『論語』の再発見

‪「二十世紀の社会的=政治的な場における想像力の貧困が、一体どこから来るのかとその理由を探ると、マルクス主義が重要な役を演じています。[…]いかにしてマルクス主義と縁を切るかというモチーフが私の思考にとっても根本的なものなのです」( フーコ、世界認識の方法-マルクス主義をどう始末するか-)

• 想像力とは他に結びつく力のことである。だからここで「想像力の貧困」とフーコがいうものは、平面上の2点でも2点を結ぶ線上に穴があいていたら測地線がみつけられないように、想像力の他へと結ぶ力が機能しなくなるということだ。マルクス主義は穴である。フーコの言葉を読むと、理性が想像力を捉えてこれを押し潰すようである‬。だからといって理性そのものが否定されたら想像力も無くなってしまう危険がある。そもそも理性それ自身の不在とはおそろしい話ではないか。穴となったのは理性であるが、穴を取り除くことができるのも理性である。問題となっているのは、理性のあり方(理性の想像力にたいして取る関係)についてであって、マルクス主義の全部を零にしてしまったら何もかも無になってしまうかもしれないと渡辺一民氏がこのことを言っていたような意味で理性それ自身の不在についてではない。問題は、何を以て、何を選択して、マルクス主義と縁を切るかに存する。文化大革命天安門前広場での弾圧に対するマルクス主義への失望のなかから、新しく『論語』の意味の再発見が起きてきたのではないか。(翻訳に取り組む者も出てくるが、ヨーロッパ語の翻訳であれ、現代の口語訳であれ、それらは本当に必要かという疑問があるが、これについては別の機会に)