書くこと 1000−1100

1、オデュッセウスはトロヤ落城後、さらに10年にわたって各地を放浪した。わたしも10年ぐらい海外にいた。東京に帰還して?10年間の勉強が大事だった。『古事記』を読んでいる

2、動植物を表現した北方神話とかケルト神話ね、ワグナーのオペラを楽しむぐらいの知識しか私は知らないが、王は詩人であり僧侶階級と一体となっているという政教一致のイメージがある

3 政教一致について考える


戦後の宗教ナショナリズムは、イスラム教国などは、政教分離の近代を受け入れてはやって行くことができないという主張です。戦後は違いますが、明治維新政教一致でした。神道が宗教ではなく自らを憲法の上に立つ国家として主張しましたが、現在も安倍応援団の日本会議ではその戦前とおなじ主張をそのとおりに喋っています。

神道は元々は儒家神道でした。街頭で鈴を鳴らして人々に色々と反省をするように説教したのです。おみくじにその痕跡があります。ところが宣長が考えたことは、神を心の外に置くことでした。そうして祀られる神が成立しました。わたしたちのように心の中の神との対話を行うものは、靖國参拝みたいにみんなに祈りを見せびらかすというのは恥ずかしく感じます。

ヨーロッパはイスラムとの関係を作るために新しい普遍主義を模索していますー極右翼に足を引っ張られてますが。ヨーロッパのわたしの友人たちは、政教一致の文化(インドとか)を理解しようと一生懸命勉強していました。

間違ったことをいうかもしれませんが、こんなに天皇大好きな国民です、やはり政教一致の国なんだろうと思います。しかし大事なことは、天皇から、戦前にもっていた一切の政治権力を奪いましたー死者を支配する権力も含めて。そうして民主主義と両立してきた戦後の経験についてイスラムとヨーロッパは注目してもいいと思います。神話は国家である主張をやめて憲法のもとに成立する一宗教であることを自覚しなければいけません。余計な話かもしれないですが、孔子ブッダ、またキリストは国家祭祀を止めることを主張していった思想家たちです。


厄介なのは「民族」です。「民族」というのはドイツ語訳で、井上による種族という生物学の影響のある訳もあったようですが、大正時代に「民族」の語が成立しました。そういう意味では、問題がたくさんありそうな後期水戸学は、民族の語を知りませんでした。軍国主義の復活と国家祭祀を認める解釈改憲を前提に、日本会議と安倍が推し進めているのが、皇室に依存しない天皇教で、これは民族ナショナリズムのことです。

象徴天皇制の成熟を期する声がありますが、わたしはアイルランド帰りの共和主義者ですから、天皇を廃止すべきだと思います。京都に帰ってもらって、天皇博物館の世襲館長をやっていただくのがよいです。しかし廃止すると、こんなに天皇大好きの国民ですから、天皇を返せと叫ぶウルトラナショナリズムが起きる心配があります。ただ、能力があるのに女性だからといって天皇になれないのはすごく不平等だと思います。国会議員の異常な少なさとか、日本は女性の知性を破壊するものが多すぎます

le vrais cinéma était celui ne peut se voir

真の映画とは、見ることのできない映画だった。収容所の映画は存在しなかった。

真の映画が映画史の認識に介入する。

敵基地攻撃の防衛なんて、弱い国がやる復讐だよ。日本も北朝鮮にあったら中国から自由でない影響のもとにおなじことをするでしょう。強い国ならば海に落ちるミサイルを許す。知性のある国ならば無視する

フランス現代思想とか言っていた日本ポストモダンが空になっちゃったのは、エクリチュール論を中国から切り離したこと、また倫理学を中国の歴史から切り離したことによる

差異は存在する。差異が無いものはない。そうして70年代からポストモダンの学者的議論は、差異消去の近代主義から生まれた全体主義totalitarisme と近代批判のファシズムの差異を明らかにしてみせた。丸山真男近代主義がとらえることができなかった、近代主義天皇ファシズムと、国家と死が互いに切り離しできない絶対的保守主義とは別の見方を打ち出した脱近代の平田篤胤の政治神学との差異を考えなければいけないー 安倍政治を終わらすため


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10 原理主義者の支持を受けたトランプが最高裁に送り込んだ裁判官たちが女性自己決定権を否定している。これは政治問題である

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12 得票率2%を越えなければ、社民党は政党の要件を失うのか!?社会民主主義の政党を潰してきた国民は現在、そのツケを払っている。権利の無い社会になってきた

13 貨幣とは何か?

貨幣論をめぐる言説は宗教的である。貨幣は神か?貨幣は商品では無いと考えたらどういうことが言えるか?そのように貨幣は商品世界の外部からきたと考えたときは、外部の痕跡を残したまま超越性をもつことを誤魔化さなければいけない。他方で貨幣は商品であると考えたらどんなことになるか?貨幣は地上世界を覆っている商品世界の内部からきたと構成した場合は、救済者として受け入れられるのは、貨幣はほかでもない商品だからである。

14 東京帰還の年、芝居小屋で渡辺一民氏からチラシを手渡された市民大学講座「20世紀の精神」に行った。スターリニズム批判とポストモダンを語った。帝国批判の21世紀の精神は何か

15 平田篤胤だけではない。映画監督も救済論を言う人がいる

16 ゼウスとダナエ

イタリア人の友人が言うには、ギリシャ神話は神々は性的な欲望を追いかけてばかりだという。ベルルスコーニの時代のカネが何でもモノを言う政治腐敗に対する怒りが反映された見方かもしれない。日本神話の神々が協力して光を与える太陽神を岩戸から出したという話に関心していた。へえーそうなのかなとわたしは半信半疑で聞いた。しかし日本神話は理解されるのである。世界神話のなかのギリシャ神話と古事記はなにを伝えるのか?

17 オイディプスの悲劇

オイディプスの娘アンティゴネは彼と共に生きる。ギリシャ神話に伝えられていたことはすでにエジプト神話において語られていたというが、エジプト神話は神の裁き(罰)を受けても生き延びる人間を知らなかった

18 国家(最高裁)は、女性の身体のある部分は女性に属するが、生殖に関する部分はトランプの共和党(=父)に属することを教えているということですが、まるで女性の身体の上に大きなナイフで引き裂かれた戦場の境界線があるようです。この分割は受け入れることができません。今日女性が他者として尊敬されるようになった、日本でこのことを考える意味ですが、この分割に抗議できなければ、自分に都合よく女性を尊敬しているだけで、女性を尊敬しているとは言えないのではないかと思うのです、自身への反省を込めて

19 思考の線である絵は、卑屈な線、臆病な線、勝手気ままで乱暴な線も加わったほうが面白いのではないか。革命から排除される、卑屈さと臆病、横暴もかくの如き思考の形を表現するから

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異端者たち


嗚呼、またあちらで呟きがはじまった。

いきなり光は外部からやってきた。

光が夜を打ち砕くのは背後からである。

しかしその光が外部の痕跡を残しながら

超越性を確立できるものだろうか?

否である。

いくら光と超越性とが均衡しても不安定なままである。それでは光は救済できない。

そうして異端者が認識に介入することになった。

光と闇の交換を物語った。

夜が沈黙の拡がりをともなって世界を浸すのである

そもそも闇は地上世界を覆い尽くしたところからきたので、

闇の救済者を死者たちは受け入れることができるのである。

闇の入り口は至る所にある。

こうして聖なる火が国家の理性と共に包摂しても、光を支えるのは民の側における至高な闇である


21 わたしは三木清がいう絶対的な伝統主義者でありたい。絶対的保守主義に抗う異端の思想をもつ市民である。アナキストのようには国家からの独立を求めないが、「一人ひとりマイノリティ」であるような自立が大事だとおもう

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23 クロノスカルテットの来日は18年ぶり。ニューヨークのセントラルパークでやったdifferent trainsは衝撃を受けた。ダブリンのベケットがいた高校でも演奏を聴いた

24 思想を作ったりせずにまた思想を自分のものにしようとしないひとたちが、言論の自由のことは盛んに言って激しくこれを求めるのは、思想の自由を実現できない代償の如きものにみえる

25 朝起きてみたら、言いづらいことですが、われわれはすべてのことが馬鹿げていると感じているのではないでしょうか

26 神と天皇との連続性を言う絶対的保守主義を序文にもつ『古事記』を読み解く文献学者•本居宣長の仕事を通じて、言語支配者ー他者ーの言語のなかに日本語が発見された。

27 読めているかわからない私の理解だけれど、アポロン的なものが一度確立してしまうと、それを否定できなくなるが、アポロン的なものの中でそれとは別のものが生まれる。他のものが力である。ポストモダンニーチェの力を差異として考える。「強さのペシミズム」とは過剰さのことか。「ニーベルングの指環」のヴォータンは、神は人間のように矛盾を持つことができないと言う。神は同一性の反復である。他方で差異としての矛盾は過剰さである。文献学者ニーチェはドイツ精神の復興をみたギリシャ悲劇を読み解きながら、構造に還元できない、絶えざる差異の運動をもつものを表象してこれを言語と呼んで、かくの如くギリシャ語が存在することを言語の存在として発見した

28 日本思想史の考えでは、古代の国家日本は<嫌韓>の成立と共に誕生した。戦争の大陸との間に境界線を作った。<嫌韓>を終わらす為には移民的国家の文化多元主義を制作するほかない

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30 『西欧哲学史』のラッセルのマルクス主義を救済論をもつ宗教として分析したのは読ませるが、カールポッパーと同様、反証の精神もなく何でもかんでも喋り出す主観の知に対しては警戒した

31 ヨーロッパは学のある人でも日本も憲法があると伝えると吃驚でした。そんななのに、中には日本は憲法を要らないと言うものもいます。私は困惑しました。しかし彼らはアジアを語る知の権力をもっているのです。その知は、われわれが有り難がっている人文科学の知の成立と共にあるのです。そこで人間は500年前にぐらいに現れました。ニーチェは「神は死んだ」と言ったときは、「神」は人間を意味していました。こういうことは、近代の終焉が始まった1970年代から議論されることになりました。

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33 レニ•リーフェンシュタールは初めて五輪に祝祭を表現した。市川崑の五輪は肉体のレンズ化。東京五輪映画はスポーツは極右翼政治家を不可避とするナショナリズムであることを示した

34 大国主神ここに在るあそこ。『霊の真柱』の平田篤胤では大国主神による幽政は天皇の顕政に従属するとされていたが、『古史伝』は、此世は「寓世(かりのよ) で、「幽世(かくりよ)」こそが「本世(もとつよ)」であるという。天守教の影響が言われる篤胤は宗教を神話的に理解した

35 ルーベンスの絵にハリウッド映画を発見できると絵画史では言われます。この場合、発見とはどういう意味でしょうか?本居宣長は『古事記』に古代日本語を発見しました。

36 デレクジャーマンはヴィットゲンシュタインの映画を作った。テリーイーグルトンが脚本の原アイデアを書いたようだ。映画の中で、ヴィットゲンシュタインは哲学する為にロシアに行くと師ラッセル告げた。師はオックスフォードから離れることをやめさせようと彼に説得した。「ロシアではおまえみたいに働かない奴は銃殺だぞ」。今度はヴィットゲンシュタインはアイルランドに行きたいと師にいう。「何しにアイルランドへ行くんだ?」、「働くためにです、哲学で」、「冗談言え!あそこの国は、働くと言いだすと、飲んだくれの連中に殺されちゃうんだぞ」

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論語』はかくも短く書いてあるのはどうしてだろうか?その目的は、東欧の文学が検閲を避けるために非常に読めない文で書いているのと同じだとおもう。『論語』のかくの如く一見政治的主張が無く平易に書く狡猾さのおかげで、儒教知識人を弾圧してきた皇帝権力をいきぬくことができたのではないか。

儒教は他の宗教と違って、義憤を認めているから、「ロシアはけしからん」とするのはいいが、ロシア憎しでは、プーチンに負かされている。熱狂の中で日本はロシアの徳を壊す軍国主義と同じになっている

38 ゴダールがあえて映画の死を宣言したのだが、この意味は映画の霊魂は映画と共にあっても、また離れていても、生きることだった。現にこうして映画について語っているではないか

39 FWのジョイスアイルランドの霊魂を書いた。それはアイルランドと共にあろうと、自分の決めた亡命者によってアイルランドから離れても生きている。至る所にHCEの徴が

書くこと 900ー1000

1、ガリレオは正しいことを自由に言わせてくれと主張したが、社会契約説は王権神授説に対して間違っても自由に言わせてくれと言った。日本は契約論が統治の根拠しか意味を見出せないが

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アボロジニーの歌は土地の情報をもっているらしいのですが、地図を見ないアイリッシュもそんな感じではないかとメディア研究の教授が話していました。どんなに遠いところも人に尋ねて行くのです。前近代的なものなのか、測量と地図によって植民地化を進めたイギリスにたいする反発なのかわかりませんが

在英アイリッシュのロック歌手は、「犬とアイリッシュはお断り」という張り紙がドアに貼られていた1950年代に、公園で死んだ祖先のために歌うと言っているのがいました。

オーガスタ・グレゴリーなんかのテーマがあります。アイルランド人は政治的抑圧から解放されたとき忘れていた歌を歌うことができるというものです。『ライジング・オブ・ザ・ムーン』はオーガスタ・グレゴリーの戯曲。 アングロ・アイリッシュの関係を考察する政治劇です。 1907年アイルランド国立劇場によって最初に制作されました。 これは、ジョン フォードの「月への昇華」の「21」のエピソードの基礎となっています。映画をご覧ください。ちなみに、「静かなる音」を制作したフォードはアイルランドIRAだった祖先探しのためにIRAに800万円を払いました。


アボロジニーの歌は土地の情報をもっているらしいのですが、地図を見ないアイリッシュもそんな感じではないかとメディア研究の教授が話していました。どんなに遠いところも地図を見ずに人に尋ねて行くのです。こては前近代的なものなのか、増税するために測量と地図によって植民地化を進めたイギリスにたいする反発なのかわかりませんが。

アイルランドの歴史で大切なのは、70年代の「血の日曜日事件」です。イラク戦争のときに米軍は当時の英軍がIRAに対して行ったと同じような過剰評価をイラクのゲリラにやっていると抗議したのは、U2でした。Good Friday におけるU2の影響力はだれも認めるでしょう。イラクは遠い国で政府は米軍に食料供給をしていただけでしたが、10万人のordinary people が爆撃されるイラクの人々のことをおもっておもわずダブリンの街頭に出ました。establishmentを確立させたイースター蜂起もこれほどの人間の数を知りません。結局米軍のイラク爆撃は止められませんでしたが、アイルランドの政治は政権交代と同性愛の大統領が登場するなど一気に民主化しました。元々は草の根運動であったシンフェインはポピュリズムの政党として、既成政党を批判するこの動きを利用して特にリーマンショック以降、議会に台頭してきました

芸術史はポストモダン的には、芸術の語られ方を作るものである。芸術は実体としては存在しない。芸術史の成立は、芸術が批評の中に存在し始める17世紀から。世界は外へ行く

思考可能性(社会契約論と社会主義)に、思考不可能なもの(復古主義昭和維新?)。これからは憲法を活かした文化多元主義の移民的国家観を思考せずば、絶対的保守主義

映像が先行する。死体が動物に喰われ無いようにと兵隊が埋葬する何というヒューマニズム。しかしその野獣は何処から来るのか?一国社会主義の完成態である皇帝の台座から

スターリンヒトラーとの独ソ不可侵条約によってナチス化した。東欧活動家達を処刑した。ドイツとの戦争に勝っただけなのにこれを神話化してウクライナ=ナチスを侵略している

ポスト構造主義の成立は、ヒトラーとの独ソ不可侵条約スターリンナチス化を知りながらハンガリー動乱までスターリンを支持したサルトルへの不信感とともにあった。思想界においてそのポスト構造主義の終焉が生じているのは、絶対的保守主義と共にスターリニズムに共感をもつ者が多くなって来たからではないか

9 宣長『直毘霊』は天地陰陽的な聖人の道の中国文明からの自立を求めた思想闘争が展開されている。天皇の天下を治める道による近代日本の成立の過去を良いとする現在は絶対的保守主義

10 連休中に新作の映画を五本観たのに、ゴダール気狂いピエロ』を見なかった。横浜でやっているらしい

11 昨日は五反田の喫茶店でオペラをDVDで聴きまくっているらしい男性が隣にいた。3時間は途切れず喋っていた。音楽を聴く自分を愛しているような人の話を聞くと私はほんとうに安心する。日本人というのは絶えず自身の豊かを否定して孤立しているものだから。伝統をゼロにした日本近代の罰だろうか

12 ロシアは世界一民主主義がない国と言われますが、デモをTVで見ていると日本よりよほど自由にやっています。警察主宰の自ら秩序化するデモの中は外よりも言論の自由が無いです

13 プーチンほど人間性に溢れた顔をした者はいません。ウクライナに抽象的な平和主義を求める人々の誰よりも高く、ウクライナの真の平和を望んでいるでしょう。ジェノサイドです

14 負の互酬であるヘイトスピーチはアジアを覆っています。それを最初にやったのは、日本の安倍晋三です。文在寅ではありませんよ。日本メディアはプーチンみたいに嘘をつくな

15 カントとヘーゲルの間に揺れるときは、わからなくなる。アジアの倫理観「隣どうしを大事にしよう」へ行く

16白井氏は、これからの日本思想史を背負う学者なので無視できません。彼は、中国からみた、アメリカから独立できない日本の精神の従属のあり方を論じておられるようですが、思想史をみるとややっこしい話で恐縮ですが、実はその中国からの見方も日本人が作ってきたことがあります。その点を私は考えてみたいと思うのですね。日本人の精神の従属は外部無しで日本人の内部で語ることができるのだろうかと

