歴史的に、東アジアの市民運動から成り立ってきたデモクラシーの「知」を、国境を越えた市民の間でいかに共有するかを考えることは大切だとおもっています

歴史的に、東アジアの市民運動から成り立ってきたデモクラシーの「知」を、国境を越えた市民の間でいかに共有するかを考えることは大切だとおもっています

日本の政治のことについて考えるのはもはや時間の無駄のようにおもってきたから、そう感じたときはそうなってはいけないと自身を反省したけれど、オキュパイ運動以降世界に連動している東アジアの変化と運動ー今度の台湾の選挙ーをみると、わるいね、ここで本当の事を言ってしまって....やはり日本の政治に期待することのどうにもならない不毛さをどうしようもなく自覚することになりました。しかしだれがこのわたしを叱りますか?
東アジア規模の権威主義体制に対する台湾・香港の学生が穴を開けようとしている抵抗の意味も広く一般に理解されていない有様で、それどころか、現状維持でいいと思っているところが多々あるので、現在なにもかも破たんしてしまったというリアルな事実認識が中々起きませんね。日本側の運動の連帯をいう知識人は非常に例外的で、また発言する公の機会も奪われています。残念ながらいまだにこのことの深刻さも議論されることがありません。しかしこれがナショナリズムということなのかもしれません。歴史的に、東アジアの市民運動から成り立ってきたデモクラシーの「知」を、国境を越えた市民の間でいかに共有するかを考えることは大切だとおもっています。わたしは東アジアの一日一日の市民の運動の成長を見ています。

 

 

再びかんがえる・・・

絶望的に時間の無駄とあきらめていた私にふたたび、こうして政治に考える試練を与えてくださった戸倉氏と平井氏のお二人に感謝申し上げます。昨年は、本来ならば自民党の御用学者として発言してもいいような憲法学者たちが、ーかれらはどちらかというとかれらが大事と考える国家の枠組みの危うさを感じて憲法の危機を訴えたのでありますがー、なんと自民党審議会の中から抗議の声をあげたことは一定の世論の喚起がありました。連動する形でそのあと、かつての安保のときの東大・早稲田のような中心的大学からみえれば周辺に位置しているような大学生たちが声をあげました。たしかに、国会前のデモにいく電車・地下鉄の中で、こんなに'おしゃれ"な格好でいいのかと思うほどの'場違いな''お祭り'といわれても仕方ないようなマスコミ商業主義への迎合の稚拙さのことが指摘されましたし、それどころか、誤解もあったとはいえそれにしても、許されざるような集団規模のへイトスピーチを韓国人研究者のFb友人に浴びせるという事件が起きました。この点に関して、憲法制定権力から立つデモの自由はいかに同時...に、他者の発言する言論の自由をみとめるのかというテーマを真剣に検討すべきでしょう。ただその若者たちが満員電車のなかで、'強行採決のことを考えると憂鬱だ'と語り合っていたことだけは信用していいとおもいます。また戦争法強行採決の敗北の後、非難されることになった女性たちは「自由に喋らせてくれ」と訴えました。こういう戦後初めての自発的な訴えともいうべき個人の言論の自由の要求にもっと注意を向けなければならないと思っています。たしかに、国際的連帯のことを考えることがない孤立した日本左翼の運動の存在感のなさは否定しようもありません。あまりにもナショナリズムにとらわれてしまっている現実をどうするのか?たしかに理念を口にすればそれがそのまま実体化するはずもありませんが、ただそれでも、現在のナショナリズムを相対化するために、なにかの理念はすくなくとも方向づけを与える可能性はあると考えています。'東アジアの民主主義'だけではないとおもいますが、子安氏が言うように、民主台湾の「勝利は東アジアの民主主義に希望を与えるものだ。この勝利を東アジアの民主主義の前進に繋げるかどうかは、日本の我々自身の運動にかかっている。民主台湾のこの前進は2014年春の学生市民の太陽花運動に始まったことをしっかり思い起こそう」。つまり東アジアの民主主義という理念と、権威主義体制に穴をあけた太陽花運動があったという経験知ですね。私が考える、理想・理念と経験知との関係はこういうものです。「人は一人でも飢えてはならない」という理想・理念がなければ、ネオリベのマーケット無政府主義を正すことができませんし、また同時にそこに、「一人でも喋る自由を奪われてはならない」という理想・理念がなければ、ネオリベ権威主義体制の歴史修正主義を正すこともできません。これにかんして、現在消滅しきっているわけではありませんけど、かつて野党として存在していた社会党のことを時々話しあいます。第二次世界大戦前は、貧富の格差が拡大すると同時に戦争体制と言論の自由を抑圧する体制が拡大しました。だから社会党が戦争反対を訴えたときは、戦争の問題と貧富の格差の問題を共に主張しなければなりませんでした。最後に、そのことを踏まえて現在について考えることは、今年か来年かはわかりませんが、自衛隊がアメリカ軍の空爆を手伝い現地の住民を大量に殺戮していく事態になって、なお左翼政党たちが「憲法は日本人をまもっている」と言うことが果たして可能なのか妥当なのだろうか、中近東の爆撃された人々はどういう気持ちでそれをきくことになるのだろうか?もちろん一人一人の市民が街頭でそれを言うことの意味は大きいとおもいます。ただ政党はどうだろうか?議会の立場から現在直面している問題を考えさせてくれることをいわなければならないのではないかと。そしてもし社会党は消滅していなかったらかれらは何を言うことになるのだろうか?やはりその事態のときに左翼はどのように抗議していくのかをいまからかんがえる必要があるのではないかとかんがえています。それなのに、選挙は大事ですが(その大事という意味は考える自由が与えられるからですが)、現在の日本政治のように数合わせの選挙協力という選挙しかないんだというローマ式民主主義のもとではなにも考えることができなくなります。でもその数合わせも破産したようですが