2018-03-01から1ヶ月間の記事一覧

『言葉と物』

‪東京演劇アンサンブルの納会で同席したときだったと思うのだが、「1960年代に『言葉と物』はフーコが四十代のときに書いて、僕が三十代のときに翻訳した。いま五十代になった本多くんが読んでいる」、と、渡辺一民氏から言われたとき、嫌なことを言うなあと…

「これからの教養」を問う

‪これからの世界、これからの教養、は、多様体の方向を訴えた八〇年代の響きがある。これから何とかしなければならないとする危機感から言われる言葉だろう。問題は、八〇年代のように、再び、明治の漢語「国民」の設計通りに、国に民がくっつきすぎた「公」…

フーコとゴダール

‪『言葉と物』はボルヘスという始まりをもつ。ボルヘスから始めないと、イマージュの反覆を開始できなかった。読み手は絶えずベラスケス『侍女たち』にかえる。『映画史』の場合はボルヘスの言葉を以て終わる。ボルヘスで終わらないと、彷徨う無限のイマージ…

言葉

抽象‪「X」だけで考えようとしたら大変難しいけれど、「Xへの手紙」という風に方向づけるならば何とか考えることができるようになる。抽象「X」にたいする「への手紙」という言葉の介入によって、「X」について自己同一的な限定された物の見方から、「Xへの…

漢字論

「<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと」Simone Weil言葉は宇宙の中心…

Au commencement était la Parole.

‪Au commencement était la Parole. 「初めに言があった」。原語では言はlógosである。初めに漢字が存在したのは、ここで言われる「初めにロゴスがあった」のとおなじである。子安氏の言葉をひくと、「漢字とは、それなくしては思考そのものが現実に存立しえ…

MEMO

‪‪戦争協力しなかった台湾のシュールレアリスムの詩人達の存在をめぐって議論されることは最近までなかった。なぜか?国家が言説化したこの一国<文学史>の問題は、国家が可視化した集団肖像画?外苑の聖徳記念絵画館における王政復古を物語る一国<アジア史>…

‪漢字も眠るのだろうか。眠っている間、夢を見るのか。漢字は夢のなかで、‬仮名の肉体をもっていたり、‬‪アルファベットの肉体をもっている自己を見ている。‬‪目覚めは死‬。目覚めたとき読まれてしまうから。そのときは漢字は声を住処にしなければならなくな…

ジョイス

‪‪ジョイスの「自分で決めた亡命」によってアイルランドの外部で書いた、1916年の英国植民都市ダブリンを舞台にした『ユリシーズ』に登場するダブリンの人々は、古代イスラエルを住処としている。語りかたは、よく知られているように、まるでカメレオンみた…

ソクーロフはいかにルーブル美術館を語ったか

‪ルーブル美術館をヨーロッパ起源と等価なものとして再構成するのは、アジアから船で運んできたオブジェたちでこの建築物を作ったナポレオンの植民地主義を隠蔽する作り物語だろう。だけれどこの種の隠蔽は第二次世界大戦で起きた。不潔なボヴァリー夫人の映…

一国知の問題

一国知はもうたくさんだ。必要とされているのは、近所どうし、隣りの国どうしの知の共有である。共有とはともに考えること周辺の特殊は、近所どうしの関係から切り離された場所で、自らの固有性を解釈しても、そこに否定した普遍が再び現われているだけ。普…

‪誰がジョージ・オーウェル『1984年』を怖れるのか?

‪‪誰がジョージ・オーウェル『1984年』を怖れるのか?ヨーロッパの周辺国アイルランドで起きたことは周辺国中国でも起きる。この問題はポスト・オリエンタリズム問題として考える必要がある。西欧近代に対抗する非ヨーロッパ圏の知はこう考える。ヨーロッパ…

「文献学ニヒリズム」

厳密詳細な文献学批判を展開する近代知は、現前のテクストが「不確かなテクスト」としてみなし、剰余的付加物を取り除いて、想定された「確かなテクスト」へ探索する知の働きである。問題は、この探索に純粋さのもとに絡みとられる意味作用があること。「幻…

デモ

‪別に柳田国男じゃないんだけれどね、旅人のごとくデモの現場に来てみると、国家の全体は力に頼らなければ権威を保てないことがみえる場所が必ずある。また恰も外国にすむ生活者として留まるとき、そこに集まった人びとの訴える声が最もきこえてくる場所もど…

帝国

ネグリとハートがいうように、「帝国」がグローバル資本主義という帝国ならば 、見捨てられた帝国とは何かという問いが立つ。「いくつものの異世界帝国」は、言説としての混在なもの(エテロクリット)を住処とするのだろうということは一考の価値がある。とこ…