17 思想史は親不孝の始まり。絶対に完全な考え方は存在しないことを呈示する。思想家が語ることを深読みする必要がない。言説史とは思考と思考不可能なものとが並べる方法である。思考不可能なものが思考となって、そこから思考不可能なものとなったものと向き合う

18 ナダルとの間に共通がないように見えても、ラケットを少しゆっくり又は少し早めに振れば、ボールはネットに引っかからず外へ出ない。力の及ぶ範囲と力の及ばない範囲には壁が無い

19 ナショナリズムはダブリンとロンドンとでみたし、今日東京において目撃しているけれど、倫理学の知、知識人、民族主義、戦争の<関数>みたいなもんだ

20 体制の違いを無視して経済だけを話しあった日中国交回復。北京から帰った父は言った。「50年は持たない」。現在われわれはどんな中国とどのようにアジアを作るのか全く分からない

21 帰国後は木のお風呂に入れなかった。学徒出陣で中国へ行った京大出の叔父さんが私をお風呂を入れてくれる役割だった。手榴弾で焼けただれたその裸を普通に思っていた。本物の太平洋戦争は<事変>とされた偽物の日中戦争を証明を与えた。米英開戦のとき中国の日本兵は喜んだという。叔父さんはどう思ったか。叔父さんの本棚が母屋の一番奥の薄暗い廊下にあった。京大時代の経済学の本がある。高田保馬を取り出してこれを読むとだんだんわけがわからなくなってくる。「超克」という上滑りした言葉が彼方此方に出てくる。と、僕達の課題はアングロサクソン経済学とマルクス主義を超えることだったと叔父さんは言う。近経とマル経を両方勉強しておけというような話ではないらしい

22 今こそ過去の戦争について考えましょう。靖國神社の博物館に行くと、日中戦争は日華事変です。中国と戦争した反省をしない日本人はそれは事変とされた偽の戦争だったからです

23 香港、枢機卿や歌手ら逮捕 国安法違反の疑い


24 この歳で、オリジナルな思想をつくろうなどとは思わないのは怠け者かも。だが思想家をどう解釈するかという解釈の仕方に自己の思想がある。ポストモダン的にはそういうこと、すいません

25 わたしはドビュッシーがすきだ。天の音楽だ。わかっているのだ。しかし聴き入ってしまってほかのことがなにもできなくなる。天に向かって脱出する線を引かなければいけないのに

26 慰安婦像はそこにある限り、国家犯罪の存在、民族殺戮の怒り、人類に対する犯罪を日本国家がいかに取り組むのかを考えることができる。われわれの傍らにいるものといったら少女像。人間と勘違いしたわたしなんか横にいたこの模造品に芝居の感想を聞こうとした

27 原発運動と一緒にやっていた公害反対運動の現場では「事故が起きるとしたら福島だ」と言われていました。当時わたしは公害運動で酷い負け方と孤立を経験して、反原発運動にかかわる気力も体力もありませんでした。ですから、福島のときは、自分が安全神話に抗議しなかった自分に抗議するつもりで反対の声をあげました。戦争については、わたしの20代は中曽根首相の戦争神社と言われる靖國公式参拝があったのですが、だれも抗議しなかったような異常な世代が現在社会の中心にいます。これから少しづつ日中戦争のことについて書こうとしているのは、20代のときに自分に対する抗議があります。

昔は、総評の顧問弁護士をやっていた労働法教授から、原発の問題は原発労働組合が取り組むのだから、お前みたいなやつは黙っていろと言われました。

数年前に、組合の研究機関の人が、われわれの日本思想史の講座にやってきたのですが、「自分への抗議」のことを話すと、それはくだらないと言われました。原発を止めたら北海道の人々は冬を過ごせないのだぞと。そういう人達のことも考えなければいけないと。エネルギー供給の責任をもつ立場からの物言いですね。

たしかに、止めたら困る人達も存在するでしょう。

そんなわたしの「自分への抗議」などは私的なものに過ぎないでしょう。「公」(国家)の立場がエネルギー供給の責任者にとって大事です。しかし、その時は言い返せなかったのですが、私のものは、宗教的と言われるかもしれませんが、「天」と結びついているのではないでしょうか。事故も起きたのですし。そこまででなくとも、くだらなくとも、少なくとも、倫理的であるとおもっているのですが。

日本は、市民を公(国)と共に存在すると考えるようですが、ほんとうは、天と私において成立するものではないかとおもうのです。

これからは、国体ではなくて、天体。天の身体は自然

28 明治維新170年の「国体」よりも、『仙境異聞』の寅吉の二百年の「天体」をいわう。<天>と<私>の間の関係を、<公>(国)が奪うことはできない。天の身体は自然

29 単純に、「アメリカけしからん!」とおもえばいいし、「ロシアはけしからん!」でいいのではないですかね。デモのときに人数が増えるように媒介なく単純であることも大事

30 アメリカけしからん!」、「ロシアはけしからん!」、「拡大EUはけしからん!」、「中国はけしからん!」。必然として、彼らに支えられている「日本が一番けしからん!」

31 春秋時代辛亥革命の後の短い期間に中国は真に自由な思想の議論があった。辛亥革命に介入した北一輝は「東洋共和主義」を提唱できた。中国論をめぐる言説は北から始まる

32 春秋時代以来、辛亥革命後の短い期間に中国は真に自由な思想の可能性があった。量子力学の記す世界の如く総てが他の見方をもつ言説空間になった。しかし近代化するほど思想の可能性がなくなっていった。近代主義は思想の差異化の運動にたいする全体的回復として現れた。その近代は差異を全否定する文革をもたらす。と、考えてみたらどういうことが言えるだろうか。開発と技術と同化はどんどん進む、ポストモダン中国の無政府的な差異化の運動にたいして、今日独裁者習近平の体制が成立している。天安門広場前抗議日付を記憶から消そうとする独裁者の思想の自由に対する抑圧は頂点に達したが、日本よりも思想的議論があることはたしかだ

33 今日も中国の語られ方をつくった北一輝について少し書く。中国革命論で表象されるのは明治維新。彼を語る過剰な文学的語りがあるけれど国家主義団体黒龍会から中国に送り出された人

34 北一輝は宋教仁のお陰で辛亥革命の中心にいてそれを経験することができた。民主化が進まない挫折した上からの近代化である明治維新を語る言葉はそれとは別の言葉ー中国論を語る言葉において語られる。社会主義は国家に託される

35 香港は英国の植民地にされてはいたとはいえ、香港は今日の中国に対する抵抗を為す自由の観念を発展させたのだろう。香港の裁判所は英米法だった。大学時代に、法の支配の番人である、戦前の米国最高裁判事の判決文を読んだら、何が法であるかを発見した文が透明性の無い秘境的•儀式的エクリチュールで、これが英語なのかラテン語なのかフランス語なのかわけのわからない文だった

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37 判例法主義のイギリス法にはどんなに遡っても法は同じとする神秘主義と言わざるを得ない原則がある。実際には司法的決定の変更が起きるし五百年前より昔の法を読むことも困難らしい

38 海外は2年間は新聞を読まないとその国がわからないと言われる。2年間読めば見出しだけで何が書かれているかわかるようになるだけだ。過去の戦争をどう考えるのかは分からない

39 問題を起こしているイスラエルを非難したらナチス支持者の烙印を押されることほど怖いことはない。イスラエルについて批判的に発言できるのは相当な知識人であるとうかんじがする

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絶対平和主義からすれば成程、ロシアもウクライナも戦争しているということになる。だけどロシアの謝らなければいけない戦争とウクライナの謝る必要がない戦争はおなじものではない

日本人は中国にたいして行った謝らなければいけない侵略戦争を謝らないでいる。アメリカが行ったアジアへの侵略戦争にたいして行った謝る必要がない戦争をずっと謝っている

41 イギリスは多元主義へ開こうとするポストモダン倫理学と知識人の関係も、スペイン市民戦争の市民を支持したマスコミの戦争にたいする見方もはっきりしていた。だが宗教論が難しい

42 ポストモダン的には、西欧が思考できないイスラム祭政一致のことを語るのは別の文化圏である日本の言語かもしれない。憲法を活かした国家祭祀の禁止だけが日本のアイデンティテイ、ここから文化多元主義の移民国家(実際に、政府が明らかにしようとしないアジア人との結婚の現実がある)。これはヨーロッパもイスラムも注目するかもしれない。しかし皇統の連続性の絶対的保守主義に絡み取られてしまってはなあ

43 日本新聞の社説とか投稿欄では無いことだが、ヨーロッパ新聞の人気コメンテーターの文を読むと、500年前に言及する。こういう現在を、どう見るだろうかという物言いである。逆にいえば、500年前より昔の見方が真っ暗の中にあるとも言える。近代は500年前の17世紀にできたのだ。日本では江戸の成立である。

44 日本人を狂わす「万世一系」の観念を批判した北一輝天皇主権の民主主義を考えた吉野作造よりよほど左翼的。現天皇践祚の儀式は皇統の連続性の観念である絶対的保守主義。やめろ

45 馬鹿め、こんなことも分からないのか、と心の中で笑うのも、幸せのために、自己の力の範囲を超えることのないあり方か。大切なことが言われているのに知らなかった自分を恥じたほうがいいか。色々なひとの話を静かに聞くことは大事だとおもう

46 これから日本の主流となる、絶対的保守主義とは、安定してさえいれば、皇統が連続している過去の日本がよかったとする見方である。天皇の道を変えるな、だ

47 三権分立とは、国会が自分の仕事をする権利ー審議ーを政府が妨害することを許さない。安倍内閣憲法53条の臨時国会の召集要求に約3カ月間応じなかったことは三権分立に反する

48 イギリスには日本国憲法のような書かれた憲法が無いのはどうしてか?

法の言葉

判例法主義の英国法は幾ら遡っても法は同じとする神秘主義と言わざるを得ないような原則に支えられている。実際は司法的決定の変更が起きる。法は法が何であるかを発見すると同時に自らを隠蔽しなければいけない。それが、法を体系化してしまうと得られないような、法の安定性を与えるやり方。連続性の原理主義化を行うとすれば声を住処にするほかないだろう。体系は法の起源化である。

49 安定してさえいれば、皇統が連続している過去の日本がよかったとする絶対的保守主義で、しかし現実は変化しているのでかえって不安定になならないか?極右の声に翻弄され続ける

50 光と暗闇との共存をめぐる言語の論理的展開とそれを生と死との共存として受け入れることができるか。このギャップを隠蔽するものこそ、平田篤胤の幽顕の命名の芸術ではないか

51 知識人の先祖崇拝(鬼神論)といったら本当に変な話だが、無神論マルクス主義との思想闘争としての意味はある。テーマがフリール芝居”Aristocrat”では、プロテスタント系貴族に扮したカトリック人がプロテスタントの祖先が作った歌を合唱する。これも対立する住民たちの地域紛争の解決のイメージなのだ

52沖縄戦のこと、経済的自立を妨げる基地集中の苦しさ。何への復帰か?琉球の囲い込むことができぬ海への復帰でなければいけない筈だ。だが東シナ海の環境は全く違ってきてしまった

53 今日も北一輝についてちょっとだけ書く。革命の現場にいた北は中国革命の<語られ法>を作ったといえる。孫文翻訳語の米国連邦制ではなく中国の歴史と自治に基づくべきだとした

54 日本人は現代中国にたいしてヨソヨソしいが、ずっとそうだったわけではなくて1910年代はヨソヨソしくなかった。神田は記憶している

55 プーチンをみると、ルートヴィッヒが正しかったのです。彼を監禁し監視することになる大臣たちからすると、ルートヴィッヒ王の予算の使い方が異常だとされましたが、しかしビスマルクの大ドイツ時代にたいして、戦争の国家にならないように、芸術の国家のあり方を考えていたのではないでしょうか。

56 レヴィストロースの近親相姦の禁止は自然か文化かとデリダは問うたが、皇統の連続性は非連続性ー分割できる全体性ーの禁止である。それは生命的自然か文化かどっちなんだろう

57 多分われわれがやらなければいけないのは思考の平面としての中国の表象を作ること。その平面においては、単純に、中国と日本とは違いに隣同士である

58 Fellini est plus grand que le cinéma 

付け加える言葉は無し

59 ヨーロッパになろうとしてヨーロッパから受け入れられないって話ね、ロシア文学の<語られ方>。そこにはどうしておれたちはコピーでしかないんだという劣等感のことが言われるが、ヨーロッパ人はどうしておれたちはオリジナルでしかないんだというタイプのコンプレックスがポストモダンの時代に出てきた

60 起源をもつ話ーわれわれは何処から来てどこへ行くのかーは、ポストモダンの時代は、非難されることになった。しかしポストモダンは終わるかもしれない。近代批判はもう雑誌に登場することはないし、フェースブックでも語られることはないのである。絶対的保守主義の幕開けである

61 思想空間とは距離の言語化である。それは自然科学の言語ではないから、裏側に、吉本隆明が言うような党派的なものがある。逃げれない嫌になる

62 今日も少しだけ北一輝について書く。北は、天皇主権の民主主義を批判していた。私の見解ではあるが、この点に関しては吉野作造よりも左翼的だった。昭和維新は取り上げる価値のないくだらないもの。しかし北を左翼か右翼かと言う必要がないと思う。北は中国の語られ方をどう作ったかを考えるのが子安先生の本を読む私の構成です。革命中国に過剰に託した「愚島人日本」は問題があったが、かくも中国がどうして大切かといえば、日本の民主化は中国の民主化がないと成立しないからだ。今日も中国の民主化を要求するためには日本が自ら民主化しなければならない

世界民主主義の確立がなければ、来年は第三次世界大戦かもしれない

63 世界民主主義の確立がなければ第三次世界大戦かもしれない。世界民主主義の確立はその後になるのか?日本の方向はわれわれ自身ー天皇制近代国家の過去をよしとする絶対的保守主義


64 ジョーナリズムは叫ぶ。学者は真理を認識する。思考の柔軟性が働く、叫びと認識とのあいだの領域があるはずなのだ。文学的語りが占拠できるのはここではないか

65 国家中心主義である必要がないといい始めた1970年代のポストモダンを理解するためには、ドレヒュス事件からはじめるべきだとわたしは考える。1870年から、近代は国家を作るために排除すべき国家に属さない他者を必要としなければいけなかった。「ユダヤ人問題」とは国家が「他者」の語られ方をどう作るかの見方の問題である。近代国家は排除すべき他者を「ユダヤ人」と命名したのであって、そもそも「ユダヤ人」は実体として存在すると考えるべきではない。さて近代批判のポストモダンが終わる日本の主流は天皇制近代国家を良しとする絶対的保守主義になってしまうようでは、この見方を批判的に相対化する視点がなくなるので、嫌韓も反中もやめることができなくなる


アイルランド人ほど差別を受けてきた民はないのですが、アイルランドは独立したとき、そのナショナリズムによって、ユダヤ人コミュニティーを絶滅させてしまうのですね。アイルランドは独立できたかと言うと、政治的に独立しただけで、経済的に独立できません。そうすると、女性に対する二重の搾取が起きてきました。女性は国家アイルランドを支配するものに搾取されるし、アイルランド国家の中においても民族主義から搾取されるのです

詳しくか必要があるでしょうが、絶対的保守主義は差別の原因です。わたしは差別とは思想問題であると思いますから、人々が市民の思想を持てば解決できるのではないかとおもっています。


66 戦争犯罪人の遺伝子をもつ吸血鬼は、現在増殖中。安倍は政治の信念が無いし、アジアへの共感もなく、本当に台湾の為を考えているのではなくただ反中の立場から言及しているだけ

67 明治維新の国家民族主義のリアリズムと神の皇位の連続性の神話とは均衡しても不安定である。戦前を繰り返すな。それではやっていけないイメージを作るのは芸術家だし、依拠できる世界民主主義の言語を語るのは知識人だ


68 ロシアから亡命するひとの話はどんどん出てくる。ウクライナから避難したいひとの話があっても、亡命したというひとの話はまだ聞いたことがない


日本は政治亡命が起きない国だから、ほんとうのところ、プーチンが支配するロシアの体制を理解できないのではないか..

