「残念ながらわが国にはヒットラーがいなかった」と丸山真男がいうように本当にそれほど日本の戦争は誰が始めたのか不明なのか?

「残念ながらわが国にはヒットラーがいなかった」と丸山真男がいうように本当にそれほど日本の戦争は誰が始めたのか不明なのか?

超国家主義の論理と心情」(「世界」1946年)では天皇制を分析する。天皇制は、自由な意識主体を前提とした独裁とは異なるという。天皇を中心にした同心円の中心から離れるに従って、「上からの圧迫感」は下位のもので移譲され、抑圧の移譲によって「精神的均衡が保持」される。ウルトラ国家主義として軍国日本を捉え、その統治と実態を「無責任の体系」と評した。しかし「残念ながらわが国にはヒットラーがいなかった」と丸山真男がいうように本当にそれほど日本の戦争はだれが始めたのかわからないのか?だれが日本ファシズムと戦争に導いたラジカルな国体論を推進したのかは明らかではないか。スケープゴートとして北一輝とか大川周明にあまりにも全部を押し付けてしまったのではなかったか?たとえば天皇機関説を反故にした憲法学者かと国家神道を推進した官僚たちの責任を見逃してしまったのである。▼日露開戦を煽った七博士・東京帝国大学教授にさかのぼるが、穂積 八束は美濃部達吉らが主張した天皇機関説に対し天皇主権説を唱えた。上杉慎吉は、「天皇即国家」「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」「現人神」とする立場から同じく天皇機関説を批判、上杉の教え子の中には、内務省特別高等警察に務める者も少なくなく、1930年代から敗戦に至るまで、治安維持法に基づく国民の弾圧・粛清を行った。また『国体の本義』1937年(昭和12年)に、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。▼こうした日本ファシズムを遂行した連中がいたのに、丸山真男超国家主義の言説のせいで、見逃したかもしれない。だから安倍みたいな歴史修正主義者が現在でてくるのを許しているのではないか!?いまからこれだけはいっておくよ。神道を非宗教化する、憲法21条改定のせいで、天皇と総理大臣の靖国公式参拝をみとめること、そしてこの祀る国家のもとで自ずと祀る国民になることは、事実上国家神道の復活をもたらし、戦う国家への道を準備することなるが、この推進者たちが安倍自民党日本会議の連中であることをはっきり覚えておこう。「日本の思考様式」とやらで、このひとたちが犯すことになる戦争責任を、安倍の戦争に反対するわれわれの責任に広げないでほしい!(この問題は子安宣邦「大正を読む」(早稲田大学での市民講座)で扱う予定でいます、関心のある方はどなたでもおいでください)

 

結論; 講座派言説(前近代的な日本近代)を包摂した丸山真男の思想(前近代の主体を欠いた思考様式)からは、自由な意識主体を前提とした独裁のような、「残念ながらわが国にはヒトラーがいなかった」とさきめつけられる。日本の全体主義と戦争を誰が始めたかを明らかにしないから、現在歴史修正主義者達が戦前からやってくる