非対称性としての「商品」の欲望 -マルクスは金融危機をどのように理解したか?-
「資本論」を著したマルクスについては、「資本主義の悪とコミュニズムの善」を終末論的に説いた預言者としてのス テレオタイプ像が流布しているが、ドイツの社会主義者が形容したように、ルソー、ヴォルテール、ハイネ、およびヘー ゲルを融合させたような人物であり、宗教問題に関心を寄せた青年時代には、当時ドイツを席巻したロマン主義の息吹 のなかで、人類の解放のテーマを積極的に追求したバイロン的詩人とも呼べる素質を発揮している。その後、マルク スは、ヘーゲル左派の哲学者としてパリのアナーキスト達と交流した活動家として知られるに至る一方、フランス革命後 の政治情勢に関する記事を盛んに発表するジャーナリストとして活躍し、更には、アイルランド問題に関する鋭い考察を 著した。このように、マルクス自身が常に多様な可能性の中心に位置したように、その代表的作の「資本論」で展開され た思想も多様な層が織り成す言説空間の中に存在している。この多様な層は、ドイツ観念論の哲学、ロマン主義的ユート ピア的社会主義、そしてイギリス古典経済学が基盤となっており、このような顕著な性格は、「資本論」の書き方そのも のに反映されている。 ところで、近年の金融危機の影響で、「資本論」がドイツ、フランスおよびイギリスで再び脚光を浴び、経済学者と してのマルクスの恐慌を分析する言説が復活しているという。しかし、前述のとおり、マルクスの思想には、経済学の 範疇を遥かに超えた、内省的な哲学的考察や歴史的な政治の考察が埋め込まれている。マルクスの批評精神の真骨頂は 、重力のような経験に引き込まれることのない自由な思考に存するのである。例えば、ゴダールが映画を「思考のため の道具」とみなしたように、マルクスは経済学を「思考の手段」と考えていた。実際、マルクスは古典経済学の視野を 通してイギリスの金融危機の問題を分析したが、そこに留まることなく、言説としての経済学も分析の対象として批評 する必要性を鋭く認識していた。「資本論」第一巻は「価値」の釈義であり、経済学の膨大な学説が書き込まれている。 メタ言語とは、対象を直接叙述する言語に更に言及する一段と高い次元の言語のことを意味するが、マルクスは、「資 本論」の言説の中で、例えば、ドイツ観念論の哲学とフランスのユートピア主義の政治学がこのようなメタ言語として働 くことを意図した。ここで、マルクスがテキストのなかに書き込んだメタ言語の言説を、以下の「マクベス」の台詞の 中で、シェークスピアが役者自身の演劇人としての意義に対する問いを書き込んだことに対応させてみよう。 「あすが来、あすが去り、またあすにもどる。そうして一日一日と小刻みに、時の階段を滑り落ちていく、この世の終 わりに辿りつくまで。いつもきのうという日が、愚か者を、塵にまみれた死の道の方へ照らし出してきた。消えろ、消 えろ、束の間に灯る希望の火よ。人生なんて所詮、彷徨う影のようなものじゃないか。人間というのは哀れな役者に例え ることができよう。自分の出番のときだけ舞台の上で芝居を演じて一生懸命喋るけれども、最終的には跡形もなく消え去 ってしまう。それらは皆、白痴が語るおしゃべりみたいに、騒がしく、すさまじいだけで、なにも根拠がないのだ」。 このシェークスピアの言葉は、当時勃興したプロテスタントに対して、また、反宗教改革のカトリックがプロパガンダ として推し進めるバロック芸術に対しても距離を置いた演劇人の言葉であるが、ここにおけるメタ言語は「エッセー」 のモンテニューの批評精神にも通じる懐疑主義的哲学である、といえる。 これと同様に、マルクスは、ドイツ観念論の哲学とロマン主義的ユートピアの政治学を、経済学の言説を分析するため に必要なメタ言語として位置づけたのである。この関係を象徴的に理解するために、記号を使って表してみよう。例えば 、Pが「ドイツ観念論の哲学」、Rが「ロマン主義的ユートピア主義の政治学」、Eが「古典経済学」を表し、括弧の中 はメタ言語としての、括弧の外は対象言語としての位置を示す、と約束すると、(P、R)Eというひとつの関係を示す ことができる。 ところで、「資本論」は「政治経済学批判」の別名を持つが、この名が示すように、古典経済学がユートピア的ロマ ン主義の政治学と相伴って、ドイツ哲学の言説に言及している箇所がある。前述した記号を使うと、これは(E,R)P と表現できる。例えば、「私=私」という哲学的な関心を、「20単位リンネル=20単位リンネル」という経済学の 言葉に翻訳するような箇所である。この時、マルクスが自身の内省的な哲学の問題意識を経済学的なフレームワークの 中に置き直していることが理解できる。ちなみに、十七世紀のオランダ絵画の中に克明に描き込まれた風景は画家達のオ ブセションであったように、ドイツ哲学の「同一性」の論理、つまり「私=私」の論理は当時のドイツ人のオブセション であった。そして、マルクスは、このオブセションを分析の対象としたが、そのために対象(「同一性」の論理)を直接 叙述する哲学の言葉について更に言及する、一段と高い次元の言語の一つが、イギリス古典経済学であった。ただし、 通常経済学は「商人」とか「商品所有者」について分析するのに対して、経済学がメタ言語として機能するこのような 場合、哲学(ドイツ観念論)が分析の対象となり、メタ言語としての経済学による分析は非常に抽象度が高くかつ表現 豊かな言葉を喋ることが可能となる。一方、このような無味乾燥なトートロジーといえるようなオブセションに対して 、ユートピア的ロマン主義の精神の語りである政治学は、熱い息吹を与えるレトリックの役割を担いつつ、メタ言語と して位置を保つのである。ユートピア的ロマン主義の政治は、通常は「人間」に呼びかける言説であるが、これがメタ言 語として機能する場合、「商品」の言葉に耳を傾けることになり、マルクスはそれらの言葉を理解しなければならない 、と主張する。このようなマルクスの関心と方法は、フロイトが確立した精神分析学の方法を喚起する。フロイトが自分
の夢について語る患者の言葉を分析したように、マルクスは商品が語る欲望の言葉を分析したからである。 ところで、この点に関して、自分が他人の身体の中に在った、と自分の夢を告白したのはデカルトであり、例え狂気の 中の確信に過ぎないとしても、デカルトにとって、少なくとも「考えること」と「存在すること」だけは確かな真実であ った。これと同様に、マルクスが考察の対象とした「商品」は、自分が他の商品の身体の中に在った、という夢を語るが 、ただ考えたり存在したりするだけでなく、「欲望」を持っている(「我考えるゆえに我存在する」、「我他の商品の 身体の中にあると考えるゆえに我交換を欲する」)。このことによって、マルクスの「資本論」は、シンメトリーを破 壊したい(「商品」の)「欲望」の証言を語っている。 では、シンメトリーとは何か。十八世紀のヨーロッパに台頭した理性の時代は、シンメトリーと整合性を重んじ、秩 序立った閉じた世界を憧憬する時代であり、シンメトリーは時代を超えた人間固有の概念とみなされた。日常を観察して みると、皆多かれ少なかれ、「シンメトリーの世界」の中に生きていることが分かる。二つの目、二本の腕、そして、二 足の足然り。楽園のアダムとイブ。モーツアルトの安定したフレーズ。意味するものと意味されるもの。話すことと聞く こと。使用価値と交換価値。これらはすべて「シンメトリーの世界」を構成している。しかし、「シンメトリーの世界」 は基本的に閉じた世界であり、「商品」の眼からみると、狭い共同体の世界に自足してしまった自己同一的なものである 。「商品」の精神は外の世界に飢えている。「商品」は皆、自分の肉眼が見える範囲を越えて遥か遠くかなたに旅立つ欲 望を持っている。「理性の笑み」は心地好い。しかし、それは所詮、安楽な均衡状態である。「商品」はこのような有限 な内部世界に背を向けて、外の無限へ越えて行くことを欲する。「商品」の精神にとって、閉じた世界に安住することは 監獄を意味する。「諸商品の交換が最初に可能となるのは、互いに交易を行おうとする近接した共同体と共同体の間の 狭間においてである」と表されたように、マルクスが書いた「商品」は変化や運動を要求する。つまり、「交通」である 。ところが、「シンメトリーの世界」はこうした自在な「交通」を妨害する敵となる。マルクスは、この閉じた「シンメ トリーの世界」を「トートロージーの論理」と表現している。そして、「商品」が、「トートロジーの論理」、すなわ ち「X量商品A=X量商品A」の等価式を打ち破ることによって、他との関係を表す「X量商品A=Y量商品B」の等価式へと 移行する必然性を説いている。 こうして、マルクスは「資本論」の中で、古典経済学をユートピア的ロマン主義の政治学と相伴なわせることによって 、つまり、非対称性としての「商品」の欲望を批評することによって、「私=私」というドイツ哲学の言説の展開を見事 に分析する。こうして、マルクスによる商品分析はロマン主義的文学の想像力を駆使した言説となるが、従来のマルクス 主義の教科書は、このような想像力に対して無味乾燥で中立的な説明を与えてきたきらいがある。従来のマルクス主義の 教科書は次のような解説を行なう。 価値形式とは、すなわち商品の価値の現象形式を意味する。そして、商品は、もともと使用価値と価値との統一物で ある。従って、商品には、使用価値の形式と価値の形式とがある。前者は、商品の自然的形式であることから、感性的に 認識することができる。一方、後者は、価値自体にはなんら自然的素材が含まれていないために、単独の商品自体につい てはこれを認識することはできない。それが認識され得るのは、ある商品と他の商品との関係としての価値関係において である。例えば、20単位のリンネル=1単位の鉄、というような場合においてである。価値の形式には、自らを表す 側の価値の形式、すなわち「相対的価値形式」と、それが表されている側の形式、「等価形式」との二つの極があるわけ である。リンネルは相対的価値形式に位置し、鉄は等価形式に位置している。要するに、ある商品の価値の現象形態は、 その交換価値において表示される。マルクスは価値形式の発展として、つぎの4段階を挙げている。
表A 簡単な、単独な、または偶然的な、価値形式 (Einfache, einzelne, oder zufällige Wertform)
X量商品A=Y量商品B、 すなわち、X量の商品Aは、Y量の商品Bに価する
表B 全体的な、または展開された価値形式 (Totale oder einfaltete Wertform)
Z量商品A=U量商品B、または=V量商品C、または=W量商品D、または=X量商品E、または=等々
表C 一般的価値形式 (allgemaine Wertform)
U量商品B =
V量商品C =
W量商品D = Z量商品A X量商品E =
等々の商品 =
表D 貨幣形式 (Geldform)
Z量商品A =
U量商品B =
V量商品C =
W量商品D = 2オンスの金 X量商品E =
等々の商品 =