69


70 中国文明からの自立を考えた宣長の絶対的保守主義は注釈学的に正統的に構成されていても、救済論の不在が昭和10年代の近代天皇制国家の死と国家と結びついた事実は私は受け入れることができるだろうか。否、やはり受け入れられない。和辻が異端とした篤胤の救済論をもつ顕幽二元論は意味があるとおもった

71

宣長は神(シン)に神(カミ)という名を与えたのだと思います。篤胤は、その名のまわりに第二の名を与えます(「天、地、泉」)。そうして言語的存在である人間は言語の端において異端の側から言語の存在の意味を考えていくことができるようになった。つまり言語は『直毘魂』と共にわれわれ自身の起源に絡み取られていたが、言語は、言語の不可避の他者である<われわれは何処からきたのか><何処へ行くのか>の「われわれ」を考えるようになる.. 島崎藤村『夜明け前』


言語(ランガージュ)の芸術(アール)は「記号(シーニュ)をつくること」ーすなわち、何かを記号によって示す(シニフィエ)とともに、その物のまわりにさらに記号(シーニュ)を配置することであった。したがってそれはまず名をあたえる芸術(アール)であり、ついで指示的であると同時に装飾的な二重化によって、この名をとらえ、幽閉し、包みかくし、この名の遅延した現前、第二の記号(シーニュ)、比喩形象(フィギュール)、修辞的華美であるべつの名をもって、最初の名をさらに指示する芸術(アール)であった。ところで、十九世紀全般にわたって、さらに今日のわれわれにいたるまで、ーすなわち、ヘルダーリンからマラルメ、アントナン•アルトーにいたるまでー文学がしの自律性において実在し、他のいっさいの言語(ランガージュ)から深い断絶をもって切り離されているのは、それが一種の「反=言説(デイスクール)」を形成し、そうすることによって、言語(ランガージュ)の表象的機能あるいは記号をなす(シニフィエ)機能から、十六世紀以来忘れられていたあの生のままの存在(エートル)へとさかのぼったからにほかならない。

ーフーコ「言葉と物』第二章 世界という散文


L’art du langage était une manière de < faire signe >,ーà la fois de signifier quelque chose et de disposer, autour de cette chose, de signes: un art donc de nommer et puis,  par un redoublement à la fois démonstratif et décoratif , de capter ce nom, de l’enfermer et de le celer, de le désigner à son tour par d’autre noms qui en étaient la présence différée, le signe second, la figure, l’apparat rhétorique. Or, tout au long du XIXe siècle et jusqu’à nous encoreーde Hölderlin à Mallaremé, à Antonin Artaud ー, la littérature n’a existé dans son autonomie, elle ne s’est dètachée de tout autre langage par une coupure profonde qu’en formant une sorte de <contre-discours >, et en remontant ainsi de la fonction répresentative ou signifiante du langage à cet être brut oublié depuis le 16e siècle.

ーFoucault  La prose du monde

72 80年代は革命はどうして互いに消滅しあってしまうのか、おっかないよな、これについて考えないひとはいなかったとおもうが、どうも日本左翼だけは全然反省していないようだ

73 イスラエルはけしからんし、ロシアはけしからん。単純にそうなんだ。ところがこの時代に全部アメリカがけしからんと言ってしまっては、ウクライナもなくなるし結局パレスチナもなくなる

74 ジョイスは『ユリシーズ』の主人公を一番疎外されていたユダヤアイリッシュにした。今日だったらイスラムを主人公にしただろう。文学から考え始めるのは文学は反-言説的だから

75 実存主義の近代か、国家と一体となって死を主体的に選択した戦前があった。そんなに国家を中心に考えなくていいよというのがポストモダン。市場に任せればO.Kという話とは違う

76 国学を勉強したひとの話をきくと、自分の優越性を訴えながら、日本人の思想の仕事を見下すのは、中国がホンモノで日本は偽物であるという思い込みだけ。これも困ったものだ

77 平田国学が民衆に受け入れられたというときの「民衆」は下級武士と豪農、神官などで、庶民ではなかった。幕末の民衆が信じているのは仏教と淫祠邪教で、平田派国学を信じている草莽の志士は明治維新のときに一揆天狗党の乱など)を起こして壊滅したり、明治の神祇官制で排除されたりするので、結局政治的には敗北していて、その隙に教育勅語国家総動員令などで庶民が天皇制神学に教化された」

78 ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』という映画があって、この映画がブルジョアの登場人物たちが部屋から出られなくなる様子を描いているのですが、あらためてこれを観て、現在の安倍の部屋から出られなくなった国民のファショ的な状況をわたしは思うのです。ファシズムというのは実は、隅々まで監視されているのではなく、映画を観ると気がつくのですが、閉じこまれた人々のあいだにある程度の自由があります。ファシズムとはブルジョア的自由(プライバシーの権利)と両立している体制なのではないでしょうか。だから何が言いたいかと申しますと、全体主義に対して、「自由」を求めても、全体主義にそこそこの自由があるから、戦いにならないのではないかと考えはじめました。安倍政治のもとで、市民の自由は完全に否定されてはおらずそこそこの民主主義もあることはあるが、絶対的保守主義が主流となる中で彼の体制ー解釈改憲軍国主義の復活と公式参拝天皇教を為すナショナリズムーではもうやっていけないということを明確に主張しなければいけません

79 法は対立する当事者の紛争を解決しなければいけない。裁判とは何が法であるかを宣言してその法を紛争当事者に適用して当事者を救済するのである。ところが裁判所型違憲審査権の場合、憲法を解釈した結果、司法権を超えることが起きるとこれを自己抑制する。当事者は救済されない。それではなんのための裁判所なのかという問題が起きてくる

80 宇宙を制作した神が時計の如く中立的に宇宙を支配する法として超越的にあるようではね。宗教は救済できない。神は救済する人との間に距離があったら媒介するものがなければいけない

81 本居宣長国学をしっかり学ぶためには大和心が必要だと言ったらしい。死後の弟子である平田篤胤はそのためには魂の行方が定まらなければいけないという。学問は救済が必要なのだ。芸術はどうか?芸術も魂の行方が定まっていなければいけないか。ワグナーはコジマと一緒に墓を見てから作曲に取り組んだ映画の場面を思い出した..かれの最後はヴェネツィアだった

82 年内に、年老いた母の世話のために茅ヶ崎にすむことを考えている。東京とはおさらばだ。高田馬場、恵比寿、五反田にいた。夜の海鳴りをきいて大きな画布で油絵を描きたい

83 

「語り得ないものについては、沈黙せよ」か?ロンドンのTate Modernにウィットゲンシュタインを教えてくれた哲学の先生と詩の先生がいましたが、激しく言い合いをしていました。哲学は芸術における語り得ない表象を批判しますし、多分無神論的な方向をもっていますし、詩人は表象は何か救済におけるようなものとしてとらえていました。現在私は、この問題を、本居宣長平田篤胤の差異に則して考えているような気がする。彼らが論じたのは芸術ではなくて死後の世界についてだった。死後の世界について、宣長は仏教と儒教を批判しながら人の知が測り得ないものを語り得ないとするが、篤胤は天主教を読んだらしいが救済される世界を語っている。目に見える世界(「顕」)と目に見えない世界(「幽」))との交換関係を考えた。考えたと言っても、異端であって、失敗と逸脱と越境ですね。篤胤はこの失敗と逸脱と越境を通して、言語に絡むことが可能になっているだと思うのですがね

84

原発“運転差し止め”命じる判決 北海道・泊原発津波に関する安全性の基準満たさず…」

安全神話原発災害のときは、街の普通のおばちゃんが電気を使わないと友達に説得した。「ストライキ」だったかはわからないが、解決を原発を推進してきた政財界司マに任ねられない市民の発言だった

85 ハイデガーが死に向かった存在を考える前に、宣長は救済なき死後に投げだされた存在を語っていた。結局神と皇位が連続した国家しか無い。そうして昭和は国家と一体となった死を主体的に選択した世代が教育から生まれてきた。ハンナ•アーレントハイデガーとは別に、生に向かった存在のあり方を考える哲学を構築しようとした。『人間の条件』は月に行った宇宙飛行士の話から始まる。移民たちはわれわれに生を与えてくれる不可避の他者なのだ。平田篤胤宣長とは別に、魂の行方ー救済ある死後の世界ーを語り出した。それは王政復古や教育勅語とは異なる生のあり方であった。『夜明け前』は明治政府から追放された平田派の農村における社会改革運動を語っている。


86 ヨーロッパ古代の人は本を置いていない部屋に来ると魂がない空間にいると思った。映画も多数の部屋だ。本が存在しない映画を見るとただの壁に思う。ゴダールの前はそうではなかった

87 

大阪の中之島図書館に行ったら伊藤仁斎の『語孟字義』が展示してあった。一行も読めなかったが、子安先生からこの本をいただいて10年たった。まだまだ難しいが、何とか思想を考えることができるようになった

88 左翼は彼らの目標である平等がどうしても進まないので、あえて敵(右翼)の側から発言することによって敵(右翼)をやっつけてしまおうとする。右翼も右翼で、敵(左翼)に対して同じ作戦に出る。左翼的なことをいう右翼が現れた。結局ポピュリズムが展開するなかで誰が何を言っているのかわからなくなってきた。思想に関して左翼だとか右翼だと言う必要がなかったのかもしれない。差異化しか存在しないのだから

89 神道に救い無し。死後に救いがないことが救いであると宣長は言いきる。『古事記』に基づいて説明するが、儒学からの論争に反論した宣長神道は思想でありしたがって差異である

90 宣長は徹底した理念性批判である。光が理念の領域だとすると彼は理念的救済無き暗闇の黄泉の国を語ることができる。篤胤は師の宣長と違って、魂の行方を考えた。目に見える世界を成立させる光がある。かれは光と暗闇の交換を考えた。曙は背後からの光が闇に広がる。いきなりやってくるそんな光は多分、超越性がないのだ。宣長におけるのとおなじように、善悪が無いのではないか

91 国学は、朱子学と思想闘争した古学と思想闘争を行った。国学の中で正統と異端との間に死後の救済をめぐる議論の対立がある。顕世からは何処に属するがどこの部分とならぬ幽を簡単に見えないと篤胤は言い出すのは五百年におけるこの言説空間においてである

92 西欧の道徳は市民倫理学ethics。大逆事件で自由思想を恐れた政府が対抗的に国家道徳を普及させる。戦争責任がある和辻は評価されたのであり、彼が嫌った平田篤胤は異端となる

93 中国の東シナ海の進出を分析しながら民主台湾を助ける専守防衛を中国外交と共に考えなければいけないのに、あまりに安易な先制攻撃の核体制防衛にまっしぐら。パニクっていませんか?

94


95 フランスは思想家が現れない。絶対的保守主義の日本ではポストモダンの終焉だ。『言葉と物』の人間の終焉の後にヴェラスケスの絵が再び現れるのは何故か言葉を記したいー墓碑として

96 タカミムスビノカミの吐く息から風の神さまが生まれる。アイオロスはギリシア神話の風の神。ジョイスユリシーズ』では印刷機の新聞を刷る音が息みたいでアイオロスが喚起される

97 人間が死んだら屍から分離する霊魂があるように、死んだ思想は霊魂があるのか?思想の霊魂は人の霊魂が墓の上に留まるように本に留まるのか?絶対的保守主義は死者の息をめくる

98そこそこの自由がある現在は民主主義を問うことがない。天皇ファシズムはこれを望まなかっただろうか。市民的自由を否定し尽くす緊急事態法は民主主義を考えさせる危険がある筈なんだが

99 中学生のとき、将来何になりたいかと聞かれて、「人民になりたい」と答えたら、先生たちが騒然とした。同学年の前で喋る機会があって、そのときは「大衆になりたい」と言った

100 言語的存在である私は、思想の平面ー日本思想史の地下茎を為す百年間を切り取った中国論をめぐる言説空間に逃げようとしている。五百年間における地下茎としての鬼神論をめぐる言説空間へ逃げるように

101 国が責任をもたない原発災害をみると、戦前日本は幸徳と大杉に恐れたのは国家から独立するアナキズムではなかったのではないか。彼らが転回した、小田実的な、国家から自立する市民の台頭を恐れていた。先回りして、国に逆らうと怖いぞという、21世紀になっても市民が立ち上がれない恐怖を与えた

102 ポストモダン的には、線的なもの、平面的なもの、投射できないもの、をそれぞれ、徳川日本、明治日本、昭和日本とい呼ぶことができよう。日本は一つにあらず

103 静謐な形態である「一般的等価形式」(マルクス)は論理的だgrammaticalけれど、支えられないunacceptable 。奥行きのある「貨幣形態」が要請される。静謐な形態である古典主義の立ち位置は論理的であるけれど、外部からは、支えられない(不安定なまま均衡している)。均衡バロックでは偶然が音楽的律動を伴って奥行きのある相対的な暗さのなかに要請される


デウス・エクス・マキナdeus ex machina)としての人間がその偶然であるかもしれません


104 被爆した市民の声が一面に載るのは日本の新聞だからである。貴重である。アングロサクソンの新聞では何かヒーローでないと一面に登場できないだろう

105 最高裁の判決は安全神話を推進した司法は問題を解決することが倫理的に不可能であることを教える。裁判官も市民であるのに、なぜ彼らが依拠しているのは、国は間違いを侵さないというような国家道徳なのだろうか?わたしは芸術の周縁にいるマイナーなアーチストだが、芸術はこの問題をどう考えるのかを答えなければいけないとおもう。和辻は芸術と倫理との関係を説いたが、これはわたしが考えようとするものとまったく別のものである。

106 最高裁の判決は安全神話を推進した司法は問題を解決することが倫理的に不可能であることを教える。裁判官も市民であるのに、なぜ彼らが依拠しているのは、国は間違いを侵さないというような国家道徳なのだろうか?わたしは芸術の周縁にいるマイナーなアーチストだが、芸術はこの問題をどう考えるのかを答えなければいけないとおもう。和辻は芸術と倫理との関係を説いたが、これはわたしが考えようとするものとまったく別のものである。

107 いいなぁ、この映像。詩人李白の猿の人間の悲哀な声に<相似>する魔術的な世界があった。詩人の解放感を表現する狂気。唐の時代、ここから朱子の<差異と同一性>(猿は人間にちかいほど理が透明である。ひとに次ぐ精神的存在)への変遷のことをおもう。宋代の詩人蘇軾におけるコスモロジーへと

中国論


北一輝


北一輝は『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。


昨日は神保町に行った。孫文周恩来が留学生としてきた1910年代があった。喫茶店の中で隣にいた中国人に話しかけたら、周恩来を知らないものは中国人でないと言っていた


今日も北一輝についてちょっとだけ書く。革命の現場にいた北は中国革命の<語られ法>を作ったといえる。孫文翻訳語の米国連邦制ではなく中国の歴史と自治に基づくべきだとした


昨日は神保町に行った。孫文周恩来が留学生としてきた1910年代があった。喫茶店の中で隣にいた中国人に話しかけたら、周恩来を知らないものは中国人でないと言っていた


アジアにまったく共感を持たない安倍晋三のような人間がアジアの危機を訴えている。だからさっぱり響いてこない。われわれはどんな中国とどういう風にアジアを作るか分からないでいる。中国にたいしてヨソヨソしいのであるが、日本人は中国にたいしてヨソヨソしいが、ずっとそうだったわけではなくて1910年代はヨソヨソしくなかった。孫文が留学生としてきた神田は記憶している。『中国の衝撃』の溝口が言い出した「独自の社会主義」の概念は、宋代に西欧と対等な人間性の認識の成立をみるあまりに深い知識にもとづく故にわれわれに益々中国を表象させることを困難にしている。多分われわれがやらなければいけないのは言語における思考の平面としての中国の表象を作ること。その平面においては、単純に、中国と日本とは違いに隣同士である。この2点の間に直線をひこう。さて直線上のわれわれは中国にひじょうに近い点に在ってもそのまま中国にはいるのではなく日本にはいることがあるし、同様に、直線上のわれわれはわれわれの位置が日本に非常に近い点に在ってもそのまま日本にはいるのではなく中国にはいることが起きるのである。どんな中国とどういう風にアジアを形成するか分からないと書いたが、中国からみると、日本人の日中戦争を偽物の戦争とする見方(日華事変でしかない)とか、戦争神社の公式参拝をやめないのをみるとき、どんな日本とどういう風にアジアを作るのかまったくわからないだろう


今日も北一輝について少しだけ書くと、日本の対中国政策は分断政策だった。北は敢えて革命中国の<南>における孫文の代表性を否認して、日本の対中国政策の変更を促そうとした


辛亥革命は革命中国の<語られ方>議論の自由があった。孫文の物の見方が確立することにたいしてそのなかにいながらそれとは別の見方ー宋教仁の視点ーを北一輝は語ったのである


王政復古という上からの近代化の挫折、自由民権運動の敗北、こうした流れのなかに「大陸浪人」たちが存在した。北の眼からは、彼らの下からの近代化を革命中国に託す過剰な要求が、応援していた筈の中国を不利にしていった。愚島日本はこのことがわかっていなかった


今日も少しだけ北一輝について書く。北は、天皇主権の民主主義を批判していた。私の見解ではあるが、この点に関しては吉野作造よりも左翼的だった。昭和維新は取り上げる価値のないくだらないもの。しかし北を左翼か右翼かと言う必要がないと思う。北は中国の語られ方をどう作ったかを考えるのが子安先生の本を読む私の構成である。革命中国に過剰に託した「愚島人日本」は問題があったが、かくも中国がどうして大切かといえば、日本の民主化は中国の民主化がないと成立しないからだ。今日も中国の民主化を要求するためには日本が自ら民主化しなければならない


今日日本はロシアに呆れているが、ロシアの侵略主義と共犯的な対中国外交政策のせいで、議会制民主主義の視点をもった宋教仁を中国史から奪ってしまった罪があったのを忘れたらしい


革命とは何か?「国民的自衛の本能的発奮なり」と北一輝はいう。中国革命は明治維新を継承した国家民族主義革命であった。ウイグルの今日を見るとき私は北の熱狂に与することはない


内藤湖南


ハリウッド映画はアイルランドの語られ方を作り出した。映画的方法に基づいてナショナリズムアイルランドを発明した。支那学の内藤湖南は中国の語られ方を作った。古典的中国・伝統的中国の文献学的知に基いて語りだした


オリエンタリズムとは西欧から他者に向けられる視線で、アジアは熱情的で無垢で掟にしたがう義務感の強いステレオタイプとして語られる。結局帝国主義の欲望が自分たちに従う人々を表象するのである。西欧は劣ったものの語られ方を作りだしたが、どうしようもなく西欧は自己が作り出したその未開なものに惹かれてしまうということが起きる。サイードが言うように、オリエンタリズムの詩の語りは描写力と躍動感を持ったリズムをもっている。学問はオリエンタリズムに基づいて知を最高する。日本も容赦なく西欧からオリエンタリズムの眼差し晒されるが、その日本から中国へ向けたオリエンタリズムの視線がある。古代中国のステレオタイプ的イメージー皇帝のもとに絶対服従する民が存在する


