2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧

映画マルクス・エンゲル

監督の1968年をどうみるかという視点がいかに、1840年代に反映されているのか?映画は、フェミニズムの演劇が先行しなければ、イェニーにマルクスが意見を求める場面をもたなかっただろう。経済革命なき政治革命には、政治革命なき経済革命にもまた、青年マ…

常に解体されていくトータルな現れ

‪トータルな現れを自らの視界において思考した哲学は大切なことを語りました。この哲学をよく考えるためには、それを語った廣松渉その人を思い浮かべなければよいのです。(そうでなければ、「何々でなければ人間に非ず」という人間主義のエリート性に絡み取…

ジョイス『ユリシーズ』

‪挿話<ペーネロペー>では、身体の損傷は外敵に攻撃された共同体の損傷の表象です。ジョイスがそこに人間としての復活を書いたモリーの声は、起源の言説に定位しているならば、共同体の破壊(政治的災害)を推進した近代の問題の解決を再び近代に委ねてしまうこ…

アイルランドの国民投票

アイルランドは、ファンダメンタルの権威に絡みとられた政治問題としてあった、中絶の権利を国民投票でみとめた。それまでは北アイルランドに行く必要があった。今回のことは女性の自己決定権に関わることだけではない。市民が市民としてあるあり方が問われ…

ジョイス『ユリシーズ』

『ユリシーズ』は英国植民地都市ダブリンを物語っている。マーテル塔を舞台にとった挿話テレマコスのなかで、リベラルは自分達を<独裁>の側にいるとみなすのをやめてくれと言いたいようである。彼らが依るイギリスはリベラルの第三項がある故に、<民主か独裁…

「ゲーム」としての漢文訓読法

‪いいとしなのに、学びはじめた子供の時みたいに、漢字を読めないでいる。嗚呼、意味を取れず漢字を見ている、月に一度そういう日がある。‪考え方によっては、はじめて漢字を見た。この際、漢文訓読法は、「ゲーム」とデリダが呼ぶものとわたしは考えてみよ…

未来を思い出せない部屋ー1968の「侍女たち」

‪未来を思い出せない部屋ー1968の「侍女たち」五十年前は、王であったサルトルは追放されて学生と市民の方にいる。(フィルムをいれわすれた)撮影中のゴダールを街頭でみつけた。さて実際はこの部屋のバルトをはじめ人物たちの視線はバラバラである。そのなか…

‪『ユリシーズ』の鬼神論

‪『ユリシーズ』の鬼神論 ジョイスにおける系列ー 神父の死、母の死、パディ・ディグナムの死、フィネガンズウエイクの死。そしてダブリン赤線地帯の電話線で地底の棺に繋がれた蓄音機が魂の消滅を遅らせる差異と生成。フランス革命における死んだ過去の衣装…

ゴダール

‪「人生で最も大きい苦痛は、夢が醒めたとき、行くべき路がないことです」(魯迅)。目覚めは死。だから夢を発明し続けなければならない。背後から光が物語を殺戮してくる暗闇をもたなければ、ゴダール映画が問う、スクリーンの白紙の本としての意味ー先ず思考…

ゴダール

昨夜は『ザ・ガーデイアン』誌のレビュー記事を読んでいたら、ゴダールが中国で受けていることを知った。理由はわからない。ゴダールは、現代アートの他者とのコミュニケーションを確立しようとする<反表象>と伝統(過去の映画)を重んじる<表象>との中間に彼…

プロパガンダ研究 ー <image | deconstruct | Meiji Restoration 150 > ‬

‪‪ <image | deconstruct | Meiji Restoration 150 > ‬ 聖徳絵画記念館の作品はそれぞれ、建築と人間の関係を表現した視点をもっている。どれも文を説明しているためにあるような絵だ。『教育勅語下賜』(1890)の説明を読んでみよう。これによると、「『教育勅語』とは、全315文字からなる国民道徳の基礎を説</image>…

ゴダール

フェースブックはおわった、イメージブックがはじまる

小さな悪

‪「忖度による行動には忖度する側の利己的な思惑ー小さな悪ーがこっそり忍び込む」という「悪」を前に、もし今日仁斎が生きていたら、孔子の『政は正なり』を以って、現在の虚偽にまみれた為政者に向けて突きつけるだろう。全体主義的な支配の悪にNo! 対自的…

安倍内閣支持率が三割より下がらない理由

‪安倍内閣支持率が三割より下がらないその理由を自分なりに考えると、イラク戦争に遡ることで、公共理性の、しかし道徳論なきリベラリズムの政治討論は、原理主義の魔術的活動(ナショナリズム)の自由を許してきたのではないか。間違いをおそれずに敢えて言う…

名づけること

当然のこととして、‪『ユリシーズ』(ジョイス)には現代世界に存在しない古代ギリシャの神々にかかわる名がある。意外にも、『名づけられないもの』(ベケット)にも架空の土地の名があったりする。『映画史』(ゴダール)は、プルーストが反復させる女の名のよう…