マルクス主義の教科書は、この価値形式の発展は商品生産の歴史的発展に照応しており、貨幣の出現以来、価値形式は 表Dの貨幣形式に位置している、と説明する。ここで仮に2ポンドが2オンスの金の鋳貨名であるとすれば、表Dにおけ る相対的価値形式に位置するZ量商品Aおよびその他の商品の価値は2ポンドという価格で表される、という。 しかし、「素朴リアリズム」に陥ったこのような教科書的説明では、表Cから表Dへの移行に注目したマルクスの理論 的着眼の意義が見失われてしまう。その意義とは、商品が一般的価値形式(皆から見られる鏡)の状態で現れる時は、 決まって、自分自身の相対価値形式(見る権利)を排除しなければならないのではないか、という問いについての考察で ある。この問いに関するマルクスの分析はおおよそ次のようなものであった。仮に、リンネルが等価形式であると同時に 、自身にとっての相対的価値形式であるとしたら、たちまち、「20単位リンネル=20単位リンネル」(鏡が鏡を見る )という奇妙な事態が生じてしまう。このトートロジーの式では、価値も、価値量も表現できない。それらを表現するた めには、表Cは表Dへと移行しなければならない。こうして、等価形式のもとに選ばれ皆の鏡となる唯一の商品(=貨幣 )は、他の仲間(商品)との間に共通なものを持たない、という約束が結ばれる。このような唯一の商品(=貨幣)を 設定ことによって、無限に続く商品の系列は、整理された価値の秩序を構築することになる、と結論する(Money, a measure of all things)。
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非対称性としての「商品」の欲望 -マルクスは金融危機をどのように理解したか?-
冒頭で述べたように、マルクスはパリのアナーキスト達と交流を深める中で、フランス革命後の政治情勢についての記 事を発表し、アイルランド問題に関する論文を精力的に著した。ジャーナリストとしてマルクスは、フランス革命後の ラディカリズムと反動の間に揺れ動く政治の動向を具に観察し、その時事的な関心は「ルイ・ポナパルトのブリューメル 18日」において結晶する。フランスを舞台としたロマン主義的なユートピア社会主義を主題とするこの著作は、アレゴ リカルかつ不透明な文体で書かれているにもかかわらず、パリコミューンの活動家達やジャーナリスト達にとっては、政 治の現実の観察に基づいた政治理論として、実践的な教訓を含んだ本とみなされた。そして、マルクスはその後に著す「 資本論」の中で「ルイ・ポナパルトのブリューメル18日」の問題意識を非常に抽象的な枠内で表現しようと試みる。そ の抽象性は際立っており、「価値」とは何か、という問いについて経済学の枠を超えて探求する、悪戯に衒学的にさえみ えるこの大著はエンゲルスを苛立たせた(ちなみに、現実主義者のエンゲルスは、晩年、社会民主主義とフェビアン主義 、すなわち今日に於けるケインズ主義的福祉国家と一国社会主義の原型、に傾倒していくことになる)。 こうして、マルクスによる画期的な試みとは、「観念論の哲学」と「古典経済学」を、「ロマン主義的ユートピア」の言 説を分析するために必要なメタ言語として位置づけた点にある、といえる。前述した記号を使用して示すと、(P,E) Rという関係が成り立つ場合である。そこで引用されるマルクスの言葉は、「私=私」という哲学的なトートロジーを、 「貨幣=貨幣」という経済学的なトートロジーに置き換え、更には、「王=王」という政治のトートロジーに帰結して いく。ここで、マルクスが想定する「王」とは、自分の喋った言葉しか聞かない支配と権力の論理を意味する。「王」 には他者の承認が不要であることは勿論、そもそも他者の存在を排除しているのである。よって、「王」は、自分自身 が「王」であるという根拠を外の他者に求める事はない。 こうして、「貨幣は一般的な等価形態だから貨幣とされるのではない」、とマルクスは述べる。逆である。貨幣は貨幣 である、この事の故に、貨幣は等価形態となるのである。そして、この論は、王は皆の承認によって王の地位につくので はない、王は王である、それ故に、王は皆の代表となるのだ、という論に対応することになる。 さて、ここで探求しているテーマは「無根拠性」である。では、マルクスは一体何を「無根拠」とみなしたのだろ うか。マルクスは、賃金と選挙権にしか関心を持たないイギリスの労働者の闘争に大きな失望を示したが、フランス革命 を継承するラディカリズムの政治には依然として関心を持ち続け、パリコミューンのアナーキズムとアイルランドの民族 主義に関する重要な論文を発表している。そして、当時のマルクスが直面した課題は、一見矛盾し対立するようにみえる 二つの極、すなわち、普遍主義であるインターナショナリズムと特殊である地域主義(アナーキズムと民族主義)の間 の狭間を埋める、という理論的な探求であった。初期の「共産党宣言」時代のマルクスは、飽くまで、普遍主義のインタ ーナショナリズムが原則であり、地域主義のアナーキズムと民族主義は例外と考えていた。すなわち、マルクスの言葉 を使うと、前者は「王」であり、後者を規定するメタレベルの地位にあった。特殊である地域主義(アナーキズムと民 族主義)は、普遍主義の解釈の枠の中に位置付けられることのみによって正当性を持ち得、その正当性によって根拠付 けられなければならない、と考えていた。つまり、普遍主義としてのコミュニズムと、アナーキズムと民族主義の間には 論理的な階層性が存在するべきである、と固く信じていた。しかし、次第に、このような論理的階層性は本当は存在しな いのではないか、とこの確信が揺らぎ始めるのである。前述した引用文に沿って説明すると、「王」の地位たる普遍主義 は無根拠だ、つまり、特殊(アナーキズムと民族主義)からみると、普遍主義には根拠が無い、と考え始めるのである 。この考察は、結局、普遍性が特殊性と同等である、ということに帰結する。マルクスは、代表する者と代表される者と の間に存在するヒエラルキー(上下関係)を必須条件とする、ブルジョア民主主義に対して否定的だったが、コミュニズ ムと、アナーキズムと民族主義の間にも、このような上下関係は存在すべきではない、と考えたのである。ちなみに、こ のような普遍主義に対する懐疑の方向と、マルクスのプロレタリアートの定義を拡張していく方向(指導される労働者 から、自発的大衆運動を含める定義の修正)とは同じものと考えられる。 ここで、対象を直接に叙述する言語というメタ言語の機能、すなはち、メタ言語の普遍性と対象言語の特殊性という前 提の再考が可能となる。「ロマン主義的ユートピア」を対象言語とし、一方で「観念論の哲学」と「古典経済学」をメタ 言語としてそれを記述した結果、「ロマン主義的ユートピア」を通して自身を翻訳するとき、これらのメタ言語の自身の 本質を表す「無根拠性」が顕現するのである。「王の地位は無根拠である」と語る対象言語は、同時に、「メタ言語 は(メタ言語として)無根拠である」と言明しているのである。
さて、初めに、(1)「古典経済学」が「ユートピア的ロマン主義の政治学」と相伴って、メタ言語を構成し、これら のメタ言語が、対象言語である「ドイツ観念論哲学」の言説に言及した場合を述べた。すなわち、(E,R)Pの場合 。 次に、(2)「ドイツ観念論哲学」と「古典経済学」とがメタ言語を構成し、対象言語である「ロマン主義的ユート
次に、(2)「ドイツ観念論哲学」と「古典経済学」とがメタ言語を構成し、対象言語である「ロマン主義的ユート
ピア」の言説に言及した場合を考えてみた。すなわち、(P,E)Rの場合。 最後に、(3)「ドイツ観念論哲学」と「ロマン主義的ユートピア」がメタ言語を構成し、対象言語である「古典経 済学」の言説に言及する例を取り上げる。すなわち、(P,R)Eの場合。例えば、マルクスは、「セーの法則」と対 置されるマルサス学説の意義を評価したが、特に注目した非対称性の視点について、経済学の領域の外から、すなわち 、「ロマン主義的ユートピア」とヘーゲル的「ドイツ哲学」から探求した可能性がある。また、対象言語である「古典経 済学」の言説の例として、マルクスによる信用と金融危機の分析を以下に引いてみたい。ここで結論を先取りすれば、対 象言語は「遅れ」(延期)の主題を語る。よって、この場合のメタ言語(「ドイツ哲学」と「ロマン主義的ユート ピア」)は、「遅れ」(延期)の主題に関係した言説を表現していると考えられる。
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非対称性としての「商品」の欲望 -マルクスは金融危機をどのように理解したか?-
まず、マルクスによる信用のメカニズムの分析から始めよう。ここで、シンメトリーと非対称性の問題が再び登場する。 商品流通のあるところには、信用という独自の関係の成立が可能となる。買い手の事情によって商品売買に際して貨幣が 商品と交換に引き渡され得ない場合、いわゆる掛売りが行なわれる。その場合、売り手は買い手に対して価格の等価を 貸し付けることになるが、これが信用の最も原始的な形態であり、ここに売り手は買い手に信用を与えるという関係が成 立する。そして、これは商品売買に伴なって生じたものであることから、商業信用という。商業信用は、商品流通を前提 とするため、資本主義生産関係の成立以前でも、つまり単純商品生産のもとでも発生し得るものである。単純商品生産の 場合、買い手は自分の商品を販売(W(商品)-G(貨幣))して貨幣を取得した後に、その貨幣でもって望んだ商品を 購買(G(貨幣)-W(商品))する。つまり、商品は貨幣に転形した後、貨幣から再び商品となる(W-G-W)。こ れは予定調和的な「シンメトリーの世界」であるといえる。前述のとおり、商品の精神は外の世界に飢えており、自分の 限界を飛び越えて無限に遭遇したいと欲する。こうして、商品は商業信用の世界へ移行する必然性を有して、それを形 成する。そこでは、買い手は自分の商品が貨幣となる前に、既に手に入れた貨幣で望む商品を購買(G-W)することが 可能となる。つまり、買い手は、商品の最初の転形(W-G)を飛び越えて、いきなり二番目の転形(G-W)を遂げ てしまうことになるわけである(ちなみに、この商業信用は商業手形を手段として行なわれるが、手形は背後に現実の商 品売買を持つ限り、満期には支払い手段としての貨幣によって支払われ得るものである。ところが手形は金額がまちま ちであり、期限にも長短があるので、その流通範囲は自ずから限定される。そこでこの手形を満期前に貨幣に転形する方 法が発展する。その方法として、手形を満期前に貨幣にするものと、貨幣支払いを約束する銀行手形に化するものとが ある)。 ところで、商品の最初の転形(W-G)の完遂が後の期間中に生じるという信用のメカニズムには、恐慌の一般的、抽 象的、かつ形式的可能性が存在している。何故か。つまり、商品と商品との交換が貨幣を媒介として行なわれている商 品流通(W-G-W)においては、商品と商品との交換が商品の販売(W-G)と購買(G-W)との対立に分裂してい るので、商品を販売(W-G)して得られた貨幣(G)が蓄蔵貨幣となり、つぎの購買(G-W)が行なわれない為に、 交換の相手方は自分の商品を販売(W-G)し得ないということがあり得るからである。また、貨幣が支払い手段とい う機能を営み、掛売りが行なわれるために、最終的債務者の債務の不履行が他の一連の債務の不履行という結果を招くと いうことがあり得るからである。ここに恐慌の発生理由が存する。貨幣における支払い手段としての機能には、このよ うな非対称的な社会関係が反映されている。マルクスの分析によれば、商品交換の体系は、多数の債務が編み出す長い 連鎖であるため、一見自立した諸関係の体系のように現れるけれども、実際それは「延期」された支払いである最初の転 形(W-G)の運命に決定的に依存した極めて脆弱な体系に過ぎない。