旅 2017年 ー トリエステからウイーンへ

インド哲学中国哲学を勉強するひとが少ないという。そういう私も勉強してこなかった哲学たちなのだけれど。今日神田の古本屋街で中村元のリグ・ベーダーの解説本をよんでいたら、イスラムが影響を受ける言い回しがあるという。と、ダブリンで原文?と英訳の本があったことを思い出してしまった。アイルランドにおけるプラトンの継承、スコトス派(スコットランドのではない)の学問好きのリベラルな人々は求めるー仏革命よりも、五百年前のルネサンスを。リグ・ベーダーやウパニシャッドを読む、17世紀の無限を有限におく神秘主義の継承?瞑想の傍らで、フランスみたいにもっとアリストテレスを読むべきだと呟く、マイナーなトマスアキナス派の声もきいた。外国人のわたしにだけこの本音を告げる。不思議に思ったものだが、ケルトの虎と呼ばれる景気で、その数が二倍になった世俗的な中産階級は、アナクロニズムにみえるカトリックの政治に不満だが、仲良くしていても社会主義者に心を開くほど無神論の近代を信頼していないというか...



アイルランドのゲール文芸復興運動の中心にいた、詩人ウィリアム・バトラー・イェイツの作品を理解するのに少しでも役立つかもしれぬと思って、彼が興味をもったサンスクリット語の初歩の初歩をダブリンの語学塾で二カ月ぐらい勉強する気になった。5000年前にあらわれてきたリグ・ベーダー。これについて全く無知なのに何か語るのが恥ずかしいし図々しいとも思うのだが、とにかく、持ち帰った資料をみると、文字が登場する後の時代に書き記した文の英語訳がある。May the truths which the scriptures proclaim live in me who am at one with Spirit. 私のようなものにも、これは、いかにも近代ヨーロッパが再構成した訳文であるとわかる。ここで、一応このように読めるとして、教典を守れと言っているわけだけれど、今日における国会の政治家の演説にあるように、根本を為す教典を守れという意味を為す言葉に、なんか大きな力を感じる人が多いようである。これは、『論語』学而第二章を私に思い出させる。「有子はこういった。孝弟のひとにして、上に逆らうことを好む者はいない。...」。これは、継承者の立場から孔子の教えにある整理がなされている文だという。2500年前の孔子のオリジナルの言葉とおもわれているものにすでにポスト孔子の教説が書かれているのである。おそらく、リグ・ベーダーについて同様のことがいえるのか。古代中国も古代インドも原初のテクストを守れという。だけれど、孔子の言葉、詩人たちの言葉が住処としている原初のテクストは彼らの死後、弟子たちの何世代かの後に、読めなくなってくる(だから注釈の必要が出てくる)。イェイツにとっては、過去に帰れということ、それは読めなくなったテクストの意味を作っていく詩的な発明を意味していたのか?‬未来を思い出すこと、ここに、アイルランドが立つための突破口があるが、これは、経験的に調査して言葉に取り組んだシングと違って、イェイツはロマン主義的に行った。死に切った過去から思い出したというのが私の理解である。



