を与えた吉田松陰のそれとは違います。後期水戸学は、臣下に徳を愛せと求めるし、君主も人間であれと要請されるのです。天皇は君主である。薩長天皇は、国に運命を託せと命じてくる現人神であり、全体主義的「誠」であす。コワイ、コワイ。吉田松陰をたたえる安倍と日本会議に傾倒した者はもっと後期水戸学を学ぶべきだと思います

 

補論1

日本思想史は政教分離をどう考えるか

江戸時代の武士政権は天皇を京都に幽閉した。これは政教分離だったと津田左右吉は言う。武士政権は蔑むものを称えた。問題は後期水戸学にとっては神聖さが奪われたあり方だった。これは福沢諭吉が警戒した後期水戸学の宗教化の方向である。まだ靖国神社は存在しなかったが、福沢は神聖な「徳」の宗教化を警戒して、「智」の意義を強調する言説を語った。

補論2

ヘーゲルはカントが語った物を精神として捉えて現実世界(近代)になることを言っているが、後期水戸学の政治神学を喚起する思考である。

フーコは『精神現象学』をどう読んだか?

思考できないこととは何か?

フーコはデカルトをどう読んだか。人間は思考不可能なことを思考するとデカルトは言ったのだ。それはデカルトがはじめて言った。デカルトの前にだれも語らなかったことだ。思考できないこととは何か?それは古代において祀られず大地に棄てられた死体だったであろう。『精神現象学』のヘーゲルは物を遡って行くと人間の起源が亡くなって行くことに気がついた。ここから祀る国家が作られた。鬼神論は死を思考できるようにしたのだ。そして忘れてはいけないことは、日本ファシズムは、諸君が立っている足元を掘り起こせば祀る国家(あるいは古墳?)が現れると言って、天皇が祀る国家が闘う国家になったことだ。

 

 

 

補論3

浅田彰が理解したラカン理論を天皇に適用するとどういうことが言えるか?
鎌倉時代は西の天皇と東の武士政権とが共存していた。これを二つの日本と観る見方もある。江戸時代の近世の成立まで古代天皇制は存続していたのである。これは単一発展の歴史観をもつマルクス主義では説明できない。江戸時代に武士政権によって京都に幽閉された時に古代天皇制は終わった。だが明治維新のときの王政復古に、天皇の近代がはじまった。その始まり方は、現人神という神と皇位との連続性を前提にしたものであった。これは絶えず差異を生み出して(明治、大正、昭和という分節化をもたらした)それを運動エネルギーにして搾取していくクラインの壷的な構造である。

 

No.17 子安宣邦 著<古事記>講義  「高天原神話」を解読する (作品社)

 
戦後憲法を考えることは、先ず、天皇主権を否定したその理念性を考えることである。そして、戦後民主主義の問題は、民俗学的に、天皇を、われわれのなかにおけるものとして水平化しようとすることである。つまり、「古事記」の書かれた歴史を、語られた文学にしてしまおうとすることである。
しかし、それが記された古代において、国家日本を確立した権力者として、事実のままに、明確にとらえるべきではないか。そうすることによって、「古事記」とは、国家アイデンティティをつくるために天皇の編集によったものであった事実が、より明らかになる。日本列島に存在していたといわれる大和言葉とか大和民族が語り伝えてきた神話というような、昭和10年代に教育がやったウソを、現代のナショナリズムの時代に復活させることは、どのような意図があるにしても、大変危険だといわざるを得ない。
17世紀に本居宣長の読みによって「古事記」は再発見された。にもかかわらず、上野千鶴子氏と口語訳を手掛けた三浦佑之氏は、「古事記」が連綿と読み継がれてきたテクストであるといってはばからない。書かれた言語とともにある思考する人間が、どこまで遡っても日付もなく文字も無い思考できない存在がなにを考えたかを考えること自体に、はたして意味があるのだろうか。上野氏と三浦氏の主体の言説に絡み取られる言語が、たとえ消滅しつつある構造主義の存在主張だとしても、戦前の「古事記」解釈とそれほど異ならないとしたら、疑問を呈する必要があろう。

プロの知に絡み取られて思考不能になったものを、われわれは巻き返して思考できないだろうか。本居宣長が「古事記」の根底にひとつの民族が存在すると解釈することに対して、「いま、古事記を読む。これは、もうすぐれて現代日本をめぐる問題なのだ」と述べる子安宣邦氏は、「古事記」の基点にそれを書く他者が存在する思考のイメージを打ち出しているのである。子安宣邦著、「<古事記>講義 「高天原神話」を解読する」は、氏が前著において日本における論語の読み方を問題にしたように、日本における「古事記」の読み方を問題にした、ナショナリズムを解体する脱構築の本である。この本によって、われわれは思考不可能なものを思考する時間を手にする。 「ここは伊邪那岐伊邪那美の二神による神生みの長い行りである。次々に神名を連ねてなされるこの行りをどう読むべきなのか。この神生みの神話の原初的なレベルには精霊的な自然の名づけによって人間の自分たちの自然、すなわち国土をなす山・河・海・草木などなどになっていく段階が想定される。この命名的段階というのはあくまでわれわれの想定である。山がわれわれの山になったとき、それはすでに山の神の語りをともなってである。つまりはじめから人の語りのなかに山とその神たちがいるのである。そしてこの語りは幾層にも語り直されていく。ある時から文字をもって語りは記され、記し直されていく。その時から語りは文学的な語りとなっていく。すなわち文字的表象をともなった語りが文学的想像力を喚起し、新たな文学的表象をもたらしていくのである。」
 