つまり、貨幣の支払い手段としての機能は、それ 自体、解決できない矛盾を常に抱え込んでいるのであり、原理的には、それは一撃でシステム全体の崩壊を招くような決 定的な矛盾である。確かに、支払いの要求が互いに均衡する(債務同士が相殺し合う)時、貨幣は万事順調に、計算貨幣 として立ち回る。この時、手綱をはずされて自由に循環する貨幣は、現実と権力と人々を皆一緒に、「生きる喜びのかけ らも見出せない強欲な商品世界に変えてしまう」。貨幣は夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しながら目標に接近 した方が効率的なのである。 ところで、夢のメカニズムを分析したフロイトは、「死の本能」の意義に注目したが、ジャック・デリダはこのフロイ トの概念を、多義的な曖昧さを産出していく「遅れ(差異)」という言葉でとらえ直そうと試みた。この点についてサ ルヴォ・ジジェクの平易な解説を援用すると、一見遠回りにみえても曲線に沿って移動した方が、直線に沿って動く場 合と比べて最も効率的になる、という。つまり、迂回こそ、欲望充足のための経済的なプロセスに他ならない。欲望は 、あたかも夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しながら接近した方が、「現実原則」の経済的な要請に沿って効 率的に充たすことができるのである。例えば、文化的昇華という現象は、戦争等の破壊衝動に不可避的に収斂してい く「死の本能」の進行を遅らせるために、欲望があえて選択していく、いわば迂回の戦略である。そして、これと同様 な事が、貨幣において生じる。この場合、「最初の転形」(W-G)は「直線に沿って動く場合」であり、「最初の 転形」の失敗(債務の不履行)は「死の本能」に対応する。そこで貨幣は「一見遠回りにみえても曲線に沿って移動し た方」が効率的になる。(計算貨幣としての)貨幣の欲望は、あたかも夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しなが ら目標に接近した方が、「現実原則」の経済的な要請に沿って効率的に充たすことができるのだ。つまり、これが「 信用」についての文化的分析である。フロイトがいうところの文化的昇華という現象は、資本主義経済における「信用」 の現象に他ならない。「最初の転形」(W-G)が成立しない事は、結局、商品が「リンネル=リンネル」というトート ロジーの式に後退することを意味する。このようなトートロジーは、他者の欲望のために商品を生産することを前提条件 とする交換社会においては無意味なものとみなされる。つまり、これを「死の本能」と表現できる。こうして、「信用
とする交換社会においては無意味なものとみなされる。つまり、これを「死の本能」と表現できる。こうして、「信用
」は、不確実な「最初の転形」」(W-G)、すなわち「死の本能」の進行、を遅らせるために貨幣があえて選択して いく、いわば迂回の戦略と解される。 さて、最初の転形(W-G)が失敗し債務の不履行が生じると、貨幣は流動性の代理として、商品交換世界の中を自由 に循環できなくなるという事態が生じる。その時、たちまち貨幣は社会的労働の単なる個別的な体現、すなわち(価値実 現に必要な)交換から切り離されてしまった只の断片、すなわち単なる普通の商品に落ちぶれてしまう、とマルクスは 述べる。貨幣の支払い手段としての機能に伴なう矛盾は、いわゆる金融危機という形となって顕現化する、産業と商業一 般の危機において深刻な様相を呈するが、このような金融危機は長い支払い連鎖を可能とする人為的な信用システムが高 度に発展を遂げた資本主義にしか生じない。観念的な計算貨幣であった貨幣が、突然、現物貨幣へと変化していく中で 、「不信心な商品達はもはや自身達を貨幣(=神)とみなすことはない」。商品の使用価値は無価値となる、と同時に、 価値そのものの消滅が生じるからだ。欲望を満たすべく商品は外の世界へ見事に旅立ったが、いまやその商品は他の商品 との間に関係を打ち立てる方法を知らないまま呆然と立ち尽くしている。金融危機のもとに深刻な貨幣飢餓が発生すると 、マルクスは文学の修辞を駆使してこのような事態を分析し嘲弄する。「富に酔いしれたブルジョアジーは至上の幸福感 を味わっていたが金融危機に襲われると、突然、貨幣が単なる無益な想像物に過ぎないと宣告しなければならない。確 かに、昨日は商品だけが貨幣だった。しかし今日は貨幣だけが商品である、と訴える。ブルジョアジーの心は、息切れ した鹿が新鮮な水を求めるように、唯一の富である貨幣のもとに殺到するのである。」膨らんだ希望のすべては無意味で 、全く根拠なき幻想に過ぎなかった、と反省するも束の間、今度は現実の黄金を拝みたいとするような偶像崇拝者達が 貨幣のもとに殺到する。金融危機の根本的な問題は、商品に内在する価値(交換価値)としての不可能性、すなわち、 貨幣に依存しなければならない相対的な不安定性に存する。マルクスは、これを「絶対矛盾」としての顕現、と形容して いる。 ところで、マルクスは、「資本論」へ至る重要な手がかりを、「ドイツ・イデオロギー」において既に摑んでおり、「 共産党宣言」を著した時点に比べると、普遍的インターナショナリズムの視点から、ドイツ人がその文化を誇る地域的な 自負心に対して与えた軽蔑の態度は消えており、また、近代に遅れたドイツの後進性を嘲弄する調子も殆どみられない 。「ドイツ・イデオロギー」のマルクスは、経済革命(イギリス)も政治革命(フランス)も経験しないドイツのいわ ゆる「遅れ」に注目し、かえってこの「遅れ」がナショナルアイデンティティーと哲学に結実する文化的昇華の形成に重 要な意義を持っていた、ということを直観的に看破していた。イギリスに起きた1850年後半の金融危機を具に観察し ていたことは確かだが、単なる経済学の研究を通して、この「遅れ」を考察の課題とするに至ったとは考えられない。 そもそも「遅れ」という問題一般に対する関心がマルクスの意識の中に存在しており、これがマルクスに金融危機の問 題について分析させたのではないだろうか。金融危機の問題は契機であり、経済学のボキャブラリーは、この「遅れ」 に対する関心を表現する上で大変都合が好かったのである。つまり、メタ言語である政治学と哲学は、自分自身を表現し てくれる対象言語を捜していたが、それが経済学だったわけである。もし、「遅れ」の問題を表現する上で文学の言葉 が有利であると考えられたならば、マルクスは、例えば「こころ」や「草枕」を書いた夏目漱石のような作家になったは ずである。この仮説は一考に価する。 ここで、永遠の亡命者であったマルクスが、排除の論理を推し進めるようなナショナルアイデンティティー、すなわ ち「シンメトリーの世界」を構成する国家主義に対して批判的であったことに留意を要する。自身を追放することになっ たドイツの国家主義は根本的に相容れなかったし、ブルジョア革命の体裁をとり始めるナショナリズムの展開には警戒を 示し、アイルランドのナショナリズム運動に対しては愛憎交えた奇妙なシンパシーを表している。他方、マルクスは、「 共産党宣言」にみられるような、モダニストに顕著な普遍主義精神の絶対性に対するプロパガンダ的な称賛と憧憬から遥 か遠い地点にいた。イギリスの経済革命とフランスの政治革命はモダニズムの輝かしい開闢を告げた、と同時に、それ らは、進歩という名の下に、死と破壊と戦争へと進行する恐怖の時代の到来を意味した。文化的昇華という現象は、イ ギリスの産業革命とフランス革命においてみられた、破壊的なカトストロフィーを惹起する「死の本能」の進行を遅らせ るために、欲望があえて選択していく、いわば迂回の戦略である。マルクスはドイツ哲学こそ、この文化的昇華に他な らないと確信していたのである。この様な文化的昇華は、夢を絶えず発明しようとして眠り続ける人間の欲望の中に見出 すことができる。「人間」という言葉を「ドイツ人」と置き換えれば、前述の「マクベス」の言葉は、文化的昇華の重 要な意義を見事に表現している。 こうして、マルクスが描いた「ドイツ人」は、シェイクスピアが著した役者のように舞台上に立ち続けるために、「夢 の言語」の発明、すなわち「哲学」の発明を続けなければならない。その発明を止めることは、舞台から立ち去る運命を 導き、それは、死と破壊の領域、言うなれば、「弱肉強食の経済競争」(イギリス)と「反動的な強権政治」(フラ ンス)、が君臨する現実界で目覚めることを意味する。マルクスの精神は、彼が分析した「商品」と同様、外の世界に飢 えていた。変化も運動もない世界である「シンメトリーの世界」、つまり監獄から逃亡したいと欲した。こうして、マル クスは、哲学を絶え間なく発明していくというオブセションに囚われながら、「資本論」を書くべく交通の真っ只中に存 在したのである。
付録1 小説「マルクスを書く」(抜粋)
手紙を書く女
ベッドルームの中。ベッドに横たわるジェニーとマルクス。ジェニーは起き上がり、ベッドから離れ、窓に近寄る。外 からの光を避けるようにカーテンをひいて、ベッドに近づく。カーテンの隙間から漏れてきた僅かな光で浮かび上がった マルクスの身体の輪郭を指でなぞる。腕の外側から手の甲まで人差し指を立てるようにして辿り、指先に至ると自身の指 を軽く絡ませる。それからー。
痙攣的に女を抱きしめ、暗くその眼をみつめる、 恋人よ、苦痛のなかに汝はおとろえ、 われの息吹に汝の身体はふるえる 汝はわが魂をのんだ
汝の情熱はわがものである わが宝石よ、かがやけ かがやけ、かがやけ、青春の血よ 恋人よ、青白き眼差しよ 汝の言葉はなんと不可思議なのだろう 見よ、喧騒のなか われらの民は天上を行く 行こう 恋人よ 行かなくてはならない かがやけ、星よ かがやくのだ 上へ 上へと逃れよう 魂がひとつにかがやく
ささやきの声
と、驚いてあたりをみる
眼差しはほのめく、
彼の眼はうつろにかがやく
恋人よ、汝は毒をのんだ
汝はわれと共に行かねばならぬ
夜のとばりはおり、
再び日を見ることを得まじき
痙攣的に女を抱きしめ、
死を胸に抱く 彼女は深き苦痛に貫かれ、もはや再び眼を開くことはないはずだ。
間。
ジェニー 最近のあなたの原稿には女の身体を表す言葉が頻繁に使われているけれど、それっていったいどういうこと なのかしら。 ドクターフロイト 繊細な羽毛と植物のしなやかさを思い出させる滑らかなフレデリックの肌の感触とは違って、カール のごわごわとした体毛がまだらに密集する、硬物のような単調なリズムの肌から歓びを見出すことが日に日に難しくなっ ていた。時間が絶え間なく流れていくなかで、キャンパスに灰色の絵の具を重ねていくような単調さが、不快感を誘い、 意味の倦怠に導く暴力にさえ変化しようとしていた。外側からなんとか言葉の輪郭を浮き上がらせよう、とジェニーは、 マルクスに向かって自分の瞳に触れてみろ、と囁く。マルクスは請われたとおり、ジェニーの閉じた瞼に軽く触れる。 ジェニー あなたが関心を持っている貨幣には、ぎらぎらと輝く濡れた眼差しがあるのかしら。
間。 マルクス 眼差しだって。それはどうだろう。
ジェニーは怪訝そうに返事をするマルクスの手を取ると、ゆっくりと自分の唇に触れさせる。
ジェニー 紅のルージュをこぼれるくらいいっぱい塗りつけた唇があるのかしら。
スクリーン上に「身体の官能と貨幣とを結びつける奇妙な問い」という文字が浮かぶ。ジェニーは沈黙のなかで取った手 をそのまま下の方へ降ろしていき、自身の胸の膨らみに強く押しつける。当惑するマルクスの力を抗してぐいと引きつけ ると、手を自分の背後にまわす。
