中江兆民

‪言語(エクリチュール)が先行する。言語が思考を可能にする。中江兆民にとって、たしかに近代ヨーロッパ語が書いたルソーは考える契機であるが、思想を自分たちのものにするためには、漢文体の言説でなければならなかった。つまり漢文エクリチュール(漢字書き下し)が先行する。理学の言語が思考を可能とする。自由民権運動は漢文エクリチュールで書く思想にかかっていた。1880年代を読み解く子安氏によると、天皇論的なタテの語り(「国体論」の神話的視点から語る国家的原初に遡る漢文体の言説)に対して、中江兆民のヨコの語り(対抗的な漢文体の言説としての世界史的な社会契約論的な語りかた)が存在していたという。今日の問題は明治維新150年の言説は自由民権運動の民権論を消し去ってしまったことにつきる。これはなにを意味するのか?21世紀のアジアの民は再び民権論の思想を自らの手で書くことをしない民に戻ってしまったのである。そうして再び、大嘗祭元号教育勅語の脅しに絡みとられるようになった感じがしてならない。この時代に、新しくだれが中江兆民の役割を演じるのか?国体的なあり方を批判的に考えるために不可避とされた漢文エクリチュールの存在の意味を言うのだろうか。最後に、天皇論的なタテの語りは近代主義の語りであるから、天皇論的なタテの語りに抵抗するためには近代主義の語りによることはできないだろう。天命の自由と人義の自由を考えるとき、どちらが<本来的>でありどちらが<非本来的>であるかと選別と排除を行うのは近代である。それに対しては、(講義の後で喫茶店で話し合ったポイントなのだけど) 天命の自由の成り行きに問題があったことを認めた上で、他者との出会いの意味を拡充していくように、天命の自由と人義の自由の両者の関係を深めていく方向の大切さを漢文エクリチュールからわたしは学ぼうとしているしこの8年間学んできたように思う。

(講座<明治維新の近代・7> 我より法を為(つく)り、我より之に循う ー中江兆民民約訳解』を読む)

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‪‪「天命の自由」は何か?‪ 「人義の自由」は何か?「天命の自由」は現代の文脈において対応させることができるだろうか?‪「天命の自由」は単純ではなく、兆民において必ずしもネガティブにとらえられてはいないことに注意しながら、「天命の自由」をグローバル時代として考えてみる。この時代こそは、国家を批判的に相対化して自立できる究極の主体の形成が要請される。問題は、「天命の自由」の成り行きである。「天命の自由」はグローバル資本主義の「意をほしいままにして生を為す」となってしまっている。このように考えてみたら、「人義の自由」についてどんなことが言えるか?「人義の自由」は、共通なものを社会契約によって作り出すという言説をもったマルチ・カルチュラリズムだろうか。ロンドンのマルチ・カルチュラリズム、ロンドンの「人義の自由」はだけれど、イラク戦争を背景としたナショナリズムのために困難となってしまった。これをどう理解するのかわからなかったが、子安氏のもとで現在取り組んでいるアジアの「グローバル・デモクラシー」と制作論は、グローバル時代の「人義の自由」の概念の思考と無関係ではないと気がついてきた

宇沢さんの本を理解していたかわからないのですが、「社会的共通資本」はこういう不可欠なものですとはいきなり言うことはなかったように思います。イデオロギーでやっていけなかったところを、近代経済学の「経験」でやっていけるかといえばそれもやっていけなくなるだろうと考えたとき、理念的に、議論の「社会的共通資本」を打ち出したのではないでしょうか。現実に、議論がなくなればなるほど「社会的共通資本」が危機に晒されてきたという感じです。「社会的共通資本」を議論無き安倍政権と日本会議の救済神学にゆだねていいのでしょうか。国民道徳にも「教育勅語」にも、公(=国家)を批判する高さを為すものではありませんでした。現在なおこの問題に直面しています。グローバル資本主義を推進するあり方を批判できる究極の主体が依拠できるような卑俗的な高さが要請されているのではないでしょうか。中江兆民の自立的言語を以って書かれた「我より法を為り、我より之に循う」という‪アジアの社会契約論の‬思想を発見しているところです。