‪昨夜はローマからの乗り継ぎで、夜10時過ぎにトリエステに到着。イタリアの一番端っこはベニスではなくここトリエステ南ヨーロッパに継がる。その意味は何か?だけれど街は闇に包まれている。十数年前にここに来たときは、このように鄙びた所に、オペラハウスがあることに不思議に思った。商業が情報と知を運。トリエステにおいても例外にあらず。20世紀初頭、貿易と交通とそれが運んだ知がこの街に存在していたというふうに考えられる。トリエステの発展の歴史は、ユダヤ人による。ダブリンから自分で決めた亡命の作家を迎えたときは、ヴェルディ未来派も沸騰していた。いまは暗くて見えないが、夏の夜の嵐のことをおもいだす。当時ヨーロッパで有数の大きさをもっていた港の広場から見渡す、アドリア海の稲妻。この無言の炸裂が、古代ギリシャに神話の想像力を与えた。「ユリシーズ」は神話的リアリズムを以て書いた。神話とリアリズムのモンタージュ。神話的というのは、テレマコスで始まり、ペネロで終わる構想である(一番最初の挿話がどの神話で始まるかは偶然ではあったが。)リアリズムは、植民都市ダブリンの人々の日常を描いたこと。ジョイスはトリエステの作家を小説のモデルにした。そうして、ギリシャ神話の神々はダブリンに生きる主人公たちの無意識に棲んでいるようである。人間という有限の存在に神々ー無限ーを置くこと。しかしそれはどういうことなのか?ヘーゲル左派マルクスが最初の論文でかんがえたギリシャの神は個体性(原子)を住処としていた。カラバッチョにおいては神は人間を住処とする(天使は宙を飛ばない。貴族ではなく、労働者たちの街にいる女性がイエスを抱いている。) ジョイスの場合は、アイルランド作家たちの独立をもとめるアイデンティティー"ひび割れた眼鏡をかけた召使い"の芸術と揶揄されるー、ここに古代イスラエル古代ギリシャの神が棲んでいる。ジョイスはここに自己の有限性を見いだした。ジョイスはシューレアリストではない。シューレアリスムは抑圧からの解放であるから、ジョイスのように『フィネガンズウエイク』を完成させるために50数カ国を学び続けるというような抑圧はあり得ないだろう。社会的に受け入れられず普遍的に論理的である構成の為に必要としても、屈辱というか、植民地主義的従属化かもしれないのである。だけれどジョイスは無限へ行く可能性が、ほかならない、この有限性を住処にしているいることを信じていた。時代は変わる。昼の本から夜の本へいく。その意味は何か?ジョイスの戦争を避けてトリエステを出てチューリッヒやパリへ行く時代に書いた『フィネガンズウエイク』は、1930年代のポスト・バベルの塔という性格をもっているといえるだろうか、私はそう思ってるのだけれど。そもそも伝説バベルの塔は、古代アラブの高度な建築術とコスモポリタンの都市的多様性を物語るが、それと対抗する必要のためにユダヤ共同体にネガティブに物語られることになったが、ジョイスにおいては、建築物が人間の住処であるように、ファシズムに依存しない、時代と等価の大きさをもつ文学が人間の住処となるべきであった。‬




トリエステの広場 (Piazza dell'Unita d'Italia)は、私の想像において、ジョイスがいた時代の色々な方向性が投射されている平面。トリエステの帰属をめぐるオーストリアの伊の対立、ミラノとローマの対立、社会主義アナーキズムナショナリズム。この平面に、文学が依拠する、複数の直線上の運動から自立した精神的な点が存在していることが要請される‬。



ムッソリーニのイタリアの前まで、多様な言語が沸騰していたらしい。フロイトも、トリエステに来ていた。ここは彼にルネッサンスのダビテ像とは異なる、ヘブライのダビテを考えさせたかもしれない。それははっきりわからないが、何にしても、「モーゼと一神教」結実する仕事は、他者アジアと相対するヨーロッパの端、言語の端を必要としたのであるとおもわれる。



 ‬‪今日は午後から、ガリレオがいたパドバへ行くのだけれど、タイムラインに流れてきたケインズの言葉を読んだら、ロンドンで観たブレヒトガリレオの生涯』でガリレオが教会の僧侶達が作った地動説を裏づけるデータを利用していた場面を思い出した。‬

‪The difficulty lies not so much in developing new ideas as in escaping from old ones. - Keynes                                            ‬時代が必要としている新しい考え方はちゃんと出てくる。だけれど時代遅れの古い考え方をやめるのが難しい。ケインズはこの言葉を新古典派の教説に対して言ったのだけれど、もし今日彼が生きていたら、austerityのネオリベ経済学に対して言うことになっただろうね。ヨーロッパは、グローバル資本主義に対して新しい普遍主義をつくろうとしている。だが一国主義の非常に悪い形にとらわれていると言わざるを得ない。明後日オーストリアに行く



駅には列というものがない。電車が到着するとバラバラに中にはいる。降りているのに、かまわずはいってくる。なんだろう?イタリア映画のなかを移動しているような楽しい気分


‪ヨーロッパの貧しい国、ギリシャ、スペイン、ポルトガルアイルランド。そしてイタリア。ルネッサンスの時代は、ヨーロッパの富がイタリアの都市にあつまった。その富を失って豊かな都市は 豊かということを自分のものにしている。今日はパドバのジオットに出会えるか?‬



‪文学は文学としてあるのは思想においてである。イェイツとジョイスの文学は、言語と土地を失っても文学である。文学であるということを自分のものにする思想だ。ベケットに知のヒエラルキーはない。プルーストのように半ば死んだ半ば生きている記憶に戯れる豊かさを失う。失うために失うことができる‬。



What is Giotto ?