ジェニー 胸は。肛門は。黄金の糞便は。 咄嗟に手を引っ込めたマルクスの慌てた様子に、ジェニーは吐き出すように言う。
ジェニー 貨幣について書いているあなたの言葉の中には、女の身体を表す言葉が溢れているのよ。 マルクス そんなはずはないよ。なにかの誤解だ。貨幣のフェティシュなメタファーを書いてはいるけれど、君の身体の ことについては書いたつもりはないよ。
ジェニーはベッドから離れて、机の上のノートを取り上げ、無雑作に開いた頁を彼の目の前につきつける。スクリーン の上に、乱暴に書き殴られた文字のなかに、女の身体と言うよりも、道化の顔、それからペニスや睾丸の形をした幽霊や 亡霊の顔がいくつも描かれている「ドイツ・イデオロギー」の原稿が浮かび上がる。
マルクス(落ち着きを払って)それらは王の身体のメタファーで、ただのいたずら書きだよ。 ジェニー(マルクスと同時に喋る)お金を運んでくるフレデリックが貨幣なんだわ。彼が私達の王よ。妖精、小人、星、 鐘、青白き乙女、童子、小娘、放浪する騎士、これって、みんなあの人の顔なんでしょう。 マルクス フレデリックは、ただ僕に金を払っているだけさ。彼は貨幣でもなければ、王でもない。そして、金は労働の 対価としての報酬で、権利なんだよ。(両手を軽く上げて掌を向けて反論の身振りをしながら)つまり、僕の原稿に、 労働時間に、精神労働に対する、ってわけだ。 ジェニー (考え込むような表情を示す。ベッドの周りをゆっくりとまわる。)それじゃあ、原稿を書き写している私の 労働に対する対価でもあるってことね。それでも分からないのは、あの人が本当は何の労働に対してお金を支払っている つもりなのか、ってことよ。もしかしたら、わたしの身体、いえ、あなたの身体に支払っているのかもしれないわ。いえ 、ヘレンの身体ってこともあり得るでし ょう。(なにかひらめいた様子。悪意の混ざった調子で)いいえ、あの人が欲しいものは何かもっと別のものなんだわ。
ドクターフロイトが退場。
マルクス 別のものって? ジェニー 暗闇。フレデリックには闇が必要なのよ。あなたから暗闇を買おうとしているんだわ。暗闇は自分の内側にう ごめく殺戮の欲望を隠すためのもの。だからあの人には暗闇が必要なんだわ。 マルクス 全く、たいした想像だよ。誰がその手にかけられるっていうんいだい。 ジェニー (声をひそめて)父親。工場主であり、憎むべき支配者であった自分の父親よ。
マルクスはぎょっとしてしばらく黙っている。やがて、このような支離滅裂な話はもううんざりという風に、ジェニー に対して責めるような口調で質問を始める。
マルクス 今度は君が僕の質問に答える番だよ。そのフレデリックから君の清書に関して妙な事を聞いているんだ。
マルクスは、ベッドから立ち上がり机に近づくと一番上の引き出しを開けて、一冊の本を取り出し、そこに挟んであっ た数枚の原稿をジェニーの前に差し出す。
マルクス 彼は、君が原稿に勝手なことを書き込んでいると以前から不平をこぼしていたけど、これを見るまで彼の話が 信じられなかったんだ。でも見てごらん。この落書きはいったい何のつもりなんだい。これじゃ、世紀の論文も、とんだ
贋金造りってもんだよ。
マルクスは顔を背けたジェニーの腕を両手で摑み、身体を激しく揺さぶった後、荒っぽい手つきで再び原稿を取りあげ 、威圧した調子で読み始める。
マルクス 「貨幣は一般的な等価形態だから貨幣とされるのではない。逆である。貨幣は貨幣である、この事の故に、貨 幣は等価形態となるのである。王は皆の承認によって王の地位につくのではない。逆である」ちょうどこの文の下に君が 残した落書きがある。僕はね、ここに「王は王である、それゆえに、王は皆の代表となるのだ」と書いたはずなんだがね 。ところが、一体なんのつもりでこんなことを勝手に書き込んだんだい。「I am not afraid of my subjects! TOOFEEF!BIZDA,
BIZDA, BIZDA」。いったいこれはどういう意味なんだい。何が言いたいんだ。誰が君の臣下なんだい。この前頼んだ手紙 の清書でも同じような不可解なことが起きていたようじゃないか。
マルクスは怒って原稿を机の上に叩きつける。ジェニーは原稿を取り上げると、続きを読み始める。
ジェニー ジェニーはジェニーである。つまり自己自身が自己を権威づけるとすれば、臣下であるカールやフレデリック の承認がなくともこの私は皆の王だ。 マルクス やめろ。やめたまえ。また、例の、オセンチなワニが書いたんだなんて訳の分か らない言葉で弁解するつもりなんだろうけど、君の妄想はもうたくさんだ。僕の癖字や綴りの間違いを直してきれいに 清書するのが君の役目であって、文を作り変えてくれとは頼んだことはないよ。君のばかな書き込みのせいで僕の原稿 は全部ゴミ箱行きだ。とんだ恐慌の始まりだ。
マルクスは何度も首を振る。ジェニーはマルクスをなだめるようとその肩にそっと手をまわす。
ジェニー 身体、財産、魂のすべてを捧げているこのわたしこそが、あなたのほんとうの理解者なのよ。わたしはあな たが書いたものを忠実にただ書き取っているだけ。決して、何も変えていやしない。決して。(マルクスの耳元に口を寄 せて)あなた、まだ分からなくて。本当に、本当に分からなくて。その文はあなた自身が書いた文なのよ。私が書いた んじゃないの、本当にあなたが書いた文なのよ。 マルクス(机を叩きながら大きな声で)馬鹿な、君は狂っている。君の妄想の中に棲んで いるそのワニって奴 をとっ掴まえてなぶり殺してやりたいよ。
借金取りを追い返したエンゲルスが、階段を上がって部屋に再び入ってくる。ベッドの上で腹這いの姿勢でじっと動か ないまま茫然としているマルクスの様子を不思議そうに見つめる。エンゲルスはジェニーの方へ歩み寄ってなにか一言 二言、耳元でささやくと、数枚の紙幣を渡す。
ジェニー あなたの友情には心から感謝します。
ジェニーはエンゲルスに接吻をした後、ベッドに近づき、横たわっているマルクスの身体の上に紙幣をばら播く。マル クスは正気を取り戻し、紙幣をあわただしく集めながら、エンゲルスに向かってなんども感謝の言葉を述べる。
マルクスが退場。
エンゲルス (ベッドの下からイチゴの籠とクッキーの箱を取りだし、その箱を見ながら) 赤い十月のクッキー。なかなか、チャーミングな名前だね。 ジェニー ドクター・フロイトのお店に置いてあるクッキーよ。子供たちの好物なの。 エンゲルス パッケージの可愛い女の子は一体誰なの。
ジェニー わかってるくせに、いたずら坊や。 エンゲルス (パッケージの文句を読み上げる。)「あたしは食べるよ。La em! 赤い十月の工場、昔アイネムだった 所で」。
ジェニー 私を食べないと、お仕置きよ。いたずら坊や。
間。
エンゲルス ふん、くだらないよ。これは生きる喜びのかけらもない商品世界のおしゃべりにすぎないよ。商品世界とい うものには愛のかけらもないんだよ。
ジェニー そうかしら。 エンゲルス 欲求と誘惑がすべてなんだ。商品世界の鏡には人間の抽象的労働が映し出されることはないんだよ。そうだ ろう、クッキーのお嬢さん。 ジェニー でも、労働にも愛は存在しないわ。私はロンドンに来てから、動物のようにただ 生存手段を維持してきただけだった。私の労働に欠けているのは愛なの。そして、カールの労働にも本当の愛がないわ。 彼があなたの幻想の中で生きているかぎり。 エンゲルス まさか。君の夫が僕の幻想の中で生きているだなんて。むしろ、僕の方がマルクスの幻想の中に生きている んだよ。カール・マルクスという偉大な解放のユートピアの幻想の中でね。勿論幻想などではなく、理想というべきだ けど。君は、多分、僕たちの友情を嫉妬しているんだね。僕が君たち夫婦に嫉妬していると同じくらいね。しかし、僕た ちはひとつの塊なんだ。仲間なんだ。ブルジョア的な個人主義に囚われて、ばらばらになってはいけないよ。 ジェニー いいえ、カールはあなたの幻想の中に生きているんだわ。私の夫はあなたの眼差しの中でカール・マルクスを 演じているのよ。神の視野のごとく民衆を見るカール・マルクスの伝説。でも、本当は、鏡にもたれかかったバーメイド みたいにお客に見られている様な頼りない存在なのよ。 エンゲルス カールがバーメイドだって、これは傑作だね。で、誰がお客さんなんだい。 ジェニー マンチェスターの将軍、二十ヶ国語喋る大男にきまってるわ。 エンゲルス ほう、この僕ということだね。もし、そうだとしたら、カール・マルクスはこの僕に、一体なにを給仕して くれるんだい。スコッチ。カクテル。イチゴのデザート。それとも、この赤い十月のクッキーかな。 ジェニー 長い長いお手紙よ。あなたが気に入るような言葉よ、いたずら坊や。 エンゲルス 手紙、言葉、って 、いったいなんのこと。
しばしの沈黙。
ジェニー 執筆のことよ。お分かりでしょう。
エンゲルス 馬鹿な。君は僕たちの友情に嫉妬しているんだ。 ジェニー 執筆のことだけじゃないわ。カール・マルクスという偶像は、あなたの父殺しの罪悪感の代償なのよ。あな たはカールを父親として拵え、カールはその役割を意識的に演じている。幻想が幻想を生み出し、その挙句の果てに、幻 想の中に生きているカールは愚かにも、妻である私をまるで娘のように扱うようになってしまった。みんなこの部屋で茶 番を演じているのよ。 エンゲルス 考えすぎだよ、ジェニー。君の旺盛な空想を少し休ませるんだ。 ジェニー そしてマルクスの息子となっているあなたは、彼の娘となっている私を性愛の対象としている。滑稽だわ。こ の部屋は、鳥か獣同様の近親相姦を生み出している。そうでしょう。あなたの言葉で言えば、原始共産制の共同体って ことかもしれないけれど、そんな幻想はもうたくさん。私が欲しいのは、なんの媒介もない直接的な関係。あなたの愛な のよ、フレデリック。
間。
エンゲルス 愛しているさ。愛しているからこそ、君には真実を告げなければならない。君が語るのはいつも愛ばかり なんだ。確かに、愛は存在していたよ。しかし、君に決定的に欠けていたのは労働だったんだ。その愛に、労働をもたら してくれたのはカールにほかならない。カールのおかげで、君はこの両方を得ることになった。真に人間的な愛を享受 した。だから彼に感謝したまえ。僕たちの理想では、愛と労働とは切り離せない。僕の愛は君だけでなく、労働であるこ の羽ペン、労働であるインク壺、労働である羊皮紙にも及んでいる。労働であるものなら全部愛しているんだ。 ジェニー この私は、羽ペンやインク壺や羊皮紙と同じなの。嘘よ。嘘よ。嘘よ。
エンゲルス ジェニー。 ジェニー ええ、感謝します、感謝しますとも。カールが私にもたらしてくれた労働に。あなたが私たちのためにいつも 運んでくれるお金にも。父親を演じるカールの身体に支払われているお金に。彼の娘を演じる私の身体に支払われている お金に。深く感謝していますとも。 エンゲルス ジェニー、フェアじゃないな。確かに、君の立場はよく理解しているつもりだよ。同情さえしているんだ。 ロンドンの欺瞞的な連中には好きなことを言わせたまえ。 しかし、ブルジョア的家族観を解放するという大きな目的に向かった僕たちの理想は必ず歴史が正当化することになるだ
ろう。人類に対するカールの偉大な知的貢献に僕はお金を支払う。そして、カールの悪筆を唯一判読できる君が清書する 、その労働の対価を求める権利を、君は持っている。だから、僕はそれにお金を支払う。英語の翻訳のために必要だから 。 ジェニー 英語の翻訳ですって。翻訳という建前で、あなたが実際になにを書き込んでいるのか、色んな噂が流れてい るわ。