古事記」の序文を読むと、中国知識人と朝鮮知識人の影響のもとに、彼らに育てられた日本知識人が書いたものであることは明らかである。にもかかわらず、宣長は「直毘霊」において、その序文を否定しはしないが、そのような外部的なものによる成立のあり方を隠蔽し、漢字を借り物とした上で、日本人の道は大和言葉で伝えられてきた声の独立性に支えられている<一>に存する、と強調するのである。

他方で、「古事記」を読み進めていくと、宣長には神に対して絶対的に服従する注釈がある。神の生成を語る「古事記」は多神教的な<多>を語っている。神と言っても、そこで救済が語られることはない。死んだら女神である伊邪那美が行った穢らしい黄泉の国に行くだけである。宣長の思想において、<一>と<多>とが両立しているが、これはどのようにして可能となるのか。

稗田阿礼は女性だったと絶えずいわれている。宮廷女官だったのか。「古事記」を完成させた女帝の元明天皇に加えて、中国知識人と朝鮮知識人、太安万侶という日本知識人のサークルの中心に女性がいたことは特筆すべきであろう。

 

本居宣長は「古事記」の神の意味を明らかにすることは諦めたが、その代わりに神の名の正しい読み方をとらえることに腐心した。現代の音声学的アプローチは、神の名に含まれているm (両唇鼻音)、および、b (有声両唇閉鎖音)が大事だったと考えているようだ。しかしながら、神の名は漢字で書かれているので、漢字の表意性(意味作用)をゼロにはできない。このことを考えるだけでも、漢字を不可避の他者とする日本語の面白さを知ることができるのである。

書くことは並べること。神を、中国思想独自の「神」字で解釈し、「カミ」の訓読みで解釈することは、同時的なことなのだ。言語の集中が起きる同時性は、思考の主体を表象する内部の秩序を炸裂させる

 

天照大御神スサノオの対決は混乱の様相を呈するのである。スサノオは謀反心がないことを証明するための誓約(うけい)を行ったにもかかわらず、スサノオから生まれた男神天照大御神は自分の後継者としている。この点について、子安氏は津田左右吉の議論を用いて解説している。

スサノオ天照大御神に示そうとする「清き明るい心」は、「古事記」にある天皇への忠誠を意味する宣命的言葉であるが(これが日本人の原初的倫理だとされたらたまったものではない)、これによってスサノオの子孫が天皇皇位権を獲得した。誓約(うけい)に勝ったスサノオ天照大御神が統治する高天原で暴れまくる。弟を庇っていた天照大御神は、天岩戸に隠れてしまう。天照大御神が石屋戸から出たとき高天原だけでなく葦原の中ツ国(人間世界全体)も明るくなった。天の主宰者の支配の拡大を伴って、カオス(=スサノオ)がコスモス(=天照大御神)に回収されたのである。

神話は、吉本隆明が指摘するように、支配の正統化・正当化であるとされるが、そうだとしたらかくも支配が簡単にはいかなかったことを「古事記」が伝えるのはなぜだろうか。

宣長は序文の意義を認めながら、漢字借り物論を展開する。宣長エクリチュール論が何であったにせよ、大いなる他者である中国との関係を消去してはならない。エクリチュールとは「古事記伝」への回帰である。これは宣長という思想家の思想の言語の外に出て理解してはいけない。宣長との対話において読み返す時間が必要である。

 

何故明治維新は失敗だったのか?

荻生徂徠の影響を受けた会沢正志斎は『新論』(1825年)を書いた。後期水戸学は儒教神道で、復古主義に沿って、デウス・エクス・マキナ的に、聖人を天照大神に置き換えた。そうして天皇に死者を主宰する権力を与える言説を形成したのであった。そうであれば、国内の改革と共に、明治日本は立憲君主制の民主国家になる可能性があった。立憲君主制を最高の原理と考えたヘーゲルのいう精神の客観である。しかしこの歴史は実現しなかった。薩長が京都から連れ出した天皇に生者を支配する権力を集中させたために、昭和10年代の天皇ファシズムの原因を作り出してしまった。国家神道の戦争神社である靖國神社と共に死者と生者を支配し尽くすこの天皇ファシズムの方向と軍国主義の方向が一致した結果、日本はアジア2000万人を奪った悲惨な道を歩むことになった。これが何故明治維新は失敗だった理由である。安倍政権の問題は、解釈改憲によって、軍国主義を復活させ、また公式参拝と伊勢サミットの国家神道を復活させたことである。安倍を思想闘争によって敗北させることができなかったためぬ、安倍の体制は岸田政権に明らかなように続くのである。おそらく安倍は皇室に依存しない天皇教を考えていた。つまり嫌韓と反中のナショナリズムである。

 

No.18

子安宣邦 著 「維新」的近代の幻想、 日本近代150年の歴史を読み直す (作品社) 

 

「『維新』的近代の幻想」とは何であろうか。日本近代150年の歴史を問い直す子安宣邦氏の著書は、外部の思考を失い閉じた内部的幻想に囚われたわれわれが語ることができなくなっている「維新」的近代を語ることを可能にする。はたして、「明治維新」は近代日本の「正しい」始まりなのか。子安氏は、開かれた外部の思考のあり方を問い続けてきた。

子安宣邦 著、 「維新」的近代の幻想、 日本近代150年の歴史を読み直す (作品社) 