パドヴァ礼拝堂の装飾画はジョットがやった。所謂「自然の模倣」を以て、空から青色が降り注ぐのを描いたという。「自然の模倣」とは何か?恥ずかしながら、美術史の知識もない私には分からないが、もう画家は、超越者から発する光の領域と、空からの光の領域との区別をやめてしまっていたのだろう。考えてみるとこれはすごいことだ。ルネッサンスの物の見方からするとジョットは先駆的な成功を為す仕事をしたのである。他方でゴシックとビザンチンの物の見方からすればジョット成功したのだろうかという問いが立つ。


What is Giotto ?

パドヴァ礼拝堂の装飾画はジョットがやった。所謂「自然の模倣」を以て、空から青色が降り注ぐのを描いたという。「自然の模倣」とは何か?恥ずかしながら、美術史の知識もない私には分からないが、もう画家は、超越者から発する光の領域と、空からの光の領域との区別をやめてしまっていたのだろう。考えてみるとこれはすごいことだ。ルネッサンスの(ローカルな)物の見方からするとジョットは先駆的な成功を為す仕事をしたのである。この見方と同等の権利を以て、ゴシックとビザンチンの(グローバルな)物の見方からすればジョット成功したのだろうかという問いが立っただろう。‬被造物の世界では一的理にもとづく多様性が個体において顕現するという。それならば、死後の世界が定位する、パドバの礼拝堂の中とは何か?個体も多様性も、何も消滅していないではないか。この世とあの世の区別がない。このものしかないかのようだ。芸術(ジョットからカラヴァッジォまで)が<解体>神学知を推し進めたし、他方で宗教は自ら純化によって、経験の領域から退いていったということなのか?‬パドバに来ると、こういう鬼神的テーマをリアルに考えることになるのだけれど、トリエステに戻ってくると、そういうテーマをかんがえたりしない。広場も教会に隣接していない。トリエステにあって、広場であるということを考える。


オーストリアからの独立をもとめたアナーキスト&ナショナリスト達の集会広場。きょうはチョコレート祭りで賑わっていました。360度パノラマ撮影


プーシキンのオペラでの決闘の場面で、どうも詩人レンスキイは自殺した感じです。芸術・文学と学問を貴族の独占から民衆の大地に祀ること、これが詩人の願いだったのかも。そして自殺したのは詩人だけではなかったようです。貴族のオネーギンもまた事実上自殺したのではなかったでしょうか。貴族はかくも権力をもつのは、芸術・文学と学問を住処としている限りです。ところが自らの館から追放した詩人を殺害してしまったのです。そうしてオネーギンは、自分で決めた亡命self-imposed exileを以て、詩人の魂と共に放浪することになりました。ラストは贖うことができなかったことを暗示しています。果たしてそうなのか?今週、毎晩ジョイスが通ったというトリエステのオペラハウス'ヴェルディ'で、このことを確かめようと思っています!‬


トリエステのはナポリのオペラ劇場よりももっと可愛い感じです。


歌手たちが非常にリラックスして歌っていたのがよかったです。観客も。歌手たちと観客との間の距離が近いと感じました。ほんとうは、東京でも、もっとこんな感じでやってるのをたくさん観ないといけないのだろうと今夜思いました。