このもの

人類普遍の方向から、共同体に意味ある形で、他者が存在しないものの<oo性>に名を与える行い。彼方との関係をもたぬとき此方がやっていけなくなる彼方性を「このもの」と呼ぼう</oo性>

<image | deconstruct | Meiji Restoration 150 >

‪ 「樺太国境画定」(1906ー1907) プロパガンダの作品は、それ自身簡潔している抽象というか、読み解くべき過剰がないところにプロパガンダのプロパガンダ性(増殖性)があるのだろう。あたり前といえばあたり前だが、厄介なのは、プロパガンダ作品を批判的に相…

Godard ゴダール

le monde était lá映画の歴史でなければ投射できなかったものとは、映画が<映画をみる人間>を発明するとそれ以降、人間はスクリーンに先行するもの、その外部にあるものを思考の形式を以てしかみることができなくなったという歴史である。暗闇に形而上学が呟…

"太陽神の牛"『ユリシーズ』

‪Deshil Holles Eamus ‬ ‪"太陽神の牛"(『ユリシーズ』)が好きだと言っていたルーマニア人がいた。トリエステで出会ったが、奥さんが妊娠中らしい。”太陽神の牛”は産婦人科病院を舞台としている。ブルームはピュアフォイを見舞い、そこで医師ディクソンに誘…

資本主義が根本的に失敗している理由

資本主義が根本的に失敗している理由を問う言葉がなくなった。資本主義は排他的に、ひとつの時制、ひとつの言説しかもたないからではないかー <現在化された未来>と<現在を正当化して解釈した過去>と<現在の現在>である。言説<資本主義>のもとでは、それは、…

『こことあそこ』(ゴダール、1972

『こことあそこ』(ゴダール)は、「ここ」で誰が「あそこ」のために考えるのかと問うた。「ここ」は表象の限界だ。表象は表象できないとき、世界中の「ここ」が「あそこ」を盗む

ジョイス『ユリシーズ』

始まりと終わりがあるという前提だが、『ユリシーズ』が書き始めるのはマーテル塔から。あの形は、『朱子語類』における思考の優先順位としての形而上学的円(理=大極)か?冗談で、6月16日まで読んでみるか‪重々しく、肉づきのいいバック・マリガンがシャボン…

‪ <image | deconstruct | Meiji Restoration 150 >‬ ‪‪

‪ <image | deconstruct | Meiji Restoration 150 >‬ ‪‪ 「凡そ世(世界)になりとなる(生々)万物(人は更なり、禽獣虫魚にいたるまですべて有生のたぐひ)尽く、皆道によりて生り出づ(道のことは下にいへり)。道ある故に、世にある万物は生り出たるものなり。」「いきとしいけるもの(生活するもの)皆、道を行ふ</image>…

MEMO

これほどとはおもわなかった。最初から問題にすべきだったのは、「憲法の超自我」の現前などではなく、どんな倫理的非難をうけても退くことがない「安倍の超自我」の怖るべき不在 漫画はちょっとなあ。また『政談』より『弁名』が面白いとおもっている。しか…

「良い独裁もある」...!?

「良い独裁もある」...!? 現在公に向かって、何という恥知らずでグロテスクな教養知が喋っているのだろうか?日本ジャーナリズムの一部から発せられているというこの種の発言は、政治的災害から逃げることを非難してきた言説の現れであるかもしれないのだ…

‪存在しないものがあるとは何か? 地上世界にいながらいつも上よりも上を仰ぎ見る。 上の上をもたなかったら 外部が成り立つことがなくなってしまう。 水面からもっと下を見るのも 底の底をもたなかったら外部が成り立たぬ。 外部世界が奪われた。 内部の内…

読書感想文の十代

‪読書感想文の十代とはなにか?高校生にとっての「国語」の教科書は、特別なもので、多分いまもそういう感じだとおもいますが、精神の形成にとって不可避的にあるのだろうと考えています。文学を読む課題が与えられることが特別なことなのです。なぜ読めない…

クーデターとテロリズム

‪クーデターとテロリズムの間に理念的差異があるのだろうか?あるとしたらそれはどういう言説を構成するのだろうか?クーデターは、詩の過剰な神話性と比べられるような、起源を表象しながら内部に深くむかっていく言説を生み出す、欲望の動きにみえる。陰険…

三つの思考

‪世界の非知化。直進的進行から語りかけられることも、知識に到達することもない世界の曲面化‬壁に掛けられた絵画が隠蔽しているが、思考の自由は、壁にたいして、映像を見る主体の傍らにおいて存在する、見ることができない、同じ大きさの平面との関係にあ…

福沢諭吉

‪古典ギリシア語とラテン語、または古代の漢文をよく読めために、近代言語は自らの関係を再構成していった。この仮説について、もし理解できなければ、ヨーロッパに生活しようとしたとき(日本で学んだ)自己のヨーロッパ語との関係のことを考えてみたらどうだ…