イードはジョンフォード映画のオリエンタリズムを分析している。何かアダムとイヴのエデンの園のように美しく描かれたアイルランドーといってもすべてハリウッドのスタジオの中で撮影されたものだがーを舞台にした『静かなる男』の女性の無垢な視線を見よ。直ぐに、外部からやってアメリカ人に奪われてしまうのはまるで津波に抵抗できないかのようである。原住民を支配する帝國主義には都合にのいい他者構成である。男は彼の祖先がアイルランド出身だとわかると村の人々に受け入れられる。西欧の知を結集したオリエンタリズムの知は共同体の語られ方も作るのである


皇帝への民の絶対的服従は、知識の権力をもった貴族がいなくなって、皇帝と民衆とが媒介なく結びつくことから生じた。宋の時代の知識人的官僚の登場と宗教改革から理解できる


イタリアにシノロジーが始まった。プッチーニのオペラ『トゥーランドット』はオリエンタリズムの傑作。初演は1926年、ミラノ・スカラ座にて、トスカニーニの指揮による


100 言語的存在である私は、思想の平面ー日本思想史の地下茎を為す百年間を切り取った中国論をめぐる言説空間に逃げようとしている。五百年間における地下茎としての鬼神論をめぐる言説空間へ逃げるように


101 「湖南による中国の独自的「近代」の主張は私に、それから70年を経た20世紀の終わりの時期に、現代化を推進する中国を前にしてなされた溝口雄三による中国の独自的「近代化」論を直ちに思い起こさせる」(子安宣邦氏 2012 『日本人は中国をどう語ってきたか』)


内藤湖南における自立的共同体の革命にたいする思い入れと虚無感の間の往復ーこれも中国の<語られ方>を作るものである


内藤湖南は、本で読んだ何千年の歴史から20世紀の革命中国の未来を言い切ってしまう。これは無理だ。「日本人は中国をどう語ったか」の歴史において誰が現場からの観察を行うのか



支那の永久飢饉状態は如何にして制服されるかといふ問題は支那の革命が如何に主て完成されるかといふ問題と其の範囲を等しくする大問題である。」ー橘樸『支那社会研究』


書評: 子安宣邦 著、<古事記>講義  「高天原神話」を解読する (作品社) 本多 敬


書評:

 

子安宣邦 著、<古事記>講義  「高天原神話」を解読する (作品社)

本多 敬

 

戦後憲法を考えることは、先ず、天皇主権を否定したその理念性を考えることである。そして、戦後民主主義の問題は、民俗学的に、天皇を、われわれのなかにおけるものとして水平化しようとすることである。つまり、「古事記」の書かれた歴史を、語られた文学にしてしまおうとすることである。

しかし、それが記された古代において、国家日本を確立した権力者として、事実のままに、明確にとらえるべきではないか。そうすることによって、「古事記」とは、国家アイデンティティをつくるために天皇の編集によったものであった事実が、より明らかになる。日本列島に存在していたといわれる大和言葉とか大和民族が語り伝えてきた神話というような、昭和10代に教育がやったウソを、現代のナショナリズムの時代に復活させることは、どのような意図があるにしても、大変危険だといわざるを得ない。

17世紀に本居宣長の読みによって「古事記」は再発見された。にもかかわらず、上野千鶴子氏と口語訳を手掛けた三浦佑之氏は、「古事記」が連綿と読み継がれてきたテクストであるといってはばからない。書かれた言語とともにある思考する人間が、どこまで遡っても日付もなく文字も無い思考できない存在がなにを考えたかを考えること自体に、はたして意味があるのだろうか。上野氏と三浦氏の主体の言説に絡み取られる言語が、たとえ消滅しつつある構造主義の存在主張だとしても、戦前の「古事記」解釈とそれほど異ならないとしたら、疑問を呈する必要があろう。

プロの知に絡み取られて思考不能になったものを、われわれは巻き返して思考できないだろうか。本居宣長が「古事記」の根底にひとつの民族が存在すると解釈することに対して、「いま、古事記を読む。これは、もうすぐれて現代日本をめぐる問題なのだ」と述べる子安宣邦氏は、「古事記」の基点にそれを書く他者が存在する思考のイメージを打ち出しているのである。子安宣邦著、「<古事記>講義 「高天原神話」を解読する」は、氏が前著において日本における論語の読み方を問題にしたように、日本における「古事記」の読み方を問題にした、ナショナリズムを解体する脱構築の本である。この本によって、われわれは思考不可能なものを思考する時間を手にする。

 

 「ここは伊邪那岐伊邪那美の二神による神生みの長い行りである。次々に神名を連ねてなされるこの行りをどう読むべきなのか。この神生みの神話の原初的なレベルには精霊的な自然の名づけによって人間の自分たちの自然、すなわち国土をなす山・河・海・草木などなどになっていく段階が想定される。この命名的段階というのはあくまでわれわれの想定である。山がわれわれの山になったとき、それはすでに山の神の語りをともなってである。つまりはじめから人の語りのなかに山とその神たちがいるのである。そしてこの語りは幾層にも語り直されていく。ある時から文字をもって語りは記され、記し直されていく。その時から語りは文学的な語りとなっていく。すなわち文字的表象をともなった語りが文学的想像力を喚起し、新たな文学的表象をもたらしていくのである。」

 

古事記」の序文を読むと、中国知識人と朝鮮知識人の影響のもとに、彼らに育てられた日本知識人が書いたものであることは明らかである。にもかかわらず、宣長は「直毘霊」において、その序文を否定しはしないが、そのような外部的なものによる成立のあり方を隠蔽し、漢字を借り物とした上で、日本人の道は大和言葉で伝えられてきた声の独立性に支えられている<>に存する、と強調するのである。

他方で、「古事記」を読み進めていくと、宣長には神に対して絶対的に服従する注釈がある。神の生成を語る「古事記」は多神教的な<>を語っている。神と言っても、そこで救済が語られることはない。死んだら女神である伊邪那美が行った穢らしい黄泉の国に行くだけである。宣長の思想において、<><>とが両立しているが、これはどのようにして可能となるのか。

稗田阿礼は女性だったと絶えずいわれている。宮廷女官だったのか。「古事記」を完成させた女帝の元明天皇に加えて、中国知識人と朝鮮知識人、太安万侶という日本知識人のサークルの中心に女性がいたことは特筆すべきであろう。

 

本居宣長は「古事記」の神の意味を明らかにすることは諦めたが、その代わりに神の名の正しい読み方をとらえることに腐心した。現代の音声学的アプローチは、神の名に含まれているm (両唇鼻音)、および、b (有声両唇閉鎖音)が大事だったと考えているようだ。しかしながら、神の名は漢字で書かれているので、漢字の表意性(意味作用)をゼロにはできない。このことを考えるだけでも、漢字を不可避の他者とする日本語の面白さを知ることができるのである。

 

書くことは並べること。神を、中国思想独自の「神」字で解釈し、「カミ」の訓読みで解釈することは、同時的なことなのだ。言語の集中が起きる同時性は、思考の主体を表象する内部の秩序を炸裂させる

 

天照大御神スサノオの対決は混乱の様相を呈するのである。スサノオは謀反心がないことを証明するための誓約(うけい)を行ったにもかかわらず、スサノオから生まれた男神天照大御神は自分の後継者としている。この点について、子安氏は津田左右吉の議論を用いて解説している。

スサノオ天照大御神に示そうとする「清き明るい心」は、「古事記」にある天皇への忠誠を意味する宣命的言葉であるが(これが日本人の原初的倫理だとされたらたまったものではない)、これによってスサノオの子孫が天皇皇位権を獲得した。誓約(うけい)に勝ったスサノオ天照大御神が統治する高天原で暴れまくる。弟を庇っていた天照大御神は、天岩戸に隠れてしまう。天照大御神が石屋戸から出たとき高天原だけでなく葦原の中ツ国(人間世界全体)も明るくなった。天の主宰者の支配の拡大を伴って、カオス(スサノオ)がコスモス(天照大御神)に回収されたのである。

神話は、吉本隆明が指摘するように、支配の正統化・正当化であるとされるが、そうだとしたらかくも支配が簡単にはいかなかったことを「古事記」が伝えるのはなぜだろうか。

宣長は序文の意義を認めながら、漢字借り物論を展開する。宣長エクリチュール論が何であったにせよ、大いなる他者である中国との関係を消去してはならない。エクリチュールとは「古事記伝」への回帰である。これは宣長という思想家の思想の言語の外に出て理解してはいけない。宣長との対話において読み返す時間が必要である。

書評: 子安宣邦 著、<古事記>講義  「高天原神話」を解読する (作品社) 本多 敬


書評:

 

子安宣邦 著、<古事記>講義  「高天原神話」を解読する (作品社)

本多 敬

 

戦後憲法を考えることは、先ず、天皇主権を否定したその理念性を考えることである。そして、戦後民主主義の問題は、民俗学的に、天皇を、われわれのなかにおけるものとして水平化しようとすることである。つまり、「古事記」の書かれた歴史を、語られた文学にしてしまおうとすることである。

しかし、それが記された古代において、国家日本を確立した権力者として、事実のままに、明確にとらえるべきではないか。そうすることによって、「古事記」とは、国家アイデンティティをつくるために天皇の編集によったものであった事実が、より明らかになる。日本列島に存在していたといわれる大和言葉とか大和民族が語り伝えてきた神話というような、昭和10代に教育がやったウソを、現代のナショナリズムの時代に復活させることは、どのような意図があるにしても、大変危険だといわざるを得ない。

17世紀に本居宣長の読みによって「古事記」は再発見された。にもかかわらず、上野千鶴子氏と口語訳を手掛けた三浦佑之氏は、「古事記」が連綿と読み継がれてきたテクストであるといってはばからない。書かれた言語とともにある思考する人間が、どこまで遡っても日付もなく文字も無い思考できない存在がなにを考えたかを考えること自体に、はたして意味があるのだろうか。上野氏と三浦氏の主体の言説に絡み取られる言語が、たとえ消滅しつつある構造主義の存在主張だとしても、戦前の「古事記」解釈とそれほど異ならないとしたら、疑問を呈する必要があろう。

プロの知に絡み取られて思考不能になったものを、われわれは巻き返して思考できないだろうか。本居宣長が「古事記」の根底にひとつの民族が存在すると解釈することに対して、「いま、古事記を読む。これは、もうすぐれて現代日本をめぐる問題なのだ」と述べる子安宣邦氏は、「古事記」の基点にそれを書く他者が存在する思考のイメージを打ち出しているのである。子安宣邦著、「<古事記>講義 「高天原神話」を解読する」は、氏が前著において日本における論語の読み方を問題にしたように、日本における「古事記」の読み方を問題にした、ナショナリズムを解体する脱構築の本である。この本によって、われわれは思考不可能なものを思考する時間を手にする。

 

 「ここは伊邪那岐伊邪那美の二神による神生みの長い行りである。次々に神名を連ねてなされるこの行りをどう読むべきなのか。この神生みの神話の原初的なレベルには精霊的な自然の名づけによって人間の自分たちの自然、すなわち国土をなす山・河・海・草木などなどになっていく段階が想定される。この命名的段階というのはあくまでわれわれの想定である。山がわれわれの山になったとき、それはすでに山の神の語りをともなってである。つまりはじめから人の語りのなかに山とその神たちがいるのである。そしてこの語りは幾層にも語り直されていく。ある時から文字をもって語りは記され、記し直されていく。その時から語りは文学的な語りとなっていく。すなわち文字的表象をともなった語りが文学的想像力を喚起し、新たな文学的表象をもたらしていくのである。」

 

古事記」の序文を読むと、中国知識人と朝鮮知識人の影響のもとに、彼らに育てられた日本知識人が書いたものであることは明らかである。にもかかわらず、宣長は「直毘霊」において、その序文を否定しはしないが、そのような外部的なものによる成立のあり方を隠蔽し、漢字を借り物とした上で、日本人の道は大和言葉で伝えられてきた声の独立性に支えられている<>に存する、と強調するのである。

他方で、「古事記」を読み進めていくと、宣長には神に対して絶対的に服従する注釈がある。神の生成を語る「古事記」は多神教的な<>を語っている。神と言っても、そこで救済が語られることはない。死んだら女神である伊邪那美が行った穢らしい黄泉の国に行くだけである。宣長の思想において、<><>とが両立しているが、これはどのようにして可能となるのか。

稗田阿礼は女性だったと絶えずいわれている。宮廷女官だったのか。「古事記」を完成させた女帝の元明天皇に加えて、中国知識人と朝鮮知識人、太安万侶という日本知識人のサークルの中心に女性がいたことは特筆すべきであろう。

 

本居宣長は「古事記」の神の意味を明らかにすることは諦めたが、その代わりに神の名の正しい読み方をとらえることに腐心した。現代の音声学的アプローチは、神の名に含まれているm (両唇鼻音)、および、b (有声両唇閉鎖音)が大事だったと考えているようだ。しかしながら、神の名は漢字で書かれているので、漢字の表意性(意味作用)をゼロにはできない。このことを考えるだけでも、漢字を不可避の他者とする日本語の面白さを知ることができるのである。

 

書くことは並べること。神を、中国思想独自の「神」字で解釈し、「カミ」の訓読みで解釈することは、同時的なことなのだ。言語の集中が起きる同時性は、思考の主体を表象する内部の秩序を炸裂させる

 

天照大御神スサノオの対決は混乱の様相を呈するのである。スサノオは謀反心がないことを証明するための誓約(うけい)を行ったにもかかわらず、スサノオから生まれた男神天照大御神は自分の後継者としている。この点について、子安氏は津田左右吉の議論を用いて解説している。

スサノオ天照大御神に示そうとする「清き明るい心」は、「古事記」にある天皇への忠誠を意味する宣命的言葉であるが(これが日本人の原初的倫理だとされたらたまったものではない)、これによってスサノオの子孫が天皇皇位権を獲得した。誓約(うけい)に勝ったスサノオ天照大御神が統治する高天原で暴れまくる。弟を庇っていた天照大御神は、天岩戸に隠れてしまう。天照大御神が石屋戸から出たとき高天原だけでなく葦原の中ツ国(人間世界全体)も明るくなった。天の主宰者の支配の拡大を伴って、カオス(スサノオ)がコスモス(天照大御神)に回収されたのである。

神話は、吉本隆明が指摘するように、支配の正統化・正当化であるとされるが、そうだとしたらかくも支配が簡単にはいかなかったことを「古事記」が伝えるのはなぜだろうか。

宣長は序文の意義を認めながら、漢字借り物論を展開する。宣長エクリチュール論が何であったにせよ、大いなる他者である中国との関係を消去してはならない。エクリチュールとは「古事記伝」への回帰である。これは宣長という思想家の思想の言語の外に出て理解してはいけない。宣長との対話において読み返す時間が必要である。

書くこと 800−900

1「代理戦争」という名で米国、ウクライナ、ロシアという二項対立での思考ならば、米国、台湾、中国という二項対立での思考である。帝国ロシアと帝国中国の多を一にする問題を見失う

この現代アートの彫刻は、海の中に置かれたり、道端やビルの上などロンドンの街の彼方こちらに展示されたとき、死について考えさせるものだと言われた。ガス室の中のユダヤ人を表現していると評したひともいた。芸術家はユダヤ系だったとおもう。さてナチスの犯罪を立証するその決定的フィルムは出てこない。記録フェチだったナチスガス室の内部を撮影しなかった筈はないから何処かにあるに違いない。しかし問題は、これからガス室のフィルムが出てきても、それを見た極右翼は何も感じないのではないかというもの。ヨーロッパの極右翼は、戦争責任をとらない日本と違って、ナチス戦争犯罪は裁かれたところから出てきてはいるが、それでもフランスに2割超える支持があるのはヤバイ感じである。ヨーロッパはイスラムとの関係を確立するために普遍主義を再構成しなければいけないが、極右翼とかbrexit によって非常に悪い形で模索することになりそうだ

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日本の思想家たちが語る中国、思想史のなかの中国ならば考えることはできる。方法論なくして、中国自身を考えることは私にはできない。同じように、ロシアそれ自身は考えられない

カントは認識の限界を言う。純粋理性でしかとらえられない物自体を認識できない。思考する為には先験形式ー空間と時間ーにおけるその現れをとらえて悟性のカテゴリーで構成する

思想史は思考不可能なものの語られ方ー言語の言説化ーを作る。表象可能なものの奪還は、思想の産物である人間の認識が知をあまりに深く分割して思考できないものを思考可能にするか

敵性英語の時代に校長先生が持っていた英語の本を1ページづつ破って全生徒にあげた話を聞いた。しかし旧制高校では英語を勉強していたんじゃない?結局民だけが馬鹿になる国なんだ

17世紀の本居宣長の読みによって『古事記』は発見されたにもかかわらず、口語訳の三浦佑之と上野千鶴子は『古事記』が読み継がれてきたテクストであると言う。書かれた言語とともにある思考する人間が、どこまでも遡って日付もなく文字も無い思考できない存在がなにを考えるかを考えることに意味があるのだろうか?三浦と上野の主体の言説に絡み取られる言語は、アメリカのグローバリズムに対する抵抗だとしても、戦前の『古事記』解釈のそれほど異ならないとしたら、考える必要がある。圧倒的な専門知の前にわれわれはなにも言えない。しかしプロの知のもとに巻かれて思考不可能になったものをわれわれは巻き返して思考できないものだろうか。本居宣長は『古事記』の根底にひとつの民族が存在することに対して、「『古事記』を読むことは現代を読むことである」ときっぱりいう子安宣邦氏は『古事記』の根底にそれを書く他者が存在する思考のイメージを打ち出している。子安宣邦著“古事記”講義―「高天原神話」を解読するは、日本における“論語”の読み方を問題にしたように、日本における“古事記”の読み方を問題にした、ナショナリズムの解体である脱構築の本である。われわれは思考不可能なものを思考する。


古事記』の序文を読むと、中国知識人と朝鮮知識人の影響のもとに彼らに育てられた日本知識人が書いたものであることは明らかであるが、宣長の『直毘霊』を読むと、序文を否定しないが、そういう外部的なものによる成立のあり方を隠蔽して、漢字を借り物とした上で、日本人の道は大和言葉で伝えられてきた声の独立性に支えられている<一>に存すると強調する。他方で、『古事記』を読み進めていくと、宣長は神にたいして絶対的に服従する注釈がある。神の生成を語mる『古事記』は多神教的な<多>を語っている。神と言っても、そこで救済が語られることはない。死んだら女神伊邪那美が行った穢らしい黄泉の国に行くだけである。宣長の思想において、<一>と<多>とが両立しているが、これはどのように可能となることなのか?これはポストモダンがいう微分多様体なのか?何か興味深い思想ー帝国の多を一に還元するから自立した多元主義の方向の?ーがある..