ゴダール『映画史』

‪「すべての歴史」「ただ一つの歴史」というゴダールにおける「エテロトピーhétérotopie 」とは、ヨーロッパと対等にある、いくつものの反映画の歴史から構成された「それ自体のうちにいくつもの異質な要素を含む場所」。『映画史』のラストがボルヘスからの…

情報というのは、破壊されるが、破壊され尽くすということがあり得るだろうか?同時に、保たれるのではないか

‪たしかに警察官と機動隊のデモというような光景でした。官邸の入り口付近を警備すれば十分なのに。交通規制の口実で、地下鉄入り口でこれほどあからさまに言論の自由に合流できないように妨害していたとはね。"排除します"の都知事のデモ潰し条例が可決され…

‪フーコの「混在郷 (hétérotopie エテロトピー)」とは何か?‬

‪「混在郷 (hétérotopie エテロトピー)」とは何か?‬‪フーコの造語。utopia (ユートピア)との類比から作られている。すなわち、utopiaは、語源的にはギリシャ語の「ないこと」をあらわす ou と 「場所」をあらわす topos から出来ているが、ここでは ou のか…

0316

‪デモの現場に来ると、政府は力に頼らなければ権威を保てないことが見えちゃう場所がある。またそことは別に、ここに集まった人びとの訴える声が一番よくきこえてくる場所もあるわれわれはやってくるのは、いつものように卑近な鄙びた裏道からだけれど、世の…

子安宣邦『国家と祭祀ー国家神道の現在』(2004)

‪ 言説(ディスクール)discours文あるいは言表の連鎖としてまとまった内容をもつ言語表現の意味であるが、ギリシャ語の「ロゴス」logosに由来する語であり、直接的、直観的な表現ではなしに、概念作用と論理的判断をへた秩序のある表現というニュアンス。ディ…

中国<人類史>論のディスクール

<人類史>論のディスクール国家主席の任期撤廃を正当化する言説は「人類史」に言及します。天安門広場前抗議の事実が記憶されているのかどうかという問題がありますが、とにかくこの「人類史」から、「私たちが慣れ親しんできたような民主主義型のシステムを…

格差の問題

この三十年間ネオリベの市場主義の考え方のもとで世界的傾向なのであるが、考えることを放棄したようにみえる財務省の問題とは何かとあらためて考えると、それは森友学園事件で露呈したことなのだけれど、財務省はアイデンティティの政治に巻き込まれている…

マルクス『賃労働と資本』

『賃労働と資本』は、先ず資本主義の存在から考えたが、それはなぜか?この思考の優先順位は格差の問題を政治的に解決する方向性をもっているからだろう。そこで平等をめぐる民主主義が要請される。ところが対他的に大きな他者が出現したときに、対自的に、…

「永田問題」とは何か

‪元NHKの永田浩三さんをフェースブックで発見したときの驚きは、なんというか、「永田問題」が存在していることをおもいました。「想像の共同体」の著者は、後期近代の現在、他の国家と同様に、もはや日本も実体としては存在しないと指摘した上で、現在は国…

サルトル

‪こういうオリエンタリズムもあるのだけれどね。フランス人はカフェではサルトルを読み、イギリス人はパブで飲んで殴りあいするという。そのサルトルだけれど、現在は理解できるようになったが、だけれどロンドンのときは何度読んでも躓いてしまっていつも意…

‪歴史を正しく伝えることは可能なのか?‬

‪歴史を正しく伝えることは可能なのか?‬‪わたしはそれはできないとおもいます。歴史を正しく伝えることができるかどうかという問題を考えるために、ここで、歴史上の有名人に登場してもらいましょう。その有名人を正しく伝えることができるかをしばらく考え…

先ずグローバル資本主義の問題がある

先ずグローバル資本主義の問題がある先ずグローバル資本主義の問題がある。これこそが思考を可能にする優先順位であるとおもう。ここから格差の問題や自由に喋ることができなくなってきた問題をよく考えることができる。この優先順位を保つことによって、思…

泉鏡花

久々に歌舞伎座に来た。三月の歌舞伎「滝の白糸」(玉三郎演出)は、(既に試みがあるかもしれないが)、オペラにできるんじゃないかとおもったほど充実していた。この新派劇は、溝口健二監督「滝の白糸」の記憶を辿りながらみたのだけれど、たしか、溝口作品を…

MEMO

「非核化」は、ヘイトスピーチの交換ゲームをやめなければ見えない道筋だろう。大事なのは、「非核化」の方向に対して、このクニはそれに相応しいあり方になっていなければならない‪安倍政権と日本会議がやっていることは、生者の論理にしたがって死者を利用…

BBCのラジオドラマ

ロンドンにいたときは、ご近所に、キリスト教の人たちがユダヤ教に戻る(?)ための訓練センターみたいな施設がいくつもありました。あの中でどういうことをやるんだ?と、イスラエル人の友人に聞くと、豚を食わないようにトレーニングするとか言っていました…