Trieste to Venice


イタリアからバスでオーストリア入り。三時間後に言葉はドイツ語か多分オーストリア語にかわった。今夜はアルプス山脈東部のチロルに泊まる。明日ウイーンへ行く。


チロルから少し離れた街で目覚めました。この安ホテルは1500年にできた、元々は郵便局だったようです。


‪昨夜は休憩のとき、廊下でコーヒーを立ち飲みしていたら、隣に座りなさいとオーストリア人夫婦がテーブルに手招きしてくれた。アイルランド時代、オーストリア人がアジア人の私に、お店の中から、隣に座りなさいとテーブルに手招きしてくれたのを思い出した。ヨーロッパの端に位置するダブリンとロンドンしか知らなかったものだから、彼らが来た大陸の中心に行ってみたいという気持ちがずっとあった。モーツァルトがやってきた神聖ローマ帝国の時代に遡る関心じゃないんだけどね、亡命知識人カール・ポッパーやハイエクなどはロンドンにくることになった。ウイーンに行けば、マルチ・エスニシティの意味を少しでもかんがることができるかもしれぬとおもっていた。オペラは上品だった。上品といっても、ミラノスカラ座のマダムのように気取ってはおらず、それなりにアイデンティティ不明の逸脱がある。(嗚呼オーストリアといえば、「第三の男」だった。) とはいえ、パリのオペラ座のようにように過剰になることがない。抑制がある。ヨーロッパでは当たり前の風景なのだけれど、今回旅で改めて発見したことがある。イタリア語で喋りかけられて英語で喋る人たち、ドイツ語で喋る人とイタリア語で喋る人たちのこと。(そこに、トリエステ語、ヴェネツィア語、オーストリア語が介入しているのだろう。)お互いに相手の言語を完全に理解しなくとも、言葉の端々に理解できる言葉のかけら、音節たちがあるのだね。それらから何とかかんがえることができる。演劇や文学、古典語を読む高さと比べれば、これは低いかもしれないが、水平的広がりがある。この会話の水平的運動は、なんだかオペラと似ている。オペラというのは、字幕を読まなければ、最初から最後までわからない。ベルカントも子供の模倣ゲームみたいな所があって、そこでは伝達しているつもりがないのよね。音楽の流れのなかで、理解できる親しみのある音節に時々出会うのである。ただし私の考えでは、この低さは、高さをともなうことなくしては、遠くへは行けない。オペラに顕著な、19世紀の統合なきこの水平性は、20世紀のサイレント映画に継承されていくことになったとかんがてみようか‬。今日は、帝国を帝国として成り立せた美術館へ行く。



ウイーンの美術史美術館kunst Historisches Museum Wien を見学しましたら、この絵がありました。ダブリン時代にフェルメール講義に出たことがありました。絵の上に描かれているシャンデリアがハプスブルク家をあらわしているのではないかと解説していました (シャンデリアはオーストリアの名物ですね。) スペイン帝国から独立を勝ちとったオランダですが、絵画をもとめた中流階級の普遍主義へのある種のノスタルジーを読みとることができるというのですね。はっきりとはわかりませんが、そういう見方ができるのかと勉強になりました。歴史は反復する?17世紀当時のオランダの問題は今日の問題かもしれません。ただし同じことはおきません。21世紀の排除ナショナリズムは17世紀の独立と平等をもとめたナショナリズムと似ていません。トランプやBRITIXの英国、今日における一国主義のナショナリズムは、ヨーロッパ中心主義の普遍主義の転位ではないだろうかと思うことがあります。その普遍主義は1968年が乗り越えようとしたものです。しかしながら現在は多様性を否定するその普遍主義へのノスタルジーが、"否定し尽くす"原理主義の形で蘇ってきたかんじです。グローバル資本主義に対する新しい普遍主義を模索していますが現在非常に悪い形に絡みとられています。この問題はかのフランスとて例外ではありません。ル・ペンはイスラムの宗教マイノリティ(キリスト教)を救い出せと呼びかけています。日本の問題も考えないわけにはいきません。最後に、渡辺一民氏が言っていたのですが、「パリの68年革命はリゾーム、その影響なくしてあり得なかった日本の闘争の形がツリーだったのはどうしてか」。とはいえ、ともに、近代の意味の問い直しがはじまったことだけはたしかです。この問いなおしとその意味がみえる場所は現在のパリにあるのか、仮にあるとしてそれはどこでなければならないのだろうか?ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨといつかさがしにいきたいですね。


‪地図でみると、ウィットゲンシュタインが設計した、論理的「家」と呼ばれている建築物が、ラズモスキー宮殿(ラズモスキーといえばベートーベン弦楽四重奏中期。)の近くにある。写真でみておけばよいかと思っていたが、やはり見ておこうと思う。建築物が人間の住処であるように、空間が論理の住処である。だが論理的「家」を以て、倫理的な問題を構成することができなかったかもしれない。実のある真はことばに定位している?そうして言葉の方向へ行く。沈黙するといいながら盲目的に語る言葉。表現しているというが沈黙する映像が反復してくる。「私」(ウィットゲンシュタイ)を捉えて離さない...