間。
エンゲルス また、どうせ、ゲルツェンかバクーニンが吹き込んだほら話だろう。ペテン師のアナーキストどもめ。呆れ たことに、バクーニンはスラブ主義の民族主義者達とも手を結んでいるらしいじゃないか。そして、スラブ主義に抗議し て来たゲルツェンが、ゲルマンやケルトの古代の土地所有形態を夢想し始める、といった始末だ。連中は、現実から学ぶ ことがないだよ。とんだアナクロニズムだよ。昔は、一緒にハムステッド・ヒースでピクニックをした仲間だったんだ がね。 ジェニー ゲルツェンもバクーニンも、今だって私たちの大切な仲間じゃない。フレデリック、あなた、すっかり人が 変わってしまったのね。カールが病に伏しがちとなっ て、あのイギリス人夫婦が家に出入りするようになってから、本当に変わってしまったわ。それにあのドイツ人の若者。 エンゲルス(クッキーをムシャムシャ齧りながら)ベルンシュタインのことかい。彼は信頼できる若者だよ。まさか、彼 に対しても嫉妬しているんじゃないだろうね。真面目な議論の相手なんだ。それに、ウエップ夫妻はイギリスでは大変有 名な博愛家だよ。根拠のない中傷には耳を貸したくないね。 ジェニー カールはあの人達にいつも警戒していたわ。危険だって。 エンゲルス ソーホー時代にカールにつきまとったニューオリンズの海賊よりもずっと安全だと思うけどね。ねえ、ジ ェニー、誤解しないでくれたまえ。あくまで、僕の翻訳は、訳す上で必要な正当化できる合理的な解釈なんだ。それ以上 でもそれ以下でもない。つまり。 ジェニー あなたの翻訳って、議会における政党の権力みたいね。翻訳をすることで、あなたがマルクスを代表する。
しばしの沈黙。
付録2 小説「マルクスを書く」(抜粋)
しばしの沈黙。
エンゲルス 権力じゃないよ。信頼関係だよ。確かに、喋りたくないセリフを喋らなければならない役者みたいに感じ るときもあるけれどね。書きたくない事を書かなければならないときはね。しかし結局のところ、カール・マルクスとい う脚本家が書いた戯曲通りに、いつも仕事を進めることになるんだ。つまり、一字一句、なにも変えてはいないんだよ。 ジェニー あなたの考えが反映されている時だけ、なにも変えないのでしょう。書きたくない事を書かなければならな い義務はないわ。書きたくない事を書いて罪を犯すのなら、書かないという選択もあるわ。書きたくないことは沈黙すべ きよ。 エンゲルス ジェニー、よくお聞き。ここはイギリスだ。ジャーナリズムの国だ。沈黙してはならない。イギリス人を説 得するためには、僕たちは絶えず言論に訴えなければならないんだ。思想と言論のマーケットで、カール・マルクスを 流通させなければならない。
ジェニー 素晴らしいわ。 エンゲルス 僕たちの共著「資本論」がベストセラーになる。一ヶ月、いや、三ヶ月、半年と、ロンドン中の本屋の店頭 を飾るんだよ。
ジェニー 素晴らしいわ。 エンゲルス そうだ。ロンドンだけじゃない。パリやベルリン、ニューヨーク、北京、東京と、世界中の都市でベスト セラーになる日がやってくる。「資本論」は「聖書」を凌ぐんだ。翻訳の重要な意義が分かってきただろう。 ジェニー ええ、ええ、素晴らしいわ。エンゲルス著の「資本論」がベストセラーになるのだから。ジェニーはあなたの ためなら、どんなことでもするわ。あなたのためなら何でも捧げたいと思っているのよ。愛しているわ、フレデリック 。あなたがカール・マルクスという本の作者だったことを世界中の人達に告げるべきよ。 エンゲルス 秘密のラブレターのつもりかい。おふざけはここまでだ。マルクスとエンゲルス共著の「資本論」と言い たまえ。
ジェニー いいえ、ジェニーとエンゲルス共著の「資本論」よ。 エンゲルス いい加減にしたまえ。僕の言葉はカール・マルクスが語る言葉をありのままに聞いている。ところが、ジ ェニー、君の言葉は何を聞き取っているんだ。理性の耳を塞いで、唇と歯が好き勝手に暴れているじゃないか。 ジェニー 唇と歯ですって、私のいたずら坊や。 エンゲルス そうだ。唇と歯だ。時にはカールの言葉を愛撫したり、時には噛み千切っている。勝手な事を原稿の中に書 くのはやめたまえ。以前はペルシャ語みたいなおもちゃの文字だったから、その場で削除してしまうことができた。しか し今は、一見カールの言葉を清書した普通の文字で、君の解釈が尤もらしく書き込まれている。字体からでは、時々カー ルのものか、君のものか見分けがつかないときがある。恐ろしいことだ。君の言葉と一緒に夢想家の亡霊が、僕とカー ルの「資本論」のなかを徘徊している。いや、失礼、カールと僕の「資本論」というべきだった。カールと僕は、君たち がでっち上げる解釈に抗議するよ。 ジェニー そうじゃない。そうじゃない。そうじゃない。ゲルツェンもバクーニンもプルードンも一切関係がないの。私 が書き綴った文字に、カール・マルクスが自分の解釈を書き込んでいるのよ。私の文字が搾取されているのよ。私を愛し ているといつも言っているくせに、どうして、どうして、わかってくださらないのかしら。 エンゲルス 結局、君は、ヘレンと全く同じ類の女だ。空想の重力が事実を支配し、そこで真実が曲げられてしまう。 奇妙だ。君もヘレンも、女性達は、解釈を創り出す欲望にとりつかれている。ここは狂気の部屋だ。僕には君たちの欲望 が全く理解できない。
マルクスが登場。
マルクス フレデリック、いつも有難う。 エンゲルス 原稿の前払いと思ってくれるとこちらも気が楽なんだ。ところであの原稿は完成したかい。 マルクス いや、まだなんだ。 エンゲルス ロンドン本部の事務局が早く演説原稿を送って欲しいと催促を始めたから今日中に書き上げてしまおう。 階級闘争における「抑圧する国家」と「抑圧される国家」という、ここのところ僕たちが議論を続けている、例の考え を発表するいい機会じゃないか。 ジェニー (観客に向かって大声で訴えるように)「抑圧する男たち」と「抑圧される女たち」。「搾取する男たち」 と「搾取される女たち」。 マルクス わかったよ。そうしよう。今日中にアイルランドの呪いに片をつけてしまおう。 エンゲルス さあ、ジェニー、本部宛に手紙を書くので、手伝ってくれたまえ。
エンゲルス さあ、ジェニー、本部宛に手紙を書くので、手伝ってくれたまえ。
ドクター・フロイトが登場。
ジェニーはなにも言わずに机に座り、便せんを引き出しから取り出し、用意してペンを取る。ベッドから提案するマルク スの声に耳を傾ける。マルクスは一語一語言葉を選んでゆっくりと話し始める。しかし。ジェニーはいつものように空想 を始めたようである。ドクター・フロイトの無言の指示に従い、ジェニーはベッドの上で仰向けになる。ドクター・フロ イトはジェニーの頭の側に座り、メモを取り始める。
マルクス これが終わったらお茶の時間にするよ、昨日ハムステッドの八百屋で買ったイチゴを皆で食べようじゃないか 。好物のクッキーも買っておいた。 ドクター・フロイト 汚れたしわくちゃのシーツのうえで神聖な儀式のように言葉を紡ぐ男の姿が、あたかも山の頂にお いてモーゼに告げて語る神の姿を連想させる。体毛がところどころ密集する、リズムの単調なマルクスの肌の感触が蘇っ てくる。と、再び灰色の不快なまでの単調さがジェニーを襲い始めた。下山するモーゼは彼の留守の間に異教の神を崇拝 していた民の姿に激怒し、神聖な言葉を刻んだ石版を叩き割ってしまったという。ロンドンにおいて影響力を失って しまったカールやフレデリックの言葉はどうなるのだろうかと想像している。
ジェニーはマルクスの咳払いをきっかけに一気に起き上がる。ドクター・フロイトの制止を振り払う。ペンをしっかりと 持ち直し、気持ちを作業に集中させる。ジェニーの頭の中で言葉がぐるぐると巡る。深い溜息をついて、静かにペンを 置く。
ドクター・フロイトが退場。
ジェニー 確信できない。わたしもカールも、なにも確信していない。ロンドンの暗闇の中に迷い込んだ私たちにはなに もみえてこない。なにひとつ確信できない。
間。
ジェニー フリーダ。
ジェニーはソーホーの友人から学んだ平和を意味する言葉をひとつひとつ思い出し口にする。立ち上がって机から離れ、 窓のカーテンを開けると、射すような白い殺戮の光が容赦なく空間を満たす。ジェニーの発声とスクリーンの表示。
ジェニー frid, paiz, pais, eilene, socair, Brepeoch, Brepuch, beke, Takiya, My、Mir, Dama, berdama, Heddwch, Salom, Salam, Salamti, heping, O peace・・・わたしの言葉はあなたたちの知の下に置かれ、真理の尋問 を受ける。わたしは食肉用の牛みたいに知から、さんざんに測定された後に残された残骸の肉。生きる事から切り離さ れてしまった余り物。眠っている間に連れてこられた不毛な島に打ち捨てられた身体。
マルクスは机の上の手紙を取り上げる。引っ掻き傷のような走り書きが目に飛び込んできて一瞬凍りついてしまう。ジ ェニーの書き連ねた文字は、今までに全く目にしたことのない、とげとげしい筆跡で書かれている。多数の亀裂。手紙 が床の上に落ちる。大きな鏡がマルクスの背後に置かれる。鏡はベッドの前に立てられる。マルクスの背後と観客たちの 姿が映し出される。エンゲルスとジェニーはマルクスに向き合う。バーメイドと客を描いたマネの「フォー・ベルジェー ルの酒場」と同じ構図である。マルクスは自失茫然状態。
マルクス これらを本当にジェニーが書いたんだろうか。 最後の休息
だけれども僕は
ビザンチンの黄金の下
ヒンズーの墓の中・・・ 折り返された自身の欲望の中で たったひとりぼっちになってしまった。
スクリーン表示が現れる。
「BIZDA・・・BABY! MYMOUSE EATING」
マルクス 泣いているのは誰だろう。僕か、フレデリックか。泣いているのはジェニー。 マルクスが退場。
ジェニー 故郷ボンから遠く離れて ロンドンで生きた 直ぐに慣れた 人々の身振りと眼差しに暗闇と煙とに アルコールの中でゆっくりと刻まれる どれもこれも類似した思い出の数々にも 暮らしぶりや、習慣の違いも 不思議に思わなくなった 共通のものを感じた時の喜びが勝った パブに隣接した赤い公衆電話ボックスから 地下深くチューブの中に生き埋めとなった 労働者たちの
棺に向かって
電話線が敷かれて
こっそりと 皆がひそひそ声で話し合っているとしても
お気に入りのアルファベットの図解辞典 最初の頁にはワニAlligatorが 二本足で立っている 子供の時の友達 ベルリンの思い出 道端のあちらこちらに落書きした
子供なのでまだ映画館に連れて行ってもらず 独りで 近所の林(ジャングル)の中をうろついた悔しくて置き去りにした友達の家々の壁に 特大のでっかい奴を描いたりした
ソーホーにあった映画館MARX ワニ狩りの記録映画が上映された 観客の貧しい労働者達は 単調で季節の変化に乏しいこの国にあって、 アフリカの太陽と熱帯の スペクタクルの映画を欲した スクリーンには泥沼から、板をガブリと噛んでいる
グッタリとした動物の死体が
引き抜かれるコックみたいに現れただけ
固定ショットが捉える
なんとも退屈な作業 ボートの方に引きつけてロープを巻き上げていく漁師、横には付き添いの麦藁帽子の女の子の姿がみえる
スクリーン表示が現れる。
「Birdsong for one plus two I like this title.