稗田阿礼は女性だったと絶えず言われる。宮廷女性だったか?『古事記』を完成させた元明天皇。中国知識人と朝鮮知識人と太安万侶の日本知識人のサークルの中心に女性がいたのだ


古事記』の山はわれわれの山である。山はわれわれの語りに存在する。山と神がいる。山は思い出されると(山が)目覚めるような妖精的な名づけではない。


『日本書記』と『古事記』の違いは歴史と神話。ここにも差異化の運動がある。『古事記』は、『日本書記』における神の語られ方を差異化して、国家を越える宇宙の神から書き始める。


本居宣長は『古事記』の神の意味を明らかにすることは諦めたらしいが、その代わり神の名の正しい読み方に努力した。現代の音声学的アプローチは、神の名に含まれているm(両唇鼻音)、 b(有声両唇閉鎖音)が大事だったと考えているようだ。音声中心主義の近代は遠くへいく。一生懸命日本語の起源を探す。しかしながら神の名は漢字で書かれているので、漢字の表意性(意味作用)をゼロにできない。このことを考えるだけでも、漢字を不可避の他者とする日本語の面白さを知ることができると思う。たとえ漢字の表記で意味されるものがわからなくとも、意味を伝えようとする意思を無視できないんだよな。これが言語に沿って絶えず意味の意味を問う思考の形というか..

書くことは並べること。神を、中国思想独自の「神」字で解釈し、「カミ」の訓みで解釈することは、同時的なことなのだ。言語の集中が起きる同時性は、思考の主体を表象する内部の秩序を炸裂させる


伊邪那岐伊邪那美の別れ。生者の国と黄泉の国の境界線の確立。魔法が溢れているにしたがって読み手の感覚が鋭くなっていく。宣長は仏教に対抗した救い無き古代死生観を語る。


知識人なんて死後のことに関心がないとおもうが、死を観念化しなければ世界思想たり得ない。宣長が『古事記』に読み取った古代の救いなき死は観念的であるが、イデオロギー的でなくはない。


アマテラスとスサノオの対決だけれど、mess混乱だ。スサノオは謀反心がないことを明かす誓約(うけい)だったのに、奴から生まれた男神をアマテラスが自分の子としてしている。

スサノオ天照大御神に示そうとする「清き明かるい心」は『古事記』にある天皇への忠誠を意味する宣命的言葉でこれが日本人の原初的倫理だとされたらたまったものではない。


これによってスサノオの子孫が天皇皇位権を獲得した。誓約に勝ったスサノオはアマテラスの統治する高天原で暴れまくる。アマテラスは弟を庇っていたが、天岩戸に隠れてしまう。天照大御神が石屋戸から出たとき高天の原だけでなく葦原の中つ国も明るくなった。天の主宰者の支配の拡大を伴って、カオス(=スサノオ)がコスモス(=天照大御神)に回収された。

神話は吉本隆明が指摘するように支配の正統化•正当化であるというが、そうだとしたらかくも支配が簡単にはいかなかったことを『古事記』が伝えるのはどうしてか。その理由はわたしは分からないでいる。



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インターネットは幅広い情報があるのに、どうしてそんなに時間をかけて、色々読んで、結局秘密警察プーチンとおなじことを喋っているのかと思ってしまうわ..

語学というのは勉強する時間に比例して進歩がある。哲学はそうではない。どんどん崩れる(根本を疑うから?)。わたしは自分の愚かさを隠すために哲学の道を歩みたい

10 現在起きていることは、「ロシアの正義とウクライナ正義と衝突である」という見方は受けいれがたい。これを言ったひとは、ロシアはイスラムの西欧文明の見返しに立っているという。しかしプーチンの戦争は、典型的な近代の制作主義ー自分の頭のなかで考えたことが正しいー永久革命的に。プーチンの戦争と彼が思い描いているスラブ主義とは別々のものではないか。イスラムが問題提起している西欧文明の見直しとは果たしていかなるものかは分からないのだけれど、西欧と西欧でないものを分け隔てるものは政教分離政教一致かによる。政教一致とは何か?ちなみに、下級武士が推進した明治維新政教一致の近代なので、この点はロシアの政教一致より遠いところに行ったと考えてみることができるかもしれない。しかし死に場所のある共同体をまもる伝統をゼロにしてしまった。戦う国家を祀ることだけが問題となった。ここが、西欧化を受けいれながら受け入れることができないところは伝統を残していったイスラムの近代と違う所。伝統を残したイスラムがあのアメリカに抵抗できるのはどうしてだろうか?また伝統を捨てきった日本がまったく抵抗を失ってしまったのはどうしてなのか?

11 思考不可能なものの思考をフーコは言語ー言説ー表象ー物の全体に展開した。書記言語の漢字で構成された『古事記』を仮名(借り物的表記記号)によって読めるものを思考するとは違う

12 仮名(借り物的表記記号)の読みだすものの思考は近代における価値中立的なものである。その思考は『直毘霊』を序文からとりのぞかなければいけない。だが宣長の思想闘争が失われる

13 人間は気がついていないが一個の鬼神ではないか


‪(人間の)起源とは、あらゆる相違性、あらゆる分散性、あらゆる不連続性が、もはや同一性の一点のみを、みずからのうえで炸裂して他者となる力をそれでもうちに秘めている、触知しえぬ<同一者>の形象のみを、形成するため、そこで凝縮されるような、そうした円錐体の虚頂点‬なのである。

ーFoucault フーコ『言葉と物』(渡辺訳)‬


「円錐体の虚頂点」が嘗ての近代の力だったというか。人間が終焉する<他者>の時代は、円錐体も消滅するが痕跡として平面スクリーン上の線になるのではないか。平面の上で点たちとはりついている球体たちと共存している

14 ユリシーズ』はmirror in the shrineのマーテロー塔において始まる。西の端に立って鏡を見る。東ーアイルランドーを映し出した。私は東の端も見える。

挿話「テレマコス」の書き出しは侍女の部屋とおなじである。ここからみえる背後のあちらを見ること

15 映画監督の紋切り型の紋切り型(「ロシアは悪であるとは言えない」)に、全体主義に負けるなと拍手喝采。囁かれる陰謀、誰が何を喋るのか分からぬSNSはヌーヴェルバーグを継承する


ミクロファシズムとは、帝国が普遍の語られ方を作る時代に起きてくる帝国主義戦争をもつ。「ロシア(帝国主義)は悪くない」に、全体主義に負けるなと拍手喝采がロシアや中国のネット界で起きる。マクロ全体主義はナチズムとか天皇ファシズムだったように、ミクロファシズムも民主主義に対する攻撃であるが、多元主義の名のもとに民主主義の攻撃を行うのである。しかもフェイクニュースの言論を利用して、ナチスたいする自らの戦いを正統化する

15 選挙

イスラムとの関係を考える上で、フランスの極右翼政権の成立は何とか避けていただきたいです。ただ戦争を止めれない点ではマクロンもおなじですが。極右翼と言っても、前回はルペンはマクロンにたいして彼が関与した労動法の改悪を問題にしていましたが、維新と安倍政治ではあり得ないですね。ナチスの戦争責任を裁いた後の出てきたヨーロッパの極右翼と、戦争責任を果たさず戦前と同じことをそのまま主張している日本の極右翼はおなじであるというような誤解があるのではないでしょうか?

16 子安氏の『古事記』講義(作品社)は『古事記』を構成する書記言語の漢字で飾られている。母がこれを見たとき開口一番、「中国」。エクリチュール論を中国から切り離してはいけない

17 昨日は帰りの電車で、数年前に過労死した疑いのある後輩を思った。どうすれば良かったのだろう?茅ヶ崎の海岸を散歩させてやりたかったな。嗚呼、天をおもいうかべなければやっていけない。この感じは、書記言語のエクリチュールを見て大いなる他者の中国をおもいうかべなければやっていけないのと重なっている。アジアにいるとはこういうことなのか..

18


19 わたしは民である。民であるときわたしは民衆論の知を学んでいるのではない。わたしはモンタージュ。ニューデイールにはモンタージュがあった。辛亥革命モンタージュが存在した

20 可視的なものに名を与えるのが博物学である。差異と同一の体系を構築する知だ。目に見えず耳に聴こえずのものを語る陰陽二元論めぐる言説が鬼神論である。帝国の宗教改革が成立した

21 昔、映画館はカフェにあった。観客は今日のようには黙ってはいない。暗闇に囁き声があった。映画館とは何だったのか?映画館の中はプラトンの洞窟の内部とどう違っていたのか?

22 ニューヨークに行ったときは毎日映画館に行った。Sontagも読めた。本屋に柄谷の建築の隠喩の英訳もあった。だが英語を読み過ぎたら日本が西欧だという錯覚に陥いるだろうな

23 ポストコロニアリズム+精神分析(ラカン)+フェミニズム

ウクライナのためにウクライナ人に代わって」ロシアが考えてやる。これは帝国主義の言語。「だから、ウクライナは生命と財産と身体のすべてをひとりの男性に譲渡しなさい」。これは男性を固有なものとする全体主義の幻想ですね。ウクライナが女性として表象される。

24 アイルランドEU加盟まで自身がヨーロッパであるとは知らなかったし、移民先の米国ではあり得ない。文学は、アイルランドの<語られ方>を作ってきたし、作らなければいけない。

25 自民提言案の「反撃能力」についてですが、他人の加害行為を過大評価し、自分の加害行為を過小評価してきた日本人。戦前は攻撃されてもいないのに攻撃されたと思い込んで戦争したのが盧溝橋事件ではなかったでしょうか

26 あり得ない。靖國神社の戦前は、だれのためにも祀ることはなかった。この戦争神社は戦う国家しか祀らない。

・安倍元首相が靖国参拝「勇気ある尊い犠牲の上に国は守られている」

ほんとうにウクライナの死者を弔うならば戦争記念碑へ行きなさい

27 岡倉天心は分割に関するいかなるものにも関心をもった。岡倉が提唱した東洋の美は分割に関する思考であるとおもう。西は東の語られ方を作った。これにしたがうと東洋の美は中国美術である。しかし岡倉は帝国主義の視点を隠蔽した地理的に表象される東西の分割の自明性を突き崩した。東洋の美は文明の博物館である日本において成り立つと考えたのである。和辻哲郎は九鬼修造と大岡周明と一緒に岡倉の講座に出た。初めてアジアから考えただろう。アジアは優先権をもった思考不可能なものである。しかし和辻は思考不可能なものを考える哲学史マルクス主義から書き始めずにギリシャ哲学から始めた。われわれはいかにも帝国の主義が書いたギリシャの書き出しを受け入れることができない。何故か?疑われるべき思考可能な東西の分割に、正しさを占有している西をあてはめては、思考における思考不可能なものの優先権を蔑ろにしていると言わざるをえない。


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29 安定していれば何も変えるなという絶対保守主義は思想の死滅が起きてこれからは精神的に価値のあるものを考えることが無いかもしれないというのに、英文学を読むよりも無前提に財界が求める話すアメリカ語の優越性は漢字文化の精神を棄てるという意味ですべてを変えなければならないことに全然疑問も危機感ももたない。たかがコミニュケーションのための英語(ヨーロッパ人はみんなそう思っている)のために、‪すべてを変えなければいけないと‬そこまでする価値があるのだろうか?

30 ケインズ大英帝国の何も変えるなの時代とロシア革命永久革命的に変えなければいけない前衛の時代に生きた。ケインズは何も変えるな(貨幣賃金)とするひとびとのあり方を前提に経済が不均衡のままに(有効需要不足)安定してしまう現象を考えた。ケインズの立場は革命ではなくてコントロールできるものを微調整的にコントロールする改革だった。ももし思想をやっていたら、絶対保守主義による思想の死滅のことも考えていたに違いない

31 移民国家的文化多元主義の理念が、絶対保守主義の平面への投射が起きることはないのだけれど、現実には東京は移民国家的になっている。教育と権利への無関心はどうしたものか

32 言語は言語以外のことを喋ることができません。これまで言語はあまりに多く生命について語ってきました。現在は戦争を喋っています。言語はもっと言語について語るべきなのです

33 言語は言語以外のことを喋ることができません。これまで言語はあまりに多く生命について語ってきました。現在は戦争を喋っています。言語はもっと言語について語るべきなのです。どうせプーチンのようなくだらない奴に殺されるならば逃げるべきだと思う。帝国ロシアが自らの行いを正当化している、プーチンが作ったロシアの語られ方(言説)を徹底的に批判できる、言語の途切れることなく生成するセリーしか無いでしょう

34 転向論の言説が成立しているのは拘りを良しとする日本だけだ。西欧で問題となるのは思想家の戦争協力。日本は民族主義者はずっと民族主義者とされる。民主主義者の時期もあっても

35 『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社)は出版10年である。<言語支配者の中国人は、言語マイノリティである日本人が中国をどう語ってきたかをどう読むだろうか>も考える


35 朱子学の普遍(「聖人の道」)では思考不可能なもの(「道は路なり」)を考えたのが古学で、中国文明のなかでは思考不可能なもの(『直毘霊』の「神の道」)を考えたのが国学。古学から成立した日本近代においては思考不可能なもの(社会主義の人民)を考えた日本人は初めて外部(中国)で考えたのである。『日本人は中国をどう語ってきたか』を読むとは思想史ー壁に映し出された不連続性の集合ーこういうことを知ることなのである

36 漢字で書かれた歴史を語る文学が支えることができるか?


朱子学の普遍では思考不可能なものを考えたのが古学で、中国文明のなかでは思考不可能なものを考えたのが国学。古学から成立した日本近代においては思考不可能なものを考えた日本人は初めて外部(中国)で考えたのである。『日本人は中国をどう語ってきたか』を読むとは思想史を知ることなのである。そして思想史とは壁に映し出された、破れ傘のようにある不連続性の集合。壁は他者が読むために漢字で構成されてされている。漢字で書かれた歴史を語る文学が支えることができない

37 ロンドン時代のことであるが、私はユダヤ人が好きで文学を通じて彼らについて詳しくて中々雄弁だったらしく?、感心したユダヤ•ギャングにスカウトされそうになって、本当に困った

38 武器供与は日本が攻撃される危険があるから平和でなくなるというのは本当だろう。そしてこのことも本当。日本が平和なときは必ず日本の外で戦争が起きている。平和は戦争の徴である

39 わたしは絶対平和主義ではないのだけれど、殺し合いをやめよ、作品が完成したら平和になると信じているような芸術家魂のかけらである…

40 今回のツイッター削除依頼も歴史修正主義の問題ですね。


日本人はヒトラーファシズムしか考えてこなかったし、丸山真男はそれを以て厳密に純粋ファシズムの理念型を定義した結果、日本にはファシズムが無かったということを言ってしまうのですよ。戦後左翼は天皇を馬鹿にしていて天皇についてしっかり論じてこなかったといわざ言わざるを得ません。どうも和辻哲郎だけは、戦後は戦前の祀る神は祀られる神であるとする現人神のあり方とまったく変わらないと見抜いていました。これからは、安定していれば何も変えるなの絶対保守主義が主流の時代にはいってきますから、神の子孫である天皇が統治する神の道へ帰れと言い出すかもしれませんよ。公式参拝を前提にして、神の道に帰らない心の穢きものを反日とみなしてヘイトスピーチナショナリズムを展開する天皇教の安倍政治の歴史修正主義に日本人は依拠できるのでしょうか


「せめて」、東條の戦争責任を言うべきだったとする意見があります。どうでしょうか?軍部が明治憲法における天皇統帥権を利用して戦争体制を拡大させたという見方ですね。しかしそれはわたしの構成ではありません。わたしは憲法に書かれていなかった死者を主宰する権力を問題にしています。戦争する者の死後の安心を与えたのです。しかし国家はだれも祀ることがありません。国家は戦う国家を祀るだけです。だから国家神道である靖國神社は戦争神社と言われるのです。遡れば、クーデターで成り立ったような、正しい始まりをもたない国家日本の問題です。長州は、京都から文化権力の中心にいた天皇に政治権力を集中させてしまいました。そうして日本人の心のなかを隅々まで政治権力が覆う危険がでてきました。大正デモクラシーの時に天皇の政治権力を解体するチャンスがあったのですが、そのまま満洲事変を経て昭和10年代へ突き進んでいきました