「維新」という日本近代の限界を語ろうとしたその瞬間に、限界は炸裂してしまうので、語ることができることと語ることが不可能なこととの距離である、原初的分割ともいえる場所へ再び連れ戻される。この言語の端とも表現できる分割点にわれわれは運ばれるが、その端自体が拡散し始めて、自身が相対化されると、われわれもだれも存在しないように感じる。どのような国でも資本を蓄積した後にヴァリエーションをもって資本主義が成立するが、正しい始まりが論理的に先行しないかぎり、自由に喋れる市民はいつまでも存在しないのではないか、つまり、アジアは経済がどんどん進むが、どうして言論の自由が進まないのかということを「『維新』的近代の幻想」は問うのである。

 

子安氏は、前著の「大正を読み直す」において、思想史における津田左右吉和辻哲郎とのあいだの思想的対決を、互いに衝突させる形で展開した。一方、「『維新』的近代の幻想」は、津田左右吉論から始まり、和辻哲郎論と北京大学での講演である「『日本近代化』再考」で終えているのであるが、こうして、思考の迂回的遅れの戦略によって、津田の思想の意味を数百頁後の和辻の思想とその天皇論において考えさせようとしているのではないだろうか。はたして、津田左右吉の「ラディカルモダニズム」とは何か。そして、和辻哲郎は国家と宗教にいかなる関係を打ち立てようと考えたのか。

 

明治とは何か。そして、この問いに先行しなければならないのは、江戸とは何か、という問いである。子安氏が、日本思想史家としての自己形成はこの問いとともにあったという「日本近代の始まり」という問いである。津田左右吉から和辻哲郎へと繋がる、長くゆっくりした分析の線上に、朱子学の視点、そして、「ポストモダン孔子」の方向で一層の深化が求められる「方法としての江戸」と「方法としてのアジア」、中国語に翻訳された「漢字論」、日本近代文学批判、戦没学生たちの手記についての論考が展開される。津田左右吉和辻哲郎という二つの極の間に以下の思想家たちが取り上げられる。鈴木雅之横井小楠石田梅岩、大熊信行、荻生徂徠と会沢正志、中江兆民徳冨蘆花夏目漱石、尾崎秀実、田辺利宏、そして、竹内好。子安氏は、「歴史修正主義的な長期政権による権力の集中と腐敗とがとめどなく大きくなりつつある」「今の絶望を再認識」しながらも、「『維新』的日本の近代150年の歴史の中にそれとの血脈的繋がりを信じたくなるような『本物』はいる」として、横井小楠中江兆民、尾崎秀実、戦没学生たちに「希望に連なる言葉を見出すことができるかもしれないのだ」、という。

 

こうして、「『維新』的近代の幻想』」は6つの部と17の章で構成される。これらは、東京と大阪で開かれた市民講座(公民教室)である「明治維新の近代」の論考をまとめたものである。

 

「『維新』的近代の幻想」は、子安氏がいうところの「解体日本思想史」、つまり、脱構築的方法によって、日本近代150年の歴史を読み直す試みである。歴史を読み直すとは何か。これに関しては、終章の「『日本近代化』」再考」と題した北京大学における講演 (2019.5.25.)の後に行われた、学生との討論会のために用意したメモである「北京大・討議のためのメモ:近代・近代化・近代主義」が参考になる。

 

「『日本近代』を批判しながら、われわれにおける『現代』を見定め、それに直面するためには『日本近代』がその絶対的な始まりとする『明治維新』を相対化しなければならない。これを絶対的な始まりとする『日本近代』をいかに相対化するかが問われてくる。この世界史的『近代』を相対化するには、それぞれの一国的『近代』を考えることによってである。」

 

ここでは、世界史的「近代」というグローバルな歴史ともう一つの「近代」である地域的な歴史とを考える必要を語っている。国家(一国的言語主義、一国民主主義)という枠を超えたアジア(漢字文化圏)について、確立したグローバルな見方(大きな歴史)のなかに、それとは別の見方をつくること。言い換えれば、歴史を読み直すために必要となるのは、「明治維新」を絶対的な始まりとする世界史的「近代」の普遍を批判する、外部の思考を要請する他者の視点なのである。フーコーの知の考古学は、現代という時代を構成している論理と解釈について述べているが、「世界史の構造」の柄谷行人氏の論理にとって意味があることが形式化を徹底する他者だとしたら、子安氏の解釈にとって意味があることは方法的思考としての他者である、ということを「『維新』的近代の幻想」から学ぶことができると考える。

 

「国家を人為の制度的体系とすることは、国家を制作物と見ることである。」(中江兆民 『民約訳解』を読むーその1)

 

「あとがき」において、「制作の秋(とき)」とは今である、と子安氏は述べている。

 

「1945年の敗戦とは作り替え可能なものとして国家を見ない民族的、神話的国家観の敗北であったはずです。それは新たな『制作の秋』であったはずです。だが制作の主体となりえなかったわれわれは戦後七十余年のいま歴史修正主義的政権によるもう一度の敗北をさせられようとしています。」「核兵器による最初の犠牲者であり、戦争の敗北者であった日本人を、核兵器禁止条約への署名を拒否する安倍首相はそのことの結果として、人類史における道徳的敗北者にしてしまうのです。われわれはこの屈辱にたえることができません。ほんとうにこれを屈辱だと知れば、「制作の秋」とは今だということを知るはずです」。

 

