こんなに大勢イタリア人が来るんだなあと成田行きの飛行機で驚く。どうも仕事とか勉強でなくフラフラと来るようなかんじだ。
機内で、イタリアで見なかったものを考える。それはシュールレアリスムだろう。とりあえずここからはじめるか
再び壁の東京に来てみると、ずっとイタリアにいたらなあととても寂しいが、いかにここから脱出するかというような情念を書いたり絵にすることはできないだろう
カジノ法案から、政治家達が隠そうとしていたこの国の近未来がみえてきちゃった。福祉予算も教育予算もなんでもかんでもルーレットの運に委ねられてしまうというギャンブル国家
ナポリのイタリア人は笑わないのは心を許すとギャングにやられてしまうからである。ローマのイタリア人が笑わうのは笑わないでいると僧侶にやっつけられてしまうからに違いない。
映画は写真の後継者という。映画の歴史を遡れば現れてくるのは写真の破片だけだ。映画の原初を問うとき、物で書かれた映像世界の破片達と、語る言葉を分節化する必要がないだろう。鳥のジョイス文学。境界線が属するのは地上の文化だけで、天と地を循環する海を囲い込めない。生成する運動を無理に統合するから分裂の危機が起きる。天を一つにしてきたのも統合
初めに言葉ありき?演劇が映画に先行したと言う者は映画の起源に声があったと言うが、演劇から自立するほど映画の生命が成熟しなかったしそこにどんな映画も存在してはいなかった安倍「ハローハロー、もしもーしアイアムシンゾー、ハロー、マイ・ダーリン〜」
トランプ「........」
波は至るところに。
高慢に先行した時の名が
左の方向に消えゆく。
充満している隙間たちが
死者達の息を吸い尽くすまえに
絶望的に、再び波が右の方角から
勝手に時の名を決めてくる
左巻きの民族主義の風景しかみない狭い視点は、人類的理念とナショナルなものを無理に統合しているので、普遍主義が始まると同時にナショナリズムが完成しないこの理由を考えない
「古事記」は読まれ続けてきたという嘘を確信犯的に言う言説が非政治的にあり、同時に、安倍応援団である日本会議が政治的に存在する。両者は"もう一つの日本"を呼び出している 時代を遡れば現れてくるのは暗闇の漢字の破片だけなのに、偶然の破片達から、書く言葉と語る言葉(声)を二重化して、後者の前者に対する内在的優位を想定する光の包摂が何故必要か20世紀の「野生の思考」は「存在と無」又は「言葉と物」と読まれた。日本では19世紀の「資本論」を読み解くコードであった。その代償は「21世紀の資本」を読めなくなったこと
盲目の言葉と沈黙する映像との間のように切り離してはいけないのに切り離した結果、言葉は映像を語りそして映像は言葉を見る。それは映画における伝達であって意味の生産ではない。 宣長の他の文明からの自立を求めた思想闘争と注釈学。切り離してはいけないのに切り離すから、思想闘争を隠蔽した非政治なものがもうひとつ"日本"を政治的に喋り始めたのである書くことは、記号によるメッセージに統合されない目的なき過程という理念に最初に来たのは、アルトー、解読を前提としない、意味を伝える意図もない器官なき身体、詩の絶対の孤独
1、中学生のときだったが、たしか、弾劾委員会という自発的な集まりがあって、規則をまもる者を弾劾しようとしたのであった 日本の自己同一性の言説を崩すために、だが思想闘争と注釈学とを、実はただ思想闘争を切り離す形で、無理に統合するから、非政治的なもう一つの"日本"を政治的に語り出してしまうアルトーのアイルランド訪問と彼のパフォーマンスを自分達が知らないのは何故かと彼らは不思議がる。もしアルトーは意味を伝えに来たならば記憶されていたのかもしれないのだが
6、書くことと投射は切り離してはいけないし無理に統合もできない。書くことを排除する形で、無理に統合するから、書くことのかわりに話