絵は、『古事記』の序文である、日本は他国より優れた神の道をもったと語るとイデオロギー的に書かれた『直毘霊」を読んで描いたものです。『古事記』は民族学者や上野さんのような文化人類学者が言うように「読み継がれた」テキストではありません。昭和10年代の軍国主義教育を通じて読まされたのです。これはファシズムを支えてものになりました。


「天つ神の御心を御心として」は「直毘霊」のなかの一文ですが、天皇の植民地国に対してもつ「大御心」を喚起します。戦後憲法天皇の言葉を制限したのは「大御心」を禁じる必要があったのです。象徴行為説(清宮)によって「大御心」が復活する危険があります。



41 ポストモダンの終焉は考えたことがなかった。日本はこれからは、安定していれば何も変えるなという絶対保守主義へ行く。事件もなく差異を失って皆同じならば固有名詞を失ってしまう

42 ユリシーズ』は北の地中海人を物語っている

43 軍隊にお金を使うのは時代遅れ。日本は戦争を回避できるために、強力な外交を展開するために世界中の情報を収集できるスパイ王国になれ

「戦争機械とともに、そして遊牧生活において、数は数えられることをやめて<暗号>になる。そして<暗号>として数zは「団体精神」を構成し、秘密と秘密をともなうもの(戦略、諜報活動、謀略、待ち伏せ、外交交渉、等々)を発明するのである。」(D=G)

44 これは?思想空間ある全否定の作用をもつ点、点、点。『直毘霊』ーおそるべき宣長の漢字文化の全否定

45 荻生徂徠の「聖は制なり」を批判した本居宣長は、永久革命的にゼロから作る近代の制作主義に絶望しきっているポストモダンのわれわれの側にいる

46 ジョイスの文は疲労困憊になるが意味を伝えるつもりがあるから一生懸命調べれば何とか解釈できる。だがアルトーのインディアン(神?)の言葉を真似た文は意味を伝える意思がない

47 本は面白かったで終わってしまう。芝居も「面白かった」である。ロゴスが支配しているからか?映画は見終わった後に誰も何かを言える。反復なき反復の系列があり差異の生成がある

48 「天」、「聖人」、「物哀」は、読まれる漢字ではなくて寧ろ暗号なのだ。一字一字は日本思想を解体する作用をもつ。また市民大学の講座という団体精神を形成する。思想史遠足もある

49 そりゃ、ずっと安倍政治だもの


「韓国が変わったことはなく、日本が右傾化した」 文在寅氏発言

50 ミルトンは言う。「希望もないところでは恐れもない」。と。このわたしも全く恐ろしいことがなんだ、日本にいて..
51 書くことは並べること。並べることは世界である。宣長の全否定とか津田の漢字嫌いのラディカルモダンの曖昧な観念と、曖昧なイメージー「中国論」に召された多様な言語のようにペンローズエッシャー的天地間の往還ーとを衝突させよ

天地間の往還とは伊藤仁斎的、清沢満之的、最後の親鸞吉本隆明的である


52 論争的な宣長『直毘霊』は儒家による神の<語られ方>を問題にした。聖人と言おうが神と言おうが結局道をどの程度重視するの違いによるだけだ。道を強調するのは野蛮な国だから

53 Κρῆτες, ἀεὶ ψευδεῖς, 
The "lie" of the Cretans is that Zeus was mortal; Epimenides considered Zeus immortal. "Cretans, always liars," 
54 ヨーロッパの中心は何処か?

オーストリアがずっとヨーロッパの中心だったという見方があります。現在はEUの本部はベルギーにありますが、拡大EUで再びウイーンが中心になるかもしれませんよ。スイスから行くと気がつくのですが、ルネッサンスのイタリアの都市の自治が無ければフランスの個人のあの抽象的な自由の議論がないだろうとおもいます。ただ、イタリアはドイツと日本と同じように19世紀に成立した新しい国家なので、統一が欠けたような?変なものがあります。ミラノ人はほかの都市(フィレンツェ、ベニス等)の人間よりも、日本人の私に近づいてくるという(笑)。フランスとかイギリスは500年の国家の歴史があるので、イタリアで起きるようなことは起きませんというのがわたしの観察です。
芸術というと、フランスと考えていたのですが、わたしの勘違いで、芸術はイタリアなんですね。オペラなんか本当に自分たちのものなんですね。政治はフランス。ドイツは哲学思想。イギリスは下着とブーツ。残念ながら、わたしは中世のことはあまり自信がないのですが、オーストトリア帝国(神聖ローマ皇帝の継承?)とローマ法皇との間の影響圏をめぐる争いは、19世紀イタリアの独立運動にも現れるのですね。
ミラノ人がわたしに近いてきたのは、もしかしたらアイルランドからきたわたしのジョイス文学の知識に興味をもったのかもしれないということだったかもしれませんが、それぞれの都市出身者は他の都市出身者と交わろうとしないことはたしかです。何か歴史的な背景を考えさせます。
ルネッサンスのイタリアは、マルチユードの思想家として再発見されているマキャベリがいました。わたしはマキャベリのあまり良い読者ではないですが、わたしのようなものでもカラヴァッチョの飛ばない天使と労働者階級のマリアを描いた絵画作品から、自由について議論された時代をなんとか想像できます
55 あえて書きますが、戦争を反対する平和主義は思想ですがそれ自身はそんなに大した思想なのでしょうか?自由に喋ることを非難しないでくれ、これが軍国主義に反対する大切な思想です
56 ポストモダニズムにより歴史学はその基盤を揺るがされた。」そうなのかな?だけど歴史学が語る真実が何かひとりの人が設計した都市にみえることがある。それは貧しいね
57 自民党文科部会を開催。九州大学川本芳昭名誉教授から「邪馬台国卑弥呼の呼称と国号日本との関係」と題して講演して頂き、邪(よこしま)、卑(いやしい)は、当時の中国が周辺国を文明が劣ったものとして蔑称の意味でそれらの文字を当てたことが良く分かりました。今後どうすべきか考えます!だってさ。アホくさ、ナショナリズムか?

卑弥呼の500年前は漢字文化の成熟の時代に孔子が過去の古典(六経)を編集していたわけでしょう。悔しいとはおもいますが、中華文明との圧倒的な差が日本を規定していることはたしかです。この事実を受け入れて、日本の古代と言われているものは中国文明だったこと、日本が歴史に登場するのは12世紀とか応仁の乱以降であることを教えるべきです。18世紀までは、荻生徂徠などは東夷に聖人は生まれないと言って中国を称えていました。明が清にとって変わられると、これに関しては秀吉の朝鮮出兵が明の滅亡の原因のひとつになりましたが、中国を支那と呼んで下にみて、19世紀の尊皇攘夷は日本を中国と名乗るようになりました。教育勅語は中国の孝徳的なものの実現ですね。帝国の宋•明•清の皇帝的理想が明治維新において実現しました。
58 エクリチュール論から不可避の他者を切り離してはいけないように、映像論から不可避の他者を切り離してはいけない
59 昨日の映画は主人公はスターリン支持者である。父がコサックである。彼は娘に自分が経験した虐殺のことを物語る。この話が、まさかフルシチョフ体制のもとで起きたストライキの工場労働者にたいしてKGBと軍隊が行った虐殺と重なる。ストライキ1918年から1920年にかけてコサック階級は共産党から排除され、コサック諸軍は廃軍となった。内戦後、裕福なコサックの一部は欧米諸国へ逃亡したが、残されたコサックは共産党による苛烈な弾圧の対象となったという

ロシア映画フルスタリョフ、車を!』のように良い映画とは、公と私、天下的公、そして国内亡命知識人の埋葬されない墓の場所を描いている。この4つは映画史から編集できる

60 大学時代の労働法の先生が言っていたが、昔はマルクス経済学の殆ど全員がスターリン主義者だったが、収容所群島が発覚して宇野経済学へ行った。しかしストライキの権利を考えない
柄谷行人が『資本論』の読み方と一緒に教える「高度な次元の互酬原理」は、彼が文句無しに称える宇野経済学の「労働力の無理」説から要請される。しかし帝国中国の「礼」(ヘーゲル客観精神)として構成されるが、リアルなストライキの権利が消されているのではないか
62 国家を覆す小説の構想は対英闘争のアイルランドにあっては切実である。アナーキストのオスカー•ワイルドが考えたのは、アイルランドのためにアイルランド人に代わって考えるイギリス人を必要としないような、他でもない卑近なアイルランド人の一日を書くべきだと考えた。それはジョイスユリシーズ』においてユダヤアイリッシュのブルームの一日として実現することになった。ブルームは国家からの独立を主張する考えをもっていないが、その一日は、読むためには一生を要するぐらいに宇宙を構成する密度をもっていて、大英帝国が絶えず召喚する英雄になれとする戦争よりも遥かに充実している自立したものである
63 アケルマン監督の『オルメイヤーの阿房宮』2011。近代の一生懸命遠くに行って探す欲望を欲望化している深さに驚く。東南アジアの嵐で氾濫する川の畔で表層の豊かさが表象される

アケルマン監督の『オルメイヤーの阿房宮』2011をみて、言葉が非常に少ない芸術的な映画を久々にみたとおもった。もう芸術的な映画は作られないんだとも気がついた

64 現代アフリカ文学はコンラッドをあえてアフリカ文学の父としたように16世紀のスペンサーがアイルランド文学の父とされているのは、敵味方の境界線を侵犯して敵をやっつける戦略だ
65古事記』の根底にそれを語り伝えた一の民族があると考える境界線は、父=オイディプス的に起源を捏造するが、序文は漢字文化の知識人達によって歴史が書かれたという
66 原初的な共同体にとって女性の身体の損傷は外敵による共同体への攻撃を表象するから、天照大神が声が口から現れたように天岩戸から現れたことは神々の共同体の復活を意味する。天だけでなく中津の國の支配を確立することになったと伝える
67 連休は毎日映画館へ行く。今日はベルファーストという映画を霊魂に見せよう
68 映画『ベルファースト』。労働者階級のプロテスタントの家族の視点から北アイルランド紛争を考えるこんな映画ははじめてみた。殆ども話が監督の体験にもとづくという
69 わたしは表現主義、新表現主義(キーファー)が大変好きで、フェルメールの静かな均衡美のブルジョワ的な絵を練習でスケッチしたりすると、どういうわけか、爆発する野獣の世界みたいになっちゃうんですよ(笑)。舞台の照明について触れておられましたが、舞台の照明は思考の原点ですー物を照らす。わたしはポスター原案などでブレヒトに影響された劇団にお世話になっていますが、彼らは表現主義から距離を取ろうとしますね
70 なんの思想も含まれていない「敵基地攻撃能力」にかくも賛成している世論をみると、木下尚江の言葉が突き刺さります。「吾人は断言す、日本国民は倫理界の畸形児なり」。今年何とか論じたいとおもう、和辻の国民道徳である倫理学が問題だとおもいます
71 絶対悪とはどのような立場・観点から判断しても悪であること。たとえば「核兵器は絶対悪である」と言われる。「敵基地攻撃能力」も絶対悪。絶対悪と絶対保守主義がこれからの日本か
72 徴は至るところある。映画の記号の構成は簡単ではないが、仮名(借り物的表示記号)ならば考えられる。訓(よ)みは原初的テクストを構成している表層を殺戮している徴だ
78 映画の記号の構成は、その曖昧な観念が映画を構成している表層を殺戮してしまうことがおきる。表層にこそ豊かな徴がある。説明のない明確なイメージが存在している
79 だれでも芸術家であることはないが、だれもが批評家として芸術に言葉を喋りたがる。芸術が足りない。「もっと芸術を」と叫ぶ大統領も必要だ
80 今日は映画『チタンTitane』を観た。ジェンダーを超える、肉体的ホラー物がカンヌ映画祭で大賞をとった。abject art の映画化であるとおもった
81 四日間続けて映画を観たが、どの映画も本を読むひとがいなかった。昔のフランス映画は本を読むひとが撮ったから映画の中で本を読んで議論するひとが多かった
82 正しいことを言うのだから非難しないでくれと言うのがルネッサンスガリレオの裁判をおもう。それから500年後に、フランス革命は間違っても公に言っても非難するなと言い始めた
83 天皇主権の明治憲法を起草した伊藤博文は注釈を与えた。国の形について日本書記や古事記が支えると。現在、靖國神社は国家と憲法三権分立の上にあると言っているようなものだ
84 詩人ならば朝起きたら自分はライオンかもしれないと疑う。人間であるために詩を作る。憲法記念日はあなたは朝起きたらこの国に憲法が無いかもしれないと疑うべきだ。憲法とは何かを論じる


85 知らぬ幸せ。新聞を開くと、上場一部の大企業で素材技術などでアメリカの武器の生産に関わらないものはないのです。イラク戦争で日本企業は全体で百兆円儲けたと言われます。

86 プーチンは一国社会主義と連続性があると思っています。一国社会主義の完成が、現在の帝国ロシアの皇帝プーチンだとみています。帝国という意味は、ロシアは周辺国を軍事的に支配しなくてもいいからです。経済と文化の力で支配できてしまう。しかし周辺国の民主化が起きるとこれを決して許さない。軍事的に支配するやり方は帝国主義とおなじです。それは、帝国アメリカ、帝国中国、帝国拡大EUにおいても言えることです。世界資本主義が、自らを分割した帝国を通して、世界を支配しはじめたのが、イラク戦争以降です。日本左翼にこの認識がないと、経済問題を解決するためにローカルが宗教を利用すること、グローバルデモクラシーが要請されていることが、理解できないとおもいますね

87 フランス映画の偉大さとは偉大でない人間を描いた点にあったのだが、あのようにセレブを描いてはどうしようもないだろう。『アネックス』

『アネックス』は道化師を人生に還元している退屈。光を濫用している。映画から奪ったものを映画に返すことができない監督の映画とはこういうものか

88 わたしは新大久保が好き。在日とコリアの人々が投稿した思想を読めるのでFacebookも好きである

89 この十数年のあいだに読みはじめた古典だけれど、楽しいとおもったことはないが、外国語を読むときのプレッシャーは無いから苦しくなることもない。ずっと読んでやらないといけない

90 世界はコメディアンが必要だー笑いは互いに争う人々を武装解除させるー。テレビのタカ派大臣の高笑いやネットもなかも差別の笑いとかはあるんだけれど

91 国境なき記者団報道の自由度ランキングによると、日本は71位。一応戦争もしていないのにどうしてそんなに隠すことが多いのか?政財官は万歳だろうな

92 戦後憲法は先ず天皇主権を否定した


江戸時代は、津田左右吉によると、象徴天皇制が成立していたという見方があります。一番いいのは、権力が集中した東京にいると利用される危険もあるので、天皇やりたくないと言って(笑)、京都に帰っていただいて、天皇博物館の永久館長になっていただくのがよろしいかと。

それにしても左翼はむやみに天皇を否定するわりには、強力な共和主義の理論を作らないのが不思議です。多分天皇主権を否定した象徴天皇制の成熟に期待しているのが本音かもしれません。

戦後民主主義の問題は、民俗学的に、天皇をわれわれのなかにおけるものとして水平化しようとすることです。書かれて歴史を、語られた文学にしてしまおうとするのです。しかしむしろ事実のままにはっきりと古代は国家日本を確立した権力者として措定すべきです。そうすると、『古事記』は国家アイデンティティを作る天皇の編集であることがクリアーになります。大和言葉とか大和民族が語り伝えてきたものというような昭和10年代に教育がやったウソを、現在の安倍政治のナショナリズムの時代に復活させることは、どのような意図があるとしても、大変危険だと言わざるを得ません。

近々その点について触れた本の書評を書きます

93 日本は報道の自由度ランキング71位で、既に権利の無い社会なのに、口に猿ぐつわしてと独裁権に賛成する者が多い

•緊急事態に権利制限「改憲して対応」59% 朝日新聞世論調査


94 ハイデガー存在と時間』に、”単独性としての民族”という言葉があったか。これは思想家の思想の言語の外に出て理解してはいけない。私は彼との対話において読み返す時間があるか

95 ロンドンではドウルーズの本はカント『実践理性批判』と並んでいるが、東京は『純粋理性批判』の横にある。日本人は全体主義の問題を道徳の問題ではなく認識の問題だと考えている

96 日本のファシズム天皇ファシズムであるのに、ナチスファシズムを理解しようとして純粋全体主義を論じている。認識の問題である。行い的言葉を捉える道徳と倫理の問題ではない

97 バルザックの神秘的感覚で書いた短編で、不老不死を求めた老人が黄金の身体をもつという話があったが、これは『直毘霊』が強調する皇位の継承における連続性をおもってしまった

98 構造主義は終わっているしポスト構造主義の思想も亡くなってしまうかもしれない。日本では思想というものが終わり、これからは、過去はよかったとする絶対保守主義が主流となる無思想の時代。近代とは別のあり方を論じるポストモダンを論じる文芸誌もない。フェースブックはありがたい。ヨーロッパのポストモダンはルソーをどう読んだかを書いておこう。

99 おなじカトリック国なのに、プラトンの影響が非常に強いアイルランドとどちらかといえばアリストテレスの影響が強いフランスとは互いに違うんだね

100 文革を肯定し天安門前広場抗議弾圧を批判しなかった加々美光行が死んだ。日本人ー革命家、学者、ジャーナリスト、作家ーは中国の語られ方を作った。Inventing Chinaを考える

書くこと 700-800

1、明治二十年代の「透谷も天下国家を議論しようとする悲憤慷慨の精神の持ち主であったと言える だろう。彼が漢文体に託した思想は政治と連動する「経世の志」や「悲憤慷慨」と背 反する思想ではなく、むしろそこから進化したものだと捉えられるはずである」(Lu Chen)