I read it again!
Birdsong for two plus one
We are rock of the past Rock-Repression-Regression
Let the past pieces where they may
And remember the future With the unending birdsong.
と、なにかが落ちた」 スクリーン表示が現れる。 「Good-bye・・・緑の・・・ワニ・・・」
ジェニー 雨の恩寵を浴びながら裸足で歩き続けた。雲の隙間から陽光がこぼれ落ちても、 その明るさに気づかなかったであろう。地面の若葉が輝いても男たちと女には 自分達の掌の骨しかみえなかった・・・。
墓標に接吻すると、雨粒のせいで血が少しだけ滲んだ。
不安もないし、怖くもなかった。けれども、救いを告げるあのお節介な鐘の音に 邪魔されるのはとても不愉快であった。暗闇の中の自身の声、千人の声と声とが 重なり合ったざわめきのうちに明確な輪郭を失って流れて行ってしまった声。
耳を塞いでその自身の声を聞け。
耳を塞いで自身の声に触れよ。
耳を塞いでその自身の声を聞け。
耳を塞いで自身の声に触れよ。
暗転。
(注)冒頭の詩は、廣松渉訳を参考にした
奥付
非対称性としての「商品」の欲望 -マルクスは金融危機をどのように理解 したか?-
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著者 : 本多敬 著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/owlcato/profile
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非対称性としての「商品」の欲望 -マルクスは金融危機をどのように理解したか?-
「資本論」を著したマルクスについては、「資本主義の悪とコミュニズムの善」を終末論的に説いた預言者としてのス テレオタイプ像が流布しているが、ドイツの社会主義者が形容したように、ルソー、ヴォルテール、ハイネ、およびヘー ゲルを融合させたような人物であり、宗教問題に関心を寄せた青年時代には、当時ドイツを席巻したロマン主義の息吹 のなかで、人類の解放のテーマを積極的に追求したバイロン的詩人とも呼べる素質を発揮している。その後、マルク スは、ヘーゲル左派の哲学者としてパリのアナーキスト達と交流した活動家として知られるに至る一方、フランス革命後 の政治情勢に関する記事を盛んに発表するジャーナリストとして活躍し、更には、アイルランド問題に関する鋭い考察を 著した。このように、マルクス自身が常に多様な可能性の中心に位置したように、その代表的作の「資本論」で展開され た思想も多様な層が織り成す言説空間の中に存在している。この多様な層は、ドイツ観念論の哲学、ロマン主義的ユート ピア的社会主義、そしてイギリス古典経済学が基盤となっており、このような顕著な性格は、「資本論」の書き方そのも のに反映されている。 ところで、近年の金融危機の影響で、「資本論」がドイツ、フランスおよびイギリスで再び脚光を浴び、経済学者と してのマルクスの恐慌を分析する言説が復活しているという。しかし、前述のとおり、マルクスの思想には、経済学の 範疇を遥かに超えた、内省的な哲学的考察や歴史的な政治の考察が埋め込まれている。マルクスの批評精神の真骨頂は 、重力のような経験に引き込まれることのない自由な思考に存するのである。例えば、ゴダールが映画を「思考のため の道具」とみなしたように、マルクスは経済学を「思考の手段」と考えていた。実際、マルクスは古典経済学の視野を 通してイギリスの金融危機の問題を分析したが、そこに留まることなく、言説としての経済学も分析の対象として批評 する必要性を鋭く認識していた。「資本論」第一巻は「価値」の釈義であり、経済学の膨大な学説が書き込まれている。 メタ言語とは、対象を直接叙述する言語に更に言及する一段と高い次元の言語のことを意味するが、マルクスは、「資 本論」の言説の中で、例えば、ドイツ観念論の哲学とフランスのユートピア主義の政治学がこのようなメタ言語として働 くことを意図した。ここで、マルクスがテキストのなかに書き込んだメタ言語の言説を、以下の「マクベス」の台詞の 中で、シェークスピアが役者自身の演劇人としての意義に対する問いを書き込んだことに対応させてみよう。 「あすが来、あすが去り、またあすにもどる。そうして一日一日と小刻みに、時の階段を滑り落ちていく、この世の終 わりに辿りつくまで。いつもきのうという日が、愚か者を、塵にまみれた死の道の方へ照らし出してきた。消えろ、消 えろ、束の間に灯る希望の火よ。人生なんて所詮、彷徨う影のようなものじゃないか。人間というのは哀れな役者に例え ることができよう。自分の出番のときだけ舞台の上で芝居を演じて一生懸命喋るけれども、最終的には跡形もなく消え去 ってしまう。それらは皆、白痴が語るおしゃべりみたいに、騒がしく、すさまじいだけで、なにも根拠がないのだ」。 このシェークスピアの言葉は、当時勃興したプロテスタントに対して、また、反宗教改革のカトリックがプロパガンダ として推し進めるバロック芸術に対しても距離を置いた演劇人の言葉であるが、ここにおけるメタ言語は「エッセー」 のモンテニューの批評精神にも通じる懐疑主義的哲学である、といえる。 これと同様に、マルクスは、ドイツ観念論の哲学とロマン主義的ユートピアの政治学を、経済学の言説を分析するため に必要なメタ言語として位置づけたのである。この関係を象徴的に理解するために、記号を使って表してみよう。例えば 、Pが「ドイツ観念論の哲学」、Rが「ロマン主義的ユートピア主義の政治学」、Eが「古典経済学」を表し、括弧の中 はメタ言語としての、括弧の外は対象言語としての位置を示す、と約束すると、(P、R)Eというひとつの関係を示す ことができる。 ところで、「資本論」は「政治経済学批判」の別名を持つが、この名が示すように、古典経済学がユートピア的ロマ ン主義の政治学と相伴って、ドイツ哲学の言説に言及している箇所がある。前述した記号を使うと、これは(E,R)P と表現できる。例えば、「私=私」という哲学的な関心を、「20単位リンネル=20単位リンネル」という経済学の 言葉に翻訳するような箇所である。この時、マルクスが自身の内省的な哲学の問題意識を経済学的なフレームワークの 中に置き直していることが理解できる。ちなみに、十七世紀のオランダ絵画の中に克明に描き込まれた風景は画家達のオ ブセションであったように、ドイツ哲学の「同一性」の論理、つまり「私=私」の論理は当時のドイツ人のオブセション であった。そして、マルクスは、このオブセションを分析の対象としたが、そのために対象(「同一性」の論理)を直接 叙述する哲学の言葉について更に言及する、一段と高い次元の言語の一つが、イギリス古典経済学であった。ただし、 通常経済学は「商人」とか「商品所有者」について分析するのに対して、経済学がメタ言語として機能するこのような 場合、哲学(ドイツ観念論)が分析の対象となり、メタ言語としての経済学による分析は非常に抽象度が高くかつ表現 豊かな言葉を喋ることが可能となる。一方、このような無味乾燥なトートロジーといえるようなオブセションに対して 、ユートピア的ロマン主義の精神の語りである政治学は、熱い息吹を与えるレトリックの役割を担いつつ、メタ言語と して位置を保つのである。ユートピア的ロマン主義の政治は、通常は「人間」に呼びかける言説であるが、これがメタ言 語として機能する場合、「商品」の言葉に耳を傾けることになり、マルクスはそれらの言葉を理解しなければならない 、と主張する。このようなマルクスの関心と方法は、フロイトが確立した精神分析学の方法を喚起する。フロイトが自分
の夢について語る患者の言葉を分析したように、マルクスは商品が語る欲望の言葉を分析したからである。 ところで、この点に関して、自分が他人の身体の中に在った、と自分の夢を告白したのはデカルトであり、例え狂気の 中の確信に過ぎないとしても、デカルトにとって、少なくとも「考えること」と「存在すること」だけは確かな真実であ った。これと同様に、マルクスが考察の対象とした「商品」は、自分が他の商品の身体の中に在った、という夢を語るが 、ただ考えたり存在したりするだけでなく、「欲望」を持っている(「我考えるゆえに我存在する」、「我他の商品の 身体の中にあると考えるゆえに我交換を欲する」)。このことによって、マルクスの「資本論」は、シンメトリーを破 壊したい(「商品」の)「欲望」の証言を語っている。 では、シンメトリーとは何か。十八世紀のヨーロッパに台頭した理性の時代は、シンメトリーと整合性を重んじ、秩 序立った閉じた世界を憧憬する時代であり、シンメトリーは時代を超えた人間固有の概念とみなされた。日常を観察して みると、皆多かれ少なかれ、「シンメトリーの世界」の中に生きていることが分かる。二つの目、二本の腕、そして、二 足の足然り。楽園のアダムとイブ。モーツアルトの安定したフレーズ。意味するものと意味されるもの。話すことと聞く こと。使用価値と交換価値。これらはすべて「シンメトリーの世界」を構成している。しかし、「シンメトリーの世界」 は基本的に閉じた世界であり、「商品」の眼からみると、狭い共同体の世界に自足してしまった自己同一的なものである 。「商品」の精神は外の世界に飢えている。「商品」は皆、自分の肉眼が見える範囲を越えて遥か遠くかなたに旅立つ欲 望を持っている。「理性の笑み」は心地好い。しかし、それは所詮、安楽な均衡状態である。「商品」はこのような有限 な内部世界に背を向けて、外の無限へ越えて行くことを欲する。「商品」の精神にとって、閉じた世界に安住することは 監獄を意味する。「諸商品の交換が最初に可能となるのは、互いに交易を行おうとする近接した共同体と共同体の間の 狭間においてである」と表されたように、マルクスが書いた「商品」は変化や運動を要求する。つまり、「交通」である 。ところが、「シンメトリーの世界」はこうした自在な「交通」を妨害する敵となる。マルクスは、この閉じた「シンメ トリーの世界」を「トートロージーの論理」と表現している。そして、「商品」が、「トートロジーの論理」、すなわ ち「X量商品A=X量商品A」の等価式を打ち破ることによって、他との関係を表す「X量商品A=Y量商品B」の等価式へと 移行する必然性を説いている。 こうして、マルクスは「資本論」の中で、古典経済学をユートピア的ロマン主義の政治学と相伴なわせることによって 、つまり、非対称性としての「商品」の欲望を批評することによって、「私=私」というドイツ哲学の言説の展開を見事 に分析する。こうして、マルクスによる商品分析はロマン主義的文学の想像力を駆使した言説となるが、従来のマルクス 主義の教科書は、このような想像力に対して無味乾燥で中立的な説明を与えてきたきらいがある。従来のマルクス主義の 教科書は次のような解説を行なう。 価値形式とは、すなわち商品の価値の現象形式を意味する。そして、商品は、もともと使用価値と価値との統一物で ある。従って、商品には、使用価値の形式と価値の形式とがある。前者は、商品の自然的形式であることから、感性的に 認識することができる。一方、後者は、価値自体にはなんら自然的素材が含まれていないために、単独の商品自体につい てはこれを認識することはできない。それが認識され得るのは、ある商品と他の商品との関係としての価値関係において である。例えば、20単位のリンネル=1単位の鉄、というような場合においてである。価値の形式には、自らを表す 側の価値の形式、すなわち「相対的価値形式」と、それが表されている側の形式、「等価形式」との二つの極があるわけ である。リンネルは相対的価値形式に位置し、鉄は等価形式に位置している。要するに、ある商品の価値の現象形態は、 その交換価値において表示される。マルクスは価値形式の発展として、つぎの4段階を挙げている。
