『論語』とは誰かwho ?

‪『論語』は2000年の間、編集され続けた。何が先で何が後か?解釈にもとづいて順番が変更されたり、場合によっては書き加えられたりした。消えてしまった言葉もあるだろう。解釈も常に解体された。『論語』とは、誰が最初に新しくそれを言ったかという差異の運動であるようにみえる。現代から文献学的にどんどん解剖していくと、『論語』はゼロとなってしまうことは知っておいてもいいだろう。だから、あえて、原初テクストが存在したと理念的に構成するしかないのである。初めがあったか無かったということはそれほど大切ではない。そうして、この冒頭の書き出しは特別のものとはならないが、常に最初に来たのではないだろうか。学は学であるというかわりに、「学のごとし」という。友は友である、ではなく、「友のごとく」という。比喩形象から考えるとはこういうことだ。はじめも終わりもなく、比喩形象から考える、無数の解釈の痕跡で構成されている差異の開かれた構造。ここに、いかに近づいていくかは、思想に試練を与える。そしてアートのあり方を問う可能性をもつのではないかとおもうのだけれど‬。最後に、『論語』の現代語訳になるほど平仮名が溢れる。『論語』は漢字で書かれていることが忘れられてしまう日がそう遠くない?だけれど、『論語』は、漢字という書かれた言葉で成り立っている意味を考えると、音(世界の中にある)と声(現象学的な意味で)との統一性を前提にしてはいないことが重要なのだ‬