「『維新』的近代の幻想」は、21世紀の日本の政治を支配するに至った歴史修正主義ナショナリズムに対抗するための批判的重石をなすものである。こうして、われわれは国家祭祀と天皇制の問題をも考えることになるだろう。天皇とは、歴史が変わってもいつの時代にも現れる構造であり、象徴性を過剰に超える行い(祀るパロール)を許すと、憲法における国民主権の根本を危機に貶める、という現在の問題であり、日本思想史を見渡しながら、精神の従属をもたらす構造を言語化する思想的課題である。

No.19

書評;子安宣邦著、『「大正」を読み直す』(藤原書店



1

なぜいま『「大正」を読み直す』ことが意味を持つのか。この問いは、「大正デモクラシー」とは何であったのかという問いと一体をなすと考えられる。子安宣邦氏は藤原書店発行の月刊誌「機」で次のように語っている。

私が大正に眼を向けだしたのは、二〇十一年三月十一日の東日本大震災に際して関東大震災が、大正の国家社会にもった意味を考えたりすることを通してであった。大正を問い始めた私は、やがて大正が創り出した、全体主義的昭和という時代の中に自分は生み落とされたのではないかと考えるようになった。私は昭和八年の生まれである。(大正の再発見—なぜいま大正を読むのか)

また、子安氏は『「大正」を読み直す』のなかで以下のように語っている。

私はこの世紀の初めの時期から、昭和の戦前・戦中期の日本への関心を深めていった。その関心は「近代の超克」論や「和辻倫理学」論、そして戦前・戦中から戦後にかけての日本人の「中国」論を読み直す形をもって市民講座で語られていった。この昭和戦前・戦中期をめぐる講座の中で、私はこの昭和とは大正がまさしく作り出したのではないかと、昭和一桁生まれの私は大正から作り出した昭和という全体主義的時代の中に生み落とされたのではないかと思うようになった。

2

こうして、子安氏の問題提起は、「大正」がいつ始まりいつ終わるのか、という定義から始まっている。

大正天皇の在位期間、すなわち一九一二年(明治四十五/大正元)年七月三十日から一九二六(大正十五/昭和元)年十二月十五日までを大正時代というが、「大正」という時代の歴史記述が一般にこの王朝交替的時代区分に直ちにしたがってなされるわけではない。

もし大正の時代を明治と昭和との間に陥没させたままだったら、「大正」は忘却されるかもしれない。つまり、「王朝交替的時代区分」に従って大正を明治と昭和の間に位置づけてしまったら、「大正」への問いが成り立たなくなってしまうではないか。自明とされているその分節化の恣意性が「大正」の本質を見えなくしてしまうというのである。

「大正」への問いとは、「大正」と「大衆社会」の成立の意味を問う批判を構成する。昭和思想史研究会という市民講座(「大正」を読む)の第一回では、まず「日比谷事件」を始まりとして想定する必要性が論じられた。このようにして、現在より「大正」を読み直すとき、すなわち、日比谷公園焼き討ち・大逆事件から満州事変までとする期間として「大正」を再構成するとき、なにがみえてくるのか。大衆社会が成立する時代として「大正」を読むとき、その始めを「日比谷公園焼き討ち事件」に、その終わりを「満州事変」に再分節化することはいかなる理由で正当化されるか。子安氏が依る成田龍一氏の分析において指摘されるが、そのように大正の初めと終わりを再定義するとき、統制としての治安維持法と一体であった普通選挙法は本当にそれほど<市民的>デモクラシーであったといえるのかという問題がわれわれのまえに顕わになる。ここから大正への問いが初めて成り立つ。

「大正」への問いとは、また、不特定多数の民衆集団が政治を動かしえるほどの大衆として、都市に流れてくる労働者とともに、<大衆的>デモクラシーとしての全体主義を形作った歴史を追っていく問いである。この問いに取り組むためにいかにハンナ・アーレントに負うたかについて、子安氏は次のように述べている。

私の「大正・大衆社会」論的問題関心を動機づけたのはハンナ・アーレントの「全体主義」論であった。「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分達にふさわしいと考えた唯一の組織形態である」というアーレントの「全体主義」論を読みながら私は、昭和日本の全体主義ファシズム成立の前提条件をなすような「大衆」と「大衆社会」とは何かを考えてきた。成田の『大正デモクラシー』は最初の答えを私に与えてくれたのである。

3

「大正」を問うこととはクローズアップである。クローズアップは光の中に事物を置く方法であるが、犯人に照明を与えるやり方で、だれが幸徳や大杉を殺したのかを問いたいと考える。だれが労働運動において事物の根本を問う思想からその観念性を剥がしたか。だれが媒介を批判する直接行動の思想性を爆弾に書きかえたのか。「大正」は取調室の中での犯人に対する尋問のように、ある抑圧のうちに隠蔽された、全体主義昭和の先行形態としての自らの顔を照らし出す。

「大正」は可能性の中心だった。直接行動論という無媒介の思想(私はこれをモンタージュの孤独と呼ぶが)を、国家が抹消し社会主義者大河内一男社会主義史的記述)が忘却したので、天皇制国家の民主化という映像へは到来し得なかった。そこから大衆的国民が登場する一九三〇年代は市民なき孤立への道となる。ファシズムのクローズアップと大きな人間への拍手しかなくなる。