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蓮實重彦は漢文体が悲憤慷慨に適応し、「言文一致じゃ「悲憤慷慨」は書けないだろう」と指摘したように、『論語』の話言葉的な現代語訳では義憤が起きてこないよな

2、普遍主義は<多>である危機の時代に、失われた<一>は何処に現れるのか?どうして危機かと言えば、帝国が普遍主義の<語られ方>を作るからである。それは帝国が自ら普遍をもつとする根源的錯認である。宣長は『直毘霊』的<一>を書きながら『古事記』的神々の生成の<多>を書いた。如此く自立的部分の傍らに全体があること、これはグローバルデモクラシーが普遍主義を再構成する(日中戦争を反省した)アジア主義的なある方であるとわたしは考えるのだけれど



整理がつかず色々書くかもしれません。ご疑問にも答えられないかもしれませんでしたらすいません。良い悪いは別として、日本の近代化は復古主義の古学からしか出てきませんでした。明治維新の失敗は王政復古になってしまったことです。薩長は京都から天皇を連れてきてしまいました。文化権力の中心に政治権力が集中したことの帰結は昭和10年代の全体主義ですね。天皇ファシズム軍国主義が同じ方向をもちました、祀る国家は闘う国家です。国家はだれのためにも祀りません。国家は自己自身を祀るだけです。天皇の国家祭祀を禁じることは戦後憲法の課題でした。宮沢革命説は天皇機関説の発展です。天皇は植民地に向かって大御心をもって言葉を発してましたが、憲法はこれを禁じなければ国民主権が危ういと書いています。安倍晋三は、公式参拝軍国主義解釈改憲を推し進めて、皇室を利用しないで、ヘイトスピーチナショナリズムを展開しています。安倍は、宣長的なので理念を持たないのですが、これは、平和憲法を活かした、ナショナリズムに収斂しない移民国家の文化多元主義の実現を防いでしまいます。伊勢サミットから国家神道は復活しています。戦前は国家神道はアジアに2000万人を殺戮しましたが、最近の学説では、靖國は戦争と関わることがなかったと考えるようになりました。問題があったのは、平田派の神祇官が政府に入ったという政教分離違反があっただけだと。ついに宗教学者が、「靖国としての日本人」アイデンティティを主張しています。

丸山真男荻生徂徠制作論も、宣長と徂徠から影響を受けた後期水戸学の儒教的聖人の代わりに天照大神を発明していく政治神学も全く理解できていませんでした。この話はまたの機会があれば書きます。先生もよく話します。ご指摘のように、天皇はヤバイのです。案の定、日本知識人は「万葉集』の時代から、戦争する天皇の国家を俯瞰する視点を助けてきました。案の定、左翼は吉本派をはじめ天皇抑止論です。子安先生は幸徳と秋水と小田実を結びつける市民の理論を『大正を読み直す』で展開しています)が、正統派左翼は強力な共和主義の理論もないのにやたら廃止をいうのですが、もし廃止したら、こんな天皇大好きの国民のウルトラナショナリズムが起きることは必至です。そうならないように、ですから、一番いいのは、子安先生のご意見では、天皇に引退して貰って、京都に帰って、天皇博物館の館長にでもなっていただくことです。学問によって自らの権威を作った古代天皇は漢字文化の輸入に貢献したことの功績はあります。

誰が支那人の代わりに支那人の為に考えるのか?という問いは、植民地主義のものであるが、余りに文学的なものでもある。竹内好が答えるときは、言語が文学としての中国を語り出す

満鉄が行った農村調査による村落共同体の語りだしによって、知識は深く届かなくなったとき、初めて中国の<語られ方>が問われた。それは白紙の本、誰も語らなかった文学である


表象できる世界を取り返そうとして言語が集中する傍らで、無が自ら署名する本


https://www.instagram.com/p/CVG3iH7BpqH/?utm_medium=copy_link


言語的存在である人間は言語の存在の意味を問うのはロゴスにおいてあるように、上からの近代化である明治維新の失敗は北一輝を下からの近代化を担う民衆の存在の意味を問う中国へ行かせた

中国的美とは、礼ー字ー和

わたしなりに理解すると

ヘーゲル客観精神ー漢字エクリチュール命名制作

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go on go on go on go on go on go on go on ..

ボードリヤールが<湾岸戦争は起こらなかった>と言った意味は、戦争が戦争の<語られ方>に存在するということ。ポストモダンが戦争を理念化した戦争機械とは、遊牧民が交通を不可能にする国家に対する戦争であり、その戦争はかならずしも国家を対象に持たない戦争である。世界史の言説<民族=国家>を解体する物の見方である。

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11 イギリス法は二つある。衡平法とコモンローである。これはなにを意味するのか?マラルメの文を思い出す。「諸々の国語は,それが〔地上に〕二種類以上存在するという点において,不完全である.すなわち,絶対無二,最高の言葉というものがないのである.」

12 

フリール「トランスレーションズ」の最初はメイナスがセアラに喋り方を教えている。「とてもうまくいってるよ。じゃね、もういちど、やってみようじゃないかーもういちどだけだからね。さあ、力をぬいて、いきを吸って・・・ふかく・・・はく・・・吸って・・・はいて・・・」

「わたし…わたしの…」

セアラは英語で自分の名を言えない。

舞台においては沈黙は語る以上に意味を放つ。これはハイデガー的沈黙である。


13 「労働者の解放は労働者自身の仕事でなければならない」というマルクスの言葉は、また「ソヴィエトに一切の権力を」というレーニンの言葉は、もともと国家主義マルキシズムの真っ赤な嘘なのだ。マルキシズムは民衆が自分で自分の運命を創っていくことを決して許すものではない。


大杉栄無政府主義将軍ーネストル・マフノ」


マルクスプルードンバクーニンと激しく論争しましたが、決して敵同士のものではありません。そうでなければ、アナキストの知識人たちはロンドンに亡命したマルクスの下に訪ねたりはしなかったでしょう。ボルシェヴィキは、アナキズム国家主義の両方をもつフランス革命を研究して、結局国家主義を選択しました。その結果、アナキズムは国家にとって敵の側の非常に危険な言説となりました。大杉栄はネストルのことをフランスで知ったのでした。大杉は、国家否定のアナキズムとは別の、国家から自立する市民の先駆的な視点をもっていたので、国家(甘粕は陸軍ファショのモデル)は百年先を見越して、市民は立つことができないように、殺害したのでしょう。市民運動は勝てないというジンクスがあるのは、人々が幸徳と栄を殺戮した国家を恐怖するからです(公害裁判でも、被害者達は勝ちたいのは、自分の権利のためよりも、お国様と対立していることに理由があることを村の人たちにわかってもらいたいからなのです)。ウクライナの爆撃される、自分たちと同じ無力な市民に共感をもって応援すると、国家日本がロシアになってくるこのような極端を見てはじめて、この国がいかに救いがたく民を失っているかが判ります。


14 ウクライナの爆撃される、自分たちと同じ無力な市民に共感をもって応援すると、国家日本がロシアになってくるこのような極端を見てはじめて、この国がいかに救いがたく民を失っているかが判る

15 知の配置。宣長は神々(N)の生成を認める。近代主義が禁じた、正統派における古道の排他的一元性<1>は何処に現れるのか?異端派の魂たち(N)を救済する<1>神においてか?

16 映画を語るのは映画が存在しないからである。映画は多くの映画が作られた中で、奪った生を映画に返さずに、終わった。彼方に消失したものがすべてがみえる。書く画家が語り出す

17 ひとりの男にたいする身体、生命、財産のすべてを譲渡する幻想をラカンは語った。その中でそれとは異なる、ひとり一人がマイナーである「器官なき身体はわたしのものである」へ行く

18 米国に体現された世界資本主義は帝国(帝国主義になり得る)を為す米国と拡大EUロシアと中国とに分割されている現在は、反米だけ言っていれば自由を主張していた時代にあらず

帝国ロシアとウクライナ侵略にたいするこれほどの関心と批判が台湾に向かってあれば、帝国中国は台湾に対して勝手なことができないはずなんだとおもう。米国に体現された世界資本主義は帝国(帝国主義になり得る)を為す米国と拡大EUロシアと中国とに分割されている現在は、反米だけ言っていれば自由を主張していた時代ではない。世界主義の分割である帝国は周辺国を経済と文化で支配できる。周辺国の民主化が独立の主張をもつときに帝国は帝国主義となる(軍事支配を行う)。台湾は帝国中国に対して独立と民族アイデンティティを主張することは大変危険なので主張しない。これは国家中心主義の19世紀と20世紀を超えた新しい民主主義の方向を構成している。

19 われわれは絵を見つめ、絵の中の画家は画家でわれわれを凝視する。部分の傍らに全体がある。これは表象である。これとは異なって、全体の中に部分があるのはイメージである

20 われわれは火神被殺の語りを見つめ、語りの中の太安万侶はわれわれを凝視する。部分の傍らに全体がある神話的表象。これとは異なって、われわれ自身のなかで媒介なくきくわれわれ自身の声

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20 古事記』はどんどん神さまが生まれてくるが、名前は結構テキトーである。多神教というけれど、よく知らないが、ヒンズー教だったら一つ一つにもっとちゃんと名づけているのでは?

21 古事記』の黄泉の国ね、救いなき穢れた国で神(伊邪那美)も人の形が亡くなるように死ぬんだな。伊邪那岐が桃を投げつけるのは主体が拡散した肉体の覆ってきた影だった


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イザナミに大やけどを負わせた火の神


22 首都キエフはキーウに…ウクライナ地名の表記変更はなにを意味するのでしょうか?

キエフという言葉を最初に聞いたのはエイゼンシュタインの映画『イワン雷帝』の中でした。勝手に、思想史的関心から書かせていただきますと、モンゴルのために滅んだキエフ東方教会ギリシャ語とラテン語の言語をもっていたのでしょう?それは普遍性をもっていたと想像出来ますよ。しかし現在帝国ロシアは、自ら主張する普遍を一国言語のロシア語で喋っているわけです。それはウクライナから見ればただのナショナリズムのベラベラ喋るおしゃべりでしかないです。帝国ロシアはロシアの語られ方ー普遍に対する根源的錯認があるようにみえます。首都キエフはキーウにしたことは、この根源的錯認を暴露する重要な意味をもっています

23 世界は本と共に多元主義へ行く。精神(Geist)は本によって思想として現れる。朱子「鬼神論」は精神の語られ方を作った。精神は仁斎、徂徠、宣長、篤胤のアジアの思想になった

24 ウクライナに地名が二つあるのはどうしてか?この問題提起は知的精神的営為を構成しないのだろうか?帝国ロシアはウクライナに言う。「おまえはキエフといえば首を切り落とす。おまえはキエフといわなければ首を切り落とす。」。この場合ウクライナはロシアから刀を取りあげるしかないのではないか

25 なぜ地名は二つあるのか?

キエフをどう読むかは大問題である。アイルランドのような周辺国は二つの地名をどう考えるか、翻訳の意味が芝居にもなるくらい問題となる。ゲール語エスタブリッシュメントのエリート言語のものであり民衆からは愛されていない。ジョイスが書いているように、民は生活のために英語をとってゲール語をすてたのである。実際は現在の地名は測量のときに軍のイギリス人とアイリッシュとが共同で翻訳されたのであるが、固有のものが<奪われた>という理解の仕方が厄介なナショナリズムをうむ

26 ユリシーズのおかげで、10年かかりましたが、故郷に帰ってくる神話的表象を理解できたことは幸せだったとおもっています。フィネガンズウエイクは、たぶん、この世に帰ってくる神話的表象を書いた本ですかね。これから10年かけて取り組みたいです、くたばらなければ(笑)。昔アイルランドに行く前に、古事記と日本書記の違いがわからなければダメだと言ってくる語学出版社の方がいて、そういうことは日本に帰ってきたときに言って欲しかったんですけど(笑)。先月出版された子安先生の「古事記をよむ」のおかげで、わたしのような者でも、何とか大事な違いがわかってきました。漢字で書かれた『古事記』よりも日付を遡って神話を語る大和の国の日本人が存在したのであって、漢字はあくまでも借り物にすぎない、と言い出すと、愛国的になりますね。神話の根底に一つの民族が存在すると宣長は言いましたが、わたしはそうおもえません。平田篤胤的には普遍的神話というものがあって、『古事記』もそれを構成しますが、普遍的神話を一つの民族が語ったとは考えられません。

27 三木清は文化とは死に切った過去であると言う。エクリチュールは死に切った過去だ。精神は死にきった過去をもたないと、聞こえる恣意性に従属していく。そこで文化は起源に堕落する

28 幸福とは何だろうか?離陸した飛行機の窓から見える日本の地上がどんどん小さくなっていくにしたがってわたしの幸福が大きくなる。手鏡でうつしてみたいと思う

29 戦前の社会主義者植民地主義に関心をもつものが少なかったという。現在は、ヨーロッパは自ら植民地化した歴史を私は考えるときは植民地主義の問題を考えるが社会主義に関心がない

30 エスペラント語自然言語を否定し尽くす構成主義も、満洲王国の五族共和の天皇主義も、ユートピア近代の設計主義。ネオリベのカネが何でも解決してくれるという市場万能主義も、ボルシェヴィキの人工的エンジアリングに対抗した設計主義。英国新右翼思想家はサッチャーリズムに対してそう指摘していた。なるほどそうかと思ったが、英国皇室は文化多元主義に対して全体的調和を与えるとする説得には大きな疑問をもった。文化多元主義イラク戦争で滅茶苦茶になったが、エリザベス女王が「全軍無事で」と言ったら、戦争反対8割の世論が賛成8割になったのである

31 宇野経済学は主流になったのは、スターリン収容所群島の事実が発覚した後なのに、柄谷の説明では最初からマルクス経済学の純粋化が評価されていたことになっているのはどうしたことか

32 キエフでもキーウでもおなじとおもっているひとは、北アイルランドのデイリーをロンドンデイリー(英国の読み方)と呼んでいる植民地主義者と同じ態度だとおもう

33 詳しく知らないが、世界の多元性を理解したければヒンズー建築を見よというんだね。比べると、神道はそれほど多神教なのだろうか。神社を見ても『古事記』を読んでもそうなのかな?

34 アイルランドは支配階級だった10%の地主階級を為すプロテスタントカトリックから構成されている。プロテスタント側のトリニテイ大学は両者を隔てる壁にみえる。カトリックの共和国アイルランドが成立した後に、なお特権的存在である大学は万里の長城と揶揄されたが、実際はシング•ベケットジョイスの間におけるような曖昧な境界線を構成する

35 親鸞の超越性とは比叡山を降りて救済を行い比叡山で知識人として『教行信証』を書くこと。部分(衆生と共に)の傍らに全体(知)在り。還相回向は分割における曖昧な境界線である

36 アイルランドの支配が変わる時代の中で、F•ベーコンとベケットは喪失powerlessを表現した。ジョイスはサイード的な意味で、powerlessを、脱階級的な曖昧な境界線から現れてくる、人間の本質である卑近なものとして表現したとわたしは考える

37 伊邪那岐伊邪那美の別れ。生者の国と黄泉の国の境界線の確立。魔法が溢れているにしたがって読み手の感覚が鋭くなっていく。宣長は仏教に対抗した救い無き古代死生観を語る


知識人なんて死後のことに関心がないとおもうが、死を観念化しなければ世界思想たり得ない。宣長が『古事記』に読み取った古代の救いなき死は観念的であるが、イデオロギー的でなくはない


38 プラトンにとって感覚によって捉えられるもの は、生成、消滅をくり返し、真にあることがけっしてない(ontōs oudepote on)ものである。それでは、真にあるものとはどのようなものか。それは、 生成することなく、同一を保ち、常にあるもの(on aei)であり、感覚に よってではなく、ロゴスの助けをかりて知性(noēsis)によって捉えられ る(a.a.O. 27D-28A)。この真にあるものがイデアと呼ばれる。


プラトンにとって感覚によって捉えられるもの は、生成、消滅をくり返し、真にあることがけっしてない(ontōs oudepote on)ものである。『古事記』に記されるような神々の生成は真ではないのか

39 ユリシーズ』はデガダンスの観念化である。ヨーロッパ最大のダブリン赤線地帯は黄泉の国。ブルームは、キリスト教ユダヤ教イスラム教という、あらゆる宗教が対等に扱われる「New Bloomusalem」の建立を宣言する。しかし誰が何を喋っているかわからぬ暗闇の中からブルームがナポレオン三世(ポピュリズム的亡霊)として現れる


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40『古事記』の漢字を子安先生の注釈と訳に頼りながらゆっくりと読む。訓(よ)めない死に切った絶対の過去に成り立つ情念があるとしたらそれはどういう情念だろうかと考える

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41神をシンと読まずにカミと読むのは、独逸語は読めないけど、 ÜbermenschをSupermanと読んでしまうぐらいのギャップがなかったか?厚いものがうすぺらになった

42 ユリシーズ』(1922)は故郷に帰ってくるギリシャ的神話表象から身をズラしながら、英国植民都市ダブリンの他者の岬に等しいユダヤアイリッシュの家に帰る神話的リアリズム

43 『フィネガンズウエイク』は世界中の若者が自国の河の名を発見できる覆い尽くせない海へ戻る魂の神話的表象をH.C.E(Here comes everyboby )と名づけた

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45 ガンジー南アフリカにいたとき、ボーア戦争で来ていたアイリッシュの活動家たちと出会って、対英闘争の復古主義の政治のあり方を聞かされたと言われる

46 独立運動アイリッシュはイギリスの監獄の中で、別に悪いことをしたわけではないという理由で囚人服を着ることを拒む。裸でいる。ハンガリーストライキをやる。不服従の意思を示す

47 マルクスアイルランドからの労働者移入を止めなければ英国労働者階級は立ち上がれないと考えた。また立ち退きされて米国に行ったアイリッシュが対英闘争を構築するみらを予想した

48 主権国家の独立を無視したロシアのウクライナ侵略は言語道断であるが、もしプーチンが言う通りにウクライナレーニンが作った国だとするとロシアは自らを植民地化している..