‪言語によっては覆せぬ絶対権威に対する暴力(抗議という行いの形をとる)のほかは、どんな暴力もゆるされない。暴力の行使なくしてやっていけなくなった文化理念からわたしはできるだけ逃げよう。裏切り者と非難されようとも、これがポストモダン孔子の道である。



PROJECT ASIA

海外へ行く目的に、外部からみることによって、自己のあり方の批判の意味も含めて、日本のことを相対化するいうことがありますよね。イタリアとオーストリアがもっているものから、日本の全体をみようとするのですが、敢えて問うと、この国は一体何をもっているんだろうか?このように問うからといって、上から目線といわれるほど、全体をみる位置にいるはずもありません。何というか、私なんか部分です。部分ですらないような断片だとおもっています。全体でない位置から、全体を敢えてかんがるとどういうことになるのだろうか?そのことは考えることができます。考えることができないことを考えるというか。そういうことなので、全体からする答えなどありません。部分の傍らにある縮約された全体をみるようにしてかんがえることを繰り返すだけです。自己の限界としてこのことを知るために、外部からみようとするのかもしれませんがね、成果もないのですが。今回初めて訪ねたオーストリアは何を持っているのか?たった四日間の滞在で何がわかるかということもありますが、音楽のことを切り口にして書くと、今回の旅では、国境のない音楽はとてつもなく大きいとおもいました。モーツアルト・ハウスの展示は、オペラのモーツアルトから始まり、オペラのモーツアルトで終わるのですね。ウイーンにおける同時代の知が彼に結集していたことがよくわかりました。音楽家が音楽家としてあるのは思想においてであるということ。オペラを書くモーツアルトは比類なく大きいのです。19世紀の帝国の大きさをうしなっても、21世紀オーストリアはこのモーツアルト、そして20世紀のクリムトをもっているのです。多分オーストリア思想など存在しないのだろうが、ナショナリズムの影響のもとで、仮にこれからそういう思想のアイデンティティをもとめる声が出てくるとしても、人類とむきあう市民のコスモポリタニズムの要請からかんがえはじめるのではないか、モーツアルト・ハウスの展示がオペラのモーツアルトからはじめるように、ですね。


PROJECT UlYSEES PROJECT EUROPE


‪ローマ空港から東京に行くために、ウイーンからスロヴェニアを通って、再びトリエステにきた。バスの中でトリエステに出稼ぎにいくスロヴェニア人と喋っていたら、ユーゴ解体後の変化について話だした。貧富の格差が問題となっていて、教育の機会をもとめる人々が国を去ってアメリカ、ドイツ、スイスへ行ってしまうという。トリエステ駅に到着。あらためて、15年前と比べると街の様子が全然違うと感じた。多分EUの助成とドイツの景気のおかげなんだろう。他方でゲットーの跡は観光資本の標識がたっていた。古い建築物の壁に刻んであった、レジスタント運動のアナキストの墓碑もみつけられなかった。嘗て存在した文学の交流の痕跡、鄙びた散歩道はない。ジョイス一家が泊まったというホテルの部屋にいく。『ダブリンの人々』『若き芸術家の肖像』のほかに、現代イタリア作家の本が置いてあった。『ユリシーズ』はまだ危険らしい?『ユリシーズ』最初の挿話「テレマコス」に証言されていたように、アイルランドの海は古代ギリシャの海だった。アイルランド詩人・知識人は自己のあり方を古代に投射したというわけである。投射という働きは人間的な営みで、人間が人間である所以をなすものだ。問題は、投射されたものに翻弄される危険があることである。この危険は避けられない。起源をもとめる声のうちに、投射そのものが抑圧されることが起きる。ジョイスの文学は、(声から自立した)書記言語を以て、時代と等価の大きさをもったあらゆる投射から成る本を書いた。だからといって近代主義者の身振りを以て詩と声を否定し尽くすことはなかっただろう。書かれた言葉の終止符のあとに、最後の挿話「ペネロペ」において詩と声に残された可能性についてかんがえた。人類は自らを外部世界に向かって投射できるだろうか?この問題意識から、「ユリシーズ」は自身を読んだのである。もはや近代(モダニズム)の精神の勝利を証言した本としてたたえることは無意味である。他者の住処である白紙の本として、はじめて読まれることになった、と、わたしはかんがえるのだけれど‬


「真実を他人に伝えるならば面白おかしくすること。さもないととんでもないことになる」。真実はこうだ。映画の光とともにマクロ経済学が消滅したそのときに、暗闇の背後から極右翼があらわれた。「第三の男」の現地を訪ねたが、ワイルダ、キューカー、ラングの痕跡もなかった‬



‪世から消滅したのは、辺鄙な場所と映画とマクロ経済学だけではなさそう。ルネサンスバロックの間に現れた絵画に人気が集まるが、『ラス・メニーナス』に先行する、『言葉と物』に書き綴られた、マニエリスム的思考も?だがアジアの仁斎論語朱子学から、ポスト構造主義が近代批判としての自らを初めて喋るかもしれないのだ‬