表A 簡単な、単独な、または偶然的な、価値形式 (Einfache, einzelne, oder zufällige Wertform)
X量商品A=Y量商品B、 すなわち、X量の商品Aは、Y量の商品Bに価する
表B 全体的な、または展開された価値形式 (Totale oder einfaltete Wertform)
Z量商品A=U量商品B、または=V量商品C、または=W量商品D、または=X量商品E、または=等々
表C 一般的価値形式 (allgemaine Wertform)
U量商品B =
V量商品C =
W量商品D = Z量商品A X量商品E =
等々の商品 =
表D 貨幣形式 (Geldform)
Z量商品A =
U量商品B =
V量商品C =
W量商品D = 2オンスの金 X量商品E =
等々の商品 =
マルクス主義の教科書は、この価値形式の発展は商品生産の歴史的発展に照応しており、貨幣の出現以来、価値形式は 表Dの貨幣形式に位置している、と説明する。ここで仮に2ポンドが2オンスの金の鋳貨名であるとすれば、表Dにおけ る相対的価値形式に位置するZ量商品Aおよびその他の商品の価値は2ポンドという価格で表される、という。 しかし、「素朴リアリズム」に陥ったこのような教科書的説明では、表Cから表Dへの移行に注目したマルクスの理論 的着眼の意義が見失われてしまう。その意義とは、商品が一般的価値形式(皆から見られる鏡)の状態で現れる時は、 決まって、自分自身の相対価値形式(見る権利)を排除しなければならないのではないか、という問いについての考察で ある。この問いに関するマルクスの分析はおおよそ次のようなものであった。仮に、リンネルが等価形式であると同時に 、自身にとっての相対的価値形式であるとしたら、たちまち、「20単位リンネル=20単位リンネル」(鏡が鏡を見る )という奇妙な事態が生じてしまう。このトートロジーの式では、価値も、価値量も表現できない。それらを表現するた めには、表Cは表Dへと移行しなければならない。こうして、等価形式のもとに選ばれ皆の鏡となる唯一の商品(=貨幣 )は、他の仲間(商品)との間に共通なものを持たない、という約束が結ばれる。このような唯一の商品(=貨幣)を 設定ことによって、無限に続く商品の系列は、整理された価値の秩序を構築することになる、と結論する(Money, a measure of all things)。
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非対称性としての「商品」の欲望 -マルクスは金融危機をどのように理解したか?-
冒頭で述べたように、マルクスはパリのアナーキスト達と交流を深める中で、フランス革命後の政治情勢についての記 事を発表し、アイルランド問題に関する論文を精力的に著した。ジャーナリストとしてマルクスは、フランス革命後の ラディカリズムと反動の間に揺れ動く政治の動向を具に観察し、その時事的な関心は「ルイ・ポナパルトのブリューメル 18日」において結晶する。フランスを舞台としたロマン主義的なユートピア社会主義を主題とするこの著作は、アレゴ リカルかつ不透明な文体で書かれているにもかかわらず、パリコミューンの活動家達やジャーナリスト達にとっては、政 治の現実の観察に基づいた政治理論として、実践的な教訓を含んだ本とみなされた。そして、マルクスはその後に著す「 資本論」の中で「ルイ・ポナパルトのブリューメル18日」の問題意識を非常に抽象的な枠内で表現しようと試みる。そ の抽象性は際立っており、「価値」とは何か、という問いについて経済学の枠を超えて探求する、悪戯に衒学的にさえみ えるこの大著はエンゲルスを苛立たせた(ちなみに、現実主義者のエンゲルスは、晩年、社会民主主義とフェビアン主義 、すなわち今日に於けるケインズ主義的福祉国家と一国社会主義の原型、に傾倒していくことになる)。 こうして、マルクスによる画期的な試みとは、「観念論の哲学」と「古典経済学」を、「ロマン主義的ユートピア」の言 説を分析するために必要なメタ言語として位置づけた点にある、といえる。前述した記号を使用して示すと、(P,E) Rという関係が成り立つ場合である。そこで引用されるマルクスの言葉は、「私=私」という哲学的なトートロジーを、 「貨幣=貨幣」という経済学的なトートロジーに置き換え、更には、「王=王」という政治のトートロジーに帰結して いく。ここで、マルクスが想定する「王」とは、自分の喋った言葉しか聞かない支配と権力の論理を意味する。「王」 には他者の承認が不要であることは勿論、そもそも他者の存在を排除しているのである。よって、「王」は、自分自身 が「王」であるという根拠を外の他者に求める事はない。 こうして、「貨幣は一般的な等価形態だから貨幣とされるのではない」、とマルクスは述べる。逆である。貨幣は貨幣 である、この事の故に、貨幣は等価形態となるのである。そして、この論は、王は皆の承認によって王の地位につくので はない、王は王である、それ故に、王は皆の代表となるのだ、という論に対応することになる。 さて、ここで探求しているテーマは「無根拠性」である。では、マルクスは一体何を「無根拠」とみなしたのだろ うか。マルクスは、賃金と選挙権にしか関心を持たないイギリスの労働者の闘争に大きな失望を示したが、フランス革命 を継承するラディカリズムの政治には依然として関心を持ち続け、パリコミューンのアナーキズムとアイルランドの民族 主義に関する重要な論文を発表している。そして、当時のマルクスが直面した課題は、一見矛盾し対立するようにみえる 二つの極、すなわち、普遍主義であるインターナショナリズムと特殊である地域主義(アナーキズムと民族主義)の間 の狭間を埋める、という理論的な探求であった。初期の「共産党宣言」時代のマルクスは、飽くまで、普遍主義のインタ ーナショナリズムが原則であり、地域主義のアナーキズムと民族主義は例外と考えていた。すなわち、マルクスの言葉 を使うと、前者は「王」であり、後者を規定するメタレベルの地位にあった。特殊である地域主義(アナーキズムと民 族主義)は、普遍主義の解釈の枠の中に位置付けられることのみによって正当性を持ち得、その正当性によって根拠付 けられなければならない、と考えていた。つまり、普遍主義としてのコミュニズムと、アナーキズムと民族主義の間には 論理的な階層性が存在するべきである、と固く信じていた。しかし、次第に、このような論理的階層性は本当は存在しな いのではないか、とこの確信が揺らぎ始めるのである。前述した引用文に沿って説明すると、「王」の地位たる普遍主義 は無根拠だ、つまり、特殊(アナーキズムと民族主義)からみると、普遍主義には根拠が無い、と考え始めるのである 。この考察は、結局、普遍性が特殊性と同等である、ということに帰結する。マルクスは、代表する者と代表される者と の間に存在するヒエラルキー(上下関係)を必須条件とする、ブルジョア民主主義に対して否定的だったが、コミュニズ ムと、アナーキズムと民族主義の間にも、このような上下関係は存在すべきではない、と考えたのである。ちなみに、こ のような普遍主義に対する懐疑の方向と、マルクスのプロレタリアートの定義を拡張していく方向(指導される労働者 から、自発的大衆運動を含める定義の修正)とは同じものと考えられる。 ここで、対象を直接に叙述する言語というメタ言語の機能、すなはち、メタ言語の普遍性と対象言語の特殊性という前 提の再考が可能となる。「ロマン主義的ユートピア」を対象言語とし、一方で「観念論の哲学」と「古典経済学」をメタ 言語としてそれを記述した結果、「ロマン主義的ユートピア」を通して自身を翻訳するとき、これらのメタ言語の自身の 本質を表す「無根拠性」が顕現するのである。「王の地位は無根拠である」と語る対象言語は、同時に、「メタ言語 は(メタ言語として)無根拠である」と言明しているのである。
さて、初めに、(1)「古典経済学」が「ユートピア的ロマン主義の政治学」と相伴って、メタ言語を構成し、これら のメタ言語が、対象言語である「ドイツ観念論哲学」の言説に言及した場合を述べた。すなわち、(E,R)Pの場合 。 次に、(2)「ドイツ観念論哲学」と「古典経済学」とがメタ言語を構成し、対象言語である「ロマン主義的ユート
次に、(2)「ドイツ観念論哲学」と「古典経済学」とがメタ言語を構成し、対象言語である「ロマン主義的ユート
ピア」の言説に言及した場合を考えてみた。すなわち、(P,E)Rの場合。 最後に、(3)「ドイツ観念論哲学」と「ロマン主義的ユートピア」がメタ言語を構成し、対象言語である「古典経 済学」の言説に言及する例を取り上げる。すなわち、(P,R)Eの場合。例えば、マルクスは、「セーの法則」と対 置されるマルサス学説の意義を評価したが、特に注目した非対称性の視点について、経済学の領域の外から、すなわち 、「ロマン主義的ユートピア」とヘーゲル的「ドイツ哲学」から探求した可能性がある。また、対象言語である「古典経 済学」の言説の例として、マルクスによる信用と金融危機の分析を以下に引いてみたい。ここで結論を先取りすれば、対 象言語は「遅れ」(延期)の主題を語る。よって、この場合のメタ言語(「ドイツ哲学」と「ロマン主義的ユート ピア」)は、「遅れ」(延期)の主題に関係した言説を表現していると考えられる。
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非対称性としての「商品」の欲望 -マルクスは金融危機をどのように理解したか?-