石川啄木は「大逆事件」の真相を国家権力と共に歪曲したメディアの意見形成的コミットメントとして見抜いていた、と子安氏は指摘する。

啄木は社会主義概念を反国家的、反皇室的な危険思想として大衆に定着せしめる上で新聞が果たした役割の大きいことをいうのである。

われわれがいま『大逆事件』を読み直すことの意味は、日本の近代社会が<大衆社会>として成立しようとしているその時期に、国家によって先手を打つようにしてなされた社会主義思想の殺戮事件、すなわち「大逆事件」によって殺されたものが何かを、そして社会主義者自身が己の陣営から消し去ってしまったものは何かを、その喪失したものの大きさとともにあらためて見出すことになる。

(以下、藤原書店発行月刊誌「機」より引用)

私は「大逆事件」を問い直すことから大正への私の探索を始めた。私は大正への問いを年号の始まりからしようとはしなかった。「大逆事件」から、すなわち明治四十四年(一九一一)一月十八日大審院法廷が幸徳秋水から二十四名に死刑の判決を下したあの事件から、私は大正を問い始めたのである。「大逆事件」とは、やがて来るべき新しい時代と社会に向けてなされた明治国家権力の先制攻撃であった。大正という二十世紀的日本社会は、「大逆事件」という重い軛を負いながら、あるいは負わされて始まったのである。戦後日本の最高裁は、昭和四十二年(一九六七)「大逆事件」再審請求の特別抗告を棄却した。明治四十四年の大審院判決は、戦後日本の最高裁によって追認されたのである。百年前の「大逆事件」は、なお「大逆事件」であり続けているのである。ということは戦後日本の民主主義的国家・社会とは「大逆事件」がなお「大逆事件」としてあり続けることを許している国家・社会であるということになる。だから大正を「大逆事件」から読み始めるということは、大正だけではない、戦前の昭和をも、さらに戦後の昭和を読み見直し、問い直すことをわれわれに求めることになるのである。

明治四十四年に国家に扼殺された幸徳をあらためて読むこととは、「大逆事件」の名を負わされた革命劇を語り直すためではない。「大逆事件」は、社会的正義と自由への民衆の本源的な要求に立った社会主義思想を、その芽生えにうちに扼殺したのである。国家権力は、幸徳らの「直接行動論」を反国体的テロリズムとして射殺した。それ以来、社会的正義と自由を求める労働者大衆自身の自立的運動をいう「直接行動論」は封印されてしまった。それを封印したのは国家権力だけではない。日本の社会運動もまたこれを封印していったのである。幸徳を読み直すとは「大逆事件」を通じてわれわれが国家権力とともに封印し、われわれの運動からも喪失させてしまった大事な何かを幸徳に再発見することである。その再発見とは、昭和の戦前・戦後史の読み直しの中で再びなされることでもある。

4

「大正」を考えることは、二十一世紀東アジアにおける民主的直接行動としての民主化運動を考えることである。子安氏の『「大正」を読み直す』が、『帝国か民主か』(二〇一五年刊)に続いて世に出たことに注目したい。「大正」を読むことは、「昭和」を読み直すこととなった。「昭和」はそれ自身をとらえ直し、読み直すことを可能にする「大正」という外部的視点をもったのである、と子安氏が言うとき、「大正」と日本の外部をなす東アジア、この両者が、外部的視点において互いに切り離せない関係を形成していくことは必然と考えられる。つまり、「大正」と東アジアは、「日本」というブラックホールを回避していく外部の思考としてあるということだ。こうして、『「大正」を読み直す』とは、東アジアを読み直すということを意味している。この意味で、『「大正」を読み直す』に与えられた真の意味での副題は、「東アジアの幸徳・大杉・河上・津田そして和辻・大川」と読まれよう。

では、二十一世紀の東アジアでなにが起きているのか。市民のオキュパイ運動によって本当の意味で始まった二十一世紀という時代にみえてきたものは、グローバル資本主義と<帝国>と民主主義である。グローバル資本主義の分割は、<帝国>を中心に推進されている。具体的には、新自由主義新保守主義アメリカ<帝国>、第四帝国としてのEU<帝国>、スターリン主義ボルシェヴィキズム=ツァーリズムのロシア<帝国>、そして官僚資本主義の新儒教の中国<帝国>、である。安倍自民党は日本をアメリカの側に位置づけようとして中国<帝国>への対抗としての危険な役割を引き受け、東アジアは、この安倍が原因をつくった、民族主義的憎悪を互酬的に交換するという危険な権力ゲームに囚われている。このゲームの内側で、民主主義の形骸化は一%のネオリベの新貴族たちによって推し進められている。これに対して、非暴力の抵抗であるオキュパイ運動からalternative(他の道)の民主主義が現れてきたことに注目したい。民衆的自治・自由論・民衆的直接的行動論を「民主主義」の真の再生の力にしていく語る民主主義の運動である。そこで、市民の思想史は、東アジアのグローバル・デモクラシー=白紙の本になにを書くことができるのか。こうして、コンテクストの多義的切断によって、それまでは共通点がないとされた、幸徳と大杉に小田実が初めて結びつけられることになった。安倍が原因をつくった、民族主義的憎悪を互酬的に交換するという危険なナョナリズムの権力ゲームに東アジアが絡みとられないためには、なにをなすべきか。この問いに答えるべく、子安氏は小田について語ったあとに、大杉栄の言葉を引いている。

私はこの小田の「でもくらてぃあ」という市民運動的政治原理に幸徳らのアナーキズム的「直接行動論」の最善の形での現代的再生を見る。私は小田をアナーキズムの二十一世紀的再生者として「アナルコ・デモクラット」と呼びたいと思っている。小田はこの呼び方に不満だろうか。だが小田の「でもくらてぃあ」をいまアナーキズムとの思想関連でとらえていくことは、東アジアにおける民主的直接行動としての市民運動を二十一世紀的現代における世界史的な意味において見ることを可能にする。