49 文化的な繋がりが一切ない先住民を先祖と考えるヨーロッパ人にとって、アメリカ人はインデイアンを先祖と考えることはあり得ないのが異様と感じることについてわたしは関心をもった

50 書くことは並べること。『論語』をどう読んだのか、伊藤仁斎荻生徂徠の違い、『古事記』をどう読んだのか、本居宣長平田篤胤の違い、もっぱらこれらの差異を考えています

61 価値判断からの自由をもってするロシア分析はイデオロギー批判を避けて帝国モデルで語るが、プーチンのロシアにすんでみたいかという内なる価値のコミットメントの声を無視できない

62 金閣寺をみておもうのは、おそらく建築言語の論理としては文法的だけれど、人々が受け入れることができるだろうか。明治維新の問題を、戦争で勝てば解決できる、その戦争を行うのは大衆だと訴えた。しかし人々が依拠できる歴史がその三島文学の言語に存在するのだろうか?

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63 日本の保守主義の論客は、人間を手放しに万歳する近代を批判するときに文化の不在と歴史の不在を指摘するけれど、なぜ漢字文化のことも江戸時代の徳川日本のことも言わないの?結局人間の存在だけを言って言語の存在を言わない近代主義と大して変わらないのじゃないの?

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64 オバマは彼が尊敬した公民権運動のキングス牧師の思想を継承したとはいえない。しかし日本の反米保守主義が見逃しているのは、人民が一年間無名の候補者の話を聞いたことである


65 エイゼンシュタインの映画『イワン雷帝』の戴冠式の場面に、スラブの伝統美が結集されているんですってね、トリエステで知り合ったブルガリアの女性が言ってました..

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67 言語はリアリテイーと関わるときは、伝統支配と合法制支配とカリスマ支配をウエーバーのようにバラバラには見ない。われわれは、ロシアの一国社会主義の皇帝と中国の官僚資本主義の皇帝に、伝統(イワン雷帝とか宋の皇帝)、合法性(ピョートル大帝辛亥革命)、反近代(スターリズムと文革)の同時性をみる。

68 デリダはレヴィストロースの禁止における自然と文化の二項対立をズラす。丸山真男は読み間違えたが、命名制作論の徂徠は自然を否定してはいない。近代主義は自然と文化(差異)の<と>を否定した設計主義

69 丸山真男荻生徂徠の自然を否定してしまうような、近代主義の絶対の独断とは何か、自分の正しさを自分の頭の中で考えているのだけれど、これは「天」(=他者)を必要としない

70 大英図書館マルクスは、わたしが悪いんじゃない、社会が悪いのだと主張する自分の正しさを考えたのは、自分の頭の中ではなく、平等にアクセスできた知のコモンにおいてである

71 たかが民主主義、されど民主主義。ルネッサンスのときは正しいことを言っているのだから自由に喋らせろ、だったのが、フランス革命のときに、間違っても自由に喋らせてくれになりました。フランスから始まったこれは凄いな思うのであります。日本の学校では「間違っても自由に喋らせてくれ」、これは一番危険というか..多分デモにおいてもそうですね

72 フランスの教育を与える同化主義モデルintegrityの問題ですね。イギリスの場合は、同化主義は、絶滅型と言われます。インディアンとかゲール語話者に、教育も水道も与えないで、絶滅を待つのです。日本はフランス型にみえますが、民主的だと言われるのに、その民主的教育がたとえば大学卒業後に格差を生み出していることは残念ながらたしかで。問題は、大衆を生み出す教育の軍隊的あり方ですね。江戸時代の塾は古義堂がそうですが、師と聴講者の間における一対一における学びの場なんですね。垂加神道山崎闇斎の塾は禅寺のように一対多ではありませんでした。大学でも一対一のことはありませんでしたが、絶対就職できないゼミばかりとってましたから、ちかい状態で勉強しました。一対一と一対多とでは、知の受け入れ方、あり方が違いますね。『論語』に世界は孔子と弟子たちの一対一のやりとりの世界で、孔子は一切定義しなかったのですね。「仁とは何々であるとは言わない。孔子は弟子たちに必要に応じて仁を説いたという感じです。一対多の知の伝達は抽象的にならざるを得ないしプロパガンダ的にもなるというか..いくら効率よくても、自然科学はあれでいいんでしょうが、声を中心としたあの伝達で身につけた知識で精神的に価値のあるものが生まれるのだろうかと疑問に思います

73 昔、人口学者トッドの講演の時に、ネオリベの時代は全体主義の問題を考える必要がないのかと質問したことがあります。彼の答えは、自分の経験を引きながら、ファシズムとは戦前の貧しい労働者階級の単一価値観による形成で、現在では教育が充実していて物の見方が多様化しているから、全体主義を心配しなくてよいと言うのです。しかし彼は間違っています。価値観が多様化している中で起きている全体主義をどうするかです。近代も「多様な近代」があるとして、ロシアも中国も自分たちの近代を主張しているわけでしょう。たとえば政治的にはフランス革命の近代を考えると、ウクライナも台湾も主権国家として成立しています。だけれど、ロシアは中世に遡ってロシアのウクライナを主張し出します(ユーラシア主義)。中国は、清朝における中国を主張して、台湾は中国の独立は許さんと主張しはじめました。その発想が国家主義的なものなんですけれどね、帝国が主張しているこういう似非ー多元主義全体主義にたいしては、グローバルデモクラシーが要請されていると思います。わたしの意見ですが、ロシアも中国もそれらの体制批判を徹底てきにやるのがいいと思います。そうしてロシアと中国から日本の体制に対する批判がきます。そこから、経済と技術はどんどん進むが、言論の自由が全然成立しないような民主のくせに、偉そうなことを言うなと。そうか日本はもっと民主化しなければロシアと中国に民主化しろと言えないんだいうことになってきます。そうして議論して行く中でグローバルデモクラシーの形ができてくるのではとわたしは楽観的に考えています

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74フランス映画史とか日本映画史という分割には抵抗があるのは、ハリウッド映画から自立する形で各国で映画が発展したから。だが西欧思想史とアジア思想史とか言わないとダメだと思う

アジア思想史と言わないと、アジア思想史が亡くなってしまって西欧思想史しか存在しなくなるだろう。他方で日本映画史と言って実体化すると、日本映画史が亡くなってしまわないか?

75 何が問題なのか


日本人は自分の加害行為を気にしないが、他者の加害行為を過大評価する、とは指摘されることですね。たしかに、戦前は、攻撃されてもいないのに、攻撃されたと思い込んで、防衛するために相手国を先制攻撃することがありました。この点について精神分析フロイトは大変鋭いことを言っています。侵略戦争を否定し切った憲法体制のもとで、侵略したいという危険な欲望が検閲されることになる結果、他国が攻めてくるぞと言い出すと分析しました。

個人について成立する違法性阻却事由としての正当防衛を国家におけるものとして考えることができるか。国家の正当防衛については昔のイギリスも思想家が論じているようですが、憲法の絶対平和主義と両立するものではどうも無いようです。しかしかくも絶対平和主義を導く憲法の言語の論理は文法的ですが、人々が受け入れることができるものなのかとは思います。残念ながら、自衛隊の米軍との共同演習は北朝鮮にたいする、憲法が禁じる「武力よる威嚇」に該当しますが、反対しない野党は自民党の解釈憲法をすでに容認していると言わざるを得ません。

結局問題となってくるのは、明時代の海帝国として成立した国家アイデンティティを求める中国の台湾侵略と沖縄(中国からすると、中国の冊封体制に属する、朝貢貿易相手国琉球です)です。慎重に考える必要がありますが、自衛隊を日本の外に出さないことを明確にした上で、台湾との間でアジアにおける安全保障について意見を交換し合うことが必要だという意見があります。本当に厳しい現実が目の前にありますが、なるほど、これは危険なだけで曖昧な「核抑止力」よりも効果がある方法かもしれないと考えます。核は最終解決ではありません。

76 現代思想40年の軌跡と展望か..帝国が普遍の語られ方を作る中で、ヨーロッパの極右翼への支持率が2割台になった現在、グローバル•デモクラシーの再構成が非常に難しくなった

77 和平が成り立った後の北アイルランドの対立する住民に現在ウクライナに対するように非暴力が求められた。だがカトリック住民への攻撃が現実に続く限りその平和主義は高すぎるのだ。

78 「シンギュラリティ」については柄谷が語りました。「単独者の交通する場所」(柄谷)は、国家-個という単一性をズラすあり方です。「場所」と言っているのは彼なりの西田哲学からの影響があります。しかしそれは結局、「大きな物語」の復活です。彼が擁護している「帝国」の構造だったんだなと現在わたしは理解しています。しかしドウルーズが言った「シンギュラリティ」は、巻かれたら巻き返せとワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨ、逃げろや逃げろの、国家から自立した市民(市民社会の近代ではない)がコミュニケーションする場という意味でした

79 日本の戦争映画はつまらないのはどうしてか

大島渚は「日本の戦争映画はつまらない」とずっと言っていました。「被害者しか描いてないから」と。アジア2000万人を殺戮しながら、自分たちは犠牲者だったと考え、ただ核をもったアメリカとの戦争に負けただけだと考えているようではね..

川端『雪国』なんかは戦後のアメリカに都合よく敵意のない日本人像を描いていたから評価されたとおもうのですけれど、日本読者も、「トンネルを抜けたら雪国」だったという鏡像的な純粋な自己像が好きですよね。けれど、なんだかね。世界は世界自身を考えることができません。況や、トンネルのような世界の中で考えることができません。しかし日本は内部だけで考えるこだわりがあります。無矛盾なそこで、永久に被害者(純粋日本人)になってしまう。話がズレますが、アイルランドは独立するときに互いに殺しあう内戦が始まって、殺したイギリス人の数よりも、殺したアイルランド人の数が多くなってしまったのですね。イエーツだったか、「トンネルを抜けると出口がなかった」と言っているのですね。大島映画の面白さに通じるすごい言葉ではないかと思います。

80 国家とは暴力装置であると言われた。これは、国家を打ちたおそうとする者が暴力を組織化する程度にしたがって国家は対抗的に暴力をもつのである。非暴力はこれを乗り越える

81 ケルトの虎と呼ばれた景気から変わってきたが、アイルランド産業革命のなかった国だから中流が殆どいなかった。学のある中流アイルランドの語られ方を作る。アイリッシュは貧困をアイデンティティにもつ。貧困は世界中にどこにもあるから、アイリッシュはどこにも自分がいると感じることができるという。

82 母親が少数民族であるという中国人女性と、先祖の話で盛り上がった。日本人と同じで曽祖父と曽祖父母の名前を知らない。墓はあるが名前が書いていないのでという

83 プーチンウクライナの為にウクライナ人に代わって語る。戦前の日本帝国主義も、台湾の為に台湾人に代わって語った。現在安倍はアメリカの為に台湾人に代わって語っているだけ

84 ドイツではデモなどで「Z」のシンボルを使うことは禁止されている。ナチスハーケンクロイツなどと似た扱いになった。集団はかくも単純なシンボルに熱狂してしまうのはどうしてか

85 善意で世の中の為にやっていることを嘲笑った映画監督でしょう?価値判断からの自由への逃避をやめて敢えて善悪にコミットする言語的行いの複雑さが分かるはずもないとおもわれます

86  『ケルズの書』の文字の装飾は何のためにかはわからなかった。言語の存在が語られるフーコ『言葉と物』のおかげで、過去の書かれた言語の存在を称えたことが考えられるようになった

87 スサノオ天照大御神に示そうとする「清き明かるい心」は『古事記』にある天皇への忠誠を意味する宣命的言葉でこれが日本人の原初的倫理だとされたらたまったものではない

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88 いつまでもプーチンと同じことを喋っている日本左翼は痛いね。サルトルスターリンヒトラー化を知りながらもハンガリー動乱までくどくどスターリンを支持した彼の間違いと責任をおもう

プーチンみたいなくだらないやつに誰も殺されてはならないとおもうし、大事なことをやってきた市民だけにプーチンとおなじことをしゃべって影響力を失ってはいけないよ

89 吉本は被支配者階級が支配者階級の神話を受け入れて総惨敗したという。神話は支配の正当化だ。だが『古事記』はスサノオとアマテラスの対立を書いて統合の難しさを伝えるのはなぜか

90 アメリカ人ほどdreamという言葉を口にしたがる国民はほかにない。イワン雷帝の姿を見せてくれた「夢の工場」を作ったレーニンも疲れ果ててしまった

91 サルトル


サルトルスターリンヒトラー化を知りながらもハンガリー動乱までくどくどスターリンを支持した間違いがありました。この後、毛沢東を支持し始めたのです。ポストコロニアリズムサルトル読みがありますが、サルトルの影響力がなくなったなかで、構造主義の言説が台頭してきたのです。しかし近年、ヨーロッパではサルトルが復活しています。死に向かって、世界に投げだされた言語的存在である己が存在する意味を考えるという思想の理解はおなじだとおもいますが、存在としての抵抗を前提として、存在しないで惨めでいるならば存在して惨めであるほうがいいと考える若者がヨーロッパでは多くなってきたのでサルトルが自己の思想の形成として読まれるのではないでしょうか

92 Owl of Minerva(ミネルヴァのフクロウ)

The owl whose night-bound eyes are blind unto the day cannot unveil the mystery of light.

    If you would indeed behold the spirit of death, open your heart wide unto the body of life.

    For life and death are one, even as the river and the sea are one.

93 アマテラスとスサノオの対決だけれど、mess混乱だ。スサノオは謀反心がないことを明かす誓約(うけい)だったのに、奴から生まれた男神をアマテラスが自分の子としてしている

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スサノオは亡き母伊邪那美に会いに行きたいと言って、伊邪那岐に追放されてしまう。スサノオは姉アマテラスが支配する天に伸びってきた。姉は弟が天の支配権を奪いにきたのかと疑って武装している。


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95 ウクライナを考えるために

戦争が問題となるのは、民主主義の破壊です。民主主義こそが思想です。ウクライナは、ウクライナのためにウクライナの市民が考える民主主義の道を築いてきたしこれから築こうとするのに、「お前たちは無理だ、俺たちロシアがウクライナのためにウクライナ人の代わりに考えてやる」というのではたまったものではありませんね。しかし「どっちもどっち」論の護憲左翼の平和主義がこれほど観念的になったことはなかったのではないでしょうか。平和の問題は、日本の歴史から離れて考えてはいけません。天皇ファシズム軍国主義とがおなじ方向をもったときにアジア2000万人を殺戮した戦争犯罪が起きたのです。だから戦争を反対するだけでは足りないので民主主義を守らなければいけないのです。しかしながら、憲法の根底にカントがある、だから(自動的に、システム的に?)憲法は、憲法を壊すものからわれわれを守ってくれるはずだというような話を柄谷行人が展開しましたね、この10年間にあいだに。しかし民主主義とその思想を爆撃するシステムに対して抵抗する人々の存在がなければ.. また憲法愛国心をもちはじめていることも日本に起きている問題です。恥ずかしげもなく、それをはっきり言う影響力のある左翼もいます。愛国心に絡み取られると、愛国者プーチンを内面化してしまうことだって起きるのではないでしょうか。

96 ポントリャーギン(Лев Семёнович Понтрягин)の制御原理は計画の原理だが、近代経済学の教科書に市場の有効性を分析する為に使われる。科学は誰とも寝る

97 殺すー殺される

殺されるウクライナ人は苦しんでることはもちろんですが、この反対の方向で、殺しているロシア人も苦しんでいます。そういうことをおもうのはヒューマニズム過ぎるでしょうかね。他方で、戦争から学ぶことはできないとも絶望しています。学ぶことは学びからしか学ぶことができません。殺される人は殺されるのであって学んではいないし、殺す人も殺しているのであって学ぶのではありません。知の根底に関係の非対称性がありますから知は無限ではありません。有限です。しかし敢えて、理念的に、学びは無限であると考えることは可能ですし、近世を方向づけた脱階級的な学びも場を物理学が特異点を表現するように考えてみることは意味があります。

98 天照大御神が石屋戸から出たとき高天の原だけでなく葦原の中つ国も明るくなった。天の主宰者の支配の拡大を伴って、カオス(=スサノオ)がコスモス(=天照大御神)に回収された

99 幽顕論は、異端の平田篤胤の思想ではあるが、目に見えないものと目に見えるものとの交換が起きる。天照大御神の子孫(素戔嗚尊の5世の孫)は出雲系の大国主神から国土を譲り受ける

100 人類学知は生態と文化との関係を構造的に説明できる最高の知である。レヴィストロースは文化の体系を成立させる禁止が自然であるか文化であるかを明らかにしないことを問題にしたのはデリダである。全てを解釈し尽くすこれほど根源的なもの根底には声しかないだろう。そして声は一つの民族におけるものである。構造主義は自ら科学であると主張するが、ポスト構造主義からみると政治的意味を作っている。しかしカオス(=天ノ罪を犯したスサノオ)がコスモス(=天照大御神)に回収されたその読みは政治的意味をもつことは明らかだろう。子安先生が絶えず言及される津田左右吉の読みを無視してはならない。誰が『古事記』を書いたかという序文が大切である。『古事記』は訓(よ)むことはできない。訓(よ)むと、支配者である天皇のもとに貴族の知識人たちが書いた政治的意味がみえなくなる