まず、マルクスによる信用のメカニズムの分析から始めよう。ここで、シンメトリーと非対称性の問題が再び登場する。 商品流通のあるところには、信用という独自の関係の成立が可能となる。買い手の事情によって商品売買に際して貨幣が 商品と交換に引き渡され得ない場合、いわゆる掛売りが行なわれる。その場合、売り手は買い手に対して価格の等価を 貸し付けることになるが、これが信用の最も原始的な形態であり、ここに売り手は買い手に信用を与えるという関係が成 立する。そして、これは商品売買に伴なって生じたものであることから、商業信用という。商業信用は、商品流通を前提 とするため、資本主義生産関係の成立以前でも、つまり単純商品生産のもとでも発生し得るものである。単純商品生産の 場合、買い手は自分の商品を販売(W(商品)-G(貨幣))して貨幣を取得した後に、その貨幣でもって望んだ商品を 購買(G(貨幣)-W(商品))する。つまり、商品は貨幣に転形した後、貨幣から再び商品となる(W-G-W)。こ れは予定調和的な「シンメトリーの世界」であるといえる。前述のとおり、商品の精神は外の世界に飢えており、自分の 限界を飛び越えて無限に遭遇したいと欲する。こうして、商品は商業信用の世界へ移行する必然性を有して、それを形 成する。そこでは、買い手は自分の商品が貨幣となる前に、既に手に入れた貨幣で望む商品を購買(G-W)することが 可能となる。つまり、買い手は、商品の最初の転形(W-G)を飛び越えて、いきなり二番目の転形(G-W)を遂げ てしまうことになるわけである(ちなみに、この商業信用は商業手形を手段として行なわれるが、手形は背後に現実の商 品売買を持つ限り、満期には支払い手段としての貨幣によって支払われ得るものである。ところが手形は金額がまちま ちであり、期限にも長短があるので、その流通範囲は自ずから限定される。そこでこの手形を満期前に貨幣に転形する方 法が発展する。その方法として、手形を満期前に貨幣にするものと、貨幣支払いを約束する銀行手形に化するものとが ある)。 ところで、商品の最初の転形(W-G)の完遂が後の期間中に生じるという信用のメカニズムには、恐慌の一般的、抽 象的、かつ形式的可能性が存在している。何故か。つまり、商品と商品との交換が貨幣を媒介として行なわれている商 品流通(W-G-W)においては、商品と商品との交換が商品の販売(W-G)と購買(G-W)との対立に分裂してい るので、商品を販売(W-G)して得られた貨幣(G)が蓄蔵貨幣となり、つぎの購買(G-W)が行なわれない為に、 交換の相手方は自分の商品を販売(W-G)し得ないということがあり得るからである。また、貨幣が支払い手段とい う機能を営み、掛売りが行なわれるために、最終的債務者の債務の不履行が他の一連の債務の不履行という結果を招くと いうことがあり得るからである。ここに恐慌の発生理由が存する。貨幣における支払い手段としての機能には、このよ うな非対称的な社会関係が反映されている。マルクスの分析によれば、商品交換の体系は、多数の債務が編み出す長い 連鎖であるため、一見自立した諸関係の体系のように現れるけれども、実際それは「延期」された支払いである最初の転 形(W-G)の運命に決定的に依存した極めて脆弱な体系に過ぎない。つまり、貨幣の支払い手段としての機能は、それ 自体、解決できない矛盾を常に抱え込んでいるのであり、原理的には、それは一撃でシステム全体の崩壊を招くような決 定的な矛盾である。確かに、支払いの要求が互いに均衡する(債務同士が相殺し合う)時、貨幣は万事順調に、計算貨幣 として立ち回る。この時、手綱をはずされて自由に循環する貨幣は、現実と権力と人々を皆一緒に、「生きる喜びのかけ らも見出せない強欲な商品世界に変えてしまう」。貨幣は夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しながら目標に接近 した方が効率的なのである。 ところで、夢のメカニズムを分析したフロイトは、「死の本能」の意義に注目したが、ジャック・デリダはこのフロイ トの概念を、多義的な曖昧さを産出していく「遅れ(差異)」という言葉でとらえ直そうと試みた。この点についてサ ルヴォ・ジジェクの平易な解説を援用すると、一見遠回りにみえても曲線に沿って移動した方が、直線に沿って動く場 合と比べて最も効率的になる、という。つまり、迂回こそ、欲望充足のための経済的なプロセスに他ならない。欲望は 、あたかも夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しながら接近した方が、「現実原則」の経済的な要請に沿って効 率的に充たすことができるのである。例えば、文化的昇華という現象は、戦争等の破壊衝動に不可避的に収斂してい く「死の本能」の進行を遅らせるために、欲望があえて選択していく、いわば迂回の戦略である。そして、これと同様 な事が、貨幣において生じる。この場合、「最初の転形」(W-G)は「直線に沿って動く場合」であり、「最初の 転形」の失敗(債務の不履行)は「死の本能」に対応する。そこで貨幣は「一見遠回りにみえても曲線に沿って移動し た方」が効率的になる。(計算貨幣としての)貨幣の欲望は、あたかも夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しなが ら目標に接近した方が、「現実原則」の経済的な要請に沿って効率的に充たすことができるのだ。つまり、これが「 信用」についての文化的分析である。フロイトがいうところの文化的昇華という現象は、資本主義経済における「信用」 の現象に他ならない。「最初の転形」(W-G)が成立しない事は、結局、商品が「リンネル=リンネル」というトート ロジーの式に後退することを意味する。このようなトートロジーは、他者の欲望のために商品を生産することを前提条件 とする交換社会においては無意味なものとみなされる。つまり、これを「死の本能」と表現できる。こうして、「信用
とする交換社会においては無意味なものとみなされる。つまり、これを「死の本能」と表現できる。こうして、「信用
」は、不確実な「最初の転形」」(W-G)、すなわち「死の本能」の進行、を遅らせるために貨幣があえて選択して いく、いわば迂回の戦略と解される。 さて、最初の転形(W-G)が失敗し債務の不履行が生じると、貨幣は流動性の代理として、商品交換世界の中を自由 に循環できなくなるという事態が生じる。その時、たちまち貨幣は社会的労働の単なる個別的な体現、すなわち(価値実 現に必要な)交換から切り離されてしまった只の断片、すなわち単なる普通の商品に落ちぶれてしまう、とマルクスは 述べる。貨幣の支払い手段としての機能に伴なう矛盾は、いわゆる金融危機という形となって顕現化する、産業と商業一 般の危機において深刻な様相を呈するが、このような金融危機は長い支払い連鎖を可能とする人為的な信用システムが高 度に発展を遂げた資本主義にしか生じない。観念的な計算貨幣であった貨幣が、突然、現物貨幣へと変化していく中で 、「不信心な商品達はもはや自身達を貨幣(=神)とみなすことはない」。商品の使用価値は無価値となる、と同時に、 価値そのものの消滅が生じるからだ。欲望を満たすべく商品は外の世界へ見事に旅立ったが、いまやその商品は他の商品 との間に関係を打ち立てる方法を知らないまま呆然と立ち尽くしている。金融危機のもとに深刻な貨幣飢餓が発生すると 、マルクスは文学の修辞を駆使してこのような事態を分析し嘲弄する。「富に酔いしれたブルジョアジーは至上の幸福感 を味わっていたが金融危機に襲われると、突然、貨幣が単なる無益な想像物に過ぎないと宣告しなければならない。確 かに、昨日は商品だけが貨幣だった。しかし今日は貨幣だけが商品である、と訴える。ブルジョアジーの心は、息切れ した鹿が新鮮な水を求めるように、唯一の富である貨幣のもとに殺到するのである。」膨らんだ希望のすべては無意味で 、全く根拠なき幻想に過ぎなかった、と反省するも束の間、今度は現実の黄金を拝みたいとするような偶像崇拝者達が 貨幣のもとに殺到する。金融危機の根本的な問題は、商品に内在する価値(交換価値)としての不可能性、すなわち、 貨幣に依存しなければならない相対的な不安定性に存する。マルクスは、これを「絶対矛盾」としての顕現、と形容して いる。 ところで、マルクスは、「資本論」へ至る重要な手がかりを、「ドイツ・イデオロギー」において既に摑んでおり、「 共産党宣言」を著した時点に比べると、普遍的インターナショナリズムの視点から、ドイツ人がその文化を誇る地域的な 自負心に対して与えた軽蔑の態度は消えており、また、近代に遅れたドイツの後進性を嘲弄する調子も殆どみられない 。「ドイツ・イデオロギー」のマルクスは、経済革命(イギリス)も政治革命(フランス)も経験しないドイツのいわ ゆる「遅れ」に注目し、かえってこの「遅れ」がナショナルアイデンティティーと哲学に結実する文化的昇華の形成に重 要な意義を持っていた、ということを直観的に看破していた。イギリスに起きた1850年後半の金融危機を具に観察し ていたことは確かだが、単なる経済学の研究を通して、この「遅れ」を考察の課題とするに至ったとは考えられない。 そもそも「遅れ」という問題一般に対する関心がマルクスの意識の中に存在しており、これがマルクスに金融危機の問 題について分析させたのではないだろうか。金融危機の問題は契機であり、経済学のボキャブラリーは、この「遅れ」 に対する関心を表現する上で大変都合が好かったのである。つまり、メタ言語である政治学と哲学は、自分自身を表現し てくれる対象言語を捜していたが、それが経済学だったわけである。もし、「遅れ」の問題を表現する上で文学の言葉 が有利であると考えられたならば、マルクスは、例えば「こころ」や「草枕」を書いた夏目漱石のような作家になったは ずである。この仮説は一考に価する。 ここで、永遠の亡命者であったマルクスが、排除の論理を推し進めるようなナショナルアイデンティティー、すなわ ち「シンメトリーの世界」を構成する国家主義に対して批判的であったことに留意を要する。自身を追放することになっ たドイツの国家主義は根本的に相容れなかったし、ブルジョア革命の体裁をとり始めるナショナリズムの展開には警戒を 示し、アイルランドのナショナリズム運動に対しては愛憎交えた奇妙なシンパシーを表している。他方、マルクスは、「 共産党宣言」にみられるような、モダニストに顕著な普遍主義精神の絶対性に対するプロパガンダ的な称賛と憧憬から遥 か遠い地点にいた。イギリスの経済革命とフランスの政治革命はモダニズムの輝かしい開闢を告げた、と同時に、それ らは、進歩という名の下に、死と破壊と戦争へと進行する恐怖の時代の到来を意味した。文化的昇華という現象は、イ ギリスの産業革命とフランス革命においてみられた、破壊的なカトストロフィーを惹起する「死の本能」の進行を遅らせ るために、欲望があえて選択していく、いわば迂回の戦略である。マルクスはドイツ哲学こそ、この文化的昇華に他な らないと確信していたのである。この様な文化的昇華は、夢を絶えず発明しようとして眠り続ける人間の欲望の中に見出 すことができる。「人間」という言葉を「ドイツ人」と置き換えれば、前述の「マクベス」の言葉は、文化的昇華の重 要な意義を見事に表現している。 こうして、マルクスが描いた「ドイツ人」は、シェイクスピアが著した役者のように舞台上に立ち続けるために、「夢 の言語」の発明、すなわち「哲学」の発明を続けなければならない。その発明を止めることは、舞台から立ち去る運命を 導き、それは、死と破壊の領域、言うなれば、「弱肉強食の経済競争」(イギリス)と「反動的な強権政治」(フラ ンス)、が君臨する現実界で目覚めることを意味する。マルクスの精神は、彼が分析した「商品」と同様、外の世界に飢 えていた。変化も運動もない世界である「シンメトリーの世界」、つまり監獄から逃亡したいと欲した。こうして、マル クスは、哲学を絶え間なく発明していくというオブセションに囚われながら、「資本論」を書くべく交通の真っ只中に存 在したのである。