しかし、人生は決してあらかじめ定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生だ。労働運動とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の本の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。観念や理想は、それ自身がすでに、一つの大きな力である、光である。しかしその力や光も自分で築き上げてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。

大正を読むとは、自身の権威だけに依り他の権威に依存しない行為の語りを読むことである。大杉は、「民本主義」の吉野作造のしどろもどろの議論を国家主義時代の「民主主義」の衰亡史として読み切った。国家に飲み込まれて行ったのは「民本主義」ではない、「民主主義」なのである、という。

5

河上肇が『貧乏物語』を書いた時、『資本論』がすでにあったことを子安氏は強調する。つまり、河上の『貧乏物語』とは『資本論』の再語りであったことを読者に喚起する。日本知識人による再語りというのは、ヨーロッパの言説から語ることを前提として、そこにこだわりつつ、純粋な理念的構成の中からその内部に即して対象(この場合の「貧困」)をとらえる態度と理解できるだろう。子安氏は、河上が<貧乏線>にしたがって日本の貧困を計算しようとはしなかったことに注目する。それはなぜか。

生活可能な最低値として数値化された<貧乏>概念と<貧乏線>とともに顕わにされた最富国英国における大量の<貧乏人>をめぐり河上の『貧乏物語』というメッセージは何を意味するのだろうか。大正社会の読者はここから何を受け取ったのだろうか。『貧乏物語』は日本の読書界にセンセーションを巻き起こしたことはいわれている。しかしそこから日本社会に<貧乏線>を引いてみようとする試みをしたものはいない。そもそも河上自身がそんなことを毛頭考えていない。彼にはそもそも<貧困問題>があったわけではないのだから。

そうしてpoverty(英国の「貧困」)は再発見されても、日本の<貧乏>は発見されることはなかった。河上はヨーロッパの貧困についての言説を日本に適用しない。これは、今日の「現代フランス思想」の日本知識人達がヨーロッパのファシズム批判の言説を日本の暴力の問題に適用しないような態度と重ねることができる。子安氏は『「大正」を読む』の特別講座設け、近代日本知識人の純粋理念型の問題の理解を深めるために、丸山真男ファシズム論の例を検討された。丸山はファシズムですら純粋理念型として構成し、日本のファシズムに始まりも担い手もいなかったと結論づけることとなった。こうして、天皇ファシズムの実行者(天皇機関説を反古し国体論を展開した官僚と学者、思想家と宗教家、昭和ファシズムを実行し現実化した政治家と軍人)をやすやすと見逃すことになるのだが、今日「日本会議」のようなファショ的政治集団が戦前の言説とともにそのままの形で登場することの理由がここに存する(確かにドイツも極右翼はいることはいるが、彼らは戦前のファシズムとの関係が絶たれている。この点が、ファシズムを見逃した日本の場合と決定的に違うという)。この<理論>の<事実>に対する優位という問題は、理論の行き過ぎた実体化を正すカント的経験知が生かされないということに尽きよう。子安氏はこの点について語る。

資本論』をすでに存在する権威として受容した日本のマルクス主義知識人に著しい通弊である。

さらに、この問題を考えるために、子安氏は、ピケティの『21世紀の資本』がいかに読まれたのかを検証する(<貧困・格差>論と「資本主義」の読み方)。結論をいうと、『21世紀の資本』の教訓は生かされなかった。その教訓とは、「資本主義のコントロールを取り戻したいのであれば、すべてを民主主義に賭けるしかない―そしてヨーロッパでは、それはヨーロッパ規模の民主主義であるべきだ」、というものである。社会のなかで人々が知りたいという特別な対象について説明されたり考えたりする知の記述の根底に、隠蔽された権威的教説(マルクス主義)へのこだわりが存在している。このこだわりのブラックホール性は、『21世紀の資本』を規定していると子安氏が解釈するブローデルの方法論的問題意識すらみえなくさせているほどだ。子安氏は言う。

私がピケティの『21世紀の資本』の背後にアナール派の歴史記述、何よりもブローデルの『物質文明・経済・資本主義』を見るのは、その参照注の有無にかかわらず、当然の推定だといえるだろう。むしろこれを背後に読むことによって、ピケティのこの書の意味は一層明らかになるのである。日本の読書界のリーダーたちがピケティのこの書を迎えるに当たってもっぱら『資本論』を引き合いに出し、ブローデルの『物質文明・経済・資本主義』をみようとはしないのは彼らの鈍感と無知とを示すものでしかない。

6

二十世紀社会に対する問い直しが迫られている現在、「大正」は再び発見され、読み直されねばならない。子安氏は、津田左右吉を読み直し、『神代史の研究』が現在にもつ意味を掘り起こし、和辻哲郎を再び発見する。

戦後において、津田の仕事は国家神道批判として読まれてきたが、これは正しくないと子安氏は指摘する。津田が行ったことは、記紀「神代史」は「作り物語」であるということを明らかにしたことである。子安氏の説明に従って津田の仕事を理解するとき、「神代」という観念は「政治的なものだ」といえる。例えば、「タカマノハラ」という観念は宗教的でもなく、宇宙論的でもなく、ただ「政治的」だという。子安氏は津田の系列に連なるある日本古代史家を批判しながら次のように分析した。

