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‪「教育勅語」の稲田防衛大臣が語らないこと

‪「教育勅語」の稲田防衛大臣が語らないこと

‪隠しているんだろうと思いますよ、他に色々と。(近代化を担った下級武士のエートスをとらえた儒教的背景をもった)後期水戸学の言説とか、(維新の後に展開された)国民道徳論とか、(あの妄語は国民道徳論の出来そこないの一部ですね)、まだ他に、靖国史観が物語る三種の神器とかトンデモ話を過剰にかかえている雰囲気ですね。しかしやはり稲田のあの頭のなかの「教育勅語」はヨーロッパの近代と結びついているでしょう。そして、なんといっても、バブル期に培われた差別感からの圧倒的影響はないでしょうか、少数民族の存在を否定し、あたかも「一つの日本」「一つの日本語」があたりまえとする中曽根内閣の時代のことです。そうしたことを踏まえたうえで、とくに国民道徳論について改めて考える必要があると思うのですね。少し前置きなのですけれど、丸山が指摘したという、(商人階級に支えられた)徳川儒教の弱点という話に即していえば、仏教がもつ本質的平等観がないのですね、農民出身の商人であった石田梅岩はありましたが、だけれど、仏教も石田の心学も、いかに平等を実現する方法を考えることがなかった、そこに限界があったと指摘する見方があります。明治を待たないと、平等を実現する制度論が出てきません。しかし福沢諭吉のように、バッサリと伝統を形作っていた近世思想を切り捨ててしまうとき、何が起きて来きたかをみますと、自由民権運動の盛り上がりが引いたあと、対抗的に、「伝統」を取り返せみたいな似非国民道徳をいう言説家たちがあらわれるのですね。西欧の市民道徳は国を亡すという感じだったでしょうか。しかし西欧列強から植民地化されることを避けるために行われた天皇のもとに国家権力の集中を正当化するこの国民道徳論も、日清・日露戦争のあとに耳触りになっていったと想像するのですがね、しかしながら大正デモクラシーのとき日清日露戦争の意味が反省されることなく、したがって天皇の権力集中を続ける必要がないという「他の道」が検討されることもないままに、歴史修正主義者の安倍が自分のアイデンティティを置いているとみられる満州事変へズルズル行くという...‬

誰が教育勅語を作ったのかを戦争責任の問題として問うことに意味はある。だが教育勅語の核についての解釈に絡み取られても、くだらない国体概念ー日本の自己同一性ーしか出て来ない