「神代史」が「作り物語」だということには、「神代史」における民衆の「伝承的事実」の認識を介して主張される<神代>と<いま>との連続性を遮断しようとする意志の表明を見ることができる。

つまり、「神代史」は言説上に構成されるだけだ。ゆえに「神代史」に民衆は無い。

津田はタカマノハラ観と民衆思想との間の交渉関係などない、民衆とは無縁だというが、それは「タカマノハラ」だけにいうことではない、「神代史」そのものについていうことである。「神代史」は民衆とはまったく無縁に成立するというのである。「神代史」は民衆とは無縁だという津田の言葉は、「神代史」を「国民的物語」「民族的物語」とすることへの批判でもある。

ここで子安氏の津田を引く言葉は、かつての国家神道のものではないにしろ、今日における『古事記』の再神話化(神話学的・文学的な再神話化、構造主義民俗学文化人類学的神話化)に対する警鐘の言葉となっている。そして、その言葉は、『「大正」を読み直す』という課題において、和辻が行った『古事記』の復興に対する批判の前提をなすものである。

津田批判としての和辻の『古事記』復活の論理とは、以下のようなものであるとされる。『古事記』は歴史的材料としてではなく、文化的あるいは文学的資料としてみなされるべきである。それは「想像力の産物」なのである。子安氏が指摘するところによると、和辻のいう想像力とは、民族の国家的な統一を作り出す政治的制作力と同等であるような、民俗の文化的な統一を作り出す文学的創作力のことにほかならない。『古事記』の復興は文学的解釈力を自負する和辻によって担われる、と指摘したうえで次のように結論づけられる。

和辻は『古事記』の混合テキストから帝皇日継を洗い去ったところに「先代旧辞」という「一つの芸術作品」を認めるのである。『古事記』の旧辞とされる神話・民話はただ寄せ集められた多数としてあるのではない、和辻はそれらを一つの芸術的な作品として見るのである。これを一つの作品とすれば、そこに作者が存在することになるだろう。「その作者が(単数であると複数であると問わず)上代のすぐれた芸術家であったことを認める」と和辻はいうのである。その芸術的な価値においては『日本書記』は『古事記』にはるかに及ばないと和辻はいう。その『日本書記』について和辻は作者をいったりはしない。では『古事記』の「先代旧辞」の作者とはだれか。宣長はすでに和辻がいう「先代旧辞」の作者を天武天皇稗田阿礼の二人に見ていたように思われる。和辻もまたこの二人を作者としていたのかもしれない。だがこの二人に見る作者とは、多くの異本群からこの「先代旧辞」を最良のものとした選定者であり、その旧辞の言語を誦習し、記憶にとどめた宮廷の語り部ではないのか。本当の作者とはその旧辞の中にこそいるのではないか。神話・民話として語り伝えられたこの「先代旧辞」をもしすぐれた一つの作品というならば、その本当の作者とは一つの言語(日本語)をもった神話・民話の想像力豊かな語りの匿名的多数の主体であるだろう。日本語をもった文化の共同的主体とは日本民族にほかならない。『古事記』も「先代旧辞」を和辻が一つの芸術作品と認めたとき、彼は作者としての日本民族をその作品の背後に見出していたのである。

日本民族の呼び出す、幻想としての一つの芸術作品に対する、ひとりひとりの人間の譲歩(コンセッシオン)には、「身体、魂、財産の譲歩など、際限がない」(ジャック・ラカン、『テレビジョン』)のである。『古事記』とは和辻によって理念的に構成された、「日本民族の最初にして最古の芸術的作品」である。津田の脱神話化に対抗して、和辻の解釈に負う「昭和の偶像はこのようにして再興された」という。

7

『「大正」を読み直す』の最後の章は、「大川周明と『日本精神』の呼び出し―大川周明『日本文明史』を読む」である。この章の意味を考えるために、大川が伊藤仁斎を積極的に論じていたことが重要となる。そして、仁斎とカントが同時代の思想家であったということの意味は何かを問うてみよう。

まず、普遍主義の理論的前衛(原理)を批判したカントは、彼が初めて発見した主体とその位置にある経験知というものを言説化した。カントの前に、主体のことも経験知のことも言った人はいなかったのである。カントから近代とその批判が始まる。よって、カントと同時代の仁斎が体現する「江戸思想」から、(「大正」の読み直しが「昭和」の外部的視点を構成するように)昭和十年代のヘーゲル「世界史」的近代原理を批判できるはずである。

ロシア革命を観察しその後にできたレーニンスターリンの(ウクライナを併合してできた)全体国家を批判した社会主義者は(後にアナーキズムへ行く)幸徳と大杉だけではなかった。ある一定の時期の大川もその社会主義者の一人であった。だからこそ、大川が説いたアジア解放の社会主義の思想は、いかに仁斎の思想の中に帝国的言説に対する批判的読みの現代的可能性が存在していたかを知っていた。

皇国史観の国体論ファシズムの否定は大川と北一輝とに共通のものであるが、それを、評伝的に誰々の言葉として聞き取る実体化よりも、大正の思想を一体的に構成する批判精神の言説として読む方法論が重要であろう。左翼か右翼かと二項対立に整理できない、この時代の思想的配置を抹消してしまったのは、ほかならない、戦後民主主義の二項対立的な言説であった。どうして、わたし(「社会主義者」)は、あなたが言ったようなわたし(「権威的右翼」)でなければならないのか、という自己のアイデンティティを他(戦後民主主義)に委ねなければならない語りの苛立ちを感じつつ「大正」を読み直す我々が存在する。

ヨーロッパ的原理が最高のものであるにも拘わらず植民地主義に絡みとられることになった問題を解決するために、再びヨーロッパ原理に依拠することは倫理的に許されない。(西欧原理に植民地化された)アジアの経験知からヨーロッパ原理を高めていくと言った竹内好的な近代の超克の言説の意義に沿って、アジア主義的革新者だった時期の大川の読み直しが意味をもってくると思われる。

こうして、なぜいま「大正」なのか、と絶えず問うことは、「幸徳・大杉・津田、そして和辻・大川」の道を歩むことであり、さらに、ヨーロッパとアジアとの距離を書くことに相違ない。ここから、思想史の言説の地層は、アジアの基底的共感を伴った読みの運動性を介すことによって、多様としての普遍性へ向かって確実に拡充していくのではないだろうか。

 

No.25

「21世紀にみえてきたのは、グローバル資本主義と<帝国>と民主主義です。グローバル資本主義の分割は、<帝国>を中心に推進されている。具体的には、新自由主義新保守主義アメリカ<帝国>、(EUから) 第四帝国へ行くヨーロッパ<帝国>、スターリン主義=ボルシェヴィキズム=ツァーリズムに戻るロシア<帝国>、そして官僚資本主義の新儒教の中国<帝国>、である。これに関して言うと、安倍自民党は日本をなんとかアメリカの側に位置づけようとして必死に、対抗・中国帝国としての危険な役割を引き受けているようにみえる。東アジアは、この安倍が原因をつくった、民族主義的憎悪を互酬的に交換するという危険な権力ゲームに囚われている。このゲームの内側で、民主主義の形骸化は、安倍をはじめとするこうした1%のネオリベの新貴族たちによって推し進められているではないか。一方、非暴力の抵抗であるオキュパイ運動からalternativeの民主主義が現れてきたことは、注目したい動きである。民衆的自治・自由論・民衆的直接的行動論を「民主主義」の真の再生の力にしていく語る民主主義。そこで、市民の思想史は、東アジアのグローバル・デモクラシー=白紙の本になにを書くことができるのか?「帝国か民主か」が問うているのはまさに、このことなのである。」(2015年書評)

 

歴史メガネー大きな歴史と小さな歴史

子安宣邦氏の『帝国か民主か』は、帝国の構造を擁護する柄谷行人との思想闘争である。テクスト批判の方法を取りながら、実は柄谷は、『資本論』の読み方をアジア知識人に教えるが、それは19世紀のマルクスが『資本論』に書いていなかった国家の役割を理論化しているものである。劉暁波天安門広場前抗議をはじめ向日葵運動や雨傘運動などアジアの民主化の経験を無視した、柄谷の<高度な互酬原理>を以って「礼」を解釈する言説に、ヘーゲル的な思弁が占拠していると言わざるを得ない。問題は柄谷は日本近代化を失敗させた帝国の認識が欠落していることだ。である。柄谷は江戸思想に挫折した。これから、「交通」における地域の小さな歴史においてあるコミュニケーションを観る視点がなくなって、大きな歴史だけが彼の関心になった。つまり『ドイツイデオロギー』から読み出した柄谷の「交通」概念から「交通」が消滅したということである。

明治維新を考えるときはやはり大きな歴史と小さな歴史を考える必要があるだろう。大きな歴史はイギリスとフランスとが地球の半分づつを持った時代であった。薩長と幕府の対立は英米の代理戦争の様相を呈した。小さな歴史とは中華文明の普遍から自立して西欧の普遍を受け入れる知の移動である。明治維新の近代化は成功したが、中国の帝国をモデルとした王政復古は失敗だった。現在中国は日本と同じ帝国化の失敗を繰り返そうとしているようにみえる。

大きな歴史と小さな歴史を考えてこそ、「グローバルデモクラシー」(子安)の要請が展望されるであろう。第一江戸思想史講義はポストモダン孔子だった。ポストモダン朱子の第二江戸思想史講義があるならば、第三江戸思想史講義も出てくるだろう。中国人や韓国人あるいは台湾人が書く東アジア共同体におけるグローバルデモクラシーの理論に違いない

 

維新的舞台ーパラノイアv..s. スキゾ

わたしはあえて吉田松陰を狂気の形として捉えたことは大事だとおもいます。わたしは吉田松陰はむしろパラノイア的天才だと考えたらいいじゃないかとおもいます。伊藤博文もそれに触発されて、明治憲法に、神話想像力を吸いつくした国体と共に生者を支配するだけでなくて死者も支配する父たる天皇を書いたのです。誰も逃げられ無くなったのが昭和10年代においてです。他方で、いい加減なことを言うかもしれませんが(笑)、後期水戸学の藤田東湖と会沢正志斎はスキゾ的です。幕府は天皇に幽閉した政教分離の体制をとったのですが、二人はこれで民のこころがばらばらになっていては仕方ないじゃないかと文句を言います。しかし彼らはこのことを語るために、『易経』『中庸』『朱子語類』といった言語を集中させて、近代の人間と彼が立っていた大地を消滅させてしまうのです。つまり死者を祀る天皇との関係を冒険する孤児になれと主張したとわたしはおもいます。つまりわれわれは一個の死者であることを知れと訴えたのです。さあ、死者として、未来を思い出す夢を見ましょうと。歴史の必然が押し付ける悪夢から目覚めましょうと。明治期の社会改革運動に身を投じた後期水戸学の活動家的知識人の生き方を島崎藤村『夜明け前』で書き記しました。